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不正入試で揺れる「中央大学」の不思議

2013.05.28

いつからこんな大学になってしまったんだろう。“石が流れて木の葉が沈む”とは、まさにこのことではないだろうか。

私の母校でもある中央大学のことが今朝の産経新聞に報じられていた。昨年明らかになった中央大学横浜山手中学校(現・中央大学付属横浜中学校)の不正入試問題に絡んだニュースだ。それによれば、中大の福原紀彦総長兼学長が「総長職を辞任する意向」なのだそうだ。

記事を読んで驚いた。不正入試は昨年2月に起こったものである。当時の久野修慈・中大理事長(解任)が大学の有力OBの孫である受験生の「名前」と「受験番号」を同中学校校長(辞任)に伝え、校長は合格ラインを下回っていた受験生を不正に合格させた。

合格後、受験生側は入学手続きを済ませ、他校の受験を取りやめるなどしたが、約1か月後に「合格取り消し」を通知されたというのである。

その合格取り消しを校長に働きかけたのは、福原総長だ。不正合格を知った以上、総長が合格取り消しを働きかけたのは当然だろう。

だが、奇妙なのはそのあとだ。中大に設置された第三者委員会(委員長・宗像紀夫弁護士)が、この一件を(不正合格した)「児童の人権を深く傷つけた『きわめて重大な人権侵害事件』」と結論づけたという。

つまり、不正に気づき、不正合格者の合格を取り消させた福原総長には『きわめて重大な人権侵害がある』と、指摘したのである。そして、この第三者委員会の報告に沿って、学内でも「合格取り消し処分」に疑問の声が上がり、そのため福原総長が「総長職を辞任する」意向なのだそうだ。

一般の常識から言えば、点数が合格点に達していないことがわかった以上、「合格を取り消す」のは当然だが、中大では、それが、その不正合格者に対する「人権侵害」にあたるのだそうだ。

つまり、「不正入学はたとえ知っても目をつぶれ」ということである。おいおい、“法科の中央”は、いつから不正を奨励するような大学に成り果てたのか、と言いたくなる。

私は、人権侵害というのなら、てっきり合格を取り消しただけでなく、その生徒の氏名でも大学側が公表し、なにかの被害が生じたのかと思ったら、さにあらず。その有力OBの名前さえ明らかになっておらず、完全に当該生徒の人権は守られている。

もし、合格点に達していない不正合格者が入学を取り消されなかったら、この学校を受けて不合格になった生徒たちは、「その受験生が合格なら、点数が足らなかった自分へも合格証を出せ」と裁判に訴えることも可能だろう。

つまり、「人権侵害」を考えるなら、それは、当該生徒“以外”の受験生への「人権侵害」だろう。この中学校を受験して不合格となった受験生たちは、不正な合否判定によって、『きわめて重大な人権侵害』を受けたことになるからだ。

中央大学は、法科大学院(ロースクール)が昨年の司法試験で合格者が唯一、200名を超えてナンバー・ワンとなっている。しかし、“法科の中央”で知られるかつての名門は、もはや内実はどうしようもないレベルに墜ちたようだ。

“石が流れて木の葉が沈む”という事態が進行し、学内のゴタゴタがつづく中央大学。母校が一般の常識も通用しないようなレベルに墜ち、転落していくのを見るのは、やはりつらいものである。

カテゴリ: 教育

大学野球のメッカ「神宮球場」にて

2013.05.27

昨日は、神宮球場に大詰めを迎えた東京六大学を観に行ってきた。第一試合は立教大学対東京大学、第二試合は、優勝がかかった法政大学と明治大学の大一番だった。

私の高校(土佐高校)の後輩でもある浜田一志氏が監督を務める東京大学は、このシーズンで、ついに目標の「1勝」を挙げることができなかった。ネット裏で、東大野球部のOBと一緒に観戦していた私は、この日、0対16という大敗でシーズンが終わった東大野球部に、“勝負の厳しさ”を改めて思い知らされた。

試合後、私を含め、7、8人の記者が浜田監督をベンチ裏で囲んだが、勝つために「多くの課題が見つかった」と、監督はしみじみ語っていた。46連敗でシーズンに突入した東大野球部は、当初「春1勝」を目標に掲げたが、ついに10連敗でシーズンを終えたわけである。

私も何試合か観させてもらったが、投・攻・守すべてにわたって、ほかの5校とは大きな開きがあった。技術やパワーもさることながら、浜田監督が“弱気の虫”と表現していたように、最初から気迫などの精神面でも他校に圧倒されていた。

現在、元巨人の桑田真澄氏も特別コーチとして東大野球部を指導しているだけに、秋のリーグ戦では“夏の猛練習”によって生まれ変わった姿を期待したいと思う。

さて、第2試合の法政大学と明治大学の大一番は、両チームのパワーと技術、そして気迫がぶつかり合い、凄まじい試合となった。法政は勝てば優勝、明治は、優勝するには法政に2連勝しなければならない。

先発した法政の右腕・船本、明治の左腕・山崎は、ともにプロのスカウトが注目する好投手だ。140キロ台後半のキレのあるストレートとブレーキ鋭い変化球をびしびし投げ込み、両チームの鍛えられた守備力もあって、試合は緊迫した。

法政が先制し、明治が逆転し、また法政が追いつくというシーソーゲームの末に、試合は5対5の引き分けで終わった。相譲らない大学球界最高峰の闘いを炎天下のスタンドで堪能させてもらった。

私は、事務所から徒歩で30分ほどの位置にある神宮球場に、徹夜明けのウォーキングでよく行く。野球物のノンフィクションを何冊も上梓している私は、大学野球のメッカ・神宮球場は馴染み深い場所である。

長く学生野球を見つづけている私は、言うまでもなく「東京六大学」と「東都大学」の両方をウォッチしている。一時期、レベルの点で、完全に東都に水をあけられていた六大学は、ここのところ、実力で東都を完全に「抜き返している」ことを感じる。

両リーグの投手力は互角かもしれないが、打撃力は明らかに六大学が勝(まさ)っている。今日の法明戦でもそれは表われていた。六大学の打者が腰の入った豪快なスイングをするのに比べ、東都の野球は小さくまとまり、ボールに「当てにいく」スイングをする選手が目につく。

打者としての迫力が明らかに違うのである。私は、一時期逆転されていた六大学のレベルが東都を上まわってきたのは、“斎藤効果”に起因すると思っている。

6年前、甲子園のスターから早稲田大学の投手となった斎藤佑樹投手(現・日本ハム)は、低迷していた六大学野球を救う立役者となった。当時、観客動員数も最低ラインとなっていた六大学は、斎藤投手の神宮デビューによって「息を吹き返した」のである。

それと共に、六大学を目指す高校の球児たちも増えていった。六大学人気が低空飛行だった頃は、必ずしも有力選手が六大学に集まらず、全国の大学リーグの“レベルの平準化”が進んだ。

しかし、斎藤投手の神宮デビューが東京六大学の注目度を高め、それが結果的に有力球児たちの“六大学志向”に、ふたたび火をつけたのだ。躍動する選手たちの姿が、「斎藤以前」と「以後」では明らかに違ってきており、パワーも六大学の方が東都を上まわってきているように思う。

長い間、観つづけていると、そういう微妙な変化も、なんとなくわかるような気がする。野球に限らず、スポーツの分野は私のノンフィクションの対象でもあるので、これからもウォーキングで神宮球場に通いたいものである。時間の許すかぎり、できるだけ多くの試合を観戦し、躍動する選手(アスリート)たちの姿を追いたいと思う。

カテゴリ: 野球

「慰安婦報道」にかかわる記者たちに望むこと

2013.05.25

3日前のブログで『“誤訳”で増幅される「政治家発言」を憂う』と題して、橋下徹・大阪市長の従軍慰安婦発言について取り上げさせてもらった。

外国では、橋下氏の発言の内容が「大坂市長は、軍には当時“性奴隷(sex slaves)”が必要だった、と発言している」と報じられ、より大きな反発を受けていることを指摘させてもらった。

知人からも直接、問い合わせが来るなど、非常に大きな反響となり、一般の方々の関心の高さに驚いた。その中に、「では、従軍慰安婦を英語ではなんと表わせばいいのか」という質問が少なからずあった。

私は、英語の専門家でもなんでもないので、ふさわしい表現があるなら、是非ご教示いただきたいが、強いて言うなら、「licensed prostitutes in military (軍における公娼)」と表現すべきではないか、と考えている。

英語圏では、慰安婦を直訳した「comfort woman(慰める女性)」という表現もあるそうだが、私は実質的な意味として「licensed prostitutes in military」ではないか、と思う。

3日前のブログでも書いたように、貧困に支配されていたあの時代、家族を助けるために自らの身を売り、色街で働く薄幸な女性は数多くいた。そして、その中に軍を相手に独占的に営業する「P屋」と呼ばれる慰安所で働いた女性もいた。

それは、日本国内にとどまらず、朝鮮半島やそのほかの地域の出身の女性も沢山いた。現代史家の秦郁彦氏は、戦時中のソウルの新聞に「慰安婦至急大募集 月収300円、本人来談」という業者による広告が何回も出ていたことを指摘している。

秦氏によれば、当時の日本兵の月給は10円前後だったというから、慰安婦は、「兵士の30倍の月収」を提示されていたことになる。それは、貧困の時代の哀しい「現実」である。歴史を振り返る時、自らの身を売って家族を助けようとした健気(けなげ)な女性が数多くいた不幸な時代のことを噛みしめることは大切だと思う。

しかし、そのことが日本を貶める目的のもとに、史実をねじ曲げてまで、「日本が国家として、嫌がる婦女子を強制的に連行し、性奴隷(sex slaves)とした」という“レイプ国家”としてのレッテルを貼られるとしたら、それは「違います」という声を上げることは重要だと思う。

なぜなら、その史実に反したことがもし確定したなら、私たちの子や孫、そしてひ孫の世代にどんな影響を与えるかということを考えるからである。「嘘も百回言えば真実となる」というが、こういう問題は絶対に、嘘を許してはならないと思う。

それと共に、1991年に従軍慰安婦を「強制連行」したとして突如、これを問題化させた朝日新聞の報道の罪の深さをあらためて感じる。史実をねじ曲げてまで日本と日本の若者の将来の障害になりつづけることをこの新聞が「創り上げたこと」にどうしても思いを致さざるを得ないのである。

もし、韓国に自国の歴史をねじ曲げてまで、他国から糾弾される“もと”を創り上げる新聞があれば、たちまち国民の総バッシングを受け、読者から愛想を尽かされ、経営破綻するに違いない。

しかし、日本では、今も立派に経営が成り立ち、従軍慰安婦の「強制連行」について、訂正すらしなくても許されている。私は、そのことが不思議でならない。

昨日、韓国の中央日報が、原爆投下は「神の懲罰だ」と主張したコラムを掲載し、物議を醸している。しかし、もし、何十万人もの罪もない若い女性を強制連行(拉致)し、慰安所に監禁し、強姦しつづけた過去が日本にあるなら、韓国にそんな論評が出ても不思議ではないと思う。

ひとつの誤った記述、報道が日本と韓国という二つの国の国民の距離を広げ、もはやいかんともしがたい亀裂を生じさせていることを私は残念に思う。この問題にかかわるジャーナリストたちは、そのことを振り返ってみるべきだろう。

私は、家族のために、生活のために、身を売らざるを得なかった薄幸な女性が数多くいたあの時代のつらさを思うと同時に、彼女たちの恵まれなかった人生に深く同情する。そして、同時に“レイプ国家”といういわれなきレッテルによって、これから「国際舞台」で苦しんでいく日本の若者たちにも、深く同情する。

私は、『太平洋戦争 最後の証言』シリーズをはじめ、太平洋戦争の最前線で戦った老兵たちを全国に訪ね、その遺言とも言うべき証言を紹介するノンフィクション作品を何冊も上梓している。

あの不幸な時代に、家族と国のために戦い、不運にも命を落としていった若者たちの「無念」を語る生き残り兵士たちの証言を直接この耳で聞いているだけに、そういう思いを余計に抱くのかもしれない。

ジャーナリストには、「真実」に対するあくなき探究心と同時に、謙虚に事実を見ようとする姿勢がなにより必要だと思う。従軍慰安婦報道にかかわる人たちには、政治家たちの片言隻句を捉えるのではなく、どこまでも「真実」に対して忠実、かつ真摯(しんし)であって欲しいと心から願う。

カテゴリ: マスコミ, 歴史

“誤訳”で増幅される「政治家発言」を憂う

2013.05.22

参院選でのみんなの党と維新の会の選挙協力が解消された。両党にとって大きなマイナスだろうと思う。政策が近く、味方であるはずの両党が、橋下徹・大阪市長の従軍慰安婦発言をきっかけに一気に「破綻」に至ったのである。

維新の会との連携に力を尽くしてきた江田憲司・同党幹事長と、渡辺喜美・同党代表との確執も理由に挙げられているが、それにしても来たるべき参院選で両党がお互いを口汚く罵る場面は有権者の一人としてあまり見たくないものだ。

私は、この従軍慰安婦発言に対して、一昨日のブログでも書かせてもらったように橋下氏に同情している。あの貧困が支配した時代に、家族を助けるために金銭の見返りに“身売り”し、色街で働く薄幸な女性は数多くいた。

望んで行くわけではないが、家族を助けるために彼女たちは自らの身を売り、幸せ薄い人生を送ったのである。その中で、のちに「従軍慰安婦」と呼ばれ、「P屋」と称された慰安所で働く女性たちもいた。

それは、日本国内だけでなく、朝鮮半島やさまざまな地域の出身女性がそういう職に就いた不幸な時代だった。しかし、それは、日本が国家として「嫌がる婦女子を強制連行」して売春をおこなわせたということではない。

「嫌がる婦女子を強制連行」して「慰安所に閉じ込め」て「性交渉をさせた」というのがもし真実なら、日本は「拉致・監禁・強姦国家」ということになる。いま国際的に「日本は“レイプ国家”だ」というレッテルが貼られつつあるが、橋下氏がこれに「違うことは違うと言わなければならない」と発言したことは、私には当然と思えるのである。

橋下氏のこういう発言、つまり、歴史の微妙な事柄が発生した時によく登場するのが「誤訳」問題である。今回の場合、どうだったか少し考えてみたいと思う。

外国では、今回の橋下氏の発言は、「日本の大阪市長が、“日本軍には性奴隷が必要だった”と語った」と捉えられている。最初にAP電をはじめ外紙が橋下氏の発言を「sex slaves(性奴隷)」という言葉を用いて報じたことがきっかけだ。

Osaka mayor says wartime sex slaves were needed to ‘maintain discipline’ in Japanese military.(大阪市長は、戦争時、日本軍が「規律を維持するため」には性奴隷が必要だった、と語った)

さすがに、軍の規律を維持するために「性奴隷が必要だった」と発言する政治家が日本では大阪市長をしているのかと、報道に接した外国の人々は仰天したに違いない。非難が巻き起こったのも当然である。

だが、私は、従軍慰安婦を「性奴隷」とした表現には、明らかに悪意が潜んでいると思う。従軍慰安婦とは「性奴隷」のことであり、奴隷とは「強制的に」連行されるものであり、すなわち日本国は「レイプ国家」である、という明確な決めつけと刷り込みのために用いられたのではないのか、ということである。

「性奴隷」という一言には、あとの議論は不要になるぐらいの強烈なインパクトがある。そこには、女性の人権を無視したレイプ国家・日本には、「人権」を語る資格などない、という明確な「メッセージ」、言いかえれば「悪意」が潜んでいるように思う。

私は、日本を貶めるこういう報道が、これから世界に羽ばたこうとする日本の若者たちに大きな障害となっている現状を憂える。それと同時に私は、こういう報道や外交交渉の中での「誤訳」問題をどうしても考えてしまう。

思い出されるのは、1972年に日本と中国との間であった「誤訳事件」である。有名な「添了麻煩(ティアンラ・マーファン)事件」だ。

日中国交正常化のために訪中した当時の田中角栄総理が晩餐会の席上、「わが国が中国人民に対して多大のご迷惑をかけたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります」と挨拶した。しかし、この「ご迷惑をかけた」という部分が直前に配られた中国語の翻訳では「添了麻煩」と訳されていたのである。

「添了麻煩」というのは、ちょっとしたミスに対して「ご迷惑をお掛けしました」という時に使うもので、田中が言った「多大なご迷惑をかけ」、「深い反省の念を表明する」というものとは天と地ほど違う訳だった。日本側(外務省)が、なぜこれを「添了麻煩」と訳したのか、それは今も謎のままだ。

だが、この瞬間、晩餐会の会場はざわめき、日中の友好ムードは一変した。そして、日中共同声明には、過去の歴史認識についてどういう言葉を入れるかという交渉が中国側のペースで進み、「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感し、深く反省する」という“損害”と“責任”という文言が書き入れられることになった。

これは、中国研究者の間では有名な「事件」だが、誤訳によって行き違いが生じるのは、珍しいことではない。また誤訳問題ではないが、「通訳の有無」自体が問題化する場合もある。

1990年に自民党の金丸信が訪朝した際、突然、金日成主席との会談が入り、日本側の通訳が入っていなかったことから、その後たびたび北朝鮮側が「これは金日成主席と金丸先生が会談の中で約束されたことです」と、真偽不明の“合意”が持ち出されるもとになった。

今回の飯島勲・内閣官房参与の訪朝でも、真っ先に「日本側の通訳の有無」が話題になったのと同じだ。

私は、利害や面子(めんつ)、そして策謀が渦巻く国と国との交渉の最前線、あるいはそれを伝える報道の中で、日本国内の日本人ジャーナリストたちを含めて「日本を貶める人々」がいかに多いか、愕然とすることがある。

今回のように「性奴隷(sex slaves)」という言葉によって、より大きな反発を生じさせ、その上で起きた外国の反応を、さらに大きく報じて問題化していく日本のジャーナリズムの手法に、私はかねて疑問を抱いている。何度も繰り返されるこのジャーナリズムの手法を見るたびに、溜息が出てくるのである。

私は、歴史認識にかかわるこの手の微妙な問題に右往左往せずに、冷静に対応していく識見と落ち着きを持ちたいものだと、いつも願っている。

カテゴリ: マスコミ, 政治

「前のめりは禁物」安倍首相

2013.05.20

この1週間、締切に加え、出張が相次ぎ、ブログの更新もままならなかった。著作の関係で、原発問題や太平洋戦争関連の講演をさせてもらっているが、四国、九州への出張がいまも続いている。

その間、橋下徹・大阪市長の従軍慰安婦発言などもあり、講演ではそのことも話をさせてもらっている。貧困が支配していたあの時代、家族を助けるために金銭で身売りを余儀なくされて色街で働き、さらに、軍を相手に独占的に商売する慰安所でも働く薄幸な女性は数多くいた。

それは、日本国内にとどまらず、朝鮮半島をはじめいろいろな地域の出身の女性たちだった。しかし、言うまでもなく日本が国家として「嫌がる婦女子を無理やり拉致して従軍慰安婦にした」ということではない。

にもかかわらず日本が「レイプ国家」といういわれなき批判を受けていることに、「違うことは違うと言わなければならない」と橋下氏は語った。私には、史実に即したまっとうな見解だと思えるが、橋下氏は、それでも内外から激しいバッシングを受けたのである。

いつものように親中・親韓の日本国内の“反日メディア”が憎っくき橋下氏に食らいついたのが今回の騒動だった。詳しくは今月26日発売の月刊「WILL」のコラムに書いたので、それをお読みいただければ、と思う。

さて、今日は突如、明らかにされた飯島勲・内閣参与の訪朝について、少し、考えてみたい。私は、今回の訪朝と今後の動きに、非常に懸念を抱いている。それは、飯島氏の訪朝が明らかになった経緯から自ずと見えてくる。

わずかひと月からふた月前、「敵を一網打尽に破壊せよ」「命令が下り次第、一人残さず敵を火の釜にブチ込め」「日本の東京、大阪、名古屋、横浜、京都が報復の対象になるのは避けられない」……等々、あれほど苛烈な文言を発して私たちを恫喝した国を飯島氏は訪問した。

長距離ミサイルの発射をそこまで具体的に言ってのけた国が、「日本と交渉をする」というのである。もはや国内の飢餓状態が極点に達し、恥も外聞もなく日本からの「援助にすがる」しかない状態であることがわかる。

日本を呼び寄せる北朝鮮のカードは“拉致問題”しかない。そして、飯島氏の空港での出迎えや会談のようすがテレビで放映されるなど、北朝鮮の飯島氏訪問にかけた意欲とメッセージは明らかだった。

実は、今年になってから、与野党を問わず日本の政界に太い人脈を持つ朝鮮総連のドン・許宗萬(ホ・ジョンマン)議長が、盛んに政界工作をかけているという真偽不明の情報が永田町に流れていた。今回の訪朝で、ああ、これがそうだったのか、と思ったジャーナリストも少なくないだろう。

経済破綻している北朝鮮は、外国にいる同胞からの援助が不可欠だが、中でも朝鮮総連は群を抜く援助をおこなってきたことで知られる。だが、長引く経済制裁によって北朝鮮国内への物資の持ち込みを阻止され、そのことが北朝鮮の体制の致命傷になりつつあるのは、周知の通りである。

長距離ミサイル発射という恫喝による援助引き出し作戦も不調に終わった今、拉致問題という唯一とも言える“カード”を握る日本に対して、北朝鮮がアプローチしてくるのは当然だったかもしれない。この問題に最も熱心な政治家であり、拉致被害者家族の期待になんとしても応えたい安倍首相にとっては、それは実に魅力的な誘いだったに違いない。

政治家には、誰にも「功名心」がある。こういう誘いに極めて乗りやすいのが、政治家の「性(さが)」である。しかし、だからこそ、私は懸念する。

2002年の年末、横田滋・早紀江さん夫妻は、横田めぐみさんが生んだことがDNA鑑定で明らかになったキムヘギョンちゃんに「会いに来ないか」という北朝鮮の誘いを断わっている。

横田夫妻は、会いたくてたまらない孫娘に会いにいくことを必死で堪(こら)えた。そこで会いにいったら、北朝鮮が言う「めぐみさんの死」を認めることになるからである。狡猾な北朝鮮の誘いの裏にあるものを考え、土壇場で辛抱し、訪朝を断わったのである。

北朝鮮の究極の目的は、日本との間で国交を正常化し、3兆円とも予想される戦後賠償を勝ち取って、一気に瀬戸際外交に勝利することである。

その前に、さまざまなルートを通じてアプローチし、鼻先に“拉致問題解決”という餌(えさ)をぶら下げてその前段階の“援助”を勝ち取ろうとしている。そこには、「日中韓の分断」という一石二鳥の意味もある。

前のめりは禁物――安倍内閣には、国民の一人としてそう言いたい。なぜなら、やっと国際社会が金正恩たちを瓦解寸前まで追い込んだのである。本当に北朝鮮が瓦解すれば、拉致被害者も姿を現わすだろう。

だが、ここで相手の戦略に嵌(はま)り、日米韓の足並みが乱れれば、すべてが水泡に帰し、崩壊寸前の金正恩体制が息を吹き返すのである。具体的には「制裁の緩和」だ。それは、北朝鮮が核弾頭の小型化と起爆装置の開発に成功するという事態に繋(つな)がり、将来、日本の方が逆に崩壊の危機に立たされる事態を生むことにもなる。

その意味で、11年前に、断腸の思いでヘギョンちゃんに会いにいくことをやめた横田夫妻の辛抱を無にしないで欲しいと思う。安倍首相は、横田夫妻の思いを最も知る政治家だけに、この問題に対して「前のめり」になることだけは自重して欲しい。

カテゴリ: 北朝鮮

アメリカの「本音」と日米同盟の未来

2013.05.10

昨日、「アメリカはいつまでも“日本の味方”ではない」とブログで書かせてもらったら、タイミングが良かったのか、悪かったのか、ちょうどアメリカ議会調査局から提出されたという『最近の日米関係』と題した報告書のことがニュースになっていた。

それによると、報告書には、「安倍首相は日米同盟の強い支持者だが、米国の国益を損なう可能性がある歴史認識問題をうまく取り扱えるかが問われている」、また韓国などとの関係で「今後、米軍と自衛隊による安全保障協力などに支障が出る可能性がある」と書かれているという。

例によって、中国や韓国と歴史認識を共有したい日本国内のメディアが、このことを殊更大きく報じていた。ちょうどいい機会なので、この際、安倍政権に対する“アメリカの本音”について、私も少し考えてみたい。

日米同盟を基軸とする安倍外交の方針は、今後もまったく揺るぎのないものだろうと思う。それは、60年安保の時に学生たちの激しい抵抗に遭いながらも日米安保条約を自動延長させた祖父・岸信介の政治姿勢を受け継ぐものでもある。

しかし、その安倍首相のメッセージを受ける側のアメリカの本音は、微妙だ。私は、アメリカは安倍政権に対して「頼もしさ」を感じる一方、「少し困った」という思いを抱き始めているのではないか、と思う。

それは、日本の「自立」と大いに関係している。安倍政権が、この4月28日に主権回復記念日として天皇皇后両陛下ご臨席のもとにお祝いをしたことを思い出して欲しい。主権回復とは、1952(昭和27)年にサンフランシスコ講和条約が発効し、7年の長期に及んだGHQの支配に「ピリオドが打たれた」ことを意味している。

屈辱のGHQ占領時代が終わり、日本がふたたび独立を取り戻した日であり、これは戦後日本にとって実に大きな意味を持つ日だった。

だが、日本は主権を回復したものの、実際は戦力の不保持と交戦権の否定を謳った平和憲法のもとで、アメリカに“従属”して生きていく実態に変わりはなかった。

その後、アジア共産化の防波堤として日本はアメリカにとって大きな役割を果たしつづけた。そして、アメリカの核の傘の下で平和を享受し、経済的な繁栄を手に入れた。かつて“不沈空母”と語られたように、日本はアメリカにとって、欠かせない存在だったのである。

そして、主権回復後61年を経たこの夏、安倍首相は、「改憲」を掲げて参院選を闘おうとしている。アメリカが“盟友”安倍政権を一方で「頼もしく」思い、一方で「少々、困った」という思いを持っている理由は、この安倍首相の姿勢にある。

日本の再軍備を視野に入れた憲法改正問題は、予算面から在日米軍の規模を縮小せざるを得ないアメリカにとって、ありがたい側面もある。だが、「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍政権は、先日の主権回復の記念日を祝ったように「真の独立国家」たらんことを目指している。

戦後体制から「抜け出す」とは、アメリカ従属から抜け出し、真の意味で自主独立の道を歩もうということである。かつての日本は、東京大空襲をはじめとする「焦土化作戦」で多くの日本の非戦闘員を殺戮したアメリカのカーチス・ルメイ空軍大将に「勲一等旭日章」を与えるほど、アメリカに媚(こび)を売りつづけた国だった。

だが、日本がその従属的地位から抜け出た瞬間、アメリカにとって日本は“初(う)い奴”ではなくなるという事実を忘れてはならない。つまり、アメリカにとって日本は、自国の若き兵士たちの血を流しても「守ってくれる」という存在ではなくなるのである。

国防軍創設の先には、必ず核武装の議論も出てくるだろう。私は、第一次安倍内閣の2006年10月、自民党政調会長だった故中川昭一氏が日本の核保有について、「議論があっていい」と発言した時、アメリカからライス国務長官がすっ飛んできたことを思い出す。

日本の有力な政治家が「核保有すべきだ」と発言をしたわけではなく、「その議論をしてもいい」と言っただけで、アメリカの国務長官が大慌ててやって来たのである。

私は、日本がアメリカにとって“初い奴”“可愛い子”で居つづけることをやめた時、アメリカは一体どう出るのだろうかと考えてしまう。ずばり、日本が万一、核武装に向かって動き始めた場合はどうなるのだろうか、ということである。

日本には、H2ロケットがある。これは、宇宙開発事業団と三菱重工が開発に成功した人口衛星打ち上げ用ロケットである。主要技術はすべて国内開発されたもので、いうまでもなく、このロケットには世界のどの地域にも飛んでいく能力がある。

もし、日本が核開発に突き進めば、H2ロケットの性能を考えたら大陸間弾道ミサイルは、すぐに現実のものとなるだろう。そのことをアメリカはよく知っている。仮に日本が自立し、核武装までおこなったとしたら、アメリカが日本に対してどれほどの「脅威」を感じるか、想像もつかない。

広島・長崎の一般市民の頭の上に原爆を「二度」も落としたアメリカは、いつ、どこにでも核ミサイルを撃ち込める技術(つまり、H2ロケット)を持つ日本が怖くて仕方がなくなるだろう。真の意味で独立国家となった日本が、50年後、100年後にもアメリカと同盟関係にあるとは限らないからである。

頼もしいパートナーだった日本がアメリカから“自立”し、アメリカにとって“初い奴”ではなくなった時、日本はどのような扱いをアメリカから受けるだろうか、と考える理由がそこにある。

つまり、日本が“自立”した瞬間、アメリカにとって日本は「脅威の対象」となるのである。その意味で、この夏の参院選で焦点となる憲法改正問題は、安倍政権にとって両刃の剣となるものなのだ。

今回のアメリカ議会調査局によって提出された報告書には、アメリカの安倍政権に対するそうした懸念と本音がはからずも表われていたのではないだろうか。

国家にとって、自主・独立への道というのは険しい。安倍政権は来たるべき参院選で、敢えて“タブー”に挑戦しようとしている。それは、日本の行く末を決定づける道でもある。私たちはあくまで理性的に、かつ冷静にこの問題を捉え、判断していきたいものである。

カテゴリ: 国際, 政治

アメリカはいつまでも「日本の味方」ではない

2013.05.09

昨日(5月8日)、中国の人民日報が、「歴史的に未解決の琉球問題を再び議論できる時が来た」という学者の論文を掲載したことに対して、日本国民はどんな感想を抱いただろうか。

人民日報は中国共産党の機関紙であり、事実上、国家の意見を内外に表明する媒体だ。そこで初めて、沖縄の帰属問題が「未解決」であり、中国にこそ「統治する権利がある」ことを示唆したのである。

これから堂々と「沖縄は中国のものだ」という意見表明を展開していく狼煙(のろし)を中国が高々と上げたことになる。尖閣が日中どちらのものか、などという話ではない。沖縄そのものが「中国のもの」というのである。

だが、中国研究家の間では、この主張がおこなわれるのは「当然のこと」であり、「時間の問題」とみられていた。中国の主張は、段階的に、そして用意周到におこなわれてきているからである。

昨年12月14日、中国は、東シナ海での大陸棚設定について、すでに国連に中国大陸から尖閣諸島を含む沖縄トラフまで、「大陸棚が自然に伸びている」と主張し、独自の境界画定案を提出している。

沖縄に対する並々ならぬ意欲は、すでに「明確に示していた」のである。これは、日本が政権交代によってドタバタしている時期におこなわれたものだが、年末には、発足したばかりの安倍政権がこれに異議を申し立てた経緯がある。

つまり、尖閣どころか、自国の大陸棚の上に乗っている沖縄が中国の領土であるのは彼らにとっては「当然」で、今回の主張は、すでに「予想されていた」のである。

私は、ニュースを見ながら、二つのことを考えた。一つは、一昨日のブログにも書いたように、中国が新たにこの3月に設置した中国海警局によって、軍事紛争ではなく海警局による“衝突”によって尖閣での小競り合いを続け、やがては尖閣を奪取する方針を執るだろうということだ。

もう一つは、いつまでアメリカは日本の味方をしてくれるだろうか、ということである。中国が沖縄県内への工作・干渉をより強める中、ヤマトンチュ(大和人=日本人)への剥き出しの憎悪を隠さない沖縄の地元メディアの主導によって、沖縄世論がこれからますます日本離れを強める可能性がある。

民主党の鳩山由紀夫氏による「(普天間基地移転先は)最低でも県外」という言葉は、中国にとって願ってもないものだった。今後も、駐留米軍の兵士が引き起こす事件や不祥事のたびに、「沖縄から米軍は出ていけ」という世論はますます盛り上がるだろう。それを煽り、ほくそ笑むのは、どこの国か。今回の人民日報の論文は、そのことも示唆してくれている。

私は、アメリカがこれからも日本の味方をしつづけるだろうか、ということには大いに疑問を持っている。先月、中国を訪問したアメリカのケリー国務長官は、中国の歓待に感激し、来たるべきG2(二超大国)時代に向けて、二国間でさまざまな同意を取りつけたと言われる。中国の“核心的利益”に対して、ケリー氏がどんな見解を述べたのかは、今も漏れてこない。

沖縄の反米・反基地・反ヤマトンチュの意識は、そのまま中国の利益につながる。迷走するオスプレイの問題など、アメリカと沖縄の間には、越えられない「壁」が存在するのは間違いない。沖縄戦で10万人近い犠牲者を出した沖縄県民にとっては、当然だろうと思う。

だが、同時にそのことが東アジアでの覇権確立に執念を燃やす中国に利用されてはならないだろう、とも思う。2016年には、韓国から在韓米軍の陸上兵力が撤退することがすでに決まっており、この3月には、日米両政府が、在沖縄海兵隊のグアム移転に向け、日本がアメリカに1億1430万ドル(約93億円)を支出するための交換公文も結ばれている。

これら、米軍の一部撤退を誰よりも喜んでいるのは中国だ。そのことを沖縄の人々も、もちろん日本人全体も忘れてはならないと思う。

もう一つ、私が気になるのは、アメリカでの中国専門家の多くが「中国系」であることだ。中国系の人々は、“アメリカ人”として政府や国際機関の中枢に入ってきている。その数が今後、増大していくことはあっても、減少することはないだろう。つまり、日本は、今後、さまざまな国際舞台で、「中国系のアメリカ人」と対峙していかなければならないのである。

それは、中国によるアメリカへのロビー活動というレベルではない。“アメリカそのもの”なのだから、当然である。私が、「いつまでアメリカは日本の味方なのだろうか」と懸念する理由はそこにある。尖閣が日米安保条約第5条の対象地域であること、そして同じように沖縄がそうであることが「未来永劫つづく」と信じていたら、よほどの平和ボケではないか、と思う。

私は、人民日報が「歴史的に未解決の琉球問題を再び議論できる時が来た」という論文を掲載したことをきっかけに、そんなことまで考えてしまった。生き馬の目を抜く国際社会で、最前線の交渉に臨む政治家や官僚には、「覚悟」と「危機感」、そして毅然とした「姿勢」を望みたい。

カテゴリ: 中国, 国際

株価「1万4000円」回復と安倍政権

2013.05.07

連休明けの今日、真っ先に飛び込んできたのは、日経平均が1万4000円を回復したというニュースだった。衆院選直前の昨年11月に9000円だった株価が、わずか5か月で上げ幅「50%」を超えるという驚異的な上昇率だ。

アベノミクス効果やニューヨーク株式市場の上昇など、さまざまな解説がなされるが、やはり最も大きいのは、悪夢のような民主党時代が「終わったから」だろう、と思う。その測り知れない心理的効果が株価を上昇させる国民の前向きの意識をさらに“アト押し”しているのである。

どうしようもない閉塞感から解き放たれた人間の意識とパワーというのは、やはり大きい。それにしても、多くの国民が「民主党政権とは何だったのだろう」と感じているに違いない。

耳に心地いいことを連発してはみたものの、経済を低迷させ、日米関係を戦後最悪の状態にし、中国や韓国に譲歩を繰り返して誤ったメッセージを与え、東日本大震災では、最大の使命である人命救出もできずに右往左往し、復興に関してもイニシアティブを発揮できないまま、政府の存在自体が復興への大きな妨げとなった。

私は今でも、大震災の際、原発事故などの緊急事態に気象条件や地形情報などから放射性物質の拡散ぶりを数値的に予測するシステム「SPEEDI」(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の予測結果をもみ消した当時の政権中枢にいた政治家たちの「罪」が問われないのはおかしいと思っている。

パニックを恐れて、肝心かなめの「人命」をも無視してしまう当時の政権のレベルの低さには、今も言うべき言葉がない。国民の生命を守るために116億円もの予算を費やしてでき上がったシステムによって割り出された数値が、われを失った当時の官邸にいた政治家たちによって「もみ消された」のである。このことを日本人は忘れてはならないと思う。

しかし、私はいつもブログには書かせてもらっているが、そもそも民主党政権が誕生した「理由」というのも同時に忘れてはならないと思う。4年前の政権交代劇は、私は大きな意味を持つものだったと考えている。

長い間に腐敗し、国民の思いや期待を吸い上げられなくなっていた自民党に愛想を尽かし、ついに国民は自民党に「お灸をすえる道」を選んだのが前回の政権交代劇だった。前述のように民主党政権を選択したツケは国民にとって大きかった。だが、今その教訓が生きていることは間違いない。

2006年に発足した第1次安倍政権では最初の外遊先に「中国」を選んで周囲を驚かせた安倍首相が、今回の第2次安倍政権初の外遊先にはベトナム、タイ、インドネシアという東南アジアを選び(1月)、今回の4月末から5月にかけての外遊でもロシア、アラブ首長国連邦、トルコといった国を選んで財界人をも同行させ、トップセールスを敢行した。

その意図は、“中国包囲網”の構築にほかならない。中国に対して安倍首相は、「もうあなた方への譲歩はしませんよ」「あなた以外の国と連携を深めていきます」という強烈なメッセージを発している。

「自由と繁栄の弧」による外交を展開する強い意志を感じさせるこの安倍首相の戦略には、まったく志が果たせなかった前回の政権時への深い反省と後悔があるに違いない。しかし、逆に見れば、これもまた民主党政権の悪夢の3年3か月がもたらした“効果”とも言えるのではないか。

参院選では、「民主党の壊滅」と「改憲勢力の結集」が焦点になるだろう。その意味で、おそらく日本の政治は今年、うねりのような大変動を経験するだろうと思う。

中国が、この3月に発足させた中国海警局は、尖閣諸島での衝突を前提にしたものである。それまでの中国の沿岸警備を担当していた公安辺防海警部隊を改編・格上げして、公安部の指導のもとに沿岸警備や海洋・漁業資源の管理を一手に担う大組織としたのである。

これで、中国は日本の自衛隊との軍事紛争ではなく、海警局による局地衝突を前提に「対日戦略」を組んでくるのだろう。海警局による衝突なら、日米安保条約第5条の発動にはならず、日本の海上保安庁との衝突に過ぎず、しかも、それなら中国は「勝てる」と思っているからである。

民主党政権のように日本と中国のどっちの利益を代弁しているかわからないような政治家や閣僚は、安倍政権にはいない。その意味で、国民の生命と財産、そして領土を守ってくれる政権が東シナ海で覇権を確立しようとしている中国と対峙していること、そして、その最前線で命を張る海上保安庁の人々がいること、この二つへの感謝をわれわれ国民は忘れてはならないと思う。

日経平均が1万4000円台を回復したという連休明け一番のニュースを聞いて、私はそんなことを考えていた。

カテゴリ: 中国, 政治

「血」と「理」と「日本国憲法」

2013.05.03

今日は、66回目の憲法記念日だった。朝から護憲派、改憲派のアピールが新聞・テレビを通じてそれぞれおこなわれ、都内でも双方があちこちで集会を開くという慌ただしい一日となった。

私自身は、ゴールデンウィークというのに、今日も徹夜だった。締切が近づいている単行本原稿のためだ。おかげで、どちらの集会にも取材に行くことができなかった。

今年の憲法記念日は、「護憲」と「改憲」、さらには「加憲」なるものまで登場し、最後には「“卒”原発」まで現われた昨年の衆院選を彷彿させるかのようだ。いずれにしても、「改憲問題」は来たる参院選の最大の争点になる。その意味で、今年の憲法記念日は実に興味深いものだった。

私は、改憲問題とは、「血(ち)」と「理(り)」の闘いだと思っている。戦後生まれの日本人は、いま全人口の約75%を占めている。すなわち現行憲法しか知らない人が「4人のうち3人」なのだ。

改憲で最大の争点になるのは、いま話題の「国防軍」の創設であり、言うまでもなく“平和憲法”と謳われる「前文」と「第九条」ということになる。

〈日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した〉

このくだりに代表される平和憲法の趣旨は、理想から言えば、万人に受け入れられるべきものである。戦後、アメリカの核の傘の下で60余年もの平和を享受した日本は、この理想の「憲法前文」に疑いを差し挟まなくてもよかった。

そして経済の復興と発展のみに邁進し、世界から“20世紀の奇跡”とまで賞讃された高度経済成長を成し遂げたのである。

だが、「今」はどうだろうか。歴史的にも、国際法上も、日本固有の領土であることが明白な尖閣諸島を、中国は虎視眈々と「核心的利益」と表現して自国の領土にしようとしている。

また北朝鮮は、東京・大阪など日本の5都市を名指しで弾道ミサイルのターゲットとした。とても「憲法前文」が言うような〈平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼〉できるものでは「なくなっている」のである。

それでも、今日のニュース番組では、「このままでは“戦争ができる国”になってしまう」「子や孫を戦場に送りたくない」「改憲は絶対に反対だ」と、中国や北朝鮮が大喜びするような護憲派の声が映像を圧倒していたように思う。

私は、「血」だなあ、と思う。戦後世代の私たち日本人は、子どもの頃から〈平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼〉して、平和憲法こそ日本の誇りと信じ、これに反対する勢力は、右翼、あるいは国粋主義者、軍国主義者などと、思い込んでいた。すなわち平和憲法は、長い年月と教育によって、私たちの「血」であり、「肉」となっていたのである。

しかし、前述のように現実の東アジア情勢から見れば、この「憲法前文」と、交戦権どころか戦力の保持すら認めない「第九条」は、いかに浮世離れした“理想論”に過ぎないかがわかる。すなわち「理」で考えるなら、満66歳を迎えたわが日本国憲法は年をとり過ぎ、現実からあまりにも「かけ離れてしまった」のである。

この夏、参院選は、戦後世代同士の「血」と「理」の闘いになるだろう。頭でわかっていても、すなわち「理屈」でわかっていても、いざ決断となった時、人はやはり「血」によって動かされるのではないか、と思う。

私は、ふと先日(4月24日)ジュネーブで開催されたNPT(核拡散防止条約)再検討会議の準備委員会で、「いかなる状況下でも核兵器が再び使用されないことが人類共存のためになる」とした共同声明に、唯一の被爆国である日本が賛同しなかった件を思い出した。

被爆国日本が、「いかなる状況下」でも「核の不使用」を謳う共同声明に賛同しなかったことに理解を示す国民は少ないだろう。菅義偉官房長官が、「“いかなる状況下でも”という部分が日本の安全保障の状況を考えた時に相応(ふさわ)しい表現かどうか、慎重に検討した結果です」と、奥歯に物が挟まったような説明をしたが、それでは国民は納得しないだろう。

それは、もはや日本国民にとって「核使用」というのは絶対にやってはならない「血」となっているからだ。だが、もし、「東京に核ミサイルをぶち込まれ、次に大阪が狙われるとしたら、どうするのか」と問われたら、国民はどう応えるだろうか。

「いかなる状況下」とは、こんな場合も想定されるのである。核攻撃によって、国民にさらに多くの犠牲者が出る場合、つまり、どうしてもそれを阻止するために米軍による「核報復の必要性」が出た場合、どうするのか。それをもストップして、大阪が次なる核攻撃で消滅してもいいのか、という話だ。

「理」で考えた場合、そういう恐ろしい事態も「想定」しなければならないのである。私は、改憲が争点となる夏の参院選とは、「血」と「理」の闘い、言いかえれば「理想」と「現実」の闘い、すなわち私たちが心の底に持っている“戦後的なもの”そのものが問われるのだと思っている。

私自身、その時、どんな選択をするのか。果たして「血」で判断するのか、それとも「理」が克服するのか。今から興味が尽きない。

カテゴリ: 政治

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