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裁判官は「日本」を滅ぼす

2013.09.30

今日の産経新聞の「産経抄」に、認知症の91歳の男性が線路内に入って電車に轢かれて死んだ事故の判決のことが載っていた。JR東海が、列車の遅延に対する損害賠償720万円を要求し、名古屋地裁は、その「全額の支払いを命じた」という件である。

老人は、認知症で徘徊し、家族で介護していた。産経抄は、「事故は、妻がまどろんでいる間に、男性が家を出て起きた。認知症の人を24時間監視するのは不可能だ。そんな実態を無視して、“監督責任”を認めた判決は、遺族だけでなく、介護に関わる多くの人に衝撃を与えている」と書いている。

これは、日本の官僚裁判官の典型的な病理が表われているものなので、興味深い。日本の裁判官が、裁判で重視するのは「要件事実」だけである。「事情」には踏み込まない。それが鉄則だ。なぜなら、いちいち「事情」に踏み込んでいったら、一人の裁判官が200件、300件、あるいはそれ以上抱えている案件が「処理できない」からである。

そこで、判決に組み込んでいかなければならない「要件事実」だけが判断のポイントになる。ここでは、老人が「線路に侵入」し、「列車事故が生じ」、JR東海に「総額720万円の損害」が生まれ、JR東海がその損害賠償を「請求した」ということが確定すれば、それでいいのである。

裁判官は、司法修習時代から延々とこの「要件事実」を抽出するための教育を受けている。それは「訓練」と言い換えた方がいいかもしれない。判決に必要な「要件事実」だけを抽出させるこの教育(訓練)は、法曹関係者の間では「要件事実教育」と呼ばれている。

彼らにとっては、老妻が徘徊老人を24時間介護しているなどという「事情」はまったく関係がない。JR東海による損害請求の「全額」と「介護者の監督責任」をすべて認める判決が出る理由は、そこにある。

日本の官僚裁判官が、とんでもない判決を出してしまうのは、この「事情」というものが排除され、「要件事実」だけで判断しているからにほかならない。

今日、私はその日本の官僚裁判官から凄まじい判決を受けた。「書籍廃棄判決」である。私は、新潮社から10年前に『裁判官が日本を滅ぼす』を上梓しているので、この「要件事実教育」によってもたらされた日本の官僚裁判官の悪弊と、裁判のおかしさを、かねて指摘してきている。

それだけに驚くべきことではないことかもしれない。だが、私は今日の判決を受けて、当事者としてはもちろんだが、むしろ納税者の一人として絶望感を抱いている。国民の一人として、日本の官僚裁判官のレベルに、ただ溜息が出てくるのである。

私は日航機墜落事故から25年が経った2010年夏、『風にそよぐ墓標 父と息子の日航機墜落事故』(集英社)というノンフィクションを上梓した。これは、1985年8月に起こった日航機墜落事故の6遺族の「その後の四半世紀」を追った作品である。

この本は、それぞれのご家族を取り上げた全6章から成るものだ。初めて「父と息子」にスポットをあてたもので、あの悲劇を乗り越えた家族の感動の物語としてノンフィクションで描かせてもらった。

本書に登場する6家族の方々に、直接、私自身が取材に伺い、絶望から這い上がってきた四半世紀に及ぶ「勇気」と「感動」の物語をお聞きし、すべてを実名で描かせてもらったのである。ご本人たちの了解を得て、取材させてもらい、日記や手記があるならそれを提供してもらい、「事実」と異ならないように気をつけて原稿を書かせていただいた。

しかし、私は、この作品の第3章に登場するご遺族、池田知加恵さんという80歳になる女性から「門田は自分の作品である『雪解けの尾根』(ほおずき書籍)の著作権を侵害した」と訴えられた。

経過はこれまでのブログでも詳しく書いてあるが、池田知加恵さんは、日航機墜落事故で亡くなったご主人を持つ未亡人である。私は、「父と息子」をテーマにしていたため、あらかじめこの知加恵さんのご子息に10時間近い取材をさせてもらっている。そして、その上で、母親である知加恵さんご本人にも別の日に3時間半にわたって取材をさせていただいた。

その取材の折、知加恵さんは17年前に出したという事故の時の自身の体験をまとめた当該の『雪解けの尾根』という手記本をわざわざ「門田隆将様 感謝をこめて 池田知加恵」とサインして私に提供してくれた。

この時、事故から25年も経過しており、ご高齢だったこともあり、ご本人が「私にとっては、この本を書いた時が“記憶の期限”でした」と仰られたので、私の取材は、提供されたこの本に添ってご本人に「事実確認」をする形でおこなわれた。

ご高齢の方への取材というのは、こういう方法は珍しいものではない。戦争関連をはじめ、多くのノンフィクション作品を私は出しているが、たとえば太平洋戦争の最前線で戦った元兵士に取材する際は、自分が若い時に戦友会誌などに書いた回想録を提供され、それをもとに「記憶を喚起」してもらいながら取材させていただくことが多い。

より正確に事実を書いて欲しい、というのは誰にも共通のものであり、私は池田知加恵さんにも長時間にわたって、この本に基づいて記憶を喚起してもらいながら、取材をさせていただいた。

記憶が戻ってきた知加恵さんは、「このことは本に書いてなかったかしら?」「そうそう、それ書いているでしょ」と途中で何度も仰り、そのたびに本の中の当該の箇所を探すことが度々あった。

私はノンフィクション作家であり、いうまでもなく作品はすべてノンフィクションである。つまり、私の作品には、フィクション(虚構)がない。記述は「事実」に基づいており、そのため、取材が「すべて」である。

つまり、ノンフィクション作品とは、作家が想像によって「創作」することは許されない。小説との決定的な違いがそこにある。つまり、ノンフィクションはその性格上、「本人証言」と「日記・手記の発掘」が極めて重要なのである。

取材の際、知加恵さんは著書だけでなく、事故に関連してご自身が登場したニュースやワイドショーを録画したDVDを提供してくれたり、取材後も自分の発言の訂正部分を手紙で書いて寄越してくれたり、積極的に取材にご協力をいただいた。

私は、ご自宅をお暇(いとま)する時も、「大変ありがとうございました。今日の取材と、このご本に添って、事実を間違えないようにきちんと書かせてもらいます」と約束し、その言葉通り、事実関係に間違いのないように原稿を書かせてもらった。そして、巻末には、「参考文献」として『雪解けの尾根』を明記したのである。

私が書いたのは、彼女がどう行動し、どう思ったのか、という「事実」だけである。つまり、私は「本人に直接会って」、「手記本を提供され」、記憶が曖昧になっていた本人に「記憶を喚起してもらいながら、その手記本をもとに事実確認取材をおこない」、これを記述したのである。

もちろん、手記本と同一の文章はひとつもなく、忠実に「事実」だけを描写させてもらった。事実がひとつしかない以上、突き詰めて取材すれば、「事実」が当事者の手記と似ているのは当然だ。いや、似ていなければ、それはノンフィクションではなく、小説になってしまう。

しかし、『風にそよぐ墓標』を発刊後、知加恵さんは「著作権侵害だ」と訴えてきたのである。私は、およそ30年にわたって記事や本を書く仕事をしているが、このようなことは無論、初めてである。

取材相手には、さまざまな方がおられるので、これもノンフィクションライターとしての宿命には違いない。この訴訟が起こされる4か月も前に、まだ当事者以外、誰も知らない時点で朝日新聞が社会面を5段も使って「日航機事故遺族、作家提訴の構え」と大々的に報じたのも、不思議だった。

以来、私はノンフィクション作品の取材と執筆に忙殺される中で、この訴訟とつきあってきた。私は取材時の録音テープやノートなども証拠として提出し、取材の時のようすを含め、すべてを法廷で立証した。

しかし、そこで私は「要件事実教育」を受けた官僚裁判官の実態にあらためて驚かされた。前述の通り、日本の裁判では、「事情」には踏み込まない。裁判官には、「小説とノンフィクションとの違い」や、「取材時のやりとり」、あるいは、本人が「手記本を提供した時のようす」……等々、そんな「事情」は関係がないのである。

今日、私は3月の一審につづいて、二審で、著作権侵害額として「2万5200円」、慰謝料を「50万円」、弁護士費用「5万2520円」という計「57万7720円」の支払いと書籍の「廃棄」を命じられた。

つまり、日本の著作権裁判では、著作権侵害で訴える人がいて、ふたつの書籍の記述の一部が「類似」しているという「要件事実」がそこにあれば、それでいいのである。

この判決に従えば、私は取材の時に「利用してはいけないもの」をご本人から提供され、それをもとにご本人に対して「書いてはいけない事実」を3時間半にわたって「確認取材」しつづけていたことになる。

私は溜息だけが出る。日本のノンフィクションはこれからどうなるのだろうか。この判決によって、今後、先行する「当事者の記述」が存在する場合、ノンフィクションは、どう「事実」を描写するのだろうか。

「わざと間違えて書く」か、あるいは、それを参考にすることに対して取材時に「契約書を交わす」ことが求められるようになるのだろうか。フィクション(虚構)のない世界を描く「ノンフィクション」は、今後、どうなっていくのだろうか。

いずれにしても、ノンフィクションの息づく範囲は極めて狭くなったと言わざるを得ない。「表現の自由」を脅かすこの判決が、「要件事実教育」がもたらす弊害であることは前述の通りだ。

判断をする時に問題の「本質」や「事情」に目を向けることができない官僚裁判官に、国民はいつまで「法廷の支配」を任せるつもりだろうか。私は、ふと、そう思った。日本は、官僚裁判官によって、やがて滅ぼされる。私は10年前に上梓した私自身の本の題名を今、あらためて思い起こしている。

カテゴリ: 池田家との訴訟

ある台湾の老人の死

2013.09.23

一昨日、台湾で一人の老人が亡くなられた。台湾苗栗県在住の劉維添(りゅう・いてん)さん91歳である。劉さんは、拙著『太平洋戦争 最後の証言』の第二部「陸軍玉砕編」の第6章「20万人戦死“ルソン島”の殺戮現場」に登場いただいた方である。

昭和20年2月、フィリピンの首都・マニラに突入してきた米軍を日本の海軍陸戦隊を中心とする「マニラ海軍防衛隊(通称・マ海防)」が迎え撃った。その時、台湾からマニラの治安維持のために入っていた海軍巡査隊の一員だった劉さんたちも戦いに参加した。

劉さんたちの隊長は、日本人の廣枝音右衛門(ひろえだ・おとえもん)警部である。いよいよ部隊が全滅の危機に瀕した2月23日、自決を決意した廣枝隊長は、劉さんたち台湾青年に、こう命令した。

「いいか、お前たちは生きろ。お前たちは台湾人だ。故郷にはお前たちの帰りを待っているお父さんやお母さん、家族がいる。俺は日本人だ。俺だけが責任をとればいい。どんなことをしても、お前たちは絶対に生きて台湾に帰るんだ」

そう命令すると、廣枝隊長は台湾青年に形見の軍刀を渡し、拳銃で自決を遂げた。享年40だった。「どんなことをしても生きて台湾に帰れ」という廣枝隊長の命令によって、劉さんたちはその日の夕刻、米軍に投降する。

生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず――というのは、マニラ海軍防衛隊でも厳しく実践されていて、台湾からの巡査隊といえども同じだ。しかし、次々と自決する人間が増えていく中、廣枝隊長の命令を受けていた劉さんたち台湾の巡査隊は自決を思いとどまり、辛うじて故郷・台湾に帰ることができたのである。

太平洋戦争の日米両軍の激突で最も戦死者が出たのは、言うまでもなくフィリピン(比島)での戦いである。日本軍はルソン島やレイテ島など激戦地を中心に、陸海あわせて実に49万8000人もの戦死者を出している。

比島の敗北によって完全に制空権、制海権を失った日本は、石油をはじめとする南方の資源が届かなくなり、戦略上でも、完全に敗戦が決定づけられるのである。

劉さんたちは、戦後、国民党統治下の台湾で、つまり、外省人(がいしょうじん)による厳しい弾圧の中で、秘かに日本人である廣枝隊長の大きな位牌をつくり、供養を続けてきた。やがてそれは慰霊祭に発展し、苗栗県にある獅頭山(しとうざん)という霊山で、今も続けられているのである。

毎年、9月21日には、獅頭山「権化堂」で廣枝隊長の慰霊祭がおこなわれる。しかし、昨年、90歳となった劉さんは、慰霊祭当日に軽い心臓発作を起こして初めて欠席した。そして今年は、慰霊祭当日の未明についに亡くなられたのである。

私は台湾在住のジャーナリスト片倉佳史さんと、劉さんから慰霊祭の実行を引き継いでいる台北在住の日本人実業家・渡邊崇之さんから相次いで劉さんの訃報を伝えられた。

日本語が堪能で、話す時にいつも笑顔を忘れなかった柔和な劉老人の顔を私は思い浮かべた。そして、劉さんが縷々(るる)語ってくれた廣枝隊長の姿を思い出した。

劉さんが語る廣枝隊長は、実に生き生きとしていた。部下の台湾青年を可愛がり、いつも彼らの「命」を最優先する命令を出した。ぎりぎりの戦いの中で心が揺さぶられる行動と言葉を遺したのが、廣枝隊長だった。

私の前に、劉さんはその廣枝隊長の姿を鮮やかに描き出してくれた。だが、その劉さんが亡くなったことで、ついに廣枝隊長を直接、知る人はこの世から「いなくなってしまった」のである。

時間の経過と共に「真実」は歴史の霧の彼方に消えていく。ノンフィクションの世界にいる私は、そのことで時に無力感に襲われることがある。

私は、今日の昼、静岡護国神社での陸軍・独立歩兵第13聯隊の慰霊祭に参加していた。昭和19年8月にマニラを目指して東シナ海を航行中、台湾とフィリピンの間の“魔のバシー海峡”で聯隊の大半を輸送船ごと失った悲劇の部隊である。

今日の慰霊祭の後、私は、その悲劇の聯隊で漂流の末、“奇跡の生還”を遂げた92歳の老人へのインタビューを長時間にわたってさせてもらった。やはり、それは長い時間がもたらす“風化”に抗(あらが)うかのような貴重な証言の連続だった。一語一語、聞き落とさないように私は長時間、メモをとった。

劉さんが亡くなり、ひとつの歴史が消えた。だが、まだ書き残せる歴史もある。明日以降も貴重な証言をとる作業はつづく。それは、「時間」と「根気」との闘いでもある。誰かがやらなければならないものなら、私も少しでもその作業のお手伝いをしたい。

カテゴリ: 歴史

中国に迫る危機と“九一八事変”

2013.09.18

講演で奈良に来ている。久しぶりに興福寺のある奈良公園で鹿と出会った。以前より少し頭数が減ったようにも思えたが、実数は1300頭もおり、むしろ増え気味だそうだ。時間の流れが止まったかのような古都・奈良の風情は、秋となった柔らかい陽射しと相俟って、締切で疲れきった身体を癒(いや)してくれる気がする。

今日は、9月18日である。中国では、この日は1915(大正4)年に、日本からの「対華21箇条要求」を承認した5月9日と並ぶ「国恥記念日」として知られる。

満洲事変(柳条湖事件)が起こったのは、中国では、忌むべきこの「九一八事変」の日なのである。1980年代に中国へ毎年のように行っていた私は、日本人に対して好意的で寛容だったあの頃の中国人でも、この日には「国恥」という意識が呼び起こされることから、行動に「注意する」ことを忘れなかったことを思い出す。

尖閣の国有化があり、各地でデモがあった昨年の9月18日は、私は「歴史的な日」だったように思う。それは、かつて日本の満洲のみならず中国(当時は支那)への「進出」を象徴するこの日が、逆に中国からの日本の「撤退」を決定づける象徴的な日になった、という意味である。

いま日本企業の“中国離れ”が顕著になっている。経済成長によって中国人の人件費が上昇し、中国が世界の生産工場だった時代は終わりつつある。だが、日本が中国からの撤退を加速させているのは、経済的な理由より、政治的なリスクの方が大きい。

江沢民時代から始まった苛烈な中国共産党による反日教育・反日戦略は、30歳半ばから下の“若き中国人”を完全に「日本を憎悪する人間」にしてしまった。前述のように、私が頻繁に中国を訪れていた頃の「日本人に対して好意的で寛容だった中国人」は少なくなってしまった。

昨年の凄まじい反日デモの有り様は、その日本への憎悪が、もはやどうしようもないレベルに達していることを日本国民に知らしめてくれたと言える。

日本企業や日本料理店を破壊し、狼藉(ろうぜき)のかぎりを尽くしても、反省どころか「原因は日本側にある」と言ってのけた中国政府スポークスマンの態度に、日本人の多くは溜息を吐(つ)き、そして完全に心が離れてしまったのである。

それは、日本企業の中国離れという形になって明確に現われた。アメリカのウォール・ストリート・ジャーナルによれば、2013年上半期の日本の対東南アジア投資額は前年同期比で55%も増え、102億9000万ドル(約1兆200億円)までになったそうだ。

この数字は日本貿易振興機構(ジェトロ)によるもので、一方で対中投資額は31%減って、49億3000万ドルになったという。これまで中国への進出に余念がなかった日本企業が、タイやベトナム、インドネシア、カンボジア、バングラデッシュ、ミャンマーなど、東南アジアに完全にシフトしているのだそうだ。それにしても、「31%減」というのは凄まじい数字だと思う。

中国でレストランを経営していた友人がつい先日、私の事務所を訪れ、「中国は、進出するのは簡単だが、撤退する時は難しいんだよ」と話してくれたことを思い出す。

友人によれば、日本企業が中国から撤退する時、当局はさまざまな嫌がらせをしてくるという。例えば、店仕舞いする、すなわち法人を閉めて国外に出るためには、さまざまな「許可」が必要になる。

店舗(法人)のあった市の政府に対して、資金の持ち出しを含め、すべてに許可を得なければならないのだ。だが、その許可が簡単に下りることは皆無だそうだ。直接かけあっても「いま検討中」と言うばかりで、一向にコトは進まないのである。難癖をつけられ、日本法人はその対応に四苦八苦するのである。

「日本法人に対しては、特にそれがあからさまなんだ」と、友人は嘆いていた。そのため、ついに諦めて、資金をそのまま中国国内に置いておく事例が多いのだそうだ。

進出する時は歓迎してくれるが、去る時は一転、嫌がらせをされるというのは、いかにも中国らしい。基本的に、中国とは、国内にある資金が国外に持ち出されることを異常に嫌がる国であり、中国に進出する企業はそのことを肝に銘じておくべきだろう。

中国が「日本企業に背を向けられ始めた」といっても、まだまだ余裕があるかのように見える。しかし、私は、ことはもっと深刻で、中国は生き残りへの“試練の道”に入ったと思っている。

理由はTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)である。かつて、日本がアメリカに非関税障壁を突きつけられ、さまざまな分野で「葛藤」と「譲歩」、あるいは時に「死闘」が繰り広げられたことは周知の通りである。

正確には、それは現在も続いているが、この非関税障壁という点で言えば、中国は日本の比ではない。忘れがちだが、中国の“赤い資本主義”とは、「市場統制」こそ本質である。先に述べた「撤退する時の苦労」も、そこに起因する。

もし、TPPに中国が参加すれば、その本質である「市場統制」を徹底的に改めていかなければならない。つまり、中国共産党の根幹が揺るがされるのである。もし、統制と規制を緩和しなければならなくなったら、それは一党独裁体制による“赤い資本主義”の終焉をもたらす危険性も孕(はら)んでいるわけである。

そのため、中国がTPPに参加する可能性は極めて低い。そこで、中国は、各国と個別に「自由貿易協定」を結ぶ道を模索しているのである。しかし、覇権主義を剥き出しにする中国との自由貿易協定に二の足を踏む国は多い。決して、中国の思惑通りには進みそうもない。

私が、中国が生き残りへの“試練の道”に入ったと思う理由はそこだ。TPP包囲網に焦る中国が、日本への関係改善のラブコールを送ってくる日は、意外に「近い」だろう。

だが、そんな一時的なラブコールに応じる必要は全くない。将来を見据えて中国とは距離をとり、決して日中首脳会談の実現をはじめ、その手のアプローチに「乗らない」ことが肝要だ。

私は、日本と中国は“我慢比べ”の時代に入ったと思っている。南シナ海で中国と緊張状態にあるフィリピンも、アメリカだけでなく、これまで以上に日本への期待を募らせている。安倍首相には、焦っているのは中国であることを念頭に、「譲歩」や「妥協」ではなく、粘り強く、毅然とした外交姿勢を「堅持」するよう、是非お願いしたい。

カテゴリ: 中国

「震災から2年半」それでも取り残された町

2013.09.11

大震災から2年半が経過した今日、福島県の南相馬にいる。あの大震災の時に津波と放射能汚染の両方の苦しみを受けた町である。1万8000人を超える死者と行方不明者を出した大震災で、南相馬市は1000人以上の死者・行方不明者を出している。

来るはずがない市街地の近くまで津波が押し寄せ、老人介護施設では、36人もの津波による死者が出るなど、市内のあちこちで多くの悲劇が起こった。今も数多くの避難者がおり、同時に双葉町や浪江町、大熊町などからの避難者が市内の仮設住宅で暮らしている。

私は、18メートルの巨大津波が軽々と乗り越えた堤防と、それになぎ倒された巨大送電線を見た。津波によって粉砕された遮蔽壁や堤防を目の当たりにすると、コンクリートなど、大津波の圧力には「ひとたまりもなかった」ことを改めて感じた。

「ここの集落も消えました」「ここもなくなりました」。タクシーの運転手が、「ここには、同僚の家があったのですが、同僚も家族も死にました」と哀しげに教えてくれた。

一面、草ぼうぼうの平原と化した地は、なんの解説も不要なほどの圧倒的な力を持っている。津波のあと襲って来た放射能汚染によって、緊急物資も届かず、市長がYouTubeを通じて世界に窮状を訴えた話はあまりにも有名だ。

大震災に遭った東北三県で今も避難生活を続けているのは、およそ29万人に達するのだそうだ。本日、南相馬市内で訪れた仮設住宅は、昼間というのに、外に出てくる人もほとんどなく、「時」が止まったかのように、ひっそりと静まり返っていた。

「除染をしても、何か月か経つと、元と同じ数値に戻ってしまうんですよ」「若い人は新しく家を建てるならローンも組めますが、年寄りには無理。いまの生活から抜け出すことは、とてもできません」

そんな話を今日、町のあちこちで聞いた。南相馬は、いまだに仙台からの常磐線も途中で不通になっており、バスの代行運転で凌いでいる。また、いわきとの間も放射能汚染によって、「原ノ町駅」から「広野駅」までが開通していない。

主な交通路線は、福島からの1日わずか「4便」のバスである。それでも、福島から1時間40分はかかるという“陸の孤島”である。

しかし、そんな中でも、さまざまな業界で闘いがつづいている。私は、歴史上、類例のない大地震によって、予期せぬ闘いを余儀なくされた福島の人々の姿を描くために、昨日は福島市、今日は南相馬市で時間の許すかぎり取材をさせてもらった。

前著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』では、もっぱら福島県のいわき市を基点にして取材をおこなったが、今度は福島市、あるいは、県の北東部にある、ここ南相馬市を中心とする取材になりそうだ。

前回の原発ノンフィクションでは、浜通りの地元の工業高校を出たプラント・エンジニアたちが故・吉田昌郎所長のもとで何度も原子炉建屋の中に突入する姿……等々を描かせてもらった。今度は、浜通りで未曾有の放射能汚染の中で戦った、まったく異なる“業界”の人々が主役になる。

2020年の東京五輪開催が決定し、喜びの声が日本中に溢れている。しかし、ここ南相馬では、そんな世の中とはまったく無縁の空気が支配している。ある人は今日、「自分たちが置き去りにされるのではないか、と心配です」と正直な気持ちを私に吐露してくれた。

あの大震災から今もつづく闘いに、のたうちまわりながら、それでも前進をやめない人々の勇気ある姿を私は描きたいと思っている。あの日から2年半が経過したが、私自身が大震災と距離がとれる日は、まだまだ先であることを感じた1日だった。

カテゴリ: 地震

東京を勝たせたのは「復興への祈り」だった

2013.09.08

「ああ、結局、大震災が東京を勝たせてくれたなあ」――私は、「東京決定」が決まった瞬間、そう思った。逆境は人を育てるというが、あの東日本大震災という日本にとって大変な試練こそが、IOC委員に「東京」への1票1票を入れさせた最大の理由になったのだと感じた。

土壇場で福島第一原発の汚染水問題などが現地で大報道され、2日前には、韓国が、「海のない」群馬県を含む8県の「水産物の輸入を禁止する」という露骨な「反東京招致」キャンペーンをおこなったにもかかわらず、日本は圧倒的な勝利を収めた。

この汚染水問題だけでなく、4月にあった猪瀬都知事のイスタンブールに対する失言など、まさに山あり谷ありの中での勝利だった。だが、最後はやはり、あの「大震災」こそが、東京勝利の最も大きな要因になったのだと思う。

私が東京のプレゼンテーションで印象深かったのは、冒頭で挨拶された高円宮妃久子さまの大震災の被災地へのIOCによる支援への感謝の言葉と、それにつづくパラリンピアン佐藤真海さんの「私がここにいるのは、スポーツによって救われたからです」「津波が私の故郷の町を襲いました」というスピーチだった。

そして、滝川クリステルさんがフランス語でおこなった「おもてなし」という言葉の説明と、両手を合わせて拝む姿は、大きなインパクトをIOC委員に与えたと思う。招致委員会の竹田恒和委員長とフェンシングの太田雄貴氏の気迫のスピーチも素晴らしかった。

この時点で、財政赤字のマドリード(スペイン)と反政府運動の懸念を抱えたイスタンブール(トルコ)を「大きく引き離した」ことは間違いないだろう。汚染水問題を糾弾されていた東京は、国のトップである安倍首相が、自らその懸念を払拭するスピーチと質疑をこなして、勝利を「決定的にした」のである。

あの1964(昭和39)年の東京オリンピックで忘れられないシーンが私には3つある。1つは、当時、徳島市に住んでいた6歳の私の目の前を白煙を上げながら聖火ランナーが走っていったことだ。

聖火ランナーは全国の津々浦々を走ったが、私の眼の前の国道11号線も走っていった。そして、その聖火ランナーに“ご近所”が総出で繰り出し、手が痛くなるほど叩いて皆が声援を送ったのである。

2つ目は、その聖火の最後のランナーが、開会式で国立競技場スタンドの一番上に立つ聖火台への長い長い階段を上がっていった時のことだ。自分の眼の前を走った聖火が、最後にあれほどの長さの階段を登らなければならないことに私は言葉を失った。胸が苦しくなって、そのランナーに「頑張れ」「倒れるな」と必死に祈りながら、それを見守ったことを思い出す。

3つ目は、閉会式の時の感動である。開会式で整然と行進した各国の選手たちが、閉会式では一転、みんなが肩を組んだり、手を握り合って、一緒になって行進を始めたのだ。

「ここには、国境も、肌の色も、何もありません!」とアナウンサーが叫び、テレビの前に座っている6歳の私も、その画面を見ながら、感動に満たされた。

あれをきっかけに、日本の経済は“爆発”し、20世紀の奇跡と言われる高度経済成長を成し遂げていく。いま考えてもすごいオリンピックであり、経済効果だった。

前回の東京五輪は、「戦争」と「復興」が決定の最大の要因だったのではないかと思う。連合国と戦った枢軸国の日・独・伊の3国は、ローマ五輪(1960年)、東京五輪(1964年)、ミュンヘン五輪(1972年)で次々と五輪の開催地となっていった。オリンピックの決定には、世界の“優しさ”が込められていたのである。私は、今回は「大震災」と「復興への祈り」がIOC委員の投票行動を決めたと思う。

果たして、今回の東京五輪はどうなるのだろうか。前回のブログでも書いたように東京は、大地震の懸念を抱えている。そして、隣国には、日本への憎悪を剥き出しにする中国と韓国という国も存在し、今後もいろいろな嫌がらせが予想される。

1988年のソウル五輪を阻止するためにさまざまなテロをおこなった北朝鮮の問題もある。また、酷暑の「夏の東京」でのマラソンなど、選手の健康上の心配点もある。

しかし、オールジャパンで英知を結集し、さまざまな問題を乗り越えて欲しいと思う。長くつづく経済低迷とデフレからの脱却、そして震災からの復興――東京五輪をきっかけに、かつてのパワーを日本が是非、取り戻して欲しいと願う。

カテゴリ: オリンピック

「防災の日」に思う

2013.09.01

9月に入ったのに炎暑が一向に陰りを見せない。今日は関東大震災から90年の記念日でもある。これに合わせた昨夜のNHK「巨大地震」は見応えがあった。CGと迫力ある音楽、再現ドラマなどを駆使した番組構成で、首都を襲う巨大地震の怖さがよく出ていた。

あの番組を観れば、いかに自分たちが危ない場所で生活しているかを痛感する。家族と自分の命を果たして守ることができるのか、番組を観ながら、いま一度、自分に問い直した人は少なくないだろう。

私は、地震への恐怖だけでなく、これで世界経済はどうなるのだろうか、という点にも関心を抱かざるを得なかった。

東京が壊滅すれば、世界経済への打撃は、はかり知れない。東京市場が破壊されれば、世界の金融システムが大きな打撃を受ける。「21世紀の世界恐慌」のきっかけになる可能性も否定できない。そして、壊滅した東京に代わって上海が世界の金融マーケットとして浮上するようになるのだろうか、ということも思った。

そんなことを考えながら番組を観ていたら、ふと、私は2011年3月も同じような思いをしていたことを思い出した。

東日本大震災の津波被害によって福島第一原発事故が起こり、放射能汚染で東京はおろか東日本全体が再生不能に陥るかもしれないという時、私は漠然と「首都は大阪になるのだろうか」と考えていたことを思い出したのだ。

限界まで来た東京への「一極集中」に対して、いつか天から鉄槌が下されるのではないか、という思いを私は持っている。人口1300万人の東京だけでなく、千葉・埼玉・神奈川を加えたいわゆる“東京圏”の人口は、およそ3500万人だ。日本の人口の30パーセント近くがここに集まっていることになる。

私の事務所は西新宿にあるので、いつも新宿駅を利用するが、ここの1日の人口集中度は異常だ。新宿には、JRや私鉄、営団地下鉄、都営地下鉄など、さまざまな路線の「新宿」駅がある。

これらの「新宿」駅の乗降客は、1日「400万人」なのだそうだ。「新宿」という駅で乗り降りしている人が1日400万人に及ぶと聞くと、私はあまりの数に気が遠くなる。それは、私が生まれ育った四国の人口とほぼ同じだからだ。

四国の全人口が1日に「新宿」駅で乗り降りしているという事実は、私にとっては信じがたいことである。世界一の利用客を誇る新宿駅ならではの話だ。

ここを首都直下型地震が襲ったら……それは、想像もできない惨事をもたらすかもしれない。それと同時に、番組でNHKは、盛んに関東大震災の時の“火災旋風”などの恐怖を報じていたが、果たしてそこまで「惨事は広がるのだろうか」という思いがあるのも事実だ。

地震のたびに耐震基準を見直し、「これでもか」「これでもか」と世界にも稀な揺れに強い建物をつくり続けたのは、日本の建築技術者たちである。言うまでもなく、90年間で培った技術者たちの英知は、あの関東大震災の木造家屋時代とは比べるべくもなく、私は彼らへの信頼感も持っている。

東日本大震災のあと、仙台に行った時、私は仙台の高層マンションが何事もなかったかのように屹立していたことに驚いた。厳しい耐震基準によって建てられたビルは、激しい揺れにもびくともしなかったのである。

高層ビルなどの「揺れ」を吸収する制震装置(※震動を吸収する装置)に代表されるように、世界のどこにも負けない耐震技術を持つのが、日本の建築の世界である。NHKの番組は、危機感と恐怖感を引き出す方に主眼が置かれており、そこだけは残念だった。

だが、首都・東京を襲う地震への備えを個々人がしっかりしなければならないことを改めて感じたのは確かだ。私は番組を観ながら、同時に、いま現在、福島第一原発で起こっている「地下水問題」にも思いを馳せた。

関東大震災の以前も、以後も、警鐘を鳴らし続けた今村明恒・東大教授のことが番組では取り上げられていたが、今こそ今村教授のような人物が必要ではないだろうか。

福島第一原発では、高濃度の放射線で汚染されたおよそ300トンの水が貯蔵タンクから漏れたことで、原子力規制委員会は、福島第一原発の現況を「レベル3(重大な異常事象)」としたそうだ。「レベル7」に達したメルトダウンの2011年3月以来のことである。

私は、福島第一原発で費用1000億円かかるという「地下水遮蔽壁」の建設が実施されなかったことを含め、放射能の海水流出を食い止める有効な手段が講じられなかったことに対して、「もし、吉田昌郎さんがいたら、どうなっていただろうか」と思わずにはいられなかった。

土木学会の津波評価部会や日本の防災機関のトップである中央防災会議が、福島県の浜通りへの津波の危険性を除外した中で、2007年4月に本店原子力設備管理部長に就任した吉田さんは、津波対策をとるためにオーソライズされた根拠を求めて、さまざまなことをおこなった。それは、私自身がこれまでさまざまなところで書いてきたので、ここでは繰り返さないい。

あの震災時の対応といい、それ以前の対応といい、原子力の技術者として多くのことをおこなった吉田さんなら、この「地下水問題」にどう対応したか、私はどうしても知りたくなる。

官邸や本店の意向に真っ向から逆らい、技術者として矜持(きょうじ)を保つことで結果的に日本を救った吉田元所長。彼がいたら、どんな地下水問題の対応をおこなったのか、知りたいものである。

「(福島第一の)収束にはまだまだ程遠いですよ。やらなければならないことは沢山あるのです」とインタビューで語っていた吉田さんの表情を私は思い出す。今は亡き吉田さんの姿と言動に、私は日本の技術者の使命感とレベルの高さを教えられた気がする。

その意味で、地震対策に邁進(まいしん)してきた技術者たちのことも、やはり私は信頼したい。そんなことをいろいろと考えさせてくれた「防災の日」であり、NHKの番組だった。

カテゴリ: 地震

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