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なにが「袴田巌」を死刑から救ったのか

2014.03.28

日本列島を駆け抜けたビッグニュースだった。「これ以上、拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」「証拠が捏造(ねつぞう)された疑いがある」。村山浩昭裁判長の痛烈な文言と共に、48年という気の遠くなる年月を獄中で過ごした袴田巌死刑囚(78)の再審請求が認められ、史上初めて「直ちに釈放」された。

3月27日午後5時20分、東京拘置所から釈放された袴田死刑囚の姿は、自分に起こっている“現実”をきちんと理解できているのかどうか、判断しかねているように私には見えた。

拘禁症による心神耗弱と糖尿病の悪化という病状は、その姿が如実に物語っている。 1966(昭和41)年に静岡県で一家4人が殺害、放火されたいわゆる「袴田事件」は、再審の厚い壁が「ついに破られた」のである。

私は、「ああ、“裁判員制度”が袴田死刑囚を解き放ってくれた」と、その袴田死刑囚の姿を見ながら思った。すなわち「司法制度の改革」が、長い拘禁生活下にあった袴田死刑囚をついに解き放った、と思ったのである。

これには、少々の説明を要する。袴田死刑囚と「裁判員制度」とは表面上、何の関係もないからだ。今回の決定の最大の要因は、袴田死刑囚の姉・秀子さん(81)が申し立てた第二次請求審で、新たに実施した「DNA型鑑定」の評価によるものだ。

しかし、私はそれと同等、いやそれ以上に、「裁判員制度」こそが、袴田死刑囚釈放の“主役”だったと思う。

現場近くのみそ工場タンクから発見され、確定判決が「犯行着衣である」と認定した5点の衣類のDNA型鑑定結果を、弁護側は「これは、再審を開始すべき明白な新証拠に当たるものだ」と主張した。

半袖シャツに付着していた「犯人のもの」とされる血痕について、2人の鑑定人が袴田死刑囚のDNA型と「完全に一致するものではなかった」とした。しかし、検察側の鑑定人は「検出したDNAは血痕に由来するか不明」と信用性を否定したため、検察側は「鑑定試料は経年劣化している。鑑定結果は到底信用できない」と訴えた。

ここで起こったのが、600点の証拠の「初開示」という出来事だった。これは、袴田事件にとって「画期的なこと」だった。この第二次請求審で、静岡地裁の勧告を受けた検察側が、袴田死刑囚が供述した録音テープ、関係者の供述調書……等々、600点に及ぶ新たな証拠を弁護団の前に「開示」したのである。

これによって、当時の「捜査報告書」の内容が新たに判明した。そこには、袴田死刑囚と同じ社員寮にいた同僚が「(事件時の放火による)火事をサイレンで知って表に出る時、袴田がうしろから来ていた」と話していた記述があった。袴田のアリバイを補強する話である。

また、犯行着衣とされたズボンをつくった製造会社の役員の供述も開示された。これによって、ズボンについていた布きれにあった記号「B」が示していたのは、確定判決が認定していた「サイズ」ではなく、「色」だったことがわかったのである。

「このズボンは、袴田死刑囚には到底、履くことはできない。これは彼が履いていたものではない」。弁護団のその主張が、信憑性を帯びることになったのである。

なぜ、こんな証拠が次々と明らかになったのだろうか。この背景にあるのが、2009年5月にスタートした「裁判員制度」である。国民が裁判の過程に参加し、裁判の内容に国民の健全な常識を生かすために始まった裁判員制度。この国民の裁判への参加には、大きな条件があった。

審理が長期に渡れば、裁判員の負担は、はかり知れない。そこで、審理の迅速化と、そのための徹底した要点の整理が迫られた。公判が始まる前に争点を「絞り込む」システムが裁判員制度を睨んで、でき上がった。

それが、「公判前整理手続」である。裁判員制度に先立つ2005年11月に刑事訴訟法の改正によって、この制度は始まった。公判が始まる前に、裁判官、検察官、弁護人の間で徹底した要点整理をおこなうのである。これにより弁護側が要求する証拠物件は、検察側はすべて開示しなければならなくなった。

すなわち弁護側が要求すれば、捜査官が捜査の過程でメモした警察手帳の中身から、留置場で朝、昼、晩、容疑者が「何を食べていたか」という記録に至るまで、この公判前整理手続の場に出さなければならなくなったのである。

今回の再審決定の重要なポイントは、2010年5月、裁判官、検察側、弁護側の3者協議の席上、当時の原田保孝裁判長が「検察はそこまで“捏造でない”と言うのなら、反論の証拠を開示したらどうですか」と、検察側に初めて証拠開示を迫った「瞬間」と言われている。

それが、前年(2009年)にスタートした裁判員制度と、さらにそれに先立つ公判前整理手続によるものであったことは、明らかだろう。そして、その姿勢は今回、再審開始の決定をおこなった後任の村山浩昭裁判長にも引き継がれ、厚い「再審の扉」はこじ開けられたのである。

今回の袴田事件だけではない。公判前整理手続というシステムは、刑事裁判に画期的な変化をもたらしている。これまで、なぜ日本の刑事裁判における有罪率が「99%」を超えるという“異常な”数字を誇っていたか、ご存じだろうか。

それは、井上薫・元裁判官と私との対談集『激突! 裁判員制度―裁判員制度は司法を滅ぼすvs官僚裁判官が日本を滅ぼす』(WAC)にも詳述されているが、これまでの日本の刑事司法は、極めて冤罪を起こしやすい体質を持っていた。

それは、検察が法廷に出す証拠は、有罪を「勝ち取るだけのもの」であり、それに不都合なものは「隠されて」いたのである。たとえば、A、B、C、D、Eという5種類の関係者の供述調書があり、そのうち、有罪に有利なものがAとCとDだった場合、有罪を勝ち取るために不利なBとEの供述調書は、法廷に出さなくてもよかった。

たとえ弁護人から「BとEの供述調書を出してください」という要求があっても、同じ“官”同士である裁判官から「その必要はありません」と却下されれば、それで終わりだったのだ。そもそも弁護側は、「BとEの供述調書」が存在することを知らないまま、判決が下されることが多かったのである。

しかし、日本の99%の有罪率を支えたその悪しきシステムは、裁判員制度を睨んでスタートした公判前整理手続によって崩壊した。そして、定着してきたこの公判前整理手続の習慣は、袴田事件の再審をめぐる攻防にも決定的な影響を与えたのである。

私は、ここまで検察を追い込んでいった“手弁当”の弁護士たちと支援者たちの「執念」と「努力」に心から敬意を表したい。そして、日本の司法を根本から変えつつある「裁判員制度」というものに、あらためて厚い評価をしたいと思う。

カテゴリ: 事件, 司法

愛すべき隣人「台湾」の未来と「日本」

2014.03.25

昨日は、夜、姫路で講演があったので、途中、甲子園で明徳義塾(高知)と智弁和歌山(和歌山)の試合を観戦してから姫路に行き、講演のあと、地元の人たちと夜遅くまで飲んだ。結局、ホテルに入ったのは、もう午前1時近かった。

甲子園で観た明徳義塾と智弁和歌山の試合は、激戦だった。2002年夏の甲子園決勝の再現で、しかも甲子園初の監督「100勝対決」である。

甲子園での勝ち星が史上最多の和智弁・高嶋仁監督(63勝)と史上5位の明徳・馬淵史郎監督(42勝)という、合わせて105勝の名将対決は、試合前、両監督がはからずも「3点勝負」と言っていた通りの展開になった。

1対1で延長にもつれ込んだ試合は、和智弁が延長12回表にホームランで突き放すと、その裏、明徳がスクイズで同点に追いついた。そして、この回に決着がつかなければ再試合となる延長15回、和智弁が二死満塁と攻め立てたが、明徳はセカンドゴロでピンチを凌ぎ、その裏、今度は明徳が一死満塁からワイルドピッチでサヨナラ勝ちするという幕切れとなった。

延長戦での満塁の重圧は、言葉では表現しがたい「何か」がなければ凌げない。「精神力」や「球際(たまぎわ)の強さ」という言葉をもってしても、それを表わすことはできないだろう。最後に両チームの明暗を分けたのは、その「何か」だったように思うが、それはスポーツ・ノンフィクションも手掛ける私にとっては、永遠のテーマでもある。

私は、延長10回を終わったところで姫路に向かったため、あとはワンセグでの観戦となったが、画面から少しも目を離すことができなかった。久しぶりに“死闘”という言葉がふさわしい試合を堪能させてもらった。両チームの選手たちの日頃の精進に感謝したい。

昨日、私には、ずっと気になっていたニュースがあった。甲子園とはまったく関係がない海の向こうの台湾のニュースだ。中国と調印した「サービス貿易協定」の承認に反対する学生たちが台北の立法院(日本の「国会」にあたる)の議場を占拠して6日目となった3月23日夜、今度は通りを隔てて北側にある行政院(内閣)の庁舎に突入し、学生ら32人が逮捕されたのである。

非暴力での「立法院」占拠が、一部の学生によって「行政院」への突入に発展したのは、残念だった。政府に「強制排除」への口実を与えるからだ。しかし、大半は今も非暴力のまま、立法院とその周辺での座り込みをつづけている。

ことの発端は、中国と台湾が相互に市場開放促進に向けて調印した「サービス貿易協定」である。この協定によって中国と台湾が相互の市場開放を取り決めたのである。

しかし、台湾の人々に中身を開示しないまま秘密裏に結ばれた協定に反発が起こり、さらに議会で多数を占める国民党がこれを「強行採決」しようとしたことが、学生や民衆たちによる「立法院占拠」につながった。

その非暴力の座り込みをつづける中にいる台湾の若い女性がyoutubeにアップした映像が話題になっている。国会を取り巻く群衆をバックにした学生と思われる若い女性は、日本語でこう語りかけている。

「私は台湾人です。私は若いです。そして、この国の民主は、さらに若いです。台湾の民主は、私たちの親の世代の努力と犠牲で、ヨチヨチしながら成長してきました。この国の民主の歩みは、私たちの今までの人生でもあります」

そう語る二十歳前後と思われるこの女性は、民主的なプロセスを無視した協定が自分たちの未来の労働条件を悪化させ、就職機会を圧殺することを訴えている。映像はこうつづく。

「いま台湾はかつてない危機に直面しています。でも、この時代に生まれて、ここにいられる私たちは幸せです。われわれが抵抗をつづければ、この国の未来は変わり、新しい世界は開かれると信じているからです」

「現在、私は国会にいます。死にそうになっている台湾の民主のために、力を尽くそうと思います。世界中の人々にいま台湾で何が起こっているのかを知って欲しいと思います。もし、あなたも、民主が守られるべき価値があるものだと信じていたら、私たちと一緒にその価値を守りましょう」

淡々とそう語る女性の映像を見て、私は、初めて台湾を訪れた戒厳令下の27年前の台湾を思い出した。1987年2月、初めて訪台した私は、戒厳令下で民主化を求めるうねりのような若者たちの姿を見た。5か月後、実に40年近くつづいた戒厳令が、蒋経国総統によって解除になった。

戒厳令下では、いつ、どこで、誰が連行されても、わからない。実際に数多くの台湾人が虐殺された「二・二八事件」以降、夥しい数の台湾人が警備総司令部に連行され、家族のもとに二度と帰ることはなかった。中国共産党との国共内戦に敗れた蒋介石率いる国民党は、50年も日本の統治下にあった台湾を「思想監視」によってしか、治めることができなかったのである。

まだ戒厳令下だった1987年前半、共産党のスパイを通報した者には、700万元の報償が与えられることを告示した「共匪通報700万元」の貼り紙が地方の空港に貼られていたことを思い出す。

その戒厳令が、若者の民主への叫びによってついに「解除に追い込まれた」のが1987年7月のことだった。私は、「ああ、この女性は、あの時の若者たちの子供の世代なんだ」と思い至った。

たしかに戒厳令解除から始まった「台湾の民主」は、それから30年近くを経た現在、新しい局面を迎えている。それは、あの頃は想像もできなかった中国の経済大国化であり、まさにその中国に呑み込まれようとする台湾の現状である。

立法院を占拠した若者は、この協定をきっかけに馬総統の「年内訪中」「初の中台首脳会談」というシナリオへの恐れを抱いているのではないだろうか、と思う。実際にこの協定が抵抗もなく通っていたら、その可能性は極めて高かっただろう。

そして、その先にあるのは、「台湾の香港化」である。すなわち台湾の中国への隷属化にほかならない。つまり、今回の「サービス貿易協定」反対は、イコール「台湾の中国への隷属化」への反対であろう、と私は思う。

そのことを考えると、私は深い溜息が出る。中国と韓国が手を携えて日本に攻勢を強めている中で、台湾は、日本に尊敬と好意を寄せてくれている貴重な隣人だ。日本のことが大好きな「哈日族(ハーリーズ)」と呼ばれる台湾人をはじめ、これほど日本の「存在」と「立場」を理解してくれる“国”は珍しい。

あの東日本大震災の時に、わがことのように涙を流し、あっという間に当時のレートで200億円を超える義援金を集めて、日本に送ってくれたことも記憶に新しい。

その台湾で、いま「中国への隷属化」に対する学生と民衆の抵抗が始まっているのである。地図を見てみればわかるように「尖閣諸島」の情勢は、中国が台湾を呑み込んだ時に、大きな変化を見せるに違いない。

中国と台湾が、ともに尖閣の領有を主張し、アメリカが中国のロビー活動によって、尖閣を日米安保条約「第5条」の「適用区域ではない」と譲歩した時、尖閣は中国の手に落ち、さらに沖縄にも、激変が生じるだろう。

そんな歴史の狭間で、台湾の学生たちが、必死の抵抗を試みている。それでも、馬英九総統は、立法院とその周辺に集まる群衆を強制排除することには極めて重大な決断が必要となるだろう。

なぜなら、「民主国家」である現在の台湾では、非暴力の座り込みを強制排除すれば、さらに大きな民衆の反発が湧き起こることは必至だからだ。これが中国では、そうはいかない。言論と思想の自由がない共産党独裁政権の中国では、たちまち民衆は排除され、厳しい弾圧を受けるだろう。

考えてみれば、この「座り込み」こそ、中国と台湾の「差」なのである。将来、今回の座り込みが、その「差」を守るため、すなわち「民主」を守ろうとする歴史的な学生と民衆による行動だったとされる日が来るのだろうか。

「この時代に生まれて、ここにいられる私たちは幸せです。われわれが抵抗をつづければ、この国の未来は変わり、新しい世界は開かれると信じているからです」。果たして、このyoutubeを通じての台湾の若き女性の訴えは、どれだけの人々の共感を呼ぶだろうか。

戒厳令の解除へと導いた彼らの親の世代の奮闘をこの目で見たことがある私は、台湾という愛すべき隣人の動向を、心して見守っていきたいと思う。

カテゴリ: 中国, 台湾

「治に居て 乱を忘れず」と生命の尊さ

2014.03.22

18日に高知で桜の開花宣言があったが、さすがに西日本は温かくなっていることを実感した。本日、私は次の作品にかかわる海軍の元兵士にお会いするため、山口県岩国市にやって来た。

昭和19年12月30日に米潜水艦の魚雷攻撃によって沈没した駆逐艦・呉竹(くれたけ)の生き残りのお二人である。“輸送船の墓場”と呼ばれた台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で沈んだ「呉竹」には200人近い乗組員がいたが、今日、話を伺った元機関兵(89歳)と元通信兵(86歳)を含む29人だけが漂流の末、生き残った。

沈没後70年近く経った今では、その29人も生存者は「数名」となった。呉の海軍墓地で毎年9月23日の慰霊祭に訪れる呉竹の元乗組員は一人減り、二人減り、昨年は、今日お会いした「二人だけ」になったそうだ。

私は今、この呉竹に乗り、若き命をバシー海峡で散らした京都帝大法学部出身の海軍少尉の人生を追っている。しかし、この人物のことを知る関係者があまりに少なく、取材に苦戦を余儀なくされている。

戦争ノンフィクションは、取材対象者の多くがすでに亡くなられているケースが多い。苦戦はもとより承知しているので、負けずに取材をつづけていこうと思う。

本日の二人の貴重な証言によって、呉竹が沈没した時のようすや、九死に一生を得た兵士の“生と死”を分けたものは何だったのか、興味深い話を伺うことができた。今後の取材の展開が楽しみだ。

さて、私は、昨日、旧海軍兵学校のあった江田島を訪れた。もう何回目かの訪問だが、今回はこれまでとは違った趣きがあった。今回は、海上自衛隊幹部候補生学校の卒業式に招かれ、初めて伝統の式典を目の当たりにしたのである。

私は、これまで戦争ノンフィクションを文庫も含めて8冊ほど上梓している。そのため、幹部学校その他に講演に呼んでもらうことがある。その関係で、今回招待してくれたようだ。

有名な卒業式だけに、マスコミも含め、多くの参列者があった。安倍首相の夫人、昭恵さんやアメリカ海軍の第七艦隊司令官、チリの特命全権大使……等々、多くの関係者の参列の中で厳粛な卒業式が執りおこなわれた。

海軍兵学校は、帝国海軍のエリート士官養成学校である。明治21年に設立された同校から、規則の厳しさだけでなく、カッターをはじめ過酷な訓練が現在まで脈々と受け継がれている。

現在の幹部候補生学校は、防衛大学や一般の大学・大学院を卒業した人を対象にしている。今回は、1年間、ここで一般幹部候補生課程を勉強し、修了した者が174名(うち女性が19名)、そのほかにすでに現場でパイロットとして任務についている人たちを対象にした飛行幹部候補生課程を修了した48名(うち女性3名)、合わせて「222名(うち女性22名)」が卒業していった。

聞けば、今では、防衛大学出身者と一般大学出身者が数の上で“半々”になっているというから興味深い。彼らが御影石の伝統の大講堂で、卒業証書を一人一人、受け取っていったのである。

アメリカ海軍の第七艦隊司令官の祝辞も含め1時間40分にわたって、式典はつづけられた。私は、どの学校の卒業式とも異なるこの厳粛さは「どこから来るのか」と、式典の間、ずっと考えていた。

私は、それは「命」、すなわち「生と死」ではないか、と思った。そこが一般の学校の卒業式と根本的に異なるところだ。ここに参列している父兄たちは、言うまでもなく晴れの日を迎えたわが子たちの大いなる未来に期待をかけているだろう。

無事、海上自衛隊の幹部として最後まで職責を全うしてくれることを親たちは祈っている。しかし、激動のこの21世紀に今後30年、40年、日本を取り巻く情勢が平和であってくれる「保証」はどこにもない。

いや、太平洋に覇権を確立しようとしている中国と、まず「尖閣」、その次は「沖縄」をめぐって、どんな形であれ、紛争が勃発する可能性は決して小さくない。その時、最前線に立たなければならないのは、咋日、卒業証書を受け取った彼ら、彼女らである。

私は、これまでの戦争ノンフィクションで、海兵68期から72期の人たちを中心に取材をさせてもらったことがある。その時、これらの期のあまりの戦死者の多さに愕然とした。彼らは、同じようにこの講堂での卒業式を経て、巣立っていった人たちである。

独特の厳粛さが漂うのは、やはり先輩たちが流した血と涙、大海原に消えていった若き命の尊さではないか、と思う。すなわち「命」というものに対する哀惜(あいせき)が、見る者に独特の感傷をもたらしているのではないだろうか。

私は昨日、この伝統の卒業式をそんな思いで見守っていた。そしてその翌日である今日22日に、バシー海峡から奇跡の生還を遂げた元兵士とお会いしたのである。

日本がいつまでも「平和」であって欲しい、と願うのは国民誰もに共通するものである。しかし、その平和を維持するためには「強さ」が必要であることは言うまでもない。

それを最前線で命をかけて示すのが、彼ら、彼女らなのである。呆れるような「空想的平和主義」に基づく幻想論を振りまき、これに寄って立ってきた戦後ジャーナリズムの欺瞞(ぎまん)は、今もつづいている。そんな中、日本を守るために毅然と最前線に立とうとする若者たちがいる。

卒業式が終わったあと、目に涙をためながら、私たちの前を敬礼と共に行進し、遠洋航海へ旅立っていった卒業生たち。私は、この若者たちに幸いあらんことを祈らずにはいられなかった。それは同時に、日本の未来の「幸福」を意味するものでもある。

「治に居て 乱を忘れず」――私の頭の中に、この言葉が今日ほど強く印象づけられた日は、かつてなかった。

カテゴリ: 歴史

北朝鮮拉致問題と横田夫妻

2014.03.18

どれほど「長かった」だろうか。横田滋(81)、早紀江(78)さん夫妻が、孫であるキム・ウンギョンさん(26)との面会を果たした17日の記者会見を見て、私は、この夫妻の辛抱と忍耐の凄さをあらためて思い知らされた。

2002年9月、電撃訪朝を実現した当時の小泉首相は、金正日との初の日朝首脳会談をおこない、「日朝平壌宣言」に調印した。金正日は日本人拉致を正式に認め、拉致した日本人のうち「5人が生存、8人が死亡」とした。そして、生存者5人の帰国が実現した。

「死亡した」とされためぐみさんには、15歳になる子供のウンギョン(当時は、「ヘギョン」とされていた)がいることが明らかにされた。しかし、横田夫妻は、あきらめなかった。めぐみさんの不自然極まりない「死亡情報」を認めず、「これで拉致問題は幕引き」とする北朝鮮と真っ向から闘ったのである。

苛立った北朝鮮は、翌月の2002年10月、日本から新聞とテレビ3社を呼び寄せ、「おじいさん、おばあさんに会いたい。どうして私に会いに来てくれないの?」とウンギョンさんに言わせ、揺さぶりをかけた。メディアを通じて、孫に直接呼びかけられた横田夫妻は、すぐにでも飛んでいきたい思いを「堪(こら)えに堪えた」のである。

「もし、会いに行けば、めぐみの死を認めることになる」。夫妻の決意は固く、可愛い孫に会いに行くことを我慢する日々がつづいた。めぐみさんの「死」を既成事実化して、日本との「国交正常化」と「巨額の(戦時)補償」を目論んだ北朝鮮の意図は、こうして横田夫妻の忍耐によって頓挫する。

この間の横田夫妻の揺るぎない姿勢に心打たれた日本人は少なくなかったと思う。「拉致問題の決着」をはかる北朝鮮の戦略に乗らず、「めぐみを必ず日本に連れ帰る」「拉致問題の幕引きは許さず、拉致被害者全員の帰国を実現する」という“大義”を忘れることのなかった夫妻の意志の強さには、本当に頭が下がる。

あれから12年近い歳月を経て、やっと実現した孫・ウンギョンさんとの面会。26歳になったウンギョンさんとの待ちに待った面会でも、やはり横田夫妻は毅然とした姿勢を崩さなかった。北朝鮮に出向くことはせず、面会が実現したのは、モンゴルのウランバートルだったのである。

そして、ウンギョンさんと夫、生後10か月の娘(横田夫妻から見れば、ひ孫)との初めての面会で、夢のような数日を過ごした横田夫妻は、「祖父母と孫として会いたいと思ったことが静かに実現した」と喜びを語ると同時に、めぐみさんの安否に関する話は「特になかった」「行く前と変わらず、分からない」とした。

この面会が「拉致事件の決着」ということに利用されることを、横田夫妻は断乎、拒否したのである。どんなことがあっても、めぐみさんの死を認めたととられる恐れのある発言を夫妻は一切、しなかった。

叔父の張成沢を処刑し、中国からも愛想を尽かれつつある金正恩が、日本へのシグナルとして出してきただろう横田夫妻への譲歩。それでも、一歩も譲ろうとしない夫妻の姿勢を日本の政治家たちは学ぶべきだろう。すなわち、どんな揺さぶりがあろうと、彼(か)の国には、「半歩も譲ってはならない」ということである。

私は、北朝鮮拉致問題ほど、うわべだけの正義を振りかざすメディアや政党に打撃を与えた事件はないと思っている。朝鮮労働党と友党関係にあった当時の日本社会党が、拉致問題でなんの力も発揮せず、それどころか兵庫県出身の有本恵子さんのご両親が社会党に相談にいって、逆に朝鮮労働党にその情報が筒抜けになって有本さんの生命が危機に陥ったことがのちに明らかにされた。

痛烈な「家族会」の批判にあって、衆院議長まで務めた日本社会党の元委員長、土井たか子氏が落選し、政界引退を余儀なくされたことも思い出される。また北朝鮮を“地上の楽園”と讃美し、一貫してこの「凍土の共和国」の応援をつづけた戦後ジャーナリズムの欺瞞(ぎまん)も満天下に晒された。

本当に守るべき“人権”、そして、真の意味の“正義”を考える上で、家族会と横田夫妻が果たした役割は実に大きかったと思う。

「夢が実現した奇跡的な日だった。たくさんの人に感謝している」。12年という気の遠くなる我慢の歳月の末に孫との面会を果たした早紀江さんのこの発言は、毅然と生きようとする日本人と、その将来に大きな勇気を与えるに違いない。

そして同時に、北朝鮮がどんなアプローチをかけてこようと「その戦略に乗ってはならない」ことを改めて肝に銘じよと、横田夫妻は私たちに告げているのではないだろうか。

カテゴリ: 北朝鮮

「震災3周年」ぎりぎりの闘いはどこまで

2014.03.09

昨日、東北新幹線に乗って、この3年間、通い詰めていた「福島」を通り越して青森の弘前まで講演にやってきた。「人づくりフォーラム in弘前」というイベントの講演である。日本人の生きざまと教訓について話をさせてもらった。

弘前といえば、日本の新聞の父と呼ばれる「陸羯南(くが・かつなん)」や、孫文が最も信頼を寄せ、辛亥革命に大きな力を果たした「山田良政・純三郎兄弟」、さらには、満洲国皇帝・溥儀が“忠臣”と称えて尊重した「工藤忠」ら、多くの“傑物”を生んだ土地である。

私自身も若い頃、山田良政・純三郎兄弟の甥にあたる故・佐藤慎一郎翁に中国問題について、いろいろと教えてもらった時期があり、佐藤先生の「故郷・弘前」には、少なからぬ因縁がある。

今回は、2時間にわたって弘前の人を前に講演をさせてもらったので、佐藤先生にいくばくかは恩返しができたかもしれない。

さて、ここのところ、「震災3周年」に向けての記事や番組が洪水のごとく溢れ出している。かくいう私も、本日、『記者たちは海に向かった―津波と放射能と福島民友新聞―』(角川書店)を出版した。

津波で命を落とした若き記者と、そのことで大きな心理的打撃を負う同僚・先輩たち、さらには、新聞発行の危機に立ち向かった新聞人たちの感動的で、かつ凄まじい闘いを描かせてもらった。

なんとか3周年に間に合わせたいと思い、執筆、そして校了作業に没頭し、ブログの更新もできなかった。やっと今日、出版にこぎつけ、さっそく産経新聞に著者インタビューも出してもらった。

震災からの3年。やはり感慨深いものがある。この間、いったいどれほど福島に通っただろうか。もちろん宮城も岩手も行かせてもらったが、私にとっては、圧倒的に「福島」である。

前著の『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日―』につづき、激震と津波、そして放射能汚染という“複合汚染”に見舞われた「福島」は、私にとって、時が経とうと、避けて通ることができない地なのである。

前著では、福島第一原発の壁の“内側”を描き、今回は壁の“外側”を地元紙の福島民友新聞に焦点を当てて、書かせてもらった。あの放射能とのぎりぎりの闘いで、瓦礫の下で助けを呼びながら息絶えた犠牲者は、1か月以上も捜索の手が入らず、DNA鑑定でしか家族のもとに帰ることができなかったという惨(むご)い運命を辿っている。

その悲劇を記述するたびに、人々の心の奥に残した傷痕の深さを思う。しかし、同時に私はマスコミの報道に疑問も感じている。大名行列のごとく“節目”にだけやって来て、地元の人間への形式的な同情論を口にするテレビ番組に接すると、反発を覚えてしまうのも確かだ。

被災者への多額の補償が今もつづく中、単なる同情論だけではすまない矛盾や問題点があちこちに現われている。今後は、それも地道に報じていかなければならないだろう。3周年は、私にとっても単なる“通過点”に過ぎないのだと、今更ながら肝に銘じている。

カテゴリ: 原発, 地震

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