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金メダルには「何」が必要か

2012.07.31

今回のオリンピックでも、いつもと「変わらなかったこと」がある。大会前のマスコミの過剰な盛り上げ方だ。国民は、“いつも通り”、マスコミに異常なまでに「期待」を抱かされて、大会に突入した。

事前の報道を見るかぎり、日本が金メダルを20近く、少なくとも二桁は獲得するだろうと誰もが信じていたに違いない。しかし、まだ序盤とはいえ、現実はまったく異なっていた。

期待された選手は次々と敗退し、金メダルは夢と消えている。マスコミ、特にテレビが煽(あお)り、つくり上げられた雰囲気は、やはり“バブル”に過ぎなかったことを視聴者はいやでも気づかされている。

期待に応えられなかったという意味では、絶対的な力を持っていた体操の内村航平ですら例外ではなかった。3連覇を狙った北島康介も、ピークが今年の「春」に来てしまい、身体のキレが春とはまるで違う下降気味の最悪の状態で本大会を迎え、100メートル平泳ぎで惨敗してしまった。

いかにオリンピックで力を発揮することが難しいか、彼ら日本の名選手の失敗が物語ってくれている。世界中から注目される最高の檜舞台で、彼らですら緊張やプレッシャーなど、言葉では形容しがたいものに押しつぶされていくのである。

これをいかに克服するかは、アスリートたちの永遠のテーマでもある。拙著『あの一瞬―アスリートはなぜ奇跡を起こすのか』(新潮社)で、私は、アジア最多の金メダル8個を持つ体操の加藤沢男選手の“失敗する練習”のことを書かせてもらったことがある。

これまで当ブログでも何度も書かせてもらっているので詳細は省かせていただくが、要は、加藤選手は、日頃の練習で、どれほど緊張し、筋肉が硬直し、心理的にガチガチになっている時でも、「それでもおこなうことができる演技」を探るために、ひたすら“失敗する練習”を繰り返したのである。

その究極の状態でもできる演技を、加藤さんは「命綱」と表現した。その「命綱」を獲得するために、逆に「どうやったら失敗するか」ということを身体が覚える“失敗する練習”をつづけたのである。

私は、加藤さんの話を伺いながら、加藤さんが今も破られないアジア最多の金メダル8個を持つ理由が少しわかった気がした。

日本選手団初の金メダルを獲得した柔道女子57キロ級の松本薫(24)の昨夜の戦いを見て、私は、彼女には「どうしても金メダルを獲って欲しい」と心から願った。

彼女は“けもの”だった。24歳の女性に“けもの”という表現は失礼だが、試合に臨む前の彼女の敵を喰い殺すような闘志と気迫は、人間というより、やはり“けもの”と表現した方がいいと思う。

それほど彼女の気迫は凄まじかった。試合前、自分自身に何かを言い聞かせるようにひとり言を呟き、それに一回一回、「はい」と返事している彼女の姿を映像は捉えていた。そして、虚空を睨み、まさに“けもの”のように何かに喰いつくように彼女は何度も口をあけた。

まわりの喧噪も、プレッシャーも、なにも感じないほどの「自分だけの世界」に自身を追い込む鬼気迫る表情に、私はテレビ画面に吸い寄せられた。私は、彼女が本当に敵を喰い殺すのではないか、と錯覚した。それほどの怖さを彼女は身体中から“発散”させていた。

私は、「この選手はオリンピックが持つ独特の空気と重圧を克服する方法を持っている」と思った。そして、その通り、これまで誰もなし得なかった「女子柔道57キロ級」の金メダル獲得という偉業を彼女は成し遂げた。

闘志がまるで伝わってこない不甲斐ない男子の柔道選手の姿を見つづけていただけに、私は、この金メダルがより価値の高いものだと思った。

重圧の中で金メダルを獲得するには「何」が必要なのか。松本選手は、そのことの答えのひとつを示してくれている。それだけに、表彰の場で見せた24歳の女性の破顔一笑が、より爽やかに見えた。

カテゴリ: オリンピック, 柔道

忘れられない一人のアスリート

2012.07.28

開会式が終わり、ロンドン五輪は、正式にスタートした。さまざまなドラマを刻んできた世界最大のスポーツ・イベントがいよいよ始まる。

私には、かつてオリンピックに君臨した忘れられない一人のアスリートがいる。それは「君臨」という名に最もふさわしい選手だった。このオリンピックを前に、つい先月(6月)、その選手はこの世を去った。今日は、その選手のことを少し書いてみたい。

男の名は、テオフィロ・ステブンセン。キューバのヘビー級ボクサーである。私は、オリンピックのボクシング史上、これほど圧倒的な強さを発揮した選手を知らない。

世界最強の男を決めるヘビー級には、伝説的な強さを発揮した男が数々、いる。もちろんプロの世界でのことである。

“褐色の爆撃機”と呼ばれたジョー・ルイスをはじめ、ジャック・デンプシーやロッキー・マルシアノ、モハメド・アリ、ジョー・フレージャー、ジョージ・フォアマン、マイク・タイソン……歴代の最強王者たちの名を挙げればきりがない。

実は、オリンピックとプロのヘビー級王者との関係は深い。ヘビー級の場合、オリンピックの金メダリストは、そのままプロ入りして、一気にチャンピオンに駆け上がる例が少なくないのだ。

ローマ五輪のカシアス・クレイ(モハメド・アリ)、東京五輪のジョー・フレージャー、メキシコ五輪のジョージ・フォアマンは、いずれも、金メダリストとして鳴り物入りでプロに転向し、そのまま全勝でヘビー級の世界王者になっている。

これは、言いかえれば「ボクシングの世界で、いかに五輪の金メダリストになるのが難しいか」ということを物語っている。ローマ、東京、メキシコの金メダリストがそのまま世界ヘビー級王者になったため、当時、ボクシング界では、「次」の五輪ヘビー級王者に世界中の注目が集まっていた。

そして、その後のミュンヘン、モントリオール、モスクワという3つのオリンピックでヘビー級の金メダリストとなったのが、キューバのテオフィロ・ステブンセンだったのである。

当時、五輪のヘビー級は、アメリカの独壇場だった。金メダリストがそのまま世界チャンピオンに駆け上がるのだから無理もない。

だが、彗星のごとく現れたこのキューバの黒人は、アメリカをはじめ欧米のボクサーを次々と粉砕していった。身長197センチ、体重が100キロを越えるこの巨人は、大袈裟に言えば、ほかの国の出場選手をあたかも“子供扱い”した。

大人が子供とボクシングしているのか、と錯覚するほど、その強さは別格だった。巨体を生かしてロングレンジから、破壊力抜群のストレートを繰り出すボクシングスタイルは、無敵を思わせた。

70年代のプロボクシングのミドル級を圧倒的な強さで支配したカルロス・モンソンというアルゼンチンの強打者がいる。“ライフル”と形容された左右のストレートを持ち、14度連続防衛を果たして、そのまま引退した比類なき強さを誇ったチャンピオンだ。

私は、ステブンセンは、このモンソンを大きくし、さらに破壊力を増したボクサーではないか、と思っていた。あれは、モントリオール五輪の決勝戦だったと思うが、たまたまステブンセンの試合がテレビで中継されたことがあった。

私は、身を乗り出してステブンセンの試合を見た。やはり、カルロス・モンソンを大きくして、さらにパンチ力を増したかのような“大男”がそこにいた。ルーマニアの選手がステブンセンの強打を恐れ、腰を引いてアウトボクシングに徹していた時、いきなりそのステブンセンの右が飛んできた。

私には、その右がルーマニアの選手のテンプルを“こすった”ように見えた。しかし、相手は、それだけでもんどりうって倒れたのである。勝負は決した。五輪2連覇の頃のステブンセンは、まさに全盛時代である。私は、息を呑んでそのKOシーンを見つめていた。

ステブンセンは、次のモスクワ五輪でもヘビー級を制し、オリンピック3連覇を果たした。アリ、フレージャー、フォアマンと続いた五輪王者の「次」は、圧倒的な強さを持つステブンセンが君臨し、五輪ヘビー級3連覇という信じられない偉業を達成したのである。

ステブンセンの強さは、世界のスポーツジャーナリズムの注目を集めつづけた。しかし、社会主義国のキューバでプロになるには、「亡命」しか方法はない。だが、ステブンセンは、「私が愛するキューバを去ることはあり得ない」と、それを一蹴し、事実その言葉通り、故郷を去ることはなかった。

世界ヘビー級王者のモハメド・アリとの試合が実現しないか、亡命以外のさまざまな方法が考えられた。キューバの独裁者、フィデル・カストロがアリとの試合を「容認した」という情報が乱れ飛んだこともある。しかし、ついに夢の試合は実現しなかった。

ステブンセンの訃報は、今年6月に流れた。「心臓病により死去」という簡単な訃報だった。まだ60歳という若さだった。五輪史上に残る最強のボクサーは、五輪以外では世界の注目を集めることもなく、こうしてひっそりと世を去ったのである。

間もなく86歳になる独裁者カストロは、パーキンソン病に苦しみながら、まだ生きている。ステブンセンとの対戦を世界から待ち望まれていたモハメド・アリも、70歳となった今、パーキンソン病に苦しみ抜いている。

時の流れは残酷だ。オリンピックという世界の檜舞台で栄光を勝ちとった人間にも、幸福の女神が微笑むとは限らない。私は今日の未明、そんなことを考えながら、開会式で「ヘイ・ジュード」を歌う老いたポール・マッカートニーの姿を見ていた。

松井よ、日本に帰って来い

2012.07.26

レイズの松井秀喜が戦力外通告を受けた。膝(ひざ)にプロ野球の選手としては致命的な古傷を持つ松井が、いよいよ大リーグでの選手生命が危うくなった。大選手といえども、年齢と共に誰もが通る「道」である。

私は、「松井よ、早く日本に帰って来い」と願う一人である。松井はメジャーを去ることを恥だと思う必要はない。むしろ故郷に錦を飾る意識で“凱旋”すべきなのだ。指名打者制のあるパ・リーグで、私は松井の勇姿を是非、観てみたいと思う。

私が思い出すのは、ドジャースをはじめ各球団で活躍した大スター、レジ―・スミスが日本にやって来た時(1983年)である。今の松井と同じ38歳だったレジー・スミスが、巨人の4番になった時、「こんな大スターまで日本に来るのか」と、仰天したものである。

メジャーで300本以上のホームランを打っていたレジー・スミスは、紳士的でまじめな姿勢もあって、ファンから愛され、日本でも存在感を示した。

今の松井は、あの時のレジー・スミスと似ている。もちろん二人とも全盛時の力はない。だが、野球に対する真摯な姿勢と、メジャーで名声を獲得した実績において明らかに立場が似ている。

名門・ヤンキースの4番としてファンを魅了した松井は、日本に多くの財産を持ち帰ってくれるはずだ。日本のファンは、松井の日本復帰を心待ちにしているのである。

メジャーへの未練を断ち切って、日本球界への復帰を果たして欲しい。自らの著書のタイトルでもある「不動心」によって、松井の決断を期待したい。

さて、日本列島は猛暑に見舞われているが、いよいよロンドン五輪も始まった。昨夜(今朝)のなでしこジャパンの試合は、昨年のワールド・カップ(W杯)を彷彿させる素晴らしい戦いぶりだった。

私は、カナダを2対1で破った昨夜の試合を観て、なでしこの戦力は、W杯の時より明らかにアップしているように感じた。最大のものは、大儀見優季(旧姓・永里)の成長だ。結婚して大儀見姓となった彼女は、ピッチでの自信と技術が明らかに昨年とは異なっている。

W杯では全試合に出場したものの得点が1点しかとれず、テクニックの面で疑問符がついたが、ドイツのプロリーグでの経験が積み重なり、急速に自信とテクニック、そして存在感を増したように見えた。

この大儀見の成長が加わり、なでしこジャパンは、明らかに世界のトップ・フォーの一角を占めるようになったと思う。昨夜の戦いぶりに、メダルの期待がいやが上にも高まっている。

今回のオリンピックには、ほかにも期待される種目が目白押しだ。私にとっては、しばらく締切に追われながら夜中のスポーツ中継に時間をとられる日々が続きそうだ。

カテゴリ: サッカー, 野球

終盤迎えた甲子園予選と「イチロー」

2012.07.24

全国で熱戦が繰り広げられている高校野球の甲子園予選。西東京では、日野高校の佐々木千隼投手や、片倉高校の金井貴之投手など、“都立のエース”の踏ん張りが目立っている。

佐々木君は、甲子園2連覇を目指す日大三高を初回の3点だけに抑えながら、奮投むなしく準々決勝で力尽きた。一方、片倉の金井投手は準々決勝も突破し、甲子園まで「あと2つ」に迫っている。いずれも140キロを超す剛球を持つ都立のエースだ。

予選も終盤に近づくと、球場やベンチには独特の空気が漂う。負けた瞬間に3年生は、高校野球の世界から去らなければならない。入学以来、必死に白球を追う生活を過ごしてきた球児たちにとって、何かが「ぽっかりと空く」のである。

その「時」を少しでも先にするために、選手たちは必死で頑張っている。だが、力及ばずそれが現実になった時、思わず涙がこぼれ落ちるのは当然だろう。

今日の東東京の準々決勝、帝京と駒大高校との激突も見応えがあった。好投をつづける駒大の竹内投手が7回表にバックスクリーン右に逆転のツーランをぶち込まれて2対1と逆転されるまで、あわや優勝候補ナンバー・ワンの帝京が姿を消すぎりぎりまで追いつめられていた。

負ければ即、終わり、というトーナメント戦が持つ独特の悲愴感が高校野球人気の根底にある。野球部であろうとなかろうと、誰もが通過する「高校時代」の思い出に必ず顔を出してくるのが、高校野球のような気がする。

今日は、マリナーズのイチローがヤンキースに電撃移籍し、そのままシアトルでヤンキースの一員として試合に出場するという驚きのニュースが伝えられた。ヤンキースの選手として初めて打席に立つ時、万感の思いで“昨日までの”ホーム球場の観衆に帽子をとって挨拶をするイチローの姿は感動的だった。

どれほど叱咤し、頑張ろうが、ついに優勝戦線に加わることができなかった弱小球団のマリナーズ。世界一の栄光を掴みたい、というイチローが選手生活の晩年を迎えて、その悲願のためにヤンキース移籍を決意したことに、私は拍手を送りたい。

イチローが日米の野球界で会得した「すべて」を最も注目されるヤンキースという名門チームで、アメリカの野球ファンに披露して欲しいと思う。WBCでもあれほど「世界一」にこだわった名選手だけに、必ずやワールドシリーズ制覇という栄光を勝ち取るに違いない。

カテゴリ: 野球

カネだけのためなのか? 失望の日本プロ野球選手会

2012.07.20

おいおい、ホントか? と多くの野球ファンが耳を疑ったに違いない。本日、記者会見で来年のWBCへの不参加を表明した「日本プロ野球選手会」に対してである。

「今の不公平な条件のままでは、日本プロ野球の発展のために次回WBCは出られないということで一致した」。選手会の会長である阪神の新井貴浩がそう表明したと聞いて、私は失望を禁じ得なかった。

理由が、第1回大会からいまだに燻(くすぶ)りつづけるWBCの収益金の分配比率の問題だと聞いて、その思いはますます強くなった。

いつから、君たちはそれほどカネの亡者になったんだ? あれだけの年棒を得ていながら、君たちは、まだそれほどカネが欲しいのか? 多くの野球ファンは、そう思っているだろう。

私は、たとえ、一銭の収入にならなくても、君たちには日の丸を背負って、永久不滅の3連覇に挑戦する軍団であって欲しかったと思う。

そもそも、ベースボールはアメリカ発祥のスポーツだ。しかし、明治時代に日本に上陸したこのスポーツは、日本で独自の発展を遂げた。その間、「アメリカに追いつけ追い越せ」というのが日本の野球人の悲願だった。

多くの先人たちの苦労の末、日本の野球は本場アメリカも驚くほどのレベルに達した。そして、メジャー中心の理不尽なシステムの中、それでも日本は実力でWBC2連覇を成し遂げたのだ。

カネばかりで動くメジャーに対して、それは実に痛快極まりない出来事だった。その意味で、今度目指すべきWBC3連覇には、多くの先人や、野球ファンたちの思いがかかっている。それを今日、君たちは自ら“放棄”してしまったのである。

そもそも、人気・実力とも世界一を自認するメジャーにとっては、WBCは「やらずともいい大会」である。言って見れば、メジャーにとっては、“勝って当たり前、負ければ非難轟々”というのがWBCなのだ。

しかし、思いっきり彼らが儲かるシステムをつくって、“同じ土俵”に彼らを引っ張り出し、そしてガチンコ勝負を挑んだのが日本だったはずである。

その立場を2連覇したからといって、もう忘れ、メジャーと同じように、カネの問題を持ち出して、不参加を表明したのである。それは、早くも“挑戦者”の立場を忘れた君たちの驕り以外のなにものでもない。

会長たる新井君。君は、駒澤大学の出身だ。ひたむきに学生野球に全精力を傾け、東都501勝という金字塔を打ち立てた元駒澤大学監督の太田誠氏の弟子である。そんな君が、たかだか「おカネ」ぐらいのことで、その栄光の3連覇に背を向けるのか。

ヤンキース時代の松井秀喜がWBC不参加を表明して人気が一気に凋落し、その直後に大けがによってシーズンを棒に振ったことは今も記憶に新しい。一方、イチローは、日の丸を背負ったプレッシャーで胃に穴をあけながらも最後まで踏ん張り、日本にWBCの連覇をもたらす決定打を放った。

そこには、日の丸を背負うことに対する「誇り」と「夢」と「名誉」があったのではないかと思う。その価値を見いだせない君たちに、私はどうしても失望する。

まだ遅くはない。野球ファンを裏切るこの決定を早々に覆し、「私たちは一銭の収入にならなくても、日本の名誉のためにWBC3連覇に挑戦します」と表明し直すことだ。

その時、得られるものは、おカネなどというレベルのものではない、もっともっと大きな「何か」であるはずだ。目を覚ませ、プロ野球選手会。そして、不滅のWBC3連覇を勝ち取って、今日の隆盛を築いた先人たちの思いに報いて欲しい。

カテゴリ: 野球

大津いじめ事件と「警察」

2012.07.18

世間を騒がせている大津のいじめ事件における「警察の動き」を国民はどう見ているだろうか。おそらく、多くが「いい加減にしろ」と思っているに違いない。

私は、大津警察署がとった行動にこそ、事件の本質が隠されているような気がしてならない。自殺した中学2年生(13)は、殴る蹴るはもちろんのこと、「自殺の練習」をさせられ、死んだハチを食べろと命令され、亡くなる前日にはマンションの自室も荒らされていた。

その父親が息子の死後、暴行の「被害届」を出しに大津署に行ったが、3度も「受理してもらえなかった」というのである。市民の生命と安全を守るべき警察が、死んだ息子の無念を胸に相談にやって来た父親を3度も“門前払い”にしているのである。

そこには同じ「人の親」としての思いやりや憐憫の情、洞察力……等々が全く窺えない。その神経は、異常というほかないだろう。しかし、私はそこにこそ、この事件のポイントがあると思う。

単に「いじめ」といっても、それは千差万別だ。中学生ともなれば、学校の先生を腕力で凌ぐ生徒などいくらでもいる。また、やくざの息子もいれば、平気で先生を脅すような親も少なくない。

そんな学校現場で、いじめや校内暴力を止めるためには、警察との連携が不可欠であることは自明だ。だが、肝心の警察が、そもそもそんなことに「理解」もなければ、「やる気」もないのである。

つまり、日本の警察には、いつまで経っても「学校のことは、学校で処理せよ」という頭しかない。私は、日本の警察の意識を変え、警察が行動しやすい体制さえつくれば、いじめや校内暴力をなくすのは、実はそれほど難しいことではない、と思っている。

つまり、警察力の「教育現場への介入」を積極的に押し進めることだ。いじめを見れば、まず教師が対策を話し合い、それでもダメなら、早い段階で「警察力を利用」することである。そのことが当たり前のごとくおこなわれるようになれば、ワルどもが「やりにくくなる」のは当然である。

そういう警察力の介入を積極的におこなう教育現場を社会が「非難する」のではなく、逆に「評価する」姿勢ができれば、いじめの被害者は激減するだろう。

子供たちの生命を守るためには、当然すぎるこういうことがこれまでできなかったのは、いつも浮世離れした“書生論”ばかり展開する新聞メディアに責任がある。

世の自称・人権派たちと組んで、新聞ジャーナリズムがそれを阻止したり、批判したりしなければ、命の助かる生徒がどれだけ増えるだろうか、と私は思う。いじめによる自殺者をなくすには、教育現場と新聞ジャーナリズムが“偽善”から脱却することが、まず第一なのである。

カテゴリ: 教育

佳境を迎えた熱暑の甲子園予選

2012.07.17

それにしても暑い。日本列島は今日、高気圧に覆われて気温が上がりつづけ、午後2時過ぎには、群馬県の館林市で39.2度を観測したそうだ。もはや「40度突破」も目前だ。

これでは、熱中症で運ばれる人があとを断たないのも無理もない。そんな熱暑の中、今日も晴れの舞台・甲子園を目指して球児たちの激戦がつづいている。

昨日、早くも沖縄から浦添商が甲子園一番乗りを果たしたが、各地区では、これからが予選の佳境に入る。今大会の注目は、なんといっても春の覇者・大阪桐蔭の春夏連覇を「どこが阻止するか」にある。

そもそも激戦の大阪予選を大阪桐蔭が突破できる保証もない。私は先月におこなわれた大阪桐蔭と明徳義塾の招待野球を観たが、この試合で大阪桐蔭は1対4で明徳に敗れている。

それでも、高校時代の実力では“ダルビッシュ以上”という評価の高い大阪桐蔭の藤浪晋太郎投手は、初回の第1球から150キロという豪速球を投げ込んでいた。

身長197センチ体重87キロという巨体から投げおろすストレートとカットボール、縦に落ちるスライダーは、春選抜の優勝時にまったく引けをとらないものだった。

この大阪桐蔭を軸に、昨夏の覇者で甲子園二連覇を目指す猛打の日大三高(西東京)をはじめ、全国の強豪が虎視眈々と頂点を目指して鎬(しのぎ)を削っている。

私が最近の高校野球を見て思うことは、公立高校の一般の野球部にも、多くの「逸材がいる」ということである。

“春は投手力”とは、よく言われる言葉だが、夏の大会は投手力だけでは勝ち抜けない。もっと言えば、剛球ピッチャーが、それだけで、予選を勝ち抜くことは難しいということだ。

この大会でも、期待していた大型左腕投手が、早々と予選の序盤で姿を消した例がある。単に剛球を投げ込んでも、打者のタイミングを外せなければ、金属バットで合わせられればそれで終わりだ。

つまり、ピッチャーは、球速ではなく、緩急をつけたコンビネーションの“妙”こそが問われるのである。そのことを徹底するチームの中に、栄冠を掴むチームが出て来るだろう、と私は思う。

過酷な炎暑の闘いは、実は、熾烈な頭脳戦の末に決着がつく。そのドラマが、今年も目の前で繰り広げられている。締切の都合をつけて、その熱気を肌で受けとめるために、酷暑のスタンドにできるだけ足を運びたい。

カテゴリ: 野球

思わず吹き出した「小沢新党」の名称

2012.07.14

今週も出張つづきだった。和歌山や福島など、講演や取材でほとんど東京を留守にしていた。昨日は、やっと東京に戻り、昼に上野で講演、夜は新橋で勉強会の講師をさせてもらった。

私が東京から離れている間に、小沢一郎氏の新党が発足した。「国民の生活が第一」という名前だそうだ。それを聞いて、私は思わず吹き出してしまった。これ以上に、この政党に集まった人たちのレベルを表わす名称はないからだ。

国家には、国民の生命や財産、そして領土を守る、という最大の使命がある。防衛、外交、教育、福祉、徴税……等々、国家には多くの役割がある中で、彼らは、「生活」が唯一絶対のものであることを高らかに宣言したのである。

私は、今の日本の低迷は、日本人の国民性の変化によって起こったものだと思っている。かつて世界から“20世紀の奇跡”と驚嘆された高度経済成長を成し遂げた中心は、黙々と働きつづけた大正生まれの“戦争世代”だった。

しかし、その戦争世代が社会の第一線を退いてから、日本は“自分のためだけに生きる世代”が中心となった。「権利」や「癒(いや)し」ばかりを求める人たちだ。そして、そこから日本の長き凋落が始まったのである。

今の日本人は、なんでも自分が中心だ。安全保障をはじめ、国家の存続にかかわる問題など興味もない。あるのは、自分たちの「生活」だけである。

当然、低負担で、“高福祉”が受けられれば、それに越したことはない。たとえ高福祉であろうと、“高負担”などは、もっての外なのだ。

日本人が「辛抱」というものを忘れ、“自分のためだけに生きる世代”が中心になっていることを、小沢氏はとうにお見通しだ。その世代の「票」を狙ってのネーミングがあまりにみえみえなので、私は思わず吹き出してしまったのだ。

選良たる国会議員には、国家と国民を守るという使命がある。だが、小沢チルドレン、小沢ガールズにそんなことを期待する方が愚かだろう。

この次元の低い、自らの使命さえ知らぬ政治家たちが見事に蝟集した政党が次の選挙で「消え去ること」を祈りたい。実際、世論調査を見ても小沢新党に期待を抱く向きは少なく、行く末は極めて厳しいようだ。

カテゴリ: 政治

「少年は残酷な弓を射る」は何を投げかけているか

2012.07.09

昨日は日曜だったが取材が入り、銀座まで行った。相手の都合次第で土・日もない仕事なので、いつものことだ。しかし、お陰で昨日は取材が終わったあと、日比谷で映画を1本、観ることができた。

東宝シネマズ(日比谷シャンテ)で上映されている「少年は残酷な弓を射る」である。私は、神戸の酒鬼薔薇事件や光市母子殺害事件の記事や本を取材、執筆していることもあり、少年犯罪には特に関心を持っている。是非、観てみたい映画だった。

実は、この映画を観たかった理由がほかにもある。映画の原作となった同名の著作が、イースト・プレスから出版されているが、この編集を担当したのが、私の新潮社時代の後輩の女性なのだ。

大変優秀な編集者だったが、その彼女から久しぶりに連絡が来て、本と、この映画のことを教えてもらった。なかなか映画を観る時間がない私だが、ちょうど取材が終わった時と、映画のスタート時間がマッチして、観る幸運に恵まれた。

原作本もそうだが、映画も非常にリアルで「重い」ものだった。あたりまえのことだが、人間の心理描写を映像で表わすのは難かしい。

文字の方が表現しやすいものと、あるいは映像が表現しやすいものと、両方ある。しかし、これは映像化が大変困難なものだったと思う。それだけに監督の技量と俳優たちの演技力が試されるものだったと言える。

学校での大量殺人をおこなう犯人の少年の母親を演じたティルダ・スウィントンの鬼気迫る演技に、映画館の中は、凍りついたような不思議な空間になっていた。

通常、母親は、わが子を“分身”のように思うものだが、時にわが子に愛情を抱けない母親も存在する。必然的に、子供は母親に馴染もうとしない。

ティルダ・スウィントンは、子供が自分に馴染まず、だんだん異常行動をとるようになるわが子に恐怖し、苦悩していく姿を、実にシリアスに演じていた。

少年犯罪を分析する時、いろいろな面で母親のあり方がかかわっていることの多さに驚かされることがある。

お腹の中にいる時から母親の愛情に欠乏し、そのまま生まれ、そしてそれ以後も愛情を確認できないまま育った子供たち。そういうなかに、時に信じられないような犯罪を起こすものが出てくることが、これまでも指摘されてきた。母親からの愛情を求める少年の姿は痛々しく、その姿は哀れでもある。

それと共に、私は、他人の痛みをまったく理解できず、生きるものに憐憫の情を抱くということのない、いわば「冷情性精神病質」の若者が増えている現状を思い浮かべながら、この映画を観た。

やはり、そういう若者が増えている背景には、母の胎内にいる「時」がないがしろにされていることが関係しているのだろうか。そんなことをリアルに考えさせる力を持った映画である。

どこまでも答えのない「少年犯罪」の恐怖――世の女性、いや男性も、すべての人間に「他人事」だと思わせない迫力に満ちた意欲作だった。

カテゴリ: 映画

七夕の夜、思わず見入った番組

2012.07.07

七夕の今日、東京はあいにくの雨となった。いつもなら、七夕の夜の空を見上げて物思いに耽る人もいるだろうが、今日は天の川どころか、星ひとつ見えない夜となった。

1年に1度だけ会うことが許される織姫と彦星もさぞ寂しかったに違いない。しかし、おかげで今日の東京の最高気温は摂氏25度。久しぶりに暑さから解放された1日となった。

今週もさまざまなニュースがあった。ブログに書きたいことも沢山あったが、取材と執筆に追われて、なかなかできなかった。

今夜のNHKスペシャルでは、瓦礫処理に悩む東北三県のようすを丹念に追った番組が放映されていた。“自分のためだけに生きる”日本人が多くなった今、「同情はするが、力は貸さない」という全国のほかの自治体に住む自分勝手な市民の姿が映像には映し出されていた。

「健康被害が出たら、その補償はどうしてくれるんだ!」。そう叫ぶ住民の姿が画面に登場していたのだ。こんな映像を見たら、被災地の人々はどれほど物哀しくなるだろうか、と思いながら、私は番組を観ていた。

今週は、ちょうど国会事故調の報告書が出されたばかりだったので、東北の復興にかかわる同番組はグッドタイミングだったと言える。それにしても、さまざまな事故調査委員会の報告書が出揃った今、つくづく思うことがある。

どの報告書にも指摘された最高指揮官・菅直人氏の常軌を逸した行動の数々だ。過剰な介入で事態収拾に走る現場を混乱させ、パニック状態を自ら醸成していったこの国家の領袖の姿を、私たちは忘れてはならないと思う。

今夜の番組では、はるか太平洋の彼方にあるアメリカ大陸の西海岸にうちあげられた瓦礫のことまで取り上げていた。私は、パニック状態に陥った菅総理の姿を思い描きながら、その映像を観ていた。

それは、大津波に家屋と共に押し流され、どれほど多くの人が「救出を待ちながら死んでいったか」ということである。どんなに苦しく寂しい思いをしながら、彼らが死んだかと思うと、私は今も胸が苦しくなる。

あの時、原発のことで頭が一杯で、周囲を怒鳴り散らして我を失った菅総理には、瓦礫と共に押し流されていった人、あるいは瓦礫の下で救出を待つ人たちを「ひとりでも多く助けなければならない」という思いなど、おそらくなかったに違いない。

頭の中があれだけ原発のことでパニックになってしまっては、そんなことは望むべくもない。国民の生命と財産を守るという国家の領袖としての最大の使命を見失う人間を「総理」に戴いていた日本国民の不幸がそこにはある。七夕の夜、私はそんな思いで原稿の手を休めてNHKスペシャルに見入っていた。


カテゴリ: 地震

小沢離党劇の唯一の“救い”

2012.07.03

これほど国民の期待感が低いことにご本人は驚いているに違いない。増税反対、原発反対という“金看板”を掲げて離党届を提出した小沢一郎氏を見る有権者の目は、想像以上に冷ややかだった。

無理もない。政党を壊してはつくるという点において、間違いなく日本の政界に名を残すこの人物は、4回目の新党結成に突き進む道を選んだ。

いや「選んだ」というより「選ばざるを得なかった」という表現の方が正しいだろう。離党届を白紙委任していたはずの議員が、提出後に撤回を要請して小沢事務所に駆け込むなど、ドタバタの末の離党騒動は、そのことを物語っている。

いくら金看板を掲げても、この衆院38人の議員たちは、次の選挙で壊滅するだろう。民主党に残っても、ほぼ壊滅は確実だっただけに、まさに「進むも地獄、残るも地獄」という中での決断だった。

18年前、時の大蔵省の大物事務次官・斎藤次郎氏と共に、国民福祉税という名の「増税」に突き進んだ小沢氏が、今度は、財務省の大物次官、勝栄二郎氏と共に「増税」に突き進む野田総理にストップをかけようとする皮肉に、私は溜息をついた。

小沢氏を見ていていつも思うことは、この政治家には、その時々の政局で「我(が)を通す」ことはあっても、政治家として「何を成し遂げたいのか」いうことが、何も感じられないということだ。

20年以上にわたって日本の政界を混乱させつづけたこの政治家の最期が近づいていることだけが、国民にとって唯一の“救い”のような気がする。

カテゴリ: 政治

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