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お粗末な「原発訴訟」の事実認定

2017.03.18

「この論理が通るなら、当時の首相も、各県の知事や市長、町長、村長に至るまで、多くのトップの手が“うしろにまわる”なあ」――判決のニュースが流れた時、私の頭に真っ先に浮かんだのは、そんな感想だった。

東日本大震災における福島第一原発事故で、福島県から群馬県に避難した住民が、国と東電に、およそ15億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が3月17日、前橋地裁であった。原道子裁判長(59)は、「津波を予見し、事故を防ぐことができた」との判断を示し、国と東電に総額約3855万円の支払いを命じたのだ。

私は、「国や東電は津波を予見し、本来なら事故を回避できたはずだ」という主張に対して、裁判でどんな判断が示されるのか、興味津々でこれを見ていた。しかし、正直、がっかりした。あまりに事実認定がお粗末だったからである。

もし、今回の裁判での事実認定が正しく、国も、東電も、あの大津波を「予見」し、「結果回避義務」を怠ったというのなら、当時の総理大臣(菅直人首相)も、各自治体のトップも、1万5000人を超える津波犠牲者を出したことに対する「罪」を負わなければならない。

原裁判長は、本当にこの問題における「予見可能性」と「結果回避義務」違反の意味がわかっているのだろうか。その感想は、取材に当たったジャーナリストでなくても、多くの人々が持つのではないだろうか。

私は、生前の吉田昌郎・福島第一原発所長に、長時間のインタビューをして『死の淵を見た男』(角川文庫)を著わしているので、過去、このあたりの事情を月刊誌でも記している(Voice 2013年9月号)(WiLL 2013年9月号)。

それを引用しながら、今回の判決への率直な感想を書いてみたい。多くのご遺族にとって、本当にあの悪夢のような大津波が「予見されていた」のなら、失われた愛する家族の命に対する「責任」を国や自治体に取ってもらわなければならないからである。

判決を見れば、原裁判長が、2002年7月に政府の「地震調査研究推進本部(略称・推本)」が、「三陸沖から房総沖の海溝沿いのどこでもM8クラスの地震が発生する可能性がある」という見解を打ち出したことを重視していることがわかる。原裁判長は、これを「地震学者の見解を最大公約数的にまとめたもので、津波対策に当たり、考慮しなければならない合理的なものだった」と述べているのである。

しかし、実際には、国は、この推本の意見を採用していない。なぜなら、その5か月前の2002年2月に、公益社団法人「土木学会」の津波評価部会がこれとは全く異なる「決定論」という見解を打ち出していたからだ。

これは、基本的には、日本で過去に起こった津波には、それぞれ「波源」が存在しており、それをどう特定していくか、という理論に基づいている。その結果、具体的に「8つの波源」の存在が挙げられ、推本が打ち出した「三陸沖から房総沖の海溝沿いのどこでもM8クラスの地震が発生する可能性がある」という曖昧な見解とはまったく異なる性質の論が打ち出されていたのだ。そして、その「8つの波源」は、福島沖にも、また房総沖にも、「なかった」のである。

では、国はこの二つの論のどちらを選択しただろうか。答えは、「土木学会」津波評価部会のものである。2006年1月、総理大臣をトップとする国の「中央防災会議」は、土木学会津波評価部会の「決定論」の方を採用し、これに基づいて、福島沖と茨城沖を津波防災の「検討対象から除外する」という方針を出したのだ。

私は、前橋地裁が、「三陸沖から房総沖の海溝沿いのどこでもM8クラスの地震が発生する可能性がある」という曖昧な見解の方を支持し、「これで津波対策を福島でもしなければならなかった」というなら、国が土木学会津波評価部会の「決定論」を採用したことに対して「瑕疵(かし)がある」と、その理由を説明しなければならないと思う。だが、そのことについて納得できる前橋地裁の見解はなかった。

推本に拠って立てば、当然、「福島沖」も「房総沖」も含まれるわけで、要は、そこに20メートルの巨大防潮堤を建設していけば、国は、責任を果たした、ということになるのだろうか。しかし、「三陸沖から房総沖の海溝沿いのどこでもM8クラスの地震が発生する可能性がある」という曖昧な論に、そんなことができたと思うだろうか。

私は、今回の判決で最もお粗末だと思ったのは、東電が最大波高「15・7メートル」の津波を試算し、「実際に津波が来ることを予見していた」と認定したことである。

「えっ、本当か」と私は驚いてしまった。故・吉田昌郎・福島第一原発所長に生前、私は長時間のインタビューをしている。その中で、この最大波高「15・7メートル」の津波を試算した時のことも直接、聞いている。

吉田氏は2007年4月、東電の本店に新設された原子力設備管理部の初代部長に就任したが、その3か月後の7月16日、新潟中越沖地震に遭遇した。東電の刈羽・柏崎原発のエリアはマグニチュード6・8の地震に見舞われ、その驚愕の揺れと吉田氏は向き合うことになる。

2010年4月に福島第一原発所長に就いた吉田氏は、中央防災会議が採用した土木学会津波評価部会の「決定論」が正しいのかどうか、検証を試みている。具体的には、土木学会への現場からの「再度の検討依頼」である。

国が採用したのは、津波を起こす「波源」の存在を示した土木学会の説である。しかし、その「波源」の存在と位置を見誤れば、大変なことになってしまう。吉田氏は、そこで、明治三陸沖地震(1896年発生)で津波を起こした波源が「仮に福島沖にあったとしたら、どういう数字が出て来るのか」という“架空の試算”を命じたのである。

それは、実に大胆なやり方だった。つまり、明治三陸沖地震の津波を起こした波源を「三陸沖」から「福島沖」に下ろしてきて、「もし、この波源が仮に福島沖にあったなら、どんな波高になるだろうか」という試算をさせたのである。

吉田氏は、私に「もし、土木学会津波評価部会が打ち出した波源の位置や存在そのものに間違いがあったら困るので、仮に、明治三陸沖地震の津波を起こした波源が福島沖にある、として試算したのです。波源を見落とされていたら、困りますからね。その結果、最大波高15・7メートルという数字が出てきたのです。その試算結果を持って、土木学会の津波評価部会に福島沖は大丈夫でしょうか、という再検討を依頼しました」と語った。

つまり、15・7メートルの最大波高というのは、「仮に明治三陸沖地震の津波を起こした波源が、福島沖にあったならば」という「架空」の試算であり、実際のものに対するものではなかった。

私は、吉田氏が逝去した際、主に新聞メディアによって、この「15・7メートルの最大波高」に対する誤った認識が流布されたので、今から4年前に前掲の月刊誌2誌にそのことを詳しく書かせてもらった。

しかし、今回の前橋地裁の判断では、この肝心の東電の試算が、あたかも「東電が巨大津波が襲ってくることを認識していた」という「根拠」にされているのである。私は、デビュー作のノンフィクション『裁判官が日本を滅ぼす』以来、日本の官僚裁判官の事実認定のお粗末さを指摘してきたが、今回もご多聞に漏れず、あやふや、かつ、お粗末な認定という感想を抱いた。

原裁判長は、国に対して推本の見解から5年が過ぎた2007年8月頃には、「自発的な対応が期待できなかった東電」に対し、「対策を取るよう権限を行使すべきだった」と述べている。そして、国による権限の不行使に対して、「著しく合理性を欠く」とした。

私は、日本の裁判で「いつものように」おこなわれている“アト講釈”の結論に対して官僚裁判官の限界を見る。1万5000人を超える犠牲者を出したあの悲劇の大津波に対して、「予見できた」というのなら、その理由を「もっと明確に示して欲しい」と、国民の一人としてしみじみ思う。そして、それで間違いないなら、当時の国のリーダーにも、自治体の首長にも、もちろん東電の首脳にも、大いに責任を取ってもらいたい。

カテゴリ: 司法

日本学術会議への「訣別」

2017.03.09

科学者の役割とは何か。人類の進歩に寄与し、平和の実現をはかり、人々の幸福に貢献すること。そのために努力を惜しまず、常に技術革新をはかり、持ちうる能力を可能なかぎり発揮する――そのことに異論を差し挟む向きは少ないだろう。

しかし、最近、私は驚くべき報道に接した。日本の科学者が集結する「日本学術会議」が、「私たちは、軍事研究を行わない」という声明案をまとめたというニュースである。思わず、「えっ?」と目を剝(む)いた向きも少なくないだろう。

日本に向けた中国や北朝鮮からの弾道ミサイル等、連日のニュースを見ていると、素人でも「いよいよ自分たちの命が危ない」という危機意識が切実なものになっていることを感じる。朝鮮中央通信は7日、前日におこなった弾道ミサイル発射について、有事の際に在日米軍基地への攻撃を担う朝鮮人民軍戦略軍火星砲兵部隊による「訓練だった」と報じた。

ついに北朝鮮が「在日米軍基地」をターゲットにしていることと、そのために運用されている特殊部隊の存在を明らかにしたのである。

力による現状変更を東アジア全域で堂々とおこなう中国と、血のつながった兄弟でさえ暗殺し、人民の殺戮(さつりく)をなんとも思わない独裁者に率いられる北朝鮮。そんな国をすぐ隣に抱えた日本は、彼らが持つ弾道ミサイルから自分たちの命をどう守るか、という真剣な課題に向き合っている。

そんな中、当の科学者たちの総本山である日本学術会議が、「軍事研究は行わない」と声明するのだそうだ。「おいおい、何をバカなことを言っているのか」と声を上げても、彼らには通用しないだろう。

なぜなら、彼らの頭の中は、いまだに70年前のままで、目前に迫っている核攻撃や弾道ミサイルの恐怖、あるいは、国際社会が直面しているテロとの闘いという現実が、どこか「別の世界」のことと考えているようなのである。

私には、いつも言わせてもらっている「DR戦争(Dはドリーマー、夢見る人。Rはリアリスト、現実を見ている人)」という言葉が今回も浮かんできた。

彼らドリーマーたちは、移り変わる国際情勢も、進歩する軍事技術も、日々、危険に晒されていく人々の命も、なにも考慮はない。ただ、「軍事研究」とは、人を殺害する武器を「つくるものである」という小学生並みの単純論理しか、存在しないのである。

アインシュタインも後悔した核兵器の研究・開発。核兵器とは、科学者がつくり出した究極の悪魔の兵器であり、このようなものをつくり出した「科学者という存在」を本当に恨みたいと思う。だが、一方で、もし、その核兵器を「無力化」する研究をおこない、人類の平和と幸福に寄与する科学者がいたとしたらどうだろうか。

虎視眈々と日本を狙う核ミサイルをどう「無力化」するか。直接これを空中爆発させる百発百中の迎撃システムを開発するのか、それとも電磁波をはじめ、あらゆる電波、もしくは波動を利用した無力化の新システムを構築するのか。それをおこなうのは、悪魔の兵器をつくりあげた「科学者」に課せられた「使命と責任」でもあるはずである。

あのロバート・オッペンハイマーが率いたマンハッタン計画の科学者たちを「悪魔の集団」とするなら、それを「無力化するもの」を開発し、人類の生命と生存空間を守る科学者たちは、まさに「神の科学者」というべき存在になるだろう。

しかし、軍事研究イコール殺戮の武器研究という「単純正義」に基づくイデオロギー集団と化した「日本学術会議」には、そんな科学者としての「使命や責任」を理解するレベルにはない。それは、人類史における科学の真の意義を放棄したものとも言える。

国民は、自分たちの税金がこんな「日本学術会議」のようなイデオロギー集団のために一銭たりとも使われることを拒否すべきだと思う。一方で、平穏に暮らす私たちの子供たちの命を守ってくれる科学者たちの研究には、本当にどれだけの税金が使われても構わない、と思う国民は多いだろう。

本来の科学者の「役割と使命」を知る人々が、こんなドリーマー集団からは早く抜け出して「新団体」をつくって欲しいと思う。なぜなら、私たちにとって自分たちの命を守るために許された時間は、実はそう長くはないからだ。

北朝鮮が、核弾頭の小型化と起爆装置の開発を果たしたのかどうか。中国のネットで飛び交う「南京虐殺の次は“東京虐殺”」というやりとりを見る度に、私は、「日本の科学者は何をやっているのか」と思う。志ある科学者と、彼らが集結する新科学者団体の登場を心から待ちたい、と思う。

カテゴリ: 歴史

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