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「命を守る東京」へ舛添都知事への注文

2014.02.15

舛添要一氏が都知事選で圧倒的な勝利を収めてから、1週間が経った。都民の一人として、舛添都知事には、都民の生活に直結した都政を是非、お願いしたい。

東京は人口過密化による居住環境の悪化が切実で、住人の高齢化による高齢者ホームの問題や待機児童問題など、それこそ難題が山積している。「少子化」をいくら嘆いても、子供を育て、老人が幸せに過ごすことができない環境でそれが「解決」されるはずもなく、これらの大問題に対して、新都知事がひとつひとつをどう解決していくか、注目したいと思う。

その意味で、都知事選の争点が「原発ゼロか、否か」といった“国政問題”になりかかった時、私は都民の一人として「もっと都民にとって切実な問題」を議論して欲しい、と思ったものである。

私は、「命を守る東京」というキャッチフレーズを新知事には掲げて欲しいと思っている。都知事の最大の使命と責任が、「都民の生命・財産」をいかに守るか、というものであることは論を俟(ま)たないだろう。その観点から、是非、都知事に注文したいことがある。

それは、やがて来るであろう「東京直下型地震」への対策だ。数多く注文はあるが、今回は、「瓦礫の下の都民の救出」という観点で注文してみたい。私は、これまで阪神淡路大震災や東日本大震災など、地震取材をやってきた経験がある。

多くの被災者に話を伺っており、実際に瓦礫を前にした経験から、私には思っていることがある。激震によって家屋が倒壊した時、その瓦礫の中から生存者を救出することは極めて難しい。なぜなら、取り除かなければならない家屋の「重さ」は凄まじいものだからだ。

私は、これまでの震災で、自宅の前で「茫然と立ち尽くす」被災者の姿を数多く見た。それは、文字通り、「何もすることができず」、ただ「立っている」のである。崩れた家屋の重さは人間の力でどうこうできるものではない。

たとえ自衛隊員が“素手で”やって来ても、圧倒的な瓦礫の前では、同じように立ち尽くすしかない。この時、主役になるのは、あくまで「重機」である。いわゆる瓦礫や土砂の除去に威力を発揮する“タイヤショベル”だ。

私は東京直下型地震で首都が壊滅的な被害を受けた時、「救出」は自分たち自身でやらなければ、瓦礫の下になった人々の命を助けることはできないと思っている。

それは、東京の人口があまりに多く、エリアも広大すぎるからだ。東京都民は、1329万人もいる。おそらく全国から、あるいは国際的にも数多くの“救出の手”が差し伸べられるだろうが、それでもほとんど自分たちのところにやって来てくれると思わない方がいい。

1329万人という数字は、それほど膨大だ。激震で倒壊家屋の下になった人々を救出するのは、その地区の住民自身であり、そして、それには、「重機が不可欠」なのだ。災害における人命救助の目安とされる「72時間」以内に、残念ながら外部から運ばれてきた重機が自分たちのところにやって来てくれる可能性は「極めて小さい」と言わざるを得ない。

では、どうしたらいいだろうか。それは、日頃から「近くに重機を置いておく」しかないのではないか、と思う。そして、それを動かせる人を住民の中から「登録」しておき、その人たちに防災の日に必ず試運転してもらい、「もしもの時」に備えるのである。

都の建設局の2013年4月の調査によれば、東京には、1万か所を越える数の公園がある。国営公園や都立公園、区市町村立公園が7688か所、区市町村が設置する児童遊園などの都市公園以外の公園も3529か所ある。合わせれば、実に計1万1217か所もの公園が東京には存在するのである。

これらの公園に、タイヤショベルなど重機を置いておくことはできないだろうか。その防災倉庫の中には、もちろんツルハシやスコップもできるだけ置いて欲しいと思う。重機が、1台100万円するなら1万台で100億円、1台200万円なら、1万台で200億円ということになる。

大変な出費には違いないが、「もしもの時」に備えるためなら、きっと都民も賛成するだろう。そして1万台もの重機が“備蓄”されるなら、日本中どこで大きな地震が起ころうと、これらを運べば、沢山の人たちの救出に役立つだろう。オリンピックの施設を建設するだけでなく、こういう災害対策にも、是非、新都知事には頑張って欲しい。

私は、都内の住宅密集地を歩くたびに、「ここが激震に見舞われたらどうなるだろうか」と考えてしまう。そして、これまで取材してきた被災地の悲惨なようすが思い浮かぶ。舛添知事には、是非、「命を守る東京」というキャッチフレーズのもとに、都民の「生命」を第一に考え、そのために手腕を発揮して欲しいと思う。

カテゴリ: 地震

都民は、ついに煽られなかった

2014.02.09

あまりにあっけない結果だった。注目の東京都知事選は、投票が締め切られた2分後、舛添要一氏が「午後8時2分」に支持者と共に「万歳」をするという幕切れとなった。

都知事選は、日本の選挙の中で唯一、“制御のきかない”選挙である。有権者1082万人という想像を絶する規模であり、世論調査なども、ほとんど参考にならない。知名度が最大当選要因と言われる所以である。

それだけに、これほど圧倒的な差がつく都知事選となるのは意外だ。私は多くの国民と同じく細川護煕氏が「どこまで票をとるか」に注目していた。

それは、小泉元総理が、「この戦いは、原発ゼロでも日本が発展できるというグループと、 原発なくしては発展できないというグループとの争いだ」と言って、細川氏を担ぎ出したからである。

つまり、「脱原発」というワン・イシューで小泉氏が細川氏を擁立し、選挙演説でも圧倒的な聴衆を集め、一時はブームになるかと思われたからだ。

しかし、都知事選なのに「なぜ原発なのか」という冷ややかな見方は最後まで払拭(ふっしょく)されなかった。都知事選に原発問題を持ち込んだことに、「都民をバカにしているのか」という声を、私は何人もから聞いた。

東京には、人口の過密化による居住環境の悪化、住人の高齢化による高齢者ホームの問題、待機児童問題など、喫緊(きっきん)の課題がそれこそ山積している。そんな中で、選挙に「原発」を持ち込み、しかも、「この戦いは、原発ゼロでも日本が発展できるというグループと、 原発なくしては発展できないというグループとの争いだ」と“レッテル化”したのである。

今回、細川氏が「3位」に終わるという選挙結果に一番、驚いたのは、その小泉さん本人だったと思う。それは、郵政選挙で成功したワン・イシューのこの選挙手法、つまり、 “レッテル選挙”が「通用しなかった」ことだ。

それは、小泉氏に煽られるほど都民は「愚かではなかった」からだろう。そして、そもそも小泉さんは完全に勘違いしていたことがある。それは原発問題を都民は「それほど単純に見ていない」ということだ。

多くの国民、都民は、将来的には、原発がなくなって欲しいと思っているに違いない。私は、あの福島原発事故の真実を描いたノンフィクション作品『死の淵を見た男』を一昨年上梓した。

あの過酷な事故は、福島の浜通りに生まれ育った現場のプラントエンジニアたちが、命を賭けて、汚染された原子炉建屋に突入を繰り返し、ぎりぎりで格納容器の爆発を回避したものである。

官邸や東電本店からの「海水注入中止命令」にも逆らい、吉田昌郎所長のもとで踏ん張った彼ら福島の男たちがいなければ、日本は実際にどうなっていたかわからない。

つまり、一歩間違えたら、日本そのものが崩壊する危険性を持っているのが原子力エネルギーである。それだけに、「脱原発」ができるなら、本当にありがたいと思う。

だが、現実には、原発がストップした震災以降、液化天然ガス(LNG)の輸入による火力発電に頼らざるを得ず、消費税にして2パ―セント分にあたる年間4兆円近い輸入増によって「円」が外国に流出している事態がつづいている。

震災以降、すでに日本の貿易赤字の累計は「20兆円」を超えている。また火力発電による環境破壊の問題も懸念される。現在、想定されている自然エネルギーでは、「エネルギー問題」を解決できそうもないからこそ、国民は悩んでいるのである。

また、資源小国である日本で、もはや原子力への人材確保が見込めなくなり、安全な「第四世代の原子炉」が生まれる可能性が極めて小さくなったことも残念だ。

そんなエネルギー問題に対して、小泉氏は、「即、原発ゼロだ」「イエスか、ノーか」という“土俵”をつくった。しかし、都民は、そんな単純な土俵には乗って来なかったのである。

その意味で、今回の都知事選は、レッテル選挙で有権者が「煽られないこと」を示した点で、極めて注目すべきものだったと思う。舛添要一氏が都知事に相応(ふさわ)しいかどうかは別にして、この点においては、有意義な選挙戦だったのではないだろうか。

カテゴリ: 政治

ついに“デッドライン”を越えてしまった中国

2014.02.02

「ああ、中国はついに“デッドライン”を越えてしまったなあ」。私は最近、そんな思いがしている。中国というより「中国共産党」と言い換えた方がいいかもしれない。「ついに中国共産党は“デッドライン”を越えてしまったなあ」と。

1月16日付のフランスの「ル・フィガロ」に駐フランス中国大使が「日本の首相の靖国参拝が中国に衝撃を与えた理由」と題し、「ヒトラーの墓に花をたむける人がいると想像してみて欲しい」と批判した。

4日後の1月20日、今度は程永華・駐日中国大使は、四谷にある上智大学の講演会で、靖国参拝について「日中関係にとって致命的な打撃だ。最後のレッドラインを踏み越えた」と言ってのけた。

そして1月29日には、国連安保理の公開討論会で中国の劉結一・国連大使が約50カ国の大使を前に「歴史を変えようとする試みは地域の平和を揺るがし、人類の平和的発展に挑戦するものだ」と日本を激しく非難した。

そして昨日(2月1日)、ドイツで開かれているミュンヘン安全保障会議で、中国全国人民代表大会の傅瑩・外事委員会主任委員が「最も重要なのは日本が第2次大戦の犯罪を否定していること。歴史教育の失敗だ」「日本が大戦で起きたことに誠実に向き合えば、周辺国と和解できる」「(尖閣の)主権は放棄しない」と熱弁を振るったのである。

つまり、中国は、世界に向かって「日本は異常な国である」という発信をしつづけている。私は、戦後一貫して平和の道を歩んできた日本を、ここまで罵る中国(中国共産党)の姿を見て、「ああ、これでもう中国共産党はデッドラインを越えてしまった」と思ったのである。

それは、日本人がもう中国(正確には、中国共産党)のご機嫌をとったり、へり下ったりする必要はなく、向こうから近づいて来ないかぎり、「相手にしなくていい」存在になったということである。

前回のブログで私は、中国に初めて行った頃の“日本人に優しい中国人”のことに触れさせてもらった。日本人に敬意を持ってくれて、優しく接してくれたあの頃の中国人が、私は懐かしい。

いちいちエピソードを挙げればきりがないが、1982(昭和57)年に初めて訪中し、1か月半も北京で暮らした私は、その後、90年代半ばまで毎年のように中国に行き、優しく好意的な中国人に数多く出会った。

いろいろ相談に乗ってもらったり、力を貸してくれた底抜けに人がよかった中国人を私は数多く知っているし、今も感謝している。しかし、これまでブログで繰り返し書いてきた通り、90年代の江沢民時代からの徹底的な「反日教育」は、今の30代半ば以下の中国人を「日本は憎悪の対象」としか見ない人間にしてしまった。

「教育の失敗」というのなら、本当に中国は“歴史的な”教育の失敗を犯してしまったと思う。鉄は国家なり、の言葉があるが、日本人は、中国の粗鋼生産など、インフラを整備させるためにとことん尽力し、そして、有償無償、さらに民間を合わせると総額6兆円を超える対中援助をおこなってきた。しかし、いまその私たち日本人に対して「おまえたちの役割は終わった」として、中国共産党は日本と日本人を“切り捨てた”のである。

私は、靖国参拝を「ヒトラーの墓に花を手向けることだ」と世界に向かって公言した中国共産党に対して、日本人は怒りを表現していいと思う。

靖国は、明治2年に「東京招魂社」としてスタートし、吉田松陰をはじめ、ペリー来航以来の国事殉難者およそ250万人の魂を御祭神とする。私の郷土の先輩でもある坂本龍馬も、中岡慎太郎も、武市半平太も、その中に入っている。

太平洋戦争において、子孫を残すこともできず無念の思いを呑んで死んでいった若者たちをはじめ、気の遠くなるような数の魂が祀られている神社でもある。

国の礎となって死んでいった先人たちに、後世の人間がその死を悼み、感謝の気持ちを伝え、「これから、皆さんのように無念の思いで死んでいく人が出る世の中にならないよう誓う」のは大切なことだと私は思う。先人の労苦に頭(こうべ)を垂れることは「人の道」としてあたりまえの行為だからだ。

しかし、これを「ヒトラーの墓に花をたむけること」と中国は言ってのけた。極端な言い方をすれば、「坂本龍馬をはじめとする250万人の国事殉難者」は、「ヒトラーである」と、中国に言われたのである。

後世の日本人が、国のために死んでいった先人を悼む行為を「なぜ、ここまで悪しざまに言われなければならないのか」と思うのは自然の感情だろう。

私は、多くの日本人と同じく、ここまで内政干渉、すなわち日本人の精神文化にまで干渉されることに「ノー」と言いたい。しかし、別に、彼(か)の国と同じレベルに立って、「ことを荒立てる必要はない」と思う。

ただ、これまでも繰り返し主張してきたように、中国とは「距離を置く」ことを考えて欲しい。つまり、経済的な関わりをできるだけ少なくしていって、日本人は、“脱中国”の姿勢とスピードを顕著にすべきだと思う。

あの巨大な中国市場をあきらめることは、たしかに日本の企業にとって、これほど苦しいことはないだろう。しかし、是非、そうして欲しいと思う。多くの国事殉難者をヒトラーと称して非難する国に、少なくとも膝を屈してまで商売することはやめて欲しい。

その意味で、日本経済は「臥薪嘗胆」の時代が来たと思う。要するに、“我慢比べの時代”が来たということだ。しかし、これは永遠につづくわけではない。中国共産党が、「そこまで日本は怒っているのか」と思うまで、臥薪嘗胆をつづけようということである。

中国は、よく「面子(メンツ)の国」と言われる、しかし、それより明確なのは「功利の国」だということである。自分たちが損をすることがわかっていて、それでも面子を押し通す国柄ではない。そのあたりは、“武士は食わねど高楊枝”という日本人とは根本的に異なるのである。

中国の人権活動家、胡佳(こか)氏が、つい1月26日、北京市公安当局に一時、身柄拘束された。胡氏は拘束前、別の人権活動家への有罪判決やウイグル族学者の連行をネットで取り上げたことにより、「身柄拘束された」と見られている。

昨年7月に身柄拘束されて以来、半年間も“思想改造”を受けたとされる朱建栄・東洋学園大学教授は、この1月17日になって、やっと解放された。中国の思想弾圧と人権抑圧は、国際人権救済機構「アムネスティ(Amnesty International)」の大きな懸念であり、課題になっている。

その国が、日本に対して、ここまで苛烈な内政干渉を強めている。日本は、経済で自らの“怒り”を表わせばいいだろうと思う。いや、それしか方法はないのではないだろうか。戦後一貫して「自由」と「民主主義」を追及してきた日本が、中国にここまで言われる情けなさと愚かさを日本人は噛みしめるべきだろう。

私は、日本を非難している「中国」とは、「中国共産党独裁政権」であり、反日教育を受け続けた30代半ばより若い世代が中心であることを忘れてはいけないと思っている。

もし、日本人が怒りを向けるなら、それは中国人に対してではなく、「中国共産党独裁政権に対して」であることを忘れてはならないという意味である。なぜなら、胡佳氏をはじめ、多くの中国人が今も独裁政権下で弾圧を受けつづけている。自由に物も言えない社会で彼らは暮らしているのである。

あの独裁政権が、中国人民に対して向けている高圧的で自由圧殺の姿勢を、「中国人民」だけでなく、「日本」に対しても向けてきたのだ。私は、彼ら中国人民も同じように中国共産党の迫害を受けている人たちであることを覚えていて欲しいと思う。

最近、私は講演をする度に、「門田さんは、中国への厳しい指摘が多いですね」と声をかけられることが多い。そういう時、私は、「はい。私は本当の意味の“親中派”ですから」と答えている。

日本の「親中メディア」は、中国共産党独裁政権にひれ伏しているのであって、それが「親中だ」と完全に勘違いしている。私は自分が若い頃、いろいろ助けてもらった中国人のことを今も時々、思い浮かべる。

文化大革命の地獄の十年を耐え抜き、日本人にも敬意と尊重の気持ちを忘れず、底抜けに人がよかったあの頃の中国人に、なんとか幸せでいて欲しいと思う。彼らのことを心底案じている点で、私は本当の意味での“親中派”だと思っている。

すなわち臥薪嘗胆をつづけたあとの日本人は、共産党独裁政権下で苦労し、迫害を受けている中国人たちになんとか手を差し伸べて、いつかは真の意味の「日中友好」を成し遂げて欲しいと思うのである。

カテゴリ: 中国

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