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歴史の町・宇和島にて

2012.05.18

昨日、愛媛県の宇和島で講演があり、はるばるやって来た。宇和島には、伊達家の居城だった宇和島城がある。昨日午後、宇和島に到着して、さっそく宇和島城に行ってみた。

藤堂高虎の築城による宇和島城は、町の中心にある小高い丘のような城山に建っている。さすが築城の名手・藤堂高虎の手によるものだけに美しい城郭と石垣だった。

今治城と津城、そしてこの宇和島城――私は藤堂高虎がつくった城をもう三つも見ている。武勇と知略に優れた藤堂高虎は、私の好きな武将の一人だが、いつも感心させられるのは、それぞれの地形を生かした築城法だ。

津城は平地にありながら、たくみに天然の川を取り込み、今治城は海に向かって堀に海水を引き込んで防御を固めている。宇和島城は、小高い丘に石垣を張り巡らせることによって敵の攻撃を防ぐ方式だ。三者三様の城を見ていると、いかに高虎が変幻自在の築城名手だったかがわかる。

宇和島城の天守閣に登って周囲を見渡した時、私は壇一雄の名作『夕日と拳銃』を思い出した。満洲で馬族となって暴れまわった男の生涯を描いたこの作品のモデルは、宇和島・伊達家の伊達順之助である。
 
名門・伊達家に生まれた順之助は、大陸浪人となって満洲にわたり、馬族として大陸を闊歩した。蒙古独立運動や満州の楽土建設で活躍した順之助は昭和23年に中国で処刑された。

処刑に際して酒を所望し、豪快に笑って銃殺された順之助の破天荒な「生」と「死」に壇一雄は魅せられ、その生涯を追い、やがて『夕日と拳銃』という長編小説となった。型にはまらない一人の人間を壇自身の“男のロマン”として描いた力作だった。

愛媛の宇和島、そして高知の宿毛(すくも)は地理的に近く、お互い県庁所在地から遠く離れ、独特の文化圏を形成している。多くの逸材を生んできた地だけに、おそらく自然をふくめ、スケールの大きい人間が形づくられる土壌が備わっているに違いない。

司法の世界で神様と謳われる児島惟謙も、この宇和島の出身だ。ちょうど私は、いま司法関連の本を取材・執筆している。それだけに、この地にやって来られたことが、なにより嬉しい。

カテゴリ: 歴史

迫力に欠けた東浜投手

2012.05.16

今日は、午後の取材まで時間があったので、午前中、神宮球場で大学球界の最多完封記録の更新がかかる亜細亜大学の東浜巨(ひがしはま・なお)投手のピッチングを見てきた。

結果は、1対0で中央大学を3安打完封。見事に自身の大学記録を更新する21度目の完封と東都大学1部リーグの優勝を成し遂げた。

カットボール、スライダー、フォーク、チェンジアップ……多彩なピッチングで、東浜は今日も中大打線につけ入るスキを与えなかった。

沖縄尚学で春の甲子園の優勝投手となり、プロ球団からの誘いを蹴って鳴り物入りで亜細亜大学のエースとなった東浜は、最高学年の4年となった今年も期待通りの成績を挙げつづけている。

今日の神宮のネット裏には、プロのスカウトもずらりと顔を揃え、マスコミのカメラも放列を敷いていた。これで通算31勝。現ソフトバンクの大場翔太投手(東洋大学)の33勝に並ぶのも間近だ(東都最多勝利記録は芝池博明投手=専修大学=の41勝)。

ネット裏のスカウトたちの熱い視線を見るまでもなく、東浜は今年のドラフト会議の最大の目玉である。だが、私は今日のピッチングに少々不満を感じた。

ひとことで言えば、「迫力がない」のである。威圧感といった方がわかりやすいだろうか。プロで活躍した多くのピッチャーが持っていた独特の迫力が東浜にはないのだ。巨人のエースへの道を歩みつつある2年前の沢村拓一投手(中央大学)とも明らかに違う。

東浜は、大学1、2年の時のほうが、まだダイナミックなピッチングをしていたように思う。本来持っている力、すなわち“野球のレベル”がもともと違うので、東浜なら小手先で完封劇を演じることができるかもしれない。しかし、果たして「これでプロで通用するのだろうか」と、私は今日のピッチングを見ながら思った。

ランナーを背負った時ぐらいしか東浜は必死には投げてこない。今日も2度ほどスコアリングポジションにランナーを背負ったが、その時は、やや、力感のあるピッチングをしていた。

しかし、それでも出たスピードは、142キロほどだ。とても、プロで通用するキレのあるストレートではなかった。それでも完封するところは確かにすごいが、これには、一方で東都大学野球の打撃力のレベル低下が要素としてある。

いまや大学球界ナンバー・ワンの実力を誇る東都だが、打撃力の乏しさは年々、深刻度を増している。昨今では、打力において明らかに東都は東京六大学に劣っている。

そんな中での東浜の完封記録の更新である。今日のネット裏に集結した野球通たちは、東浜のしなるような独特の細身の身体から投げ込まれる150キロ超のキレのあるストレートを見たいに違いない。その姿を見るために、来月開かれる全日本大学野球選手権にも取材に行かなければならない、と思う。

東京六大学では、昨夏の甲子園を制覇した早稲田大学1年の吉永健太朗投手(日大三)が虎視眈々と全日本選手権進出を狙っている。大学球界の新旧のエース対決を是非、見てみたいものである。

カテゴリ: 野球

望まれる中国の「民主化」

2012.05.13

今日の産経新聞に、アメリカへの亡命が容認された盲目の人権活動家、陳光誠氏(40)の甥(陳克貴氏)が故意殺人容疑で逮捕されたことが報じられている。

陳光誠氏の脱出に気づいた中国当局者3人が4月26日夜、甥の陳克貴氏の自宅を急襲し、両親を殴打し始めたため、陳克貴氏が身を守るために刃物で切りつけ、ケガを負わせたのだそうだ。

逮捕容疑は、その当局者に対する「故意殺人容疑」である。あきらかに正当防衛で、しかも死んだ被害者もいないのに、最高刑の「死刑」が適用される可能性があるこの容疑で、甥を逮捕したところが恐ろしい。

明らかに人権活動家・陳光誠氏への当局による報復行動といえるこの問題をフランス通信(AFP)も熱心に報道している。それによれば、弁護士も中国当局の妨害によって、甥に接触できていないという。

重慶市の元トップ・薄煕来氏(62)の失脚・逮捕劇も世界を唖然とさせている。自分たちの前に権力をふるっていた文強・同市公安局副局長を暴力団との癒着を理由に逮捕し、一昨年7月に処刑した薄煕来氏は今、自分がやったことと同じ「極刑」が待っているのではないか、と恐々としているという。

中国が人権と民主主義とは無縁の国であることは自明だが、一連の動きを見ていると、この国が共産党独裁政権を維持しようとするかぎり、多くの犠牲がまだまだ出てくることを感じる。

中国は、尖閣諸島で日本への揺さぶりを繰り返しているが、ベトナムやフィリピンとの間でも南沙・西沙諸島で一触即発の状態がつづいている。

東アジアの中で、中国と北朝鮮という2つの全体主義国家が「民主化されるかどうか」は、私たち日本人にとっては、実は自らの「生存」のためには、最も大きな問題と言える。

だが、北京政府の機関紙と化したかのような大新聞や、中国への批判はタブー中のタブーとするテレビ局などが目白押しで、ひたすら、へりくだり、膝を屈して北京詣でを繰り返す政治家もあとをたたないのが日本の有り様だ。

日本は、アジアの民主主義国のリーダーとして毅然と歩まなければならないことを、毎朝、ニュースに接するたびに感じる。

カテゴリ: 中国

「たかが野球、されど野球」松井5敬遠から20年

2012.05.07

ゴールデンウィーク明けの今日、一人の野球指導者(まだ現役の選手でもある)から電話をもらった。明徳義塾から専修大学へ進み、卓越したバッティングセンスとパワーで活躍が期待された河野和洋君(37)である。

久しぶりの電話は、「昨年9月に日本橋学館大学に就職し、野球部のコーチとして頑張っています」という報告だった。千葉大学リーグ3部の同大学は、河野君をコーチに迎えてメキメキと力を伸ばし、現在、全勝(8勝0敗)で優勝争いのトップを走っている。

あの甲子園で星稜の松井秀喜選手を5打席連続敬遠して“時の人”となった河野君は、もともと外野手である。あの時、エースの岡村憲二(現・明治安田生命)がヒジを故障したためマウンドに上がり、松井を敬遠したが、5番以下を徹底的に研究して凡打に打ち取り、3対2で勝ち投手となった。

その後、東都大学リーグの名門・専修大学に進み、投の黒田(博樹・現ヤンキース)と打の河野で大活躍。黒田&河野が大学4年の時に、私は東都大学選抜チームと東都出身のプロ野球選手のチームの対抗試合を神宮球場に観にいったことがある。

あの時、学生チームの先発投手が黒田で、3番打者は河野だった。この試合で、河野は2塁打を2本も放ち、プロで通用する力を示したが、黒田はドラフトで指名されたものの、残念ながら河野は指名から外れた。その後、メジャーを夢見て渡米し、マイナーで修行するなど、河野君のプロへの執念は凄まじいものだった。

結局、プロ入りこそ実現できなかったが、河野君はその後も夢を追いつづけ、森田健作・千葉県知事が名誉監督をつとめる「千葉熱血メイキング」の監督兼主力打者として活躍し、千葉県社会人野球クラブリーグで昨年優勝を果たした。

そんな河野君が元気な声で「いま日本橋学館大学でお世話になっています。当初は、グラウンドで選手が煙草を吸うようなチームで、まったく優勝を狙えるとは思えませんでしたが、メキメキと力をつけて、いま3部で優勝目前になっています!」と受話器の向こうで叫んでいた。

私は、拙著『あの一瞬―アスリートはなぜ奇跡を起こすのか』(新潮社)の中で、松井5敬遠のドラマを描かせてもらったが、取材時と変わらない河野君の明るい声にホッとすると同時に、なんだか嬉しくなった。

河野君の野球の原点は、明徳義塾の馬淵史郎監督の「勝つ野球」である。「僕は、勝ちにこだわりますよ。馬淵監督の弟子ですから。絶対に負けない野球を目指します」と河野君は言う。

松井5敬遠から20年。河野君がこだわる「勝つ野球」を観るために、近く千葉大学リーグのグラウンドにも足を運ばなければならない、と思う。野球は楽し。「たかが野球、されど野球」――。

カテゴリ: 野球

13年で消えた「満洲国軍」元幹部の証言

2012.05.06

ゴールデンウィークも今日で終わりだ。関越自動車道の高速ツアー事故が国民に衝撃を与えたが、最後は茨城県つくば市の竜巻の惨事で終わった。大きな事故に見舞われることが多いゴールデンウィークだが、今年は特別だったように思う。

私は、ゴールデンウィークの中で休みを「2日」だけとったが、ほかは結局、取材と執筆に追われる日がつづいた。もう『太平洋戦争 最後の証言』シリーズも終わったのに、その流れで今日も横浜に取材に行って来た。

今日、お話を聞かせていただいたのは、大正5年生まれの95歳になる元満洲国軍の上尉(日本軍では「大尉」にあたる)である。満洲国は昭和7年に建国され、昭和20年8月に日本の敗戦と共に地上から消えた国である。

岩手県一関市の出身で、満洲国軍の軍官学校を卒業(第9期)したこの老兵は、流暢な中国語を交えて、多くの秘話を私に聞かせてくれた。

さまざまな民族が集まった満洲国軍が終戦時、兵たちのどんな“反乱”に見舞われたか、また、その後、ソ連軍、国民党軍、八路軍が入り乱れる混乱の中、どう満洲を脱出して日本に帰ってきたか。

経験した者にしか分らない手に汗握る脱出行など、いずれまた活字にしてご紹介できることもあるだろうと思う。今は、こういう秘話をできるだけ直接、証言としてとっておく時だと思う。

連休明けの明日から、また本格的な取材が始まるが、私にとっては、歴史の重要証言を集めることができた貴重なゴールデンウィークになった。

カテゴリ: 歴史

94歳「零戦元パイロット」からの言葉

2012.05.03

あいにくの雨で、ゴールデンウィークの観光客も出足が鈍っている。東京も終日、雨に祟られた。明日は久しぶりに、私も休暇をとることができる。

昨日、94歳になる零戦の元パイロットからお手紙をいただいた。拙著『太平洋戦争 最後の証言』の完結編「大和沈没編」が届き、徹夜で読み切ってくれたそうだ。

94歳の身に徹夜はこたえ、2、3日調子が悪かったが、今はまた改めて最初から読み直している、と書いてくれていた。『太平洋戦争 最後の証言』第1部の「零戦・特攻編」に登場する零戦パイロットである。

最前線で戦った兵士たちの気持ちをよく書いていただいた、というその手紙に感激した私は、今日、お礼の電話をした。

「読みながら興奮して、もう途中でやめることができませんでした。年寄りの話をよくここまでまとめてくれて、ありがとう。感銘を受けました」と氏からお礼を言われ、このシリーズを完結させることができて本当によかった、と思った。

貶められつづけた大正生まれの人たちの思いを描いた拙著が大正生まれの方に喜ばれるのは当然かもしれないが、それにしても、徹夜で読み切り、その感想を手紙に書いてくれる94歳のパワーに私は嬉しくなった。

200万人が戦死し、戦後の復興と高度経済成長を成し遂げた大正生まれの方々の思いが、これまでいかに蔑ろにされてきたかを感じる。多くの方に、歴史を客観的に見ることの大切さを拙著で知ってもらえれば光栄だ。

カテゴリ: 歴史

「昭和の日」と日本柔道

2012.04.29

今日は、「昭和の日」である。初夏に向かう爽やかな気候も相俟って、ゴールデンウィーク真っ只中の祝日として、毎年、行楽地に一斉に多くの人が繰り出す日である。

この昭和の日に、中日新聞と東京新聞が、「この人」欄で、私を取り上げてくれた。写真付きで「太平洋戦争3部作を完結 門田隆将さん」と、私が『太平洋戦争 最後の証言』の第3部「大和沈没編」を出版し、ついにシリーズが完結したことを報じてくれたのだ。

昭和といえば、やはり太平洋戦争である。さらには、「戦艦大和」でもあろう。「昭和の日」にタイミングよく同紙が取り上げてくれたのは、ありがたい。中日新聞、もしくは東京新聞をお取りの方は、記事を見ていただければ、と思う。

さて、毎年、この日に熱戦が繰り広げられるのが、全日本柔道選手権である。今日も伝統の大会が千代田区の日本武道館で開かれた。しかし、その中身は、残念ながら“惨憺たるもの”だった。

優勝したのは、重量級の選手でもない千葉県警の加藤博剛選手で、決勝で巨漢の石井竜太(日本中央競馬会)に一本勝ちし、初優勝した。しかし、それは、日本柔道界の低迷ぶりを表わす姿でもあった。

ロンドン五輪を間近に控えたこの時期、加藤選手のような90キロ級の選手が優勝し、重量級の五輪代表を争う前回王者の鈴木桂治(国士舘大教)、上川大樹(京葉ガス)、高橋和彦(新日鉄)らが続々敗退し、柔道ファンをがっかりさせたのである。

重量級の選手以外の全日本優勝は1972年以来、40年ぶりのことだそうである。オリンピック・イヤーのこの低調さは、たしかに「40年前」を思い出させるものだった。40年前のこの大会、関根忍(中大→警視庁)が中量級にもかかわらず、日本一の栄冠を獲得した時もそうだった。

肩を入れ、背中越しに道着をつかむ“変則柔道”の関根に重量級の選手たちが苦戦し、関根が接戦を制したあの日のことは私も記憶している。その関根も肝心のミュンヘン五輪では「金メダル確実」という下馬評でガチガチになり、途中敗退。しかし、当時の敗者復活ルールに救われ、これで勝ちあがって、辛うじて金メダルを獲得した。

あの時の関根の顔面蒼白の表情は、今も脳裡に焼きついている。のちに警視庁で柔道指導者として多くの弟子を育てたそうだが、私にはあの顔面蒼白の関根の顔だけが今も思い浮かぶのである。

結局、ミュンヘン五輪の柔道では、“赤鬼”と評されたオランダの怪物・ルスカが重量級と無差別級を両方制して、金メダルを2つ獲得した。日本期待の篠原政利は、ルスカと戦う前に予選で姿を消し、日本柔道は惨敗した。

今日の大会を見るかぎり、私には、ミュンヘンの時の方がまだ日本柔道は充実していたように思う。今日の鈴木(桂)にしろ、上川、高橋らも、世界の檜舞台でナンバー・ワンを争える実力とは、とても思えなかった。

伸び悩む期待の穴井隆将を含め、ロンドン五輪では、「日本柔道、惨敗!」の見出しが新聞に踊るのではないかと、試合を見ながら思った。報道陣に取り囲まれた全日本柔道の篠原監督の憂鬱な表情だけが印象的だった。

カテゴリ: 柔道

小沢一郎氏に「政界引退」の勧め

2012.04.26

考えてみれば、これは「見事な判決」と言えるかもしれない。予想通り、無罪判決が下りた小沢一郎氏に対するものだ。資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐって、政治資金規正法違反の「虚偽記載」で強制起訴された注目の判決は、実に絶妙なものだった。

それは、無罪判決を私が「支持する」という意味ではなく、「致し方がない」ものだったという意味である。元秘書の捜査段階での供述調書の証拠採用が却下された段階で、大善文男裁判長には、小沢氏に「有罪判決」を下す根拠は失われていた。

つまり「予想された無罪判決」の中でどんな判決理由を言うのか、私は注目していた。そして、それは多くの法律家を唸らせるものだったと言える。

つまり、「虚偽記載」について、小沢氏が秘書からの「報告」を受け、「了承」していたことを認定した上での無罪判決だったことだ。

小沢氏の共謀を明確に示す証拠が法廷で出なかったことは、裁判の過程でわかっていた。しかし、それでも、判決理由は、小沢氏の政治家としての責任をはっきりと指し示すものだったのである。

共謀を認定するハードルというのは、低くない。特定の犯罪を行おうと具体的・現実的に合意したことを証拠によって「証明」するのは難しいからだ。特に小沢氏のような小沢事務所内の絶対権力者の場合はなおさらだ。

私には、この判決によって、ますます土地購入の原資となった「4億円」の“真実”に関心が深まった。その究明は絶対に必要だろう。

今回の判決で、認定されたものは大きい。早くも輿石東・民主党幹事長が「党員資格停止」の解除に動くそうだが、とんでもない。

繰り返すが、この判決は、共謀までは認定できないが、虚偽記載という犯罪行為が小沢氏に「報告」され、それを「了承」したということを認定しているものなのである。

痛み分けとも言えるこの判決で、むしろ私には小沢氏が政界を引退すべき「根拠」が明確になったと思うが、いかがだろうか。

カテゴリ: 司法, 政治

調子を取り戻しつつあるダルビッシュ

2012.04.25

シリーズ完結編の『太平洋戦争 最後の証言』の「大和沈没編」がお陰さまで好調だ。完結編だけでなく第1部「零戦・特攻編」、第2部「陸軍玉砕編」も、共にさまざまな売り上げランキングで上位にランクインしているとのことで、ほっとした。

少し余裕ができたので、昨日は、昼も夜も講演をさせてもらった。昼は帝国ホテルで、夜は麻布台のお店でと、講演テーマも、聴いてくれる対象も、まるで違う講演をさせてもらった1日だった。

昼は、主に企業のトップや幹部たちを対象にしての「歴史に学ぶ―日本人の生きざまとは」という歴史テーマで、夜はジャーナリストたちを対象にしての「光市母子殺害事件」にかかわる話だった。

しかし、私の中では、実は“同じテーマ”とも言える。私のノンフィクションの大きなテーマは、「毅然と生きた日本人の姿」だからだ。

前者は、太平洋戦争を最前線で戦った人、後者は光市母子殺害事件の被害者遺族で日本の司法を大変革させた本村洋さんのことである。

話をしながら、毅然とした日本人像が今、いかに希少なものとなっているかを実感した。まだまだ多くの作品を書いていかなければならないと思った。取り上げるべき作品テーマは数多いので、ひとつひとつ確実に作品化していき、読者の皆さんに是非、また手にとってもらえれば、と思う。

さて、今日のメジャーリーグは、ダルビッシュ有(レンジャース)と黒田(ヤンキース)という日本人投手の投げ合いだった。この試合でダルビッシュがヤンキースを相手に8回3分の1を無失点、10奪三振という好投を見せた。

セットポジションでの投球で、日本にいた頃のダイナミックなピッチングフォームこそ見られないものの、抑制の利いた球でヤンキース打線を翻弄した。これで、ダルビッシュは3勝0敗となった。

まだ絶好調ではないが、日本ナンバー・ワン投手が本当の意味でヴェールを脱ぐ日も近いだろう。やっと、楽しみになってきた。


カテゴリ: 野球, 随感

『太平洋戦争 最後の証言』が完結「大和沈没編」発売

2012.04.22

本日、拙著『太平洋戦争 最後の証言』完結編の「大和沈没編」が発売になった。第1部「零戦・特攻編」、第2部「陸軍玉砕編」につづいて、やっとシリーズが完結した。

90歳を前後する老兵たちを全国に訪ね、気がつくとその数は100名を超えていた。これまで何度も書いてきたことだが、太平洋戦争とは「大正生まれの若者たち」の戦争である。

大正生まれの男子は1348万人。彼らは、昭和20年時点で「19歳から33歳」だった。そのうち戦死者は、およそ200万人にのぼる。同世代の7人に1人が戦死した悲劇の世代は、日本の有史以来、ほかに存在しない。

戦後、ひたすら働きつづけ、“20世紀の奇跡”と称された高度経済成長を成し遂げたのも、彼ら大正生まれの男たちである。平成24年現在、大正生まれの人たちは、86歳から100歳となった。すでに多くが鬼籍に入っておられる。

私は、今も健在の大正生まれの老兵たちと全国各地で対話をつづけた。本当に多くのことを教えていただいた。戦艦大和の生き残りの方々もそうだ。戦後生まれの私に、静かに戦いの最前線の真実を教えてくれた。

それは、戦後、日本が何を築き上げ、何を失ったか、を考えさせてくれるものでもあった。完結した『太平洋戦争 最後の証言』には、そのことを私なりに書き込ませてもらった。是非、多くの方に読んでいただければ、と思う。

カテゴリ: 歴史

「テポドン2号」発射に思う

2012.04.13

いま長距離弾道ミサイル「テポドン2号」の発射実験が失敗に終わったというニュースが流れている。北朝鮮の新独裁者・金正恩(29)の権威を高めるために発射されたテポドンは、無残にも上空120キロ付近で爆発したそうだ。

黄海に落下し、日本ほか周辺国への影響はなし、という結果となった。しかし、今回の一連の騒動を見ながら、私は改めて背筋が寒くなる思いがしている。

それは、ニュースを聞いて、「ああ、終わった」「失敗でよかったね」という空気が流れていることだ。特にマスコミの間にその雰囲気が蔓延している。怖いのは、この長距離弾道ミサイル発射の意味がわかっていない人が多いということである。

多くの北朝鮮問題の専門家が予想する通り、遠からず金正恩は、核実験の実施に踏み切るだろう。失敗を重ねながらも、核兵器の開発成功に一歩一歩近づいているのである。

私には、「(発射が)失敗に終わってよかった」という平和ボケした見方で、またコトの本質がうやむやになることが一番、怖い。

想像して欲しい。仮に長距離弾道ミサイルの発射実験が成功し、核実験が終わり、核弾頭の小型化が実現し、起爆装置の開発も成功したとしたら、私たちの住む「東アジア」はどうなるか、ということである。

あの国が核兵器を持ち、いつでも弾道ミサイル「テポドン」に小型化した核弾頭を乗せられる状況が生まれた時、「日本はどうなるか」ということだ。

その時、あの国とは“交渉”さえできなくなるということを考えたことがあるだろうか。たしかにアメリカやロシアも核兵器を持っている。しかし、同じ核保有といっても、北朝鮮が持つのとは意味が違う。

少なくともアメリカやロシアが核兵器の力をちらつかせて国際社会で交渉をおこなうことはない。だが、彼(か)の国はどうだろうか。

食糧支援にしろ、領土問題にしろ、拉致問題にしろ、賠償金問題にしろ、すべてのジャンルが「核兵器を背景にした議論」をやってくることは確実だ。そのために食糧さえない困窮の中で、巨額の費用を投じて弾道ミサイル実験や核実験をおこなっているのである。

さらに言えば、実際に北朝鮮が核と弾道ミサイルを「保有」しさえすれば、それが使用される可能性は少なくない。しかも、最も使う対象として可能性が高いのは、憎っくき「日本」である。

すなわち、北朝鮮問題というのは、彼らが核兵器を保有し、長距離弾道ミサイルの開発に成功するまでが「すべて」なのである。その時までに、北朝鮮の独裁体制を崩壊させ、民主国家に生まれ変わらせることができるのかどうか。そこに日本の命運はかかっているのである。

私は、今回のニュースを見ながら、3月22日に韓国の「朝鮮日報」が報じた一件を思い出した。北朝鮮で年明けに公開処刑された人民武力部のナンバー2(副部長)は、迫撃砲の着弾地点に立たされるという残虐な方法で処刑が行われたと報じられていた。

その際、金正恩は、「髪の毛1本も残すな」と指示したというのだ。国際社会の反発をものともせずに、今回の発射実験を強行した金正恩。その狂気が、とてつもない武器を実際に手にした時、どうなるのか、想像するだけで背筋が寒くなる。

それにしても、本日午前7時40分頃、実際に弾道ミサイルが発射された時、アメリカからの通報を受けながら、「いま未確認の飛翔体が発射されたとの情報がありました」ということすら公表しなかった民主党政権のお粗末ぶりには呆れ果てる。

国民の生命・財産を守るべき役割すらわかっていない人たちのレベルが、またしても露呈された。いつまで、こんな政権を私たち国民は戴いていなければならないのだろうか。テポドン失敗のニュースを見ながら、そんな溜息が出てきてしまった。

カテゴリ: 北朝鮮

重圧に負けたダルビッシュ

2012.04.10

今日は、注目のダルビッシュ有のメジャー・デビューの日だった。待ちに待ったその初登板は、あまりにも内容が悪く、期待していた野球ファンには落胆と心配だけをもたらすものだった。

「こんなダルビッシュを見たことがない」。多くの日本の野球ファンはそう思ったに違いない。軸足の右足は突っ立ったままで、腰のためも全くないので“手投げ”になり、さらにはそのせいで“球持ち”も悪く、リリースポイントが一定しない――こんなダルビッシュは、実際、日本ではお目にかかったことがない。

試合前のブルペンでの投球練習でボールの滑(すべ)りが気にかかるのか、何回もボールを変えて投げていたという。ダルビッシュの凄さは、ストレートの伸びや変化球のキレだけでなく、高度な修正能力にある。その一流投手の証明ともいえる修正能力も発揮することができなかった。

かなりの重症である。すでに紅白戦やオープン戦でも十分投げていながら、それでも日本で見せたことがない「ストライクすら入らない状態」になるというのだから、野球というのはつくづく恐ろしいものだと思う。ダルビッシュにとって、メジャー・デビューという重圧はそれほど大きかったのである。

今日のダルビッシュの投球フォームを見て、「キャンプで走り込むことはできたのだろうか」と、ふと気になった。ウエートトレーニングに主を置き過ぎ、肝心の走り込みをおろそかにしたのではないか、と心配になったのだ。

しかも、メジャーのボールとマウンドの硬さにもまだ慣れていないように思えた。走り込みができないまま、これに無理に合わせようとすれば、長丁場では必ず足腰に故障を起こすだろう。

さまざまなことを心配させる今日のメジャー・デビューだった。それでもメジャーではナンバー・ワンのレンジャーズ打線が爆発し、終わってみれば、11対5。5回3分の2イニングで5失点したダルビッシュに「勝ち」がついたというのだから、これまた野球は恐ろしい。

この運の良さに感謝して、今度こそ“高度な修正能力”を発揮して欲しいものである。ダルビッシュが本来の力さえ出せば、1年目から防御率1点台、20勝以上可能だと私は思っていた。それだけダルビッシュが持っているボールは素晴らしい。デビュー戦の最悪の調子を逆に糧(かて)とできるかどうか、次の登板に注目したい。

今日は、このダルビッシュの試合を中継観戦したあと、事務所に遠来の客があった。はるばるブラジルからの客である。昨年4月に刊行した拙著『蒼海に消ゆ―祖国アメリカへ特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯』(集英社)の主役、故松藤大治さんの甥にあたるサンパウロ在住の石崎干城さんである。

今年70歳になられる石崎さんは、拙著によって、長い間、消息を探していた松藤大治さんとその親戚の存在を知り、何十年ぶりかで連絡を取ることができたという。

そのお礼で、久しぶりに訪日されたのを機に、わざわざ私の事務所を訪ねてくれたのだ。地球の裏側のブラジルまで拙著を取り寄せて読んでくれて、さらに東京の私にまで連絡をくれたことに感激した。石崎さんにはブラジルでの生活など、いろいろなことを教えてもらい、楽しいひと時を過ごすことができた。

そのあと、新書の司法関係の取材を夜までおこない、気がつくと日が変わる直前となった。明日も取材が目白押し。次の作品に向かって、早く“エンジン全開”といきたいものである。

カテゴリ: 野球, 随感

広島から帰って「観桜会」に

2012.04.09

昨日、呉から広島に移り、広島の比治山にある陸軍墓地のお参りを終え、『太平洋戦争 最後の証言』の取材が完結した。前日(7日)は呉の海軍墓地でお参りしたので、慰霊の行事もすべて終えたことになる。

比治山の陸軍墓地は明治5年に設置され、西南の役から太平洋戦争に至るまでの多くの兵士が眠っている。戦後、原爆や台風被害などで、墓石の整理作業が頓挫し、遺骨が散乱状態になった悲劇の歴史がある墓地でもある。

今は、それぞれの墓石が出身県別に整理され、安置されている。周辺には花見客が溢れており、その平和な風景と陸軍墓地のひっそりとした雰囲気が見事なコントラストを描いていた。しばし、手を合わせて、『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ完結の報告とお礼をさせてもらった。

本日は、その広島から夕方に帰京後、評論家の金美齢さん主宰の観桜会に参加させていただいた。金曜日に東京を離れたので、わずか3日しか経っていないというのに、すっかり都心が温かくなっていたので驚いた。

たった3日で、東京にコートを着る人がほとんどいなくなっていた。まさに季節の変わり目の数日だったことになる。新宿御苑を見下ろすビルの8階に事務所を構える金美齢さんは、さすがに顔が広く、恒例の観桜会には、政治家や評論家、ジャーナリスト、TVプロデューサー……など、多士済々で、私も久しぶりにお会いした人が多かった。

思わぬ人と久々に旧交を温めることができた。私も、太平洋戦争シリーズの完結で、新しい仕事に明日から挑むことになる。桜の開花と共に気分一新である。

ちょうど美味しいお寿司をいただいていたら、隣に安倍晋三元首相や新藤義孝衆院議員がいて、いろいろ話をした。新藤議員は、なんと硫黄島の指揮官・栗林忠道中将のお孫さんにあたるそうだ。

すでに拙著『太平洋戦争 最後の証言』の第1部、第2部も読んでくれており、話が弾んだ。あっという間に楽しい時間が過ぎた金美齢さんの夜の観桜会だった。

カテゴリ: 歴史, 随感

海軍墓地にあった満開の1本の桜

2012.04.07

朝10時、広島県呉市の海軍墓地にて、戦艦大和の慰霊祭に参加した。昭和20年4月7日、東シナ海に大和が沈んで以来、67年という年月が過ぎ去った。

海軍墓地のほかの桜はまだ六分咲きなのに、なぜか大きな「戦艦大和戦死者の碑」の隣に立つ桜だけが1本だけ満開だった。

碑の前に進み出て、花束を置いて手を合わせた。不思議なことにその直後、急に雨が降り始めた。天気はよかったのに、急な雨である。驚いた。

この夏に大和の関連番組を放映するというNHKのスタッフが撮影する中、元大和の乗組員2人、そして兄を大和で亡くしたという弟さん、いずれも80歳代の元老兵を含め、20人ほどが慰霊祭に参加していた。

花冷えの中、「今から黙祷をおこないます」という声で、参加者が亡き大和の乗組員に黙祷を捧げた。昭和54年、この地で初めて慰霊祭がおこなわれた時には、大和の生存者を含む約500人が集まったことを思うと隔世の感がある。

19歳だった兄を大和で失った弟さん(82)がわざわざ山口県の柳井から参列されていた。「毎年、この慰霊祭に参加するのを楽しみにしています。次第に参加者が減っていくのが寂しいですね」と私にしみじみ語った。

元乗組員の一人(88)が大和で山本五十六・聯合艦隊司令長官と言葉を交わした時の感激を私に教えてくれた。昭和17年のミッドウエー海戦の前のことである。老兵の話を聞いていると、それが70年も前の話だということが信じられなくなる。

まだ探せば、多くの大和の生還者がいる。歴史の彼方のことと考えていたことが、実はそうではないことを改めて教えてもらった。

「さっき雨が降ったでしょ。あれは自分たちを忘れないでいてくれたことへの彼らのお礼ですよ」。参列者の一人が私にそう言った。いつの間にか、呉の空は晴れ上がっていた。

カテゴリ: 歴史

戦艦大和68回目の「沈没の日」を前に

2012.04.06

本日、『太平洋戦争 最後の証言』完結編の「大和沈没編」を無事、校了した。そして夕方、新幹線に飛び乗って、そのまま広島県の呉にやってきた。

明日は、戦艦大和と3332名の乗組員の命日だからだ。昭和20年4月7日、大和と共に水上特攻に加わった第二艦隊の将兵すべての死者を含むと4000名を超える。

私は、明日、呉の海軍墓地に行き、先人たちのご冥福を祈り、後世の人間として感謝の気持ちを捧げたいと思う。そのために校了を終えて、はるばる東京からやって来た。

『太平洋戦争 最後の証言』シリーズがこの完結編をもって終了するのは寂しいが、私なりにできるだけのことはやらせてもらったと思う。

今回、拙著では、大和の設計に携わった方から特攻作戦に関与した參謀、あるいは、実際に沈没した大和から奇跡の生還を遂げた人々など、30名近い元兵士たちを取材し、直接証言によって地獄の戦場を描きだすことができた。

ご登場いただいたのは、現在、いずれも90歳前後となった老兵たちである。あの時代のあの戦いを現代人がどう読んでくれるのか、今から楽しみだ。拙著は、2週間後には店頭に並ぶ。是非、ご期待いただきたい。

広島で新幹線を降り、呉に向かうため在来線に乗り換えた。夜、10時を過ぎても広島から呉への列車は満員だった。11時前、私はやっと呉に辿りついた。

戦艦大和の故郷であり、かつて日本が誇った世界屈指の造船基地・呉。もうここへ来るのは、何度目になるのだろうか。

駅を出ると、雨まじりの冷んやりした空気が私を迎えてくれた。明日の海軍墓地は、爽やかな春空のもと、桜満開であって欲しい。

カテゴリ: 歴史

よくもこれほど“逸材”が……

2012.04.04

次から次へと、よくこれほどの逸材が生まれるものだ。私は、第84回選抜高校野球大会が終わって、嬉しい溜息をついた。いうまでもなく優勝の瞬間、雄叫びを上げた大阪桐蔭のエース藤浪晋太郎(3年)のことだ。

今日の決勝で7対4で青森の光星学院を破り、選抜初優勝を果たしたが、このピッチャーは、ひと言でいうなら「怪物」である。大会前から“浪速のダルビッシュ”と注目を浴びていたので、私もどんな投手か、初戦から注意深く見守っていた。

5試合40イニングで659球を投げて、紫紺の優勝旗を獲得したことで、その期待に藤浪君は応えたが、実は、私は大会前から秘かにこのピッチャーを心配していた。それは、球の威力ではなく、彼のハートについてだ。

身長196センチで甘いマスクの藤浪君は、これまで肝心の場面で弱気になり、野球関係者の間で、チキン・ハートとして精神面の弱さを懸念されてきた投手だった。揺さぶられたり、あるいは味方のエラーでリズムを崩した時、長身投手にありがちな「バランスを崩す」という致命的な欠陥を抱えた投手だった。

しかし、私は優勝を占う最大の試練の場となった準々決勝の浦和学院戦で、思わず唸ってしまった。自身が「最も苦しかったのは浦学戦」と振り返った通り、藤浪君はこの時、そのハートを試される時が来た。

1対1で迎えた7回裏、途中登板の藤浪君は3連打で無死満塁の場面を迎えた。強豪相手に絶体絶命の大ピンチである。こういう時は、守備もリズムを崩すし、往々にして一挙に勝負を決められるものである。

私は、藤浪君のハート、つまり“度胸”を見るために身を乗り出した。そして絶句した。その時、藤浪君が目を剥いて投げ込んだ球は、153キロのストレートと、プロでも打てないようなキレと落差のあるカットボールだったのだ。

「絶対にボールを前には飛ばさせない」。その気迫が全身に漂い、真っ向から投げ込んできた藤浪君の前に浦学打線は三者三振で切ってとられた。無死満塁で無得点。この瞬間、勝負はついた。

ハートが弱いどころか、藤浪君はプロでも通用するボールと共に、誰にも負けない“度胸”を見せつけたのである。“浪速のダルビッシュ”どころか、高校生の時点では、ダルビッシュを遥かに上まわる力量を証明したのである。

日本の野球界は、よくもまあ、これだけの逸材があとからあとから出てくるものだ。私は、野球を愛する一人の人間として、なんだか嬉しくなってしまった。

ストレート、フォーク、スライダー、カットボール……いずれも超一流の球を持つ藤浪君は、あとは時折投げる甘い球をどれだけ少なくしていくか、が今後の課題だろう。

いずれにしても、将来性という点でも間違いなく「怪物」である。これで押しも押されもせぬ今秋のドラフトの目玉となったが、私は、藤浪君には、世界ナンバー・ワンのピッチャーを目指して欲しいと思う。

“先輩”ダルビッシュは、近いうちに世界一の称号が与えられる活躍をメジャーで見せるだろう。それにつづくのは、藤浪君だ。私も野球ウォッチャーの一人として、成長していくのを見るのが楽しい超一流のピッチャーに今回、出会うことができた。

光星学院の素晴らしい頑張りと共に、久しぶりになんだか浮き浮きするような気分を味あわせてくれた決勝戦だった。世界を目指して頑張れ、藤浪君。

カテゴリ: 野球

ノンフィクションの醍醐味

2012.03.31

今日の東京は雲間から太陽の光が差してきたかと思うと、時折、横なぐりの雨がたたきつけたり、春の嵐を思わせる1日だった。3月31日は年度末であり、いよいよ明日から新年度が始まる。

私は、2008年3月末にそれまで勤めた新潮社から独立したので、今日でちょうど丸4年になる。独立以降、この4年間で単行本10冊、文庫本を4冊上梓した。

現在校了中で4月に発売になる『太平洋戦争 最後の証言』第三部の「大和沈没編」は、独立後15冊目の本となる。自分でも「よくこれほど……」と呆れてしまうが、書かなければならないものが数多くあるので、まだまだ休んではいられない。

先日、知り合いの医者から「たまにはゆっくり休んで、神経を“弛緩”させんといかんよ」と忠告されたが、まさにそうだと思う。しかし、きっと明日からの“新年度”も、そういう生活とは無縁に違いない。

直接証言や、日記、手記、資料……等々の発掘によって構築していくノンフィクション作品には、宿命がある。あくまで主役は、その「取材対象」であることだ。取材対象(証言者)がご高齢であったり、病弱であれば、おのずと取材に制限が出てくるし、すべては先方のご都合に合わせることになる。

そういう障壁を突破しながら、人間や、出来事そのものを描き出すところにノンフィクションの醍醐味はある。その取材をさせてもらう側であるライター(つまり私)が、「休む」ということは、基本的にできないのである。取材対象は休んでも、私自身が休むわけにはいかないのだ。

会社勤めを25年間もやった末に独立した私は、時間がもったいなくて仕方ない。“宮仕え”のために描けなかった作品が、今、目の前にそのまま残されている。自由に描かせてもらえる時期がやっとできた喜びを噛みしめなければならないのである。

明日からの“新年度”も、私にとって、ひたすら取材と執筆に追われる日々になるに違いない。一人でも多くの証言者にお会いし、これまで以上の感動のノンフィクション作品を描いていきたい、と思う。

カテゴリ: 随感

ひとりの“野球人”を囲む会

2012.03.28

今日は、ひとりの野球人を囲む会に行って来た。大正3年1月生まれで、98歳を迎えた島津雅男さんを囲む会である。

昭和6年の夏の甲子園に早稲田実業のエース、4番、主将として出場した島津さんは早稲田大学に進んで早慶戦で活躍し、その後、社会人野球の東京鉄道局野球部時代には発足したばかりの巨人軍との試合で、あの沢村栄治とも対戦した。

日本野球の歴史の証言者でもある島津さんは、昭和11年に陸軍に入隊して二・二六事件に遭遇し、南京攻略戦にも参加した。そして、戦後は学習院大学野球部の監督として東都大学野球の奇跡の優勝を成し遂げた。

島津さんの人生は、拙著『甲子園の奇跡』(講談社文庫)で取り上げさせてもらったが、今日の会は、その島津監督のもと昭和33年に東都優勝を成し遂げた時の学習院大学野球部の4年生たちがつくる「士会(さむらいかい)」の集まりだった。

恩師・島津さんを慕う「士会」の面々も75歳を超えた。主将の田邉隆二さんやエース根立光夫さんをはじめ、当時の4年生10人が集まり、島津さんと私を含め、12人で中華料理に舌鼓を打った。

島津さんは、足が弱っていることを嘆きながらも、98歳とは思えない口調でいろいろ話をしてくれた。ちょうど私が『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ「完結編」の校了を迎えているので、陸軍時代の話もまた聞かせていただいた。

中支戦線で戦った島津さんの聯隊は、島津さんが5年で除隊して内地に帰還した後、南方や沖縄へと転用され、玉砕している。太平洋戦争の主力となった大正生まれの若者は、およそ200万人が戦死しているが、島津さんがいかに奇跡的にあの時代を生き抜いたかがわかる。

太平洋戦争の証言者としても、島津さんは数々の秘話を私に提供してくれた。来年は、いよいよ島津さんも白寿を迎える。いつまでもお元気でいて欲しい、と思わずにはいられない。数少なくなってきた歴史の当事者たちの貴重な証言に、これからもできるだけ耳を傾けていきたい。

カテゴリ: 歴史, 野球

四国野球の「原点」とは

2012.03.26

ここのところ、ゲラの校了作業に追われている。4月19日に発売が決まった『太平洋戦争 最後の証言』第三部の「大和沈没編」のゲラである。320ページの本なので、持つとずっしりと来るゲラだ。

すでにインターネットではアマゾンで発売(予約)が開始されているので、期日には校了しなければならない。そのため朝から晩までゲラとにらめっこである。

シリーズの完結編でもあるので、私としても感慨深い。一人一人の証言が貴重なので、ゲラに入れる赤にも身が引き締まる思いがする。

今日は、そんな合間に選抜甲子園で、生まれ故郷・高知の代表校、高知高校と神奈川の横浜高校との対決があったので、思わずゲラ作業の手を休めて、見入ってしまった。

この試合に注目したのは、私の郷土の代表校の出場という理由からだけではない。過疎県の代表校が、多くの人口を有する富裕な県の代表とどのような試合をするか、そういう意味でも関心があったのである。

先頃、発表された1人あたりの県民所得ランキングで、高知県はついに沖縄県と入れかわって全国最下位となった。それに対して、神奈川県は全国2位(1位は東京)である。

そもそも人口だけを見ても、905万人の県民を抱える神奈川県に対して、高知県はその12分の1の75万人の県民しかいない。さらに横浜市の人口だけで370万人に達している現在、四国4県全体の人口が394万人だから四国はそのうち横浜市の人口に抜かれる時がくる。

昨日、午後9時からのNHKスペシャルで、高知の仁淀川(によどがわ)の美しさをハイビジョンカメラで捉えたドキュメンタリー番組を放映していた。人口は少なくても、海、山、川……いずれも四国、特に高知の美しい自然は日本屈指のものと言える。

その山河で育った球児が、都会の球児とどう戦うのか、私には興味があった。豊かな自然の中で育った球児が持つ“特別な力”を見てみたかったのである。

実際、高知県は長く甲子園での通算勝率が全国トップを誇った野球王国だった。高知商業、高知高校、土佐高校、明徳義塾、中村高校、伊野商業など、全国大会に行っても1回戦で簡単に負けることは、ほとんどない強豪県だった。

甲子園で、仮に1回戦で負ければ、「“イチコロ”で帰ってきた」と言われ、即、監督の進退問題につながったものだ。野球王国を誇った時代の高知県は、神奈川県のチームと戦って負けたことはなかった。

平成が始まるまで、高知県と神奈川県は甲子園で6度の直接対決があり、高知県の6勝無敗だった。しかし、平成以後、対戦成績は逆に1勝5敗となり、神奈川県が高知県を圧倒している。今では、勝率も全国トップの座を高知県は神奈川県に明け渡している。

その傾向は今後もつづくのか、果たして両県の対決はどんな試合になるのか。結果は、凋落をつづける高知県の野球を象徴するかのように、今日の試合も0対4で高知が完敗した。3塁を踏むこともできない惨敗である。

神奈川県と高知県では、人口密度は35対1である。しかし、人口密度が35対1ということは、逆に考えれば、高知県民は1人あたり神奈川県民の35倍もの土地を使っていることになる。

さらに高知にはNHKが取り上げた“水質日本一”の仁淀川をはじめ、誇るべき美しい山河がある。それでも野球王国・高知の凋落はとどまらない。自然が育んできた人間力の低下が痛々しい。

高知をはじめ四国野球の原点は、粘りとしたたかさである。それは、四国の風土が生んだ独特の身体的能力と野球センスに支えられていた。だが、今では科学トレーニングを積んだ都会の球児に圧倒されている。

四国の球児は、今こそ「原点」を思い出し、そこに戻るべきだろう。四国野球の粘りとしたたかさを思い出し、先人の鍛え方を学び直した時、もう一度、高知のみならず四国野球が全国をリードする「時代」が必ず来る。

カテゴリ: 野球

「惜別の歌」の作曲者、藤江英輔さん

2012.03.21

昨日、春分の日は、「惜別の歌」の作曲者である藤江英輔さん(86)とお会いした。昨年10月に倒れられたと聞いていたので心配していたが、お嬢さんと共に目黒区の料理屋に顔を見せてくれた。

「いやあ、倒れた時は、ああ死ぬ時はこんなものか、と思ったよ。意識がすーっと消えていってね。死というものを一度、経験したよ」。いつもの洒脱でユーモアたっぷりの藤江さんの話しぶりに、ほっとした。

中央大学の先輩でもあり、私がかつて勤務した新潮社の先輩でもある藤江さんは、私の最も尊敬するジャーナリストの一人である。戦争末期の昭和19年から20年、中大予科の学生だった藤江さんは東京・十条の第一陸軍造兵廠に勤労動員で通い、連日、武器づくりに励んでいた。

小さい時からバイオリンを習っていた藤江さんは、いよいよ戦況が厳しくなった昭和20年2月の大雪の日、仲間が召集令状を受けて去っていく中、彼らを見送る思いを「惜別の歌」に託した。

「悲しむなかれ/わが友よ/旅の衣を/ととのえよ」。姉妹の別れを詠んだ島崎藤村の「高楼(たかどの)」という詩を“友との別れ”に置き換えて、物悲しく、哀愁のある独特の旋律を藤江さんがこの詩につけたのだ。

造兵廠での別れの場で歌われ始めたこの曲は、次第に送別の歌として広まっていく。その藤江さんの思いは、拙著『康子十九歳 戦渦の日記』(文藝春秋)の中で描かせてもらった。

ちょうど『太平洋戦争 最後の証言』完結編の「大和沈没編」(小学館)を脱稿したばかりなので、そのことを含め、いろいろな話題が飛び交い、時間が過ぎるのを忘れてしまった。

お別れの時、お嬢さんに支えられて去っていく藤江さんのうしろ姿を見て、いつまでもお元気で、と祈らずにはいられなかった。

彼岸だというのに、朝夕はびっくりするほど寒い。夜は、お世話になった中央大学の「白門ちゅうおう」編集長の伊藤博さんの送別会に参加。その会のあとは、中大の箱根駅伝6連覇時代の中心メンバー、碓井哲雄さんと現在の中大陸上競技部監督の浦田春生さんたちと二次会となった。

さまざまな話で、知らないうちに夜が更けてしまった。気がつくと昼間から飲み通しである。久しぶりに母校の人たちに囲まれて、次の作品への大いなるエネルギーをもらった1日となった。

カテゴリ: 歴史, 随感

政治家は何を残すべきなのか

2012.03.18

昨日は、小渕恵三総理の13回忌の記念講演を依頼され、群馬に行ってきた。演題は、「小渕恵三は日本に何を残したのか―司法改革と光市母子殺害事件―」というものだった。

現在の裁判員制度が、小渕氏の遺産だったことを知る人は少ない。1999年 7月27日、時の総理、小渕恵三氏は内閣に司法制度改革審議会を設置した。そこで司法が抱えるさまざまな問題を論議させたのである。

その設置直後に始まったのが、「光市母子殺害事件」の裁判である。設置2週間後の8月11日に山口地裁で第一回公判がおこなわれたこの裁判は、一審、二審を経て最高裁で差し戻され、そして差し戻し控訴審、さらには第二次上告審となり、周知のように、つい先月(2月20日)、最終判決(死刑)が確定した。

この裁判と司法改革に故小渕氏が果たした役割は小さくない。山口地裁の一審判決直後に無期懲役判決に対する不服を訴え、「犯人をこの手で殺す」とまで言った本村さんに対して、「無辜の被害者の救済がこのままであっていいのか。政治家として本村さんの気持ちに応えなければならない」と小渕総理は涙を浮かべて語った。

その言葉通り、小渕氏は犯罪被害者の救済に邁進し、小渕氏が亡くなる2日前の2000年5月12日には「犯罪被害者保護法」が成立。その後の司法改革の道筋をつけて小渕氏は息を引き取った。

2001年7月には、小渕氏が設置した司法制度改革審議会が最終意見書を提出し、その中に「裁判の過程に国民が参加し、国民の健全な社会常識を裁判の内容に生かす」という文言が書き込まれた。

これが現在の裁判員制度のもとになり、さらには官僚裁判官の相場主義・前例主義により形骸化していた「刑事裁判」を改革する“根本”となったのである。講演では、小渕氏が司法改革に果たした役割と、さらには亡くなる3か月前に本村さんに激励の手紙を出していた秘話を披露させてもらった。

私は、本村さんからその時の小渕氏の手紙を預かり、講演で朗読した。時の総理である小渕氏のこの励ましが孤立無援の闘いを展開していた若き日の本村さんにとって、どれほど心の糧になったかしれない。

そんなことを話して、小渕氏13回忌の私の言葉とさせてもらった。政治家とは何を目指し、何を後世に残すべきなのか。パフォーマンスばかりで、哲学や信念が一向に感じられない現在の政権を担う人々にこそ聴いて欲しかった、と思う。

カテゴリ: 司法, 政治

口角泡を飛ばした「高橋善正・中大前監督」のお疲れ会

2012.03.16

久しぶりに東京へ戻ってきた。さすがに青森や弘前のように雪がないだけ動きやすい。弘前でお世話になった方々に感謝しつつ、さっそく東京では次作、次々作の取材が始まった。

午前中は、ともにその作品の単緒になるべき人物へのアプローチをおこない、午後は雑誌原稿の締切に追われた。夜は、プロ野球で完全試合を達成したこともある東映、巨人で活躍した元ピッチャーの高橋善正・中央大学前監督のお疲れ会に参加というハードスケジュールだった。

1月で中央大学の監督を降りた高橋前監督を慰労する会は、千葉県松戸市であった。久しぶりに美味しい寿司をつまみながら、じっくり高橋前監督と話し合った。

同じ高知県出身であることから、以前から高橋氏には親しくさせてもらっている。今年の正月の高知新聞では、「いかに野球王国高知を復活させるか」というテーマで対談した仲でもある。私のスポーツノンフィクションにも協力してもらって、いい作品を書かせてもらった思い出もある。

高橋前監督との口角泡を飛ばす“野球談議”で、すっかり世が更けてしまった。間もなく選抜甲子園が開幕する。いよいよ野球シーズン到来だ。

中央大学には、あの春夏連覇の島袋投手(興南)もいる。プロ野球だけでなく、高校野球、大学野球にも注目選手が目白押しだ。今年はどんなドラマを見させてもらえるのか、いまから胸が躍る。

カテゴリ: 野球

歴史に「偉人」を送り出す不思議な町

2012.03.15

弘前は朝、吹雪だった。3月半ばが来ても激しく雪が舞うとは、南国の高知生まれの私にはさすがに驚きだった。前夜、弘前で講演を終えたあと、“ヨシ人形”と呼ばれる創作人形で有名な木村ヨシさん宅に招かれ、ご馳走になった。

テーブルから溢れんばかりの新鮮な地元料理でもてなしを受け、時間が経つのを忘れてしまった。温かい弘前人の心に触れた楽しいひと時だった。

今朝は、葛西憲之弘前市長と会ったあと、板柳町の工藤忠記念館にまず行き、そのあとお世話になった故佐藤慎一郎先生のお墓参りにまわった。東京・荻窪の都営団地で長くお住まいだった佐藤先生は、戦前の大陸を知り尽くした人である。

旧満洲の魔窟に潜入した時のことや、盧溝橋事件の秘話、自分の伯父にあたる山田良政・純三郎兄弟のこと、西安事件にかかわった人物の打ち明け話……等々、どんな歴史書にも出ていない秘話を数多く教えていただいた。

90歳を越えてもお元気だった佐藤先生は、まさに現代日中史の秘話の宝庫のような方だった。佐藤先生のお話が私のノンフィクション作品の端緒になったものもある。

その佐藤先生は、弘前市西茂森町のさる寺院に眠っておられる。弘前にやって来た私は佐藤先生のお墓参りをさせてもらうつもりだった。

しかし、雪が上がった午後、寺院の墓地を見た私は、それが無理であることを悟った。墓地は雪で埋もれ、お墓に近づくこともできなかった。私は、佐藤先生の墓のある“方角”に向き、手を合わせた。佐藤先生のお墓参りは、また雪が溶けてから改めて来させてもらうことになりそうだ。

弘前とその周辺には、日本のジャーナリズムの父とも言うべき陸羯南や、孫文の辛亥革命を支えた山田良政、純三郎兄弟、さらには、満洲国の溥儀皇帝が最も信頼した工藤忠など、偉人が目白押しだ。

弘前は現代史の宝庫なのだ。3月半ばが来ても雪に埋もれるこの地が、なぜ「歴史」にこれほど多くの偉人を送り出しているのか、いつかその秘密を探り出したいと思っている。

カテゴリ: 歴史

弘前、雪の中の墓参り

2012.03.14

青森県の弘前にいる。本日夕方、私はあるお寺を訪ねた。青森県弘前市新寺町にある貞昌寺である。ここには、孫文が最も信頼した日本人、山田良政・純三郎兄弟が眠る墓がある。

辛亥革命の実現に力を尽くした日本人の中でも、最も孫文の信頼を得ていたのが、この弘前出身の山田良政・純三郎兄弟である。兄・良政は、最初の孫文たちによる蜂起となった恵州事件で命を落とし、弟・純三郎はその兄の遺志を継いで、孫文を支えた。

孫文は、今も政治体制の違う中国と台湾、両方で“国父”として尊敬されている。その孫文の絶対的な信頼を勝ち得た日本人が、山田兄弟だ。

山田兄弟の墓参りをしたいという私の長年の願いは、今日、実現した。しかし、貞昌寺の近くにある花屋で花を買って、貞昌寺に向かおうとした時、花屋の女主人がひと言、こう言った。「お墓は雪で埋もれていますから、(墓参りは)無理と思いますよ」。

雪国の積雪の凄まじさを意識せずにやって来た私がいかに迂闊だったか、その時、初めて気がついた。そうだ。目の前にこれだけの雪が降り積もっているのに、目的の山田兄弟の墓にそのままお墓参りができるはずがなかったのだ。

貞昌寺に着いて、私は改めてそう思った。寺自体が雪に完全に埋まっていた。ご住職を訪ねたら不在で、代わりにご住職の奥さんが対応してくれた。東京からわざわざやって来た私を、雪をかきわけて山田兄弟の墓まで案内してくれたのだ。

積雪1メートルの中を“決死行”で案内してくれる。ほとんどが雪に埋もれ、墓石の頭だけがかろうじて見えている場所で、ご住職の奥さんは「ここが山田家の墓所です」と教えてくれた。

ああ、ここか。ここに山田兄弟が眠っているのか。私は長い間、望んでいた地にやっと辿り着いたことを感じた。ご住職の奥さんが、私が持ってきた花を、墓石を埋め尽くしている雪の中に挿してくれた。

私は長い時間、そこで手を合わさせてもらった。山田良政は、反日に凝り固まった中国に銅像まで建てられた日本の“列士”である。そして、弟の純三郎は孫文が死去する時、唯一、孫文が枕元に呼んだ日本人である。

私はその“聖地”にやってきた。『太平洋戦争 最後の証言』の完結編を脱稿した翌日に、この地にやってきたこと自体が「宿命」だったのだろうか。

私には書かなければならないことが沢山ある。また新たな作品に邁進しなければならないことを再認識させてくれた弘前の「雪の一日」だった。

カテゴリ: 歴史

入稿を終わらせ、青森へ

2012.03.13

本日夕方、『太平洋戦争 最後の証言』第三部(完結編)の「大和沈没編」を入稿した。原稿用紙にして600枚、この1週間、いや数日は、ほとんど睡眠もとらないままの“苦闘”だった。

太平洋戦争の最前線で戦ったご高齢の老兵たちを訪ねる作業も今日を区切りに、ひとまず終わったかと思うと感慨が深い。入稿したあとどっと疲れが来たのも、肉体だけではなく、ある種の達成感があったからに違いない。

私は、夕方入稿したあと、羽田から青森に飛んだ。明日、青森と弘前で昼と夜、講演があるためである。青森空港に降り立つと、そこは一面、銀世界だった。雪が舞い、口から白い息が出る青森市内は、夜9時を過ぎるとほとんど人が歩いていなかった。

出てくる時の東京・新宿の喧騒とのあまりの落差に、一瞬、タイムスリップしたのではないかという錯覚に陥った。

とりあえず「休息を」と思ったが、用意してもらっていたホテルが室温の調整もできない部屋だったので、徹夜の影響もあってか、体調を崩してしまった。ジャーナリストは贅沢を言ってはいけないとはいえ、徹夜つづきの中年の身には少々、こたえた。

しばらくブログが更新できなかったので、ご心配をいただいたが、やっと入稿が終わったので、いつものペースに戻していこうと思う。ブログに書かなければならない話が、目白押しだからだ。

東日本大震災から1年が経ち、マスコミの力の入った特集記事や番組も、今回は締切との関係で、パソコンのキーを叩きながらのウォッチとなった。あの「人災」の色濃き震災が、総括されたとは、私にはとても思えない。

雪に埋もれた青森はまだ「春遠し」だが、震災の総括もできない日本、いや今の政権では、日本全体に「春遠し」と言わざるを得ない。

カテゴリ: 随感

ノンフィクションの中の「生」と「死」

2012.03.04

毎年、3月3日の「ひなまつり」の日に必ず紹介される有名な詩がある。昨日の読売新聞「編集手帳」に出ていた吉野弘さんの『一枚の写真』がそれだ。

『雛飾りの前で、幼い姉妹がおめかしをして座っている写真があります。〈この写真のシャッターを押したのは/多分、お父さまだが/お父さまの指に指を重ねて/同時にシャッターを押したものがいる/その名は「幸福」〉』

山形県酒田出身の詩人・吉野弘さんの詩には、この『一枚の写真』で醸し出されるようなほのぼのとした温かさがある。吉野さんの詩の中で私が好きな「祝婚歌」には、こんな一節がある。

〈正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい/立派でありたいとか/正しくありたいとかいう/無理な緊張には色目を使わず/ゆったりゆたかに/光を浴びているほうがいい〉

原稿や講演等を通じて、“主張”することの多い私たちジャーナリズムの人間にとっては、戒めにしなければならない詩である。しかし、それを忘れている自分にいつも苦笑いばかりしている「自分がいる」ところも面白いものだと思う。

東日本大震災1周年が近づき、新聞・テレビ・雑誌……あらゆるメディアで地震関連のものが増えている。冒頭の「編集手帳」も、その流れの中で吉野弘さんの詩を紹介したものだ。

地震関連で描かれているのは、いうまでもなく人間の「生」と「死」である。私のノンフィクション作品にも、その生と死を扱う題材が多いが、描いても描いても、また新しい意味を持つ生と死が私の前に現れてくる。

私は、先週、ある刑事事件で死刑判決を受けた人物と面会した。そして、いま締切に追われている原稿は、『太平洋戦争 最後の証言』である。いずれも重い「生」と「死」が目の前に横たわっている。

書きながら、いつも生と死とは何だろうか、と思う。それは、吉野さんの詩が描く「幸福」を考えることと同義だと思うが、それがなかなか描き切れない。それほどノンフィクションの中の「生」と「死」は、残酷であり、同時に奥が深い。

『太平洋戦争 最後の証言』完結編の脱稿まで、いよいよ1週間を切った。それを描き出すことができるか、私にとってそれが試練である。

カテゴリ: 随感

雪の舞う新宿で……

2012.02.29

雪が舞っている。徹夜で原稿を書き、昼近くになって起きて窓のカーテンを開けたら、外は一面の銀世界だった。ここのところ原稿の執筆で西新宿の事務所に籠もっているが、普段は見える池袋のサンシャイン・ビルもまったく見えない。東京での久々の“豪雪”である。

今日は、4年ぶりの「2月29日」だ。うるう年の1日“得”をしたようなこの日に、東京をリフレッシュさせるかのように雪が大地を覆ってくれた。

今日は、先日94歳で亡くなられた長嶺秀雄さんの夫人・幸子さん(88)からお電話をいただき、ちょうど私が席を外した間だったので、すぐにおかけ直しをした。

長嶺さんは、2月19日のブログでも書かせてもらったようにフィリピンのレイテ島で第1師団参謀兼歩兵第57聯隊の大隊長として、リモン峠の激戦を生き抜いた元少佐だ。

自ら率いた大隊およそ800名のうち、生き残ったのはわずか「18人」だったという激戦の元指揮官である。何発も銃弾を食らい、生涯、体内にその敵の弾を残して過ごされた長嶺さんは、戦後、防衛大学の教官として多くの教え子を育てた。

幸子夫人からの電話は、葬儀に当たってのお礼と長嶺さんの最期のようすを伝えてくれるものだった。昨年12月、長嶺さんは、私にも本について励ましのお電話をくださるほどお元気だった。12月19日には、お孫さんの結婚式に大阪まで出かけ、披露宴で「ここに幸あれ」を歌い、出席者の喝采を浴びられたそうだ。

最後までお元気だった長嶺さんだが、年が明けて、お子さんたちと熱海の温泉に出かけた後、調子を崩し、2月19日に眠るように息を引き取られた。

幸子夫人によれば、長嶺さんの体内に生涯あった米軍の銃弾は、小さな鉄の塊の“破片”となってご遺骨と共に残っていたそうだ。

長嶺さんご夫妻は昔の紀元節(2月11日の建国記念日)が結婚記念日だったことは以前からお聞きしていたが、今年は70周年の記念すべき日だった。残念ながら、この日を病院で迎えた長嶺さんは、受け取った花束に大層、喜ばれたそうだ。

幸子夫人の愛情に包まれて戦後を過ごした長嶺さんは、意識が薄れかけても幸子夫人が病院に来ると、幸子夫人の手を自分の唇に持っていかれたそうである。取材の時からご夫妻の仲睦まじさは私も感じていたが、最後の最後までそれは変わらなかった。

一面、銀世界の新宿の風景を事務所の窓から見ながら受話器の向こうの幸子夫人の声を聞いていると、毅然とした日本人が多かった“その昔”にタイムスリップしたかのような錯覚に私は陥った。

長嶺さんにもご協力いただいた『太平洋戦争 最後の証言』の締切が迫っている。いよいよ完結編である。力を振り絞って、毅然として死んでいった兵士たちの真実の姿を描きたい。

カテゴリ: 歴史, 随感

躍り出たマラソンランナーの“執念”と“資格”

2012.02.27

ここのところスポーツの話題をブログに書くことがなかったので、「一体どうしたんだ?」と言ってくれる友人がいる。

『甲子園への遺言』(講談社)、『ハンカチ王子と老エース』(講談社)、『神宮の奇跡』(講談社)、『あの一瞬』(新潮社)など、スポーツ・ノンフィクションを数多く刊行している私としては、この間、さまざま書きたいことがあった。

しかし、ほかに沢山書くことがあって、結果的にスルーになってきた。昨日の東京マラソンは、久々に手に汗握るものだったので少し感想を書かせて欲しいと思う。

この大会は、ロンドン五輪の代表選考を兼ねているだけに、選手たちも力が入っていた。特に“無収入ランナー”の藤原新(30)と“公務員ランナー”川内優輝(24)の一騎打ちが予想されただけに余計、ファンの注目が集まったと言えるだろう。

実業団に所属しないこの2人のランナーがロンドン五輪の候補者であるだけで、「時代は変わった」と思う専門家は少なくないだろう。オリンピックを目指す選手は、資金、環境などの面で多くの援助がなければ、世界の檜舞台に立つことは不可能、というのがこれまでのスポーツ界の常識だったからだ。

「賞金に目がくらんで必死だった」とレース後に冗談を交えて話した藤原新は、妻子を富山県に残しての挑戦だった。“単身赴任”の上、“無収入”だった藤原は、貯蓄を取り崩して五輪に挑戦してきたのである。

私は、レースのあいだ中、最終盤で藤原は“執念”を発揮できるだろうか、とそればかり考えていた。マラソンのヤマ場は、38キロから先である。残り5キロを切ってから、勝敗が分かれる場面が必ず現れるスポーツだ。

藤原はその一番苦しい38キロ過ぎから、それまでよりも一層、“胸”を張った。藤原がスピードを増して胸を張りながらピッチ走法に入った瞬間、私は、この選手はロンドンで「何か」を見せてくれる選手だと確信した。

昨秋、藤原は、無収入になった時、「足の故障」に襲われている。生まれて間もない赤ちゃんを抱えて、藤原はこの時、何を思っただろうか。

彼にとって、妻子を食べさせるのは、自分がレースに勝ち、五輪で結果を出すことしかなかった。“退路”はすでに断たれていたのである。そこで藤原が見たものは、恵まれた環境で駅伝やマラソンの練習に励んでいた実業団時代とはまるで違う光景だったに違いない。

その不安と、どん底の環境こそが、実はマラソンで最も重要な「38キロ過ぎ」に現われるものなのである。この執念がある選手は、マラソンで栄光をつかむ可能性がある。

“皇帝” ハイレ・ゲブレシラシエ(エチオピア)を日本人として初めて破った藤原。38キロを越えてから力を発揮できる執念を持つ日本人選手に私は久々に出会うことができた。

胸を張ったそのピッチ走法と気迫で、ロンドンでは表彰台に是非上がって欲しいと思う。君には、その「執念」と「資格」がある。

カテゴリ: マラソン

本村洋さんは何と闘ったのか

2012.02.26

連日、徹夜がつづいている。締切間近の『太平洋戦争 最後の証言』第三部の「大和沈没編」だ。ここ1週間は、光市母子殺害事件の最高裁判決があり、少し執筆から遠去かっていたため、原稿の仕上がりが遅れている。

取材に応じていただいた方々のためにも、貴重な証言をきちんと後世に残したいと思う。戦艦大和の生き残りには、結局、全国で17人お会いすることができた。そのうち昭和20年4月の沖縄への水上特攻で大和が沈没した時、東シナ海の重油の海から生還した方は「14人」にのぼる。

それぞれにさまざまな人生があり、おひとりおひとりが1冊づつの本になるほど、多くの示唆に富んだお話をいただいた。九死に一生を得て生き残った元兵士たちが90歳前後になって私に伝えてくれた事実の数々には息を呑む迫力があり、同時に元兵士たちの深い思いが籠もっていた。

いま取材ノートを整理しながら執筆していると、それぞれの表情が目の前に浮かび、声が聞こえてくるような気がする。貴重な老兵たちの歴史の証言をきちんとまとめて『太平洋戦争 最後の証言』を無事、完結させたいと思う。

さて、この1週間は、マスコミの話題を光市母子殺害事件の最高裁判決が独占した感があった。私が広島拘置所にいる犯人の元少年(30)との面会のことを書かせてもらった月刊誌『WiLL』も、本日、発売になった。

元少年が真摯に罪と向き合っているさまを私は記事の中で描写させてもらった。元少年と面会をつづけていると同時に、私は、この13年間、遺族の本村洋さんにもずっと取材をさせてもらってきた経緯がある。

『WiLL』の原稿を書きながら私が思ったのは、この13年間、「本村さんは何と闘ったのか」ということである。私は、最高裁の判決後、あるテレビ局にコメントを求められて「永山基準」に代わる「光市裁判基準」が示された、と答えた。

しかし、これは、「加害者の年齢」や「被害者の数」を念頭に置いたものではない。永山基準では、あたかも加害者の年齢や被害者の数を絶対的なものとして示したようにマスコミの報道では印象づけられている。

だが、それは事実とは違う。1983年に最高裁で「永山基準」が示されて以後、あたかも「被害者4人」でなければ、少年には死刑が言い渡せないような雰囲気が醸し出されたのは、事実だ。

だが、それは永山則夫が「4人」を殺害したのであって、この最高裁判断を参考にした日本の官僚裁判官たちが勝手に「永山基準」を「被害者4人を示したもの」と解釈してしまっただけのことである。

そこに“相場主義”が生まれ、刑事裁判の形骸化が進む原因があった。今回、もし「光市裁判基準」なるものが示されたのだとしたら、それは「18歳の少年」に「被害者2人」で「死刑判決」を下す、ということではなく、これまでの相場主義を廃し、「個別の事案を真剣に審理する」という“基準”が示されたと解釈すべきだろうと、私は思う。

すなわち「光市裁判基準」とは、少年でも残虐な犯行を起こせば厳罰で臨むというものであり、個別の事案にきちんと対応していくことを示したものと言える。その根本にあるのは、平穏に暮らす人々を犯罪から「全力で守っていく」というものである。

あの判決を考える時に、このことだけは見誤ってはいけないだろう、と思う。なぜなら、本村さんは、そのために「13年」もの間、戦いつづけたからだ。

カテゴリ: 事件, 司法

光市母子殺害事件の最高裁判断

2012.02.21

昨日、ついに光市母子殺害事件の最高裁の判決が下った。上告棄却で、元少年(30)の死刑が確定した。事件から13年の歳月をかけて辿り着いた結論だった。

拙著『なぜ君は絶望と闘えたのか』が出版されて3年半。ついに遺族の本村洋さん(35)は、死刑判決を勝ち取ったのだ。妻・弥生さん(23)=当時=と夕夏ちゃん(11か月)=同=の無念を胸に「この日」が来ることを願って闘いつづけた本村さんは、最高裁第一小法廷で万感の思いでその判決を聞いた。

法廷の最前列で、風呂敷で包んだ遺影を胸に弥生さんのお母さんの隣に座っていた本村さんは、その瞬間、「長い間、お疲れさまでした』とお母さんに声をかけた。ハンカチで目頭を抑えながら、お母さんは、「長い間……ありがとうございました……」と、答えていた。

弥生さんのお父さんや、本村さんのご両親、お姉さんの肩が震えていたのが印象的だった。その全員が、無残な弥生さんと夕夏ちゃんのご遺体を見て、この日が来るのを一日千秋の思いで待ち続けた方々である。

私は、この瞬間を傍聴席の三列目で静かに見つめていた。日頃、親しくしていただいているご家族だが、とても声をかけることはできなかった。一方で、私は広島拘置所で元少年と面会も続けている。粛然とする思いだった。

判決後、本村さんが記者会見で語ったのは、「この判決に勝者はない」という言葉だった。元少年の死刑が確定しても、それは「勝者がいない」ものだ、という本村さんの言葉は重かった。

判決の夜、私は本村さん、それにご両親と一緒に食事をした。13年間の苦悩を語る本村さんとご両親の言葉が胸に迫った。長かった裁判が本当に終わったことを実感させられた。

私はこの2日間、フジTVの『知りたがり』で事件の解説をさせてもらうなど腰の落ち着く暇がなかった。この事件の真実を伝えたかったので、私はできるだけ各テレビ局の出演要求に応えさせてもらった。しかし、そんな中でこの判決を境に各メディアが元少年の実名報道に踏み切ったことに私は驚いた。

各局は、「少年の死刑が確定することになり、社会復帰して更生する可能性が事実上なくなったことなどを考慮して、実名で報道しました」と放送した。

元少年が社会復帰して更生する可能性がなくなったことなどを「考慮」して実名報道するとは、なんと残酷な理由だろうか。更生する可能性がなくなれば実名報道していい、という無慈悲な理由を掲げるメディアのレベルに私は溜息しか出てこない。

少年法の第1条には、こう記述されている。「この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする」。すなわち、「少年法」の対象になるのは「非行のある少年」なのである。

家庭裁判所に送致されてきた少年の中で、“非行”ではなく凶悪な“犯罪”を犯した者は、検察に逆送致され、起訴されたあと公開の刑事裁判にかけられる。この段階で“少年法の理念”の対象外になると「解釈できる」という法律家もいる。

日本の少年法のもとになったのは、アメリカのイリノイ州で初めて少年裁判所が創設された時、基本とされた「国が親に代わって保護をする」という“国親思想”である。これを念頭にでき上がった「日本の少年法」の理念が凶悪犯罪を引き起こした少年に対しても、そのまま無条件で当てはめられるべきか否かは、議論が必要であることは間違いないだろう。

少なくとも、その問題意識を持つことによって、かつての日本の各メディアは、永山則夫や山口二矢(おとや)など凶悪犯罪を起こした少年を、実名報道してきた歴史がある。しかし、いま各メディアは、「社会復帰して更生する可能性が事実上なくなった」いう理由で、死刑判決を受けた元少年を実名報道するというのである。

なんと無残なことができるのかと呆れたのは、私だけではないだろう。私は、かつて元少年を実名で本に記述したことがある。しかし、それは少年法第1条の文言をはじめ、これらさまざまな事情を考え抜いた末に記述したものである。

この事件は、実名報道問題以外にもさまざまな問題を提起してくれる。メディアの愚かさが次々露呈されたのも、この事件の特徴といってもいいだろう。

日本の司法を大変革させた本村さんの偉業に拍手を送ると共に、この事件は、真に「改革」されなければならないのは実は「マスコミである」ことを教えてくれたような気がする。

カテゴリ: マスコミ, 事件

94歳「武人」の死

2012.02.19

知人から訃報が入った。昭和19年11月、フィリピンのレイテ島で第1師団参謀兼歩兵第57聯隊の大隊長として、リモン峠の激戦を生き抜いた長嶺秀雄さんだ。今朝、肺炎のために午前4時31分、息を引き取られた。94歳だった。

長嶺さんには、12月に出版したばかりの拙著『太平洋戦争 最後の証言』の第二部「陸軍玉砕編」にも登場いただいている。第五章「レイテ島“八万人”の慟哭」で詳細な証言をしてもらったのだ。

陸士51期卒の長嶺少佐は、自分が率いた大隊およそ800名のうち、生き残ったのは長嶺さんらわずか「18人」という戦史に残る激戦を米軍と繰り広げた。

長嶺さん自身も、最前線で戦いつづけて何発も銃弾を食らい、戦後もすべてを摘出することができず、生涯、体内に敵の銃弾を残して過ごされた。

私の「陸軍玉砕編」が校了間近の12月初め、長嶺さんからゲラを見ての感想をいただいた。「門田さん、いいものを書いてくれました。これからもどんどん書いて、意義のあるものを(後世に)残していってください」と温かい励ましのお電話をいただいたのが最後になった。

戦後、防衛大学教授となった長嶺さんは、後進の指導にあたり、多くの優れた幹部自衛官を育てた。また、優しく頭脳明晰な長嶺さんは、90歳を超えても各地で講演をおこない、戦争の実態を若い世代に伝えつづけた。

これで太平洋戦争の元戦士で、大隊長クラスの生き残りはほとんどいなくなった。戦争の苛烈さと重さを知る貴重な証人だった長嶺さんの独特の語りを二度と聞くことはできないのである。

戦争が遠くなりつつある。歴史を風化させないために、私たちジャーナリズムの最後の戦いもつづく。すべては時間との闘いである。長嶺さんの最後の言葉を胸に、さらに精進していきたいと思う。合掌

カテゴリ: 歴史

長い長い歳月の末に……

2012.02.18

昨夜遅く名古屋から帰京した。愛知県の一宮、そして名古屋市内で戦艦大和の生還者を訪ね、『太平洋戦争 最後の証言』第三部の「大和沈没編」の取材をほぼ終えた。

数年にわたる取材を終え、ほっとしたというのが正直な気持ちだ。大正生まれの元戦士たちを訪ねる作業が終わったかと思うと感慨深い。しかし、一挙に原稿執筆の方もスパートをかけなければならない。

今回、最後に会った大和の生き残りの方は、私が昨年出版した『蒼海に消ゆ―祖国アメリカに特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯』(集英社)を読んでくれていた。よほど印象に残ったに違いない。その方は、ありがたいことに拙著の「あとがき」で私が書いた文章を、自分の手帳に書き写してくれていた。

「まさか、その筆者に会えるとは夢にも思っていませんでした」と90歳間近のその方が手帳を見せてくれた時、私は感激すると共に“文字の力”というものを改めて考えさせられた。

活字離れがいかに進もうと、文字で表わしたものは長い風雪に耐え、人々になにがしかの思いや力を与えるものに違いない。ノンフィクション作品の存在意義を再認識させてもらった一瞬だった。

さて、あさって20日(月)には、いよいよ光市母子殺害事件の最高裁判決が下される。事件から12年10か月かけて辿り着いた判決がどんなものなのか、注視したいと思う。

ご遺族の本村洋さんの取材を私が始めたのは1999年8月、山口地裁の初公判の時からである。23歳だった本村さんはもう35歳となった。年月というものを感じざるを得ない。

ここのところ、これに関して各メディアの取材が私にもつづいている。来週には私自身が出演して、事件の説明をさせてもらうテレビ番組もある。

法廷で判決を見とどけ、さらには本村さんの記者会見をこの目で見て、この耳で聴かせてもらおうと思う。それが、『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』(新潮社)で本村さんの苦難の道を描かせてもらい、さらには、広島拘置所にいる犯人の元少年(30)とも面会してきた私自身の務めだからだ。

最高裁第一小法廷で金築誠志裁判長が判決を言い渡すのは午後3時過ぎである。それは、山口地裁での第一審判決以来、光市母子殺害事件の「5度目」の判決となる。長い長い歳月の末に辿り着いた「結論」に注目したい。

カテゴリ: 事件

光市母子殺害事件「最高裁判決」まであと1週間

2012.02.13

光市母子殺害事件の最高裁判決が1週間後に迫っている。そのせいで、ここのところマスコミの取材と問い合わせが相次いでいる。拙著『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』(新潮社)を出版して、もう3年半が過ぎ去ったことに感慨は深い。

その間、私は広島拘置所で何度も元少年(30)と面会している。さまざまなことを元少年と話してきたので、そのことについてマスコミからの問い合わせが少なくないのだ。

本村弥生さん(23)=当時=と夕夏ちゃん(11か月)=同=が殺害されたこの事件が発生した時、夫の本村洋さんは23歳、犯人の元少年は18歳だった。やがて事件から「13年」という歳月が過ぎようという今、2人は、それぞれ35歳と30歳になった。

司法制度のあり方に一石を投じた本村さんの長い闘いも終焉を迎える。山口地裁で最初の判決が出たのは、2000年3月のことだった。一審、二審、そして上告審での差し戻し判決、さらには差し戻し控訴審、そして今度の第二次上告審と、今回の判決はこの事件「5回目の判決」となる。

異例の経緯を辿ったこの裁判は、間違いなく日本の司法史に残るものとなった。後世の人たちは、この裁判に対して、一体どういう“審判”を下すのだろうか。注目の判決は、1週間後の2月20日に言い渡される。

カテゴリ: 司法

不毛な国会論戦を見ながら……

2012.02.09

いま三重県の熊野にいる。『太平洋戦争 最後の証言』完結編の取材で、各地で90歳前後の戦艦大和の生還者を訪ねている。昨日は、三重県内で2人の生還者とお会いした。

昨日お会いした方は、「人は、私のことを大和の“生き残り”と言ってくれるが、実際は、私は大和の“死に損ない”なんです」と語った。昭和20年4月6日、沖縄への水上特攻で、多くの有能な人間が死んでいったので、「自分が生き残ったことが申し訳なく、自分は死に損ないなんだ、とつくづく思う」と言うのである。

詳細な証言で私の取材に応えてくれたその生還者は、歴史を正しく後世に伝えるために大変な役割を果たしてくれている。しかし、それでも、そういう思いに何かあるたびに捉われるのだそうだ。

その方の話を聞いて、一昨年取材させてもらった大和の高角砲の指揮官だった大尉が、「生き残ったこと自体が申し訳ない。部下たちが死んだのに、自分が生きていることが許されるのか、とずっと思ってきた」と語ってくれたことを思い出した。

重油にまみれて、地獄の東シナ海から九死に一生を得て生還したのは、3332名の乗組員のうち1割に満たない276人だけである。彼らは「仲間に申し訳ない」という思いで、長い長い「戦後」を暮らしてきたのだ。その方たちも、今では全国でわずか20名足らずとなってしまった。

いま国権の最高機関である国会では、“素人”防衛大臣の答弁などでレベルの低い紛糾を繰り返している。そのニュースを見ていると、事実上、更迭された防衛大臣のあとにこの程度の人物を据え、最大の案件である普天間基地問題を乗り切れると思う野田総理の政治音痴ぶりをどうしても考えてしまう。

決定的に危機管理が欠如した、この程度の国家の領袖を戴いて私たちはこの国で生きている。多くの若者が命を捧げて守ろうとした国とは「この程度のものなのだろうか」と思う。

政治に携わろうとする人間は、最低限、持っていなければならない信念や哲学というものがあるはずだ。しかし、野田総理にそんなものがないことは、繰り返される閣僚の不祥事が証明している。

こういう不毛な論戦に国会の貴重な時間が“浪費”されていることを国民はどう見ているのだろうか。それは、任命責任などというお手軽な言葉で批判すれば足りるものではない。

ニュース映像を見ながら、私は、国家の領袖になる資質も資格も「ない」人間には早く総理をお引き取りいただくのが国民のためではないか、と感じた。地獄の戦場から生還しても「自分を責めつづける」かつての日本人の本当の姿に最近出会うことが多いから、余計そう思うのかもしれないが……。

カテゴリ: 政治, 歴史

台湾問題の談論風発

2012.02.05

昨日は、在台ジャーナリストの片倉佳史氏が早稲田大学で台湾問題の講演をするというので、聴きに行ってきた。片倉さんには今回の台湾総統選取材で大変お世話になったので、総統選後の分析・総括を是非、直接聴きたかったのである。

在台歴が15年になるという片倉さんの分析は、やはり非常に興味深かった。片倉さんは台湾の旅行ガイドなども手掛けているだけに、台湾の隅々まで行き尽くしている。台湾のあらゆる地に足跡を残している片倉さんならではの視点が面白かった。

人口2300万人に過ぎない台湾は、実は「多民族国家」でもある。台湾の支持基盤が北部の国民党、南部の民進党というのは広く知られているが、そこに客家(はっか)をはじめ民族ごとの投票行動を分析した片倉さんが、それによって勝敗が影響されたようすを詳しく説明していた。

中国に経済的に呑み込まれていく実態も具体的なエピソードで語ってくれたので説得力のある講演だった。馬英九総統は、当選後、台北の圓山飯店(グランドホテル)に中国投資を進めている台湾の経済人(「台商」と呼ぶ)を集めてスピーチし、その中で「日本企業と組みなさい」と盛んに勧めたそうだ。

大陸で事業展開している時、なにか問題が生じた際に日本企業と組んでいたら中国の “国内問題”ではなく日本を巻き込んだ“国際問題”になるから、「リスクを回避できるかもしれない」ということだろう。

いよいよ馬政権も“危機感”を感じながらも、いっそう明確な「経済の一体化を進める」ということなのだろう。焦点の中国と台湾の「政治的対話」がどういう形で始まるのか興味は尽きない。先週号の週刊ポストに〈台湾総統選 深層レポート〉を書いた私としては、時間が経つのも忘れる貴重な話だった。

実は、春節の期間中に私の事務所を訪ねてきたある中国人は、台湾に関して「おそらくびっくりするような特別扱いの方針を中国が打ち出して台湾の歓心を買い、馬英九を引っ張り込むだろう」と予想していた。

どんな特別扱いをするのだろうか、と聞いたら、その中国人は「たとえば、南京に台湾の特区をつくって昔の総統府もそのまま使わせるなどの破格の扱いを見せるのでは……」と語っていた。

国民党のプライドをくすぐり、台湾人も喜ばせながら、「統一」に向かっていろいろ進めていくという予測だ。とても一笑に伏すことができない話だけに恐ろしい。そうして結局は、台湾は何年後かに「中国」になっている、というわけである。

今日は、台湾に帰る前に片倉さんが私の事務所に寄ってくれたので、そういう情報も出し合って一杯やりながら談論風発となった。楽しく、有意義な時間だった。2012年は、いずれにしても内外ともに激動の年となることは間違いない。

私も、明日から東京を離れ、『太平洋戦争 最後の証言』の取材をおこないながらの地方での執筆となる。豪雪やインフルエンザなどに負けず、頑張りたい。

カテゴリ: 台湾

「通化事件」と風化する歴史

2012.02.03

今日2月3日は、昭和21年に起こった「通化事件」の66回目の記念日である。この事件は、国共内戦が進行する中、中国共産軍(八路軍)に占領された旧満洲・通化省通化市で勃発した八路軍に対する日本人居留民の蜂起と、その後に起こった共産軍による日本人虐殺事件である。

八路軍の圧政に立ちあがった日本人から数多くの犠牲者が生まれ、その数は二千とも三千とも言われるが、今もって正確にはわからない。

私の伯父がこの通化事件の犠牲者だったので、幼い頃から私は父や伯母たちからこの事件のことを聞いていた。通化事件の犠牲者には、遺体も遺品もなく、蜂起に失敗した日本人たちは狭い穴倉に押し込まれて圧死したり、処刑や暴行によって命を落としていったのだ。

そして遺体は凍りついた渾江という大河の氷を割って流されていった。私は今から28年前(昭和59年)の2月に零下20度という厳寒の早暁、まだ未開放地区だった通化に人民服姿で潜入し、伯父の死んだ場所の「石」を持ち帰ったことがある。

通化で命を落とした伯父の墓には、遺骨もなんの遺品も入っていなかったからだ。私にその通化事件の実態や関係者の連絡先を教えてくれた女流作家の松原一枝さんも昨年1月末に95歳で亡くなった。

多くの真実が歴史の彼方に消えようとしている。ここのところ、私は4月刊行予定の『太平洋戦争 最後の証言』完結編の「大和沈没編」執筆で徹夜がつづいているが、最近、貴重な歴史の証言を後世に残す意味を考えることが多くなった。

今日、事務所には千客万来だったが、その中で2月20日に迫った光市母子殺害事件の最高裁判決についての事前取材で訪れた報道記者もいた。拙著『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』(新潮文庫)に関して、いくつかの質問を受けた。

多くの事件が歴史の彼方に消えていく。風化に耐えながらも、次第に闇に呑み込まれていくのが、さまざまな事象の運命に違いない。しかし、それらをできるだけ後世に活字で残すことが私たちの使命でもある。その意味を考えながら、今晩も原稿に向かっている。

カテゴリ: 事件, 歴史