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尊敬と感謝の気持ちを抱く若者に

2012.05.31

昨日は、私の事務所のあるマンションのパーティールームを借り切って、あるパーティーがあった。拙著『康子十九歳 戦渦の日記』(文春文庫)の主役の一人、台湾の梁敬宣さん(87)ご一家が今週の月曜28日に来日されたので、この日、かつての仲間たちが集まったのである。

昭和19年から20年にかけて、中大予科時代に十条の陸軍造兵廠へ勤労動員された梁さんたちは、そこで東京女高師(現・お茶の水大学)の女子学生たちと共に武器弾薬をつくる作業に没頭した。

東京大空襲の日も、戦争の勝利を信じて彼らは必死で作業をつづけた。「日本人より日本人らしい人」と仲間に評された梁さんは、そこで粟屋康子さんという19歳の女高師専攻科の女学生に恋をするが、思いはかなわなかった。

康子さんは、原爆投下、敗戦という悲劇の中、広島市長だった父親を原爆で喪い、生き残った母親の看病のために東京から広島に赴いて二次被爆し、「19年」という短い生涯を閉じるのである。

国と家族を救おうとする当時の若者の強い思いと信念、そして淡い恋を描いた拙著はテレビでも取り上げられ、お陰で少なからず反響を呼ぶことができた。

その主役の一人、梁さんが来日されたので、中大予科時代の親友・高木丈太郎さん(現・三菱地所相談役)や当時の女高師の面々が集まった。

平均年齢が90歳近い皆さんは実にお元気で、午後4時から始まったパーティーは、あっという間に午後10時近くまでなっていた。本当に時間が経つのを忘れるほど楽しいパーティーだった。

大正生まれの方々が次第に少なくなっていく中、こうして日本を支えてくれた皆さんと時間を共有できた喜びは表現しようもない。

ちょうど本日、拙著『太平洋戦争 最後の証言』3部作の大増刷が決定した。世の中が真実の歴史に目を向けようとしてくれていることを肌で感じる。歴史の真実を見失わず、日本を支えてくれた先輩たちに尊敬と感謝の気持ちを抱く若者が増えることを願ってやまない。

カテゴリ: 歴史, 随感

見応えがあったNHK『未解決事件2 オウム真理教』

2012.05.28

昨日のNHKスペシャル『未解決事件2 オウム真理教』は久々に見応えのある番組だった。前日に放映されたドラマは、BSでも事前放映されたものだったが、私は、息を詰めて今日のインタビュー構成のスペシャル番組に見入った。

警察庁元警備局長・菅沼清高氏と元刑事局長・垣見隆氏という当時の警察庁の大幹部まで登場し、悔恨の弁を引き出していた。あのオウムのスポークスマンだった上祐史浩が、オウムが熊本(波野村)にいた90年代初めから武器開発に着手していた事実を証言したのも驚いた。

オウム事件のあった95年、私は週刊新潮デスクとして取材と執筆の最前線にいた。刑事部・公安部の捜査官を含め、沢山の方々に協力をいただき、多くの記事を書いた。

その中で、私は、警察首脳のハラひとつで、“別件”でオウムに踏み込み、「次の事件」を未然に防ぐことができた事実を当時から痛感していた。番組で、地下鉄サリン事件が起きてから踏み込んだことを悔やむ垣見隆・元刑事局長の苦渋の表情が印象的だった。

それと共に、垣見氏よりも最高責任者であった国松孝次・警察庁長官と井上幸彦・警視総監の“不作為の罪”が、この番組であらためて明らかになった、と私は思う。

私は、彼ら警察最高首脳が、多くの“別件”を持ちながら2月28日に拉致された目黒公証人役場の假谷清志事務長の命を“見殺し”にし、そのために「地下鉄サリン事件」という未曾有の悲劇を呼び込んだと考えている。この番組はそのことがよくわかる内容だった。

いま私は、これよりも古い、戦後のある大きな事件で、いかに警察首脳と現場の捜査官が国民の生命を守ろうとして奮闘したかを次のノンフィクション作品のひとつとして取材している。自らの使命に忠実だったかつての警察官僚、捜査官の凄まじい物語をお届けできる日を楽しみにしている。

カテゴリ: テレビ, 事件

尊い犠牲に報いるために

2012.05.24

あの日から「15年」が過ぎた。土師淳君(当時11歳)が酒鬼薔薇聖斗に殺害されてからである。1997年5月24日、淳君の切断された頭部が神戸市須磨区の友が丘中学の校門で発見された。

およそ1か月後、酒鬼薔薇聖斗を名乗った14歳の少年が逮捕され、関東医療少年院に入院し、“刑事罰”ではなく、“治療”を施された。

以来、15年。酒鬼薔薇は社会に解き放たれ、少年法は不完全とはいえ一部改正され、また、当時はまったく顧りみられることがなかった被害者の人権が大切にされるようになった。さらに、一般国民が刑事裁判の審理に参加するという裁判員制度もでき上がった。

まさに「隔世の感あり」だが、これも淳君の尊い犠牲があったからである。事件の2年後、光市母子殺害事件が起こり、本村弥生さん(当時23歳)と生後11か月の夕夏ちゃんも18歳少年により犠牲になった。

2人の犠牲も司法制度改革と少年法改正へとつながっていった。この15年の流れをみると、少年犯罪に対する世間の目や、司法の世界が変わっていくためには、いかに“尊い犠牲”が必要だったのか、と思ってしまう。

うわべだけの正義を振りかざしてきたメディアも、やがて目を覚まさなければならないところまで追い込まれたのである。

ひと言で15年といっても、それは筆舌に尽くしがたい血と涙の日々だったと思う。私は、今日、淳君のお父さんである土師守さんと久しぶりに電話で話した。

土師さんは、あれほどの哀しみを経験したとは思えないほど、いつもの明るい声で接してくれた。土師さんとのおつき合いも、もうそんな長い年月になったのかと、つくづく思う。

“偽善”との戦いでもあった15年。あの悪夢のような事件が起こった日が、日本が生まれ変わる契機となった「日」となれば、淳君たちの尊い犠牲も少しは報われるような気がする。

カテゴリ: 事件, 司法

久しぶりの故郷・安芸で

2012.05.23

いま高知県安芸市にいる。私の生まれ故郷である。安芸法人会に歴史にからんで講演を、とお願いされ、東京から飛んで来た。

私は、故郷や母校からの要請は、いかなることも万難を排してやらせてもらう主義なので、今回も仕事を横に置いてやって来た。

空港に出迎えてくれたのも、小学校の同級生だったので、今日の講演は半分、昔の思い出話などの“脱線”だらけになるに違いない。

安芸市は、すでに人口が2万人を切り、急速に進む過疎化になす術がないそうだ。そんな話をしながら、故郷・安芸に到着した。

私は過疎だからこそ、逆にこれから「価値」が高まると思っている。都会の人間に比べ、何十倍もの土地を使い、海、山、川の恵みに満たされているのである。

いわば、一人の人間をつくりあげるのに、都会とは比較にならない自然と大地が使われている。土佐らしい“スケールの大きい人間”がどんどん出て欲しい。今日は、そんな思いを込めて講演をさせてもらうつもりだ。

カテゴリ: 随感

歴史の町・宇和島にて

2012.05.18

昨日、愛媛県の宇和島で講演があり、はるばるやって来た。宇和島には、伊達家の居城だった宇和島城がある。昨日午後、宇和島に到着して、さっそく宇和島城に行ってみた。

藤堂高虎の築城による宇和島城は、町の中心にある小高い丘のような城山に建っている。さすが築城の名手・藤堂高虎の手によるものだけに美しい城郭と石垣だった。

今治城と津城、そしてこの宇和島城――私は藤堂高虎がつくった城をもう三つも見ている。武勇と知略に優れた藤堂高虎は、私の好きな武将の一人だが、いつも感心させられるのは、それぞれの地形を生かした築城法だ。

津城は平地にありながら、たくみに天然の川を取り込み、今治城は海に向かって堀に海水を引き込んで防御を固めている。宇和島城は、小高い丘に石垣を張り巡らせることによって敵の攻撃を防ぐ方式だ。三者三様の城を見ていると、いかに高虎が変幻自在の築城名手だったかがわかる。

宇和島城の天守閣に登って周囲を見渡した時、私は壇一雄の名作『夕日と拳銃』を思い出した。満洲で馬族となって暴れまわった男の生涯を描いたこの作品のモデルは、宇和島・伊達家の伊達順之助である。
 
名門・伊達家に生まれた順之助は、大陸浪人となって満洲にわたり、馬族として大陸を闊歩した。蒙古独立運動や満州の楽土建設で活躍した順之助は昭和23年に中国で処刑された。

処刑に際して酒を所望し、豪快に笑って銃殺された順之助の破天荒な「生」と「死」に壇一雄は魅せられ、その生涯を追い、やがて『夕日と拳銃』という長編小説となった。型にはまらない一人の人間を壇自身の“男のロマン”として描いた力作だった。

愛媛の宇和島、そして高知の宿毛(すくも)は地理的に近く、お互い県庁所在地から遠く離れ、独特の文化圏を形成している。多くの逸材を生んできた地だけに、おそらく自然をふくめ、スケールの大きい人間が形づくられる土壌が備わっているに違いない。

司法の世界で神様と謳われる児島惟謙も、この宇和島の出身だ。ちょうど私は、いま司法関連の本を取材・執筆している。それだけに、この地にやって来られたことが、なにより嬉しい。

カテゴリ: 歴史

迫力に欠けた東浜投手

2012.05.16

今日は、午後の取材まで時間があったので、午前中、神宮球場で大学球界の最多完封記録の更新がかかる亜細亜大学の東浜巨(ひがしはま・なお)投手のピッチングを見てきた。

結果は、1対0で中央大学を3安打完封。見事に自身の大学記録を更新する21度目の完封と東都大学1部リーグの優勝を成し遂げた。

カットボール、スライダー、フォーク、チェンジアップ……多彩なピッチングで、東浜は今日も中大打線につけ入るスキを与えなかった。

沖縄尚学で春の甲子園の優勝投手となり、プロ球団からの誘いを蹴って鳴り物入りで亜細亜大学のエースとなった東浜は、最高学年の4年となった今年も期待通りの成績を挙げつづけている。

今日の神宮のネット裏には、プロのスカウトもずらりと顔を揃え、マスコミのカメラも放列を敷いていた。これで通算31勝。現ソフトバンクの大場翔太投手(東洋大学)の33勝に並ぶのも間近だ(東都最多勝利記録は芝池博明投手=専修大学=の41勝)。

ネット裏のスカウトたちの熱い視線を見るまでもなく、東浜は今年のドラフト会議の最大の目玉である。だが、私は今日のピッチングに少々不満を感じた。

ひとことで言えば、「迫力がない」のである。威圧感といった方がわかりやすいだろうか。プロで活躍した多くのピッチャーが持っていた独特の迫力が東浜にはないのだ。巨人のエースへの道を歩みつつある2年前の沢村拓一投手(中央大学)とも明らかに違う。

東浜は、大学1、2年の時のほうが、まだダイナミックなピッチングをしていたように思う。本来持っている力、すなわち“野球のレベル”がもともと違うので、東浜なら小手先で完封劇を演じることができるかもしれない。しかし、果たして「これでプロで通用するのだろうか」と、私は今日のピッチングを見ながら思った。

ランナーを背負った時ぐらいしか東浜は必死には投げてこない。今日も2度ほどスコアリングポジションにランナーを背負ったが、その時は、やや、力感のあるピッチングをしていた。

しかし、それでも出たスピードは、142キロほどだ。とても、プロで通用するキレのあるストレートではなかった。それでも完封するところは確かにすごいが、これには、一方で東都大学野球の打撃力のレベル低下が要素としてある。

いまや大学球界ナンバー・ワンの実力を誇る東都だが、打撃力の乏しさは年々、深刻度を増している。昨今では、打力において明らかに東都は東京六大学に劣っている。

そんな中での東浜の完封記録の更新である。今日のネット裏に集結した野球通たちは、東浜のしなるような独特の細身の身体から投げ込まれる150キロ超のキレのあるストレートを見たいに違いない。その姿を見るために、来月開かれる全日本大学野球選手権にも取材に行かなければならない、と思う。

東京六大学では、昨夏の甲子園を制覇した早稲田大学1年の吉永健太朗投手(日大三)が虎視眈々と全日本選手権進出を狙っている。大学球界の新旧のエース対決を是非、見てみたいものである。

カテゴリ: 野球

望まれる中国の「民主化」

2012.05.13

今日の産経新聞に、アメリカへの亡命が容認された盲目の人権活動家、陳光誠氏(40)の甥(陳克貴氏)が故意殺人容疑で逮捕されたことが報じられている。

陳光誠氏の脱出に気づいた中国当局者3人が4月26日夜、甥の陳克貴氏の自宅を急襲し、両親を殴打し始めたため、陳克貴氏が身を守るために刃物で切りつけ、ケガを負わせたのだそうだ。

逮捕容疑は、その当局者に対する「故意殺人容疑」である。あきらかに正当防衛で、しかも死んだ被害者もいないのに、最高刑の「死刑」が適用される可能性があるこの容疑で、甥を逮捕したところが恐ろしい。

明らかに人権活動家・陳光誠氏への当局による報復行動といえるこの問題をフランス通信(AFP)も熱心に報道している。それによれば、弁護士も中国当局の妨害によって、甥に接触できていないという。

重慶市の元トップ・薄煕来氏(62)の失脚・逮捕劇も世界を唖然とさせている。自分たちの前に権力をふるっていた文強・同市公安局副局長を暴力団との癒着を理由に逮捕し、一昨年7月に処刑した薄煕来氏は今、自分がやったことと同じ「極刑」が待っているのではないか、と恐々としているという。

中国が人権と民主主義とは無縁の国であることは自明だが、一連の動きを見ていると、この国が共産党独裁政権を維持しようとするかぎり、多くの犠牲がまだまだ出てくることを感じる。

中国は、尖閣諸島で日本への揺さぶりを繰り返しているが、ベトナムやフィリピンとの間でも南沙・西沙諸島で一触即発の状態がつづいている。

東アジアの中で、中国と北朝鮮という2つの全体主義国家が「民主化されるかどうか」は、私たち日本人にとっては、実は自らの「生存」のためには、最も大きな問題と言える。

だが、北京政府の機関紙と化したかのような大新聞や、中国への批判はタブー中のタブーとするテレビ局などが目白押しで、ひたすら、へりくだり、膝を屈して北京詣でを繰り返す政治家もあとをたたないのが日本の有り様だ。

日本は、アジアの民主主義国のリーダーとして毅然と歩まなければならないことを、毎朝、ニュースに接するたびに感じる。

カテゴリ: 中国

「たかが野球、されど野球」松井5敬遠から20年

2012.05.07

ゴールデンウィーク明けの今日、一人の野球指導者(まだ現役の選手でもある)から電話をもらった。明徳義塾から専修大学へ進み、卓越したバッティングセンスとパワーで活躍が期待された河野和洋君(37)である。

久しぶりの電話は、「昨年9月に日本橋学館大学に就職し、野球部のコーチとして頑張っています」という報告だった。千葉大学リーグ3部の同大学は、河野君をコーチに迎えてメキメキと力を伸ばし、現在、全勝(8勝0敗)で優勝争いのトップを走っている。

あの甲子園で星稜の松井秀喜選手を5打席連続敬遠して“時の人”となった河野君は、もともと外野手である。あの時、エースの岡村憲二(現・明治安田生命)がヒジを故障したためマウンドに上がり、松井を敬遠したが、5番以下を徹底的に研究して凡打に打ち取り、3対2で勝ち投手となった。

その後、東都大学リーグの名門・専修大学に進み、投の黒田(博樹・現ヤンキース)と打の河野で大活躍。黒田&河野が大学4年の時に、私は東都大学選抜チームと東都出身のプロ野球選手のチームの対抗試合を神宮球場に観にいったことがある。

あの時、学生チームの先発投手が黒田で、3番打者は河野だった。この試合で、河野は2塁打を2本も放ち、プロで通用する力を示したが、黒田はドラフトで指名されたものの、残念ながら河野は指名から外れた。その後、メジャーを夢見て渡米し、マイナーで修行するなど、河野君のプロへの執念は凄まじいものだった。

結局、プロ入りこそ実現できなかったが、河野君はその後も夢を追いつづけ、森田健作・千葉県知事が名誉監督をつとめる「千葉熱血メイキング」の監督兼主力打者として活躍し、千葉県社会人野球クラブリーグで昨年優勝を果たした。

そんな河野君が元気な声で「いま日本橋学館大学でお世話になっています。当初は、グラウンドで選手が煙草を吸うようなチームで、まったく優勝を狙えるとは思えませんでしたが、メキメキと力をつけて、いま3部で優勝目前になっています!」と受話器の向こうで叫んでいた。

私は、拙著『あの一瞬―アスリートはなぜ奇跡を起こすのか』(新潮社)の中で、松井5敬遠のドラマを描かせてもらったが、取材時と変わらない河野君の明るい声にホッとすると同時に、なんだか嬉しくなった。

河野君の野球の原点は、明徳義塾の馬淵史郎監督の「勝つ野球」である。「僕は、勝ちにこだわりますよ。馬淵監督の弟子ですから。絶対に負けない野球を目指します」と河野君は言う。

松井5敬遠から20年。河野君がこだわる「勝つ野球」を観るために、近く千葉大学リーグのグラウンドにも足を運ばなければならない、と思う。野球は楽し。「たかが野球、されど野球」――。

カテゴリ: 野球

13年で消えた「満洲国軍」元幹部の証言

2012.05.06

ゴールデンウィークも今日で終わりだ。関越自動車道の高速ツアー事故が国民に衝撃を与えたが、最後は茨城県つくば市の竜巻の惨事で終わった。大きな事故に見舞われることが多いゴールデンウィークだが、今年は特別だったように思う。

私は、ゴールデンウィークの中で休みを「2日」だけとったが、ほかは結局、取材と執筆に追われる日がつづいた。もう『太平洋戦争 最後の証言』シリーズも終わったのに、その流れで今日も横浜に取材に行って来た。

今日、お話を聞かせていただいたのは、大正5年生まれの95歳になる元満洲国軍の上尉(日本軍では「大尉」にあたる)である。満洲国は昭和7年に建国され、昭和20年8月に日本の敗戦と共に地上から消えた国である。

岩手県一関市の出身で、満洲国軍の軍官学校を卒業(第9期)したこの老兵は、流暢な中国語を交えて、多くの秘話を私に聞かせてくれた。

さまざまな民族が集まった満洲国軍が終戦時、兵たちのどんな“反乱”に見舞われたか、また、その後、ソ連軍、国民党軍、八路軍が入り乱れる混乱の中、どう満洲を脱出して日本に帰ってきたか。

経験した者にしか分らない手に汗握る脱出行など、いずれまた活字にしてご紹介できることもあるだろうと思う。今は、こういう秘話をできるだけ直接、証言としてとっておく時だと思う。

連休明けの明日から、また本格的な取材が始まるが、私にとっては、歴史の重要証言を集めることができた貴重なゴールデンウィークになった。

カテゴリ: 歴史

94歳「零戦元パイロット」からの言葉

2012.05.03

あいにくの雨で、ゴールデンウィークの観光客も出足が鈍っている。東京も終日、雨に祟られた。明日は久しぶりに、私も休暇をとることができる。

昨日、94歳になる零戦の元パイロットからお手紙をいただいた。拙著『太平洋戦争 最後の証言』の完結編「大和沈没編」が届き、徹夜で読み切ってくれたそうだ。

94歳の身に徹夜はこたえ、2、3日調子が悪かったが、今はまた改めて最初から読み直している、と書いてくれていた。『太平洋戦争 最後の証言』第1部の「零戦・特攻編」に登場する零戦パイロットである。

最前線で戦った兵士たちの気持ちをよく書いていただいた、というその手紙に感激した私は、今日、お礼の電話をした。

「読みながら興奮して、もう途中でやめることができませんでした。年寄りの話をよくここまでまとめてくれて、ありがとう。感銘を受けました」と氏からお礼を言われ、このシリーズを完結させることができて本当によかった、と思った。

貶められつづけた大正生まれの人たちの思いを描いた拙著が大正生まれの方に喜ばれるのは当然かもしれないが、それにしても、徹夜で読み切り、その感想を手紙に書いてくれる94歳のパワーに私は嬉しくなった。

200万人が戦死し、戦後の復興と高度経済成長を成し遂げた大正生まれの方々の思いが、これまでいかに蔑ろにされてきたかを感じる。多くの方に、歴史を客観的に見ることの大切さを拙著で知ってもらえれば光栄だ。

カテゴリ: 歴史

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