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後世の「道しるべ」になると信じて

2011.09.30

今日で9月も終わる。先週、取材先の台湾から帰ってきたばかりだが、今週は岡山、名古屋、京都と出張がつづいている。今日午後は、名古屋で4時間半にわたってソ連軍と終戦後、激闘を演じて生き残った占守島(しゅむしゅとう)の元戦車兵(89)に取材をさせてもらった。

死を覚悟した戦車隊の奮戦は戦車第11連隊を指揮した池田末男連隊長の壮列な戦死と共に現在も語り伝えられている。今日はその有り様を生還者に細部にわたって直接伺うことができた。いつもながら、人生の晩年を迎えた老兵たちの証言には鬼気迫るものがある。

この占守島の激闘がなければ、北海道の北半分はソ連に占領され、いま「日本ではなかったかもしれない」と言われている。それを阻止するために死んでいった多くの兵士たちの思いを今日は聞くことができた。老兵たちの詳細な証言を聞けば、戦後の日本が何かを失ったのではないか、と多くの人が思うに違いない。

私は明日、インパール作戦の生き残りと京都でお会いする。拙著『太平洋戦争 最後の証言』第2部の「陸軍編」の取材も大詰めを迎えようとしている。

大正生まれの若者1348万人の内、7人に1人にあたる約200万人が戦死した悲劇は、後世の私たちがしっかりと受け止めなければならない。

私は、彼らの後世に託す証言をできるだけ正確に、そして私情を交えず客観的に記さなければならないと思う。彼らが語る真実こそ私は、後世の「道しるべ」になると信じている。

カテゴリ: 歴史

大きな転機を迎えた永田町

2011.09.27

今日の朝刊は、昨日の小沢一郎・民主党元代表の政治資金を巡る事件で元秘書3人に有罪判決が出た記事で埋め尽くされている。ある意味、この判決は私にとっても意外なものだった。

それは、供述調書の証拠採用をしないままの「有罪」だったことだ。裁判が始まった当初、「陸山会」の土地購入に対して政治資金規正法違反(虚偽記載)に問われた石川知裕衆院議員(38)ら元秘書3人の有罪判決は予想されていた。

しかし、供述調書が「検察の威圧的な取り調べや利益誘導があった」として証拠採用されなかった段階で雲行きが変わった。ひょっとしたら無罪判決が出るかもしれない、という観測が流れたのである。

刑事裁判では、供述調書の威力は絶大だ。だが、一連の検察不祥事の影響を考えて、裁判所はその供述調書を採用しないという判断をおこなった。この時点で、小沢側の弁護団は、「しめた」と思ったに違いない。

しかし、裁判所は、昨日の判決で供述調書に頼ることなく、3人の有罪を決定した。判決の中で衝撃的だったのは、「合理的説明なく4億円の存在を隠そうとした」というくだりだ。

争点となってきた水谷建設からの「1億円の裏献金」について検察側の「多額の資金の流れを隠す悪質な犯行」との主張を認め、裁判所は小沢事務所の行為を断罪したわけである。

今回の「予想を超えた」判決で、政界には衝撃が走っている。野党は、小沢氏の証人喚問を強硬に要求していくだろうが、小沢弁護団が裁判をタテにそれを認めるはずがない。実現は到底不可能だ。

だが、小沢氏の発言力が落ちていくのは確実で、野田首相にとっては一時期窮地に陥っても、長期的にはプラスに作用する。野田首相の「安定政権づくり」には、実は好都合と言える。

かつて小沢氏の師匠・田中角栄がロッキード裁判で有罪判決を受け、田中派の膨張にその後の精力をつぎ込んだ姿を思い出す。だが、小沢氏には、田中角栄のようなパワーもカリスマ性もない。昨日の判決で、政界は大きな転機を迎えた。

カテゴリ: 政治

地道な活動をつづける台湾在住の研究者たち

2011.09.23

昨夜、台北から帰ってきた。台風15号の影響で成田便が欠航し、1日滞在が伸びた。思わぬ滞在延長により、忠孝東路の居酒屋で台北の青年実業家、大手紙の台北支局長、そして在台ジャーナリストの3人と飲む機会を得た。

さすが台湾の事情に通じた方ばかりだったので、いろいろ参考になる話を聞かせてもらった。話題になった中に、台北の南京東路と林森北路の交差点近くにある十四号公園(通称・林森公園)に明石元二郎・第七代台湾総督の墓にあった「鳥居」がもとの場所に戻されたという話があった。

長く総統府前の二二八公園(日本統治時代は「台北新公園」と呼ばれていた)に置かれていた明石元総督の墓前にあった鳥居が昨年十月、もともとの場所に帰ってきたというのである。それと共に、乃木希典・第三代台湾総督のご母堂の墓前にあったものとされてきた小さい方の鳥居も、戻されていた。

しかし、この日、私を宴席に招待してくれた台湾の青年実業家の説明によって、それは乃木将軍のご母堂のものではなく、明石総督に仕えた鎌田正威(まさたけ)秘書長のものと確定したことを教えられた。

私は驚いた。鎌田正威と言えば、台湾総督府で「この人あり」と言われながら、50歳という若さで悪性貧血により病死した人物だ。明石総督の信頼も厚く、その後の総督も鎌田を重用し、謀略活動も含め、さまざまな活動を展開した。

台湾総督府だけでなく、台湾軍(注・日本陸軍が台湾に置いた軍)にも、鎌田は強い影響力を持っていた。だが、志なかばで若くして病死したため、鎌田のことはほとんど本に書かれたことがない。

しかし、昨年上梓した拙著「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」に、私は鎌田正威のことを書いている(245頁~255頁)。香川県の坂出に生まれ、東大法学部政治学科を卒業して台湾総督府に入った鎌田は、その短い生涯を台湾のために捧げた。日本人と台湾人の区別なく、多くの関係者が彼の死を悼み、その能力と識見が失われたことを嘆いた事実を、私は取材の過程で知った。

根本博・元陸軍中将が台湾に密航し、金門戦争で勝利をもたらす陰で、私は、台湾総督府人脈が動いたことを「この命、義に捧ぐ」の中で詳述した。その中に登場する一人が鎌田に関係する人物であり、その人物が直接“根本密航”の支援に加わっていたことも書かせてもらった。

詳しくは拙著をお読みいただきたいが、その人物の墓前に建てられた鳥居が、70年以上を経て明らかになるとは驚きというほかない。歴史が日々、新しい発見によって変わっていくことを目の当たりにした思いがする。

1日台湾滞在が延びたお陰で、貴重な事実を教えてもらった。酒を傾けながら、私は地道な活動をつづける台湾在住の研究者たちの熱心さと探究心に頭が下がる思いがした。

カテゴリ: 台湾

マニラ市街戦を生き抜いた元台湾兵

2011.09.20

今日は、台湾の苗栗県の竹南まで取材に行ってきた。台北駅から特急の自強号で1時間半もかかる場所だ。ここで89歳になる一人の老人が私を待ってくれていた。

昭和20年2月、日米の両軍がフィリピンの首都マニラで市街戦を繰り広げ、10万を越す市民や兵士が犠牲になった。その地獄の市街戦を生き抜いた元台湾兵である。第3部まで続く拙著「太平洋戦争 最後の証言」の取材だ。

老兵たちが住む地は、北海道から沖縄まで多岐にわたるが、しかし、台湾在住の老兵にまで話を伺うことになるとは、さすがに感慨深い。自分たちを指導し、そして最後まで守ってくれた日本人の上官に対する感謝の言葉が、氏の口から次々と出てきた。

極限の場面で発揮される人間の優しさは、70年近い歳月を経ても、部下たちの心の中にしっかりと記憶されていた。この元台湾兵の述懐も、近くお届けしたい。

カテゴリ: 歴史

台湾人の心を揺さぶった6人の若者たち

2011.09.19

感動のゴールだった。太平洋の大海原を望む台湾・宜蘭(ぎらん)県の蘇澳(すおう)。その地の豆腐岬と呼ばれるビーチに、「日台黒潮泳断チャレンジ2011」に挑戦した6人の日本人スイマーたちの姿が見えた。

東日本大震災に対して200億円を超えるダントツの義援金を寄せてくれた台湾に、泳いで感謝の気持ちを伝えたいという6人の若者が沖縄県の与那国島を2日前に出発、数々の困難を乗り越えてここまでやっと辿り着いた。

彼らを迎えに行くべく、数十人の台湾のスイマーたちが6人に向かって泳ぎ始めた。ビーチまで、あと200メートルほどの海面で、日台のスイマーたちが握手し、抱き合った。6人を守るように台湾のスイマーが一緒にゴールを目指す。

9月19日朝9時40分、ついに6人は海岸へ辿りついた。ビーチに歓迎のアナウンスと音楽が響き渡る中、蘇澳の小学生や中学生がドラムのような太鼓を叩き、大きな幟(のぼり)を振って、詰めかけた台湾の大人たちと共に、彼らの勇気を讃えた。

海岸は感動に包まれた。子供たちが「謝謝! 謝謝!」を連発する中、6人が松本彧彦(あやひこ)・チャレンジ実行委員長とがっちり握手し、歓迎の台湾の人々にもみくちゃにされた。6人のスイマー(鈴木一也、鈴木敦士、石井健太、山本晴基、清水雅也、山田浩平の各氏)が自らの肉体を通じて、日本人の感謝の気持ちを伝えた瞬間だった。

東北3県の知事の感謝のメッセージを携え、日本から台湾へ約110キロを泳いで渡ってきた彼らの行動に、逆に、台湾の人たちから「ありがとう! ありがとう!」という言葉がかけられた。

国連への加盟も許されない複雑な立場にある台湾。しかし、6人の若者は、そういう苦労の中にある台湾の人々へ、日本人の感謝の気持ちを確かに伝えたのである。

イベント終了後、私は台北に向かうバスに同乗させてもらうなど、1時間半にわかって彼らに取材をさせてもらった。そこには想像を絶する困難と障害があった。この壮挙の詳細は、近くレポートとして発表させてもらおうと思う。

カテゴリ: 台湾

黒潮に挑む若者の勇気と気迫

2011.09.18

東日本大震災への台湾からの「世界一の義援金」に対して、日本のスイマーたち6人が与那国島から台湾の蘇澳まで泳ぎ、その感謝の気持ちを伝えようとしている。彼らには東北3県の知事のメッセージも託されている。

参加した6人の中には、福島県相馬市出身のスイマーもいる。流れの激しい黒潮を横断する勇気と体力、150キロもの距離、サメの恐怖、さらには、台風による高波……。

さまざまな障害と闘わなければならない無謀なまでのチャレンジは、「日台黒潮遠泳チャレンジ2011」と名づけられた。大手マスコミの報道によって、広く両国の国民に知らされたこのイベントが、明日朝10時に台湾の蘇澳で決着する。

私はそれを見届けるために台湾に来ている。ほかにも、今年12月発売予定の「太平洋戦争 最後の証言」の 第2部「陸軍玉砕編」の取材が台湾の竹南という地であり、急遽、飛んで来たのだ。

無謀であろうと何であろうと、感謝の気持ちを伝えようとする若者の気持ちが素晴らしい。明日、このチャレンジをおこなった若者たちに取材し、あさっては、昭和20年のマニラ市街戦に投入され、九死に一生を得て生き残った台湾生まれの元兵士に取材する予定だ。

「太平洋戦争 最後の証言」の取材も、いよいよ佳境に入っている。若者たちの勇気と気迫に負けてはいられない。

カテゴリ: スポーツ, 台湾, 歴史

イチローよ、残り打席をできるだけ楽しめ

2011.09.14

マリナーズのイチローが、今日の対ヤンキース戦で5打数1安打に終わった。今季170安打で、シーズン200安打までは、残り14試合で30本となった。11年連続のシーズン200安打達成には、残り試合を「1試合2安打」以上打たなければならず、今季のペースから言って、実現は極めて難しくなった。

メジャーで前人未到の「10年連続シーズン200安打」を達成しているイチローが、近代ベースボール史上、“最高”のバッターであることは、確かだろう。“最強”のバッターなら、ベーブ・ルースやルー・ゲーリック、あるいはジミー・フォックス、ウィリー・メイズ、ハンク・アーロン、バリー・ボンズなど、多くの名前が上がってくるが、“最高”のバッターと言えば、やはり広角打法とスイングの速さ、選球眼、あるいは、凡ゴロでも安打にしてしまう類い稀な俊足……等々、イチローの右に出る者はいないだろう。

それだけに、ここで記録が途絶えるのは残念だ。だが、イチローがどれだけ苦しみながら「200安打」に挑戦して来たかを日本の野球ファンは知っている。

あの2年前の第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で全日本のトップバッターとして不振を極めたイチローは、それでも決勝の韓国戦で、延長戦の末、決勝打を放ち、日本中を歓喜させた。

しかし、私たちが大会後知ったのは、その不振に悩んだイチローが胃に穴があくほど「苦しんでいた」という事実だった。大会後、入院したイチローの姿を見て、野球ファンは全日本チームを牽引(けんいん)したイチローの使命感と責任感、そして気迫の凄まじさを垣間見た。

誰にも負けないプロ意識で数々の記録を打ち立ててきたイチローは、シーズン最多安打「257本」の大リーグ記録を持つジョージ・シスラーを凌駕した2004年以降、もはや「違う次元」の選手となってメジャーのファンを魅了しつづけた。

それを支えたのは、WBCで自身の胃に穴をあけたほどのイチローの使命感と責任感だったに違いない。だからこそ、今、多くのファンがイチローをこのプレッシャーから解放してあげたいと思っている。

イチローには、残りシーズンの1打席1打席を楽しみながら、リラックスしてプレーして欲しいと心から思う。イチローが苦しみ抜きながら達成した「10年連続200本安打」の大記録は、たとえ今年で途切れようと決して色褪(あ)せることはない。

おそらく、メジャーで今後この記録を破る選手は現れないだろう。それほどイチローの記録は驚異的なものなのである。すでにイチローも、かの長嶋茂雄が引退した時とほとんど同じ年齢(37歳~38歳)にさしかかっている。残りのシーズンを、そして来季以降も、1打席1打席を楽しみながら、その姿をできるだけ長くファンの前で見せて欲しいと思う。

カテゴリ: 野球

「素人内閣」で国民の生活を守れるか

2011.09.13

最高気温21度の旭川から32度の東京へ帰ってきた。さすがに東京は残暑が厳しい。朝方は霧さえ立ち込めていた旭川とは、えらい違いである。昨日、私は、涼しい旭川で、ガダルカナル島で玉砕した一木支隊の92歳の生還者と時間を忘れて話し込んだ。それが、随分、前のような気がする。

私は、旭川と少なからず縁がある。2年前、旭川で育った伝説の名投手、ヴィクトル・スタルヒンを取り上げたNHKの「こだわり人物伝」という番組でナビゲーター役を務め、旭川市内のスタルヒンゆかりの地をいろいろ訪ねて、レポートさせてもらった。

また、昨年上梓した「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」では、この旭川の第七師団の歩兵第27聯隊の聯隊長だった根本博中将の足跡を追って、何度も旭川に来ている。吹雪の時に来た時もあれば、暑い時期に来た時もある。いつ来ても、旭川の人たちは素朴で優しい。スタルヒンや根本中将が終生、旭川を愛したのもわかるような気がする。

旭川の取材を終えて帰ってきた東京では、本日、野田佳彦首相の所信表明演説があった。怒号が飛び交う騒然とした雰囲気の中で、演説のうまい松下政経塾出身者らしく、怯(ひる)むことなく迫力と説得力を意識した熱弁だった。だが、その意欲とは裏腹に、野田政権は迷走しつづけている。

これまでのブログでも書いたように、「私は安全保障の素人」と言ってのけた一川保夫防衛相や、リンチ殺人事件の被害者の母親を前に、「(殺人者にも)犯罪を犯す事情があったんですよ」と発言した平岡秀夫法相、現地視察のあと、着ていた服の袖を取材記者にこすりつける格好をしながら、「ほら、放射能」とはしゃいで辞任した鉢路吉雄・経済産業相、そして、後任の経済産業相に就いた途端、経団連の米倉弘昌会長に「もっと経済のことを勉強して欲しい」と言われてしまった枝野幸男氏……。

発足してわずか2週間足らずなのに、野田内閣への国民の失望は深まるばかりだ。強烈な世界同時株安の恐怖が日本経済には迫っているのに、果たして、この素人内閣は「国民の生活」を守ることができるのだろうか。

いくら得意の演説を美辞麗句で飾ろうと国民の信頼を勝ち取るまでには、道険しの感が強い。気温30度を超える東京に戻ってきて、私はそんなことを考えていた。

カテゴリ: 政治, 歴史

野田首相の“致命的な”勘違い

2011.09.10

“素人内閣”の綻(ほころ)びが次々と出ている。鉢呂吉雄・経済産業相が今夜、「私の一連の発言で国民の皆様、とりわけ福島県民の皆様に多大な不信の念を抱かせ、心からお詫びしたい」と謝罪し、辞任した。

福島視察から帰京した9月8日夜、現地を“死の町”と表現し、着ていた服の袖を取材記者にこすりつける仕草(しぐさ)をしながら、「ほら、放射能」とはしゃいだ僅か2日後の辞任劇だった。

私は、この手の失言や行動で閣僚が辞任することには、基本的に賛成ではない。揚げ足とりしか能がないマスコミが、ひたすら閣僚たちの失態ばかりを探す姿勢は不快この上ない。

しかし、私は今回の件は、野田内閣を象徴的に表す出来事として、違う意味で興味深く見ていた。なぜなら、今回の事態は、野田首相の致命的な勘違いがもたらしたものだからだ。

これまでのブログでも書いてきたように、“党内融和”を唯一絶対の目的にして内閣を発足させた野田首相は、それさえ実現すれば、「なんとかなる」と微塵も疑っていなかったフシがある。そのために、かつての自民党の5大派閥時代の悪弊そのままに民主党内の各派閥(グループ)が推薦する議員をそのまま閣僚に嵌(は)めこんでいった。

だが、その結果、自らを「素人」と称した防衛大臣や、人権の何たるかも知らず法務大臣の地位に着いた人物、さらには4日間で臨時国会を閉じる理由について「内閣が不完全な状態では十分な答弁はできない。完全なものにしてきちんと対応したい」と言ってのけて大反発を食らった国対委員長など、国を担う資質が決底的に欠如した議員たちによる失態が次々と明らかになっていった。

今回の鉢呂事件もそうだ。しかし、これこそが野田新首相の致命的な勘違いから生じていることを、野田氏自身も、あるいは国民もどのくらい気づいているだろうか。野田氏は今、「すべては、自分が本格政権をつくった時を見てくれ」と心の中で叫んでいるのだろう。

野田氏は、まず第一次野田内閣で“党内融和”をはかり、地盤が固まってきて初めて自分の思い通りの政策を実現できる内閣をつくっていこうと思っているに違いない。だが、前述のようにこれこそが野田首相の「勘違いによるもの」なのである。

いま日本は、2年3年先を「待っていられる」ような状態にはない。復興についても、経済についても、さらには中国やロシアの出方も含めて、安全保障問題についても、「今」こそが国家として最重要な時期であることは言うまでもない。

それにもかかわらず、政権をとることだけが「目的」の人物が集まった松下政経塾の一期生である野田氏は、「日本をこう持っていく」という信念もないまま、“素人”だけの内閣をつくり上げ、今、そのことへの強烈なしっぺ返しを受けている。

それは、国民と国家を舐めていた野田氏本人へのしっぺ返しにほかならない。野田氏は、自分自身の勘違いを今こそ振り返る時だろう。なぜなら、国家の領袖とは、野田氏が考えているほど軽いものではないからである。

すでに野田氏は組閣において致命的な失敗を犯した。それは国民への背信行為といってもいい。しかし、遅くはない。反省すべきは反省し、自らの姿勢を振り返っていくべきである。古来、伝えられるように“過ちは改めるに如くはなし”だからだ。

カテゴリ: 政治

“神話のふるさと”宮崎にて

2011.09.09

夜、出張先の宮崎から東京に帰ってきたが、明日は北海道の室蘭だ。太平洋戦争の元戦士の取材も九州から北海道まで広範囲にわたっているため、東京に腰を落ち着ける時間がないまま次の取材に向かうことが続いている。

さまざまな証言を聞くたびに心が動かされることが多い。それと共にその地方の人たちと話している内にヒントを得る場合も少なくない。今日の宮崎も、さまざまなことを教えてくれた。

宮崎といえば“神話のふるさと”である。時間の合間を見て、紀元2600年(昭和15年)に建てられた高さ40メートルに達する「平和の塔」(※当時は「八紘之基柱」と呼ばれた)や、神武天皇が住んでいたとされる皇宮屋(こぐや)、あるいは、そのすぐ近くに立っている「皇軍発祥の地」の碑などを見て来た。巨大な「平和の塔」は、見るものを圧倒する迫力があった。

皇宮屋のすぐ横に神武天皇が東方征伐のため兵を募ったとされる場所に立つ「皇軍発祥の地」の碑は、大きさでは「平和の塔」に劣るが、終戦後、自決した杉山元(すぎやま・はじめ)元帥の字が刻み込まれていた。

天照大神の高千穂町だけでなく、宮崎市も、これらの神話遺産を持っていることを私は知った。東国原元知事が去って以来、県全体がなんだか活気を失ったかのような印象がある宮崎県だが、県内のあちこちに点在する神話遺産は、全国の人々の関心を呼ぶものばかりである。

草っぱらに人知れずそういう碑が“放置”されている様子を見ると、その価値を宮崎の人々自身が気づいていないのだろう、と思う。たしかに神話というのは、不可思議なエピソードが記されていたり、あるいは、その言わんとする「意味」がわからないものも多い。しかし、宮崎県には、その神話上の出来事が「ここでおこなわれた」とされる場所があちこちに存在しているのである。

私たちは、「神話の国」と言えば出雲地方をイメージすることが多いが、実は宮崎県こそ、本場だ。実際に逸話や遺産がここほど多く残っている地はない。こういう遺産を大切にし、積極的にアピールしてこそ、観光県として宮崎が再出発できそうな気がするのは、私だけだろうか。

カテゴリ: 歴史

日本を憂える人たち

2011.09.06

昨夜、ホテルグランドヒル市ヶ谷で開かれた出版パーティーに参加してきた。かつての台湾の独立派運動家であり、日本で評論家・ジャーナリストとして活動する黄文雄氏のパーティ―である。

200冊を超える著書を持つ黄氏が出版パーティ―を開くのは、なんとこれが初めてだという。本の題名は、『哲人政治家 李登輝の原点』(WAC)である。台湾独立派だった黄氏は何十年も台湾への帰国が許されなかった。その黄氏が帰国できるようになったのは、台湾に、本省人である李登輝氏の政権が樹立され、その権力基盤が確立されて以降のことである。

その意味で、黄氏のこの本にかけた思いは強く、それが初めての出版パーティーにつながったのだろう。会場には、200人以上の人が詰めかけ、氏のこれまでの業績を讃え、今後の活躍を祈った。

かくいう私も、黄氏にはお世話になったことがある。ひとつ頼みごとをすると、黄氏はそのことを実現しようと必死でやってくれる方だ。口では愛想のいいことを言っても、実際には親身になってくれる人が少ない中、黄氏には、人のために一生懸命やってくれる温かさがある。

パーティーに駆けつけた人たちの中には、黄氏とは政治信条を異にする方々もいた。しかし、なにより黄氏の人柄に魅せられた方々が多かったように思う。

会場には、評論家の金美齢さんがおられたので、久しぶりに挨拶をさせてもらった。今年7月に出た拙著『康子十九歳 戦渦の日記』(文春文庫)では、感動的な文庫版解説を書いていただいた。そのお礼を直接言うことができた。相変わらずのお元気さで、日本の将来を憂いておられた。

その後、2次会にも参加し、日本を憂えているさまざまな方と知り合った。実は、パーティーの前、私は神奈川県下でレイテ戦の地獄の戦場から生還した90歳の老兵に長時間の取材をしていた。その元戦士も、日本の現状と将来を憂えていた。

野田政権が発足して間もないこの日、日本を憂える人がこれほど多いことに、改めて気づかされた1日だった。

カテゴリ: 歴史

野田“失望内閣”のスタート

2011.09.05

野田内閣が本格始動した。私にとって“失望内閣”のスタートである。どじょうが金魚になる必要はないが、国民をどじょうが棲むドロドロの泥沼に引き込むことだけは勘弁して欲しい、と野田新総理には言いたい。

今日、私はある雑誌からコメントを求められた。平岡秀夫法相をどう思うか、というものである。平岡氏は、かつて大津市の障害者リンチ殺人事件の被害者の母親とテレビで同席した時、「(殺人者にも)犯罪を犯す事情があったんですよ」「(犯人を死刑にして)死の恐怖を味あわせたいんですか?」と言ってのけた人物である。

私は、大津の障害者リンチ殺人事件を取材し、拙著『裁判官が日本を滅ぼす』の第12章で事件を詳述させてもらった。それは、平岡氏が言うように「(殺人者にも)犯罪を犯す事情があった」などというようなものではない。

事実は、障害者である少年が必死に勉強して全日制高校に合格し、そのことを妬(ねた)んだ暴走族たちが、彼を呼び出し、殴る蹴るの暴行を働いて“なぶり殺し”にしたものだ。人の成功を妬み、わざわざ呼び出してまでリンチ殺人をおこなった無惨な事件だった。

しかし、家庭裁判所では「少年には内省力があり、感受性も豊かで可塑(かそ)性や教育可能性が認められる」という処分理由によって、犯人の少年たちは中等少年院に送られ、わずか2年ほどで娑婆に舞い戻り、地元を闊歩するようになる。

その理不尽さを訴えた被害者の母親に対して、平岡氏は冒頭の発言をテレビでおこなったわけである。平岡氏は、おそらく「人権」というものの本当の意味が理解できないレベルの政治家なのだと思う。殺人者の人権とは、被害者の人権を無惨に断ちきって初めて生じる「権利」である。この権利を、断ち切られた側の被害者の権利と同等に、あるいはそれ以上に捉えているのが平岡氏だ。

「(犯人を死刑にして)死の恐怖を味あわせたいんですか?」という平岡氏には、被害者やその家族の無念や、犯罪予防の視点も、まるでない。人権の意味を取り違え、犯罪者の「利益」を過剰に擁護することこそ「人権を守ることである」と勘違いし、自分は人権を守る人間だ、と陶酔しているレベルではないだろうか。

求められたコメントでは、そのことを言わせてもらった。野田内閣の問題閣僚は、ほかにもいる。記者に対して「私は安全保障の素人だが、それが本当のシビリアンコントロール(文民統制)だ」と言ってのけた一川保夫防衛相もその一人だろう。国家の安全保障を担当する防衛大臣に「素人」を起用する野田氏の感覚とは、どんなものだろうか。

財務大臣という重要ポストに、実績もなく、菅政権の国対委員長として各党の国対委員長を呆れさせてきた安住淳氏を起用し、さらには厚生労働大臣に夫婦別姓を主張し、過激なジェンダーフリー論者として知られる小宮山洋子氏を起用するという有り様である。

野田新総理が、この国をどこに持っていこうとしているのかが透けて見えてくるような組閣だった。読売新聞による調査では、内閣支持率は65%で、内閣発足直後の調査(1978年の大平内閣以降)としては5番目に高かったそうだ。

この「失望内閣」のバケの皮が剥がれて来るのは、一体いつなのだろうか。国民の一人として頭が痛い。

カテゴリ: 政治