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「常識」の通じない裁判はなぜ続くのか

2013.06.07

「常識」とはなんだろう、と思うことがある。大学生の頃は、「大人って、なんて頭が固いんだ」と、大人たちの常識について首を傾げることが多かった。しかし、自分が社会人となってだんだん経験を積んでくると、次第に大人の常識がわかってくるようになる。

そして、時とともに、その常識も形を変えてくる。しかし、そんな社会人としての常識と無縁な中で暮らし、年月が経過するにつれ、さらにその「常識」と乖離(かいり)していく人たちがいる。日本の法廷を牛耳っている官僚裁判官たちだ。

私は、1980年代の前半から記者として取材しているので、もう30年以上もジャーナリズムの世界にいることになる。当時、法廷では司法記者クラブに所属した記者でなければ、メモをとることができなかった。傍聴席でどうメモをしようが自由な「今」しか知らない人は、驚くに違いない。

メモをする権利は、いうまでもなく言論・表現の自由の「もと」になるものである。メモをする自由がなければ、記述が不正確になり、言論・表現の自由が大きな制約を受ける。当時、雑誌記者だった私は、仕方がないので、わざわざ事前に日本雑誌協会を通じて法廷取材の申請をし、司法記者としての「席」を確保してからメモをとった。

憲法にも保障されている国民の知る権利、そして言論・表現の自由のもとになる「筆記の自由」さえ日本の法廷にはなかったのである。

私は、若い頃、そのことを不思議に思った。法を守るべき裁判官が、国の最高法規である憲法の基本理念を蔑(ないがし)ろにしていることに対して、である。

しかし、気の遠くなるような年月、日本の法廷を支配してきたこの悪弊は、当時、同じように法廷取材をしていたローレンス・レぺタという一人のアメリカ青年によって突き崩された。

レぺタ氏は法廷内のメモを禁止されたことに対して損害賠償を求め、最高裁まで闘った。裁判自体は敗訴するものの、この訴訟によって、ついに日本の法廷で傍聴人によるメモが許されるようになったのである。

あれは平成になった頃だったと思うが、昨日まで許されなかった法廷でのメモが、急に大丈夫になった時のことが忘れられない。傍聴人がメモをとっているのを発見したら、廷吏がたちまち近寄ってきて「退廷」を命じられた時代がいきなり「終わった」のである。

私も、いちいち日本雑誌協会を通じて記者席を確保する必要がなくなり、レぺタ氏の闘いの恩恵を受けた一人だった。私はその時、法というものの本質、ここで言えば、憲法が保障する国民の知る権利に応える「筆記の自由」への考察すらない日本の官僚裁判官の「正体」に対する目を見開かされた気がした。

私は、日本の官僚裁判官には、「法」以前に「常識」というものが備わっていないことに気がついた。それは、その後、長い記者生活の中で、理解しがたい“非常識判決”という形で私の目の前に「これでもか」と、現われた。

私のデビュー作は、今から10年前に上梓した『裁判官が日本を滅ぼす』である。長く持ちつづけた疑問をもとに、日本の法廷で罷(まか)り通っている非常識判決の「実例」と、それを下した官僚裁判官の「実名」を挙げてルポしたノンフィクションだ。

今日、書店に行ったら、この10年前に出した拙著を復刻し、さまざまなことを書き加えた『新版 裁判官が日本を滅ぼす』(WAC)が店頭に並んでいた。店員に聞くと、今日から並び始めたそうだ。

私の30年におよぶ記者生活で、いろんな分野が変貌を遂げていったが、司法の世界では、今も「えっ?」と思う出来事が多い。特に日本の官僚裁判官が下す判決には、一般の常識が「通じないもの」が少なくないのである。

青春を擲(なげう)って六法全書と格闘し、難関の司法試験を突破して司法の世界で生きる人間には、ほかの業界には見られない独特のプライドがある。「自分たちは、ほかの人とは違う」という一種の驕りから来るものだろう。

私は、これを臨床心理士、カウンセラーとして著名な和田迪子さん(『万能感とは何か』の著者)が指摘する精神医学上の「万能感(全能感 feeling of omnipotence)」によるものだと思っている。自分は偉い、自分はほかの人間とは違う、と思い込むエリートたちの「万能感」とは、実に厄介なものである。

彼らに「常識が通じない」という意味は、謙虚に世の中の出来事を見て、そこから何かを学ぼうとする姿勢がないところから来ているのだと思う。だから、法律の条文という「殻の中」から彼らは一歩も出てこられないのではないか、と思う。

案件をただ法律の条文に当てはめるだけなら、裁判官は「人間」がやらなくても「コンピューター」に任せればいい。これを人間がやらなければならない理由は、コンピューターでははかれない「人としての判断」が求められるからである。

だが、残念ながら、司法の世界でもエリートが集まる官僚裁判官たちが陥った“常識の欠如”は、今も国民に大きなマイナスをもたらしている。日本の官僚裁判官から「万能感」を取り去り、社会常識を身につけさせるのは容易なことではないだろう。

裁判員制度の導入によって、一部の刑事裁判には、司法制度改革審議会が提言した「裁判の内容に国民の健全な社会常識を反映させる」という方針が浸透しつつある。だが、民事をはじめ大多数の裁判には、それは無縁だ。これをなんとかしていかなければならないと思う。

私は、かつて司法のことで講演を頼まれることがよくあったが、最近は別のテーマが圧倒的に多い。今も大きな問題を抱えているこの司法の世界について、これからもさまざまな問題提起をしていきたいと思っている。

カテゴリ: 司法

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