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辻井喬さんの「死」に思う

2013.11.29

福島での取材がつづいている。毎日、好天の福島だが、それでも朝夕の冷え込みは厳しい。福島市の市街地から見れば、西にある吾妻連峰の山々も、冷気を伝えるように頂上は雪景色だ。

そんな福島取材の中で、作家の辻井喬=本名・堤清二=さん(86)が亡くなられたというニュースが流れた。ご存じ、西武百貨店社長を務めるなど、セゾングループの創業者でもあった方である。

西武グループの基をつくり上げた父・堤康次郎氏との確執は有名だが、独自に“生活総合産業”を掲げてセゾングループを築き、不動産事業も組み合わせた多角化戦略は、経済界で大きな注目を集めた人物だった。

私は、そういう実業家としての堤清二さんではなく、作家としての辻井喬さんしか知らない。共通の知人がいて、二年前に辻井さんとは本郷の小さな飲み屋でご一緒させてもらったことがある。

その時、歳も、キャリアも、まったく比較にならない私のような“若造”の言うことに辻井さんは、耳を傾けてくれた。それは、驚くほどの腰の低さで、話をさせてもらう私の方が恐縮してしまうような態度だった。

私は、辻井さんの死を大変残念に思っている。それは、辻井さんが数多くの名作を生んでこられた作家というだけでなく、日本文藝家協会の「言論表現問題委員会」の委員長を務めておられたからである。

私も日本文藝家協会の会員の一人で、すでにノンフィクションの書き手として、文庫も含めると24冊の著作がある。まだまだ辻井さんの足元には及ばないが、しかし、これからも自分なりのノンフィクション作品を書きつづけていくつもりだ。

そんな中で、日本の言論と表現が実に「危うい状況にある」ことを私は辻井さんに理解してもらい、これを守る活動を日本文藝家協会の言論表現問題委員会の委員長である辻井さんを中心に是非、大きな流れにして欲しいと思っていた。

そのことで、辻井さんに改めてお話したい旨の連絡を差し上げたら、辻井さんは体調を崩されているということだった。

あれは今年の初夏だっただろうか。体調が回復したらお会いしたい旨の丁寧なお便りを頂戴した。辻井さんの体調が回復されたら、私はまたいろいろなことを話せていただくつもりだった。

「秋頃には」という内容だったが、東北の山々が紅葉から雪景色に変わるようになっても連絡は来なかった。その代わりに飛び込んできたのが、昨日の辻井さんの死を告げるニュースだったのである。

私は、福島で取材をつづけている中で接したそのニュースにショックを受けた。その時、すぐ思い出したのが、今年6月に90歳で亡くなられた憲法学者の清水英夫さん(青山学院大学名誉教授)のことだった。

清水さんほど、「言論・表現の自由」を重視した憲法学者はいない。清水さんの口癖は、「言論・表現の自由とその他の権利が対立した場合は、まず言論・表現の自由を優先して考えるのが憲法の保障だ」というものだった。

それは、民主主義が「言論・表現の自由」によってこそ担保されることを知悉(ちしつ)している清水さんならではの考え方と信念によるものだった。そのことは、私のデビュー作でもある『裁判官が日本を滅ぼす』の中でも、詳しく書かせてもらった。

政界が司法への介入を露骨に始めた1990年代後半から、司法は、政治家をはじめとする公人たちの「人格権」を驚くほど重く見るようになった。それは、メディアに対する高額賠償化現象につながり、やがては、一般人の「人格権」の声高な主張につながっていく。

耳触りのいい「人格権」というものが何より重視され、司法による「言論・表現への介入」が急速に進んでいく状況を、私は本郷の小さな飲み屋でも、辻井さんに話をさせてもらった。前述のように、辻井さんは、若輩の私の話にこちらが恐縮するような腰の低さで耳を傾けてくれた。

辻井さんには、日本文藝家協会の言論表現問題委員会の委員長として、この日本の「言論・表現」を守る最前線で闘ってくれると、私は期待していた。それだけに、辻井さんの突然の死が残念でならない。

ここのところ、私のブログでも大正から昭和初期に生まれた方々の訃報への感慨が多くなっている。今週は、中国が尖閣を含む東シナ海上空に「防空識別圏」を設定したこと等、大きなニュースが相次ぎ、これらに対する私の見解も書きたかったが、残念ながら、連日、夜中まで取材に追われており、なかなかブログを書く時間がとれない。

せめて辻井喬さんの死に対しては少し書きたいと思ってパソコンに向かった。貴重な文化人の死を惜しむと同時に、言論・表現の自由を守る闘いは、辻井さんや清水さんが亡くなった今となっては、「私たちの世代の責任だ」という思いを強くしている。

カテゴリ: 司法, 随感

“輸送船の墓場”バシー海峡「生き証人」の死

2013.11.24

福島から帰京し、昨日は静岡の清水で一人の老兵の法要に参列した。先月、92歳で亡くなられた中嶋秀次さんの納骨式である。

中嶋さんは昭和19年8月、バシー海峡で乗っていた輸送船「玉津丸」が魚雷で沈められ、5000人近い仲間と共に海に放り出された。この船に乗っていた静岡の歩兵第13連隊の兵士の中で生き残ったのは僅かで、輸送船史上最悪の惨事と言われる。

中嶋さんは、そのまま炎天下のバシー海峡を12日間も漂流した。最初は筏(いかだ)に数十人が乗っていたが、仲間が次第に飢餓と渇きで幻覚に襲われ、気が狂ったようになって死んでいく中、唯一、生き残った。

バシー海峡は、“輸送船の墓場”と称される。アメリカの潜水艦と空からの航空攻撃で、日本軍の輸送船は次々と沈没し、犠牲者は10万人とも20万人とも言われ、今に至るも犠牲者の総数はわからない。それほど膨大な戦死者を生んだ“魔の海峡”である。

そのバシー海峡で奇跡の生還者となった中嶋さんは、戦死者の弔いのためにその後の人生を捧げた。私財を投じてバシー海峡を望む台湾の猫鼻頭に潮音寺(ちょうおんじ)という寺を建立し、仲間の慰霊に力を注いだのだ。

私は、中嶋さんが亡くなる1か月前の今年9月、2日間にわたって中嶋さんに貴重なお話を伺った。病床にあった中嶋さんは、それでも凄まじい「12日間の漂流」のありさまと、その後の仲間の慰霊に対する「思い」について、滔々と語ってくれた。

しかし、亡くなる3日前に、「門田さんにまだ話したいことがあります」という震える字でお手紙をいただいた。そして、10月21日、ちょうど学徒出陣70周年の当日、中嶋さんは息を引き取ったのである。

千代夫人によれば、私への手紙は、生前に書いた中嶋さんの“最後の文字”だったそうだ。静岡市清水区の曹洞宗・真珠院で、昨日11月23日お昼から中嶋さんの近親者による納骨式と四十九日法要が行われ、台湾からわざわざ潮音寺の活動に携わっている呉昭平さん(74)も参列されていた。

中嶋さんが私に「まだ話したいことがあります」という中身は何だったのか、どうしても私は知りたくなった。真珠院で1か月ぶりにお会いする千代夫人にそれを問うてみたが、残念ながら「見当がつかない」とのことだった。

大正生まれの方々の貴重な証言が消えつつある。去年から今年にかけて、私は何人の貴重な歴史の証言者を見送っただろうか。明日からは、次作の取材で、また福島に向かうが、ノンフィクションとは、つくづく時間と空間の勝負であることを感じる。

証言者が亡くなれば、どんなにお話を伺いたくとも、すべては闇に葬られる。ノンフィクションがひとつだけの取材に没頭できないのは、その時間と空間の勝負でもあるからだ。明日からも、そんな大きな制約の中で、できるだけ貴重な歴史の証言に迫りたいと思う。

カテゴリ: 歴史

脱して欲しい「教育理想論」

2013.11.20

今週も福島にいる。来年に出すノンフィクションの取材が佳境に入っている。拙著『死の淵を見た男』のいわば第二弾ともいうべき福島を舞台にした作品だ。

さすがに福島も日を追うごとに寒くなっている。今朝も宿泊しているホテルから見える標高二千メートル近い吾妻(あずま)連峰の山々の頂上付近が雪化粧し、本格的な冬の到来を感じさせてくれている。

ホテルで朝食をとりながら朝刊各紙に目を通していたら、朝日新聞の「天声人語」が政府の教育再生実行会議のことを取り上げていた。同会議が打ち出している「大学入試を人物本位に変える」方針について言及したものだ。

同会議は、大学入試で、学力テストだけでなく、面接や部活、インターンシップやボランティア、海外留学といった活動も評価することを打ち出している。いわゆる“人物本位の入試”というやつである。

天声人語はこれに対して、「疑問も直ちに浮かぶ」と前置きしてこう書いている。「面接突破のテクニックを学び、自己PRの材料集めに力を注ぐ。そんな本末転倒の対策を高校生に強いるのか」と。

珍しくこの部分について、私は朝日新聞に賛同した。全国で70万人近い大学受験者を人物本位で選考することなど、不可能であることは誰にだってわかる。しかし、綺麗事の大好きなこの手の会議では、必ずこういった理想論が「幅を利かす」のである。

しかし、この手の理想論は、弊害をもたらすのが常だ。1990年代半ば、文部省の中央教育審議会が個性重視の「ゆとり教育」なるものを唱えて、学習内容や授業時間数を「3割」も削減し、日本の子供たちの学力低下を生み出し、今では、その揺り戻しである「脱ゆとり教育」が主流になっているのは周知の通りだ。

当時、このゆとり教育の実態が世の親たちに危機感を生み、「学校の授業だけでは一人前の人間にはなれない。塾へ通わせるしかない」と、逆に塾通いの子供たちを増やしてしまい、「ゆとり」どころか、それと「正反対の現象」を生み出したことは記憶に新しい。

頭が柔らかい子供の頃に “礼儀作法”や“素読”を徹底的に叩き込んだかつての日本教育が“悪”とされ、個性やゆとりという“机上の理想”によって、教育水準が先進国で最低水準に落ち込んだ反省は、きちんとできているのだろうか、と思う。

今朝の天声人語は大学入試の「傾向と対策」のことにも触れている。前述の「面接突破のテクニックを学び、自己PRの材料集めに力を注ぐ」ことは、海外留学などの経験を積むことも念頭に置いており、「裕福な家庭の子に有利になるから不公平」というわけである。

私は、常に綺麗事を前面に押し出し、理想論を振りかざしてきた同紙がこのようなことを書くのは珍しいなあ、と思っていたら、この天声人語子は、私と同じ世代だとわかった。

というのも、文章の中に「今年落ちれば来年から共通1次だという時に受けた重圧を、いまだに思い出す。若い世代を必要以上に右往左往させてはいけない」と書いてあったからだ。

ああ、この人物は翌年に共通1次試験がスタートするという戦後最大の入試改革の前年、すなわち1978(昭和53)年に大学入試を受けた人物だ、と思った。私と同じだ。

大変革を翌年に控えて“狂乱入試”と名づけられたあの時の大学入試は異常だった。田舎から入試のために東京へ出てきた私は、その狂乱入試の真っ只中に放り込まれ、それまでの2倍の併願校をそれぞれの受験生が受けるという異常事態に圧倒されたものだ。

当時の受験生は、この変革を主導した永井道雄・元文部大臣をどのくらい恨めしく思ったかしれない。おそらく天声人語子も、同じなのだろう。

うわべだけの正義を論じることが大好きな朝日新聞に珍しいコラムが載ったのは、そういう理由があったのだろう。だが、実は、三木内閣の民間登用の文部大臣になったその永井道雄氏の前職は、「朝日新聞論説委員」である。いわば天声人語子と同じだ。コラムを読みながら、私は、「これは歴史の皮肉だなあ」と、思わず笑いがこみ上げてきてしまった。

実現するはずもない理想論を唱え、受験生たちを翻弄する大人たちの姿は、今も昔も変わらない。私は、「今こそ、詰め込み教育を!」と逆のことを叫ぶ人がいたら、その人の意見はじっくり聞いてみたい気がする。

なぜなら、中国や韓国、インドなど、かつての日本の詰め込み教育も“真っ青”という教育を展開している国の若者の方が、日本の若者を今、国際舞台で圧倒しているからだ。

私は、詰め込み教育とは、すなわち、同時に「辛抱」と「我慢」を教えることでもあると思っている。辛抱と我慢が忘れられつつある日本で、もう一度、世界のどこの若者にも負けない“厳しさ”を持つ人間を育てる教育を模索して欲しいと、私は思う。

もちろん、そんな中で優しさと豊かな感性を生み出すにはどうしたらいいか、ということも専門家の方々に是非、議論していただきたいと願う。早朝、福島のホテルのレストランで雪景色の吾妻連峰を見ながら、私はそんなことを考えていた。

カテゴリ: 教育

爆破テロ事件の「教訓」は生かされるのか

2013.11.09

今週は、福島県の小名浜、いわき、猪苗代、福島市と取材がつづいた。来年出版予定のノンフィクションの取材である。福島県は、浜通り、中通り、会津地方と、それぞれが気候も風土も「違う」ことで知られる。

最も寒い猪苗代は、紅葉の時期も過ぎ、朝夕は冷え込み、タクシーの運転手が「来週には、おそらく初雪ですよ」と言っていた。標高1800メートルの磐梯山に「三度雪が降れば、麓の町にも雪が積もるんですよ」という。いよいよ猪苗代や会津にも、本格的な冬支度の時期がやって来たようだ。

今週の大きなニュースは中国の山西省・太原市の共産党委員会庁舎前で、天安門に引き続き、またも爆破テロ事件があったことだ。だが、昨日、福島から東京へ帰ってきたら、さっそく「容疑者が身柄拘束された」という報道が流れていた。

容疑者は太原市内に住む前科のある41歳の男性とのことだが、あまりに素早い“拘束”に逆に疑問も湧いた。なぜ、それほどのスピード解決が可能だったのか。ひょっとして確実な目撃者でもいたのだろうか。報道統制された共産党政権下では「真実」が見えにくいため、何もわからない。

私は、中国で爆破テロ事件が相次いでいるこのタイミングに驚いている。つい10月末、私は、『狼の牙を折れ―史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部』というノンフィクションを小学館から上梓したばかりである。それは、かつて東京が同じように、いや、それ以上に爆破テロに襲われていたことを描いたものだからだ。

若い人には、かつて東京が「いつ」「どこで」「誰が」爆殺されてもおかしくない地だった、といったら、何を寝ぼけたことを言っているのか、と笑われるかもしれない。

しかし、それは真実である。1970年代、東京は、ある時はアメリカ大使館の施設へのピース缶爆弾が、またある時は郵便局内で小包爆弾が、さらには、警察幹部の自宅でお歳暮を装った小包爆弾が……という具合に、何者かによる爆破事件が連続し、多くの犠牲者が生まれていた。

極めつけの爆破事件は、1974(昭和49)年8月30日、東京駅の目の前で起こった「三菱重工爆破事件」である。死者8名、重軽傷者376名を出したこの史上最大の爆破テロを皮切りに、連続11件という企業爆破が繰り広げられた。そして、その謎の犯人グループは、「天皇暗殺」まで企てていたことがのちに判明する。

政治闘争の名を借りて、こんな爆破テロが東京で起きていたことを知る人がだんだん少なくなっている。これらの爆破テロに比べれば、中国での事件など、まだまだ可愛い方だろう。

罪もない一般の人々が爆殺される、こうした狂気の反権力闘争がかつて展開され、東京は、幸せな日常生活と家族の絆が、理不尽にも一瞬にして奪われるかもしれない“恐怖の地”でもあったのである。

この謎の犯人グループは、三菱重工爆破から9カ月後、警視庁公安部によって一網打尽にされた。しかし、その後に起こったクアラルンプール事件やダッカ事件という国際人質事件によって、超法規的措置として犯人の一部は出国していった。

そのまま犯人は現在も国際逃亡を続けており、事件はいまだ終結していない。私は、この事件の知られざる内幕を当時の公安捜査官の直接証言により、実名ノンフィクションとして描かせてもらったのである。

いま中国に“爆破テロの時代”が到来し、東京は来たるべき2020年のオリンピックに向けてテロ対策に動き始めている。今まで無警戒だった原発テロへの対策も進み始めた。

今年4月に起こったボストン・マラソンの爆弾テロ事件は記憶に生々しい。言うまでもないが、過去、オリンピックはテロの標的にされてきた。かつてミュンヘン五輪(72年)で起こったパレスチナ武装組織によるイスラエル選手団殺害事件や、アトランタ五輪(96年)での爆弾テロ事件も忘れられない。

五輪で国を挙げて「テロ対策」に取り組むのは、世界の常識となっている。今年9月、日本とアメリカは、「PCSC協定」なるものを結んでいる。テロへの関与が疑われる人物の入国を防ぐため、犯罪者の指紋データベース情報などをお互いが提供し合う協定だ。

だが、こういうデータベース情報に対する日本側の情報漏洩への警戒感の欠如が各国の懸念材料になっているのも事実だ。その意味で日本のテロ対策は、まだ「緒についた」ばかりなのである。

かつて世界のどの都市よりも爆破テロの恐怖に晒されていた東京。その時の捜査のノウハウは果たして、今も「生きている」のだろうか。

私は、東京が本格化させなければならないテロ対策に、かつての「経験」とそこで培われた「叡智」がどのくらい生かされるのか、疑問を持っている。人権弾圧が進む中国で今、起こっている連続爆破テロのニュースを追いながら、私はこの1週間、さまざまなことを考えさせてもらった。

カテゴリ: 事件

中国の「悲鳴」が聞こえてくる

2013.11.06

来年出版予定のノンフィクションの取材で、福島県に来ている。昨年上梓した『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』に次ぐ福島を舞台にしたノンフィクションになる。なんとか来年3月には、上梓したいと思う。

今日、いわき市のホテルで朝食をとりながら新聞に目を通していたら、読売新聞に面白い記事が出ていた。『ウォール・ストリート・ジャーナル』が10月30日付で掲載した記事を同紙と提携している読売新聞が解説面(13面)で詳しく紹介したものだ。

そこに、企業の不正を暴いたことをきっかけに警察に逮捕された中国人記者のことが出ていた。先日、拘束されたこの広東省『新快報』の陳永洲記者のことは、私も気になっていた。その顛末が書かれていたのである。

陳記者は、湖南省長沙市の建設大手「中聯重科」が大規模な不正経理をおこない、政府資産の損失にも関与していると報道した。中国では、政府の責任まで取り沙汰されるような告発記事を出すには、相当な覚悟がいる。

賄賂や不正が横行しているのは「中国社会の常識」でもあるから、特別にこれを告発するには、不正のカラクリと背後に誰がいるのかをきちんと把握しなければならない。すなわち相当な取材力と確かな告発者の存在が不可欠だ。

おそらくその上で掲載されただろう陳記者の記事は、やはり大きな反響をもたらした。しかし、それは、先進国の常識では「考えられない」反響だった。

たちまち陳記者は警察に「拘束された」のである。私は、陳記者が逮捕されたというニュースに接して、「いったい何を理由に逮捕されたのか」という疑問が湧いた。しかし、世界中の多くのジャーナリストのその疑念に中国当局は、凄まじい「答え」を出してきた。

なんと国営の中国中央テレビ(中国中央電視台 CCTV)が、陳記者が「記事は捏造でした」と供述しているようすを全中国に放映したのである。TVの画面は、第三者から賄賂を受け取り、中聯重科のイメージダウンを図るために「記事を書いた」と話す陳記者の姿を映し出したのだ。

CCTVの中国における力は絶大だ。国営放送であり、そこで報道されることは、そのまま中国共産党の「見解」でもあるからだ。それまで大見出しを掲げて「(陳記者を)釈放してくれ」という記事を掲載していた『新快報』も、このCCTVの報道に「沈黙」を余儀なくされた。

ただし、それは『新快報』が、CCTVに映し出された陳記者の告白供述を「信じた」のではなく、共産党政府の“怒り”と“本気度”を「悟った」からだろう。いうまでもないが、中国で陳記者のテレビに映った供述を鵜呑みにする人は、極めて少ない。

起訴もされていない人間の取り調べの模様が国営放送によって全国放映されるという事実そのものが、ことの異様さを物語っている。その供述を「真実である」と受け取るほど中国の人民もお人好しではない。これが「みせしめ」であることは多くの中国人が感じ取っているに違いない。

陳記者の記事は、「中聯重科」が取引先に対する債権を“額面以下”で銀行に売却している事実も指摘している。ウォール・ストリート・ジャーナルは、「これは、中聯重科が手形を払える顧客を探すのに苦労していたことを暗示しており、中国経済の成長鈍化と一致する事象だ」とも書いている。

経済成長の鈍化と不正の横行、そして言論弾圧……末期的な症状を呈し始めたその中国のことを考えていたら、午後、またしても衝撃的なニュースが飛び込んできた。

今度は、山西省太原市中心部にある中国共産党山西省委員会の庁舎付近で、連続爆発が起き、1人が死亡、8人が重軽傷を負ったというニュースである。報道によれば、約20台の車が爆発に巻き込まれたというから、相当な爆発だったと思われる。

10月29日のブログにも書いたように、日本から故郷・上海に帰った朱建栄・東洋学園大学教授の身柄拘束は、すでに丸3か月を超えた。ウィグル族への弾圧は、ついに世界注視の天安門でも自爆テロとなって現われた。

そして、今度は新聞記者への言論弾圧と共産党関係機関への爆破テロ事件である。中国で大きな“何か”が起こりつつあることは世界中のウォッチャーが感じている。

抑え込もうとしても、抑えきれない不満と怒りがさまざまなところから噴き出している。それは、あたかも、孫文をはじめ、多くの中国人が強大な清国に立ち向かい、辛亥革命に突き進んでいった100年以上も前のことを想起させる。

中国のバブル経済が破裂した時、人民の不満と怒りは一体どこに向かうのだろうか。今、盛んに、日本との関係修復に対する中国からのラブコールが水面下でおこなわれている。

しかし、それらに対して耳を傾ける必要はなく、これまで当ブログでも指摘させてもらった通り、日本は淡々と中国とつきあい、「距離」を置けばいいのである。決して、こういう問題が勃発した時にはコメントも出さないような日本の親中派政治家などの言うことを聞く必要はない。

就任早々、不穏な空気に包まれている習近平政権――悲鳴を上げているのは、中国人民の側ではなく、案外、「習近平」その人かもしれない。日本は距離をとって、そういう事情こそ冷静に見ていくことが大切なのである。

カテゴリ: 中国

球史に残る「日本シリーズ」に人々はなぜ感動したのか

2013.11.03

なぜ今年の日本シリーズは、これほどの感動をもたらしたのだろうか。7戦目までもつれこんで、王者巨人を3対0で破り、球団創設9年目の初優勝を遂げた楽天の歓喜が爆発するシーンを、私は瞬きもせず、見つめていた。

長く野球を見ているが、日本シリーズでこれほど感動した優勝は、記憶にない。前日、160球を投げて敗れた田中将大が9回のマウンドに上がった時、テレビで野球解説をしていた古田敦也、工藤公康の両氏も絶句していた。

ポストシーズンも含めて、昨年からの連勝日本記録を「30」でストップされた田中。その田中がパンパンに張った肩をものともせず、マウンドに上がったのである。

田中の将来を考えれば、あり得ない采配であり、野球の本場・メジャーから見れば、“クレイジー”な登板である。だが、試合後の星野監督のインタビューでそれが田中自身の「志願」であったことが明らかになった。

「どうしたって、田中が“行く”と。彼がいたから(楽天は)日本シリーズに出れたわけですから。最後は彼に託しました」と、星野監督が“内幕”を吐露したのだ。

こうして「あり得ないシーン」が現実に目の前で繰り広げられたのである。来年はメジャーに進むだろう田中の闘志と、ファンの必死の思いが共鳴して、最終回は異様な空気となった。それが、テレビの画面からも見てとれた。

そして、うねりのような東北の応援の声が、田中の背中を押し、鬼のような気迫で、ついに巨人をねじ伏せた。球史に残るシーンだった。

私は、田中将大投手を駒大苫小牧時代に取材したことがある。それは、拙著『甲子園の奇跡』(講談社文庫)に収められているが、彼にとっては、史上2校目の夏の甲子園3連覇を早稲田実業の斎藤佑樹投手に阻止された失意の頃だった。

遠く北海道の苫小牧まで赴き、田中にインタビューした私は、寡黙ながら秘めた闘志のこの青年の将来が気になった。あの時点で“ハンカチ王子”斎藤佑樹投手に水を開けられていた田中は、「絶対に負けない」という闘志で精進をつづけ、押しも押されもしない“日本のエース”となった。

来年は、田中の「師匠」でもあるダルビッシュ有とメジャーで投げ合うだろう。二人の実力は、そのままメジャーのトップを争うものになるに違いない。

先発の美馬、中継ぎの則本、そして抑えの田中。今日、楽天の3人が投げた“魂の入ったボール”は、間違いなく日本シリーズの歴史に残るものだった。闘志、気迫、魂……どんな言葉でも言い表せない投球だったと思う。

いったい何に感動したんだろうと、私はずっと考えていた。そして、あることに気がついた。それは、田中の志願の登板が、「自分のため」ではなく、「他人のため」だったことである。

田中が「自分のこと」だけを考えていたなら、肩を壊す危険性もある連投は絶対に「避けた」だろうし、「避けなければ」ならなかった。メジャーへの挑戦という大いなる未来があるなら、なおさらだ。だが、田中は、「自分のこと」よりも、「腕が千切れても登板を」という方を選んだのである。

私は、あの阪神淡路大震災の時に、イチローを擁したオリックスが“がんばろうKOBE”をスローガンに掲げて、震災の年(95年)と、翌年(96年)にパ・リーグ連覇を成し遂げ、2年目に「日本一」となったことを思い出した。

あの時、阪神淡路大震災の被災者がどれだけ勇気づけられたか知れない。一方、若い球団である楽天は、オリックスのように震災のその年にリーグ優勝することはできなかったが、東日本大震災から3年目に「リーグ優勝」と「日本一」を成し遂げたのである。

楽天の優勝をあと押しする人智では推し量れない“何か”があったのかもしれない。しかし、それは、田中が最終戦に見せた「自分のため」ではなく、「他人のため」という姿が呼び寄せたような気がする。

それは、田中にかぎらず、3番打者の銀次をはじめ、岡島、藤田、嶋……等々、ナインに共通していたように思う。そこが、観る人をあれほど感動させたのではないだろうか。2013年プロ野球の締めくくりに相応しい感動の試合を楽しませてもらった。

カテゴリ: 野球

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