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雪の舞う新宿で……

2012.02.29

雪が舞っている。徹夜で原稿を書き、昼近くになって起きて窓のカーテンを開けたら、外は一面の銀世界だった。ここのところ原稿の執筆で西新宿の事務所に籠もっているが、普段は見える池袋のサンシャイン・ビルもまったく見えない。東京での久々の“豪雪”である。

今日は、4年ぶりの「2月29日」だ。うるう年の1日“得”をしたようなこの日に、東京をリフレッシュさせるかのように雪が大地を覆ってくれた。

今日は、先日94歳で亡くなられた長嶺秀雄さんの夫人・幸子さん(88)からお電話をいただき、ちょうど私が席を外した間だったので、すぐにおかけ直しをした。

長嶺さんは、2月19日のブログでも書かせてもらったようにフィリピンのレイテ島で第1師団参謀兼歩兵第57聯隊の大隊長として、リモン峠の激戦を生き抜いた元少佐だ。

自ら率いた大隊およそ800名のうち、生き残ったのはわずか「18人」だったという激戦の元指揮官である。何発も銃弾を食らい、生涯、体内にその敵の弾を残して過ごされた長嶺さんは、戦後、防衛大学の教官として多くの教え子を育てた。

幸子夫人からの電話は、葬儀に当たってのお礼と長嶺さんの最期のようすを伝えてくれるものだった。昨年12月、長嶺さんは、私にも本について励ましのお電話をくださるほどお元気だった。12月19日には、お孫さんの結婚式に大阪まで出かけ、披露宴で「ここに幸あれ」を歌い、出席者の喝采を浴びられたそうだ。

最後までお元気だった長嶺さんだが、年が明けて、お子さんたちと熱海の温泉に出かけた後、調子を崩し、2月19日に眠るように息を引き取られた。

幸子夫人によれば、長嶺さんの体内に生涯あった米軍の銃弾は、小さな鉄の塊の“破片”となってご遺骨と共に残っていたそうだ。

長嶺さんご夫妻は昔の紀元節(2月11日の建国記念日)が結婚記念日だったことは以前からお聞きしていたが、今年は70周年の記念すべき日だった。残念ながら、この日を病院で迎えた長嶺さんは、受け取った花束に大層、喜ばれたそうだ。

幸子夫人の愛情に包まれて戦後を過ごした長嶺さんは、意識が薄れかけても幸子夫人が病院に来ると、幸子夫人の手を自分の唇に持っていかれたそうである。取材の時からご夫妻の仲睦まじさは私も感じていたが、最後の最後までそれは変わらなかった。

一面、銀世界の新宿の風景を事務所の窓から見ながら受話器の向こうの幸子夫人の声を聞いていると、毅然とした日本人が多かった“その昔”にタイムスリップしたかのような錯覚に私は陥った。

長嶺さんにもご協力いただいた『太平洋戦争 最後の証言』の締切が迫っている。いよいよ完結編である。力を振り絞って、毅然として死んでいった兵士たちの真実の姿を描きたい。

カテゴリ: 歴史, 随感

躍り出たマラソンランナーの“執念”と“資格”

2012.02.27

ここのところスポーツの話題をブログに書くことがなかったので、「一体どうしたんだ?」と言ってくれる友人がいる。

『甲子園への遺言』(講談社)、『ハンカチ王子と老エース』(講談社)、『神宮の奇跡』(講談社)、『あの一瞬』(新潮社)など、スポーツ・ノンフィクションを数多く刊行している私としては、この間、さまざま書きたいことがあった。

しかし、ほかに沢山書くことがあって、結果的にスルーになってきた。昨日の東京マラソンは、久々に手に汗握るものだったので少し感想を書かせて欲しいと思う。

この大会は、ロンドン五輪の代表選考を兼ねているだけに、選手たちも力が入っていた。特に“無収入ランナー”の藤原新(30)と“公務員ランナー”川内優輝(24)の一騎打ちが予想されただけに余計、ファンの注目が集まったと言えるだろう。

実業団に所属しないこの2人のランナーがロンドン五輪の候補者であるだけで、「時代は変わった」と思う専門家は少なくないだろう。オリンピックを目指す選手は、資金、環境などの面で多くの援助がなければ、世界の檜舞台に立つことは不可能、というのがこれまでのスポーツ界の常識だったからだ。

「賞金に目がくらんで必死だった」とレース後に冗談を交えて話した藤原新は、妻子を富山県に残しての挑戦だった。“単身赴任”の上、“無収入”だった藤原は、貯蓄を取り崩して五輪に挑戦してきたのである。

私は、レースのあいだ中、最終盤で藤原は“執念”を発揮できるだろうか、とそればかり考えていた。マラソンのヤマ場は、38キロから先である。残り5キロを切ってから、勝敗が分かれる場面が必ず現れるスポーツだ。

藤原はその一番苦しい38キロ過ぎから、それまでよりも一層、“胸”を張った。藤原がスピードを増して胸を張りながらピッチ走法に入った瞬間、私は、この選手はロンドンで「何か」を見せてくれる選手だと確信した。

昨秋、藤原は、無収入になった時、「足の故障」に襲われている。生まれて間もない赤ちゃんを抱えて、藤原はこの時、何を思っただろうか。

彼にとって、妻子を食べさせるのは、自分がレースに勝ち、五輪で結果を出すことしかなかった。“退路”はすでに断たれていたのである。そこで藤原が見たものは、恵まれた環境で駅伝やマラソンの練習に励んでいた実業団時代とはまるで違う光景だったに違いない。

その不安と、どん底の環境こそが、実はマラソンで最も重要な「38キロ過ぎ」に現われるものなのである。この執念がある選手は、マラソンで栄光をつかむ可能性がある。

“皇帝” ハイレ・ゲブレシラシエ(エチオピア)を日本人として初めて破った藤原。38キロを越えてから力を発揮できる執念を持つ日本人選手に私は久々に出会うことができた。

胸を張ったそのピッチ走法と気迫で、ロンドンでは表彰台に是非上がって欲しいと思う。君には、その「執念」と「資格」がある。

カテゴリ: マラソン

本村洋さんは何と闘ったのか

2012.02.26

連日、徹夜がつづいている。締切間近の『太平洋戦争 最後の証言』第三部の「大和沈没編」だ。ここ1週間は、光市母子殺害事件の最高裁判決があり、少し執筆から遠去かっていたため、原稿の仕上がりが遅れている。

取材に応じていただいた方々のためにも、貴重な証言をきちんと後世に残したいと思う。戦艦大和の生き残りには、結局、全国で17人お会いすることができた。そのうち昭和20年4月の沖縄への水上特攻で大和が沈没した時、東シナ海の重油の海から生還した方は「14人」にのぼる。

それぞれにさまざまな人生があり、おひとりおひとりが1冊づつの本になるほど、多くの示唆に富んだお話をいただいた。九死に一生を得て生き残った元兵士たちが90歳前後になって私に伝えてくれた事実の数々には息を呑む迫力があり、同時に元兵士たちの深い思いが籠もっていた。

いま取材ノートを整理しながら執筆していると、それぞれの表情が目の前に浮かび、声が聞こえてくるような気がする。貴重な老兵たちの歴史の証言をきちんとまとめて『太平洋戦争 最後の証言』を無事、完結させたいと思う。

さて、この1週間は、マスコミの話題を光市母子殺害事件の最高裁判決が独占した感があった。私が広島拘置所にいる犯人の元少年(30)との面会のことを書かせてもらった月刊誌『WiLL』も、本日、発売になった。

元少年が真摯に罪と向き合っているさまを私は記事の中で描写させてもらった。元少年と面会をつづけていると同時に、私は、この13年間、遺族の本村洋さんにもずっと取材をさせてもらってきた経緯がある。

『WiLL』の原稿を書きながら私が思ったのは、この13年間、「本村さんは何と闘ったのか」ということである。私は、最高裁の判決後、あるテレビ局にコメントを求められて「永山基準」に代わる「光市裁判基準」が示された、と答えた。

しかし、これは、「加害者の年齢」や「被害者の数」を念頭に置いたものではない。永山基準では、あたかも加害者の年齢や被害者の数を絶対的なものとして示したようにマスコミの報道では印象づけられている。

だが、それは事実とは違う。1983年に最高裁で「永山基準」が示されて以後、あたかも「被害者4人」でなければ、少年には死刑が言い渡せないような雰囲気が醸し出されたのは、事実だ。

だが、それは永山則夫が「4人」を殺害したのであって、この最高裁判断を参考にした日本の官僚裁判官たちが勝手に「永山基準」を「被害者4人を示したもの」と解釈してしまっただけのことである。

そこに“相場主義”が生まれ、刑事裁判の形骸化が進む原因があった。今回、もし「光市裁判基準」なるものが示されたのだとしたら、それは「18歳の少年」に「被害者2人」で「死刑判決」を下す、ということではなく、これまでの相場主義を廃し、「個別の事案を真剣に審理する」という“基準”が示されたと解釈すべきだろうと、私は思う。

すなわち「光市裁判基準」とは、少年でも残虐な犯行を起こせば厳罰で臨むというものであり、個別の事案にきちんと対応していくことを示したものと言える。その根本にあるのは、平穏に暮らす人々を犯罪から「全力で守っていく」というものである。

あの判決を考える時に、このことだけは見誤ってはいけないだろう、と思う。なぜなら、本村さんは、そのために「13年」もの間、戦いつづけたからだ。

カテゴリ: 事件, 司法

光市母子殺害事件の最高裁判断

2012.02.21

昨日、ついに光市母子殺害事件の最高裁の判決が下った。上告棄却で、元少年(30)の死刑が確定した。事件から13年の歳月をかけて辿り着いた結論だった。

拙著『なぜ君は絶望と闘えたのか』が出版されて3年半。ついに遺族の本村洋さん(35)は、死刑判決を勝ち取ったのだ。妻・弥生さん(23)=当時=と夕夏ちゃん(11か月)=同=の無念を胸に「この日」が来ることを願って闘いつづけた本村さんは、最高裁第一小法廷で万感の思いでその判決を聞いた。

法廷の最前列で、風呂敷で包んだ遺影を胸に弥生さんのお母さんの隣に座っていた本村さんは、その瞬間、「長い間、お疲れさまでした』とお母さんに声をかけた。ハンカチで目頭を抑えながら、お母さんは、「長い間……ありがとうございました……」と、答えていた。

弥生さんのお父さんや、本村さんのご両親、お姉さんの肩が震えていたのが印象的だった。その全員が、無残な弥生さんと夕夏ちゃんのご遺体を見て、この日が来るのを一日千秋の思いで待ち続けた方々である。

私は、この瞬間を傍聴席の三列目で静かに見つめていた。日頃、親しくしていただいているご家族だが、とても声をかけることはできなかった。一方で、私は広島拘置所で元少年と面会も続けている。粛然とする思いだった。

判決後、本村さんが記者会見で語ったのは、「この判決に勝者はない」という言葉だった。元少年の死刑が確定しても、それは「勝者がいない」ものだ、という本村さんの言葉は重かった。

判決の夜、私は本村さん、それにご両親と一緒に食事をした。13年間の苦悩を語る本村さんとご両親の言葉が胸に迫った。長かった裁判が本当に終わったことを実感させられた。

私はこの2日間、フジTVの『知りたがり』で事件の解説をさせてもらうなど腰の落ち着く暇がなかった。この事件の真実を伝えたかったので、私はできるだけ各テレビ局の出演要求に応えさせてもらった。しかし、そんな中でこの判決を境に各メディアが元少年の実名報道に踏み切ったことに私は驚いた。

各局は、「少年の死刑が確定することになり、社会復帰して更生する可能性が事実上なくなったことなどを考慮して、実名で報道しました」と放送した。

元少年が社会復帰して更生する可能性がなくなったことなどを「考慮」して実名報道するとは、なんと残酷な理由だろうか。更生する可能性がなくなれば実名報道していい、という無慈悲な理由を掲げるメディアのレベルに私は溜息しか出てこない。

少年法の第1条には、こう記述されている。「この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする」。すなわち、「少年法」の対象になるのは「非行のある少年」なのである。

家庭裁判所に送致されてきた少年の中で、“非行”ではなく凶悪な“犯罪”を犯した者は、検察に逆送致され、起訴されたあと公開の刑事裁判にかけられる。この段階で“少年法の理念”の対象外になると「解釈できる」という法律家もいる。

日本の少年法のもとになったのは、アメリカのイリノイ州で初めて少年裁判所が創設された時、基本とされた「国が親に代わって保護をする」という“国親思想”である。これを念頭にでき上がった「日本の少年法」の理念が凶悪犯罪を引き起こした少年に対しても、そのまま無条件で当てはめられるべきか否かは、議論が必要であることは間違いないだろう。

少なくとも、その問題意識を持つことによって、かつての日本の各メディアは、永山則夫や山口二矢(おとや)など凶悪犯罪を起こした少年を、実名報道してきた歴史がある。しかし、いま各メディアは、「社会復帰して更生する可能性が事実上なくなった」いう理由で、死刑判決を受けた元少年を実名報道するというのである。

なんと無残なことができるのかと呆れたのは、私だけではないだろう。私は、かつて元少年を実名で本に記述したことがある。しかし、それは少年法第1条の文言をはじめ、これらさまざまな事情を考え抜いた末に記述したものである。

この事件は、実名報道問題以外にもさまざまな問題を提起してくれる。メディアの愚かさが次々露呈されたのも、この事件の特徴といってもいいだろう。

日本の司法を大変革させた本村さんの偉業に拍手を送ると共に、この事件は、真に「改革」されなければならないのは実は「マスコミである」ことを教えてくれたような気がする。

カテゴリ: マスコミ, 事件

94歳「武人」の死

2012.02.19

知人から訃報が入った。昭和19年11月、フィリピンのレイテ島で第1師団参謀兼歩兵第57聯隊の大隊長として、リモン峠の激戦を生き抜いた長嶺秀雄さんだ。今朝、肺炎のために午前4時31分、息を引き取られた。94歳だった。

長嶺さんには、12月に出版したばかりの拙著『太平洋戦争 最後の証言』の第二部「陸軍玉砕編」にも登場いただいている。第五章「レイテ島“八万人”の慟哭」で詳細な証言をしてもらったのだ。

陸士51期卒の長嶺少佐は、自分が率いた大隊およそ800名のうち、生き残ったのは長嶺さんらわずか「18人」という戦史に残る激戦を米軍と繰り広げた。

長嶺さん自身も、最前線で戦いつづけて何発も銃弾を食らい、戦後もすべてを摘出することができず、生涯、体内に敵の銃弾を残して過ごされた。

私の「陸軍玉砕編」が校了間近の12月初め、長嶺さんからゲラを見ての感想をいただいた。「門田さん、いいものを書いてくれました。これからもどんどん書いて、意義のあるものを(後世に)残していってください」と温かい励ましのお電話をいただいたのが最後になった。

戦後、防衛大学教授となった長嶺さんは、後進の指導にあたり、多くの優れた幹部自衛官を育てた。また、優しく頭脳明晰な長嶺さんは、90歳を超えても各地で講演をおこない、戦争の実態を若い世代に伝えつづけた。

これで太平洋戦争の元戦士で、大隊長クラスの生き残りはほとんどいなくなった。戦争の苛烈さと重さを知る貴重な証人だった長嶺さんの独特の語りを二度と聞くことはできないのである。

戦争が遠くなりつつある。歴史を風化させないために、私たちジャーナリズムの最後の戦いもつづく。すべては時間との闘いである。長嶺さんの最後の言葉を胸に、さらに精進していきたいと思う。合掌

カテゴリ: 歴史

長い長い歳月の末に……

2012.02.18

昨夜遅く名古屋から帰京した。愛知県の一宮、そして名古屋市内で戦艦大和の生還者を訪ね、『太平洋戦争 最後の証言』第三部の「大和沈没編」の取材をほぼ終えた。

数年にわたる取材を終え、ほっとしたというのが正直な気持ちだ。大正生まれの元戦士たちを訪ねる作業が終わったかと思うと感慨深い。しかし、一挙に原稿執筆の方もスパートをかけなければならない。

今回、最後に会った大和の生き残りの方は、私が昨年出版した『蒼海に消ゆ―祖国アメリカに特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯』(集英社)を読んでくれていた。よほど印象に残ったに違いない。その方は、ありがたいことに拙著の「あとがき」で私が書いた文章を、自分の手帳に書き写してくれていた。

「まさか、その筆者に会えるとは夢にも思っていませんでした」と90歳間近のその方が手帳を見せてくれた時、私は感激すると共に“文字の力”というものを改めて考えさせられた。

活字離れがいかに進もうと、文字で表わしたものは長い風雪に耐え、人々になにがしかの思いや力を与えるものに違いない。ノンフィクション作品の存在意義を再認識させてもらった一瞬だった。

さて、あさって20日(月)には、いよいよ光市母子殺害事件の最高裁判決が下される。事件から12年10か月かけて辿り着いた判決がどんなものなのか、注視したいと思う。

ご遺族の本村洋さんの取材を私が始めたのは1999年8月、山口地裁の初公判の時からである。23歳だった本村さんはもう35歳となった。年月というものを感じざるを得ない。

ここのところ、これに関して各メディアの取材が私にもつづいている。来週には私自身が出演して、事件の説明をさせてもらうテレビ番組もある。

法廷で判決を見とどけ、さらには本村さんの記者会見をこの目で見て、この耳で聴かせてもらおうと思う。それが、『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』(新潮社)で本村さんの苦難の道を描かせてもらい、さらには、広島拘置所にいる犯人の元少年(30)とも面会してきた私自身の務めだからだ。

最高裁第一小法廷で金築誠志裁判長が判決を言い渡すのは午後3時過ぎである。それは、山口地裁での第一審判決以来、光市母子殺害事件の「5度目」の判決となる。長い長い歳月の末に辿り着いた「結論」に注目したい。

カテゴリ: 事件

光市母子殺害事件「最高裁判決」まであと1週間

2012.02.13

光市母子殺害事件の最高裁判決が1週間後に迫っている。そのせいで、ここのところマスコミの取材と問い合わせが相次いでいる。拙著『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』(新潮社)を出版して、もう3年半が過ぎ去ったことに感慨は深い。

その間、私は広島拘置所で何度も元少年(30)と面会している。さまざまなことを元少年と話してきたので、そのことについてマスコミからの問い合わせが少なくないのだ。

本村弥生さん(23)=当時=と夕夏ちゃん(11か月)=同=が殺害されたこの事件が発生した時、夫の本村洋さんは23歳、犯人の元少年は18歳だった。やがて事件から「13年」という歳月が過ぎようという今、2人は、それぞれ35歳と30歳になった。

司法制度のあり方に一石を投じた本村さんの長い闘いも終焉を迎える。山口地裁で最初の判決が出たのは、2000年3月のことだった。一審、二審、そして上告審での差し戻し判決、さらには差し戻し控訴審、そして今度の第二次上告審と、今回の判決はこの事件「5回目の判決」となる。

異例の経緯を辿ったこの裁判は、間違いなく日本の司法史に残るものとなった。後世の人たちは、この裁判に対して、一体どういう“審判”を下すのだろうか。注目の判決は、1週間後の2月20日に言い渡される。

カテゴリ: 司法

不毛な国会論戦を見ながら……

2012.02.09

いま三重県の熊野にいる。『太平洋戦争 最後の証言』完結編の取材で、各地で90歳前後の戦艦大和の生還者を訪ねている。昨日は、三重県内で2人の生還者とお会いした。

昨日お会いした方は、「人は、私のことを大和の“生き残り”と言ってくれるが、実際は、私は大和の“死に損ない”なんです」と語った。昭和20年4月6日、沖縄への水上特攻で、多くの有能な人間が死んでいったので、「自分が生き残ったことが申し訳なく、自分は死に損ないなんだ、とつくづく思う」と言うのである。

詳細な証言で私の取材に応えてくれたその生還者は、歴史を正しく後世に伝えるために大変な役割を果たしてくれている。しかし、それでも、そういう思いに何かあるたびに捉われるのだそうだ。

その方の話を聞いて、一昨年取材させてもらった大和の高角砲の指揮官だった大尉が、「生き残ったこと自体が申し訳ない。部下たちが死んだのに、自分が生きていることが許されるのか、とずっと思ってきた」と語ってくれたことを思い出した。

重油にまみれて、地獄の東シナ海から九死に一生を得て生還したのは、3332名の乗組員のうち1割に満たない276人だけである。彼らは「仲間に申し訳ない」という思いで、長い長い「戦後」を暮らしてきたのだ。その方たちも、今では全国でわずか20名足らずとなってしまった。

いま国権の最高機関である国会では、“素人”防衛大臣の答弁などでレベルの低い紛糾を繰り返している。そのニュースを見ていると、事実上、更迭された防衛大臣のあとにこの程度の人物を据え、最大の案件である普天間基地問題を乗り切れると思う野田総理の政治音痴ぶりをどうしても考えてしまう。

決定的に危機管理が欠如した、この程度の国家の領袖を戴いて私たちはこの国で生きている。多くの若者が命を捧げて守ろうとした国とは「この程度のものなのだろうか」と思う。

政治に携わろうとする人間は、最低限、持っていなければならない信念や哲学というものがあるはずだ。しかし、野田総理にそんなものがないことは、繰り返される閣僚の不祥事が証明している。

こういう不毛な論戦に国会の貴重な時間が“浪費”されていることを国民はどう見ているのだろうか。それは、任命責任などというお手軽な言葉で批判すれば足りるものではない。

ニュース映像を見ながら、私は、国家の領袖になる資質も資格も「ない」人間には早く総理をお引き取りいただくのが国民のためではないか、と感じた。地獄の戦場から生還しても「自分を責めつづける」かつての日本人の本当の姿に最近出会うことが多いから、余計そう思うのかもしれないが……。

カテゴリ: 政治, 歴史

台湾問題の談論風発

2012.02.05

昨日は、在台ジャーナリストの片倉佳史氏が早稲田大学で台湾問題の講演をするというので、聴きに行ってきた。片倉さんには今回の台湾総統選取材で大変お世話になったので、総統選後の分析・総括を是非、直接聴きたかったのである。

在台歴が15年になるという片倉さんの分析は、やはり非常に興味深かった。片倉さんは台湾の旅行ガイドなども手掛けているだけに、台湾の隅々まで行き尽くしている。台湾のあらゆる地に足跡を残している片倉さんならではの視点が面白かった。

人口2300万人に過ぎない台湾は、実は「多民族国家」でもある。台湾の支持基盤が北部の国民党、南部の民進党というのは広く知られているが、そこに客家(はっか)をはじめ民族ごとの投票行動を分析した片倉さんが、それによって勝敗が影響されたようすを詳しく説明していた。

中国に経済的に呑み込まれていく実態も具体的なエピソードで語ってくれたので説得力のある講演だった。馬英九総統は、当選後、台北の圓山飯店(グランドホテル)に中国投資を進めている台湾の経済人(「台商」と呼ぶ)を集めてスピーチし、その中で「日本企業と組みなさい」と盛んに勧めたそうだ。

大陸で事業展開している時、なにか問題が生じた際に日本企業と組んでいたら中国の “国内問題”ではなく日本を巻き込んだ“国際問題”になるから、「リスクを回避できるかもしれない」ということだろう。

いよいよ馬政権も“危機感”を感じながらも、いっそう明確な「経済の一体化を進める」ということなのだろう。焦点の中国と台湾の「政治的対話」がどういう形で始まるのか興味は尽きない。先週号の週刊ポストに〈台湾総統選 深層レポート〉を書いた私としては、時間が経つのも忘れる貴重な話だった。

実は、春節の期間中に私の事務所を訪ねてきたある中国人は、台湾に関して「おそらくびっくりするような特別扱いの方針を中国が打ち出して台湾の歓心を買い、馬英九を引っ張り込むだろう」と予想していた。

どんな特別扱いをするのだろうか、と聞いたら、その中国人は「たとえば、南京に台湾の特区をつくって昔の総統府もそのまま使わせるなどの破格の扱いを見せるのでは……」と語っていた。

国民党のプライドをくすぐり、台湾人も喜ばせながら、「統一」に向かっていろいろ進めていくという予測だ。とても一笑に伏すことができない話だけに恐ろしい。そうして結局は、台湾は何年後かに「中国」になっている、というわけである。

今日は、台湾に帰る前に片倉さんが私の事務所に寄ってくれたので、そういう情報も出し合って一杯やりながら談論風発となった。楽しく、有意義な時間だった。2012年は、いずれにしても内外ともに激動の年となることは間違いない。

私も、明日から東京を離れ、『太平洋戦争 最後の証言』の取材をおこないながらの地方での執筆となる。豪雪やインフルエンザなどに負けず、頑張りたい。

カテゴリ: 台湾

「通化事件」と風化する歴史

2012.02.03

今日2月3日は、昭和21年に起こった「通化事件」の66回目の記念日である。この事件は、国共内戦が進行する中、中国共産軍(八路軍)に占領された旧満洲・通化省通化市で勃発した八路軍に対する日本人居留民の蜂起と、その後に起こった共産軍による日本人虐殺事件である。

八路軍の圧政に立ちあがった日本人から数多くの犠牲者が生まれ、その数は二千とも三千とも言われるが、今もって正確にはわからない。

私の伯父がこの通化事件の犠牲者だったので、幼い頃から私は父や伯母たちからこの事件のことを聞いていた。通化事件の犠牲者には、遺体も遺品もなく、蜂起に失敗した日本人たちは狭い穴倉に押し込まれて圧死したり、処刑や暴行によって命を落としていったのだ。

そして遺体は凍りついた渾江という大河の氷を割って流されていった。私は今から28年前(昭和59年)の2月に零下20度という厳寒の早暁、まだ未開放地区だった通化に人民服姿で潜入し、伯父の死んだ場所の「石」を持ち帰ったことがある。

通化で命を落とした伯父の墓には、遺骨もなんの遺品も入っていなかったからだ。私にその通化事件の実態や関係者の連絡先を教えてくれた女流作家の松原一枝さんも昨年1月末に95歳で亡くなった。

多くの真実が歴史の彼方に消えようとしている。ここのところ、私は4月刊行予定の『太平洋戦争 最後の証言』完結編の「大和沈没編」執筆で徹夜がつづいているが、最近、貴重な歴史の証言を後世に残す意味を考えることが多くなった。

今日、事務所には千客万来だったが、その中で2月20日に迫った光市母子殺害事件の最高裁判決についての事前取材で訪れた報道記者もいた。拙著『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』(新潮文庫)に関して、いくつかの質問を受けた。

多くの事件が歴史の彼方に消えていく。風化に耐えながらも、次第に闇に呑み込まれていくのが、さまざまな事象の運命に違いない。しかし、それらをできるだけ後世に活字で残すことが私たちの使命でもある。その意味を考えながら、今晩も原稿に向かっている。

カテゴリ: 事件, 歴史

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