門田隆将オフィシャルサイト | kadotaryusho.com

  • 最新情報
  • プロフィール
  • 著作リスト
  • 講演のご依頼
  • ブログ
(C) KADOTA RYUSHO. ALL RIGHTS RESERVED.
BLOG | KADOTARYUSHO.COM

ブログ

大学野球と民主党代表選

2010.08.31

今日は時間をつくって、昼から神宮球場へ出かけてきた。中央大学創立125周年記念硬式野球交流戦の「中央大学vs早稲田大学」の試合を観戦するためである。

両チームには、学生最速を誇るエース澤村拓一(中央)や、斎藤佑樹、大石達也、福井優也(いずれも早稲田)という「ドラフト1位候補」が何人もいる。いわば学生野球のトップに立つ両チームの激突だった。

7月に左わき腹を痛め、この日が復活戦の澤村、早稲田も福井、大石などが登板し、それぞれがプロ注目の球を披露した。試合は、1対0で迎えた最終回に早稲田が中央の渡邊洋平投手の制球の乱れにつけこんで3点を挙げ、4対0でそのまま中大を下した。

しかし、ドラフト候補の澤村、福井、大石は共に相手に得点を許さず、貫禄を見せつけた。試合後、それぞれにインタビューをしたが、なかでも目立ったのは、澤村の強気ぶりである。

この日もマウンドに上がるや、いきなり154㌔の球を連発したが、記者から「150㌔のボールを連発したが……」という質問が飛ぶと「150というのは、(僕にとって)特別な数字じゃないです」と平然と答え、左わき腹のケガについて質問が出ると、「(もう)投げられるので、ケガのことはこれ以上、聞かないでください」と、言い放った。澤村は、そんな負けず嫌いな勝負師としての表情を記者たちに垣間見せた。

その後、私は旧知の高橋善正・中大監督に澤村のことを聞いた。高橋監督は、「(澤村は)どこまでも貧欲な奴だ。ここまで自己管理ができるのは、プロでもなかなかいない。スピードにこだわり、ついにはセレクションの時には141㌔に過ぎなかった男がここまで来た」と、満足気に語った。

高橋監督は、斎藤佑樹との比較でも「伸びしろが全く違う」と、愛弟子の澤村が数段上であることを示唆した。大学の4年間で何を得て、何を失うか。それぞれの投手が選んだチームによって、「伸びるか否か」が決まる。澤村の伸びは、この高橋監督の存在なくしては語れないだろう。東映時代に完全試合を達成し、巨人に移籍後も、V9に貢献したこの投手出身の監督に出会えたことは、澤村にとってはかり知れない財産になったに違いない。

春夏の甲子園の覇者・興南の島袋投手も「中大を志望している」という報道が出ているが、澤村の大学入学後の底知れない“伸び”を考えると、それも頷ける気がする。

いよいよ大学野球は、秋季リーグ戦がスタートする。どのリーグからも目が離せない。

神宮から帰ってくると、政界では、「菅vs小沢」の対決が回避できず、いよいよガチンコ勝負になることが報道されていた。2日前のブログでも指摘した通り、挙党一致体制の構築と組織対策費の流用問題を不問に伏すという2つの条件を菅総理に呑ませて、「土壇場で小沢が下りる」という可能性はこれで消え去ったのだ。

いよいよ代表選は、仁義なき怨念戦争に突入した。党分裂は、もはや必至の情勢だ。代表選後、小沢一派が、ひたすら権力に近づきたい公明党に、どうアプローチしていくのか、要注目である。

カテゴリ: 政治, 野球

なぜ人は「志」に心を揺さぶられるのか

2010.08.30

昨日のNHK「龍馬伝」は、この1年間の大河ドラマの最大のヤマ場「薩長同盟」が結ばれる場面が描かれていた。

息を呑む迫力が画面から伝わってきた。幕府の第二次長州征伐を前に滅亡の危機に瀕した長州の桂小五郎は、京都の薩摩藩邸でなかなか到着しない龍馬を待ちわびる。西郷隆盛に向かって、桂は「坂本さんが来なければ、交渉はできない」と、言い放つ。

やっと到着した龍馬が間に立ち、交渉は始まった。もともとはお互いを憎悪の対象としか見ていない犬猿の仲の薩長両藩である。しかし、西郷は、危機に陥った長州を徹頭徹尾、支援する五つの条文を提示する。

桂は、「長州を救うために恥を忍んで僕はここへ来た」と心中を吐露しながらも、「これでは、長州が薩摩の助けを受けるだけのものです。これは対等な盟約ではない」と複雑な胸の内を明かす。「これでは僕は長州に帰れない」と。

その時、龍馬が突然、「ほんなら、こうしませんろうか?」と口を開く。龍馬は薩摩が提案した五つの条文に、もう一つ条文を加えることを提案するのである。そこで龍馬が語り出したのは、「志」だった。

「ここへ来るまでに数えきれん命が失われたがです。薩摩の人らあも、長州の人らあも、もちろん、わしの友にも、死んでいった人間が大勢おるがです。立場は違えど、みんなあ、天下国家のために、“志”を貫き通して、消えていった命ですき」

何を言うのだろうかと龍馬の表情を息を呑んで見守る西郷と桂。龍馬は、二人を見つめて、「ほじゃき、そのもんらあの“志”も、この薩長の盟約に入れてもらえませんろうか?」と、語りかけるのだ。

龍馬の顔を見て、桂が「その一文とは?」と聞く。龍馬は深呼吸をすると、万感の思いを込めて、こう答えた。

「薩長両藩は誠の心をもって合体し、日本のために……傾きかけちゅうこの国を立てなおすために、双方とも、粉骨細身、尽力する」。

顔を見合わせる西郷と桂。龍馬は、「これなら、薩摩と長州は、対等ですろう?」と二人を見据える。

言葉を発せられない西郷と桂。一瞬の間をおいて、西郷が、「なるほど。おいに異論はありもはん」と答え、桂も「僕もじゃ」と、応じる。

「ほんなら、これをもって薩摩と長州の盟約は成ったということで、ええですね」と、龍馬は二人に語りかける。頷く西郷と桂。歴史上、日本の封建時代が幕を下ろし、日本が近代国家に生まれ変わることが事実上、決した瞬間である。

この感動の場面の中でも、特に心を動かされるのは、「みんなあ、“志”を貫き通して、消えて行った命ですき。そのもんらあの “志”も、この薩長の盟約に入れてもらえませんろうか?」と龍馬が語るところだ。

ひとつの出来事に至るまでには、さまざまな打算もあれば、それぞれに思惑もある。しかし、それを超えて存在するのが、「志である」ことを龍馬は二人に土壇場で語りかけたのである。

つまり、龍馬の「志」のひと言に、薩摩と長州が「まとまった」ことをこのドラマは描いている。盟約が成って屋敷から出て来た龍馬は、自分を警護するためについてきた槍の名手で長州藩士の三吉慎蔵に「長州と薩摩はしっかり手を結びましたき」と報告する。

「ついに、ですか! ご念の入りましたあ。坂本さあん!」と泣き崩れる三吉。「坂本さんがいなかったら、わが長州はどうなっていたか」と咽(むせ)び泣く三吉に、「あなたも長州を救った一人ですき」と語る龍馬。男泣きに泣く三吉を龍馬が抱きかかえるシーンは、この大河ドラマを通じての渾身の場面だった。

寺田屋事件では襲撃された龍馬を救うため奮戦する三吉は、幕末・明治を生き抜き、20世紀の夜明けを見て亡くなった長州藩の元重鎮として知られる。龍馬のことを詳しく書き残した三吉の日記は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」をはじめ、数々の名作のもとになっていることはあまりに有名だ。

日本人の“志”をテーマの一つとする私にとっても、実に興味深い昨夜のドラマだった。それにつけても、“志”のかけらも見受けられない「菅vs小沢」の民主党代表選――奇しくも民主党の衆院選大勝からちょうど1年が経った今日、代表選のニュースを見るたびに溜息しか出て来ないのは、私だけだろうか。

カテゴリ: 歴史, 随感

“怨念政争”のあとに何が残るか

2010.08.29

民主党代表選(9月1日告示、14日投開票)の土壇場の攻防がおもしろい。

“素人”同然のチルドレンたちを締めつけて国会議員の数だけは優位に立つ小沢一郎前幹事長だが、毎日新聞の世論調査によれば、「どちらが首相にふさわしいか」は、菅氏が78%で、小沢氏が17%だったそうだ。

一般の目から見ればこの小沢氏に対する国民の厳しい数字は不思議でもなんでもないが、ゴリ押しを続ける小沢グループにとっては「衝撃」というほかないだろう。

そのため、30日にも予定されている菅・小沢会談で「挙党一致」を条件に急遽、小沢氏が出馬取りやめを決定する可能性もまだ残されている。

しかし、ここまで怨念が拡大されれば、両派とも引っ込みがつかなくなっているのも事実だ。小沢氏が恐れるのは、自分が民主党の代表を務めていた時期に、組織対策費として側近の山岡賢次議員らに16億円もの巨額の資金を出していたことなど、党資金の使い方に疑惑があり、それが暴かれることである。

これらは、すでに共産党の機関紙「赤旗」が熱心に報道してきたことだが、小沢氏には党のカネを自分を支持する特定の議員に渡したり、あるいは政党を解党した時に、党のカネがどこかに消えているという疑惑が、いつもついてまわっている。

これらを徹底追及されれば、また新たな政治とカネ問題が噴き出す可能性もある。「挙党体制」だけでなく、これらを「不問に伏す」ことを条件に、小沢氏の代表選出馬取りやめが土壇場で決定される可能性が残っているのはそういう意味である。

世論を無視してごり押しする小沢グループを、それでも鳩山由紀夫前首相は推すのだそうだが、自分が小沢幹事長を辞めさせたのは、つい3か月前のことであることを思い出した方がいいだろう。

両派が歩み寄りに失敗すれば、民主党は確実に分裂する。そして政界再編の大激震につながる。しかし、小沢氏と一緒に「党を出て行く」議員の数は、予想以上に少ないだろう。政界の壊し屋の異名をとる小沢氏も、引き際を見誤ったら「崩壊する」のは自分たちのグループだけという剣が峰に立っているのである。

経済も無策、行財政改革についても無策、という無能総理であるにもかかわらず、“反小沢”という1点のみにおいて国民の支持を集めている菅総理。なんとも情けない“コップの中の争い”である。

カテゴリ: 政治, 随感

自らの使命に忠実であれ

2010.08.28

もう8月も終わりだというのに、東京は、相変わらず喘ぐような“都市熱”に覆われている。いつになったらこの不快な酷暑が過ぎ去るのか、溜息ばかりが口をつく。

間もなく始まる月刊誌の短期集中連載の最終ゲラを本日やっと校了。そのあと、明治大学のマスコミゼミの教え子である某大手紙記者が束の間の夏休みを利用して西新宿の事務所を訪ねてくれた。

夜には、記者の彼女も“合流”して談論風発となった。近く放映されるWOWOWの特別ドラマ「なぜ君は絶望と闘えたのか」の予告編も一緒に観た。その迫力に全員が圧倒された。

映像の迫力に負けてばかりはいられない。われわれ活字の人間は何を表現すべきなのか。新聞記者はいったい何を書くべきなのか。地方支局にいる彼は、2年目となり、やっと所轄担当から県警担当に上がったばかりだ。サツネタ、街ネタ、歴史、行政……地方には地方の報ずべきネタが、そこここに存在する。

私が近く月刊誌に発表する記事は、「太平洋戦争“生還者”の証言」である。地方には地方の生き残り兵士がいる。今、私たちジャーナリストが何を取材し、何を活字として後世に残すべきなのかが問われている。

そんな話を、現役バリバリの大手紙記者の教え子とできるとは嬉しく、頼もしい限りだ。しかし、こっちも“若さ”と“気迫”ではまだまだ負けないつもりだ。

日本全国、私を「待ってくれている」貴重な歴史の証言者がいる。この秋も東奔西走の毎日となりそうだ。自らの使命に忠実でありたい、と心から願う。

カテゴリ: マスコミ, 随感

歴史の“風化”に抗う老兵たち

2010.08.27

今日は横浜で硫黄島の生き残り兵士にお会いすることができた。今年90歳になる。昭和19年6月末に硫黄島に上陸し、本格的な米軍との戦闘が続いた昭和20年2月から3月にかけて、凄まじい殺戮戦の中を生き抜いた奇跡の人である。

4時間を超えても途切れることのないお話を伺いながら、私は人間の「運命」というものを考え続けた。損耗率96%という玉砕の島・硫黄島で生き残った老人の体験は、多くの示唆に富むものだった。

組織的戦闘が終わっても数か月にわたってゲリラ戦で抵抗した日本守備隊。太平洋戦争で唯一、死傷者の数が日本軍を上まわった米軍。容赦のない両軍の戦いは、65年の年月を経ても凄まじい迫力をもって私にせまって来た。

これまでお会いしてきたインパール、ガタルカナル、ルソン、レイテ、硫黄島……等々、さまざまな玉砕戦の生き残り兵士たちは、90歳を超えて、遥か年下の私に何を託そうとしてくれているのだろうか。

証言を一語一語噛みしめながら、託された側の私自身の使命というものをどうしても考えてしまう。その期待と思いに応えることができなければ、私と、私の仕事の存在意義はない。

戦後20回以上も遺骨収集のために硫黄島に通いつづけるこの老人を突き動かすのは、あの殺戮戦で斃れた戦友たちへの思いだけである。

戦後65回目の夏を迎えた2010年。歴史の風化に抗(あらが)う老兵たちの闘いは、今も着実に続いていることを思う。

カテゴリ: 歴史, 随感

なぜそこまで小沢氏は焦るのか

2010.08.26

民主党の代表選は、菅VS小沢の一騎打ちになるそうだ。参院選に惨敗した総理と、惨敗のもとになった「政治とカネ」問題の張本人の対決である。この酷暑の時期に、なんとも背中がうすら寒くなるような最高権力者の座をめぐる闘いである。

しかし、人望も見識もない小沢一郎氏がどうしてここまで党内で“支持”を得られるのか、不思議に思っている人も少なくないだろう。

なんのことはない。自民党の最大派閥・田中派で雑巾がけを若い頃、ひたすらやらされた小沢氏は、政界が「数の論理」のみで動くことを身に染みて知っている。

それは、閥務を経て身につけた唯一の財産と言っていいだろう。小沢氏が民主党の代表と幹事長を歴任する中で、候補者の公認権だけは手放さなかった理由がそこにある。常に「誰を公認するか」を自分の判断で決め、候補者に恩を売り、何でも自分の言うことをきくイエスマン(ウーマン)の新人議員を増やしていったのである。

普通の政党なら今の小沢一派がやっているような締めつけはやらないものだが、小沢一郎という政治家が持つ排他性と独裁性が一年生議員たちを震え上がらせ、反菅勢力の結集にイヤイヤながら「つながっている」のである。

私は今回、あくまで小沢氏はキングメーカーに徹し、たとえば田中真紀子をはじめ、自分が動かせるコマの中から代表選候補を絞ってくると思っていた。

しかし、自ら代表選に名乗りを上げなければならないほど焦っているのは、彼にとってそこまで忍び寄る司直の手が怖いからである。なりふり構わぬ形で最高権力者の座を奪取しようというのは、このままでは自ら「塀の中に落ちる」可能性をかなり「高い」と見ているからだろう。

言うまでもなく、今回の代表選は怨念選挙である。当然、政界再編へとつながる分裂含みの選挙となる。一年生議員も、小沢氏の強権手法にいつまでもついていくと、自分が上がってきた梯子(はしご)はいつの間にか外されていたことに気づくだろう。

確実に言えることは国民世論が「呆れ果てている」ということだ。しかし、その国民の怒りを肌で知った時は、もう「遅い」というほかない。

カテゴリ: 政治, 随感

日本人にとって「恥」とは何か

2010.08.25

戦前のアメリカの女性文化人類学者ルース・ベネディクトは、西洋の文化を「罪の文化」と称し、日本の文化を「恥の文化」と称した。そのユニークな分類の仕方の是非はともかく、日本文化を「恥」を基軸にして分析した手法は興味深い。

しかし、その「恥の文化」も現在では雲散霧消しているのかもしれない。年金欲しさに亡くなった親の遺体をそのまま葬りもせず、隠したまま年金を詐取する子供たち。無責任と恥のなさ。それが現代の日本人の特徴となってしまったのだろうか。

本日の小沢一郎氏の政治塾での講演を聞いて、その「恥」という言葉を思い浮かべたのは私だけだろうか。

元秘書3人が政治資金規正法の虚偽記載で逮捕され、検察審査会は小沢氏を「起訴相当」と判断した。政治資金が小沢名義の資産構築に費やされた疑惑や、政党助成金、すなわち国民の税金すらその資産構築にまわったという疑惑も小沢氏には存在する。

鳩山首相と小沢幹事長の政治とカネの問題は国民を呆れさせ、「参院選惨敗」の大きな要因となったのは周知の通りだ。

幹事長を辞任して、一線から去ったはずのこの夏、小沢氏は山岡賢次や松木謙公という側近を使って「出馬要請」させ、民主党の代表選に名乗りを上げるのだそうである。

国民から総スカンを食らうことが確実のこの総理候補の姿を見て、私は日本人に「恥」という概念はなくなってしまったのか、と怒りを通り越して寂しくなってしまった。ここまで日本人は劣化してしまったのか、と。

「恥を知ること」から、政治家は始めなければならない。そんなあたりまえのことすら知らない与党民主党の議員たちには、さっさと退場願いたいものだ。

恥を知れ、小沢一郎よ。

カテゴリ: 政治, 随感

最初は「冗談」かと……

2010.08.23

民主党代表選への小沢一郎氏の出馬を聞いて、最初は多くの国民が「冗談」と思ったに違いない。わずか3か月前に幹事長を辞任したばかりの、あの疑惑だらけの小沢氏が、まさか代表選に出て来ることなど想像もできなかったに違いない。

参院選での敗北の一因は、まさにこの人にあった、と言っても過言ではない。現職の国会議員を含む元秘書3人が逮捕され、その呆れ果てた資産構築の実態に、国民の間から強い非難の声が上がっていた。

その御仁を検察が「不起訴にした」ことへの不満はいまだに燻り、強制起訴がなされるかどうかの瀬戸際を迎えている。

そんな疑惑の人を「次の総理」にしようと大真面目に動いている人がいるのだから、「あんた、冗談はやめてよ」と言いたくなるのも無理はない。小沢氏の腰巾着として有名な山岡賢次・民主党副代表の一連の動きは、そこまで国民を唖然とさせている。

この期に及んでも「まだ小沢」という一連のニュースに、民主党が政党のテイを成していない、単なる烏合の衆に過ぎないことが露呈されたと言える。

人材の払底と強権政治への温床。これが、この政党の持つ宿命である。国民の期待を担えるようなレベルに、この政党はない。

小沢氏の退場だけではない。一刻も早い「民主党の退場」を願いたい。国民不在の一連の小沢出馬騒動にそう感じるのは、私だけだろうか。

カテゴリ: 政治, 随感

興南の「春夏連覇」に思う

2010.08.21

実力的には一歩上まわると見られていた興南(沖縄)が東海大相模(神奈川)を完膚なきまで打ち砕いた。島袋投手の春夏連覇は、見事というしかないものだった。

東海大相模の一二三投手の立ち上がりは素晴らしかった。ストレートはもちろん外角へのスライダーも制球がよく、内角へのシンカーも切れており、今大会で一番の出来と言えた。

しかし、逆にその調子の良さが、あるいは真っ向勝負という過信を生んだのかもしれない。4回裏に見せた興南の怒濤の攻めは一二三を一気に呑みこんだ。3番の強打・我如古は抑えにくいとしても、一二三は調子が上がっていない4番・真榮平をどう抑えられるかを私は「今日の試合のポイント」と見ていた。

一二三は、最初の打席こそ真榮平を抑えたものの、ベルト付近の球を基本に忠実にフルスイングで叩く真榮平の打棒がやがて一二三を捉えていく。我如古と真榮平の打撃がそろい踏みで火を噴いたら、もう興南打線は手がつけられない。

4回の一挙7点を皮切りに、終わってみれば13対1という大差で、興南の春夏連覇は達成された。数日前のブログでも書いた通り、興南が初めて夏の甲子園で初勝利を上げ、そのまま準決勝まで突っ走ったのは昭和43年夏の甲子園である。

しかし、ベスト4で下手投げの沈着な丸山投手を擁する大阪の興国が、準決勝で興南を14対0で圧倒し、興南の悔しい夏が終わった。その時の主将こそ、現在の興南の我喜屋監督である。

あの大会では、静岡商業の2年生投手、新浦(のちに巨人)と、沖縄の夢と期待を一身に浴びた興南の活躍が大会の華だった。

以来42年の時を経て、ついに沖縄県は悲願を達成したのである。沖縄チームの日頃のひたむきな練習とプレーぶりには定評がある。豊見城と沖縄水産で指揮をとり、沖縄を全国レベルに引き上げた故・栽弘義監督のスパルタ練習が沖縄野球の基本だ。

ここ数年を見るだけでも、大嶺、東浜、島袋……と、全国屈指の本格派投手を沖縄は生み続けている。沖縄水産が裁監督のもと、2年連続して夏の甲子園決勝に進出しながら、それでも届かなかった悲願。沖縄の野球関係者の努力と執念に改めて頭が下がる。

21世紀になって以降、かつての野球県の凋落が著しい。以前の名声に胡坐をかいて努力と工夫を怠った県は、いま新興の野球県に完全に追い落とされている。

妥協の許されない勝負の世界に“甘え”は許されない。沖縄のような切磋琢磨の環境をつくり上げることがそれぞれの県のレベルアップにつながる。沖縄の野球人が成し遂げた奇跡を今、全国の野球関係者が学ぶ時が来たのである。

カテゴリ: 野球, 随感

島袋の「気迫」が球をホップさせた

2010.08.20

145㌔、144㌔、145㌔、144㌔、144㌔。9回裏、報徳学園の最後の打者に向かった興南・島袋の気迫の投球に、甲子園はもちろん、テレビを見つめる全国のファンが息を呑んだ。

最後のストレートは、乗り移った島袋投手の気迫が球をホップさせ、その分だけ、バットは空を切った。6対5、二死三塁、一打同点の絶体絶命のピンチを島袋は三振で締めくくったのだ。

序盤で0対5という大差をつけられた興南の勝利への執念は凄まじかったが、島袋投手のそれは、もはや“鬼”と表現するしかない。2回裏に満塁から走者一掃の三塁打を打たれた島袋は、この時も146㌔のストレートを連投している。

ピンチに立った島袋は、得意のスライダー、あるいはチェンジアップを投げない。あくまでストレート勝負にこだわっている。「変化球でかわそうとして打たれ、悔いを残したくない」――島袋はそう考えているに違いない。

昨年の春と夏、甲子園の初戦で共にサヨナラ負けをした島袋は、「悔いの残る勝負だけはするまい」と心に誓っているのだろう。あの悔しい敗戦を経験した島袋君は、必ずそう思っているはずだ。

明日も凄まじい試合になるだろう。クジ運に恵まれたとはいえ、東海大相模の実力もやはり侮りがたい。総合力では興南が上まわるが、東海大相模の強打は島袋にとっても大きな脅威だ。

明日は、全国制覇に対する執念と気迫が上まわった方が勝つ。久しぶりに実力伯仲の強豪同士の決勝戦である。島袋(興南)、一二三(東海大相模)という「最後の舞台」に賭ける大投手の意地を見てみたい。

カテゴリ: 野球, 随感

興南・島袋洋奨は“伝説の大投手”になるか

2010.08.18

夏の甲子園で全国制覇を成し遂げるには、必ず絶体絶命に陥る試合がひとつはある。それを克服して初めて深紅の優勝旗を獲得できる。

これまで歴代の優勝校はそうしたドラマを経験している。春夏連覇を目指す興南にとって、私は今日こそ「その日」ではないか、と秘かに思っていた。

今日の対聖光学院戦は、2回表に島袋が痛打されて3点を先行された時点で、私のその予想はあたるかに見えた。しかし、強力な興南打線は、そんな私の予想を簡単に打ち砕いた。決して体格に恵まれているチームではないのに、興南打線の破壊力は凄まじかった。

一人一人が腰を据え、あるいはバットをしぶとくおっつけて、聖光学院が繰り出す投手陣に食らいついていった。追いつき、逆転し、突き放しても、興南打線は自分たちのスタイルを変えない。それぞれが自分のバッティングを貫き通したのだ。終わってみれば10対3という大差でベスト4進出を決めた。

私は、この打撃を見ながら、悔しい思いをした40年以上前の試合を思い出した。興南旋風が吹き荒れた昭和43年夏の甲子園だ。それは沖縄返還の4年も前のことだった。本土の強豪校とはレベルも練習試合の経験も圧倒的に劣っていた興南高校は、この年、強打と粘りのある守備力で旋風を巻き起こしながら、勝ち進んでいった。

ついにベスト4まで勝ち上がった時、日本中が判官贔屓で熱狂した。しかし、ベスト4の相手は、大阪の強豪・興国高校。丸山投手を中心とした投打にスキのなかった興国は、疲労の見える興南に「これでもか」と襲いかかり、興南は0-14という大差で敗れ去った。

まだ子供だった私は、この“大敗”が悔しくてならなかった。1点でも、2点でも興国から点をとらせてあげたかった。しかし、勝負の世界の非情さは、甲子園の判官贔屓をあざ笑うかのようだった。興国は容赦なく興南を攻めつづけたのだ。

以来42年の星霜が流れ、興南は今日、それ以来のベスト4進出を決めた。あの悔しい大敗の時の主将こそ、いま興南の指揮を執っている我喜屋優監督である。

あの時の悔しさを知るオールド高校野球ファンも少なくなっている。沖縄返還前のアメリカ統治下時代に甲子園で旋風を巻き起こした我喜屋さんが、ついにあの折の「悔しさを晴らす時」が来たのである。

エース島袋は、これまでのどの沖縄チームのエースにも負けない実力とハートを持ち合わせている。果たして、沖縄初の夏の全国制覇と、そして史上7校目の春夏連覇を果たせるか否か。伝説の大投手への道まで「あと二つ」だ。


カテゴリ: 野球, 随感

毅然と生きたかつての日本人

2010.08.15

「台湾」と「台湾海峡」は誰によって守られ、なぜ今も存在しているのか。本日、終戦記念日特集としてフジテレビで放映された「ザ・ノンフィクション」の「父は、なぜ海を渡ったのか」は、その歴史の謎に挑んだドキュメンタリー番組だった。

今から61年前の昭和24(1949)年6月、九州・延岡の海岸から小さな漁船が夜陰にまぎれて静かに離れていった。船が目指すのは、真っ黒な海原のはるか彼方にある台湾。その船には、日本陸軍の元・北支那方面軍司令官、根本博中将が乗っていた。

傍らには、「俺の骨を拾え」と言われて随行を命じられた通訳・吉村是二がいた。蒋介石率いる中国国民党と毛沢東率いる中国共産党との「国共内戦」が、まさに決着を迎えようとしていたこの時、二人は蒋介石を助けるべく密航を敢行したのである。暴風雨や座礁という数々の困難に遭遇しながら出航から2週間後、二人は台湾へ辿り着く。

根本には、終戦時、蒋介石に言葉では表せぬほどの恩義があった。昭和20年8月15日、終戦の詔勅が下された時、根本は駐蒙軍司令官として、内蒙古の張家口にいた。

天皇の終戦の詔勅、すなわち武装解除命令は、アジア各地で戦う全軍に指令され、ただちに実行に移された。満州全土を守っていた関東軍も山田乙三司令官がこの武装解除命令に応じ、そのため全満州で関東軍の庇護を失った邦人が、虐殺、レイプ、掠奪……等々、あらゆる苦難に直面することになる。

しかし、満州に隣接する内蒙古では、根本司令官による「武装解除命令には従わない。責任は私一人にある。全軍は命に代えても邦人を守り抜け」という絶対命令によって、激戦の末、4万人もの邦人が、ソ連軍の蛮行から守られ、北京、そして内地まで奇跡的な脱出・帰還に成功した。

その「4万人の脱出」が成功した時、これを戦勝国側で守ってくれたのが、蒋介石率いる国民政府軍にほかならなかった。4年後、国共内戦に敗れ、大陸から撤退し、いよいよ金門島まで追い込まれた蒋介石を助けるために根本はその時の「恩義」を返すために、「密航」を敢行したのである。

自分を助けにやってきた根本の命を捨てた行動に感激した蒋介石は、根本に「林保源」という中国名を与え、根本らは金門島に赴く。そして、林保源将軍こと根本博は次々に作戦を立案し、押し寄せる共産軍に立ち向かった――。

番組の中では、私自身が金門島でおこなった取材の一端も紹介されていた。実際の金門戦争に参加した80歳を超えた老兵たちに600枚のビラを配って情報提供を呼びかけるさまもテレビで映し出された。

映像を見ながら、炎暑の中、ひたすら取材をつづけた日々を思い出した。拙著「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」(集英社)はすでに7万部を突破している。いまこれほど、かつての決然と行動した日本人の姿が話題になるのはなぜなのか。

「義」とは何か。人間にとって「生と死」とは何か。飽食の時代である「現代」だからこそ、一人でも多くの方に毅然と生きたかつての日本人の姿を知っていただきたいと心から願う。

カテゴリ: 歴史, 随感

明日「終戦記念日」のフジTV「ザ・ノンフィクション」

2010.08.14

明日8月15日は、戦後65回目の終戦記念日である。ちょうど日曜日のこの日、フジTV「ザ・ノンフィクション」で午後2時から「父は、なぜ海を渡ったのか」が放映される。

拙著「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」(集英社)をもとにした1時間のドキュメンタリー番組である。

終戦後、武装解除命令を敢然と拒否して、押し寄せるソ連軍と激戦を展開し、内蒙古の在留邦人4万人の命を救った根本博中将。この時、邦人救出と日本への帰還を手助けしてくれた蒋介石に対する恩義を返すため、4年後、根本中将は26㌧の漁船で台湾に密航し、国共内戦に身を投じた。

殺到する中国共産軍を金門島で殲滅するまでの紆余曲折は拙著をお読みいただきたいが、台湾と台湾海峡を守ったこの根本将軍の関係者が今回、テレビカメラの前で証言し、これまで歴史に埋もれていた事実に光を充てる。

注目は、昨年10月25日、金門島・古寧頭戦役60周年の記念式典の場面だ。台湾の馬英九総統が、根本将軍と共に渡台した関係者のご子息にわざわざ声をかけにくるシーンである。

60年前、命を捨てることを厭わず、「義」に殉じようとした日本人。果たしてテレビ・ジャーナリズムがこれをどう描くのか。楽しみだ。

カテゴリ: 歴史, 随感

御巣鷹の尾根にて

2010.08.12

「あのう、門田さんじゃないでしょうか?」。降りしきる雨の中、御巣鷹の尾根へあと少しという急坂の途中で合羽を着たままベンチに座り込んでいた私に、一人の若者が声をかけてくれた。

「はい、そうです。門田です」と言うと、「やっぱりそうですか。僕の顔、わかりますか? 河原です」と、その若者はにっこり微笑んだ。

「えっ、河原先生のお孫さん?」と、思わず私は叫んでいた。若者は、事故25年を機に私が出版した「風にそよぐ墓標―父と息子の日航機墜落事故」(集英社)の第6章で取り上げさせてもらった事故の犠牲者・河原道夫さんのお孫さんだったのだ。

若者のご両親、すなわち河原道夫さんの息子さんご夫妻には、取材で大変お世話になり、感動のお話を本の中で紹介させてもらった。しかし、まさかまだ会ったことのなかったその息子さん(道夫さんから見るとお孫さん)に声をかけてもらえるなど、予想もしてなかった。

雨の中、私は頭から合羽をかぶっていたので顔はよく見えなかったはずである。それなのに「ひょっとして……」と、声をかけてくれたことに、「日本の若い人もまだまだ捨てたものじゃない」と、私はなんだか嬉しくなってしまった。

犠牲者の河原道夫さんは歯科医で、兵庫県歯科医師会の幹部だった。事故機に乗り合わせ、道夫さんの二人の息子さんも歯科医であったため、二人は遺族でありながら遺体の検視に協力するという壮烈な体験を持っている。

道夫さんのご遺体はなかなか見つからなかったが、多くの人の努力で最後にわずかに残っていた身体の一部分が発見される。凄まじいドラマは、拙著の第6章をお読みいただければ、と思う。

道夫さんの息子さん二人は、その後、この体験を生かし、兵庫県に警察歯科医会を立ち上げることに奔走し、阪神淡路大震災やJR福知山線事故の犠牲者の遺体検視にもあたった。25年経った今も、あの事故で得た教訓と体験を忘れずに、貢献をつづけているのである。

御巣鷹の尾根から降りて、私は上野村の「慰霊の園」から、ニッポン放送に電話出演した。さっきまで降っていた雨が嘘のように晴れ上がっていた。犠牲者の河原道夫さんのお孫さんから声をかけてもらったことを、ラジオで話をさせてもらった。パーソナリティの上柳昌彦さんもびっくりしていた。

夜、若者のご両親からメールをいただいた。そこには、「25年間、父からの使命のようにボランティアで警察医の仕事に従事してきたことが門田さんのこの本により苦労が報われました」とあった。

この本を書かせてもらってよかった、と思った。黙々と社会のために貢献する人の活動と思いを紹介させてもらえただけでもよかった、と。ジャーナリスト冥利に尽きる、としみじみ感じた一日だった。

カテゴリ: 事件, 随感

明日、御巣鷹山へ

2010.08.11

明日、いよいよ御巣鷹山事故25年を迎える。今日も上野村を流れる神流川(かんながわ)では、遺族たちによる灯籠流しがおこなわれた。

四半世紀にわたるご遺族の苦しみと闘いは筆舌に尽くしがたいものだったが、それぞれが自分たちの思いを込めて愛する人の灯篭を黙々と川に流した。

本日(11日付)の朝日新聞朝刊の第二社会面のコラム「五線譜」に「父と息子と御巣鷹の尾根」と題して、私のことが取り上げられた。

25年前、雑誌記者として入社3年目の私が、「炎暑の中、忌中の札が張られた家々を回っていた。来る日も来る日も」と、そのコラムは始まっていた。

私が、なぜ「父と息子」の観点で「風にそよぐ墓標」(集英社)を書こうとしたかもこの短いコラムで触れられていた。その上、本に登場する“息子たち”が、どんな苦労をしたのかもしっかり書かれていた。名人芸とも言えるコラムである。

あの事故の時、20代だった私が50代になってしまったのだから、四半世紀という歳月はやはり長い。父を失った息子たちの25年がいかに壮絶なものだったかは、本を是非読んでいただきたいと思う。

生きたくても生きられなかった犠牲者たちと、残された家族たちの不屈の物語――生きる勇気と気力を思い出されてくれる男たちの告白に一人でも多くの方に耳を傾けて欲しいと願う。

明日25年目の当日、私も御巣鷹山に慰霊登山をさせてもらうつもりだ。今年3度目の慰霊登山である。台風が心配だが、なんとか登山ができる天候であって欲しいと思う。

あの御巣鷹の尾根は、事故から四半世紀の日にどんな表情を私に見せてくれるのだろうか。

カテゴリ: 事件, 随感

甲子園と御巣鷹山

2010.08.09

ここまで成長できるのか。大会3日目、今日の早稲田実業の鈴木健介投手には、そんな思いにさせられた。身長は173センチで投手として決して大きくはない。そして特別に球が速いわけではない。

しかし、西東京大会決勝戦の日大鶴ケ丘戦、今日の倉敷商業戦と連続完封の鈴木投手の成長には目を見張るばかりだ。

今日は日大鶴ケ丘戦ほど得意のチェンジアップが狙ったところにいってなかったが、それでも倉敷商業に狙い球をまるで絞らせなかった。

私は、鈴木君が日大鶴ケ丘戦で見せた左バッターの外角にゆらゆら揺れながら外へ向かって落ちていくチェンジアップは“魔球”だと思う。そう呼ばせてもらうに足る威力を持っている。それほど鈴木君のチェンジアップは絶妙なのだ。

130㌔台の速球は、決して出場チームのエースの中で目立ったものではない。昨年春、背番号9をつけ、同期のエース小野田俊介君の後塵を拝していた鈴木君とはひと味もふた味も違った成長の姿だった。

次の対戦相手は、昨夏の覇者・中京大中京である。あの絶妙のチェンジアップが思ったところに落ちなければ、勝利は難しいだろう。古豪同士の勝負の行方は今から待ち遠しい。

ところで、新刊の拙著「風にそよぐ墓標―父と息子の日航機墜落事故」(集英社)が全国の書店の店頭に並んだ。私のもとにぞくぞくと感想が寄せられている。「涙なくしては読めない」「一気に読ませてもらった」という感想がほとんどだ。

私は、遺族の苦悩が忘れ去られた時、あの事故の教訓は消え去る、と思っている。あの悲劇を風化させてはならないと心から思う。これまで表には出て来なかった「父と息子」の物語に、是非、思いを馳せて欲しいと願う。

25年前の夏、甲子園に出場した東農大ニ高の選手の父があの事故で亡くなっている。あの夏の風景は、異常な暑さと共に私の脳裏に今も鮮明に残っている。

カテゴリ: 野球, 随感

いよいよ始まる甲子園

2010.08.05

いよいよ夏の甲子園が始まる。待ちに待った開幕である。選抜の優勝校・興南を筆頭に、2年連続優勝を目指す中京大中京、クジ運に恵まれた東海大相模、激戦区・大阪を制した履正社、斎藤佑樹以来の全国制覇を目指す早稲田実、四国の強豪・明徳義塾、好投手・中川を擁する成田……など、注目校が目白押しだ。

昨年の中京大中京と日大文理との決勝戦はネット裏で見たが、9回裏の異様な甲子園の雰囲気が忘れられない。すり鉢状のあの甲子園が、ワッショイワッショイとひとつになった時、その雰囲気に抗(あらが)うことはとても無理だ。

なにより審判が雰囲気に呑まれてしまう。異様な熱気に審判のジャッジが加わり、もはやドラマの主役は観客がアト押しする側になってしまうのである。

たった一つのアウトをとるまでに、中京が大量失点を重ねた昨年の9回裏は、今後も長く甲子園に語り継がれるだろう。

今年は、まず春の覇者、興南の島袋投手が、四国勢の挑戦を受ける。島袋がどんな快投乱麻のピッチングを見せ、それに相手がどう食らいついていくか。今から楽しみだ。

カテゴリ: 野球, 随感

試練に満ちた「人生」に挑む不屈の闘志

2010.08.04

拙著「風にそよぐ墓標―父と息子の日航機墜落事故」(集英社)が本日から都内の書店に並び始めた。どの書店でもいいところに置いてくれている。4月に出した「この命、義に捧ぐ」と共に、話題の書のコーナーで目立っていた。

するとさっそく午後、出版社から「1万部増刷」の報が入った。まだ書店に並び始めた段階で、もう重版とは嬉しいかぎりだ。初版が1万5000部だったので、早くも2万5000部となった。

「この命、義に捧ぐ」は現在、累計7万部を突破しているが、そのペースを上まわっている。読者の反響の大きさが窺える。

夕方頃から、本を読んだ知り合いから早くも感想が入り始めた。「これほど泣いた本は初めて」「一気に読んだ」と最高のお褒めの言葉をいただいた。

私の作品は、取材を「徹底する」ことで初めて成り立っている。シーン(場面)を客観描写できるまで取材するのである。そのために自分が納得するまで資料をあたったり、人に話を聞いたりする。その上で「風景」を描写するのである。

それは心象風景であったり、実際の風景であったりする。緻密な取材ができなければ、描写は不可能だ。今回の「風にそよぐ墓標―父と息子の日航機墜落事故」は、哀しみにこらえて四半世紀前の子どもたち、すなわち今は“父親”となったかつての子どもたちが私の取材に長時間つき合ってくれた。

25年前に極限の哀しみを経験した男たちは、人間的にも素晴らしい人たちばかりだった。この作品は、たしかに読むと涙が止まらなくなるかもしれない。しかし同時に、私は、これほど「生きる勇気」を感じてもらえる作品は少ないと思っている。

生きたくても生きられなかった犠牲者と、その息子たちの姿を描きながら、人生に対峙する勇気を私自身が取材の過程で感じさせてもらった。男たちが事故から25年経って語ってくれたのは、試練に満ちた「人生」というものに挑む不屈の闘志の大切さにほかならなかった。

カテゴリ: 事件, 随感

太平洋戦争“生還者”の証言

2010.08.03

北海道へ出張に行き、昨夜帰ってきた。札幌に行く機会があれば、是非、お会いしたいと思っていた人とも会うことができた。

今年92歳になるガタルカナル島の生き残りである。昭和17年8月から翌年2月にかけて、ソロモン諸島のガタルカナル島で繰り広げられた死闘は凄まじい。ガ島ならぬ“餓島”、あるいは“日本陸軍の墓場”とまで呼ばれることになった地獄の島での戦いである。

札幌でお会いすることができたのは、ほぼ全滅に近い状態となった一木支隊(歩兵第28連隊)の生き残りだ。旭川の第七師団を昭和17年5月に出発して、翌年7月に帰還するまでの1年2か月の経験を4時間近く伺うことができた。

飢餓とマラリア、そして米軍との戦闘で戦友が次々と斃れていく中、この人はなぜ助かったのか。多くの戦友の中でたった一人、生還したこの人物の証言は重く、示唆深いものだった。

高齢となった多くの元兵士たち。太平洋戦争“生還者”の貴重な証言の数々は、近くお届けできると思う。

それにしても北海道はやはり涼しい。都市熱で、夏はとても人間の住む場所ではなくなった東京にいると、北海道が羨ましい。喘ぐような暑さの東京に戻ってきて、また原稿用紙に向かう日々がつづく。夏の東京は、根気と体力との勝負である。

カテゴリ: 歴史, 随感

最新のエントリー

カテゴリー

アーカイブ