門田隆将オフィシャルサイト | kadotaryusho.com

  • 最新情報
  • プロフィール
  • 著作リスト
  • 講演のご依頼
  • ブログ
(C) KADOTA RYUSHO. ALL RIGHTS RESERVED.
BLOG | KADOTARYUSHO.COM

ブログ

「譲歩」からは何も生まれない

2013.08.31

今日で8月も終わる。取材と締切に追われ、ブログの更新もままならないでこの「月末」を迎えてしまった。しかし、今年の夏も、さまざまなことがあった。

私がこの夏思ったのは、安倍政権の外交姿勢が次第に「存在感を増しつつある」ことである。これまで中国や韓国に歴史認識で追及されれば、思考停止したかのように「言葉を失う」のが常だった日本が、中国や韓国にどんどんモノ申すようになったのは印象深かった。

そんな当たり前のことを“特筆”しなければならないところが、いかにこれまでの日本が異常だったかを物語っている。私が、注目したのは、韓国出身の潘基文・国連事務総長の発言に対する日本政府の態度である。

潘基文は8月26日、ソウルの外交省での記者会見で、「日本は、歴史について正しい認識を持つことが必要だ。そうしてこそ、他の国々から尊敬と信頼を受けるのではないか」と発言した。

「ああ、またか」。そんな思いでこのニュースを見た人は多いだろう。国連の事務総長が、ひとつの国に対して、「歴史について正しい認識を持つことが必要だ」と言及したことは、まさに異例だが、これまでこうした問題で、“舐められている”日本にとっては、「いつものこと」だったかもしれないからだ。

だが、潘基文によるこの著しく適性を欠く発言に対して、日本政府はこれまでとはまるで違う態度をとった。すなわちこの発言を「容認しなかった」のである。

ただちに菅義偉官房長官が、「わが国の立場を認識した上で行われたのか疑問を感じる。真意を確認する」とし、新藤義孝総務相も「最も中立であるべき国連事務総長が、立場が偏るような恣意的な発言はいかがなものか」と批判した。さらに、古屋圭司拉致問題担当相も「国連憲章違反になるかもしれないとして外務省が精査しているようだ。外務省の言っていることの方が筋だろう」と発言したのである。

国連の事務総長が、「国連憲章違反の発言をおこなった」とする日本の立場は、さすがに潘基文も予想していなかったようだ。「えっ?」と恐怖を感じた潘基文は、あっという間に、「あれは、日本のみについて指摘したものではない」と前言を翻したのだ。

一連のニュースを見ながら、「今までと同じように日本を舐めていたら、タダでは済まさんぞ」という安倍政権の気概を感じたのは私だけではないだろう。

戦時徴用をめぐって、韓国人らが新日鉄住金(旧新日鉄)などの日本企業に対して損害賠償を求めている裁判で、仮に韓国大法院(最高裁)で日本企業の敗訴が確定した場合、日本政府が国際司法裁判所に提訴する方向で「検討に入った」というのも、その流れのひとつだろう。

すでに1965年の賠償請求権協定で解決された問題に対し、その前提をひっくり返す不当性を国際社会に「広く訴える」という考え方である。相手がその気なら、日本が韓国国内に残し、請求権を放棄した、現在の価格に換算しておよそ「13兆円」にも及ぶ戦前の資産の「請求をおこなえ」という声も政府部内には出てきているほどだそうだ。

いずれにせよ安倍政権が、彼らの理不尽な要求には、「譲歩」ではなく「対決」の姿勢で臨め、という強い基本理念を持っていることがわかる。

韓国だけでなく中国も焦り始めている。着々と進む安倍政権の「対中包囲網外交」によって、次第に苛立ちを強めているのだ。9月5日・6日の2日間、ロシアで開かれる20カ国・地域首脳会合(G20)でも、安倍・習近平の日中首脳会談は開かれないそうだ。

共同電によれば、中国側が「対話の基礎がないのに、どうやってセットできるのか」と述べ、否定的な見解を示したという。「日本恐るべし」。その意識が次第に中国と韓国に醸成されつつあることを感じる。

100の国があれば100通りの歴史認識や価値観があるはずなのに、自分たちのそれを押しつけることが当たり前だと思っている中国と韓国。それこそが「国際的に通じない」ことを両国にわからせることが大切だ。

果たして、毅然とした姿勢を安倍政権はどこまで貫いていけるだろうか。少なくとも安倍政権は、生き馬の目を抜く国際社会では、「譲歩からは何も生まれない」ことを知っている。その点で、稚拙な外交しかできなかったこれまでとは、一線を画す政権であることは間違いない。

その姿勢をどこまでも崩さなければ、いつかは両国との友好の道も開かれる時が来るだろう。期待と共にその点に注目していきたいと思う。さまざまなことがあった8月の終わり、私はそんなことを考えていた。

カテゴリ: 国際

甲子園に棲む“魔物”とは「高野連」である

2013.08.22

第95回全国高等学校野球選手権は、前橋育英(群馬)が延岡学園(宮崎)を4対3で破り、初優勝を遂げた。恵まれた188センチの長身を生かした2年生の高橋光成投手の力のあるストレートとキレのあるスライダーは「優勝投手」に相応(ふさわ)しいものだった。

宮崎県民の悲願である「初の全国制覇」を目指した延岡学園は、惜しくも準優勝で終わったが、紙一重の敗北だった。逸した大魚は大きいが、精一杯の戦いは素晴らしかった。

だが、私は、昨日の準決勝で敗退した花巻東(岩手)の2番バッター千葉翔太選手の“無念”を思い、高野連に対して釈然としない思いを抱いて今日の決勝戦を観ていた。

身長156センチの小柄ながら得意のカット打法で好球を待ち、「ヒット」か、あるいは「四球」を得て塁に出る千葉君の存在は、相手投手にとって最大の脅威だった。しかも、準々決勝が終了するまでの15打席のうち、5四球を得ただけでなく、10打数7安打で、史上最高打率の「8割」達成も目前に迫っていた。

つまり、得意のカット打法で好球を待つか、四球で出塁するか、という千葉君の打法は、この野球というスポーツが、たとえ「体格」に恵まれていなくても、「創意と工夫」、そして「努力」によって、大きな選手にも負けない活躍ができるものであることを証明してくれたものだった。

だが、19日の準々決勝の対鳴門高校戦が終わった後、信じられないことが起こった。大会本部と審判部が、ある“通達”を花巻東におこなったのだ。

試合後、選手たちはマスコミの取材が終わった後、控室でストレッチなどのクールダウンを終えて甲子園をあとにする。しかし、この時の控室で、この試合の5打席すべてで出塁する(1安打4四球)という大活躍をした千葉君のカット打法について、事実上の“注意”が与えられたのだ。

控室に来た高野連側が、「高校野球特別規則にある“17”についてご存じですか」と花巻東の佐々木洋監督と流石裕之部長に問うと、2人は、「えっ? 知りません」と答えた。それに対して、高野連側は、「高校野球には特別規則があり、その第17項目にバントの定義が決められています」と言い始めた。

おそらく佐々木監督と流石部長は、この時点で高野連が何を言いたいのか、悟っただろう。予想通り、高野連側はこう続けた。「自分の好む投球を待つために、打者が意識的にファウルをするような、いわゆる“カット打法”は、その時の動作、つまりスイングしたか否かによって、審判がバントとジャッジする場合もある、と決められています」。

佐々木監督と流石部長が受けた衝撃は、想像に難くない。高野連は、最後に「あれをバントと見なす場合があります。わかりますね」と言ったという。 「この打法はやめなさい」という事実上の“禁止勧告”である。

私は、高野連のこの出方を見て、「ああ、またか」と思った。いかにも高野連らしい考え方だからだ。かつて敬遠策すら「高校野球に相応しくない」として、不快感を示した高野連である。カット打法など、「そんな卑怯(ひきょう)なことはやめろ」、そして「試合時間が長くなるようなプレーはするな」という“本音”がそこにはある。

しかし、高野連のこの考え方は、2つの点で明らかに間違っている。それは、千葉君のカット打法は、「卑怯な戦法でもなく、またルール違反でもない」という点である。私は、拙著『甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』の中で、このカット打法のことを取り上げたことがある。

当時、西武ライオンズにいた春日昭之介という選手に打撃コーチだった高畠氏は、「ファウルを打つ練習」を延々とさせたことがある。それは、「どうせ2割5分しか打てないなら、相手に嫌がられる2割5分のバッターになろう」と2人で話し合い、できるだけ粘って“好球”を待ってヒットを打ち、あるいは四球をもらって、出塁しようという目標を掲げたのである。

だが、この打法を身につけるのは、容易なことではない。ファウルを打つということは、やってみればわかるが、実に難しい。スピード豊かなストレートや鋭い変化球をバットに当ててファウルゾーンに転がすことは、単に努力や精進だけでできるものではない。「誰にでもできる」と思ったら大間違いだ。

私は、この西武の春日選手にも話を聞いたことがあるが、特に難しいのは内角球で、左バッターの春日選手は、自分の内角を突いてくる球でも、絶対に3塁側のファウルゾーンに転がすように練習をしたそうだ。1塁側のファウルゾーンに転がすとしたら、空振りになる可能性が高かったからである。

プロ選手でも難しいこうしたカット打法を千葉君は身につけて甲子園にやって来た。どれだけ努力をしたか、想像もつかない。156センチという小柄ながら123人もの部員の中で堂々とレギュラーの座をつかみ、そして甲子園に来ても、四球で出塁するだけでなく、前述のように「7割」という高打率をマークし、甲子園史上最高打率にあたる「打率8割」達成が目前に迫る活躍をしていたのである。

圧巻は、3回戦で大会屈指の本格派・安楽智大投手(済美)から7回表に放ったライトオーバーの大三塁打だろう。単なるカット打法ではなく、彼が野球選手として“小さな巨人”であることをまぎれもなく示したシーンだった。

好球を待つためのカットは、通常でもおこなわれ、そして、それは「野球の基本」でもあり、さらに言えば、非常に難しい技術であり、会得するには大変な努力を要するものだ。

体格に恵まれない千葉君は、これを人並み外れた精進によって身につけたのである。それは、菊池雄星投手を擁してベスト4に進んだ時の155センチの2番打者・佐藤涼平選手の再来ともいうべきものだった。それは、全国の小柄な野球少年に勇気とやる気を与える大活躍だったと言えるだろう。

千葉君の打法は打つ瞬間に右手と左手のグリップはきちんとついており、バントではなく、明らかにスイングであり、「ルール違反ではない」という点を見逃してはならない。

もし、審判がこれを「バントと判断」するなら、たとえば2ストライクをとられていたら、「スリーバント失敗」でアウトを宣告すればいい。しかし、両手のグリップをきちんとつけたスイングをバントなどとジャッジしたら、たちまち大非難が湧き上がっただろう。

堂々とグラウンドでジャッジするのではなく、試合が終わったあとの控室で、正当なプレーに対して、事実上の禁止勧告をおこなうなど、まさに高野連側が「ルール違反」をおこなっているわけである。

1回戦では、相手投手に34球、3回戦では41球も投げさせた千葉君は、チームの勝利に最も貢献した選手だったが、準決勝の延岡学園戦で、自らの打法を“封印”させられ、相手投手にわずか10球しか投げさせることができず、4打数0安打に終わり、チームも0対2で敗れ去った。

私は、産経新聞からこの問題についてコメントを求められ、こう答えた。「千葉選手の活躍は全国の身体の小さな選手に、たとえ体格に恵まれなくてもこれだけやることができると、“勇気”と“やる気”を与えた。自分の創意と工夫、そして努力でレギュラーを勝ち取り、甲子園の土を踏んだ希望の星だった。このプレースタイルは、誰もができるものではなく、一生懸命精進して初めて会得できたもの。高野連に、その努力が分からないのが残念だ。こうした希望の芽を摘(つ)もうとしている高野連こそ、ルール違反をおこなっていることを自覚して欲しい」。

準決勝の試合後、泣きじゃくった千葉君は「過呼吸」に陥り、車椅子に乗せられて甲子園を去った。私は、ルールを無視してまで選手の可能性を摘んだ高野連には、こう“宣言”して欲しいと思う。「高校野球は恵まれた体格と才能あふれる選手たちだけによる勝負の世界ですから、体格の劣った人は野球に参加するのではなく、そういう人は是非、別のスポーツをやってください」と。

カテゴリ: 野球

「努力」と「試行錯誤」は無駄にならない

2013.08.19

熱戦がつづく甲子園にいる。今日8月19日は、力のこもったベスト8の闘いが繰り広げられた。4試合すべてが「1点差」という手に汗握る連続だった。そんな中、本日、甲子園を去った選手の中に私が注目していたピッチャーがいる。

明徳義塾の岸潤一郎投手(2年)だ。昨年、明徳史上初めて1年生で「4番」に座り、背番号「9」ながらも、ピッチャーとしてもマウンドに立った選手である。昨年はまだ高校生というより、中学生に近い顔で明徳の中軸に座り、さらにマウンドでも闘志あふれる姿を見せていたので、非常に印象に残っていた。

体格も170センチそこそこで、昨年は、“引っ張り”のバッティングだけだった。私がインタビューの時に、「もう少し、バットを押し込んで右中間を狙うバッティングをしたら?」と聞いたら、「僕には、そんな器用な打撃はできません」と言ってのけた少年だった。

昨年準決勝で大阪桐蔭の藤浪晋太郎投手に0対4のシャットアウト負けを喫し、岸君たちは高知へ帰っていった。そして、1年後、岸君は再び甲子園に現われた。今度は、背番号「1」をつけての登場である。

1年経って、岸君はエース番号をつけ、身長も175センチになり、そして同じ4番バッターとして甲子園に戻ってきた。初戦(2回戦)では、大会ナンバー1の評価を受けていた防御率0.45の瀬戸内高校のエース、山岡泰輔投手との投げ合いを2対1で制し、次戦(3回戦)では、森友哉、近田拓矢という超高校級のスラッガー2人を擁する優勝候補の最右翼・大阪桐蔭と激突。森・近田を見事に封じて5対1で下し、「明徳義塾の岸」を全国の高校野球ファンに知らしめた。

しかし、ここに来るまでの1年、岸投手は苦闘の連続だった。秋季四国大会の予選で、無名の高知南に敗れて春の甲子園を棒に振り、冬場の地獄の猛練習に耐え抜いた。しかし、それでも、今春以降も、もがけばもがくほど、調子はどん底に陥っていった。

春以降、球速は120キロ台まで落ち、馬淵史郎監督は岸にサイドスローへの転向を命じた。オーバースローの岸がサイドに転向したということは、少なからず四国の高校球界に衝撃を与えた。

だが、岸君はそれでも調子を上げることができなかった。それは、のたうちまわっている、という表現がぴったりだろう。岸君は、5月から6月にかけてサイドスローで練習試合を投げつづけた。6月16日に明徳グラウンドでおこなわれた大阪桐蔭との試合でも、ガンガン打たれて9対3で完敗。「夏」への展望はまったく見えてこなかった。

しかし、6月末に突然、オーバースローに戻した岸投手は、同じ2年生のライバル済美の安楽智大投手相手に好投、練習試合とはいえ、5対1で宿敵を倒した。

進むべき「道」が見えず、暗中模索をつづけた岸投手が、オーバーからサイドへ、そして再びオーバーへ、と試行錯誤を繰り返し、ついに“立ち直り”のきっかけを掴んだのである。

そして、翌7月には、激戦の高知大会を勝ち抜き、決勝戦で春の選抜甲子園のベスト4・高知高校を2対1で押し切り、甲子園への切符を勝ち取ったのだ。

1打同点、そして逆転のピンチを凌いで甲子園出場を決めた時、岸投手は、人目をはばからず泣き続けた。その姿をテレビ中継のカメラはずっと追っていた。上級生である3年生や同僚の2年生たちに次々と肩を抱かれても、岸の涙は止まらなかった。

もがき続けたこの1年間の苦悩がその姿に現われていたのである。今日、日大山形戦を前にして、私は岸君にインタビューで話を聞いた。

私が聞きたかったのは、あのサイドスローへの転向が「今」に役立ったか否か、ということである。私の問いに、岸投手は「はい、内角を恐れることなく突けるようになりました」とはっきりと答えた。

「どういうこと?」と私。「はい、サイドスローになって、僕は内角を思いっきり突くようになりました。サイドスローはそれが持ち味ですから。オーバースローの時には、僕は内角への恐怖心があって、それを突けませんでした。でも、サイドからオーバースローに戻した時、その内角への恐怖心が消えていたんです」。

「じゃあ、サイドスローに変えたことは、無駄ではなかったの?」と聞くと、岸君は「そうです」と言った。のたうちまわり、悪戦苦闘した“あの時期”が「無駄ではなかった」と岸君は言うのである。

私はまだ17歳のこの少年が、たった1年で経験したことの大きさと共に、人生のうちにわずか2年半しか許されないこの高校野球という“勝負の世界”の凄さを一瞬、垣間見た思いがした。

今日、その岸君は、ベスト8で日大山形と対戦し、8回表に痛打されて3対4で逆転負けを喫した。試合後、「また課題ができたね」と聞くと、岸君は「はい、左右をもっともっと生かして、打者を揺さぶられる投球を身につけたいと思います」と、きっぱりと言った。その岸君の目には、甲子園を決めた時のような涙は見られなかった。

「僕には、そんな器用なバッティングはできません」と言い放った1年前と、ひとつひとつの質問に自分の分析を加えながら、的確に答えるようになったこの夏。これから1年間、また岸君は地獄のような冬場の猛練習を耐えて、大きく成長するだろう。

私は自分が高校生の時に、たった1年でこんなに成長したことがあっただろうか、と考えた。それは岸君たちのような“努力”を、自分にはとてもできなかった、という意味でもある。

努力を忘れず、試行錯誤を繰り返し、それでも高校生の時は、「頑張ること」ができる。それが若さというものである。去っていく岸君のうしろ姿を見ながら、「来年もこの甲子園に帰ってきて、これから1年の努力の凄さを見せてくれ」と私は祈らずにはいられなかった。

高校野球の魅力って何? 高校野球のノンフィクション作品も書いている私は、そんなことをよく聞かれる。私は、人生の中で「16歳から18歳まで」しか許されない限定の期間に、「いかに人間が心身ともに成長できるか」、そして「努力が決して無駄にならないこと」を教えてくれるところではないか、と思っている。

カテゴリ: 野球

韓国と“真の友好”を結ぶ日は来るのか

2013.08.17

昨夜、韓国の仁川国際空港で7月27日に入国拒否に遭って強制帰国させられた評論家の呉善花さん(拓殖大学国際学部教授)を励ます会合があった。ジャーナリストの高山正之さんの発案で、評論家の宮崎正弘さんが音頭をとっておられたので、私も顔を出させてもらった。

宴席に行くと、「絶対に挫けないで欲しい、と呉さんに伝えたくて来ました」と、中国政府から長く弾圧を受けているチベットのペマ・ギャルポさんも顔を見せていて、大いに盛り上がった。

私は、呉さんの話を聞いて驚いた。韓国に対して歯に衣着せぬ論評で真実を書き続けている呉さんが、理由も告げられずに入国を拒否されたことに対して、「韓国のどの新聞も、どのジャーナリストも韓国政府を批判することをせず、今に至るも、ただ私の個人攻撃を延々とやっています」と言うのである。冷静な呉さんも、さすがに怒りに唇が震えていた。

「ひとつもないのですか?」と私が聞くと、呉さんは「そうです」と、実に哀しそうな目をした。今は日本国籍をとった呉さんだが、生まれ育った韓国という国を深く愛している呉さんにとっては、一連の騒動は、それほどショックであり、哀しい出来事だった。

呉さんによると、前回、帰国した時から不穏な徴候はあり、日本に帰ってくる日に空港に向かう際、妹の運転する軽乗用車が高速道路で奇妙な動きをする車に前を塞がれ、さらに急停車されて、呉さんの乗る車は、後続車に追突されたという。

呉さんが、「命を狙われているのでは」と思ったのも当然だろう。だが、今回は、ついに「入国」さえ許されなかったのである。結局、目的だった親戚の結婚式にも出られないまま日本に帰ってきた呉さんは、その後に起こった韓国メディアによる凄まじい“人格バッシング”に不安と怒りを増幅させている。

呉さんは、入国拒否の理由について韓国の空港では一切説明されないまま日本に戻り、成田空港でやっと「出入国管理法76条の規定による入国拒否」を知らされたという。

これは、韓国の安全や社会秩序を害するおそれのある外国人の入国を禁止する条項である。どうやら、韓国は呉さんの「著作活動」が、韓国の安全や社会秩序を害するおそれがあると考えているらしい。

自らを批判する言論を認めない国というのは、そもそも民主主義国家ではないが、そのことを批判するメディアが「ひとつも存在しない」というのは、さらに恐ろしい。

それは、言論・表現の自由を守るという民主主義の根本が韓国には存在していないことを意味しているからだ。呉さんの哀しみの根源が、そこにある。

私は呉さんの話を聞きながら、「果たして日本は韓国と“真の友好”を結ぶことができる時が来るのだろうか」と、率直に感じた。呉さんの韓国に対する論評はキメ細かく、歴史に忠実で、読んでいると「なるほど」と唸らされるものが多い。

だが、反日教育を展開し、日本への憎悪を煽りつづけている韓国政府にはそれが気に入らない。ならば、「入国を拒否しろ」ということだったのだろう。

ちょうど中国では、帰国した朱建栄・東洋学園大教授が消息を絶っている。当局によってなんらかの聴取がおこなわれているのだそうだ。日本で中国擁護の論陣を展開している朱氏ですら、「いつ」「なにを」されるか、わからないのである。

言論・表現の自由を圧殺される国の怖さというのは、経験した者にしかわからない。中国につづいて、韓国でも、現に今回の呉さんのように「人格も含めて“圧殺”されるかもしれない」人物が出ている。

日本という国がいかに住みやすいか、韓国・中国・北朝鮮という“隣国”を持つ日本人は、あらためてそのありがたさを考えるべきではないだろうか。

気に入らない言論は「圧殺してよし」とする民度の韓国。私は、韓国という国とは一定の距離を置くべきだ、と以前のブログにも書いた。現在の韓国が「民主主義」という同じ価値観を共有する国とは、とても思えなくなっているからである。

冷静に、お互いの言い分を尊重しあう関係には、今の韓国とはとてもなり得ない。焦る必要はない。将来、真の友好を築くためにも、韓国とは今、距離を置き、従軍慰安婦問題をはじめ、日本の多くの心ある人が「何に対して怒っているのか」、耳を傾けてくれる「時」が来るのを待つべきだろう。

カテゴリ: 国際

息を呑み、身が震える「終戦記念日」

2013.08.15

本日、戦後68回目の終戦記念日を迎えた。20歳で終戦を迎えた最前線の元兵士ですら「88歳」というご高齢となった。昨年、完成させた拙著『太平洋戦争 最後の証言』シリーズの3部作の取材の時もそうだったが、“時の流れ”というものに、深い感慨を覚える。

毎年おこなわれている「全国戦没者追悼式」に、本日も天皇・皇后両陛下が出席され、お言葉を述べられた。私は今日、静岡県浜松市の「アクトシティ浜松」でおこなわれた「浜松市戦没者追悼式典」の記念講演を頼まれていたので、天皇陛下のお言葉は、浜松でお聞きした。

「終戦以来、すでに68年、国民のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶ時、感慨は今なお尽きることがありません」

今日の陛下のお言葉の中で、私はこの部分が特に心に残った。それは、陛下の心からの叫びではなかったか、と思う。さらに陛下はこう続けられた。

「歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」

この部分にも、国民の多くは感慨を深くしたのではないだろうか。戦没者に対する「悼み方」にまで中国や韓国にクレームをつけられる現代の日本にあって、多くの遺族は、釈然としない思いを抱いている。心ある日本人の多くも同じ思いだろう。それだけに陛下の一語一語が身に染みた遺族は少なくないだろう。

私はそのあと、「大正世代が示した“誇りある日本人”」と題して、最前線で戦った元兵士たちの「最後の証言」について、講演をさせてもらった。今日の会場は、身内に戦没者がいるご遺族が多かったせいか、ハンカチで目頭を抑えながら聴いてくれる人もいて、話に熱が入った。

結局、あれほど靖国参拝を念願していた安倍首相は今日の参拝を見送った。中韓の圧力だけでなく、アメリカの意向が大きかったのだろうと推察される。私は、終戦記念日に行きずらいなら、参院選後の「いつ」であろうと、これまでに「行くべき」だと思ったが、安倍首相にその決断はできなかったのである。

就任以来これまで、安倍首相は強さとしたたかさを中国と韓国に植えつけることに成功していたが、これで両国に「与(くみ)しやすし」のイメージを持たれたことは間違いない。その意味で、日本の独自の文化である死者への追悼の仕方まで、あれこれ物申される現象は、安倍首相の譲歩によって、「今後も繰り返される」ことになったと見ていいだろう。

本日、安倍首相の代理として玉串料を奉納した自民党の萩生田光一総裁特別補佐は、記者団に「参拝見送りは、総合的な判断だ」と語ったそうだ。

そして、「本日は参拝できないことを英霊にお詫びし、靖国への思いは変わらないと伝えてほしい」と安倍首相に伝言を託されたことを萩生田氏は明らかにした。

こうして、国の礎となって亡くなった方々への“もう一つの追悼の場”に、安倍首相は「行くことができなかった」のである。

あれほどの中国と韓国の大非難の中、靖国参拝をおこなった当時の小泉首相の度胸と気概をあらためて感じる。国家の領袖としてのプレッシャーの凄さは、やはりその地位に就いた者でなければわからないのだろう。

政治家は、いかにあるべきか。衆参に圧倒的な勢力を有する安倍首相にしても叶わなかった終戦記念日の靖国参拝。毎年8月15日に繰り広げられるこの“壮大なドラマ”に、私はいつも息を呑み、身が震える気がする。

カテゴリ: 政治, 歴史

最新のエントリー

カテゴリー

アーカイブ