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ノンフィクションの醍醐味

2012.03.31

今日の東京は雲間から太陽の光が差してきたかと思うと、時折、横なぐりの雨がたたきつけたり、春の嵐を思わせる1日だった。3月31日は年度末であり、いよいよ明日から新年度が始まる。

私は、2008年3月末にそれまで勤めた新潮社から独立したので、今日でちょうど丸4年になる。独立以降、この4年間で単行本10冊、文庫本を4冊上梓した。

現在校了中で4月に発売になる『太平洋戦争 最後の証言』第三部の「大和沈没編」は、独立後15冊目の本となる。自分でも「よくこれほど……」と呆れてしまうが、書かなければならないものが数多くあるので、まだまだ休んではいられない。

先日、知り合いの医者から「たまにはゆっくり休んで、神経を“弛緩”させんといかんよ」と忠告されたが、まさにそうだと思う。しかし、きっと明日からの“新年度”も、そういう生活とは無縁に違いない。

直接証言や、日記、手記、資料……等々の発掘によって構築していくノンフィクション作品には、宿命がある。あくまで主役は、その「取材対象」であることだ。取材対象(証言者)がご高齢であったり、病弱であれば、おのずと取材に制限が出てくるし、すべては先方のご都合に合わせることになる。

そういう障壁を突破しながら、人間や、出来事そのものを描き出すところにノンフィクションの醍醐味はある。その取材をさせてもらう側であるライター(つまり私)が、「休む」ということは、基本的にできないのである。取材対象は休んでも、私自身が休むわけにはいかないのだ。

会社勤めを25年間もやった末に独立した私は、時間がもったいなくて仕方ない。“宮仕え”のために描けなかった作品が、今、目の前にそのまま残されている。自由に描かせてもらえる時期がやっとできた喜びを噛みしめなければならないのである。

明日からの“新年度”も、私にとって、ひたすら取材と執筆に追われる日々になるに違いない。一人でも多くの証言者にお会いし、これまで以上の感動のノンフィクション作品を描いていきたい、と思う。

カテゴリ: 随感

ひとりの“野球人”を囲む会

2012.03.28

今日は、ひとりの野球人を囲む会に行って来た。大正3年1月生まれで、98歳を迎えた島津雅男さんを囲む会である。

昭和6年の夏の甲子園に早稲田実業のエース、4番、主将として出場した島津さんは早稲田大学に進んで早慶戦で活躍し、その後、社会人野球の東京鉄道局野球部時代には発足したばかりの巨人軍との試合で、あの沢村栄治とも対戦した。

日本野球の歴史の証言者でもある島津さんは、昭和11年に陸軍に入隊して二・二六事件に遭遇し、南京攻略戦にも参加した。そして、戦後は学習院大学野球部の監督として東都大学野球の奇跡の優勝を成し遂げた。

島津さんの人生は、拙著『甲子園の奇跡』(講談社文庫)で取り上げさせてもらったが、今日の会は、その島津監督のもと昭和33年に東都優勝を成し遂げた時の学習院大学野球部の4年生たちがつくる「士会(さむらいかい)」の集まりだった。

恩師・島津さんを慕う「士会」の面々も75歳を超えた。主将の田邉隆二さんやエース根立光夫さんをはじめ、当時の4年生10人が集まり、島津さんと私を含め、12人で中華料理に舌鼓を打った。

島津さんは、足が弱っていることを嘆きながらも、98歳とは思えない口調でいろいろ話をしてくれた。ちょうど私が『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ「完結編」の校了を迎えているので、陸軍時代の話もまた聞かせていただいた。

中支戦線で戦った島津さんの聯隊は、島津さんが5年で除隊して内地に帰還した後、南方や沖縄へと転用され、玉砕している。太平洋戦争の主力となった大正生まれの若者は、およそ200万人が戦死しているが、島津さんがいかに奇跡的にあの時代を生き抜いたかがわかる。

太平洋戦争の証言者としても、島津さんは数々の秘話を私に提供してくれた。来年は、いよいよ島津さんも白寿を迎える。いつまでもお元気でいて欲しい、と思わずにはいられない。数少なくなってきた歴史の当事者たちの貴重な証言に、これからもできるだけ耳を傾けていきたい。

カテゴリ: 歴史, 野球

四国野球の「原点」とは

2012.03.26

ここのところ、ゲラの校了作業に追われている。4月19日に発売が決まった『太平洋戦争 最後の証言』第三部の「大和沈没編」のゲラである。320ページの本なので、持つとずっしりと来るゲラだ。

すでにインターネットではアマゾンで発売(予約)が開始されているので、期日には校了しなければならない。そのため朝から晩までゲラとにらめっこである。

シリーズの完結編でもあるので、私としても感慨深い。一人一人の証言が貴重なので、ゲラに入れる赤にも身が引き締まる思いがする。

今日は、そんな合間に選抜甲子園で、生まれ故郷・高知の代表校、高知高校と神奈川の横浜高校との対決があったので、思わずゲラ作業の手を休めて、見入ってしまった。

この試合に注目したのは、私の郷土の代表校の出場という理由からだけではない。過疎県の代表校が、多くの人口を有する富裕な県の代表とどのような試合をするか、そういう意味でも関心があったのである。

先頃、発表された1人あたりの県民所得ランキングで、高知県はついに沖縄県と入れかわって全国最下位となった。それに対して、神奈川県は全国2位(1位は東京)である。

そもそも人口だけを見ても、905万人の県民を抱える神奈川県に対して、高知県はその12分の1の75万人の県民しかいない。さらに横浜市の人口だけで370万人に達している現在、四国4県全体の人口が394万人だから四国はそのうち横浜市の人口に抜かれる時がくる。

昨日、午後9時からのNHKスペシャルで、高知の仁淀川(によどがわ)の美しさをハイビジョンカメラで捉えたドキュメンタリー番組を放映していた。人口は少なくても、海、山、川……いずれも四国、特に高知の美しい自然は日本屈指のものと言える。

その山河で育った球児が、都会の球児とどう戦うのか、私には興味があった。豊かな自然の中で育った球児が持つ“特別な力”を見てみたかったのである。

実際、高知県は長く甲子園での通算勝率が全国トップを誇った野球王国だった。高知商業、高知高校、土佐高校、明徳義塾、中村高校、伊野商業など、全国大会に行っても1回戦で簡単に負けることは、ほとんどない強豪県だった。

甲子園で、仮に1回戦で負ければ、「“イチコロ”で帰ってきた」と言われ、即、監督の進退問題につながったものだ。野球王国を誇った時代の高知県は、神奈川県のチームと戦って負けたことはなかった。

平成が始まるまで、高知県と神奈川県は甲子園で6度の直接対決があり、高知県の6勝無敗だった。しかし、平成以後、対戦成績は逆に1勝5敗となり、神奈川県が高知県を圧倒している。今では、勝率も全国トップの座を高知県は神奈川県に明け渡している。

その傾向は今後もつづくのか、果たして両県の対決はどんな試合になるのか。結果は、凋落をつづける高知県の野球を象徴するかのように、今日の試合も0対4で高知が完敗した。3塁を踏むこともできない惨敗である。

神奈川県と高知県では、人口密度は35対1である。しかし、人口密度が35対1ということは、逆に考えれば、高知県民は1人あたり神奈川県民の35倍もの土地を使っていることになる。

さらに高知にはNHKが取り上げた“水質日本一”の仁淀川をはじめ、誇るべき美しい山河がある。それでも野球王国・高知の凋落はとどまらない。自然が育んできた人間力の低下が痛々しい。

高知をはじめ四国野球の原点は、粘りとしたたかさである。それは、四国の風土が生んだ独特の身体的能力と野球センスに支えられていた。だが、今では科学トレーニングを積んだ都会の球児に圧倒されている。

四国の球児は、今こそ「原点」を思い出し、そこに戻るべきだろう。四国野球の粘りとしたたかさを思い出し、先人の鍛え方を学び直した時、もう一度、高知のみならず四国野球が全国をリードする「時代」が必ず来る。

カテゴリ: 野球

「惜別の歌」の作曲者、藤江英輔さん

2012.03.21

昨日、春分の日は、「惜別の歌」の作曲者である藤江英輔さん(86)とお会いした。昨年10月に倒れられたと聞いていたので心配していたが、お嬢さんと共に目黒区の料理屋に顔を見せてくれた。

「いやあ、倒れた時は、ああ死ぬ時はこんなものか、と思ったよ。意識がすーっと消えていってね。死というものを一度、経験したよ」。いつもの洒脱でユーモアたっぷりの藤江さんの話しぶりに、ほっとした。

中央大学の先輩でもあり、私がかつて勤務した新潮社の先輩でもある藤江さんは、私の最も尊敬するジャーナリストの一人である。戦争末期の昭和19年から20年、中大予科の学生だった藤江さんは東京・十条の第一陸軍造兵廠に勤労動員で通い、連日、武器づくりに励んでいた。

小さい時からバイオリンを習っていた藤江さんは、いよいよ戦況が厳しくなった昭和20年2月の大雪の日、仲間が召集令状を受けて去っていく中、彼らを見送る思いを「惜別の歌」に託した。

「悲しむなかれ/わが友よ/旅の衣を/ととのえよ」。姉妹の別れを詠んだ島崎藤村の「高楼(たかどの)」という詩を“友との別れ”に置き換えて、物悲しく、哀愁のある独特の旋律を藤江さんがこの詩につけたのだ。

造兵廠での別れの場で歌われ始めたこの曲は、次第に送別の歌として広まっていく。その藤江さんの思いは、拙著『康子十九歳 戦渦の日記』(文藝春秋)の中で描かせてもらった。

ちょうど『太平洋戦争 最後の証言』完結編の「大和沈没編」(小学館)を脱稿したばかりなので、そのことを含め、いろいろな話題が飛び交い、時間が過ぎるのを忘れてしまった。

お別れの時、お嬢さんに支えられて去っていく藤江さんのうしろ姿を見て、いつまでもお元気で、と祈らずにはいられなかった。

彼岸だというのに、朝夕はびっくりするほど寒い。夜は、お世話になった中央大学の「白門ちゅうおう」編集長の伊藤博さんの送別会に参加。その会のあとは、中大の箱根駅伝6連覇時代の中心メンバー、碓井哲雄さんと現在の中大陸上競技部監督の浦田春生さんたちと二次会となった。

さまざまな話で、知らないうちに夜が更けてしまった。気がつくと昼間から飲み通しである。久しぶりに母校の人たちに囲まれて、次の作品への大いなるエネルギーをもらった1日となった。

カテゴリ: 歴史, 随感

政治家は何を残すべきなのか

2012.03.18

昨日は、小渕恵三総理の13回忌の記念講演を依頼され、群馬に行ってきた。演題は、「小渕恵三は日本に何を残したのか―司法改革と光市母子殺害事件―」というものだった。

現在の裁判員制度が、小渕氏の遺産だったことを知る人は少ない。1999年 7月27日、時の総理、小渕恵三氏は内閣に司法制度改革審議会を設置した。そこで司法が抱えるさまざまな問題を論議させたのである。

その設置直後に始まったのが、「光市母子殺害事件」の裁判である。設置2週間後の8月11日に山口地裁で第一回公判がおこなわれたこの裁判は、一審、二審を経て最高裁で差し戻され、そして差し戻し控訴審、さらには第二次上告審となり、周知のように、つい先月(2月20日)、最終判決(死刑)が確定した。

この裁判と司法改革に故小渕氏が果たした役割は小さくない。山口地裁の一審判決直後に無期懲役判決に対する不服を訴え、「犯人をこの手で殺す」とまで言った本村さんに対して、「無辜の被害者の救済がこのままであっていいのか。政治家として本村さんの気持ちに応えなければならない」と小渕総理は涙を浮かべて語った。

その言葉通り、小渕氏は犯罪被害者の救済に邁進し、小渕氏が亡くなる2日前の2000年5月12日には「犯罪被害者保護法」が成立。その後の司法改革の道筋をつけて小渕氏は息を引き取った。

2001年7月には、小渕氏が設置した司法制度改革審議会が最終意見書を提出し、その中に「裁判の過程に国民が参加し、国民の健全な社会常識を裁判の内容に生かす」という文言が書き込まれた。

これが現在の裁判員制度のもとになり、さらには官僚裁判官の相場主義・前例主義により形骸化していた「刑事裁判」を改革する“根本”となったのである。講演では、小渕氏が司法改革に果たした役割と、さらには亡くなる3か月前に本村さんに激励の手紙を出していた秘話を披露させてもらった。

私は、本村さんからその時の小渕氏の手紙を預かり、講演で朗読した。時の総理である小渕氏のこの励ましが孤立無援の闘いを展開していた若き日の本村さんにとって、どれほど心の糧になったかしれない。

そんなことを話して、小渕氏13回忌の私の言葉とさせてもらった。政治家とは何を目指し、何を後世に残すべきなのか。パフォーマンスばかりで、哲学や信念が一向に感じられない現在の政権を担う人々にこそ聴いて欲しかった、と思う。

カテゴリ: 司法, 政治

口角泡を飛ばした「高橋善正・中大前監督」のお疲れ会

2012.03.16

久しぶりに東京へ戻ってきた。さすがに青森や弘前のように雪がないだけ動きやすい。弘前でお世話になった方々に感謝しつつ、さっそく東京では次作、次々作の取材が始まった。

午前中は、ともにその作品の単緒になるべき人物へのアプローチをおこない、午後は雑誌原稿の締切に追われた。夜は、プロ野球で完全試合を達成したこともある東映、巨人で活躍した元ピッチャーの高橋善正・中央大学前監督のお疲れ会に参加というハードスケジュールだった。

1月で中央大学の監督を降りた高橋前監督を慰労する会は、千葉県松戸市であった。久しぶりに美味しい寿司をつまみながら、じっくり高橋前監督と話し合った。

同じ高知県出身であることから、以前から高橋氏には親しくさせてもらっている。今年の正月の高知新聞では、「いかに野球王国高知を復活させるか」というテーマで対談した仲でもある。私のスポーツノンフィクションにも協力してもらって、いい作品を書かせてもらった思い出もある。

高橋前監督との口角泡を飛ばす“野球談議”で、すっかり世が更けてしまった。間もなく選抜甲子園が開幕する。いよいよ野球シーズン到来だ。

中央大学には、あの春夏連覇の島袋投手(興南)もいる。プロ野球だけでなく、高校野球、大学野球にも注目選手が目白押しだ。今年はどんなドラマを見させてもらえるのか、いまから胸が躍る。

カテゴリ: 野球

歴史に「偉人」を送り出す不思議な町

2012.03.15

弘前は朝、吹雪だった。3月半ばが来ても激しく雪が舞うとは、南国の高知生まれの私にはさすがに驚きだった。前夜、弘前で講演を終えたあと、“ヨシ人形”と呼ばれる創作人形で有名な木村ヨシさん宅に招かれ、ご馳走になった。

テーブルから溢れんばかりの新鮮な地元料理でもてなしを受け、時間が経つのを忘れてしまった。温かい弘前人の心に触れた楽しいひと時だった。

今朝は、葛西憲之弘前市長と会ったあと、板柳町の工藤忠記念館にまず行き、そのあとお世話になった故佐藤慎一郎先生のお墓参りにまわった。東京・荻窪の都営団地で長くお住まいだった佐藤先生は、戦前の大陸を知り尽くした人である。

旧満洲の魔窟に潜入した時のことや、盧溝橋事件の秘話、自分の伯父にあたる山田良政・純三郎兄弟のこと、西安事件にかかわった人物の打ち明け話……等々、どんな歴史書にも出ていない秘話を数多く教えていただいた。

90歳を越えてもお元気だった佐藤先生は、まさに現代日中史の秘話の宝庫のような方だった。佐藤先生のお話が私のノンフィクション作品の端緒になったものもある。

その佐藤先生は、弘前市西茂森町のさる寺院に眠っておられる。弘前にやって来た私は佐藤先生のお墓参りをさせてもらうつもりだった。

しかし、雪が上がった午後、寺院の墓地を見た私は、それが無理であることを悟った。墓地は雪で埋もれ、お墓に近づくこともできなかった。私は、佐藤先生の墓のある“方角”に向き、手を合わせた。佐藤先生のお墓参りは、また雪が溶けてから改めて来させてもらうことになりそうだ。

弘前とその周辺には、日本のジャーナリズムの父とも言うべき陸羯南や、孫文の辛亥革命を支えた山田良政、純三郎兄弟、さらには、満洲国の溥儀皇帝が最も信頼した工藤忠など、偉人が目白押しだ。

弘前は現代史の宝庫なのだ。3月半ばが来ても雪に埋もれるこの地が、なぜ「歴史」にこれほど多くの偉人を送り出しているのか、いつかその秘密を探り出したいと思っている。

カテゴリ: 歴史

弘前、雪の中の墓参り

2012.03.14

青森県の弘前にいる。本日夕方、私はあるお寺を訪ねた。青森県弘前市新寺町にある貞昌寺である。ここには、孫文が最も信頼した日本人、山田良政・純三郎兄弟が眠る墓がある。

辛亥革命の実現に力を尽くした日本人の中でも、最も孫文の信頼を得ていたのが、この弘前出身の山田良政・純三郎兄弟である。兄・良政は、最初の孫文たちによる蜂起となった恵州事件で命を落とし、弟・純三郎はその兄の遺志を継いで、孫文を支えた。

孫文は、今も政治体制の違う中国と台湾、両方で“国父”として尊敬されている。その孫文の絶対的な信頼を勝ち得た日本人が、山田兄弟だ。

山田兄弟の墓参りをしたいという私の長年の願いは、今日、実現した。しかし、貞昌寺の近くにある花屋で花を買って、貞昌寺に向かおうとした時、花屋の女主人がひと言、こう言った。「お墓は雪で埋もれていますから、(墓参りは)無理と思いますよ」。

雪国の積雪の凄まじさを意識せずにやって来た私がいかに迂闊だったか、その時、初めて気がついた。そうだ。目の前にこれだけの雪が降り積もっているのに、目的の山田兄弟の墓にそのままお墓参りができるはずがなかったのだ。

貞昌寺に着いて、私は改めてそう思った。寺自体が雪に完全に埋まっていた。ご住職を訪ねたら不在で、代わりにご住職の奥さんが対応してくれた。東京からわざわざやって来た私を、雪をかきわけて山田兄弟の墓まで案内してくれたのだ。

積雪1メートルの中を“決死行”で案内してくれる。ほとんどが雪に埋もれ、墓石の頭だけがかろうじて見えている場所で、ご住職の奥さんは「ここが山田家の墓所です」と教えてくれた。

ああ、ここか。ここに山田兄弟が眠っているのか。私は長い間、望んでいた地にやっと辿り着いたことを感じた。ご住職の奥さんが、私が持ってきた花を、墓石を埋め尽くしている雪の中に挿してくれた。

私は長い時間、そこで手を合わさせてもらった。山田良政は、反日に凝り固まった中国に銅像まで建てられた日本の“烈士”である。そして、弟の純三郎は孫文が死去する時、唯一、孫文が枕元に呼んだ日本人である。

私はその“聖地”にやってきた。『太平洋戦争 最後の証言』の完結編を脱稿した翌日に、この地にやってきたこと自体が「宿命」だったのだろうか。

私には書かなければならないことが沢山ある。また新たな作品に邁進しなければならないことを再認識させてくれた弘前の「雪の一日」だった。

カテゴリ: 歴史

入稿を終わらせ、青森へ

2012.03.13

本日夕方、『太平洋戦争 最後の証言』第三部(完結編)の「大和沈没編」を入稿した。原稿用紙にして600枚、この1週間、いや数日は、ほとんど睡眠もとらないままの“苦闘”だった。

太平洋戦争の最前線で戦ったご高齢の老兵たちを訪ねる作業も今日を区切りに、ひとまず終わったかと思うと感慨が深い。入稿したあとどっと疲れが来たのも、肉体だけではなく、ある種の達成感があったからに違いない。

私は、夕方入稿したあと、羽田から青森に飛んだ。明日、青森と弘前で昼と夜、講演があるためである。青森空港に降り立つと、そこは一面、銀世界だった。雪が舞い、口から白い息が出る青森市内は、夜9時を過ぎるとほとんど人が歩いていなかった。

出てくる時の東京・新宿の喧騒とのあまりの落差に、一瞬、タイムスリップしたのではないかという錯覚に陥った。

とりあえず「休息を」と思ったが、用意してもらっていたホテルが室温の調整もできない部屋だったので、徹夜の影響もあってか、体調を崩してしまった。ジャーナリストは贅沢を言ってはいけないとはいえ、徹夜つづきの中年の身には少々、こたえた。

しばらくブログが更新できなかったので、ご心配をいただいたが、やっと入稿が終わったので、いつものペースに戻していこうと思う。ブログに書かなければならない話が、目白押しだからだ。

東日本大震災から1年が経ち、マスコミの力の入った特集記事や番組も、今回は締切との関係で、パソコンのキーを叩きながらのウォッチとなった。あの「人災」の色濃き震災が、総括されたとは、私にはとても思えない。

雪に埋もれた青森はまだ「春遠し」だが、震災の総括もできない日本、いや今の政権では、日本全体に「春遠し」と言わざるを得ない。

カテゴリ: 随感

ノンフィクションの中の「生」と「死」

2012.03.04

毎年、3月3日の「ひなまつり」の日に必ず紹介される有名な詩がある。昨日の読売新聞「編集手帳」に出ていた吉野弘さんの『一枚の写真』がそれだ。

『雛飾りの前で、幼い姉妹がおめかしをして座っている写真があります。〈この写真のシャッターを押したのは/多分、お父さまだが/お父さまの指に指を重ねて/同時にシャッターを押したものがいる/その名は「幸福」〉』

山形県酒田出身の詩人・吉野弘さんの詩には、この『一枚の写真』で醸し出されるようなほのぼのとした温かさがある。吉野さんの詩の中で私が好きな「祝婚歌」には、こんな一節がある。

〈正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい/立派でありたいとか/正しくありたいとかいう/無理な緊張には色目を使わず/ゆったりゆたかに/光を浴びているほうがいい〉

原稿や講演等を通じて、“主張”することの多い私たちジャーナリズムの人間にとっては、戒めにしなければならない詩である。しかし、それを忘れている自分にいつも苦笑いばかりしている「自分がいる」ところも面白いものだと思う。

東日本大震災1周年が近づき、新聞・テレビ・雑誌……あらゆるメディアで地震関連のものが増えている。冒頭の「編集手帳」も、その流れの中で吉野弘さんの詩を紹介したものだ。

地震関連で描かれているのは、いうまでもなく人間の「生」と「死」である。私のノンフィクション作品にも、その生と死を扱う題材が多いが、描いても描いても、また新しい意味を持つ生と死が私の前に現れてくる。

私は、先週、ある刑事事件で死刑判決を受けた人物と面会した。そして、いま締切に追われている原稿は、『太平洋戦争 最後の証言』である。いずれも重い「生」と「死」が目の前に横たわっている。

書きながら、いつも生と死とは何だろうか、と思う。それは、吉野さんの詩が描く「幸福」を考えることと同義だと思うが、それがなかなか描き切れない。それほどノンフィクションの中の「生」と「死」は、残酷であり、同時に奥が深い。

『太平洋戦争 最後の証言』完結編の脱稿まで、いよいよ1週間を切った。それを描き出すことができるか、私にとってそれが試練である。

カテゴリ: 随感

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