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明日から海外取材へ

2010.11.29

明日(30日)から訪米する。次作のノンフィクション作品の“詰め”の取材だ。行き先は、ミシシッピ州とカリフォルニア州である。

ある日系2世が今回のノンフィクション作品の主役だ。昭和20年4月に亡くなった零戦パイロットである。その人物の親族が今もアメリカに生きている。親族の口からどんな秘話が飛び出すか、今から楽しみだ。

いつも取材で感じることだが、毅然と生きた人物の足跡を辿るのは楽しい。きっと取材させてもらう側の私自身が「勇気が湧いてくる」からに違いない。

その私自身の感動が読者への感動につながっていくのだと思う。今回も是非、取材を成功させてきたいと思う。

黄海での米韓合同軍事演習で、東アジアは緊迫の度を加えている。こんな時期に日本を離れていいのか、という思いもある。

しばらくアメリカから東アジアの様子を注視することにする。

カテゴリ: 随感

龍馬を演じた「二人」の名優

2010.11.28

「龍馬伝」が今日で終わった。大業を成し遂げた坂本龍馬(福山雅治)が、盟友中岡慎太郎(上川隆也)と共に京都の近江屋で暗殺されるシーンである。それは、明治政府がスタートする「わずか2ヶ月前」のことだった。

私は、今日の最終回を観ながら、前回の昭和43年の大河ドラマ「竜馬がゆく」の最終回を思い出していた。まだ小学生だった私は、土佐の出身ということもあって家族全員で1年間1回も欠かさずこの大河ドラマ(演出・和田勉)を観た。

最終回を前に、いよいよ北大路欣也が演じる龍馬が暗殺される日が近づいてきたかと思うと、高知県人のわが家族は、だんだん最終回を観るのがつらくなっていった。しかし、「その日」はとうとうやって来た。

北大路“龍馬”が暗殺者に斬られ、「慎太郎、俺はもう駄目だ。脳をやられた」と、頭に手をあて、斬られた頭から脳漿が出ていることを確認する場面のリアルさは、子供ながらに息を呑んだものだ。

実は、龍馬暗殺のシーンは、中岡慎太郎が絶命するまでに詳しく証言を残しているので、ほぼ正確にその模様が現代まで伝わっている。今日の福山“龍馬”は、敢えて史実通りではない斬られ方だったと言える。

しかし、福山雅治も北大路欣也に劣らない名優になったと思う。今年の大河ドラマの前半、青臭い頃の龍馬を演じた福山雅治は、土佐弁もしっくり来ず、龍馬そのものを掴み切れていないようで「このままで大丈夫か」と思わせる演技の連続だった。

しかし、力強さを増していく龍馬を演じるようになった今年後半の福山は、押しも押されもしない「名優」へと成長していった。

龍馬は、人を包み込むような優しさと迫力、そして誰にも負けない説得力を持つ男だった。一介の脱藩浪士に過ぎない龍馬は、その天性の資質を駆使して、次々と大事を成し遂げて行くが、福山は、その本来の龍馬が持つ魅力を十二分に表現していた。

夏以降、放映された福山“龍馬”は、もはや誰も文句をつけられないものだった。いや誰もが「圧倒されて」その演技に見入ったのではないか。

日本の封建社会を終わらせ、近代国家の厚い扉をこじ開けた龍馬が駆け足でその波乱の生涯を閉じたのは、1867年12月10日のことである。

折しも今、東アジアは、“無法国家の台頭”に頭を悩ませている。一方、日本は、国の舵取りさえできないような頼りない“国家の領袖”を抱えて、相変わらず迷走が続いている。

今こそ龍馬のような大局観のある人物に出て来て欲しい、と国民の誰もが願っている。しかし、与野党を問わず、そういう資質のある政治家は一人として思い浮かばない。これこそ日本の不幸ではないだろうか。

カテゴリ: テレビ

裁判員裁判「初」の少年への死刑判決

2010.11.25

筆舌に尽くしがたい残虐性と悪質性だった。本日、裁判員裁判で石巻の18歳少年に下った死刑判決には説得力があった。裁判員たちは、18歳という年齢が「死刑を回避する理由にはならない」と判断したのである。

2008年4月、光市母子殺害事件の差し戻し控訴審判決で、それまでの「犯行時の年齢」を絶対視する傾向が変わり、“最初から結論が決まっている”という形骸化した刑事裁判の審理は過去のものになりつつある。

少年は今年2月、仲間を連れて元交際相手の18歳少女の実家に押し入り、少女の姉と知人の女子高生を刃渡り18センチの牛刀で刺し殺し、また、その場にいた少女の姉の知人男性も刺して大けがを負わせた。

犯行の残忍性や冷酷さ、容赦のなさは、「少年の犯罪性向の強さ」を物語っている。今回の裁判員たちは、少年の反省の言葉の“深みのなさ”まで徹底的に議論し、少年の更生の可能性を否定したのである。

国民が、一生に一度という裁判員としての役割を果たし、そもそもの制度の主旨である“健全な社会常識”を毅然として示した結果と見ていいのではないだろうか。私は、裁判員たちが下した判断に敬意を表したいと思う。

過去の判例だけに縛られ、判決を“相場”でしか考えられなかった日本の官僚裁判官。ここのところ裁判員裁判で死刑をめぐる難しい判断がつづいているが、私は裁判員がそれぞれの役割を立派に果たしていることに感慨を覚える。

2001年6月の司法制度改革審議会の最終意見書で提言された「裁判の内容に国民の健全な社会常識を生かす」という“目的”が着実に達成されつつあるのだ。官僚裁判官だけが法廷のすべてを牛耳っていた時代とは違う“正義”が、国民の手によって築き上げられている。

司法は確実に変貌を遂げている。本日、「判決に対するコメントが欲しい」と読売新聞から連絡が入り、私なりの感想を述べさせてもらった。

記者会見に臨んだ今日の裁判員もそうだが、日本国民の知的水準と健全なる社会常識は立派に裁判員の職務に応えられるレベルにあることを証明してくれた、と私は思っている。

カテゴリ: 司法

世界が抱えた「キム・ジョンウン」という“大爆弾”

2010.11.23

今日は、TBSの「Nスタ」に出演する直前、韓国の延坪(ヨンピョン)島に北朝鮮から砲撃があり、数十発が着弾、多くの民家が炎上しているというニュースが飛び込んできた。

スタジオ入りしたら、超弩級のニュースに事前の番組内容が吹っ飛び、騒然としていた。北朝鮮問題の専門家がスタジオ入りするなど、普段のNスタとはまるで異なるピリピリした雰囲気だった。

ニュース映像や専門家の話が続いたため、私がコメントする時間は極めて短くなってしまったが、私は北朝鮮の後継者に決まった「キム・ジョンウン」の正体が「早くも明らかになった」ことに衝撃を覚えていた。

「東アジア、いや世界は大変な“爆弾”を抱えてしまった」――それが正直な感想だった。日本人拉致事件やラングーン事件、大韓航空機爆破事件を引き起こした若き日の父・金正日同様、「キム・ジョンウン」という27歳の後継者が、「何をやるかわからない」「常識が通じない」「簡単に“一線”を越えてしまう」という危険人物であることが全世界に明らかになったのだ。

金王朝が倒れない限り、日本はこの若者とこれから何十年と“つき合って”いかなければならないのである。

“軍事の天才”というフレコミで一気に金正日に次ぐナンバー2にのし上がった彼が、これから何十年もの間、日本に向けてミサイルの発射ボタンを押さない保証はどこにもない。いや「いつかは押すに違いない」と思う。

しかも、日本への敵意を剥き出しにする中国が「北朝鮮の背後にいること」も厄介だ。日本と日本人にとって、この「TVゲーム」と「戦争」が大好きな若者が“全権”を持つ体制が「存続していく」ことがいかに危険かを認識しなければならないのである。

延坪島の民家が炎上する映像を見ながら、日本だけにとどまらず、東アジア全体にとって極めて危険な人物を「抱え込んでしまった」意味を、私はずっと考えていた。

カテゴリ: 北朝鮮

“大義”につく外交官との別れ

2010.11.22

今日は、台湾の外交官・朱文清氏の送別会があり、港区白金台の台湾の駐日経済文化代表処の代表公邸に夕方から行ってきた。

会場には、日本の大手新聞・通信・テレビなどの中国・台湾関係の記者たちが勢揃いした感があった。朱文清氏の人柄と手腕がいかに大きなものであったかが窺える光景だった。

1983年に最初に日本にやって来た朱氏は、その後、本国との間を行ったり来たりしながら、日本駐在は20年近くに及ぶ。在東京の外交官の間でも有名な存在だ。

会場では、私は旧知の元特派員たちと久しぶりに再会を果たすことができた。時間が経つのを忘れて、さまざまな記者と話し合えた。

私はこれまで、山本七平賞の受賞作となった「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」(集英社)をはじめ、数々の困難なノンフィクション作品で朱氏の多大な協力を得てきた。

朱氏がジャーナリストの間で人気がある秘密は、時に立場さえ越えて“大義”についてくれる点である。どの国の外交官も「利害だけで動く」人は多いが、複雑な日・台・中の関係の中で、朱氏の行動には、常に“大義”があった。

短期的な視点ではなく、いつもジャーナリスト側の視点を思いやり、その立場に立ち、そしてできるだけのことをしてくれる外交官。それが朱文清氏である。

朱氏の帰国によって、駐日代表処の戦力低下は否めないだろう。日本の生命線とも言える台湾と台湾海峡への日本国民の意識をどう高めていくか。代表処の役割は、これからますます重くなる。

会場に集まった日本の中国・台湾関係の記者たちを見ながら、日・台・中がこれからどう動いていくのか、その行く末に私は思いを馳せた。


カテゴリ: 国際

政界再編へ動き出した永田町

2010.11.20

いよいよ菅政権崩壊のカウントダウンが始まった。“国会軽視”発言の柳田稔法相が、野党による参院での問責決議案提出前に「更迭」されることが決まったと報道されている。

国民は、あまりの政権のダッチロール状態に呆れ、怒り、溜息を漏らしている。内閣支持率が10パーセント台に落ちるのは、時間の問題だ。

しかし、多くの国民は更迭されるべきは「菅総理」自身と「仙谷官房長官」と思っている。すべてを仙谷氏に“丸投げ”し、しらじらしい発言だけを繰り返す情けない国家の領袖の姿に、「菅さんって、こんな人だったの?」というのが多くの国民の偽らざる本音なのである。

ひたすら中国のご機嫌を窺う卑屈な姿勢を続ける菅総理の姿を見て、「いつから日本はこんな国になってしまったのか」と、多くの心ある国民が憂いている。

中国では、国内の人権弾圧は苛烈を極め、投獄されている民主活動家・劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞しても、そのニュースを報じる放送は一切「封殺」された。そして親族も含め、関係者は出国が許されず、そのためノーベル平和賞の授与もできず、後日、本人に渡されるのだという。

そんな独裁国家に民主国家である日本がなぜここまで卑屈な態度を取り続けなければならないのか、その理由は何なのか、誰もが疑問に思うだろう。

菅政権は、鳩山前政権の崩壊を受け、“反小沢”という姿勢のみを国民に支持され、発足した政権だ。つまり、党内の最大派閥、小沢グループに距離を置くことのみが「国民に支持され」て、政権発足時(6月)も、そして民主党代表選を経た第2次菅内閣の発足当初(9月)も、内閣支持率は、上々だった。

だが、小沢氏の姿が消え、その“反小沢”という姿勢が見えにくくなると、この軸のない政権は、国民の失望を急速に膨らませていった。

次々と失態を繰り返し、法治国家であることを自ら放棄する中国人船長の“超法規”的釈放や、その真実を記録したビデオを国民の前から隠蔽した。

中国では、「いずれ日本は中国の一部となる。名前は“東海省”だ」と、日本が将来、中国の24番目の省となることが平然と語られている。

弁護士仲間だった自民党の丸山和也議員が国会質問で暴露したように、仙谷氏が「日本はとっくに(中国の)“属国化”している」と発言したというのも、すでに日本の中国への従属が既成事実化しつつあることを示している。

ここまで国民の失望感が深まると、菅政権が「求心力を持つ」ことは至難の業だ。政権にすり寄って来ていた公明党が、内閣支持率の急速な悪化を見て、また“反菅政権”の姿勢に転じたことも大きい。

予算や法案が参院で成立しないことで、政権は立ち行かなくなる。党内からいつ「菅総理は退任を」という声が噴き上がるか。

その時、党内の権力抗争は再燃する。小沢グループを中心に不平不満の“マグマ”が一気に噴出してくるのである。言うまでもなく、それは党内だけの抗争では終わらない。

すでに永田町では、来たるべき政界再編に向けて政治家たちが党派を越えて極秘の会合を持っている。あっちもこっちも、そんな会合で真っ盛りだ。長年、永田町を歩いている私は“政変”、あるいはそれを超える“大激変”が起こる直前の独特の「空気」を感じる。永田町全体がソワソワしてきたのだ。

しかし、菅総理が「座して死を待つ」とは限らない。どうせ政権から引きずり降ろされるなら、その前に「解散・総選挙」に打って出て国民の信を問う可能性があるのだ。いま永田町に急速に流れている“やぶれかぶれ解散”説の根拠がそこにある。

解散・総選挙となれば、民主党の惨敗は避けられない。小選挙区制は恐ろしい。1993年のカナダの下院選で政府与党の保守党は169議席からわずか2議席となり、時のキム・キャンベル首相も落選するという歴史的惨敗を喫した。

菅総理を攻める側の小沢チルドレンの中で、選挙を経て“生き残れる”議員はほとんど皆無と言っていいだろう。そこに「菅総理をどこまで追い込めばいいのか」という小沢グループのジレンマが存在する。

議員たちの思惑と打算で、永田町に息が詰まるような空気が渦巻いている。いずれにしても、政権崩壊のカウントダウンは「政界再編」の狼煙(のろし)であることは間違いない。

いよいよ永田町から目が離せなくなってきた。

カテゴリ: 政治

「山本七平賞」受賞パーティー

2010.11.17

昨日(16日)は、帝国ホテルで「第19回山本七平賞」の受賞パーティーがあった。集英社から今年4月に上梓した拙著「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」が受賞作だった。

会場には、取材でお世話になった方や出版関係者に多数来ていただいた。選考委員の山折哲雄先生、ジャーナリストとして大先輩の櫻井よしこさん、第七代台湾総督・明石元二郎の孫にあたる明石元紹さんにスピーチをいただいた。乾杯のご発声は、渡部昇一上智大名誉教授だ。

私が表現しようとする“毅然とした日本人像”について心のこもったスピーチがつづき、胸を熱くした。根本博・元陸軍中将の死去から今年で44年。根本将軍が命をかけて戦った金門島の古寧頭戦役からも、61年という気の遠くなるような歳月が経つ。

時間の壁、国境の壁、人種の壁……ノンフィクション作品の成立までには“大きな壁”がいつも立ちはだかってくる。

しかし、埋もれた“真実”を掘り起こすことのできる喜びは何ものにも代えがたい。それはジャーナリストに特有の感情に違いない。

来年、最低でも「3作」のノンフィクションを上梓することを私はスピーチで話させてもらった。一度口に出した以上は守らなければならない。明日からまた精力的な取材の日々に入る。月末からのアメリカ取材で、次作の材料をどこまで集められるか、私にとっては早くも正念場だ。

カテゴリ: 歴史

尖閣ビデオ問題とNHK「龍馬伝」

2010.11.15

今、尖閣ビデオ問題の海保職員(43)が「逮捕されない」ことが決まったというニュースが流れている。

土壇場で「木の葉が沈んで石が浮く」本末転倒の事態は回避されたのである。当ブログでも散々書いて来たので繰り返さないが、本来の「法」というものが持つ「意味」や「軽重」をまったく考慮しないマスコミ報道が溢れる中、海保職員の逮捕という“最悪の事態”だけは免れたことになる。

この海保職員の逮捕を防いだのは、ほかならぬ「国民」である。

各種の世論調査で、ビデオは「公開されるべきだった」と答えた人が8割を超え、政府と捜査当局を驚愕させた。つまり、主権者たる国民が当該の海保職員の逮捕を「回避させた」のだ。

今回の事柄は、マスコミに存在する“いつも通り”の問題点を浮き彫りにした。法律家の意見ばかりをもとに、各メディアは、国家公務員の守秘義務違反に「該当するか」「該当しないか」を連日報じつづけた。

そこには、「法」の持つ意味と軽重をまったく考慮に入れない素人集団としてのマスコミが陥りやすいワナがある。

カネの見返りに敵国に機密情報を漏洩させる国家公務員の事件と、今回のようなビデオ流出騒動との根本的な「差」が、マスコミには「比較・検討」ができないのである。

犯罪性が高く、悪意があるスパイ行為のような機密漏洩の犯罪は、守秘義務違反で摘発され、当事者の身柄は拘束される。そして、国民がその“犯罪”に対して怒ることはあっても、逮捕という捜査当局の“判断”に怒りが巻き起こった例を、私は寡聞にして知らない。

そこに、本来の国家公務員法の守秘義務規定が持つ意味がある。この法は、国家公務員の行動をがんじがらめにして、国民の「知る権利」を阻害するのが目的の法律ではなく、本来、秘匿しなければならない「国家機密を守る」ための法律なのである。

しかし、各メディアはこぞって法律家の見解をもとに、国家公務員の守秘義務規定にどう違反するのかを報じ、この海保職員の逮捕が当然という報道を繰り返した。法の持つ意味と軽重を考慮にまったく入れないのである。

「これは、(海保職員が)逮捕されるほどの“犯罪”なのでしょうか?」。国民の疑問を素直に表現するとそうなるだろう。国民は、今回の事件をあたかも殺人事件や詐欺事件といった重大犯罪同様に扱うメディアに呆れ、そして世論調査で「ビデオは公開すべきだった」「海保職員に寛大な処置を」という声が圧倒的多数を占めたのである。

私は海保職員が今回やった行為を奨励するつもりはないが、「この行為で逮捕するのはおかしい」という国民の素朴な感情には同調する。少なくとも「法」というものを“要件事実”のみでしか捉えられない法律家の考えに支配されたメディアより、よほど国民の方がコトの本質をわかっていたと思う。

折しも昨日、佳境を迎えたNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が大政奉還の建白書をめぐる山内容堂と坂本龍馬、後藤象二郎の姿を描いていた。

建白書を書くように直訴し、「幕府も藩もなくなる世、つまり武士という身分さえもなくなる世の中」が来ることを語る龍馬に、容堂は「武士も大名もなくなった世に、いったい何が残るがじゃ?」と問いただす。

その時、龍馬から出た言葉は、「日本人です」というものだった。「異国と堂々と渡り合える“日本人”が残るがです」と。涙を流しながらそう語る龍馬に、容堂は圧倒され、「建白書」を書くことを決断する。

翌朝、「(わしが)武士の世を終わらせるかえ?」と後藤象二郎に向かって語りかける容堂の目には万感が籠もっていた。大河ドラマ渾身の場面である。

私は、「異国と堂々と渡り合える“日本人”が残るがです」と語る龍馬の言葉を聞きながら、堂々と渡り合うどころか、ひたすら彼(か)の国に阿(おもね)るどこかの政府首脳の誇りなき姿を思い浮かべた。

カテゴリ: テレビ, 事件

大正世代の「日本の若者」が成し遂げたもの

2010.11.13

今日は招待状をいただいたので、新宿に映画を観に行った。ドキュメンタリー映画「442 日系部隊アメリカ史上最強の陸軍」(すずきじゅんいち監督)である。

今月末からアメリカへ太平洋戦争時の日系人の取材に行く予定の私にとっては、どうしても「観ておかなければならない」ものだった。

作品は、予想以上の出来栄えだった。すずき監督の前作で、戦争時、日系収容所で写真を撮り続けた写真家・東洋宮武を描いた「東洋宮武が覗いた時代」より感動と説得力が遥かに増したドキュメンタリー映画と言える。

ヨーロッパ戦線で闘い抜き、その勇猛果敢さでアメリカ陸軍史上最強の部隊とも称されるようになった日系人部隊「第442連隊」。敵と戦うだけでなく、アメリカ国内の日系人に対する偏見とも戦った同部隊の凄まじい活躍ぶりは、これまで幾度も報じられてきた。

しかし、この作品は60有余年の歳月を経て、改めて当事者の直接証言を集め、真っ正面から442部隊の戦いぶりと苦悩を描き出した。

ドキュメンタリーの中には多くの驚きがあった。アメリカ陸軍史上“10大激闘”と呼ばれる442部隊によるテキサス大隊の救出劇。北フランスでドイツ軍に包囲されて孤立したテキサス大隊217人を救出した442部隊は、救出者の4倍近い814人の死傷者を出した。

アメリカのほかの部隊がどうしても救出を成功させられなかったこの戦いで、なぜ442部隊は勝利したのか。山の上から攻撃してくるドイツ軍に442部隊は“バンザイ突撃”を敢行して、ついに敵中を突破、テキサス大隊の救出を果たしている。

その後も数々の武勲を上げる同部隊の戦いぶりを映像で見ながら、私はこの1年、文藝春秋の連載「九十歳の兵士たち」で、全国各地でお会いした40人を超える日本軍の元兵士たちを思い浮かべた。

彼ら大正生まれの日本男児の闘志と勇気は、海を越えた日系2世もまったく同じだった。太平洋戦線での玉砕戦で、日本軍は“バンザイ突撃”を何度も繰り返している。しかし、それがなんと遠く離れたヨーロッパ戦線でもおこなわれていたのである。

アメリカで育った日系2世とはいえ、それは、明治生まれの両親(日系1世)を持ち、日本人が持つ「恥」と「誇り」そして「名誉」の意識を「身につけていた」からではなかったかと思う。

442部隊と戦ったドイツ兵が、その勇猛ぶりにいかに驚愕したかは想像にかたくない。撃っても撃っても突撃してくる442部隊によって、ついにドイツ軍の側が撤退を余儀なくされ、包囲されていた米テキサス大隊は“解放”されたのである。

今もフランス戦線で死んだ米軍兵士たちの現地の墓がアメリカ政府によってきれいに管理され、その名誉が守られているシーンもまた感動的だった。

劇場で売られていた映画のパンフレットに評論家の日下公人氏が、「二十世紀における世界最大の事件は、日本人が白人の人種差別に単独で挑戦し、しかも勝ったことだが、それを現在の日本人は気がついていない」と書いていた。

また、同氏はこんな歴史的な事実をさらりと披露している。「その勝利のおかげで、アメリカには、戦後、公民権法ができた。いわば、リンカーンにつづく、二度目の黒人解放である。また、男女同権や少数民族保護が実現した。さらに世界には、有色人種の独立国がたくさん誕生した」と。

大正世代の日本の若者と日系青年たち。過去に対して多面的に光を当てなおしたら、つまり彼らの足跡を淡々と追うだけで、新たな歴史の相貌が見えてくる気がする。

カテゴリ: 歴史

海保職員の“心の葛藤”と政治家の“不当行為”

2010.11.12

任意の捜査が始まって丸二日が経つというのに、映像を流出させたと名乗り出た海保職員(43)が逮捕されない。判断は週明けになるのだそうだ。

それは「任意」という言葉が持つ常識の聴取時間を超えた長さになっている。だが、海保職員は「捜査に協力する」という信念のもと、捜査当局の聴取に応じている。

私は、本来、「犯罪者」にされてはいけない人物が毅然として同じ国家公務員の仕事(聴取)に協力する姿にある種の感慨を覚える。

この海保職員が大きな心の葛藤を乗り越えて覚悟の投稿をおこなったことは、本人を取材したテレビ局の記者に残された自筆メモや、聴取で本人が語ったこととして報道されている内容からも窺える。

そこには、事件情報とは「公共情報」であり、特に国民の生命・財産や領土・領海などの、主権者国民に直接かかわる高度な「公共情報」は、正当な理由がない限り、「隠蔽は許されない」という根本の理念がある。

国家公務員が「時の権力者」に対してではなく、本来の「国民」に対しての奉仕者であろうとすればするほど、多くの海保職員たちは菅政権の隠蔽方針に対して悩みに悩んだことだろう。

しかし、守秘義務規定に違反する恐れがある行為に踏み出す勇気は、なかなか出ない。家族が路頭に迷うかもしれないとなれば、なおさらだ。海保職員が今回の行為を実行するまでに相当な覚悟を要したことは想像にかたくない。

一方、正当な理由なく「知る権利」を有する国民から今回のビデオのような公共情報を隠蔽することは、権力者の「不当行為」に当たることを忘れてはならない。

これは、菅政権によって映像隠蔽がおこなわれて以降、「何が起こったのか」を考えればわかりやすい。

釈放された中国人船長は中国で「英雄」となり、中国全土で反日デモが巻き起こり、逆に日本人の中国ツアーは続々と中止に追い込まれ、日本人が中国国内の町を歩くことさえ「危険性を伴う」ようになった。

事実、開幕したアジア大会でも、中国vs日本のサッカー対決は、異常な厳戒態勢の中でおこなわれ、日本人サポーターが身辺の危険を感じる様相を呈した。

つまり、政府の「本来は公開されるべき公共情報の隠蔽」により、日本国民の生命と安全が危機に瀕することになったのである。

日本の領土領海の最前線で命を張ってきた海保職員たちが、「早く国民に真実を知ってもらわなければ……」と焦りを覚えたとしても不思議ではない。

要するに、当該の海保職員は、菅政権の「ビデオ隠蔽」という不正・不当性を内部告発した“公益通報者”にほかならないのである。

これまでも当ブログで書いて来た通り、4年前に施行された「公益通報者保護法」は、自分が所属する組織の犯罪、あるいは不当行為、もしくは不正を告発する者を保護する法律である。

専門家が、「今回の海保職員は組織や上司の“犯罪”を公益通報して告発したわけではないから同法の適用を受けられない」と解説する向きが少なくない。

しかし、公益通報の対象を「犯罪」だけに限定することは法の趣旨に反し、「不正」「不当行為」に対して公益情報を通報することを同法は包括しており、なにより、今回のことは、憲法に謳われた国民の知る権利に応えた“極めて高度な”公共情報の「通報」だったことを忘れてはならない。

法にはその優先度に応じて順位がある。憲法と法律が矛盾する場合は、言うまでもなく憲法が優先される。

国家公務員法の守秘義務規定を“絶対視”するマスコミ報道が繰り返される中、国の最高法規がないがしろにされ、民主主義の根幹である「国民の知る権利」を軽んじる風潮が醸成されている現状に、私は危機感を覚えずにはいられない。

逆に、海保職員ならば大多数が見ることのできた映像を菅政権は「国家機密」と称し、国会で議員相手に公開したあとでも「機密である」と言いつづけている。

中国人船長が起訴され、仮に刑事裁判となっていた場合は、「訴訟証拠として使う」という隠蔽「理由」も存在したかもしれない。しかし、肝心の船長の釈放によりそれも雲散霧消し、あるいは中国との“外交カード”にするつもりだったという隠蔽「理由」も、国会での議員相手の公開や、「ビデオはまだ見ていない」という菅総理自身の国会答弁によって崩れ去った。

もし「外交カードにする意思」があれば、菅総理が「ビデオを見ていない」などということはあり得ず、その国会答弁は外交カードになど、菅総理はハナからするつもりのなかったことを物語っている。彼らがやっていることは、日本の外交カードどころか、隠蔽によって中国への“利敵行為”をおこなっていると非難されても仕方がないことなのである。

仮に当該の海保職員が逮捕に至るなら、それは日本の国内法を犯した中国人が無罪放免された一方、「本来、犯罪者となるはずのなかった日本国民」が刑事責任を追及されることになる。ここで重要なのは、菅政権の主権者国民に対する“不正・不当行為”によって「犯罪者が生み出された」ことにある。

国民の知る権利を軽んじ、民主主義の根幹を揺るがせるような判断は、厳に避けなくてはならない。

カテゴリ: 事件, 政治

守秘義務規定“厳格運用”の危うさ

2010.11.10

いまこの国では、“木の葉が沈んで石が浮く”事態が国民注視の中で進んでいる。

周知のように、中国船が海保の巡視艇に体当たりで突っ込んで来る迫力ある映像が動画投稿サイトのYou Tubeに投稿され、国民は初めて「日本の領土・領海」の最前線で「何」が起こっているのか目のあたりにすることができた。

事件発生から実に59日目、一部の国会議員にすでに編集されたビデオが公表され、さらに5日が経ってからの出来事だった。

中国という国の本質を知らず、落とし所を見誤り、右往左往し続けた菅政権がやっとビデオの一部を国会議員に公開したのは、11月1日のことだったのである。

しかし、それでも主権者たる国民は“真実”を見ることができなかった。国会にまで提出され、議員たちがその目で見て、それぞれの表現で“説明”されたビデオは、すでにその「機密性を失っている」にもかかわらず、である。

その異常な状態にピリオドを打ったのが、投稿された当該の映像だった。しかし、本末転倒の驚愕の事態が惹起(じゃっき)されたのは、国家公務員法の守秘義務を盾に、「情報漏洩の厳罰化」の方針が仙谷由人官房長官によって明らかにされてからである。

検察・警察合同の捜査が始まり、ついに本日(11月10日)、第5管区の海保職員が「私がやりました」と名乗り出て捜査当局の聴取を受けたのである。

日本の領土内で不法行為をおこなった中国人船長が「お咎めなし」で釈放され、そこで起こった「事実関係」を国民の知る権利に基づいて公開した告発者に「刑事責任が問われようとしている」のだ。まさに本末転倒の事態である。

しかし、私はマスコミと野党を含む政治家たちの反応に、これまた驚いた。野党自民党は、海保職員の行為を許した監督責任を菅政権に問うべく問責決議案提出まで散らつかせて攻撃を始め、マスコミも国家公務員法の守秘義務違反を問題視し、追及の度を強めている。

私は報道を見ながら、「この国の政治家とマスコミはどうなってしまったのか」と思わざるを得なかった。中には、問題の本質をすりかえ、“ネット社会の危うさ”さえ持ち出してこの海保職員を非難する報道もあった。

私は、「国民の知る権利」がどうしてここまで軽く扱われているのか、と思う。憲法には、主権者たる国民の「知る権利」が謳われている。言うまでもなく、憲法とは、すべての法律の上位に立つ国の根本法規である。

「知る権利」は、民主主義の根本原理に基づくものであり、国民は公的機関が保有する情報に対しても無制限ではないものの、「知る権利」を有する。これが失われれば、時の権力者によって都合よく情報が操作され、国家はたちまち「独裁性」を強め、民主主義そのものが失われていくからだ。

その民主主義の根幹を成す「国民の知る権利」と、「公務員の守秘義務」との狭間に立って仕事をしているのが、マスコミ・ジャーナリズムである。

記者たちは、「国民の知る権利」に応えるべく、「公務員の守秘義務」という壁を乗り越えて彼らにアプローチし、真実に迫り、時に権力者に対する監視役ともなり、報道をおこなっている。

つまり、国家公務員の守秘義務が「無制限」かつ「絶対的」なものであるなら、そもそもマスコミ・ジャーナリズムの活動は成り立たないのである。

日々、“朝駆け夜討ち”と呼ばれる記者たちの取材活動は、国家公務員の守秘義務規定が厳格に運用された瞬間、「取材活動」ではなく国家公務員法違反という犯罪を「教唆する活動」に変わってしまうからだ。

しかし、今日の報道を見ていると、なぜか「公務員の守秘義務」を厳格に解釈し、自らの首を絞めるかのような報道が圧倒的だった。報道側が「国民の知る権利」に対する自分たちの役割と使命を見失っているのではないか、と懸念を感じたのは私だけではあるまい。

昨日のブログでも書いたように、ここで忘れてはならないのは、「事件情報とは“公共情報”である」という原則である。事件が起こった時に、被害者や加害者などのプライバシー情報(個人名その他の情報)を含め、報道が許されているのは、事件情報がそもそも「公共情報」であるからにほかならない。

今回の尖閣での事件情報(ビデオ映像)は、主権者たる国民にとって、その「領土・領海」に関する事件情報であり、高度に公共性が強い情報だ。すでに国会で議員に対して公開され、「機密性」を失っているものの、知る権利を有する主権者国民にとっては、「見ておかなければならない」映像だったことは間違いない。

稚拙な対応を繰り返し、コトここに至っても、主権者に対して映像を公開しなかった菅政権に対して、命を張って領土を守る仕事をおこなっている“現場”から痛烈な抗議の意思表示があったのだと私は解釈している。

そして、そういう行為が許される「度量がある」ことが、日本が自由と民主主義に根ざした国である証明でもある、と私は思っていた。しかし、今回、その私の淡い期待は見事に打ち砕かれた。

4年前に「公益通報者保護法」が日本でも施行されたように、こういう“公益情報”を通報した日本国民は「保護される」権利を有している。つまり、「法律」とは相反する規定や概念が別の法律に「存在する」という多様性を持っており、一部の法律の解釈だけですべてを判断してはならないものなのだ。

本日の報道では法律家のコメントが数多く紹介されていた。しかし、法律家は、事柄を法の“要件事実”だけで解釈する癖(へき)があり、全体を見通して高い見地から本質を述べることができない場合が多い。そこを念頭に入れて、距離を置きながら彼らのコメントを聞くことをお勧めする。

繰り返すが、この海保職員を単に国家公務員の守秘義務違反を犯した“犯罪者”であると切って捨てることは「民主主義を守る」上で大きな障害となることをマスコミも肝に銘じるべきだろう。

法律には「軽重」というものがある。国家公務員の守秘義務が「厳格」かつ「絶対性」をもって運用されるようになった時、国民の知る権利と日本の民主主義が大きく後退することを、マスコミも政治家ももっと自覚しなければならない。

カテゴリ: マスコミ, 事件

事件情報とは「公共情報」という大原則

2010.11.09

8日深夜、取材から帰って来た私は、流れているニュースを見て絶句した。尖閣映像の流出問題で、仙谷由人官房長官がなんと「機密漏洩の厳罰化」を検討しているというのである。

これを聞いて唖然とする国民がほとんではないだろうか。何日か前の当ブログでも書いたように、重要なのは「そのビデオに映し出された中身」であって、「流出の経緯」などではないはずである。

今回の問題で「機密漏洩の厳罰化を検討」することがいかにおかしいか、そのことを考察してみよう。

公務員に「守秘義務がある」のはもちろんだが、その規制は「無制限」かつ「絶対的」なものではない。なぜなら公務員は守秘義務もあるかわりに、もっと大きな義務を負っているからだ。

それは、公務員とは国民の奉仕者、すなわち公僕であり、「国民のために存在している」という大原則である。つまり、公務員とは、なにも“時の権力者”に仕えているのではなく、主権者たる“国民”に仕えているという大原則を忘れてはならない。

私は、デビュー作となった『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)の第9章で「内部告発者保護法」のことについて詳しく記述している。ここで言う「内部告発者を保護する」という意味は何だろうか。

それは企業、あるいは国民にとって不利益が生じることが目の前で起こっている時、それを知った内部の人間がその事実を外部に“通報”することをどう捉えるか、ということに尽きる。

たとえば公務員の場合、もし、目の前に不正がある時、「公務員の守秘義務」によってそれに目をつぶるのがいいのか、それともその事実を「内部告発」して明るみに出す方がいいのか、という問題にぶつかる。

たとえそれを隠すことによって「国民に不利益が生じる」場合でも、公務員は「守秘義務」を絶対的なものとして「黙っていなければならない」のだろうか。

言うまでもないが、国民にとっては権力者に都合よく「事実が隠される」よりも、逆にそれが「明らかになる」方が望ましい。いや、主権者たる国民には“知る権利”があり、むしろそれを“知らなければならない”と言った方がいいだろう。

しかし、中国に滑稽なほど畏怖し、その出方を汲々として見つめている仙谷氏をはじめ現政権の幹部たちは、今回のことで、逆に機密漏洩を「厳罰化」させる意向なのだそうだ。

私は、法律家でもあるこの官房長官のレベルの低さに絶句する。そもそも、あなたは、「事件情報とは公共情報である」という民主主義国家の根本をご存知か、と聞きたいのである。

今回の中国漁船による海保巡視船への衝突事件は、国民にとって最高レベルと言っていい“公共情報”である。なぜなら、そのビデオが伝える情報とは「領土・領海に関するもの」であるからだ。

とっくに国民に対して公開していなければならないそのビデオが、中国への遠慮から「いつまでも隠されている」ことに業を煮やした“誰か”がついに国民に対して、その「公共情報を公開した」に過ぎない。

日本には「内部告発者保護法」というものが存在する(正式には、「公益通報者保護法」)。これは、公益にかかわる問題で不正その他の行為を見逃さず、情報提供することを認め、その“内部告発”をする人を「守る」法律である。

この法律は多くの先進国には存在していながら、日本では4年前まで存在していなかった。多くの専門家の努力と熱意によって、日本でもやっとこの画期的な法律が6年前に成立し、4年前に施行された経緯がある。

しかし、仙谷氏は、法律家でありながら、内部告発(公益通報)の本来的意義を認めず、逆に機密漏洩に対する「厳罰化」を求めようというのである。

心ある国民は溜息を漏らしているに違いない。国民の生命と財産、そして領土を守るために存在している政府の首脳が、外国(ここでは中国)に対してひれ伏し、一方、正義の告発者に対しては“厳罰化”で臨むというのである。

本末転倒もここまで来れば、「あなたは一体どこの国の政治家なのですか」と問いたくなる。仙谷氏たちに政権を任せたままでは、日本国民はやがて事件情報という「公共情報」すら手に入れられなくなるのである。

公務員とは、守秘義務を持っている同時に、この公益通報者保護制度の「対象者でもある」ことを仙谷氏は知らないのか、と私は問いたい。

つまり、公務員は時の権力者に逆らってでも、国民の利益のために「公益情報を通報」し、その行為に対して「保護される」権利を有しているのだ。

それは民主主義国家の前提とも言うべき権利である。独裁国家においては、権力者にとって都合の悪いことが表に出るのは許されないが、少なくとも日本では、今回のようなビデオが国民の目に触れる行為をした人間は、大いにその権利を「保護されなければならない」のである。

「事件情報とは公共情報である」という大前提さえ知らない現政権の幹部たち。このまま日本は、彼らの手によって“民主主義国家の根幹”をなくしてしまうのだろうか。

カテゴリ: 政治

これほどの死闘を見たのはいつ以来か

2010.11.08

日本シリーズで、これほどの死闘を見たのはいつ以来だっただろうか。私は、そんな思いで、今回の千葉ロッテvs中日の日本シリーズを見つめていた。

7球団で30年にわたって打撃コーチを務めた“高さん”こと、高畠導宏さんが膵臓癌で亡くなって6年。高さんの生涯を描いた拙著『甲子園への遺言―伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』(講談社)が世に出てからすでに丸5年が経つ。

今回の日本シリーズには、この本の取材で協力いただいた人たちが多数出場していた。千葉ロッテの指揮官・西村徳文監督はもちろん、いぶし銀の活躍を見せたサブロー、代打の切り札福浦……等々、高さんの弟子たちが大活躍した。

相手の中日も同様だ。指揮官の落合博満監督や、高さんの岡山南高校の後輩で、高さんの“導き”で駒澤大学と社会人野球を経て中日入りした野本圭外野手も活躍した。

高さん本人が死去後6年も経つというのに、その遺産が弟子たちによってこれほど継承されていることに感動を覚えながら私は試合を観た。

私が中でも印象に残ったのは、サブロー選手が見せたスイング“軌道”である。どんなにカウントが悪かろうが、落ち着きを失わずにボールをミートするサブローの能力には多くの専門家を唸らさせる力がある。

私は、それ以上に、サブローの“センター前ヒット”に対するスイング軌道というものに舌を巻いた。これは、もはや名人芸などという言葉で表現できるレベルのものではなかったのだ。このスイングの軌道を身につけるまで、サブローはどれほどの努力をしたのだろうか。

第6戦、両チームは延長15回2対2で引き分けた。この試合で、千葉ロッテの2点は、共にサブローのセンター前ヒットによる得点だった。

私が唸ったのは、初回二死三塁、中日チェン投手から放ったセンター前ヒットである。左腕から快速球を投げ込んでくるチェンに第2戦の時と同様、ロッテは苦戦を予想された。

何球目だったか、サブローは真ん中高めのチェンのこの快速球を空振りしている。その空振りの軌道を見た瞬間、私は「あっ、(打球は)センター前に行く」と思った。

空振りで「センター前に行く」というのも変な話だが、そのスイングは、完全にボールを「センター前」に運ぶ軌道だったのである。

たまたまその球は、チェンの球威が上まわり、サブローのバットは空(くう)を切った。しかし、スイング自体は間違いなくセンター前ヒットの「軌道だった」のである。

果たせるかな、その次の球か、次の次の球だったか、サブローは、チェンの真ん中高めの球をまさしく狙い澄ましたように“センター前”に運び、1点をもぎとった。

私はそのシーンを見て、高さんがサブローに課した“バット投げ”の練習を思い出した。サブローは高さんの指導のもと、オリックス時代の田口壮選手から送ってもらった“グリップを切り落とした”バット投げ用のバットを「センターに向かって」ひたすら投げ続ける練習をしている。

バットをセンター前に向かって投げる――この奇妙な練習は、高さんの真骨頂とも言えるトレーニングである。センター返しのスイング軌道を身につけるこの鍛錬を、高畠-サブロー師弟は延々と繰り返していたのだ。

この練習は、伝説の打撃コーチ・高畠がサブローに限らず、多くの弟子たちにおこなわせたものだが、ここまで完全にそのスイング軌道を会得した選手はそうはいないだろう。私はサブローのスイングを見て、並の精進ではとてもここまで来れなかっただろう、と思った。

選手たちの凄まじい努力の積み重ねで、これほどの見ごたえのあるシリーズになったのは素晴らしい。シリーズの最後の最後に育成選手から這い上がってきた苦労人・岡田幸文選手がヒーローになるあたりも、いかにも千葉ロッテらしかった。

私は稀に見る死闘となったこのシリーズを観て、今から35年前の昭和50年の日本シリーズを思い出した。セ・リーグで初優勝した広島カープが全盛時代の阪急ブレーブスに挑んだシリーズだ。

あの時、阪急は新人・山口高志の剛球を武器に、ついに広島に1勝もさせなかった。しかし、シリーズは第6戦までもつれ込んだ。広島は「勝つこと」こそできなかったものの、「2試合」も引き分けたのである。

広島はマウンドに仁王立ちする剛腕・山口のストレートに封じ込まれ、勝つことができなかった。私は「あと1点」が遠く、延長戦でもどうしても勝たせてもらえない広島に勝負の過酷さ、非情さというものを感じたものだ。

日本シリーズでの「1勝」というのがいかに重いものか、あの阪急のV戦士たちに私は教えてもらった。今回の日本シリーズは、「1勝の重み」を示す意味で、35年前のあの日本シリーズにも匹敵するものだったと思う。

久しぶりに手に汗握る「死闘」だった。たかが野球、されど野球――やはり野球は素晴らしい。

カテゴリ: 野球

突きつけられた「法治国家ニッポン」の死

2010.11.05

尖閣ビデオの流出問題が波紋を広げている。政府はもっぱら“流出”経緯の方に神経を尖らせているが、そんなことは些末なことだ。

Wikileaks(ウィキリークス)やYou Tube(ユーチューブ)といったインターネット上の“投稿&告発”媒体が存在する以上、国民の前にこの映像が明らかになるのは必然だったと言えるだろう。

問題は言うまでもなく、映し出された「中身」である。民主党議員の一部には相変わらず「(自分の見たものと)似ている」などと、気の抜けたコメントを発する低レベルの者もいた。

私はテレビで繰り返される映像を見て、溜息しか出なかった。あらかじめ言われていた通りの画像である。どこから見ても、いかに「中国に日本が舐められているか」を示すものである。

日本の領土内で、日本の法律を犯して不法行為をおこなった者を“超法規”的措置によって釈放したという事実が改めて国民の前に明らかになったのである。

中国は、法治国家ではなく「人治国家」だ。だが、自由と民主主義を重んじる陣営に与(くみ)する日本は、これまでは疑うことなく「法治国家」であった。営々と築き上げたこの民主主義国家の基本は、なによりも重いものだった。

あの金大中拉致事件の折に、金大中の「原状回復を!」と何年間も国会が揉めつづけたことを思い出す。

しかし、相手が中国となると、これほどの無法行為を「粛々と法に従って処理する」ことさえできないのである。これは、言うまでもなく「日本が法治国家であることを放棄した」ことを意味している。

“赤い官房長官”と呼ばれる元全共闘の仙石由人氏、そして市民運動家として「ひたすら権力と闘いつづけた」菅直人総理によって、日本が「法治国家でなくなった」ことを今日は改めて痛感させられる日となった。

法治国家ニッポンの“死”。仙石氏自身の言葉通り、たしかに「日本の中国に対する属国化は今に始まったことではない」のかもしれない。

だが、あの年齢が来ても、まだ国を守ることの気概を持たぬ人間に一国の舵取りが任されていることをここまで明確に突きつけられると、さすがに私は溜息しか出ない。

文藝春秋の短期集中連載「九十歳の兵士たち」の取材で、子孫を残すこともできないまま日本のために死んでいった多くの若者の無念を聞きつづけた1年だっただけに、そのことが余計強く感じられるのである。

カテゴリ: 政治

2人の名将が犯したミス

2010.11.03

今日は、名将でも足をとられてしまう“陥穽”について考えさせられた1日だった。ここで言う「名将」とは野球の監督のことで、その試合とは、昼間の「早慶戦」と夜の日本シリーズ「千葉ロッテvs中日」である。

名将とは、共にこの日、敗れた慶應大学の江藤省一監督と千葉ロッテの西村徳文監督である。江藤監督は、選手個々の力では完全に劣っていながら、“監督力”の差を見せつけて早稲田に2連勝し、ついに優勝決定戦にまで持ち込んでいた。

江藤監督は、早稲田の応武篤良監督とは、選手起用のうまさ、野球に対する深い洞察力、選手を乗せる手腕、戦術……等々、まるでケタ違いの力を持っていたと言える。つまり、早慶両校は、監督の力量については、まったく大人と子供ほどの差があったと言っていい。

春の早慶戦でも“監督力”の違いを見せつけて、選手の力量では劣るはずの慶應が早稲田に圧勝。秋も2連勝で慶應が早稲田を圧倒した。しかし、優勝決定戦という“番外編”の今日、その江藤監督の側にミスが出たのだ。

そこには、さまざまな要因が入り込んでいた。江藤監督のコンピューターを最大に狂わせたのは、「4年生を(試合に)出してあげたい」という親心にほかならない。

早稲田のリードで試合が進む中、江藤監督は小刻みな投手リレーをおこなった。それは、投手に代打を出していくから必然的にそうならざるを得ないものだった。一人でも多くの4年生を彼らにとっての“最後の早慶戦”で出してあげたかったのである。

しかし、そのことが慶應の致命傷につながった。福谷や山形というまだまだ投げさせた方がいいピッチャーに代打を出して早々と降板させたため、最後になんと“投手のコマ”がなくなってしまったのだ。

そのため、斎藤をノックアウトした8回、1年生ピッチャーの金子に代打を出せずに、スクイズを失敗してしまう場面につながったのだ。あのスクイズ失敗の場面で、「それなら福谷や山形をなぜあんな短いイニングで変えてしまったのか」と首を傾げた慶應ファンは少なくあるまい。

最後の早慶戦で「4年生を(代打ででも)出してあげたい」という江藤監督の“優しさ”が勝利の女神に見放されてしまう原因となったのはなんとも皮肉だった。野球の非情さを見せつけた試合だったと言える。

夜の日本シリーズでも“名将”西村徳文監督の限界を見る場面があった。それは、3番井口に「バンドをさせない」という“特別扱い”を許した戦術である。

短期決戦の日本シリーズで、特定の選手を特別扱いしていては、勝負には到底勝てない。2度にわたるノーアウト1塁の場面で、井口に送りバンドをさせなかった西村監督は、勝負の厳しさの「意味」を突き詰めて考えるべきだろう。

本日、ほとんど手中に収めていた勝利を延長戦の末に手放した千葉ロッテは、今日の敗北で、「シリーズ全体の流れを失った」ような気さえする。

2人の名将が犯したミスは、極めて人間的なものであり、同時に名将こそが落ち込みやすい陥穽だったと言える。勝負の世界とは誠に厳しいものなのである。

カテゴリ: 野球

「苦悩」と「叡知」を示した裁判員たち

2010.11.01

注目を集めた裁判員裁判「耳かきエステ店員」殺害事件で本日、東京地裁は、無期懲役判決を下した。

私もこの判決には注目していた。裁判員制度に反対していた司法の専門家やそれに追随するジャーナリストたちの「反対」の理由は、つまるところ、「素人に何がわかるか」ということに尽きていたと言っていい。

苦労して司法試験に合格して、その上でお互いを「先生」「先生」と呼び合って、権益を享受し、「ギルドを形成してきた」法曹たちにとって、一般国民が自分たちの世界に「分け入ってくる」ことなど許すべからざることだったのだ。

「素人に何がわかるか」というのは、この裁判員制度の導入をもたらした2001年6月の司法制度改革審議会の最終意見書に盛り込まれた「裁判の内容に国民の健全な社会常識を生かす」という文言に対する司法界の反発を表わしてもいる。

だが、日本の官僚裁判官たちがつくり上げた裁判の形骸化、セレモニー化についての弊害は、拙著「裁判官が日本を滅ぼす」(新潮文庫)、「激突!裁判員制度 井上薫vs門田隆将」(WAC)、「なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日」(新潮文庫)等々で繰り返し指摘してきた通りだ。

個別の審理に目を向けず、刑事裁判の法廷をただの“セレモニーの場”に貶めてしまった日本の官僚裁判官。その悪弊を国民が打破しなければならないところまで追い込まれた末の「司法改革」だったことを忘れてはならない。

今日の判決に対して、「素人は感情に流される」、あるいは、「裁判員制度によって“厳罰化”は必至」と批判してきた人々はどういう感想を抱くのだろうか、と思う。

裁判員たちは今回、真っ正面から「死刑」、すなわち人間の“生と死”というものに向き合い、喧々囂々の議論の末に「無期懲役」という結論を導き出したのである。

遺族の叫びでもあった「死刑」をそれでも選択しなかった裁判員。判決後の記者会見でも内面の苦悩と葛藤を語る裁判員がいた。

ひとつの判決を出すまでに、ここまで真剣に向き合った裁判員たちの姿を見て、私は、国民が官僚裁判官から「ついにこの国の正義を取り戻したのだ」という思いを強くした。司法は国民の参加によって“形骸化”という悪弊を確実に打破しつつあるのである。

「素人に何がわかる」と、ひたすら裁判員制度をつぶすために動いて来た法曹より遥かに高い見地で、裁判員たる一般国民は、その“見識”を天下に指し示したのである。

カテゴリ: 司法