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加藤ソウル前支局長「無罪判決」から何を学ぶか

2015.12.17

「(無罪判決は)予想できなかった」。産経新聞の加藤達也・前ソウル支局長(49)が、記者会見で漏らしたこの言葉が、四面楚歌の中での裁判の厳しさを表わしていた。

本日、ソウル中央地裁において、加藤氏は韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の名誉を傷つけたとして名誉毀損に問われていた刑事裁判で、「無罪判決」を勝ち取った。

私は、昨年8月から「1年4か月」にわたる、これまでの加藤氏と産経新聞の「闘い」に注目してきた一人だ。本日は、その当の産経新聞から無罪判決へのコメントを求められ、思いつくまま、感想を述べさせてもらった。

「いったい、この裁判は何だったんだろう」と私は率直に思っている。なぜなら、そもそも加藤氏のコラムは、どこにも問題を見出しようもない、つまり、最初から裁判で争われるようなものでは「全くなかった」からだ。

ことは、韓国の有力紙『朝鮮日報』が、咋年7月18日、「大統領をめぐるウワサ」と題して興味深いコラムを掲載したのが発端だ。そこには、セウォル号事件の当日、パク大統領が「7時間も所在不明」だったこと、さらに「世間では『大統領は当日、あるところで“秘線”とともにいた』というウワサが作られた」ということが書かれていたのだ。

“秘線”とは、密会する異性のことを指すのだろうが、加藤氏はこの『朝鮮日報』のコラムを引用しながら、「噂の真偽は不明だが」ときちんと断わった上で、こんな噂が流されるほどパク大統領は追い詰められており、「権力基盤が揺らいでいる」ことを指摘したのである。

加藤氏のコラムは、さまざまな点に配慮した上で書かれており、一読すれば、大統領を誹謗中傷するようなものでないことは、すぐにわかる。公人中の公人である大統領の動静をもとに、日本の読者に「韓国の政治情勢」をわかりやすく伝えたものだった。

だが、周知のように韓国は、「言論の自由」も、「報道の自由」も、およそ存在しない国である。権力者の前では、民主主義国家で共有されている、これらさまざまな基本原則が“有名無実化”されており、要は、権力者の怒りを買えば、どんなものが「名誉毀損」とされ、どんなことで「刑事責任」を追及されることになるのか、まったくわからないのである。恐ろしい国だと思う。

それも、発端になった韓国の有力紙『朝鮮日報』のコラムは不問に伏した上で、産経新聞だけを起訴したのだから、もう目茶苦茶である。

ちょうど起訴の2日前に、加藤氏は、雑誌『正論』に「性搾取大国韓国の不都合なる真実」と題して、名乗り出て訴訟沙汰になっている米軍相手の慰安婦「ヤンコンジュ(洋公主)」たちのことを記事にし、慰安婦問題で日本を批判する韓国政府を舌鋒鋭く批判していた。そのことも、パク大統領には許せなかったのかもしれない。

「これは当然の判決であって、特別に感慨を抱くということはありません。公人中の公人である大統領に関する記事が気に入らないとして起訴する構図。このあり方は、近代的な民主主義国家の姿としてどうなんでしょうか。いま一度、考えてもらいたいと思います」

本日、判決後にそんな怒りの記者会見をおこなった加藤氏の気持ちはよくわかる。一方、加藤氏を起訴し、「懲役1年6か月」という求刑までおこなっていた韓国の検察当局は、最後に政権からも梯子(はしご)を外され、世界に「恥を晒した」と言える。

この事件で失墜した韓国の「国家的信用」が回復されるのは極めて難しいだろう。民主主義国家の根幹を成す「言論・表現の自由」がこの国に存在しないことは、先月、『帝国の慰安婦』の著者、朴裕河(パク・ユハ)・世宗(セジョン)大学教授を在宅起訴して、世界を唖然とさせたことでもわかる。

起訴の理由は、驚くべきことに、「秩序の維持などのためには、言論の自由や学問の自由は制限される」というものだった。「気に入らない言論は叩きつぶす」「都合の悪い研究はやめさせる」というのが、韓国の際立った特徴であり、基本姿勢なのだ。まさに“独裁国家”である。

一連の出来事は、韓国が先進国と「価値観の共有」ができるような成熟した国家になるまでには、まだまだ長い歳月が必要であることを教えてくれる。

それにしても、今回の裁判は最後まで驚かされた。これまた近代国家、民主主義国家の原則である「三権分立」も韓国には「ない」ことがわかったからだ。

韓国外務省が判決を前にして、裁判所に対し、「日韓関係などを考慮し、(判決に対して)善処するよう要請した」というのである。つまり、韓国では、「司法の独立」もなく、政府が判決の中身に干渉したり、要望を出したりすることができるのである。

もともと加藤氏の起訴が、大統領の“意向”であったことは間違いなく、事件は最初から司法への政治介入から始まり、最後も政治介入で「決着させる」という極めて特異な経過を辿ったことになる。「三権分立」さえない国には、「民主主義国家とは何ぞや」と聞くことさえ憚られる思いだ。

本日、李東根(イ・ドングン)裁判長は、3時間もの判決文朗読でこう言及した。
「韓国は民主主義制度を尊重しなけければならない。憲法でも“言論の自由”が保障されている」
「外国記者に対する表現の自由を差別的には制限できない。本件も、言論の自由の保護内に含まれることは明らかだ」
「大統領の公的地位を考慮すれば、名誉毀損は認められない。私人、朴槿恵に対する誹謗目的もあったとは認めれない」

そして、「判決は、次の通りである」と前置きして、「無罪」を宣言したのである。3時間もの間、着席も許されず、立って朗読を聞き続けた加藤氏は、ついに「無罪」という言葉に辿り着いたのだ。

それは、「三権分立」もなく、最初から「有罪」という結論が決まっていた中での、まさに「予想外」の判決だった。

私は、この無罪判決は、ひとつの大きな「道」を示したと思っている。それは、加藤氏も、産経新聞も、そして官邸も、一度も韓国に譲歩せず、毅然とした姿勢を貫き通したことにある。

そして、日本政府は、あらゆるチャンネルを通じて、「この裁判がどういう意味を持っているか」を韓国に伝えてきている。一種の“脅し”である。

それは、「やれるものなら、やってみろ」という気迫が伴うものでもあっただろう。私は、一貫したこうした毅然とした姿勢が、今回の「無罪判決を生んだ」と思っている。

韓国のような国家に対して「譲歩」では何も生まれないことを日本人は知るべきだろう。それを「教えてくれた」という意味では、この裁判もそれなりの意義があったと言える。

今後、今回の国家的信用失墜に対して、韓国は長く苦しむことは間違いない。民主主義国家としての価値観が共有できない「弾圧国家」としてのレッテルが貼られた韓国は、その払拭(ふっしょく)のためには長い歳月が必要だろう。

この無罪判決で、「両国の関係は改善される」などという楽観的な観測が早くも出ている。しかし、日本側からすり寄る必要は全くない。

韓国は、民主主義国家ではないことが証明されたのだ。今後は、その“根本”に目を向けさせるために、日本は、毅然として「距離」を置き、同じ価値観を共有できるまで、じっと「待てばいい」のである。そのことを日本人は肝に銘じるべきだと、私は思う。

カテゴリ: 司法, 国際

「国家のあり方」と映画『海難1890』の感動

2015.12.05

本日、封切りになった映画『海難1890』を観に行った。朝8時40分からの、まさに最初の回である。朝早くて、さすがに「TOHOシネマズ新宿」もまだ、人影は少なかった。

これほど早く観に行ったのには、わけがある。私自身が先週、トルコ軍艦「エルトゥールル号」の悲劇と迷走する「邦人救出」問題を真っ正面から扱ったノンフィクション『日本、遥かなり』(PHP)を上梓したからだ。

拙著は、この映画の中で描かれている「イラン・イラク戦争(1985年)」だけでなく、「湾岸戦争(1990年)」、「イエメン内戦(1994年)」、「リビア動乱(2011年)」など、日本という国家から見捨てられる海外在住の邦人の「救出問題」を取り上げている。

しかし、2部構成の中の第1部で、およそ200ページを費やしてエルトゥールル号遭難事件とテヘランからの邦人脱出問題を描かせてもらっているため、映画がこの部分をどう表現しているのか、「一刻も早く知りたかった」のである。

映画は脚色されているので、拙著のようなノンフィクションとは全く異なっている。しかし、非常に見応えがある映画だった。

日本とトルコの「人」と「人」、「真心」と「真心」、助け合うということの意味、さらには、国境を越えた無償の友情の大切さ……等々、多くのことを教えてくれる力作だった。何度も目頭が熱くなるシーンがあり、さすが日本―トルコの合作映画だと思った。

私は、映画が描いた1890年に起こったエルトゥールル号の和歌山・紀伊大島沖での台風による遭難事故の部分が特に興味深かった。

見ず知らずの“異国”の人々を救出する紀伊大島・樫野(かしの)地区の村民の必死の姿が、観客の心を見事に震わせたと思う。映画と実際の「史実」を比較するのは野暮というものだろう。むしろ私は、そこで描かれている“人としての姿”に心を打たれたのである。

実際の史実がどんなものであったかは、ノンフィクションである拙著を見て欲しいが、私は、この映画が「伝えようとしたもの」について、大いに共感したのだ。

映画の中で、テヘラン在住の女性日本人教師を演じる忽那汐里(くつな・しおり=二役=)が「どうして、日本が日本人を助けられないんですか!」と叫ぶシーンがある。まさに映画の“核心”である。

国家が自国民の命を救う─それはどこの国でも当たり前のことであり、国家の重要な責務のひとつである。しかし、日本は違う。

現在に至るまで、日本は、海外に住む邦人たちをさまざまな場面で見捨て続けてきた。「イラン・イラク戦争」しかり、「湾岸戦争」しかり、「イエメン内戦」しかり、「リビア動乱」しかり、である。

幸いにイラン・イラク戦争では、トルコ航空によって邦人は救出されるが、私は、これら見捨てられ続けてきた多くの邦人に直接インタビューし、その実態を知った。「国際貢献」の最前線で、あるいは、ビジネスのために、世界の隅々で活動している邦人は、いざとなったら、日本という国から「救出の手」を差しのべてもらうことは「できない」のである。

それは、自国民の命を助けるという“究極の自衛”が、「自衛隊の海外派兵につながる」、あるいは、「海外での武力行使への口実にされる」などという信じられない「主張」をおこなう政治勢力やジャーナリズムによって、「悪」とされているからである。

彼ら“内なる敵”に対して、譲歩や配慮をおこない続けてきた日本では、最も大切な「自国民の命」が蔑(ないがし)ろにされてきたのだ。

自国民が海外で「窮地」に陥り、「救出」を待っていても、その救出を他国に委ねる国――それが日本なのである。それでも「よし」とする倒錯した考えや観念論を未だに持ち続ける人々は、自分の家族が同じように海外で窮地に陥っても「果たして同じことが言えるのだろうか」と、私は思う。

自衛隊法など、さまざまな改正を重ねながら、そして今年、紆余曲折の末に成立した種々の安全保障関連法でも、「邦人救出」には、さまざまな手枷・足枷(てかせ・あしかせ)がついているのが実情だ。

当該国が「秩序を維持」しており、当該国の「同意」があり、さらには当該国の関係当局との「連携」等の条件が満たされなければ、邦人救出に向かえず、さらに輸送についても「安全の確保」が絶対条件とされているため、ほかの先進主要国のように、あらゆる手段を通じて「自国民の救出」をおこなうことが日本は事実上、できないのである。

『海難1890』を観ながら、“究極の自衛”である「邦人救出」の意味を、多くの日本人に考えて欲しいと思った。私は今日、国家の「あり方」と、人としての「真心」について考えさせてくれる力作の映画に、久々に出会うことができた。

カテゴリ: 映画

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