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見応えがあったNHK「クローズアップ現代」

2012.08.29

昨夜のNHK「クローズアップ現代」は見応えがあった。「なぜ遺書は集められたのか~特攻 謎の遺族調査~」と題されたスクープ番組である。

太平洋戦争で特攻によって亡くなった元特攻隊員の遺族を戦後、“謎の人物”が訪ねてまわり、1000通を超える遺書が回収されていたというのだ。その遺書が、江田島の海上自衛隊の倉庫から発見されたことを同番組が報じていた。

私は『太平洋戦争 最後の証言』(小学館)シリーズを今年、完結させたばかりで、元特攻隊員にも数多くお会いしている。その当時の悲愴な心情と、仲間の死について、涙ながらに語る老パイロットたちの姿を直接、知っているだけに、身を乗り出して番組を観た。

“謎の人物”とは、自称・特務機関員の近江一郎氏だった。私は、「ああ、そうか」と思った。なぜなら、私は、『太平洋戦争 最後の証言』シリーズの調査・取材過程で、この人の資料を恵比寿の防衛研究所の史料閲覧室で何度も見たことがあるからだ。

近江氏は、遺族から遺書を回収するだけでなく、受け取ることができなかった遺書は、わざわざ書き写させてもらい、これをきちんと残して、その綴りを後世に残していたのである。

それは、実に丁寧で几帳面な字だった。零戦で特攻して亡くなった日系2世・松藤大治少尉の生涯を描いた拙著『蒼海に消ゆ』(集英社)でも、この近江氏が書き写した資料を紹介させてもらった。

それは、元山航空隊から出撃した松藤少尉ら「七生隊」を率いた宮武信夫大尉の辞世の句が、近江氏によって書き写されていたからだ。

「七生を 誓ひて散らん 桜花」

宮武大尉のこの句を書き写して後世に残した人物こそ、近江一郎氏だったのである。私は、近江氏によって回収された特攻隊員たちの遺書が江田島から発見されたというニュースが他人事とは思えなかった。ああ、『太平洋戦争 最後の証言』シリーズが終わる前に是非、原本を見たかった、と正直思ったのである。

それと共に、この近江氏のバックに特攻を推進した一人、猪口力平・元大佐がいたと聞き、驚いた。猪口氏は、中島正・元中佐と共に、“特攻生みの親”大西瀧治郎中将の部下である。

中島氏は、特攻を次々と送り出し、「俺もあとから貴様たちに続く」「貴様らは、生きながら、すでにして“神”である」と訓示し、しかし、戦後も生き長らえて、自衛隊で空将まで昇り詰める人物だ。

猪口氏と中島氏は昭和26年に『神風特別攻撃隊』(日本出版協同)を共著で出版し、特攻隊員たちは自ら志願し、進んで「死」を選んだ、と書いた。それは、まるで自分たちが戦後、生き残っていることに対する釈明であり、言い訳であるかのような内容だった。

私は、海軍の士官たちを多数輩出した海軍兵学校出身の人たちは主に2つに分けられると思っている。宮武大尉のように、自ら部下を率いて先頭に立ち、軍人としての潔さを示した人たちと、「自分もあとを追う」と約束しながら、部下だけを行かせて自らの身は安全地帯に置きつづけた人たちである。

今回の番組で私が驚いたのは、猪口氏らが近江氏のバックにいて、その命によって、近江氏が全国を行脚して遺書を回収していたことが明らかにされたことだ。

この遺書回収作業のあとの昭和26年に猪口氏らによる『神風特別攻撃隊』が出版されたことを、どう解釈すべきなのだろうか。私は、多くの潔い部下たちがいた一方で、当時の指揮官や幹部たちの一部が戦後、言い訳や弁明に終始する生き方をした点が、妙に寂しいのである。

カテゴリ: 歴史

日本人に「覚悟」はあるのか

2012.08.28

竹島や尖閣をめぐる問題は、これまでも当ブログで何度も取り上げてきている。だが、私は、それでも引き起こされる今回の事態に、ただ溜息をつくだけである。

昨日、海上保安庁によって公開された香港の活動家による尖閣上陸のビデオには、やはりコンクリートを投げつける活動家の明らかな「公務執行妨害」が映し出されていた。

しかし、その公務執行妨害さえ適用できない日本の“弱腰”はますます相手をつけあがらせ、ついには丹羽宇一郎・駐中国大使の乗る車の日本国旗まで剥ぎとられる事件にまで発展した。

日本人全体が、そんな屈辱を味あわされたのである。なぜ日本人は、ここまで舐められなければいけないのか。そう思う国民感情こそ貴重だと私は思う。

なぜなら、中国や韓国は、他国の国旗を焼き、根拠のないことでも声高に叫べば、それが「通用してしまう」という先進国では考えられないレベルの国だからだ。

「日本人はこんな理不尽は許さない」という明確なメッセージを与えなければならないが、現在の民主党政権に、とてもそんなことが望めるはずもない。このままいけば、遠からず本当に両国のナショナリズムがぶつかり合う時期が来るのではないか、と懸念される。

早く毅然とした意志を示すことが、それを回避する唯一の道のはずなのに、それさえできないもどかしさをどう表現すればいいのだろうか。

それと共に、ここまで日中、そして日韓関係を決定的に破壊した朝日新聞の過去の報道を考えると、私は、子を持つ親として腹立たしくて仕方ない。

朝日新聞がかつておこなった従軍慰安婦の根拠のない「強制連行」報道や、中曽根首相(当時)の“戦後政治の総決算”を打倒すべく靖国参拝問題を『人民日報』を動かしてまで問題化した報道が、今後も、いかに両国の若者の将来に悪影響を及ぼしていくかを考えた場合、私はジャーナリズムの「罪」を今さらながら考えてしまうのである。

それとともに、問われているのは、日本人の「覚悟」だろうと私は思う。媚びへつらっても、中国への投資に狂奔して企業の利益を確保しようとしてきたこれまでのツケは、これから「これでもか」と国民にのしかかってくるだろう。

どれほど貧しくても、中国や韓国に依存しない誇りある生活をする「覚悟」こそ、いま日本人には問われている。そのぐらいの意志で、両国の理不尽と戦う姿勢を持たなければ、相手の増長を止めることはできない。

日本人が「毅然と生きる」ことしか、両国との衝突を回避する道はない。「譲歩」からは何も生まれないのである。そのことを、この夏の日中・日韓問題は示している。

事態打開のために、われわれは両国への投資や、観光旅行、あるいは商品の購買をやめるなど、敢えて「貧しさを選ぶ覚悟」をしなければならない。

まさに臥薪嘗胆である。それができないなら、竹島や尖閣問題に口を差し挟むことなど、やめるべきだ。そんなことを考えながら、私は、日本国旗が剥ぎとられたという、屈辱的で、非礼この上ないニュースを見ていた。

カテゴリ: 国際

大阪で語らせてもらった「一橋人と戦争」

2012.08.25

今日は、大阪・中之島のリーガロイヤルホテルで開かれた一橋大学OBたちの「大阪如水会」の会合に招かれ、講演をさせてもらった。

タイトルは「一橋人と戦争」。数ある大学の中でも、私は、一橋大学(当時は東京商大)の学徒出陣した人たちに、特にお世話になった。私が上梓した『蒼海に消ゆ』(集英社)や『太平洋戦争 最後の証言』(小学館)にも、多くの一橋人が登場する。

取材で大変お世話になったので、私は如水会や一橋大学の文化祭で、これまで何回か講演をさせてもらっている。今日も、大阪まで出かけて一橋大学OBの前で話をさせていただいた。

今日は、広島県呉市から一橋大学OBの大之木英雄さん(90)がわざわざ講演を聴きに来てくれるというので、身が引き締まった。

大之木さんは元山(げんざん)航空隊所属の海軍少尉で、零戦搭乗員として特攻の命令を待ちながら、終戦を迎えた方である。

拙著『蒼海に消ゆ』の主役・日系2世の松藤大治少尉に関して貴重な証言をしてくれただけでなく、『太平洋戦争 最後の証言』の第3部「大和沈没編」でも、昭和15年8月の戦艦大和の進水の時の目撃者としてもご登場いただいた。

私は、歴史の生き証人である大之木さんを“奇跡の人”だと思っている。特攻命令を待ちながら終戦を迎えたことはもちろん、あの戦艦大和の極秘の「進水」を目撃できた人など、ほかには存在しない。

実際にそれを見て、しかもそれから70年の歳月を経てそのことを私に詳細に証言してくれたありがたさは、表現しようもない。その大之木さんが、わざわざ私のような若輩の話を呉から聴きに来てくれたのだから、光栄であると共に、久しぶりにお会いできる喜びもあってなんだか嬉しくなってしまった。

今日、実際に大之木さんと会場でお会いした時、とても90歳とは思えないお元気さと、お歳を召しても衰えない相変わらずの“鋭さ”に感じ入った。それは、太平洋戦争の最前線で戦った大正生まれの若者の毅然とした姿を彷彿させるものだった。

今日は、時間こそ短かったものの、学徒出陣して死んでいった八百余名の「一橋人」と「戦争」について、私なりに話をさせてもらった。

折しも、竹島や尖閣の問題で、国家としての毅然とした姿勢が問われている時である。話を聴いていただいた方々に、少しでも「心に残るもの」があったのなら幸いだ。

カテゴリ: 歴史

「終着駅は“始発駅”」という戦いの系譜

2012.08.23

凄まじいピッチャーだった。夏の甲子園の決勝戦、大阪桐蔭対光星学院は、3対0で大阪桐蔭が快勝した。ピンチらしいピンチもないまま、史上7校目となる春夏連覇を成し遂げた。

両校は、春の選抜でも決勝で戦っており、春夏とも同一カードの決勝戦というのは長い甲子園の歴史でも初めてのことだった。

しかし、大阪桐蔭の197センチの剛腕、藤浪晋太郎投手は、春の決勝戦で光星学院に12安打を許したものの、この日は、まったくつけ入るスキを与えず、最速153キロのストレートを中心に、「2安打14奪三振」でシャットアウトしてしまった。

これで昨日の準決勝・対明徳義塾戦につづき2試合連続の「2安打」完封劇である。明徳、光星という強豪に対して、計「4本」しかヒットを許さない圧倒的なピッチングに、球場は、満員の観衆によるどよめきと溜息に支配された。

「光星は3番(田村)、4番(北條)の2人が中心なので、ここをきっちり抑えようと思って投げました」。試合後、藤浪君はこともなげにそう言ってのけた。

たしかに2人への150キロ台連発の快速球と落差のあるスライダー、フォークは、とても高校生が打てるような球ではなかった。

昨日の明徳戦でも感じたが、藤浪君の「1度打たれた相手」への気迫は強烈だ。藤浪君は6月、招待野球で明徳と対戦して1対4で敗れた際、明徳の3番・伊與田君と4番・岸君にストレートを痛打されている。

準決勝で藤浪君は、この2人を完全に封じ込み、今日は、光星の田村・北條という高校球界屈指の3、4番を抑え込んだ(※2人合わせて、9回表の田村君のセンター前ヒットを1本のみ)。

「こいつにだけは絶対打たせない」という執念と負けず嫌いの性格は、勝負の世界に不可欠のものだ。それを甲子園の準決勝と決勝戦で藤浪君は見せつけたのである。

ここまで藤浪君に成長を遂げさせたものは何だったのだろうか。試合後、私は藤浪君に「今までで何が一番苦しかったですか」と、聞いてみた。

「入学してから、なかなか甲子園に出られなかった時が、苦しかったです。(その時の)厳しい冬の練習がつらかったですね。でも、そのお蔭で今があります。今日は100点に近い最高のピッチングでした。特に最後の2回(※8,9回)は満足しています。日本で一番長い夏を過ごさせてもらいました。今は、両親に感謝したいです」

涼しい目元をした長身の藤浪君は、勝負の世界に生きる若者とはとても思えない穏やかな表情でそう語ってくれた。

昨日、明徳の3番・伊與田君はこう言っていた。「前に対戦した時は、スライダーがボールになっていたので、ストレートを狙っていけました。でも、今日は、どの球もどんどんストライクゾーンに来ました。前回、戦った時と比べて(藤浪君は)格段に成長していました」。

そして、今日、大会4本塁打の光星の4番・北條君もこう言った。「(藤浪君が)一番得意の真っすぐを打つと決めていました。でも、ストレートも変化球も(想像以上に)キレがよかった。前に戦った時とは、全然違いました」

北條君もまた、前回戦った時に比べて藤浪君の“進化”に舌を巻いていた。そして最後に150キロ台を連発した藤浪君のスタミナに対して、こうもつけ加えた。「(藤浪君は)最後まで速かったです。昨日も投げているのに、疲れがまるで感じられませんでした」

あの藤浪君の150キロの速球と強烈なスライダーを今後、どう攻略すればいいんだろう、と聞いてみると、北條君はこう言った。「また練習します。そして、(藤浪君との対戦の)打席に立てたら、向こうも高校の時とは実力は違っていると思いますが、その時は、自分も成長していると思います。必ず打ちたいです」

悔しさを滲ませながら、北條君はそう答えてくれた。敗れたことによって、戦いは「これから」もつづいていく。進化をやめない藤浪君と、それを「追っていく」ことを心に決めた高校球界随一のスラッガー北條君。

昨日、準決勝で大阪桐蔭に敗れた明徳義塾の馬淵監督は、「終着駅は“始発駅”ですよ」という言葉を残して甲子園を去っていった。今日、敗れた北條君たち光星学院ナインにとっても、今日の敗北が「始発駅」となることは間違いない。

戦いの連鎖は、こうして果てしなくつづく。94回となった夏の甲子園は、やがて100回を迎えるだろう。弱さばかりが強調される昨今の日本の若者だが、甲子園には、そんな弱さとは無縁の若者が今年もたくさん集(つど)っていた。

草食系どころか、肉食系の若者ばかりである。熱戦の連続に、手に汗を握りながら観戦した私は、「甲子園」のおかげで少しだけ日本の将来に安堵した。

カテゴリ: 野球

甲子園に残る3つの「不滅の大記録」

2012.08.21

桐光学園の松井裕樹投手(2年)の“偉大なる挑戦”が終わった。夏、春、夏の三季連続決勝進出を狙う青森の光星学院に0対3で敗れ、ベスト8で無念の涙を呑んだ。

通算奪三振68、わずか4試合36イニングで徳島商業の板東英二が持つ奪三振記録「83」にあと15個まで迫る “ミスターK”の凄まじい三振ショーが終わったのだ。

私は、甲子園での不滅の大記録は「3つ」あると思っている。1つは、この板東投手の通算奪三振記録である。多くの名だたる投手が挑戦したが、「80台」の数字には遥かに及ばず、誰も肉薄することさえ叶わなかった。

2つめの不滅の記録は、昭和6年から昭和8年までの中京商業の夏の選手権「3連覇」である。吉田正男投手を中心に中京商ナインが成し遂げたこの大記録には、実に75年を経て駒大苫小牧が王手をかけたが、田中将大君が決勝戦で早稲田実業の斎藤佑樹投手に敗れ、“夢”と消えた。

昭和6年夏、中京商業に3連覇の偉業がスタートする「最初の1勝」を献上したのが、早稲田実業の島津雅男投手(今年6月に98歳で逝去)であり、それから75年を経てこれに王手をかけた駒大苫小牧の「最後の1勝」を阻止したのが、同じ早稲田実業の斎藤佑樹君だった。

私はこの不思議な、そして運命的ともいえる因縁を軸に『甲子園の奇跡』(講談社文庫)というノンフィクションを書かせてもらった。「甲子園3連覇」という偉業は、それほど凄味のある記録だった。

3つめは、甲子園5試合全完封と準決・決勝の2試合連続ノーヒットノーランという快記録である。甲子園で1点も与えず、すべて完封するというピッチャーは、稀に登場する。だが、それに加えて準決・決勝を連続ノーヒットノーランで締めくくるという恐ろしいまでの記録は、ほかに存在しない。

それは昭和14年夏、和歌山の海草中学(現・向陽高校)の左腕・嶋清一投手によって成し遂げられた。「天魔鬼神」とまで称された嶋の剛球とドロップは、決勝まで外野に相手打者の打球が2回しか飛ばなかったほどの威力だった。嶋投手は学徒出陣して海軍に入り、昭和20年3月、海防艦に乗艦中、南シナ海で戦死した。

私は、この3つが甲子園における不滅の大記録だと思っている。そのうちの1つに、平成24年夏、桐光学園の2年生、松井裕樹君が敢然と挑戦したのである。

松井君の左腕から繰り出される快速球と落差抜群のキレのあるスライダーには、強豪校の強打者たちのバットがおもしろいように空を切った。

1試合平均の奪三振は17。凄まじいペースの松井君の“奪三振ショー”は、次の準決勝戦で、早くも「新記録樹立か」と期待させた。

しかし、光星学院の総合力は、さすがだった。0対0で迎えた8回表、今大会でも屈指のスラッガー、3番田村、4番北條が松井君を連続痛打。決定的な3点を挙げ、守っては、エース金沢君が強打の桐光学園を3安打完封で切ってとったのだ。

「不滅の大記録」は、やはり不滅だった。しかし、松井君の残した記録も素晴らしい。1試合での奪三振記録「22」を樹立し、2位タイの「19奪三振」も記録した。

4試合でとった108個のアウトのうち68個が三振。実に三振奪取率は、62・9パーセントにのぼる。決勝戦まで進出すれば、板東の「83」を塗り変えるばかりか、90台も夢ではなく、100に限りなく近づいたかもしれない。

すべては「夢」で終わったものの、松井君の力投は、間違いなく甲子園の「伝説」のひとつとなった。それだけに、クールな松井君が敗北の瞬間、泣き崩れた姿は印象的だった。

この悔しさがあれば、さらに大投手への道が待っている。奮(ふる)え、松井君。多くの野球ファンが君の剛球を見るべく、「次」の登場を待っている。

カテゴリ: 野球

問われている日本国民の“覚悟”

2012.08.20

昨日の尖閣への日本人上陸問題を報じる日本のマスコミの姿勢に私は驚いた。テレビ朝日が、「魚釣島に日本人上陸 軽犯罪法に抵触も……」と報じたのにつづき、次々と、あたかも上陸した日本人が「悪事をはたらいた」というニュアンスを色濃く滲ませて各メディアが報じていた。

上陸はしなかったものの、同行していたタカ派で知られる山谷えり子議員まで「正当化できるものではないかもしれないが、気持ちはわかる」とコメントしているようすもテレビに映し出されていた。

日本の固有の領土に日本人が行くことに対して、あたかも犯罪であるかのように報じ、国会議員である山谷えり子氏ですら、「正当化できるものではないかもしれないが」というコメントに表われる程度の認識しかないことに私は驚いた。

私は、この国には、マスコミを筆頭に国民の生命と財産、そして領土を守る、という基本の態勢が整っていないことを、改めて認識した。

北方領土、竹島、尖閣は、歴史的・学術的にも日本の固有の領土である。しかし、現状はどうだろうか。なぜ、その固有の領土がここまで攻め込まれなければならないのか――多くの日本人がそう感じているに違いない。

しかし、この日本のマスコミを含め、政治家たちの姿勢を見れば、生き馬の目を抜く国際社会の中で、むしろ「攻め込まれる」のが当たり前かもしれないと思う。

中国は、南沙、西沙諸島でベトナム、フィリピンとも一触即発の状態にある覇権国家である。今後、中国の膨張政策は、アジア各地でさまざまな紛争のもとになり、「尖閣」はもちろん、その次は「沖縄」へも進んでいくことが予想されている。

日本が望むと望まないとにかかわらず、中国は日本の領土への侵略を進めてくる。その中で“最悪の事態”を避けるためには、日本が「毅然たる姿勢」を示し、これ以上、進めば、「大変な事態になるぞ」という断固たる意志を相手にわからせ、将来の“最悪の事態”を回避しなければならない。

だが、日本では、政治家も、マスコミも、 “北京詣で”を繰り返し、北京政府の意向を窺うものばかりだ。一昨年の尖閣ビデオ問題でもわかったように、相手方がどんな違法行為をおこなっているかを政府が隠し、マスコミも報じないため、海上保安庁の一職員がそれを“公開”し、結果として「職場を追われたこと」が思い出される。

今回も香港の活動家が警備にあたっていた海上保安庁の巡視船にコンクリートを投げるなど、極めて悪質で暴力的な公務執行妨害がおこなわれたとされるが、国民はその実態を見ることができない。

その上で、国外への強制退去という“大甘処分”によって、中国側はさらに日本の弱腰姿勢を確信し、北京政府のお墨付きをもらった“官製”反日デモが中国各地で起こっている。

3年前に“友愛”を掲げて発足した民主党政権は、鳩山由紀夫から菅直人、そして野田佳彦の各氏へと首相は代わっても、アジア各国から舐められ、紛争の火種が広がるばかりだ。

私は前述のように、日本が「毅然たる姿勢」を示し、これ以上進めば、「大変な事態になるぞ」という断固たる意志をここでわからせなければ、本当に大変な“最悪の事態”が来ることを懸念している。

国際社会では相手をつけ上がらせたら、その増長は際限なく広がることは常識だ。では、相手を増長させないためには何をすべきか、そのための知恵を絞らなければならない時に、日本のマスコミは、日本人が日本の固有の領土に上陸したことをあたかも“犯罪”であるかのようにしか捉えていないのである。

「日本」を危うくしているのは、政治家たちだけでなく、マスコミであることを痛感する。8月16日付のブログでも書いた通り、マスコミを覆う「自己陶酔型シャッター症候群」のために、やがて日本国民は大きな損害を受けるに違いない。そのことが私には情けない。

遠からず海上保安庁の警備では“防御”できない事態がくる。その時、自衛隊による“海上警備行動”が要請されるだろう。これは、人命もしくは財産の保護、治安の維持のために自衛隊が出動するものだが、この時、中国海軍はどう出るのか。

そんな事態に至らせないために、日本は早く“毅然たる姿勢”を示さなければならない。決して、相手に日本を「舐めさせてはならない」のである。

たとえば、暴力行為に関しては、不法行為のビデオも即座に公開し、強制退去ではなく、きちんとした刑事事件として立件し、罪に服させなければならない。

もちろん、中国は報復行動に出るだろう。中国にいる日本の駐在員や旅行者には、その報復行動に対する覚悟が必要になる。「領土」と「平和」を守るためには、“譲歩”ではなく“毅然たる姿勢”、そして“覚悟”が必要であることに、政治家やマスコミだけでなく、国民全員が気づかなければならない。

カテゴリ: マスコミ, 中国

人間の思いが「激突」「共鳴」する甲子園のドラマ

2012.08.18

今日は、ベスト8を目指す光星学院(青森)、大阪桐蔭(大阪)、明徳義塾(高知)という強豪が甲子園に続々、登場した。朝早くから私もこれらの試合を甲子園で堪能した。

第1試合では、東日本勢で史上初になる夏、春、夏の3季連続決勝進出を目指す光星学院、第2試合では、春夏連覇を目指す大阪桐蔭がいずれも「3本」の豪快なホームランを放ち、それぞれ神村学園(鹿児島)、濟々黌(熊本)に圧勝。ベスト8に名乗りを挙げた。

私には、雷雨によって2時間18分もの中断を挟んで激闘を展開した第3試合の明徳義塾と新潟明訓(新潟)の試合が興味深かった。私はこの試合で“1人の選手”に注目していたのだ。

明徳義塾の3番バッター、伊與田一起(いよた・かずき)君である。明徳義塾には、いつも小柄な選手が多いが、伊與田君は、165センチ68キロで、大柄のスラッガーがずらりと並ぶ甲子園の強豪校の中では、やはり珍しい存在だ。

高知県宿毛(すくも)市出身の伊與田君は、全国からシニアリーグの優秀な選手が集まる明徳義塾よりも高知県内のほかの有力校に進むよう周囲から勧められたが、それを振り切って明徳に進学した生粋の“明徳ファン”だ。

きっかけは、田辺-筧(かけい)のバッテリーで10年前の夏の甲子園を制覇した明徳義塾の試合を甲子園で観戦したことだそうだ。小学2年の時に明徳義塾の試合を観た伊與田君は、「僕は大きくなったら明徳で野球をやる」と心に誓い、それを実践したのである。

小柄ながら2年の時にレギュラーを掴むや、明徳のトップバッターかクリーンアップという重責を担いつづけた。「身体の大きい選手に負けてたまるか」という伊與田君の気迫は凄まじいものだった。

誰よりもバットを振り込み、誰よりも「打つための準備」を怠らない伊與田君は、明徳打線の中で最も信頼されるスラッガーとなって最後の甲子園を迎えた。

闘志と気迫、そして冷静沈着さを併せ持つ伊與田君の真価が問われる場面は、5回裏に来た。0対0で迎えたこの回、明徳は2死満塁という初めてのチャンスを掴んだ。

ここで、キャプテン2番の合田悟君が、右中間に2者を返すタイムリーヒット。均衡を破ったその直後に3番・伊與田君が登場したのである。

2死1、3塁。ここで一打が出れば決定的な追加点が入る。新潟明訓の竹石智弥投手は、伊與田君のタイミングを外すカーブで1球目ストライク、2球目、3球目はストレートが外角に外れた。

そして、さらに4球目の外角ストレート。「必ず外角に来る」。これを伊與田君は見逃さなかった。鋭く振りぬいた伊與田君の打球は、左中間をライナーで切り裂くツーベースとなった。決定的な「2点」を追加したのである。

5回裏の一挙4点。勝負は決した。その後、甲子園には、俄かに雷鳴がとどろき、2時間を超える中断となった。再開された試合は、カクテル光線のナイターの中で、そのまま4対0で明徳が新潟明訓を押し切った。

試合後のインタビュールームで、私は伊與田君に聞いてみた。「あの場面、伊與田君はどんな思いでバッターボックスに入ったの?」。私が聞くと、伊與田君はこう答えた。「ネクストバッターズサークルで“絶対に打つ!”“絶対に打てる!”と、それを心の中で念じていました」。

「ということは、相手ピッチャーの前の打者への投球を見てなかったの?」と私。「はい、見てません。ただ、心の中でずっとそれを自分自身に言い聞かせていました」。丸くて、いかにも人の良さそうな童顔の伊與田君は、そう答えてくれた。

相手投手の配球を見るのではなく、伊與田君は、一心に「打つための精神統一」をネクストバッターズサークルでおこなっていたのである。初球から叩く、という気迫を剥き出しにした伊與田君は、それでも冷静に「4球目」まで好球を待ち、そしてバットを「振り抜いた」のである。

その伊與田君のバットは、高知県大会の決勝で延長戦(※延長12回2対1で明徳のサヨナラ勝ち)の死闘となった高知高校の5番ファースト芝翼(しば・つばさ)君が、決勝戦の試合後、渡してくれたものである。

今日、その芝君は甲子園に明徳義塾の応援に来ていた。そのことに伊與田君は試合前に気がついていたそうだ。「試合前に、スタンドから、“伊與田、頑張れ!”って、声をかけてくれたんです。座っていたのは4、5列目だったと思いますが、その時はわざわざ最前列に出て来てくれて声をかけてくれたんで、気がつきました。僕も手を挙げて応えました」

伊與田君はそう言った。甲子園のグランドでこれから戦いに挑む伊與田君に声をかけた夢破れたライバル校の主軸・芝一塁手。その芝君が自身の愛用のバットを伊與田君に贈り、伊與田君はその後、そのバットを振り続けていたのだ。

普段使っている伊與田君のバットより、それは長めのバットだそうだ。しかし、「違和感はありません。打ちやすいです。これからもこれを使わせてもらいます」。きっぱりとした口調で、そう伊與田君は答えた。

そして、こうつけ加えた。「僕が活躍することが“恩返し”になるんで、頑張ります」。伊與田君の口から出たのは、高校生には珍しい「恩返し」という言葉だった。

芝君からのバットは、芝君に限らず、予選で敗れ去った選手たちすべての思いが凝縮されたものなのかもしれない。少なくとも伊與田君は、そのバットが持つ「意味」を知っている。

一人のバッター、ひとつの打席、一球一打……それぞれに、さまざまなドラマがある。そこにこめられた人間の思いが、“激突”したり、“共鳴”したりしながら、多くのエピソードが生まれていくのである。

試合後、明徳義塾の馬淵監督が言っていた。「四千何百校の中で、たった8校しか残れないところにやってきたんです。できるだけ上を目指して……あとは“やる”だけです」。頂点を目指す甲子園の戦いは、終盤を迎え、いよいよ苛烈になってきた。

カテゴリ: 野球

2つの「渦」が巻き始めた夏の甲子園

2012.08.17

昨日、甲子園で桐光学園対常総学院の試合を観戦した。桐光学園の2年生左腕・松井裕樹君のピッチングをこの目で見たかったからである。

松井君は、初戦の今治西戦で、22奪三振を記録し、夏の甲子園の一試合の奪三振記録(それまでの記録は19)を塗り換えた。

迫力のあるストレートと、キレのあるスライダー、縦に落ちるカーブを武器に今治打線を手玉にとった松井君のマウンド上の姿は圧巻だった。

私は、その試合を観ながら、昭和48年春の選抜甲子園を思い出していた。当時、小柄ながら絶妙のピッチングで敵打線を翻弄する矢野という好投手を擁して、四国ナンバー・ワンの力を誇っていたのが、同じ今治西である。

その今治西から実に20もの三振を奪って、これをネジ伏せた“怪物”がいた。作新学院の江川卓である。当時、野球王国だった四国一のチーム今治西から剛球で三振をとりつづけた江川の姿は、中学生だった私の脳裡に今も焼きついている。

それから39年もの年月を経た平成24年の夏、今度は同じ今治西から22もの三振を奪ってマウンドに仁王立ちする松井君の姿に、50歳を過ぎた私は、目を吸い寄せられたのである。

「これは、実際にこの目で松井君の球を見ておかなければ……」と思った私は、前日、大阪護国神社で終戦記念日の講演をさせてもらったまま関西にとどまり、甲子園の記者席でじっくりと松井君を見せてもらった。

松井君の荒削りなピッチングは、実に興味深かった。決して剛球ではない。また必ずしも低めにコントロールされているわけでもない。それでも、「ボールの行き先はボールに聞いてくれ」と言わんばかりの豪快なフォームは、それだけで威圧感があった。

常総学院が粘りを見せ、松井君は辛うじて7対5で逃げ切ったものの、終盤、薄氷を踏むピッチングの連続となった。しかし、終わってみれば、松井君はそれでも常総学院から19もの三振を奪っていたのである。

たった2試合で、41奪三振。驚異的な数字であり、まさに怪物左腕である。昭和33年夏に徳島商業の板東英二が、今も破られていない不滅の奪三振記録「83」を成し遂げて以来、この記録に本当の意味で「挑戦」できるピッチャーはこれまで現れなかった。

しかし、そのピッチャーがついに現れたのである。試合後、インタビュールームで私は松井君に聞いてみた。「松井君、“83”という数字は知っていますか?」。記者たちの質問に必死で答えていた松井君は、唐突な私の問いに、「えっ、知りません。それは何ですか?」と、逆に聞いてきた。

甲子園の大会での通算奪三振記録だ、と言っても松井君はピンと来ていなかった。長い甲子園の歴史の中で、燦然と輝くこの不滅の大記録に自分が挑戦していること自体を、松井君は「知らなかった」のである。

そこで私はさらに聞いてみた。「松井君、まだ2試合が終わったばかりだけど、君にとって甲子園はどんなところですか」。すると松井君は、こう言った。「甲子園は素晴らしいところです。投げやすいし、お客さんもたくさんいるし、すごいところだと思います」

「甲子園は投げやすい」。それは、甲子園に来てから、松井君がどんどん成長していることを実感させる言葉だった。私はさらに聞いてみた。「甲子園は、(神奈川県予選で死闘を繰り広げた)横浜スタジアムよりすごいところですか?」と。

「横浜スタジアムもお客さんが一杯で、応援してくれる人が沢山いたので、よかったです。でも、甲子園には別のすごさがあって……」

にっこり笑いながら、松井君はそう答えてくれた。身長174センチの松井君は決して投手として大柄ではない。長身の記者たちに取り囲まれたら、愛嬌のある高校生らしい表情も相俟って、まったく目立たない。

しかし、私は、まだ「少年」と言ってもいいこの若者が、甲子園の歴史に不滅の大記録を樹立する資質と精神力を併せ持っていることが、彼の「受け応え」だけでよくわかった。

その大記録の樹立には、「5試合以上」が必要だ。すなわち「決勝戦」への進出である。たった2試合で、すでに記録のほぼ「半分」に達している松井君には、強豪との対戦が予想される今後のトーナメントを勝ち抜くことがその“絶対条件”となる。

甲子園の大記録と決勝戦への道――夏の甲子園の話題を独占しそうなこの若者と、春夏連覇を目指す藤浪晋太郎君を擁する大阪桐蔭。ふたつの大きな“渦”が今年の甲子園に大きく巻き始めている。

カテゴリ: 野球

67回目の終戦記念日と講演

2012.08.16

67回目の終戦記念日となった昨日、私は大阪護国神社にいた。「若き兵士の最後の証言」という演題で講演を依頼されていたからである。そのため、日本武道館にておこなわれている全国戦没者追悼式典に合わせ、正午に大阪護国神社の神殿にて黙祷をさせていただいた。

太平洋戦争(大東亜戦争)で戦死した兵士230万人、非戦闘員を含む全死者は310万人にのぼる。そのすべての方々の無念を思い、私は後世の日本人として感謝と鎮魂の思いで黙祷し、そのあとで拝礼をおこなった。

その後、敷地内の住之江会館に場所を移した講演会は、補助席が出され、立ち見が出るほどの盛況だった。自然と講演にも熱が入った。

言うまでもなく拙著『太平洋戦争 最後の証言』を読んでくれた主催者からの講演依頼だったので、私がここ数年、全国で伺った最前線で戦った老兵たちの実際の証言を紹介させてもらった。

涙ぐむ方の顔がステージからも見えた。やはり多くの方々が、無念を呑み込んで亡くなっていった人たちのことを今も「胸に刻んでいる」ことがわかった。

歴史の真実を蔑(ないがし)ろにする人々と、いつまでもそれを忘れず、胸に刻もうとする人……両方が混在する今の日本で、後者の方々がわざわざ講演に足を運んでくれたことを知った。

今ほど日本人の誇りと気概が問われている時はない。7月にロシアのメドベージェフ大統領が北方領土を訪問し、8月10日に李明博大統領が竹島に上陸し、昨日は香港の運動家が尖閣に強行上陸して逮捕された。

一昨日(14日)の李明博大統領の発言にいたっては、論評するのも馬鹿げているほど“凄まじい”ものだった。日本の天皇に対して「もし、訪韓したいのなら、独立運動で亡くなった方々に対して、心からの謝罪をする必要がある。“痛惜の念”などという単語ひとつを言いに来るのなら、訪韓の必要はない」と言い放ったのである。

4年前、両陛下に韓国への訪問を促したのは来日中だった李大統領本人である。誰も「韓国に行きたい」などと言った者はいないのに、「もし、訪韓したいのなら」「心からの謝罪をする必要がある」と言ってのけたのだから、多くの日本人は目が“点”になったに違いない。

これは自分に当てはめて考えたらわかりやすい。もし、誰かを家に招待しようとその人に訪問を促し、あとになって「もし(あなたが)わが家に来たいのなら、心からの謝罪をせよ」などと言ったら、その訪問を促されている人は一体どう思うだろうか。

私は、国際関係において、これほどの非礼を聞いたことがない。怒りを通り越して溜息しか出ないほどのレベルである。今日の読売新聞朝刊には歴史研究家の秦郁彦氏が「文明国の元首がああした品格のない発言をするのは極めてまれで非礼の極みだ。国際儀礼に反すること甚だしく、国交を断絶してもおかしくないくらいの重大な問題だ」とコメントしている。

国交断絶でもおかしくない――もっともな意見である。それほど李発言の意味は大きい。それと同時に、日本はどうして、ここまで舐められているのか、と素朴に考える人も少なくないだろう。

その答えは、実に簡単だ。要は、日本人が「毅然としていないから」である。日本では、多くのメディアが真実に目を向けず、自国の歴史を一方的に貶め、先の戦争で闘い抜いた兵士たちを「犯罪者」、あるいは「侵略者」として描き、その方々の慰霊と鎮魂を一生懸命やっている人々を勝手に“右翼”であると規定している。

日本の戦後ジャーナリズムの得意技は、物事を「類型化」することだ。“ラベリング”である。まず、自分を「平和を愛する人間」と置き、過去の戦争を分析して少しでも日本の当時の立場や兵士たちを理解しようとする人間を「右翼である」あるいは「戦争をしようとする人たち」と規定するのである。

そのラベリングが終われば、次の段階で、その人たちの意見には「耳を一切、貸さない」という段階に入る。つまり、「シャッターを閉じる」のだ。私はこれを“シャッター症候群”と呼んでいる。

ここでタチが悪いのは、彼ら(特に新聞記者が多い)が“自分たちだけ”を勝手に「平和を愛する人間」と思い込んでいる点である。そういう思い込みをして、自分たちこそ正義の味方と考え、一種の自己陶酔に陥るのだ。

私は、これを「自己陶酔型シャッター症候群」と名づけている。戦後ジャーナリズムが陥った極めて興味深い心理的病巣である。素晴らしい大正生まれの若者たちの実像を伝えても、この症候群に陥っている人間には、絶対に通じない。「シャッターが閉じているから」である。

私は、老兵たちの証言のほかに、そんな話を昨日の講演会でさせてもらった。講演の間中、私は涙を浮かべて聞いてくれる人は、誰の姿を脳裡に描いているのだろうか、と考えていた。

どこの身内にも戦争で命を落とした人はいる。それほど「戦死者230万人」という数は圧倒的なのである。だからこそ67年という気の遠くなるような年月が過ぎようと、「8月15日」は貴重なのだ。

生涯において突撃・前進をつづけ、ついには、世界から“20世紀の奇跡”と呼ばれる高度経済成長を成し遂げた大正生まれの人々と、その生きざま――拙著をきっかけに、多くの日本人に彼らの「真実」と「功績」を知っていただきたいと心から願う。

カテゴリ: 歴史

敗者にこそ現われる“真心”

2012.08.10

女子サッカーと女子レスリングが終わって、日本人にとってのロンドン五輪の熱狂も「ヤマを越えた」気がする。今日は、朝方までつづいた女子サッカーの熱戦に、睡眠不足に陥った人も多いだろう。

ここのところ締切が相次いでいたが、私も夜中から明け方にかけての中継に釘づけにされた。今朝のレスリングの吉田沙保里の闘志と、女子サッカーの爽やかで諦めない戦いぶりには、感激した。

男子柔道をはじめ、闘う“魂”が観る側のこちらにまったく伝わってこない不甲斐ない男子選手たちを見ていると、各競技の女子選手の踏ん張りが実に爽快だ。銀メダルを獲得した福原愛さんら女子卓球選手も素晴らしかった。

敗れていった選手の中にも、感動のアスリートがいた。私が心を揺さぶられたのは、女子マラソンの重友梨佐さんだ。岡山県備前市出身の重友さんは、期待にこたえられず「79位」の惨敗に終わった。

自己の本来の記録より17分も遅い2時間40分6秒という結果に終わった重友さんは、それでも「応援してくれたみんなのために」と、ボロボロの体調のなか、途中棄権をせず最後まで走り通した。

ふらふらになって走る重友さんは、スピードランナーとしての“プライド”ではなく、これまで支えてくれた人たちへの“感謝”によって、フィニッシュまで辿り着いたことになる。

私が感動したのは、ついに足を引きずりながらゴールする時、彼女がそれまでの苦しい表情ではなく“笑顔”を見せたことと、そのあとうしろを振り返り、たったいま通過したばかりのゴールに向かって深々とお辞儀をして、何かを呟いたことである。

精根尽き果てた重友さんが、そのまま報道陣の前を通り過ぎようとした時、テレビのインタビューがおこなわれた。記者が、笑顔でゴールした理由を質問すると、彼女はマイクに向かってこう言った。

「私は、どんなことがあっても笑顔でゴールしようと思っていました。せっかくもらったチャンスで、こういう舞台で走れる機会もたくさんはないと思うんですね。やっぱり最後まで絶対に何が何でもゴールしたいという気持ちで、応援してくれている人もたくさんいたので、絶対に頑張ろうと思って走りました……」

重友さんはそう言ったあと、ゴールに向かってお辞儀をした理由を聞かれ、こう答えた。「自分にはひと区切りついたので、コースや応援してくれた皆さんに対して、お辞儀をしました……」

この時、重友選手の顔は、汗と雨と涙でぐちゃぐちゃになっていた。大会前の故障もあってレースは惨敗に終わったものの、それでも、彼女は、自分を支えてくれた人や応援してくれた人のことを語ったのだ。

その表情から見える誠実な人柄と、一生懸命、質問に答えようとする姿勢が、なぜかあの“惨敗”にもかかわらず、観る側のこちらの気持ちを爽やかにさせてくれたのである。

スポーツの格言に「敗者には何もやるな」というものがある。勝負の世界の厳しさを示す言葉でもあるが、私は「敗者にこそ現われる“真心”がある」と思っている。重友選手のインタビューは、久しぶりに私にそのことを思い出させてくれた。

「敗れて」勝負師となった内村航平

2012.08.02

秋に出すノンフィクションの取材で、福島県の勿来(なこそ)、郡山、福島と、ここのところ取材で福島県内を“転戦”している。福島は、東京にも負けないほどの暑さだ。列島を覆い尽くす熱暑は、ここ福島でも同じだ。

連日、昼間は取材、夜はホテルでのオリンピック観戦で、寝不足がつづいている。昨夜の体操・内村航平の個人総合の金メダルに私はさまざまな感慨を抱いた。

団体戦の最終演技「あん馬」のフィニッシュが崩れ、いろいろな意味で“弱さ”を露呈してしまった内村。王者ならば、あそこでビシッと決めて団体での「銀メダル」を確定しなければならなかった。

内村は、この失敗で勝負師として「敗れた」。日本チームは4位に転落してメダルを「逃した」と思われた。だが、その内村の演技の採点をめぐって日本チームは審判団にクレームをつけた。

結局、抗議は受け入れられ、内村の得点は上がり、日本チームは4位から「2位」となって銀メダルを獲得した。私は日本チームの抗議を見ながら、「そんなことはやめろ」と心の中で叫んでいた。

内村の演技がフィニッシュで失敗し、勝負に「敗れた」ことは、この演技を見ていた世界中の人がわかっている。その採点にクレームをつけても、残るのは日本に対する不快感だけである。

案の定、表彰台に上がった日本チームには、ブーイングが浴びせられた。それは、細かな「採点」の問題ではなく、勝負に敗れた者(チーム)の抗議が「不快感しか残さない」ことを物語っていた。

かつてオリンピックで採点にクレームをつけるのは、ソ連や東ドイツなどの東欧、共産圏と相場は決まっていた。それが映し出されるたびに、世界中の人々が悪しきナショナリズムを前面に出す共産主義国に不快感を覚えたものである。

私は、個人総合に出てきた内村に、その団体戦の後遺症がどの程度、残っているか、それだけを心配していた。やはり内村のプレッシャーはかなりのものだった。映像を通じても、それがひしひしと伝わってきた。

普段はぴたりと決める着地が微妙に動き、やはり本調子ではなかった。だが、内村は、演技の難度を少しずつ下げ、より勝負に徹した技を心掛けた。体力、精神力の限界が近づく中、内村は戦いつづけた。

たしかに会心の演技ではなかった。だが、内村は耐えに耐えた。極限の緊張状態の中で、誇りも自尊心も捨て、ただ「勝つ」ことに向かって、耐えつづけたのである。

それこそが「勝負師」の真の姿だったと、私は思う。若くして頭角を現してきた内村に、初めて「勝負師」としての試練が課せられたのだと思い、私は内村の演技を見つづけた。

そして、内村は最後まで踏ん張りぬき、金メダルを獲得した。東京五輪の遠藤幸雄、メキシコ五輪・ミュンヘン五輪2連覇の加藤沢男、ロサンゼルス五輪の具志堅幸司につづいて、4人目の世界王者となったのである。

歴代の伝説の王者たちと肩を並べた内村は、マイクを向けられた時、こう語った。「(この金メダルは)重たいし、一番、輝いています」と。それは23歳の青年が、真の意味で「勝負師」となったことを表わす実に味わい深い言葉だった。

カテゴリ: 体操

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