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野球の“故郷”にて

2009.10.31

朝一番の飛行機で松山へ来た。松山坊ちゃんスタジアムで開かれている高校野球の秋季四国大会を観るためである。乗っていたANA機が機体の不良で、乗客が座席についた後、機体交換をする不手際があり、「出発&到着」がまる1時間以上遅れた。

球場入り口で、野球雑誌「ホームラン」の大西鉄弥編集長が私の到着を今や遅しと待ってくれていた。四国大会準決勝の第一試合は、高知県同士の高知高校と岡豊(おこう)高校の激突である。岡豊の山中直人監督は、昭和60年春の甲子園で全国優勝した時の伊野商業の監督だ。

桑田・清原を擁した最強チームPL学園を力でねじ伏せた伊野商業の渡辺智男(西武→ダイエー)の豪腕が思い出される。あの時、清原を3三振に切ってとった渡辺には及ばないが、岡豊のエース田内(たのうち)投手は171センチとピッチャーとしては小柄なものの、140キロ近い速球とキレのあるスライダーを持ち、今大会最大の注目選手だ。

試合は、高知県大会準決勝で田内投手に15三振を奪われていた高知高校打線が爆発。インフルエンザの影響で、この1週間、満足に全体練習もできなかった岡豊を6対1で退けた。

記者席では「一番の話題校が消えた。残念」という声を飛んだ。たしかに四国ナンバー・ワンのピッチャーに全国優勝の経験がある監督が率いる公立高校が、「甲子園にあと一歩」まで迫りながら決勝進出を阻まれたことは、話題性の面で残念というほかない。

記者たちの間からは「岡豊は21世紀枠での甲子園出場が期待できる」という声も出ていたが、果たしてどうなるだろうか。

各地で来春の甲子園出場校を決める秋季地区大会が大詰めを迎え、プロ野球は巨人と日本ハムとの日本シリーズも開幕。大学野球も早慶戦が開かれるなど、この週末、日本列島は野球一色だ。

ここ松山は、いうまでもなく「野球」という言葉の名付け親・正岡子規の故郷である。34歳で逝ったこの天才歌人・正岡子規は、結核に苦しみながら、「野球(のぼーる)」という雅号を用い、終生野球を愛したことで知られる。子規が残した「四球」「打者」「走者」「直球」「飛球」などの野球用語は彼の死後100年以上を経た現在も残っている。

松山は、いわば野球の故郷である。日差しも柔らかく、一年でもっとも野球観戦にふさわしいこの時期、私は野球の聖地に自分がいることの幸せを感じた。

カテゴリ: 野球

毅然と生きた日本人

2009.10.30

朝、台北で最後の取材を終え、夜には東京へ帰ってきた。航空機はJAL。機内で流されているNHKニュースは、JALの事実上の経営破綻と、再建を主導する企業再生支援機構の話題を伝えている。「社員一同、(再建に)邁進します」という機内アナウンスが重なるが、妙に空しく響く。

利用者を無視した労組の対立、特権を享受した機長をはじめとする幹部社員たちの増長が、ついにこの“半官半民企業”を破綻に至らしめたのである。国民は誰もJALに同情しない。この会社が膿(うみ)を出し切らないかぎり、国民は税金投入を許してはならない、と思う。前原誠司国交相の手腕が、いよいよ試されている。

それにしても、今回の台湾取材の成果は大きかったと思う。埋もれた事実と、改竄された事実。歴史とは、取材する側の意欲と方法によって、いかような顔でも見せてくれる。そのことを痛感した旅だった。万単位の人間が死んだ金門島の古戦場は、さまざまなことを私に語りかけてくれた。

毅然と生きた日本人の姿を、近くノンフィクション作品としてお届けできると思う。ご期待ください。明日は、別件の取材で四国・松山に飛びます。

カテゴリ: 歴史

菊池雄星、西武入り

2009.10.29

単行本取材のために台北にいる私に、「菊池雄星、西武入り」のニュースが飛び込んできた。若手を育てあげるのに定評がある西武に決まったあたり、菊池君の球運はなかなかのものだ。

東洋大学の逸材・大場翔太を育てられないソフトバンクや才能あふれる選手をベンチや二軍に置く巨人に比べ、実力が未知数のピッチャーを次々と一流投手に育て上げている西武や楽天に「菊池君を指名して欲しい」と、以前から私は願っていた。

東北球団である楽天が最も菊池君を受け入れるためにふさわしいと思っていたが、残念ながら野村監督更迭劇で見せたオーナーの三木谷浩史氏ら楽天首脳の無能ぶりを見るかぎり、菊池君が「楽天入り」しなかった方が喜ばしいかもしれない。

さらに言えば、パ・リーグの野球により注目している私にとって、菊池君がセ・リーグではなく、パ・リーグに来てくれたことを嬉しく思う。

法政の二神一人投手が阪神に、横浜高校の主砲・筒香嘉智君が横浜に1位指名されたのも興味深い。また報徳学園の選抜甲子園優勝投手・大谷智久が早稲田、トヨタ自動車を経てロッテに、また富山商業から中央大学を経てトヨタ自動車に入っていた中澤雅人投手がヤクルトに指名されたことも「行くチームによって明暗は分かれる」ことを改めて感じた。二人ともトヨタ自動車野球部の門を叩いて、初めてひと皮むけたのである。

中澤は中央大学時代から剛球を売りものにする左腕ピッチャーだったが、“一人相撲”が多く、どうしても一本立ちすることができなかった。社会人で揉まれ、きっと突如乱れる制球力が克服できたのだろう。在京球団であるヤクルトの指名は、本人もなにより嬉しかったに違いない。


また、清峰高校のエース今村猛君も広島にしっかり1位指名されていた。あの外角に配される絶妙のストレートとスライダーはプロの打者も苦戦するだろう。即戦力という点では、今村君の方が菊池君よりはるかに上だと私は思っている。今村君にはルーキーとして是非来シーズンに登場して欲しいと思う。

そして高校3年の最後の夏、甲子園入りしてから高野連によって甲子園出場を阻止された明徳義塾のエース松下建太(早稲田)、中田亮二(亜細亜)の両君が共に指名された(松下は西武、中田は中日)のもよかったと思う。

あの最後の夏の無念を、当時のチームメイトになり代わってプロで是非晴らして欲しいと思う。そして、いつかスター選手になった時、高野連があの夏「やったこと」に対して、堂々と自分の意見を述べて欲しい。

うわべだけの美談ではなく、つまり奇麗事に終始する高野連に「迎合する」のではなく、高校球児にとって何が一番必要なのか、高野連はそのためにどうあるべきかを、当の高野連や主催新聞社に教えてあげて欲しいと思う。

各球団に指名された選手たちを見ながら、将来性豊かな選手が多数指名されたことにわくわくしてくる私のようなファンが少なくないことを実感する。日本の野球を牽引していく君たちに大いに拍手を送りたい。

そして、入った数だけ「去っていく人間」がいるプロの世界の厳しさをできるだけ早く知って、「日の丸を背負って活躍できる」ような選手に一刻も早くなって欲しいと心から思う。

ここ台湾では、またしても八百長事件がすっぱ抜かれ、事実上、プロ野球が壊滅状態となっている。ナショナル・チームとしては、世界のトップレベルにいる韓国と、野球賭博で自壊していく台湾。明暗分かれた台湾と韓国の「これから」への注目が、私の中でより大きくなったような気がする。

実力だけの世界は、それだけで美しい。頑張れ!ルーキー。

カテゴリ: 野球

いよいよ取材大詰め

2009.10.28

金門から台北に帰ってきて2日目。いよいよ取材も大詰めを迎えつつある。今日お会いした79歳の老人は、19歳で蒋介石の国民軍に身を投じ、共産軍との“最後の戦い”に挑んだ人物だ。

“金門の熊”と称されたM5A1という4人乗り戦車を操り、金門島に上陸した共産軍を撃滅した。戦車は、「古寧頭戦役」で古寧頭村の三つの集落の内、二つを地上から消し去ったほどの威力を発揮し、共産軍も殲滅された。

以来、60年。老人は、この戦争に参加した日本人のことを明確に記憶していた。具体的で、そのシーンが思わず目に浮かぶような貴重な証言だった。

夜は、今回の「古寧頭戦役60周年記念集会」にはるばる金門島にまで足を運んでくれた台湾総督の孫であり、天皇のご学友でもある明石元紹さん(75)と打ち上げの会をおこなった。

私たちより一足先に、明日午後の便で帰国する明石さん。父親の明石元長氏が命をかけておこなった台湾救援のための“最後の偉業”を知った明石さんは、「台湾を救ったという点では、父は総督だった祖父より功績が大きかったと思う」と感慨深げに語った。

明石さんのほかに集英社の高田功氏、通訳の劉女史を交えた打ち上げ会は、台北ナンバー・ワンの小龍包の店で、心地よい老酒の酔いと共に、夜遅くまで続いた。

カテゴリ: 野球

夜の帳がおりた「国境の海」

2009.10.26

今日は朝6時半に起き、8時半発のフェリーに乗って台湾の金門島から中国・福建省の厦門(アモイ)に渡った。時間にしておよそ1時間。かつて国境内戦の激戦地となり、長く両国の国境線として緊張の極にあった海域である。

出入国審査があるためパスポートが必要である以外は、まったく普通の定期フェリーである。しかし、金門と大陸が行き来できることなど、あの毛沢東と蒋介石が対立した時代には考えられなかったことだ。時の流れとはおそろしいものである。

いまも島全体が軍事要塞の金門と、経済発展を遂げたアモイは、景観や活気がまるで違う。人口が260万人を突破し、どこへ行っても高層ビルが林立するアモイは、発展する中国沿海部の象徴のような都市だ。私は、アモイからさらに車を飛ばして泉州市というところまで足を延ばした。アモイの中心地からは高速道路を乗り継ぎ、二百キロ近く離れた場所にある港町である。

60年前、この地の漁船という漁船が共産軍によって集められ、2万人近い軍が金門島に押し寄せた。夜陰にまぎれて上陸を敢行した共産軍と、金門島を守備する国民軍との激しい戦いは、結果的に国共内戦の「最後の戦い」となった。

私が訪ねた漁村では、一人の古老が当時の思い出を語ってくれた。「共産軍に徴収された漁船が帰ることはなかった。兵士たちは一人も帰ってこなかった。金門島の戦いで全滅したんだ」。老人は60年前にこの国で起こった悲劇を遠い記憶の中から引っ張り出してくれた。万単位の兵士が死んだという国共内戦最後の戦い。知られざるドラマが、取材で次第に浮かび上がりつつある。

人間の生と死を賭けた壮大なドラマが60年前、この地で展開された。金門島への最終フェリーに間に合った私は、すっかり夜の帳がおりた漆黒の海を見ながら、この海で、そして金門島で命を落とした若者たちの無念に思いを馳せた。

カテゴリ: 歴史

「歴史」は隠せない

2009.10.25

「ようこそ、台湾へ」。
その言葉が発せられた瞬間、私たちは動けなくなってしまった。古寧頭戦役60周年の記念集会が金門島で開かれ、その追悼式の席上、台湾の馬英九総統が私たちにだけそう声をかけたのだ。

明石元二郎台湾総督の孫・元紹さん(75)と、古寧頭戦役に参加した吉村虎雄さんの長男・勝行さん(76)は、突然の馬英九の行動に驚き、同時に心を動かされた。今まで歴史に封殺され、面子と思惑の中で浮上しなかった国共内戦の最終決戦における日本人の戦い――否定され続けた“偉業”が「認められた」瞬間だった。

2日前、金門空港で陸軍中将ら国防部幹部に迎えられた私たちは、「わが国が一番困っている時に、お二人の日本人に指導と支援をいただいたことに対して心から感謝します。“雪中の人に炭を送る”ようなことをお二人はされたのです。その戦地である金門によくいらっしゃいました」という言葉をもらった。

その時、わずか1か月の間に変貌した国防部の態度に、私は仰天したものだった。だが、「変化」は本物だった。馬総統の態度はそれを如実に物語っていた。いかなる事情か私は知らない。しかし、台湾政府は面子を捨てて、歴史の真実を認める方に舵を切ったのは明らかだった。

明石さんも吉村さんも、そのことに心を動かされたのだ。すべては私の作品の上で明らかにさせていただくが、これほどの劇的な変化はさすがに私も予想していなかった。

意義深い作品になりそうだ。詳しく書けないのが残念だが、60年間も埋もれたままだった歴史が浮上することに感無量の思いがする。

カテゴリ: 歴史

雨の台北から快晴の金門へ

2009.10.23

本日午後、雨の台北から金門島にやってきた。昨日、台北入りしたあと、台風の余波で台北市内は次第に雨が激しくなり、今朝には豪雨となっていた。

午前中、今回の台湾訪問に同行してもらっている75歳の明石元紹さん(明石元二郎台湾総督の孫)と共に、明石総督の墓参りをさせてもらった。台北市内から1時間ほど離れた眺望抜群の地に墓所はあった。

晴れた日には台湾海峡が望めるという。私が取材しているこの歴史ノンフィクションには、明石家の台湾への「思い」が大きな比重を占めている。明石家の思いを知るためには、この墓所はどうしても来なければならない地だった。

今回の訪問には、民放の某キー局も同行してくれている。雨の中の墓参を撮影後、私たちは、台湾海峡を越え、はるばる金門島にやってきた。

金門空港のゲートから出ると軍の幹部と報道陣がいた。私たちが来るのを今や遅しと待ち構えていたのだ。陸軍中将が私たちに歓迎の意を表し、即席の歓迎セレモニーを開いてくれた。

報道陣のフラッシュも驚いたが、前回の訪台とはまったく違う軍の対応ぶりにはさらに驚かされた。「古寧頭戦役60周年」の記念集会が、私たちがはるばる金門島までやってきた理由だ。

毅然とした日本人の生きざまが、この60年前の戦役でどう示されたのか。それだけは解明して帰りたいと思う。埋もれた歴史の発掘はまだ道半ばだが、記念集会を2日後に控えて、何かが動きそうな予感がしている。

カテゴリ: 歴史

土光敏夫よ、再び

2009.10.21

昨日の西川善文・日本郵政社長の辞任会見を見て、「あーあ」と溜息を洩らした人は少なくないだろう。

「これが国民の貴重な財産の上に成り立った企業のトップか……」。私も会見の映像を見ながら、そう思った。

「カメラは出てけ!」「音がうるさくて話せない」「カチャカチャすると、やってられない」。イライラした西川氏は、そう言って報道陣に何度も嚙みついた。そこには、国民の共通財産の上に初めて成り立った“民間企業”のトップという意識はかけらもない。報道陣の先にいる国民に対する謙虚な姿勢も皆無だ。浅薄な氏の人間性が、全国民の前に晒された瞬間である。

私はその映像を見ながら、「この人を守るために麻生政権はつぶれたのか……」という複雑な思いが込み上げた。

西川氏は「私がこれからやろうとすることに大きな隔たりがあるので、もはやこの職にとどまることは適切ではないと考えた」と述べたが、これまでも当ブログで指摘してきた通り、西川氏が信念をもって厳正かつ公平無私な態度を貫いた人物とはとても思えない。

出身母体の三井住友銀行から「チーム西川」と呼ばれる子飼いを引き連れて日本郵政に乗り込み、言葉は悪いが「好き勝手放題やってきた」人物ではなかったか。

西川氏は、それまでわずか0・2%のシェアしかなかった三井住友カードを郵貯銀行のカードの委託先にまず選んだ。その選定の中心人物は、「チーム西川」の元三井住友カード副社長である。ほかにも「チーム西川」のメンバーが、三井住友銀行の社宅に「住んだまま」、日本郵政に“出向”していたことも国会で追及された。

大きな非難が巻き起こった「かんぽの宿」売却問題は典型的だ。総額で約2400億円もの巨額の建設費をかけた施設を、20分の1にも満たない約109億円で売り飛ばそうとした。

「かんぽの宿 鳥取岩井」の売却では、「レッドスロープ」なる東京の不動産会社に「1万円」で売却され、直後に福祉法人に「6000万円」で転売された。しかも、その不動産会社は幽霊会社で、さらに、設立間もない会社だったことが明らかになった。

国民が怒ったのはほかでもない。国民の“最後の財産”を、一部の利権屋が貪り食った図式が、はからずもマスコミや国会議員の力によって国民の前に露わになったからである。

問題が明るみになって苛立った西川氏は、記者に逆上して、「失礼なことをいうな!」と、怒声を浴びせかけたこともある。

鳴り物入りの郵政民営化に対して、この程度の人物しか選べなかったところが国民の不幸だったのである。公平に物事を進めるためには、自分の利益を優先したり、自分の主観で判断することは絶対に避けなければならない。かつての第二次臨調の土光敏夫会長のような人間がいないことが、なんとも惜しいと思う。

しかし、日本郵政の後任社長に鳩山政権が持ってきた人間が「斎藤次郎・元大蔵次官」というのもこれまた滑稽譚である。“陰の総理”小沢一郎氏の盟友で、かの細川政権が瓦解するきっかけになった深夜の国民福祉税構想発表をやってのけた剛腕事務次官である。

私が雑誌のデスク時代、「むかし陸軍、いま総評」「むかし東条、いま斎藤」という言葉を霞が関で聞いたのは90年代の前半ではなかっただろうか。それだけの異名が奉られるほど斎藤氏は“ミスター官僚”“官僚の中の官僚”だったのである。

官僚、そして天下りと全面対決するはずの鳩山政権が、よりによって細川政権を崩壊せしめた官僚の中の官僚であり、“小沢の盟友”を引っ張り出したのである。

「あーあ」。国民の溜息は2日つづいてしまった。

土光さんが唱えた「増税なき財政再建」「中央・地方一体になっての行革推進」がなつかしい。90兆円を超える一般会計と、50兆円近い国債発行という“バラまき政権”が誕生した今、土光さんが生きていたらどんな感想を漏らすだろうか、是非聞いてみたいと思う。そして、果たして鳩山政権がどこまで子孫にツケをまわすか、じっくり監視していきたいと思う。

さて、明日から私は台湾と金門島に再び取材に出る。現地レポートをご期待ください。

カテゴリ: 政治, 随感

100歳での始球式を

2009.10.20

昨日は、今年97歳になった巨人軍OBの前川八郎さんに埼玉県下でお会いした。7月に巨人軍創立75周年記念イベントの一環として、東京ドームでのマウンドに立ち、かつての復刻ユニホームを着用して始球式をした、あの前川さんだ。

前川さんは巨人時代、ピッチャーとしてマウンドに立たない時は、打撃を買われて内野手、外野手としても活躍したオールラウンドプレーヤーだった。エース番号で知られる背番号18を巨人軍で初めて公式戦でつけた人であり、栄光の巨人軍の第5代四番打者でもある。

國學院大學の国文科を卒業した前川さんは、風雲急を告げる戦前の職業野球に3年間だけ在籍し、その後、故郷の兵庫に帰り、滝川中学の国語の先生となり、同時に野球部の監督も兼任し、同校で別所毅彦や青田昇を育てた人物である。

戦後、人材が枯渇したプロ野球界に1年だけ復帰(阪急軍)し、そこで3勝を挙げている。戦前に18勝、戦後も3勝を挙げたというユニークな経歴を持つ前川さんは、いま巨人軍OBとして最高齢になった。

戦前、前川さんが巨人に在籍したのは、昭和11年から13年の職業野球黎明期である。盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が泥沼化して日本が破滅への道を転がり落ちていくちょうどその時期だ。

私は、今年4月から5月にかけて4回にわたって放映されたNHK「知る楽 こだわり人物伝」の「ヴィクトル・スタルヒン 野球がパスポートだった」の取材で、3月に前川さんにお会いしている。この時、前川さんにはスタルヒンのことや戦前の職業野球について詳しくお話をしていただいた。

8か月ぶりにお会いした前川さんは、耳こそ遠いものの、お元気そのもので過去の出来事を前回と同様、生き生きと“描写”してくれた。私のようなノンフィクションの世界で生きる者にとって、いささかの記憶の衰えも感じさせない前川さんのような存在は、本当にありがたい。

いつ聞いても前川さんのお話には、高齢の方にありがちなあやふやさや誇張がない。厳格な国語の教師をしていた戦前の前川さんの姿が思い浮かぶ。

貴重な証言は、また活字にして広く読んでいただきたいと思う。ご子息に駅まで車で送ってもらう途中、私は「今度は100歳での始球式を実現したいですね」と提案した。「そうなればいいですね」とご子息は笑っていたが、2012年4月に満100歳を迎える前川さん。歴史の重みを現代の野球少年たちに伝える意味でも、是非、実現して欲しいと思う。

カテゴリ: 歴史, 野球

熊本城の秋

2009.10.17

今週は、水曜(14日)木曜(15日)と2日つづけて八代、熊本で講演があり、久しぶりに熊本に行って来た。講演のテーマは、「裁判員裁判が問いかけるもの」。ここのところ裁判員制度に関する依頼がやはり多い。

「裁判官が日本を滅ぼす」「なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日」「激突!裁判員制度 井上薫vs門田隆将」と、司法に関わる本を3冊出しており、特に私のように官僚裁判官制度の弊害の具体例を挙げながら語る講師は少ないようだ。

熊本の人は、裁判員制度に対する関心は薄いように感じたが、ちょうど熊本での裁判員裁判第1号がおこなわれている最中で、それぞれ長時間熱心に耳を傾けてくれた。

講演の合間に熊本城を訪れた。酷暑で知られる熊本にもすっかり秋が訪れていた。ちょうど秋祭りの最中で、城はいつも以上の賑わいを見せていた。熊本城は、「銀杏(ぎんなん)城」という別名を持つ。加藤清正が自ら植えた銀杏は今はないが、明治に植えられた大銀杏が、観光客を迎え、見下ろしている。

戦国の猛将・加藤清正がつくったこの難攻不落の名城は、石垣を見れば、その凄さがわかる。この城が実際に“難攻不落”であることが証明されたのは、築城から270年もの歳月を経てからのことである。

明治10年、西南戦争において、西郷隆盛率いる1万4000人の薩軍が熊本城に押し寄せた。熊本鎮台司令長官・谷干城は、4000人の兵力で52日間にわたって熊本城を守り抜く。清正が要所要所に配した武者返しが威力を発揮し、ついに薩軍は一人も城内に侵入することができなかった。

熊本城が簡単に落ちていれば、薩軍の勢いは増し、九州全体の不平士族が西郷のもとに馳せ参じていた可能性もある。そうなれば、西郷軍は船によって一気に東京を突いたかもしれない。この戦争が単に「西南戦争」という名では終わっていなかったかもしれないのである。

歴史に「もしも……」は禁物という。しかし、実際にこの難攻不落の名城を訪れると、どうしても「if」を考えてしまう。加藤清正が死ぬのを待っていたかのように豊臣家攻略を始めた徳川家康。時移り、明治の御代(みよ)に薩軍をストップさせた熊本城。

この城は歴史のダイナミズムを感じさせる不思議な力を持っている、といつ来ても思う。

カテゴリ: 司法, 歴史

いよいよ始まる鳩山首相の修羅

2009.10.13

北朝鮮が昨日、日本海に短距離ミサイルを発射した。発射されたのは短距離ミサイル5発で、舞水端里から元山にかけての海岸から、午前中に2発、午後に3発が発射された。

早くも鳩山民主党政権の本質が国民の前に明らかになりつつある。つい数日前(10月9日)、政府は先の通常国会で廃案となっていた北朝鮮関連船舶を対象とした「貨物検査特別措置法案」の臨時国会提出を見送る方針を決めたばかりだ。

見送りの理由は、「6カ国協議に復帰する動きを見せている北朝鮮の動向を見極める必要がある」ということだそうだ。だが、その答えが、日本海へのミサイル発射という北朝鮮による大デモンストレーションだったわけだ。

鳩山政権は“親北政権”である。友愛外交を掲げる鳩山氏の対象は、かねて指摘されてきた通り、主に「中国」と「北朝鮮」に向けられている。

鳩山政権の重要閣僚である菅直人国家戦略担当相と千葉景子法相が、かつて北朝鮮拉致事件の実行犯で、韓国で収監されていた辛光洙・元死刑囚らの釈放嘆願書に署名していたことが思い出される。

これは、平成元年、当時の盧泰愚韓国大統領にあてて出されたもので、「在日韓国人政治犯の釈放に関する要望」というものだ。当時の国会議員128人が署名した。

こともあろうに国家戦略を担当する現在の副総理と法治国家日本の“法の番人”である法務大臣が、自国民を拉致した実行犯を釈放するよう嘆願していたというのだから驚きを通り越して、これはもう笑い話である。

通常国会で、自民党はこのことを追及する構えを見せているので、鳩山首相自身の“故人献金”問題に加えて、大きな焦点となるだろう。

民主党の「親北」ぶりは、これまでにも話題になったことがある。今年4月末から5月にかけて、拉致被害者の「家族会」「救う会」「拉致議連」の合同訪米団がワシントンに滞在して、政府や議会などに陳情をおこなった時のことだ。家族会はアメリカ側に「拉致問題が埋もれないよう北朝鮮への圧力を緩めないでほしい」と訴え、「救う会」は北朝鮮の「テロ支援国家」への再指定と金融制裁の発動を求めた。

しかし、アメリカ側から出てきた話は、民主党の前原誠司(現国交相)と岡田克也(現外相)両氏が直前に訪米しており、共にアメリカ側に「いまの日本は拉致解決に固執しすぎて北朝鮮の核放棄への障害となっている」という趣旨を述べていった、というものだった。

啞然とした訪米団は、帰国の際の記者会見で、前原、岡田両氏の名前を挙げて批判した。前原氏と岡田氏の発言は、日本側の拉致解決への姿勢に対してアメリカ側に疑念を抱かせるものだったのだ。

今朝、鳩山首相は私邸前で記者団の質問に答え、「(ミサイル発射の)報道は聞いている。これが事実としたら、大変遺憾なことだと思うが、今、それ以上のコメントをする状況にない」と語った。「事実なら遺憾」――日本は今、そういう表現しかできない「国家の領袖」を抱えている現実がそこにはある。北朝鮮への警告も、日本の毅然とした姿勢のメッセージも、彼にはできないのである。

国民の生命と財産、そして領土を守るという最大使命を持つ国家の領袖が、友愛などという綺麗事を唱えて務まればこれほど楽なことはない。しかし、これから国内・国際社会の現実が、かつて“宇宙人”と揶揄されたこのお坊ちゃん政治家に次々と襲ってくるだろう。

鳩山政権の看板である友愛が、実は、自国民に対する“友愛”でなく、人権圧殺の無法国家に対する“友愛”であることに国民はいつ気づくだろうか。

カテゴリ: 国際, 政治

お粗末な「楽天」

2009.10.11

昨日のブログで、クライマックスシリーズ(CS)での楽天の野村采配が楽しみだ、と書いたばかりだが、先ほど流れてきたニュースによれば、楽天は野村氏と来季の契約を結ばない旨、「本日、野村氏に通告した」という。

あまりのタイミングの悪さに、ファンも絶句だろう。初のCS出場でチームが一丸となるべきこの時期に、当の球団がそのムードを「ブチ壊した」のである。

野村氏自身も記者に「一番大事なクライマックスシリーズが始まろうという時に、タイミングが悪すぎる」と語ったそうだが、こんなことを平気でやってのけるところが、いかにも楽天らしい。

楽天という親会社の素人ぶりは、これまでも折に触れて出ていたが、それにしてもここまでお粗末とは信じ難い。新聞報道によると、後任の監督として、広島を今季限りで退団するマーティー・ブラウン監督らが挙がっているという。

物事にはTPOが大切であることは言うまでもない。「時」と「場所」と「場合」を考えなければ、せっかくのそれまでの苦労が水泡に帰す。来季の監督が誰になろうと、この時期に動いたり、後任監督の候補を洩らしたりするのはタブーのはずだ。この新興企業には、残念ながらそれがわかる人材さえいない。

東北地方で絶大な人気を持つ楽天。今年のドラフトでは、「花巻東の菊池雄星投手を1位指名して欲しい」というのが、東北人の願いだそうだ。

しかし、肝心の親会社のレベルがこれでは、菊池君にソッポを向かれても仕方がない。

カテゴリ: 野球

スポーツの秋、真っ盛り

2009.10.10

スポーツの秋が真っ盛りだ。

クライマックスシリーズ(CS)を控えて、プロ野球ファンも妙にそわそわしている。今回は、なんといっても初めてのCS出場となる楽天がどこまでやるか注目だ。この新鋭が短期決戦で何をやってくるか、実に興味深い。

思い起こされるのは、初めてパ・リーグが前・後期制を敷いた昭和48年、南海を率いた野村監督がやってのけた大番狂わせである。

プレーイングマネージャーとして、マスク越しに南海(現ソフトバンク)を率いていた野村監督は、このプレ-オフでさまざまな戦術を繰り出した。1、3、5戦という奇数試合に主戦投手を投入し、2、4戦は負け試合と計算した。

そもそもこの年のシーズンも、開幕ダッシュで前期優勝を果たした後、後期は惨敗が多く、“死んだふり”の連続だった。通算では、全盛時代を迎えていた阪急に大きく勝ち星で水をあけられていた。

野村は、阪急に勝つには、トップの福本の足を抑え込むことが必須だと考え、このシリーズの重要な場面で、佐藤道郎投手に初めて“すり足クイック”を使わせた。

今では最後まで足をほとんど上げない“すり足クイック”は知られているが、当時は誰も知らなかった。この佐藤とエース江本が獅子奮迅の活躍をして、南海は3勝2敗で大番狂わせを演じた。

南海は、この時、シンキングベースボールを実践している最中だった。単なるデータ分析にとどまらず、サインを双眼鏡で見て盗んだり、相手ベンチに盗聴器を仕掛けたり、さまざまな“秘策”を繰り出した。「尾張メモ」で名高い日本初のスコアラー尾張久次が南海のデータ分析の中心にいたのもこの時代である。

戦力の劣ったチームが強いチームを倒す――戦い方次第でそれが現実になることをこのプレーオフは教え、野球のもう一つの醍醐味を見せてくれたと言えるだろう。

あれから36年が経過し、74歳となった野村監督。岩隈、田中将大、永井……と、ピッチャーも駒が揃ってきた楽天を率いて野村監督がどんな奇策を見せてくれるか、じっくり見てみたい。

カテゴリ: 野球

「時間の流れ」の違い

2009.10.06

今日は、花巻からJR釜石線に乗って、はるばる釜石までやって来た。釜石線の愛称は、銀河ドリームライン。前身である岩手軽便鉄道が、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルと言われていることに由来する。

釜石は、かつて、新日鉄の“城下町”として栄え、人口が十万人を超えたこともある東北有数の都市だった。新日鉄の関連で働く人は最盛期には数万人にも達したらしいが、今では十分の一にも満たない。製鉄所の高炉の火が消えると同時に釜石という町の灯も消えてしまったのである。

花巻から2時間も列車に揺られた私は、この最果ての町に降り立った。「鉄のふるさと釜石へようこそ」の駅の垂れ幕に迎えられた私は、かつての新日鉄釜石ラグビー部が汗を流した松倉グランドへと赴いた。

兵(つわもの)どもの夢の跡は、ひっそりとしていた。地獄の猛練習を繰り返して、叩き上げの東北の高校ラガーマンたちを“日本一のラガーマン”へと成長させていったこのラグビーの聖地は、北上山系の山々に見下ろされ、再び栄光の時代が訪れることを静かに待っているかのようだった。

ロックの瀬川、スクラムハーフの坂下など、V7戦士で今も釜石に残る選手は少ない。ラガーマンの取材もここで打ち止めだ。今も寡黙でニヒルなスクラムハーフ・坂下功正さんの話を伺いながら、はてV7の栄光はついこの間の出来事ではなかったか、という錯覚に襲われた。

釜石からの帰路、車窓の外の田園風景に目を奪われる。すでに稲刈りが終わった田と、絨毯を敷きつめたように黄金色の稲が溢れる田……それは、まるで時間の流れが止まったかのような風景だった。

東京とは明らかに時間の流れ方が違う――窓の外を見ながら、私にはこの地の「時間」が妙に羨ましく感じられた。


カテゴリ: ラグビー, 随感

菊池雄星君の「プロ入り宣言」と花巻の夜

2009.10.05

東北出張にて「花巻」にいる。昨日は、東京から北上へ、そして仙台へ。今日は仙台から二戸、そして花巻へ。東北を行ったり来たり、である。

新潮45の連載「スポーツドキュメント“あの一瞬”」の取材で、新日鉄釜石のV7戦士を訪ね歩いているのだ。

あのV7から四半世紀近い年月が経過し、V7戦士たちは今、散り散りになっている。松尾、谷藤、石山、千田……明日は、釜石に行って、さらに取材を重ねる。本日、二戸では当時の主治医に凄まじいV7戦士の戦いぶりを取材した。

出張途中で中川昭一氏の急死の報やら、検察が鳩山総理の政治資金問題の捜査に乗り出すというニュースが入って来たり、すこし東京から離れると、いろいろなことが起こるものである。

中川氏の急死については、父・中川一郎の怪死を思いだして背筋が寒くなった。因縁とは恐ろしい。酩酊会見で大臣の座を棒に振り、選挙では落選、その上、謎の死である。中川氏は、独自の国家観を構築していた数少ない政治家であり、何度か取材もしたことがある。北朝鮮の拉致被害者たちも中川氏に最も期待を寄せていた。それだけにイデオロギーなどを超えて、彼の死が残念でならない。

ここ花巻では、タクシーの運転手が「菊池君の取材ですか?」と聞いてきた。地元の英雄・菊池雄星君(花巻東)がプロ入り宣言をして、今日の岩手の話題を独占していたのだ。スポーツ番組も一斉に菊池報道に転じている。

今年の甲子園で菊池君が投げている時、花巻の町からは人通りが完全に消えたそうだ。タクシー運転手の話しぶりは、彼の存在がいかに地元の誇りかを肌で感じさせてくれた。

期待という名の応援は、力になってくれる時と足枷になってしまう時、両方がある。菊池君がそれらを自分の糧にしながら、今後どんな野球人生を歩んでいくのか興味深い。

取材させてもらった釜石のV戦士たちは、現役が終わってもしっかりと地に足をつけて、「企業」で、そして「地域」で、それぞれの役割を果たしていた。菊池君が目指すべきは、地に足をつけた彼らの人生の歩み方だろう。岩手の英雄としては“先輩”であるV7戦士たちに是非さまざまなことを学んで欲しいと思う。


カテゴリ: ラグビー, 野球

残念なり、五輪「東京」落選

2009.10.03

2016年夏季五輪の開催地はリオデジャネイロに決定した。東京落選である。1964年以来の半世紀にわたる悲願は成らなかった。

日本は1964年の東京、1972年冬季大会の札幌、1998年冬季大会の長野と、夏冬合わせ3度五輪を開催している。しかし、1988年夏季大会は名古屋が敗れ、2008年夏季大会は大阪が敗れ、これで3連敗となった。

理由は、オリンピックの利権化である。1984年のロス五輪以来、夏季大会は異常なまでに商業化が進み、大会の開催自体が大きな利権となった歴史がある。以来4半世紀、オリンピックはサッカーのワールドカップと共に世界最大のコマーシャリズムの大会と化した。高騰の一途を辿るテレビ放映権料をはじめ、世界の名だたる企業が大スポンサーとして資金を提供するなど、巨額マネーが飛び交う世界最大の祭典となってしまったのだ。

“ミスター・アマチュアリズム”と言われた故ブランデージIОC会長が知ったら目をむきそうな実態がそこにはある。巨大な利権を争奪する「戦争」で、日本の“真心(まごころ)戦略”は今回も敗北したことになる。巨大ビジネスという“競売物件”を落とすために遮二無二突き進んでくる外国勢に今回、またしても日本は苦汁を舐めたのだ。

メディアは「五輪の顔」がなかったことが最後まで響いた、と報じている。しかし、たとえ皇太子ご夫妻が全面的に招致運動に乗り出してくれていたとしても、東京が勝利する保証はなかった。戦争とは、それほど「勝つことが難しいもの」なのである。

2016年に東京でオリンピックが開催されれば、実に52年ぶりになるところだった。あの時、高度経済成長に突き進んでいた日本は、東京五輪を機に一気に世界の“一等国”として復活した。やっと第二次世界大戦の惨禍を払拭できたのである。

あの時、全国津々浦々を走った聖火をほとんどの国民が拍手と共に目撃した。遠くから見えてくる聖火の煙、目の前を通過するランナー、それを警護する白バイ……幼き日に、手が痛くなるほど拍手してこれを見た時の感激を昨日のことのように思い出す。

あれほど国民誰もが思いっきり手を叩き、熱狂したことがほかにあっただろうか、と思う。

日本人全体が勢いと気迫を失っている現在、「もう一度、東京でオリンピックを」と願っていただけに、東京落選は残念でならない。落選、そしてリオデジャネイロ決定の報に、夜中、私は大きな溜息をついてしまった。

カテゴリ: オリンピック