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「共産主義」が淘汰され「民族主義」に至った中国の怖さ

2015.02.25

「1980年代、中国共産党はすでに“破産”していた」――そんなことを言われたら、「えっ、本当か?」と思わず、自分の目をこする向きも少なくないのではないだろうか。しかも、そんな記事を掲げたのが「朝日新聞」だと知ったら、どうだろうか。

今日(2月25日)、朝日新聞朝刊のオピニオン欄(17面)に、興味深いインタビュー記事が掲載された。題して「中華民族復興」。アメリカの文化人類学者、パトリック・ルーカス氏(50)が朝日新聞の取材に応じて語ったものだ。私は、この記事が、さまざまな意味で興味深かった。

朝日新聞がこれを掲載したこと自体がおもしろかったし、1980年代から中国に留学し、長く中華民族の研究をつづけ、国際教育交流協議会・北京センター長も務めるアメリカ人研究者の独特の視点に大いに興味を駆きたてられたのだ。

ルーカス氏の習近平国家主席に対する分析はユニークだ。それによると、習近平はこの20~30年の間で、最も「民族主義的な中国の最高指導者」であり、その理論が「中国は特別である」「中国の需要は他者より大事だ」といった特徴的な2つから「成り立っている」ことだという。

習近平は、「偉大なる中華民族の復興」を唱え、自分たちが歴史上優秀な民族であり、アジアの中心だった元々の地位に戻る、と言いたいのだそうだ。その理論の危険性をルーカス氏は、「愛国主義には健康的な部分もあり、必ずしも他者を傷つけるわけではありません。しかし、民族主義はそもそもが差別意識であり、他者を必要とする。そして往々にしてその他者に害を与えます」と指摘している。

つまり、中国の「民族主義」への警鐘が、このインタビューの核心と言える。ルーカス氏はその上で、「1980年代、中国共産党は“破産”した」と分析している。共産党が呼びかける共産主義のイデオロギーを、誰も信じなくなり、そのために、「共産党は、市民の信任を得るため、何か新たなものを必要とした」というのである。

私が大学時代も含め、毎年のように中国を訪れていたのは、同じ1980年代のことである。抑圧と独裁が特徴だった中国共産党と、それを冷めた目で見つめる人民の姿が、当時の私には印象的だった。人々の物質的な要求を満足させるために「改革開放路線」をとった中国は、当然の帰結として貧富の差が拡大していく。その頃のことをルーカス氏も独特の視点で観察していたようだ。

共産党にとって、貧富の差が拡大することは本来、許されない。厳しい抑圧によってその不満を封じなければ、統治そのものが揺るぎかねなかった。

興味深いのは、ルーカス氏がこの時点で、「共産党は帽子を変え、マスクを変えることにした。共産主義はいわば淘汰され、民族主義が統治に使われ始めたのだ」と分析していることである。

「共産主義の淘汰」と「民族主義による統治」――インタビューは、そこからがおもしろい。ルーカス氏は、1995年前後に始まった当時の江沢民国家主席の愛国主義教育について、「ここで登場したのが“被害者の物語”。これは極めて便利なものだった」としている。そこで「敵」として登場したのが「日本人と、その侵略行為」であり、「民族主義と共に、こうした“記憶”が呼び起こされた」というのである。

ルーカス氏は、毛沢東時代には「中華民族が立ち上がった“勝利者の物語”」だけで十分で、80年代まで、「統治者は“被害者の物語”を必要としなかった」と、指摘している。つまり、改革開放路線による貧富の拡大は、80年代から90年代にかけて“勝利者の物語”だけでは人民を納得させられなくなり、そこに「民族主義」とそれを補強する“被害者の物語”が必要になっていった、というのである。

厄介なのは、今では「民族主義のパワーが大きくなりすぎて、コントロールできない状況」が生じており、そのために「中国政府は対外的に一寸たりとも譲らないといった強硬姿勢」を続けざるを得なくなっていることだ、とルーカス氏は言う。「政治はお互いに譲歩するもの。しかし、外国人に譲歩をすれば、政府も批判を免れなくなっている」と、今の中国の危うさを語るのだ。

私はこのインタビュー記事を読みながら、1985年8月、それまで問題にされたこともなかった「靖国参拝」を人民日報まで“動員”して外交カードに仕立て上げた朝日新聞の報道を思い出した。つまり、「中国の民族主義」を煽った当の朝日新聞が、その民族主義を批判するインタビュー記事を掲げたこと自体が感慨深かった。

インタビューを終えた朝日新聞の中国総局長は、記事の最後に、「隣り合う国の民族主義が互いに刺激し合うことは避けられない。同氏の指摘は、我々日本人もまた、民族主義の“負の連鎖”のなかにあることを気づかせてくれる。東アジアの民族主義の拡大を抑えるにはまず、この自覚こそが求められている」と書いている。

これには、さすがに吹き出してしまった。いかにも「朝日新聞らしい」と言えばそうだが、相手に外交カードを与えて日中の友好関係を破壊し、中国の民族主義台頭を促す大きな役割を果たした自分自身の総括ではなく、こんな“お決まりの結論”が突然、出てきたからだ。

それは、このユニークなインタビュー記事には、あまりに不似合いなものだった。「吉田調書報道」と「慰安婦報道」につづき、「中国報道」でも朝日新聞の“総括”が始まったのか、と思ったのは早計だった。だが、朝日をはじめ、新聞メディアには、タブーを恐れず、多種多様な視点をこれからも、どんどん提示して欲しいと思う。

カテゴリ: 中国

日本は「台湾」を支えることができるのか

2015.02.05

台湾の霧社(南投県仁愛郷)で「桜の植樹祭」を終えたあと、私は台南と高雄で「二二八事件」の取材をおこない、昨夜遅く台北から日本に帰ってきた。

後藤健二さんがISによって殺害されたという痛ましいニュースに接したのは、霧社でのことだった。台湾でもニュースが流れ、衝撃を受けた。同じジャーナリストの一人として、後藤さんに心より哀悼を表したい。

さらに、昨日は、台北の松山空港で、金門島行きの復興(トランスアジア)航空の飛行機が墜落した。ちょうどその時間、私は基隆河にかかる大直橋をタクシーで通っていた。墜落現場は、そこから数キロ東の基隆河であり、おまけに「タクシーが巻き添えになった」と聞き、ひやりとした。

金門島行きの航空便は、拙著『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(角川文庫)の金門島取材の時にいつも利用していたものだ。乗り慣れた国内便だけに、ニュースを聞きながら、他人事ではない気がした。

さて、霧社の桜の植樹祭は、2月1日に滞りなく終わった。私自身も、桜を1本、植樹した。前夜には、霧社の近くの廬山温泉に集まった参列者たちを前に、短い講演もさせてもらった。「歴史とは“無念”の思いの積み重ねである」という話である。

霧社には、蜂起したセデック族に惨殺された女性や子供を含む約140人の日本人の無念が、今もこもっている。日本軍と警察による合同の鎮圧部隊によって800人を超えるセデック族など原住民が討伐され、彼らの無念も、霧社には漂っている気がした。

1930(昭和5)年の事件以来、すでに85年が経過した。霧社ほど、その歳月の経過を感じさせてくれる地も珍しいだろう。その間に、山岳地帯にあるこの霧社が、大きな「変化」を遂げたからだ。

日本の敗戦で入ってきた国民党によって、事件の首謀者モーナ・ルダオは、一転、「抗日英雄」となった。霧社の中心部には、抗日英雄紀念公園があり、そこには、モーナ・ルダオを讃える「紀念碑」と「像」と「墓」があった。

一方、日本人犠牲者の殉難碑は、長い年月の間に完全に“消されて”いた。かつて日本人殉難碑の下には、日本人犠牲者の遺骨が眠っていた。殉難碑そのものが「墓地」でもあったのだ。

その日本人殉難碑は、やがて壊され、その上に今は白い建物が建っている。案内してくれた地元の人によれば、「殉難碑が壊された後、掘り返したら大量の骨が出てきた。それを埋め直して、上に建物をつくったのだ」と説明してくれた。

無惨というほかない。セデック族の蜂起によって、小学校の運動会の場で、集まった日本人は女子供の区別なく首を狩られた。そして、その遺体は一か所に集められ、葬られたのである。

しかし、1945(昭和20)年、戦争に負けた日本は台湾を去った。すると、前述のようにセデック族の頭目モーナ・ルダオが「抗日英雄」とされ、逆に日本人犠牲者の墓が「消された」のだ。私たちが植えた桜が満開の花を咲かせる時、無残に消された日本人犠牲者の遺骨は、それをどう眺めるのだろうか。

私は、そんな思いを抱きながら、霧社から下りた。そのまま私は、台南に向かった。台南で、1947年(昭和22)年に起こった「二二八事件」のある犠牲者のことを取材するためである。

そこには、日本人として死んだ、たった一人の「二二八事件」の犠牲者がいる。私は、その一家の5代にわたる日本への思いと絆を描きたいと思っている。

国民党独裁政権の下で、戦後の台湾人は、「価値観」も、「アイデンティティ」も、また「言語」さえも、完全に“分断”された。そして「留日」と呼ばれた日本で学んだ台湾人エリートたちは、徹底した弾圧を受けた。

今も拭えない「外省人」と「本省人」の深い溝は、そこに起因する。それでも、必死で生きようとする台湾人は、代を越えて、やっと自分たちの「価値観」と「アイデンティティ」を確立しようとしている。

しかし、それは同時に「中国との距離」が開くことを表わしている。外省人を支持基盤にする国民党が急速に中国共産党と接近をはかり、それを台湾人が阻止しようとする図式は、今後も続くだろう。

その意味で、来年の総統選は、今まで以上の激戦となり、さらに言えば、「台湾の運命」を決するものになるに違いない。

いま台湾は、観光地という観光地が中国人によって占められている。その光景が示すように、経済的に台湾は中国への依存度を年を追うことに強めている。もし、民進党候補者が総統になれば、たちまち中国は露骨な干渉に出てくるだろう。

台湾への観光客をストップさせるのか、あるいは台湾からの商品について関税をいじるのか。中国が台湾に嫌がらせをする手段はいくらでもある。中国が仕掛けてくる、そんな経済戦争に、いったい台湾はどう立ち向かうのだろうか。

その時、ポイントになるのは、「日本」である。すなわち日本が台湾にどう手を差し伸べ、どう根底から支えるのか。

安全保障上も、お互いが最も重要な地位にあることを、口にこそ出さないものの、お互いがよくわかっている。覚悟と友情を持って、日本は台湾を支えるべきだと、私は思う。

日本と台湾との“絆”を表わす、ある一家の「5代」にわたる日本への思い――「二二八事件」で無惨な最期を遂げた人物を軸に、ある「一家」の物語を、いつかノンフィクション作品として完成させたい。そんな思いが離れることがなかった台湾の旅だった。

カテゴリ: 台湾, 歴史

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