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孤高の闘いを挑む「蒼国来」の真実

2011.05.31

今日は、事務所に珍しい来客があった。中国・内モンゴル出身の力士・蒼国来(27)である。八百長問題で日本相撲協会を解雇された力士の中で、自らの無実を訴え、地位保全の仮処分を求めている力士だ。

縁あって紹介され、今日、蒼国来本人と部屋の女将さんがわざわざ西新宿の事務所を訪ねてきてくれた。四股名(しこな)通り、いかにも草原の国からやってきた精悍な蒼国来は、日本語も流暢で、驚くほど考え方のしっかりした若者だった。

「私は八百長などやったこともない。私の名前を挙げた春日錦関とは、会えば挨拶はさせてもらいますが、話をしたこともないし、携帯電話も知らない。突然、私が八百長をやったと言われても、なぜ? と言うしかありません……」

蒼国来は、私にそう訴えた。昇り竜だった蒼国来が落ち目の春日錦に、なぜ八百長をしてまで「負けて」もらわなければならなかったのか、当時の状況や両者の力量を知っていれば、もともと春日錦の話が真実とはとても思えないケースだった。

名指しされた力士たちが「退職金を支払うから」という協会の甘言に負けて戦いを回避していく中、蒼国来は「真実は一つしかない。やってもいない汚名を着させられたまま土俵を去るわけにはいかない。私は必ず土俵に戻ります」と、敢えて闘いの道を選んだのである。

クロと認定する材料もないまま蒼国来を解雇した協会の杜撰な調査は、東京地裁での地位保全の仮処分の審尋でも次々明らかになっている。なんと「蒼国来はカネで春日錦から星を買った」というのだが、いまだにそのカネの出どころばかりか、存在そのものが確認されていないのだ。「そもそも、そんなおカネが存在しないのだから、探しようがないですよ」と、蒼国来は言う。

収入のほとんどを内モンゴルの実家に仕送りしていた蒼国来は、いつか日本の土俵で名を成し、故郷に錦を飾ることが望みだった。そんな将来ある若者の純粋な思いを、公益法人である日本相撲協会が踏みにじろうとしているのである。

仮に地位保全の訴えが認められなければ、証拠もないままこの意欲ある若者の将来を断ち切った相撲協会のお粗末な調査のすべてが暴露されることになるだろう。ここでは詳しくは書かないが、その杜撰な調査ぶりは、聞くもの誰もが驚愕するに違いない。

今の蒼国来の支えは、理不尽な処分を下した巨大な協会に孤高の闘いを挑んでいることに多くのファンが応援してくれていることだ。毎年の餅つきで交流を深めた都内の幼稚園児からは「そうこくらい、がんばれ」という似顔絵つきの応援メッセージも届けられた。蒼国来はその絵とメッセージを大事そうに持ち、私に見せてくれた。

また、道を走っている車がわざわざ窓を開けて、「蒼国来、負けるな! 応援してるぞ!」と声をかけてくれることもある。そのたびに蒼国来は「日本人ってなんて温かいんだろう」という思いに捉われ、「土俵に戻るまで絶対に挫けない」と、心に刻んでいるのである。

言うまでもないが、日本相撲協会は、相撲道の維持発展と「国民の心身の向上」に寄与するために認められた特例財団法人である。その公益法人が前途ある若者を“冤罪者”に仕立て上げたうえで、本場所の開催だけをゴリ押しするなら、その時こそ協会は国民の前から「消え去る」運命をたどるだろう。

カテゴリ: 相撲

沖縄取材を終えて

2011.05.29

昨日は、近づく台風の中、夕方まで糸満在住の沖縄戦の生き残り(86)に取材をさせてもらった。米軍と熾烈な戦闘を繰り広げた第89連隊の生還者だ。

現地召集で89連隊に新兵として入ったこの元兵士は、仲間が次々と斃れていく中で戦い抜き、何度も負傷しながら九死に一生を得て、終戦さえ知らないまま昭和20年9月に投降した。

こめかみには、今も米軍から受けた手瑠弾の破片が残っている。潜んでいた壕の中で仲間の死体からわいたウジをよけて水をすするなど、地獄の戦場の中を執念で生き抜いた人物だ。

連隊の中で生還できた兵士は、1割にも満たなかった。1人でも多くの敵を屠(ほふ)るという思いと生きる執念が、この元兵士に地獄からの生還という奇跡をもたらした。

近くこういう生還者の証言をまとめてお届けするつもりだが、つくづく戦闘の凄まじさと生き残ることの難かしさを感じる。それぞれの生還者たちが、自分が生き残ったのは、「運命としか思えない」と語ったのが印象的だった。

夕方、取材を終えて、すぐに那覇空港に向かった。近づく大型台風の影響で東京便が欠航する可能性があるからだ。本来は、本日の帰京予定だったが、急遽、昨晩の便に振り換えて帰京することができた。聞けば、私が那覇空港を離れたあと、風雨は一段と増し、最終便は欠航になったそうだ。

先週の日曜日(22日)に帯広に向かい、釧路、根室、納沙布をまわり、水曜日(25日)に一度帰京したあと、今度は沖縄へ。沖縄本島の戦跡めぐりと取材をあわせると、この1週間の移動距離は、5000㌔を遥かに超えた。

取材の成果を近くお届けできるのが、楽しみだ。

カテゴリ: 歴史

激しい雨の中での式典

2011.05.27

今日5月27日は「海軍記念日」である。私は、沖縄戦の戦史跡を数々めぐり、午後4時からは豊見城の旧海軍壕で開かれた「第49回海軍戦没者慰霊祭」に参加した。近づく大型台風の影響で、途中から雨が激しくなる中での取材だった。

沖縄本島最南端に近い激戦の地・摩文仁(まぶに)の丘には、牛島満・第32軍司令官(陸軍中将)と長勇・参謀長の自決の洞窟が残る。この自決の壕への道が工事中で今日は進入禁止となっていたが、せっかく来たので、封鎖の塀を乗り越えて壕まで行かせてもらった。

太平洋を望む断崖の中腹に牛島中将自決の洞窟はあった。来るべき本土決戦に備え、米軍の消耗と、一日でも長く本土侵攻の時間を遅らせよという大本営の方針に従って戦い続けた牛島中将は、この最南端に近い断崖の洞窟で自決を遂げたのである。

ひめゆりの塔や、運玉森(うんたまもり)といった激戦の地をめぐり、私は、午後4時にやっと49回目を数えた海軍戦没者慰霊祭の式典に駆けつけた。こちらは、沖縄戦で海軍の陸戦隊を指揮した太田実海軍少将の終焉の地である。

「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という有名な電報を送って自決した太田少将終焉の地は、海軍(現在の海上自衛隊)にとっても聖地のひとつである。

激しくなる雨の中、太田少将のご遺族や旧海軍関係者の献花がおこなわれ、海上自衛隊第五航空群儀状隊による弔銃発射で式典は終了した。

戦後66年。生き残った旧軍の関係者の音頭によって、今も慰霊の式典は続いている。彼らの平均年齢も今年、90歳となる。足腰が達者な人々だけしか参加できないため、年々、参加者は少なくなっている。足を引きずりながら、かつての戦友の冥福を祈る姿が印象的だった。

式典が終わった途端、激しい雨が少しやわらいだ。大型台風が刻々と沖縄本島に近づいている。明日は、現地召集された陸軍の第89連隊の生き残りに取材をさせてもらうつもりだ。天候が少し気がかりだ。

カテゴリ: 歴史

雨が降り始めた那覇

2011.05.26

今日は、沖縄の那覇にやって来た。昨日いた納沙布岬から3000キロ近く西南にあたる。気温が摂氏3度から5度にすぎなかった根室半島に比べ、沖縄の本日の気温は摂氏27
度である。

日本列島の大きさというものをつくづく感じさせてもらった。梅雨のない北海道と、すでに梅雨の真っ只中にある沖縄。あまりに鮮やかで、大きな差に、とても両者が同じ国にあるとは思えなかった。

夜、自衛隊のさる幹部と食事をした。沖縄が抱えるさまざまな問題をいろいろと教えてもらった。明日5月27日は、戦後66回目の「海軍記念日」である。多くの旧軍関係者も、明日の式典に備えてここ沖縄に集結して来ている。

夜遅くになって、那覇は雨が降り始めた。台風も近づきつつある。明日のさまざまな式典は、雨の中でおこなわれることになるかもしれない。しかし、それも風情があるだろう。

今年は、「大正100年」であり、同時に太平洋戦争「開戦70周年」にあたる。実に200万人を越える戦死者を出した大正生まれの若者の“無念”と“潔さ”を思いながら、明日の記念日をジャーナリストとして、そして日本人の一人として見守りたい。

カテゴリ: 歴史

霞んだ海原の先にあった北方領土

2011.05.25

今日は、納沙布(ノサップ)岬に行ってきた。根室半島の先端にある岬で、東経145度49分、北緯は43度22分に位置する。言うまでもなく日本列島の最東端であり、北方領土を間近に望む岬である。

夏には多くの観光客が訪れる納沙布岬も、今日、私がいる間には一人の見物客もいなかった。かろうじて店を開けていた土産物屋のご主人に聞くと、「ここのところ、ほとんど客が来ないですね」と、あきらめ顔だった。

昨日は、史上初めて韓国の国会議員3人が国後島を訪問したばかりである。中国、韓国、ロシアの3国は、領土問題で共闘する方針を鮮明にしており、昨秋の中国人船長による尖閣侵犯&釈放問題に端を発して、一気に日本政府の領土に対する“弱気”を突いてきている。

領土をめぐる主張の中では、わずかの譲歩も許されないはずなのに、その国際社会の常識を知らない管政権は、歴史に確実に汚点を残している感を強くする。

今日の納沙布岬は、少し霧が出ていた。歯舞群島に含まれる貝殻島(かいがらじま)の灯台ははっきり見えたものの、その先の水晶島(ロシア名・タンフィーリエフ島)は、おぼろげに「何かがある」という程度にしかわからなかった。

はるか霞んだ先にある国後島に至っては、私の肉眼では捉えることができなかった。日本国民の悲願である北方領土返還への道のりが「いかに遠いか」を物語る風景だった。

納沙布岬のすぐ近くに降りることのできる浜辺があった。私は、この小さな浜辺で日本列島最東端の海の水に触ってみた。想像以上に冷たい。身体全体が浸かれば、命は30分と持たないだろう。「真冬には流氷がやってくる」ということがよくわかる。

海から吹いてくる風に、なぎ倒される寸前でやっと立っているかのような防風林はどれも背が低く、納沙布の自然の過酷さを表わしていた。辛うじて根室で咲いていた桜も、納沙布では、まだ咲き始めてもいなかった。

納沙布をあとにした私は、根室に戻り、中標津(なかしべつ)空港にバスで向かった。ところどころに「エゾシカ横断注意」という標識が立つ道路を2時間近く走ったが、バスの乗客はたった3人だった。究極の過疎化を感じる。

中標津発羽田行きのANA便の座席も、4分の1ぐらいしか埋まっていなかった。航空業界の生き残りもまた、納沙布の自然に負けないほど過酷かもしれない。

明日、私は、沖縄に向かう。歴史の重要証言を集める取材の旅は、まだまだ終わらない。

カテゴリ: 国際, 随感

北方領土「最前線の街」

2011.05.24

夜、根室までやって来た。釧路に住む大正12年生まれの沖縄戦の生き残り兵士に夕方まで取材をさせてもらって、「別保(べっぽ)」という無人駅から列車に飛び乗り、午後9時前に根室駅に着いた。

根室行きの列車はワンマンだった。それもそのはず、根室駅にも「駅員はいない」のである。聞けば、根室駅は、夕方以降は駅員不在なのだそうだ。

真っ暗な駅前で一軒だけ開いていた駅前のすし屋で夕食をとった後、ホテルに入った。それにしても寒い。今日の最低気温は摂氏3度だったそうだ。桜がやっと咲き始めたところに急に“寒波”が戻って来た、と根室の人は嘆いていた。夜はやっと摂氏5度となった。

私は、あさってから沖縄だが、その寒暖の差は、日本列島の長さを実感させることになるだろう。明日は、納沙布岬に行き、間近に迫る北方四島を見てくるつもりだ。

残念ながら根室名物の花咲ガニの季節には少し間があって、これを食べることはできなかった。日本で一番、桜の開花が遅い地域は、同時に北方領土の最前線の街でもある。

現場でなければ感じられない“何か”をできるだけ感じてこようと思う。

カテゴリ: 随感

帯広から釧路へ

2011.05.23

今日は帯広から釧路までやって来た。明日は、沖縄戦の生還者の取材をさせてもらうつもりだ。車窓からの風景が、農地が中心だった帯広とはまるで違い、大平原と原野の連続だった。

駅まで出迎えてくれた釧路の支局長と共に、夜、鯨料理に舌鼓を打った。鯨の刺身、揚げ物、さえずり、巻き寿司……と、鯨づくしだ。どれも絶品の味だった。大満足で店の外に出ると気温は5度。頬を撫でる夜風の冷たさにぞくっとした。

聞けば、今日は日中も最高気温が摂氏7度だったという。まるで東京の冬の気温だ。前方に太平洋の大海原、後方には釧路湿原を抱える同地の真冬の過酷さが想像できた。

今年の夏は、東京は電力不足によって辛い季節となる。夏には、ここ釧路に一時移住する東京人が増えるかもしれない。海の幸に恵まれ、夏も冷房いらずの釧路は、この夏、大いなる注目を浴びる予感がする。

明日の取材を終えると、釧路から根室に向かい、そのあと一旦、東京に帰って、木曜日からは取材で沖縄に飛ぶ予定だ。日本列島の端から端の移動である。

気温の変化も激しいので、体調管理に気をつけたい。

カテゴリ: 随感

北海道・帯広にて

2011.05.22

今日は、北海道の帯広に来ている。明日、こちらで講演があるが、事前に帯広でお会いしたい人がいたので、1日早く帯広入りした。

お会いしたかったのは、サイパンの生き残りの元兵士(88)である。玉砕の戦場となったサイパンの戦いを生き抜き、昭和19年7月にサイパン守備隊が全滅した後、1年半も同地で抵抗を続けた元兵士である。

今年、封切りされた竹之内豊主演の「太平洋の奇跡―フォックスと呼ばれた男」もサイパンの戦いを描いた映画だったが、今日、お会いした元兵士も同島のまったく別の地で長期の抵抗を続けた人物である。

生々しい証言の連続に息を呑むシーンも少なくなかった。経験者でなければ語れない事実の「重さ」にいつもながら驚かされた。

夜は、某通信社の帯広支局長、そして地元の有力者の一人と食事をした。十勝地方の政治経済、あるいは大規模農業についていろいろと教えてもらった。本州の農業と、十勝の広大な大地を使った農業が根本的に異なることを具体的に知った。

いま日本では、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)によって国内農業が打撃を受けるという声が満ちているが、少なくともここ十勝地方の大規模農家はTPPをまったく恐れていなかった。むしろ「大歓迎」なのだそうだ。

これまで高い税金がかけられていた輸出入品の関税が撤廃されるTPPは、補助金と保護政策に胡坐(あぐら)をかいてきた農家こそ打撃を受けるが、経営努力と大規模化を展開してきた十勝の農家はまったく大丈夫だと、この有力者は語った。

これに反対しているのは、国の優遇政策にどっぷり漬かってきた農協関係の連中ばかりだとも言う。「農協は潰れるが、経営の効率化と大規模化を目指してきた競争力のある農家はむしろTPPを喜んでいますよ」と。

この有力者の話によれば、一時、廃れていた林業も復活の兆しがあるという。日本の林業に決定的な打撃を与えてきた外材の流入――しかし、ここ数年、地球温暖化などの環境問題を理由に世界的に「切る林業」から「育てる林業」に変わってきたため、外材の流入自体が少なくなり、十勝の林業も持ち直しつつあるという。

時代の変化に必死で対応しようとする地方の農林業のあり方は勉強になる。そこには、東京では聞けない地方の本音がある。日本の農業の本来のあり方と共に、今後のTPPの行方に注目していきたい。

カテゴリ: 歴史, 農業

神保町の小さなバーに集まった中年たち

2011.05.20

東京電力の清水正孝社長が引責辞任し、後任に西沢俊夫常務が起用されることが発表された。また、同社の決算発表で連結純損失が過去最悪の1兆2473億円に上ったことも明らかにされた。

もちろん、この額は史上最大の赤字で、ひとつの企業でもはや賄えるようなレベルでないことは明らかだ。東電株を大量保有していた企業は、巨額の含み損を抱え、いよいよ財務体質の悪化が懸念されている。

それだけではない。東電関係の多くの下請け企業が、仕事そのものがなくなり、悲鳴を上げている。また人口減少と広告激減を理由に福島の地元マスコミの経営悪化は、すでに不可避の状況だ。

さまざまな関係者が、企業や事業の存続が危ぶまれる状況に陥り、リストラの強化、新卒者の就職率悪化も必至の事態を迎えている。これまで当ブログで書いて来た通り、本来やらなければならないことを怠り、現在の事態を惹起した東電歴代役員の刑事責任追及と私財拠出による補償金への協力はもはや不可欠と言える。

さて、本日は締切と打ち合わせの合間を縫って、そんなニュースを横目に夜、大学のサークルの集まりに顔を出した。タイのバンコクから一時帰国した先輩を囲んで一杯やるためである。

すでに定年間近の先輩から、ようやく50台に乗った同輩、あるいは40代半ばのバリバリの中堅サラリーマンまで、およそ20数名がかつてのサークルの溜まり場・神保町の「ラドリオ」というバー(昼間は喫茶店)に集まった。狭い店は、たちまちワイワイガヤガヤと満席となった。

皆それぞれに年がいったものだが、自分自身も年を食ったので、他人のさま変わりぶりは、いっさい気にならない。一瞬にして大学時代の“顔”に戻ることができるのが、こういうサークルの仲間のいいところだ。

以前のブログにも書いたが、私たちのサークルの顧問である小谷哲也氏(今年80歳)は、「(なんでも)集まることが大事」と説き続けた。今日も先輩の一人が外国から一時帰国しただけで、これだけの人数が急遽集まるのは、さすが、というほかない。

大震災&原発事故で日本そのものの先行きが不透明な中で、神保町の小さな店に集まった中年のパワーだけがなぜか“全開”だった。ここには不況も不安もないのではないかという錯覚に捉われた数時間だった。

カテゴリ: 地震, 随感

「茶を噛みて 明日は行く身の 侘び三昧」

2011.05.16

今日は、「惜別の歌」の作者・藤江英輔さん(85)と一緒に、茨城県土浦市の料亭「霞月楼」に行ってきた。藤江さんには一昨年、私が上梓した「康子十九歳 戦渦の日記」の取材で大変お世話になった。私にとっては、大学の先輩でもあり、かつての職場(新潮社)でも先輩という尊敬する存在である。

霞月楼は、戦時中、土浦海軍航空隊をすぐ近くに控え、海軍の幹部たちに特に愛された料亭である。連合艦隊司令長官・山本五十六も贔屓にしたこの料亭は、太平洋戦争末期、海軍の青年士官たちが娑婆への未練を断ち切るために数多く訪れた。

店に残る屏風には、死地に赴く青年士官たちが残した文章や歌が、今も残っている。今日は、藤江さんのたっての願いで、その屏風を女将がわざわざ出してくれた。

「茶を噛みて 明日は行く身の 侘び三昧」。そこには、そんな歌が走り書きされていた。そして、別の筆跡で、“下の句”がこう記されていた。

「猿は知るまい 石清水」

薄れかかってはいるものの、達筆な墨字は、今もはっきりと読み取れた。藤江さんは今から40年以上前の昭和45年、この霞月楼に一度、来たことがある。その時に、この屏風と出会い、今日が2度目の“対面”だったのだ。

藤江さんは屏風を前にして、私に「君にこの屏風を見せたかったんだ」と語った。君にはこれを見て、「明日は死ぬ」という当時の若者の気持ちを知って欲しかった、と。

私は、つい2週間前に、ここ土浦海軍航空隊でも基礎訓練に励んだ松藤大治・海軍少尉を描いた歴史ノンフィクション「蒼海に消ゆ」を刊行したばかりだ。松藤少尉は、祖国アメリカに特攻していった日系2世である。

生と死の狭間にいた若者の気持ちを藤江さんと私は話し合った。この下の句が表わしている「猿」とは、いったい何を指すのだろうか、と。どうにもならない時代の流れを「猿」と表現したのか、それとも国家そのものを指しているのか、あるいは、自分の上官などの特定の個人のことを指して「猿」と表現したのだろうか、と。

もちろん、答えはわからない。この歌を詠んだ本人にしかそれはわかるまい。だが、私のような後世の人間にもわかることは、これを書いた若者のように、さまざまな思いを胸に呑みこんで多くの青年が死地に赴いていったという厳然たる「事実」だけである。

カテゴリ: 歴史

不作為の罪「東電役員」の刑事責任と私財拠出

2011.05.14

福島第1原発の1号機で“メルトダウン”が起こっていたことが明らかになったり、浜岡原発の原子炉が停止されたり、原発事故の影響はおさまるどころか、むしろ拡大の途を辿っている。

今日は、機材の搬送をしていた東電の協力企業の60歳代の男性作業員が意識不明となり、死亡した。高濃度汚染水が移送されている集中廃棄物処理施設での作業中のことだった。多くの人々が命をかけて正常化を目指して踏ん張っていることに多くの日本人が感動している。亡くなられた60歳の男性に、心からの敬意と哀悼を表したい。

しかし、東電という会社全体から見たら、この会社について、国民はどう思っているのだろうか。立派な現場の人々と同時に、日本という国に、これほどの致命的な打撃を与えた「東電」役員たちの責任は、いったいどうなるのだろうか、と思う。

大震災直後から、東電は津波の高さが「想定外だった」と強調している。それには理由がある。「想定外」ということにしなければ、自分たちによる「人災」であることが国民の前に明らかになってしまうからだ。

東京電力が想定した津波の高さは「5・6メートル」である。これは、1960年のチリ津波を前提にしたものだ。しかし、太平洋のはるか彼方で起こったチリ津波しか想定していない「危機管理」の意識というのは、恐ろしい。

これを前提に、福島第1原発は、原子炉を冷やす設備や海水を汲み上げるポンプを津波に“水没”してしまう高さに「設置した」というのである。しかも、これらを津波から守るものは存在せず、いわば剥き出しのまま、つくり上げられたのである。

今回の大地震では、ここに高さ14メートルの津波が襲った。仮に10メートルの津波を想定していて14メートルの津波が襲ったのなら、「想定外」と言っても国民はある意味、納得するかもしれない。しかし、太平洋の向こうで起こったチリ地震による津波にしか「対応できないもの」が、目の前で起こる巨大地震に対応できるはずがないことは子どもが考えてもわかることである。

東北電力の女川原発は福島原発よりも震源地に近かったが、想定の津波の高さを「9・1メートル」としていた。それでも危険だと思った東北電力は、主要施設を海面から「14・8メートル」の高さに、しかも極めて固い岩盤の上につくった。

その結果、女川原発は、今回の震災で崩壊するどころかしっかりとこの自然災害を跳ね返し、逆に被災者たちの「避難所として使われた」のである。

かたや東京電力の福島原発が、日本経済と日本の国際的信用を奈落の底に突き落とす一方で、電力会社が違うだけで、同じ原発が被災者への避難所として使われた事実は、今回の出来事が「人災」にほかならないことを雄弁に物語っている。

では、その東電による「人災」の刑事責任を追及することは可能なのだろうか。先日、東京電力は全役員の年間報酬を50%程度カットする方針を固めたことが報じられた。しかし、その額を聞いて国民の多くは驚いたに違いない。

なんと取締役の平均報酬は1人あたり3700万円で、たとえ50%のカットをしてもまだ1850万円の報酬が残るというのである。本来、やらなければいけないことをやらず、「不作為」によって莫大な損失を国家と国民に対して生みだした役員たちが「50%の年間報酬カット」で許されるのだろうか。

当然、今回の被害者たちへの補償を自らの私財を処分しておこなうべきだし、刑事責任も視野に置くべきだろう。瓦礫の下に放置されたまま息絶えていった福島県・浜通りの被害者や遺族たちが納得することをおこなわなければならない。

東電歴代役員の(補償への)「私財提供」と「刑事責任追及」の2つの問題は、国会での大きな焦点にしていかなければならない。

カテゴリ: 地震

人々の心を打つ芯とは

2011.05.13

昨夜は、新刊の「蒼海に消ゆ」の取材でお世話になった三人の一橋大学OBに感謝の宴会をさせてもらった。主役の松藤大治さんの剣道部のライバルだった杉本一郎さん(89)と、大学の一年後輩にあたる河西郁夫さん(88)、そして一橋大学剣友会の加藤順さん(63)の三人である。

担当の編集者である高田功さんを交え、都合5人の宴会となった。取材でお世話になった一橋の方々のお元気さには、改めて驚かされた。

昨今の日本人の中には、勝ち馬に乗ることばかりを考え、目先の利益しか目に入らず、些細なことに右往左往する人が少なくない。しかし、「蒼海に消ゆ」の主人公で、米カリフォルニア生まれの日系2世・松藤大治少尉は、「日本は戦争に負ける」ということがわかっていながら、その負ける側の日本の国籍を選択し、自らの命を散らしていった人物である。

その毅然とした生きざまは、現代の日本人の心も必ず捉えると思う。鬼畜米英のスローガンが国中に満ちていた戦時下、松藤さんは「外交官となって、日本とアメリカ両方の役に立ちたい」という希望に向かって突き進んでいた。だが、大きな時代の流れが松藤さんにその希望を叶えさせなかった。

それでも、爽やかに23歳の短い人生を駆け抜けていった松藤さんの存在――この物語を出来るだけ多くの人に知ってもらおうと、昨夜の宴会に参加した全員の意見が一致した。

一夜あけて、今日の午後は、真珠湾攻撃やミッドウエー海戦に参加した歴戦の元兵士(海軍の艦攻の搭乗員)のお宅にお伺いし、時間が経つのを忘れて当時の秘話に聞き入った。90歳とは思えない元気さと記憶の確かさに頭が下がった。

「また何度でも来なさい」と、声をかけてくれたこの元兵士には、これからもじっくりお話を伺わせていただきたく思う。体験者でなければ語ることのできない秘話の中にこそ、人々の心を打つ芯が眠っている。

カテゴリ: 歴史

久しぶりに爽やかなニュース

2011.05.09

連休明けの今日、台湾の友人から、ある連絡を受け、爽やかな気持ちになった。大震災直後から、日本のことを最も心配してくれた台湾の人々に関するニュースである。

人口2300万人に過ぎない台湾で、世界中で圧倒的な額の日本への義援金が集まっている(現時点で160億円を超えている)ことは報道もされているので、多くの日本人が知っている。台湾の友人によれば、小学生までが自分のお小遣いの中から「これを日本のために使ってください」と出してくれているという。

しかし、菅政権は、アメリカや中国、韓国などの大手7紙に震災支援感謝の広告を出したが、台湾の新聞には出さなかった。お得意の「中国への配慮」というものである。圧倒的な160億円を超える義援金が集まった台湾を、感謝広告の対象から外したというのだから、さすが“軸”のない菅政権らしい行動である。

しかし、それを知った川崎市の女性がツイッターで「台湾にもお礼したい」とつぶやいたところ、全国から一挙に6000人を超える人々から2000万円近い賛同金が寄せられたという。そして、その賛同金によって、先週(5月3日付)の台湾大手紙「聯合報」と「自由時報」に日本人による感謝の広告が掲載されたのだ。

それは、日本語で「ありがとう、台湾」、中国語で「皆様の愛情に感謝します。私たちは永遠の友だちです」というメッセージが書かれた感動の広告だったという。 そのことに対する嬉しさと感動が、伝えてくれる台湾の友人の言葉からひしひしと伝わってきた。

メンツや建前だけの日本政府と違って、日本人の多くは、台湾人という温かい隣人に感謝をしている。こういう国難の時にこそ、本当の友人が「誰であるか」がわかるものだ。

それにしても、一人の女性のつぶやきによって、日本政府が伝えられなかった国民の本当の気持ちが「新聞広告」という形で示されたことは、素晴らしいと思う。「愛情に感謝します。私たちは永遠の友だちです」という言葉は、多くの日本国民の本当の気持ちだからだ。

私は昨年、受けた恩義に報いるために密航してまで台湾を救いに行った根本博・陸軍中将のノンフィクション『この命、義に捧ぐ』を上梓したばかりだ。同著は、ちょうど大震災の時に『為義捐命』という題名で、台湾で翻訳本が発売になっている。

根本中将が決死の覚悟で示したように、日本人は義を重んじる民族である。その日本人の本来の姿と気持ちが、時を経て、一人の女性のつぶやきから台湾の人々に示されたことは感慨深い。久々に爽やかな気持ちになる台湾からのニュースだった。

カテゴリ: 台湾

大相撲協会よ、“私企業”として出直せ

2011.05.08

本日、大相撲の“技量審査場所”がスタートした。放駒理事長の言葉によれば、「故意の無気力相撲の根絶」をはかるための第一歩である。だが、なにかシラジラしく感じるファンは少なくあるまい。その原因はどこにあるのだろうか。

大相撲の八百長問題は、古くて新しい問題で、ファンも半ばそれを知りながら大相撲を楽しんで来た歴史がある。年6場所という過密スケジュールの中、力士たちが互助組織的な世界に身を置いていることを知った上で、しかし、「すべてが八百長ではない」こともわかっており、そこに勝負の世界の魅力と厳しさをファンは見て取っていたのである。

しかし、北の湖理事長時代に大相撲協会は取り返しのつかないことをやってしまった。大相撲の八百長疑惑を10週連続で報じた講談社の「週刊現代」を相手取って、大相撲協会と北の湖理事長、そして力士32人が、名誉棄損による損害賠償計約8億円を求める訴えを起こしたのである。

その訴訟で、講談社側は敗訴し、週刊現代は記事の取り消し広告を掲載し、北の湖元理事長が約755万円、ほかの4人はそれぞれ約25万円の賠償金を受け取ったのである。このことの持つ意味はとてつもなく大きい。

言うまでもなく、大相撲協会は現在、八百長相撲を認めている。それによって、疑惑の力士たちが次々と引退に追い込まれていった。しかし、大相撲協会は「法廷」という虚偽証言が許されない場で、「八百長は存在しない」などと虚偽の主張をして、賠償金を騙し取ったのである。

いや、もっとわかりやすく言えば、彼らは八百長を知りながら、メディアを訴えるという“能動的な行為”を敢えておこなった集団なのだ。そんな相撲協会が「再出発する」と言って、果たして心から応援できるファンがいるだろうか。

週刊現代側は、北の湖元理事長ら5人を詐欺罪で警視庁捜査2課に刑事告訴した。先月6日、北の湖元理事長は弟子が八百長に関与したことを受けて、理事から役員待遇委員に降格となったが、いまだに協会内部に居座り続けている。

そんな自浄作用のない協会を心の底から応援できるファンは少ないだろう。少なくとも公益法人としてのさまざまな特典を享受している現在の「財団法人」という地位を返上し、私企業として出直すのがまず改革の「第一歩」ではないだろうか。

カテゴリ: 相撲

東電がらみの2つの問い合わせ

2011.05.07

昨日は、東京電力がらみで2つの取材を受けた。一つは、東京電力の記者会見が一般に公開され、そこで反原発運動の運動家たちが会見に出席し、会見が荒れていることに対するコメントを求められたものである。

もう一つは、私が東京電力の勝俣恒久会長たちと一緒に“あご足つき”で、中国に旅行したのではないか、という問い合わせだった。前者は某大手紙からの取材で、後者はある政党機関紙からの問い合わせだ。

前者については、「大手マスコミだけに限られた会見よりも、たとえ反原発の運動家が参加しようと、原則、会見はオープンにすべきである」という意味のコメントをさせてもらった。会見する側の当事者と“なあなあ”でおこなわれる記者会見をよく目にするが、そんなものより緊張感を持って、国民の怒りが直接、東電にぶつけられる形式の会見の方が幾倍もいいと思うからである。

さまざまな会見を見ていると、大手マスコミの驕りを感じることが多々あるので、そのあたりも私がオープンな会見が必要であると思う理由の一つだ。

もう一つの問い合わせの方は、正直、仰天した。新聞、雑誌の幹部たちと共に、私が東電に中国旅行の招待を受けて、ただで「中国に旅行してきた」というのである。

たしかにネットを見れば、そんな情報が流れている。私は、東電の勝俣会長と会ったこともなければ、当然、旅行したこともない。面識すらない人間の私ですら、ネットでは、東電の“あご足つき中国旅行”の接待を受けていることになっているらしい。私は、某宗教団体には、とんでもない誹謗中傷をいつも流されているが、それにしても、ネットのいい加減さには呆れる。

いちいち気にしていては、ジャーナリストの仕事はできない。一方で応援してくれる人もいれば、一方では必ず足を引っ張ろうとする人間も、残念ながらいるからだ。ノンフィクションンの世界は特殊な世界だけに、そういう誹謗中傷にも耐えていくしかないのである。

カテゴリ: マスコミ

久しぶりに神宮球場へ

2011.05.04

今日は、久しぶりに神宮球場に出かけた。今年のドラフトの目玉で東洋大学のエース・藤岡貴裕が神宮のマウンドに上がるからである。

群馬の桐生第一出身で、2年生の時に彗星のごとく現れたこの左腕は、すでにプロ野球のエース級の力を備えている。左腕から繰り出す150㌔前後の快速球と、コーナーに見事にコントロールされたフォークやスライダーはアマチュアではとても打てるレベルの球ではない。

昨春は、東都1部リーグで39イニング連続無失点という離れ業を演じた絶対的なエースである。今秋のドラフトでは、各球団の圧倒的な注目を浴びるのは間違いない。

だが、今日は、マウンドで身体がやや重そうだった。球に普段ほどのキレは見えなかったが、それでも中央大学打線をヒット5本2失点に抑え、危なげなく完投した。調子が悪い時も悪いなりにまとめるところがさすがである。

対戦した中央大学は先発の左腕・入江慶亮に東洋大打線のタイミングが合い始めた4回から5回にかけて、エース鍵谷陽平への継投時期を誤ったのが痛かった。この時点では、まだ1対1の同点だっただけに百戦錬磨の中央・高橋善正監督(元巨人)には珍しい継投ミスだった。

高校野球も各地区で春季大会が開かれ、大学野球と共にいよいよ佳境に入ってきた感がある。あっちこっちに観に行かなければならない試合や選手がいるが、別件の取材を抱え、それもままならない。

4月末に発売になったばかりの新刊『蒼海に消ゆ』の販売促進の意味もあって、あっちこっちの会合に顔を出さなければならないため、なかなか腰を落ち着かせて野球を観る余裕がない。6月の全日本大学野球選手権までには、なんとか取材と締切にひと区切りをつけたい。

カテゴリ: 野球

根本中将“密航の地”と延岡

2011.05.02

昨日は午前中、宮崎県延岡市の周辺で前著『この命、義に捧ぐ』の根本博中将の密航ゆかりの地を見てまわった。東海(とうみ)、土々呂(ととろ)、細島港など、根本中将を送りだした明石元長氏の残したメモに出て来る地名が次々と現われ、感慨深かった。

午後からは、一式陸攻で2度も特攻航空兵器『桜花』を抱いて出撃しながら、2度とも九死に一生を得て帰還した元操縦士に3時間以上にわたって当時のお話を伺った。

特に2度目の出撃は、奄美大島のすぐ近くにある喜界島にグラマンに追われて不時着するなど、まさに生き残ったのが「奇跡」という人物の経験談である。実戦を体験したパイロットでなければとても表現できないリアルな描写の連続で、3時間もの間、息を呑みながら取材させてもらった。

夕方、取材を終えた私は、宮崎空港に向かい、最終便で帰京。久しぶりの東京は、すっかり温かくなっていた。

神宮球場を中心に、学生野球も佳境に入ってきたようで、ここのところ歴史モノにシフトしている私に、「一緒に野球観戦を」と言ってくれる仲間もおり、久しぶりに球場に足を運ばねば、と思う今日この頃である。

カテゴリ: 歴史

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