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日本学術会議への「訣別」

2017.03.09

科学者の役割とは何か。人類の進歩に寄与し、平和の実現をはかり、人々の幸福に貢献すること。そのために努力を惜しまず、常に技術革新をはかり、持ちうる能力を可能なかぎり発揮する――そのことに異論を差し挟む向きは少ないだろう。

しかし、最近、私は驚くべき報道に接した。日本の科学者が集結する「日本学術会議」が、「私たちは、軍事研究を行わない」という声明案をまとめたというニュースである。思わず、「えっ?」と目を剝(む)いた向きも少なくないだろう。

日本に向けた中国や北朝鮮からの弾道ミサイル等、連日のニュースを見ていると、素人でも「いよいよ自分たちの命が危ない」という危機意識が切実なものになっていることを感じる。朝鮮中央通信は7日、前日におこなった弾道ミサイル発射について、有事の際に在日米軍基地への攻撃を担う朝鮮人民軍戦略軍火星砲兵部隊による「訓練だった」と報じた。

ついに北朝鮮が「在日米軍基地」をターゲットにしていることと、そのために運用されている特殊部隊の存在を明らかにしたのである。

力による現状変更を東アジア全域で堂々とおこなう中国と、血のつながった兄弟でさえ暗殺し、人民の殺戮(さつりく)をなんとも思わない独裁者に率いられる北朝鮮。そんな国をすぐ隣に抱えた日本は、彼らが持つ弾道ミサイルから自分たちの命をどう守るか、という真剣な課題に向き合っている。

そんな中、当の科学者たちの総本山である日本学術会議が、「軍事研究は行わない」と声明するのだそうだ。「おいおい、何をバカなことを言っているのか」と声を上げても、彼らには通用しないだろう。

なぜなら、彼らの頭の中は、いまだに70年前のままで、目前に迫っている核攻撃や弾道ミサイルの恐怖、あるいは、国際社会が直面しているテロとの闘いという現実が、どこか「別の世界」のことと考えているようなのである。

私には、いつも言わせてもらっている「DR戦争(Dはドリーマー、夢見る人。Rはリアリスト、現実を見ている人)」という言葉が今回も浮かんできた。

彼らドリーマーたちは、移り変わる国際情勢も、進歩する軍事技術も、日々、危険に晒されていく人々の命も、なにも考慮はない。ただ、「軍事研究」とは、人を殺害する武器を「つくるものである」という小学生並みの単純論理しか、存在しないのである。

アインシュタインも後悔した核兵器の研究・開発。核兵器とは、科学者がつくり出した究極の悪魔の兵器であり、このようなものをつくり出した「科学者という存在」を本当に恨みたいと思う。だが、一方で、もし、その核兵器を「無力化」する研究をおこない、人類の平和と幸福に寄与する科学者がいたとしたらどうだろうか。

虎視眈々と日本を狙う核ミサイルをどう「無力化」するか。直接これを空中爆発させる百発百中の迎撃システムを開発するのか、それとも電磁波をはじめ、あらゆる電波、もしくは波動を利用した無力化の新システムを構築するのか。それをおこなうのは、悪魔の兵器をつくりあげた「科学者」に課せられた「使命と責任」でもあるはずである。

あのロバート・オッペンハイマーが率いたマンハッタン計画の科学者たちを「悪魔の集団」とするなら、それを「無力化するもの」を開発し、人類の生命と生存空間を守る科学者たちは、まさに「神の科学者」というべき存在になるだろう。

しかし、軍事研究イコール殺戮の武器研究という「単純正義」に基づくイデオロギー集団と化した「日本学術会議」には、そんな科学者としての「使命や責任」を理解するレベルにはない。それは、人類史における科学の真の意義を放棄したものとも言える。

国民は、自分たちの税金がこんな「日本学術会議」のようなイデオロギー集団のために一銭たりとも使われることを拒否すべきだと思う。一方で、平穏に暮らす私たちの子供たちの命を守ってくれる科学者たちの研究には、本当にどれだけの税金が使われても構わない、と思う国民は多いだろう。

本来の科学者の「役割と使命」を知る人々が、こんなドリーマー集団からは早く抜け出して「新団体」をつくって欲しいと思う。なぜなら、私たちにとって自分たちの命を守るために許された時間は、実はそう長くはないからだ。

北朝鮮が、核弾頭の小型化と起爆装置の開発を果たしたのかどうか。中国のネットで飛び交う「南京虐殺の次は“東京虐殺”」というやりとりを見る度に、私は、「日本の科学者は何をやっているのか」と思う。志ある科学者と、彼らが集結する新科学者団体の登場を心から待ちたい、と思う。

カテゴリ: 歴史

“オバマを呼び寄せた男”の「菊池寛賞」受賞

2016.10.14

今朝、1本の電話が私の携帯に入った。「おかげ様で菊池寛賞を受賞しました」。静かで凛(りん)とした声だった。広島在住の森重昭さん(79)からである。

森重昭さんと言っても、ピンと来る人は少ないだろう。だが、アメリカのオバマ大統領を“広島に呼び寄せた男”と言ったらどうだろうか。

私は今年5月29日にも、「“オバマ広島訪問”を陰で実現した人々」と題して、なぜオバマ大統領の「広島訪問」が実現し、これほどの感動を呼んだのか、その理由を当ブログで書かせてもらった。その「実現」に大きな役割を果たした人こそ、森重昭さんだった。

アメリカの‟三大タブー”とは、周知のようにネイティブアメリカンの虐殺と隔離政策、黒人差別、そして広島・長崎への原爆投下である。アメリカでは、大統領の被爆地訪問は、それ自体が謝罪を意味し、タブーを侵(おか)すことになるため、これまで実現したことがなかった。

しかし、そのタブーが今年、破られた。伊勢志摩サミットに出席したオバマ大統領は、タイトなスケジュールの中、広島を訪れ、犠牲者に献花したのである。「あり得ないことが起こった」。私は、そのことを思い、当ブログで舞台裏について、書かせてもらったのだ。

米大統領の広島訪問に大きな力となったのは、森さんがサラリーマン生活のかたわら、広島で日本軍の捕虜になっていたアメリカ兵が原爆で12人も被爆死していることを調べ、これを本(『原爆で死んだ米兵秘史』光人社・2008年)として著わしたことだった。

およそ40年にわたって被爆米兵のことを調べ続けた森さん自身も8歳の時に被曝し、多くの知人を喪(うしな)っている。そんな過去を持つ森さんは、訪米して12人の米兵の遺族を探し当て、一人、また一人と面会していった。

アメリカの遺族が感動したのは、即死を免れて辛うじて2週間近く生存した2人の米兵が宇品(うじな)で治療を受けた上で亡くなり、手厚く葬られ、墓標も立てられていたという事実だった。

「広島では、米兵犠牲者も追悼の対象になっています。彼らを含めた全犠牲者を悼み、核廃絶への祈りを広島から発信してください」。広島市民のその思いは、やがて、英訳された森さんの作品『原爆で死んだ米兵秘史』と共にホワイトハウスに持ち込まれ、この事実がアメリカに伝わった。「謝罪のためではなく、米兵を含む全犠牲者への追悼を!」という広島市民の声が、ついにホワイトハウスを「揺り動かした」のである。

周知のように、アメリカの退役軍人組織「アメリカ在郷軍人会」は、米政界に大きな影響力を持つアメリカ最大の圧力団体の一つだ。「原爆投下は、その後の日本本土上陸作戦で失われるはずだった多くのアメリカ兵の命を救った」という論が、いまだにアメリカでは大勢だ。つまり、アメリカでは、原爆投下に対する“謝罪”は、今も「許されていない」のだ。

米大統領の被爆地訪問が一度も実現しなかったのは、このアメリカ最大の圧力団体「在郷軍人会」の力を見せつけるものでもあった。だが、そこに森さんが調べた「12人の米兵」を含む全犠牲者への「追悼のために」という新たなキーワードが加わったことによって、オバマ大統領の広島訪問へのタブーは「取り除かれていった」のである。

あのオバマ大統領の電撃訪問と、17分間の感動のスピーチは、こうして実現した。そして、スピーチの後、招かれていた森さんに歩み寄ったオバマ大統領は、森さんを抱き寄せ、優しく背中を撫でた。全世界に映し出されたそのシーンを見て、私は、感動で心が震えた。

それは、あきらめることなく、気の遠くなるような長期にわたって、こつこつと調査を続けた森さんの努力と執念が報われた瞬間だったと思う。そのことをたまたま知っていた私は、当ブログをはじめ、いくつかの媒体で、オバマ広島訪問の裏舞台を書かせてもらった。

今朝の森さんからの電話は、そのことに対するお礼だった。お陰で、立派な賞をいただきました、と。その時、私は森さんのこの気配りと優しさこそが、広島へオバマ大統領を呼び寄せた“赦(ゆる)しの心”に繋(つな)がっているのではないか、と感じた。

「謝罪」を要求することは、たやすい。現に、憎悪を煽り、国家間の軋轢(あつれき)を助長することに邁進(まいしん)する国が、日本のすぐ近くには存在している。

しかし、広島市民は、謝罪要求を敢えて封印し、この被爆地・広島の地から「核廃絶の意味と、その祈りを発信してください」という、より重要な、いわば‟大義”に向かって突き進んだ。私はそのこと自体に心を動かされたのだと思う。

その立役者であった森さんが、菊池寛賞を受賞した。私は、思惑や商魂が左右する昨今の賞の中で、偉業を達成した‟市井(しせい)の人”森さんにスポットライトをあててくれた菊池寛賞とその選考委員に感謝したい。埋もれた事実を発掘し、世の中を動かした人が受賞するに相応(ふさわ)しい賞だったと、私は思う。

カテゴリ: 歴史

「オバマ広島訪問」を陰で実現した人々

2016.05.29

私は、なぜオバマ大統領の「広島訪問」がこれほどの感動を呼んだのか、その理由を考えている。そして、これを実現させた名もなき人々のことに思いを馳せている。

「核なき世界」は、人類の悲願だ。しかし、すべての形勢を一挙に逆転する力を持つ核兵器を相手が手放さないかぎり、「自分だけが放棄」することはできない。そのことは誰もがわかっている。

だが、世界一の核大国の指導者が「自分が生きている間は達成できないだろう」という国際社会の現実を示しながら、その核廃絶への“思い”を被爆地・広島で、予定を遥かに超える「17分間」にわたってスピーチしたのである。

この演説は、学生時代から「核廃絶」を主張しつづけたバラク・オバマという人間の集大成の意味を持つものだったと思う。その歴史的スピーチを終えたあと、彼は坪井直さん(91)、森重昭さん(79)という二人の被爆者に歩み寄り、言葉を交わした。

その姿を見て、多くの日本人は感動した。私もその一人だ。私は、特にオバマ大統領が、二人目の森さんをハグした時、「ああ、これは……」と心を揺さぶられた。なぜなら、森さんは、結果的にオバマ大統領を広島に呼び寄せた、“最大の立役者”とも言える人物でもあったからだ。

その森重昭さんを抱き、オバマ氏が背中を優しく撫でるシーンは、事情を知っている人にとって、本当に感慨深かったと思う。私は、昨年の5月26日に当ブログで「広島サミットの実現を」ということを書かせてもらったが、今回、かたちこそ違ったものの、アメリカ大統領の広島訪問を執念で実現した人たちに敬意を表したいと思う。

今回のオバマ広島訪問を実現するために大きな力を発揮した中に、一人の元新聞記者がいる。読売新聞のワシントン支局で特派員として活動し、のちに政治部長となり、現在は、広島テレビの社長を務める三山秀昭氏(69)である。

彼こそ森重昭さんの活動をワシントンのホワイトハウスに持ち込んだ人物である。いや、アメリカ大統領の来訪を待ち望む“広島市民の思い”を「オバマへの手紙」として、ホワイトハウスに持っていった人物だ。

平和公園には、世界中から年間1000万羽を超える折鶴が寄せられている。地元メディアである広島テレビは、その折鶴を再生した紙に、それぞれの思いを書いてもらい、それを「オバマへの手紙」と題し、集めるキャンペーンを続けていた。

三山氏によってホワイトハウスに持ち込まれた広島県知事、広島市長、被爆者、主婦、子どもたちなど幅広い層からの手紙には、「謝罪」を求める言葉や、アメリカへの「恨み」がつづられたものは一通もなかった。

そこには、今回、オバマ氏と対面した被爆者、坪井直さんの「あなたには、人類を救う力がある。来訪を切望しています」というものも含まれていた。被爆者たちの手紙は、ほとんどが「とにかく広島を見てください。そして核廃絶への一歩を共に踏み出しましょう」というものだったのである。

アメリカ大統領の広島訪問に、大きな力となったのは、森重昭さんが、サラリーマン生活のかたわら、捕虜になっていたアメリカ兵がこの原爆で12人も被爆死していることを調べつづけ、これを本(『原爆で死んだ米兵秘史』)として著わしていたことだった。

「広島では、米兵犠牲者も追悼の対象になっています。彼らを含めた全犠牲者を追悼して、核廃絶への祈りを広島から発信してください」

それこそが、広島市民の祈りなのである。71年間もアメリカ大統領の広島訪問が実現しなかったのは、周知の通り、「原爆投下は、その後の日本本土上陸作戦で失われるはずだった多くのアメリカ兵の命を救った」という論がアメリカで大勢だからである。つまり、アメリカでは、原爆投下に対する“謝罪”は許されないのだ。

今回の訪問が実現したのは、招く側の広島にその「謝罪」を要求する意図がなかったからである。その代わり、広島市民の「謝罪ではなく追悼を―」「原爆の悲惨さをその目で焼き付けて“核なき世界”へのアピールをー」という意図がホワイトハウスに伝わったからにほかならない。

三山氏は、ホワイトハウスへ広島市民の「オバマへの手紙」を持っていった際、森さんの被爆米兵に関する英文原稿を持ち込み、「米兵犠牲者も追悼の対象になっている」ことを縷々(るる)説明している。

つまり、アメリカ国内の世論やさまざまな事情を考慮しても、米兵犠牲者の話は、広島を訪れやすい「カード」である、として持ちかけたのである。

そして、ついにオバマ大統領の広島訪問は実現した。今回、森さんは「被爆者として」ではなく、米兵犠牲者を「発掘した人として」特別招待を受けた。その連絡があったのは、訪問わずか2日前の25日であり、アメリカ大使館から「ケネディ大使の要請」という形だった。

なぜ「アメリカ大統領の広島訪問」は実現したのか。そのことを考えると、本当に感慨深い。それは、間違いなく広島の人々の“赦(ゆる)しの心”によるものだったからである。“謝罪”を求めるのではなく、終始、“赦し”の上に立った大義を求める姿勢が、「核なき世界」を夢見るオバマ氏をついに被爆地・広島に呼び寄せたのだ。

憎悪を煽り、国家間の軋轢(あつれき)を助長することで政権の求心力を維持しようとする大国がすぐ近くに存在するだけに、広島の人々が成し遂げた“とてつもない出来事”に、私はただただ頭(こうべ)を垂れるだけである。

カテゴリ: 国際, 歴史

国連でやっと主張された「慰安婦強制連行」の真実

2016.02.17

ああ、やっとここまで来たのか。そんな思いがする。今朝の産経新聞が1面トップで〈慰安婦問題 強制連行説は「捏造」 「20万人、朝日が混同」 政府、国連委で説明〉と報じた。

日本が国連欧州本部で開かれた女子差別撤廃委員会の対日審査で、慰安婦問題に関する事実関係を説明したのである。外務省の杉山晋輔・外務審議官が「強制連行を裏付ける資料がなかったこと」を説明し、強制連行説は故・吉田清治氏による「捏造であった」こと、さらには、朝日新聞が吉田氏の本を大きく報じたことが「国際社会に大きな影響を与えた」ことを指摘したのだ。

日本政府が国連の場で、こうした事実関係を説明するのは言うまでもなく「初めて」のことだ。私は、まだまだ不十分とはいえ、政府、というより外務省の姿勢が変わらざるを得なくなってきたことを、感慨をもって見つめている。「ああ、やっと時代が変わってきた」と。

一方的に糾弾されるばかりで、歴史の真実を歪められてきた日本と日本人が、どう「本当の事実と向き合っていくか」という時代が来つつあるのではないだろうか。

これまで当欄で何度も書いてきたように、従軍慰安婦問題とは、朝日新聞が一貫して報じてきた「強制連行」問題にある。あの貧困の時代、さまざまな事情で、春を鬻(ひさ)ぐ商売についていた薄幸な女性たちが、数多く存在した。

「公娼制度」として、そういう商売が認められていたあの時代に、そんな幸せ薄い生涯を送った女性が多かったことは、歴史に銘記しなければならない「事実」である。

当時、朝鮮の新聞には、大々的に業者による「慰安婦募集」の広告が打たれ、彼女たちは当時の兵士の給料の30倍という「月収300圓」を保証されて慰安婦となっていった。なかには親に売り飛ばされた女性もいただろう。彼女たちの不幸な身の上には、大いに同情しなければならない。「歴史に銘記しなければいけない」という理由は、まさにそこにある。

しかし、これが、無理やり日本軍、あるいは日本の官憲によって「強制連行されたものだ」と喧伝し、世界中に広めた日本のメディアがあった。朝日新聞である。同紙の一連の報道によって、慰安婦強制連行問題は、日本を窮地に追い込むアイテムとなった。

慰安婦の「強制連行」とは、「拉致」「監禁」「強姦」のことである。意思に反して連行されたのなら「拉致」であり、無理やり慰安所に閉じ込められたのなら「監禁」であり、望まない性交渉を強いられたのなら「強姦」だからだ。それを日本が「国家としておこなった」という虚偽が朝日新聞によって世界中にばら撒かれたのだ。

現在、韓国が主張し、世界中に広まっている日本による「従軍慰安婦=性奴隷(sex slaves)」という論拠は、ここに根ざしている。今や世界各地に日本糾弾のための「慰安婦像」が建ち、さまざまな議会で日本非難の決議がなされ、日本の若者の国際進出に対する大きな「障害」となっているのは、周知の通りだ。

しかし、日本が国家として「強制連行した慰安婦」という虚偽に対して、やっと今回、日本政府が国連欧州本部「女子差別撤廃委員会」の対日審査で、初めて「反論した」のである。

私は、「違うこと」を「違う」と言うことができなかった時代を、本当に不幸に思う。いまだにドリーマーでありつづける日本のマスコミが、インターネットの普及によって、真実と向き合わなければならなくなったことを感じる。ついには慰安婦の強制連行を喧伝しつづけた朝日新聞の立場が崩れていったことを、本当に「時代の流れだなあ」と感じるのである。

日本を貶めることに邁進している人々が「歴史修正主義」なる言葉を用いて、盛んに論評をしているのを最近、よく目にする。歴史に重要なのは「真実」だけであり、「歴史修正主義」などという観念論ではなく、慰安婦の強制連行説について、本当に真実を論評して欲しいと思う。

しかし、今日の朝日新聞を読むと、この外務省による“初の反論”も、第2社会面に〈慰安婦問題「不可逆的に解決」 国連委で日本強調〉という小さな記事でしか報じられていなかった。

もちろん、全45行にしか過ぎないその小さな記事の中には、朝日新聞が過去におこなったこと、そしてそのためにこれほどの「日本への不利益」がもたらされたことなどには、一切触れられていない。

私は、今も朝日新聞に“洗脳”されつづける読者が数多くいることを不思議に思う。どうして、そこまで「日本を貶めつづけたいのか」、本当に「なぜなのですか」と聞いてみたい。

歴史上で日本は、数々の過ちを犯している。しかし、それは日本だけではなく、世界中が帝国主義、植民地主義に覆われていたあの時代そのものを把握した上で、考えていかなければならない。そうしなければ、何が真実なのかを見誤ってしまうだろう。

1970年代に、全共闘世代を中心に持て囃された「反日亡国論」。その残滓を今も消し去れないでいる日本の大手マスコミとジャーナリズム。その“負の遺産”を日本のマスコミが拭い去ることができるのは、一体いつのことだろうか、と思う。

今回の国連の場でも、中国から1993年に慰安婦の強制性を認めた「河野談話」をもとに、日本の主張に対して「受け入れられない」という激しい反発があったという。それぞれの国家の思惑が激突する「歴史の真実」をめぐる闘いは、やっと「緒についた」ばかりだ。

真実に対して「謙虚であること」が最も重要であることは言うまでもない。そして、それを毅然として主張しつづけることの困難さも、私たちは理解しなければいけない。

日本には、不幸にして“うしろから弾を撃ってくる「内なる敵」”が数多く存在している。しかし、“情報ビッグバン”というべきインターネット時代に、やっと多くの人々が真実に目覚めつつある。是非、この流れを大切にしてもらいたいと、心から願う。

カテゴリ: 歴史

「戦後70年」日本の未来への“障害”となっているのは何か

2015.08.29

戦後70年の「夏」が終わろうとしている。この夏は、テレビも、新聞も、ラジオも、戦後70年の企画や特集のオンパレードだった。国民の多くが70年前に終わった第二次世界大戦の悲劇の大きさを改めて思い起こしたに違いない。

報道量のあまりの多さに「戦争」と聞いて、辟易(へきえき)している向きも少なくないだろう。私自身は、海外(台湾)まで戦没者の慰霊祭のために出かけるなど、例年にも増して忙しく、印象に残る夏だった。

昨日は、「正論」懇話会の講演で、和歌山まで行ってきた。「毅然と生きた日本人~戦後70周年にあたって~」という演題で話をさせてもらったのである。

そのなかで、私はこの夏に感じたこととして、「日本の未来」に対して「障害」となっているのは「何なのか」という話を、安倍談話を例に出して講演した。それは、中国や韓国との「真の友好」を妨げているのは一体、誰なのか、というものである。

台湾から帰国したあとの8月14日に、私はちょうど「安倍談話」に接した。首相自ら記者会見をして発表した内容は、専門家が長期間、検討して出したものだけに、あらゆるものに配慮したものだったと言えるだろう。

それは、戦争で犠牲になった人々に対して、「国内外に斃(たお)れたすべての人々の命の前に、深く頭(こうべ)を垂れ、痛惜(つうせき)の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます」というものだった。

そして、「いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。先の大戦への深い悔悟の念と共に、わが国は、そう誓いました」と、つづいた。

また、女性の人権についても、「戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、わが国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。21世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります」と、述べたのである。

さらに「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と、建設的な未来への重要性も語った。

それは、戦後、繰り返されてきた過去の談話やスピーチに引けをとらないものであり、実にわかりやすく、印象的なものだったと言える。安倍政権を倒したいメディアでも、さすがにケチをつけにくいのではないか、と私はテレビの画面を見ながら、思ったものである。

しかし、翌日の新聞紙面を見て、私は、溜息が出た。読売新聞や産経新聞を除いて、むしろこの談話を非難するものが「圧倒的」だったのだ。

朝日新聞は、その中でも急先鋒だった。1面で〈引用・間接表現目立つ〉、2・3面も〈主語「私は」使わず〉〈おわび 最後は踏襲〉と攻撃一色で、社説に至っては、〈戦後70年の安倍談話 何のために出したのか〉と題して、徹底した批判を加えた。

それによれば、〈侵略や植民地支配。反省とおわび。安倍談話には確かに、国際的にも注目されたいくつかのキーワード〉は盛り込まれたが、〈日本が侵略し、植民地支配をしたという主語はぼかされ〉、談話は〈極めて不十分な内容〉であったというのである。

そして、社説子は、〈この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった。改めて強くそう思う〉と主張し、〈その責めは、首相自身が負わねばならない〉と締めくくった。

私は、正直、呆れてしまった。それは、いつまで経っても、中国や韓国に「日本攻撃」をするように「仕向ける」報道手法がとられ、これからもそれに添って、中国や韓国が延々と「日本を攻撃していく」という“未来”がわかったからである。

それは同時に、ここまで中国や韓国との間の友好関係が「誰によって破壊されてきたのか」を明確に指し示すものでもあった。

私たちの子や孫の世代、すなわち「未来」に向かって障害となっているのは「誰」なのか、という問いには、自ずと答えが出てくるはずである。それは日本のマスコミが、絶対に日本と中国・韓国との和解と真の友好への発展は「許さない」ということだ。

私は、今から30年前の1985(昭和60)年の夏を思い出す。「戦後40年」を迎えた夏だ。あの時、巷では「戦後政治の総決算」を唱えた当時の中曽根康弘首相を打倒すべく、朝日新聞をはじめ“反中曽根”メディアが激しい攻撃を繰り広げていた。それは、“打倒安倍政権”に邁進している今のメディア状況と酷似している。

この時、中曽根首相の「靖国参拝」を阻止するために大キャンペーンを張っていた朝日新聞が、「人民日報」を担ぎ出し、ついに中国共産党機関紙である同紙に、靖国参拝批判を書かせることに成功するのである。

文化大革命でも明らかなように、中国は「壁新聞」の国である。人民は、“お上”の意向を知るために、北京市の長安街通りの西単(シータン)というところに貼りだされている新聞を読み、上の“意向”に添って行動し、あの文革で権力抗争の一翼を担ったのはご承知の通りだ。

そんな国で、人民日報が取り上げて以降の「靖国参拝問題」がどうなっていったかは、あらためて説明の必要もないだろう。A級戦犯が靖国神社に合祀されたのは1978(昭和53)年であり、それが明らかになったのは、翌年のことだ。その後、この時まで日本の首相は計21回も靖国に参拝しているのに、どの国からも、たった一度も、問題にされたことはなかった。

しかし、朝日が反靖国参拝キャンペーンを繰り広げ、人民日報がこれに追随したこの昭和60年以降、靖国神社は中国や韓国で「軍国主義の象徴」となり、「A級戦犯を讃える施設」とされていった。

靖国神社が、吉田松陰や坂本龍馬を含む、およそ250万人もの幕末以来の「国事殉難者」を祀った神社であることは、どこかへ「消し飛んだ」のである。靖国参拝を完全に「外交問題化」「政治問題化」することに成功した朝日新聞は、より反靖国キャンペーンを強め、中国は日本に対する大きな“外交カード”を手に入れたのである。

慰安婦問題については、これまで当ブログで何度も取り上げ、しかも、昨年、朝日新聞による訂正・撤回問題に発展したので、ここでは触れない。しかし、この問題も朝日新聞によって「外交問題化」「政治問題化」していったことは周知の通りだ。

今回の安倍談話でも、中・韓に怒りを呼び起こすように記事化し、「これでもか」とばかりに一方的な紙面をつくり上げた朝日新聞をはじめとする日本のメディア。私は、溜息をつきながら、これらの記事をこの夏、読んだのである。

折も折、フランスの「ラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)」がその2日後の8月17日、興味深い報道をおこなった。同ラジオは、フランス外務省の予算で運営されている国際放送サービスだ。

この放送の中国語版が安倍談話を取り上げ、これを報じた『レコード・チャイナ』によれば、「中国が歴史問題で日本に毎年のように謝罪を迫るのは根拠のないことだ」「日本は中国への反省や謝罪だけでなく、罪を償うための賠償もしている」「永遠の不戦を誓った日本に比べ、日本による侵略、植民地化をくどくどと訴える中韓は、あまりにも遅れている」と論評した。

その内容は、常識的、かつ中立的なものと言える。敗戦国も「領土割譲や賠償、戦勝国による一定期間の占領、戦争裁判などが終われば、敗戦国の謝罪や清算も終わりを告げられる」ものであり、償いを終えた敗戦国にいつまでも戦争問題を訴え続けることに疑問を呈したのである。

さらには、「平和主義、民主主義を掲げる日本が、軍事拡張路線、権威主義の中国に屈することはない」と主張し、日本の首相が替わるたびに中国が謝罪を求めていることは、同じ敗戦国である「ドイツやイタリアでは見られない事態」だというのである。

その報道は、最後に「安倍談話に盛り込まれた“謝罪”というキーワードは、表面上は中国の勝ちのように思われがちだが、国際世論を考えれば本当の勝者は安倍首相だ」とまとめられている。だが、RFIが報じたこの内容は、日本のメディアには、ほとんど無視された。

70年もの間、平和国家としての実績を積み上げてきた日本が、「力による現状変更」で、今や世界中の脅威となっている中国に対して「謝り方が足りない」と当の日本のメディアによって主張されていることを、私たちはどう判断すればいいのだろうか。

私には、代々の日本の首相などが表明してきた謝罪や談話の末に「戦後50年」の節目に出された村山談話で、日本と中・韓との関係は、どうなったかが、想起される。

朝日新聞をはじめ日本のメディアが歓迎したあの村山談話の「謝罪と反省」によって、両国との関係は、むしろ「それまで」より悪化していった。村山談話以降の歳月は、両国との関係が“最悪”に向かって突っ走っていった20年だったのである。

どんなに反省し、謝罪しようが、彼らを“煽る”日本のメディアはあとを絶たず、日本への怒りを中・韓に決して「収まらせはしない」のである。そして、この「戦後70年」夏の報道でもわかった通り、それは「今後もつづく」のである。

どんなことがあっても、日本の未来への“障害”となりつづける日本のマスコミ。私たちの子や孫の世代に大きな重荷を負わせるそんな日本の媒体が、なぜいつまでも存続できているのか、私にはわからない。

カテゴリ: 歴史

戦後70年「バシー海峡慰霊祭」に集った人々の涙

2015.08.02

本日(8月2日)午前11時15分から、台湾南部の屏東(へいとう)県猫鼻頭にある潮音寺において、「戦後70周年バシー海峡戦没者慰霊祭」がおこなわれた。

バシー海峡と聞いて、すぐに「ああ、あそこか」と思う人は、相当な台湾通であり、戦争通だろう。太平洋戦争(大東亜戦争)末期、台湾とフィリピンの間に横たわるバシー海峡は、米軍が同海峡に敷いた潜水艦の“群狼作戦”によって、南方への日本の輸送船の多くが撃沈されるという悲劇の舞台となった。

それでも、太平洋戦争の日米主力の“決戦の場”となったフィリピンのルソン島、レイテ島への兵力の輸送は必要欠くべからざるものであり、大本営の無謀な輸送作戦は強引に続けられ、犠牲者も膨大な数になっていった。

1944(昭和19)年から1945(昭和20)年にかけて、バシー海峡は大本営によって、 “魔の海峡”“輸送船の墓場”と称されるようになった。

バシー海峡での戦没者の数は今も定かでない。しかし、バシー海峡とその周辺海域で、少なくとも、「10万人」の犠牲者が出たと言われている。私は、昨年10月、この海峡の悲劇を描いた戦争ノンフィクション『慟哭の海峡』を上梓した。

主役の一人は、昭和19年8月、乗っていた輸送船「玉津丸」がバシー海峡で撃沈され、12日間もの地獄の漂流の末に奇跡的に救助された独立歩兵第十三聯隊の通信兵、中嶋秀次上等兵(2013年10月、92歳で死去)である。

中嶋さんは飲み水もない炎熱のバシー海峡を12日間も筏(いかだ)で漂流し、当初50人ほどいた漂流者の中で、たった一人、生還した。

バシー海峡の戦没者は、あくまで輸送途上の「戦死」である。 これまで大規模な慰霊祭がおこなわることもなく、「忘れ去られた戦没者」となっていた。

生き残った中嶋さんは戦後、無念の涙を呑んで死んでいった戦友たちの慰霊と鎮魂のために、半生を捧げた。戦後36年を経た1981(昭和56)年、中嶋さんは、バシー海峡を見下ろす同地に私財と日台の多くの協力者の浄財によって、やっと鎮魂の寺「潮音寺」を建立したのである。

以来、34年。長い間、風雨に晒されつづけたその潮音寺で、「戦後70年」を記念して、本日、慰霊祭がおこなわれたのだ。

どこまでも青く澄み渡った空の下、バシー海峡戦没者の遺児でもある臨済宗禅林寺の吉田宗利住職(73)による読経が潮音寺に流れる中、参列者およそ170名が、ひとりひとり順番に焼香していった。吉田住職は、拙著に登場する「駆逐艦呉竹」の吉田宗雄艦長の忘れ形見である。

3歳の時に死に別れた父親の顔を吉田住職は記憶していない。しかし、母親が亡き夫の海軍兵学校の同期の文集に残した手記には、父子が別れる時のようすがこう綴られている。

〈主人と長男は固く握手をして「じゃあ、行ってくるよ。元気でいるんだよ」と頭をなで、短い言葉を残して、決然たっていきました。虫が知らせたのか、長男宗利は、いつまでもいつまでも泣き叫んで、「父ちゃんについていくんだ」と駄々をこね、困らせました。主人がそれに答えるように幾度ともなく振り返り、手を振り振り元気でたって行った姿が、今もなお脳裏を離れません〉

その3歳の子供が、戦後70年を経て73歳となり、亡き父と、10万人におよぶ戦没者に対してお経をあげるために、佐賀県小城市からわざわざやって来てくれたのである。

潮音寺の前に設えられた祭壇の横には、李登輝・元台湾総統、海部俊樹・元総理、小泉進次郎・衆院議員、ジャーナリスト・櫻井よしこ、評論家・金美齢……等々の各氏からの花輪がところ狭しと並んでいた。また音楽巡礼者であり、シンセサイザー奏者である西村直記氏による「バシー海峡にささぐ」も演奏された。

吉田住職の読経の中、ご遺族をはじめ多くの参列者が焼香をおこなった。私もその一人だ。風雨に耐えてきた潮音寺の二階本堂に、ひとりひとりが上がり、戦没者に手を合わせた。私は、ご遺族の姿を見ながら、胸が一杯になった。

「人は二度死ぬ」と言われる。一度目は、肉体の「死」という物理的な死である。二度目は、その存在と死さえも、忘れ去られる時だ。

輸送途上の戦死者は、国からも、軽んじられてきた。しかし、その “忘れ去られた戦没者”に対して、ご遺族をはじめ、多くの方々が集まり、心から手を合わせてくれていた。

目に涙を浮かべながら焼香する方もいた。戦後70年を経て、バシー海峡戦没者への真の意味の「鎮魂」と「慰霊」が、吉田住職の読経のなかで、おこなわれたのである。

私には、尊い命を捧げた戦没者たちに「あなた方のことは決して忘れません」と、それぞれの参列者たちが心で伝えているように感じられた。

そのあと、バシー海峡の海岸線に行って、海への献花がおこなわれた。吉田住職がふたたび読経をおこなう中、参列者の中から、思わず、「おーい、日本に帰ってこいよぉー!」という声が上がった。魂だけでも日本に帰って来てくれ、という意味である。

南国でしか見ることができない抜けるような真っ青な空の下、目の前に広がるコバルトブルーのバシー海峡に向かって、参列者の間から、そんな声が飛んだのだ。日本に帰って来て欲しい――それは、参列者遺族たちにとって共通する思いだろう。

ご遺族の中には、父をバシー海峡で喪い、その妻である母親も亡くなり、母の遺骨を持って参列されていた女性がいた。母の遺骨を海に流しながら、女性は「お父さん。お母さんと一緒に日本に帰ろう」と、バシー海峡に向かって語りかけていた。

その時、「海ゆかば」が参列者の間から流れ出した。武道家・三好一男氏が、その歌声に合わせて、鎮魂の空手演武をバシー海峡に向かっておこなった。戦後70年――私は台湾最南部のバシー海峡を望む地で、亡くなった方々の無念を忘れまいとする人、そして本当の平和を祈る人の姿を見ることができた。

夜、高雄の国賓大飯店で慰霊祭の晩餐会がおこなわれた。その場で、これまで潮音寺の維持のために力を尽くしたきた台湾の方々に感謝状が渡された。私も、『慟哭の海峡』の著者として、「バシー海峡戦没者の無念と未来」と題した講演をさせてもらった。

夥しい数の日本の若者の「命」と「無念」を呑みこんだバシー海峡。彼ら戦没者を「二度」死なせることがあってはならない。私は、講演でそんな話をさせてもらった。慟哭の海峡は、70年という時を超えて、今も平和の尊さを静かに訴えていた。

カテゴリ: 歴史

中国国防白書と「広島サミット」の実現

2015.05.26

今日、中国政府は2年に1度の国防白書「中国の軍事戦略」を発表し、国防部の楊宇軍・報道官が記者会見をおこなった。南シナ海での領有権争いについて、白書にいったいどんな表現を盛り込むのか、注目が集まっていた。

周知のように、中国は南沙諸島(スプラトリー諸島)で7つの岩礁を遥(はる)か800㌔も離れた中国本土の土砂で埋め立て、飛行場や港湾施設らしきものを猛然と建設中だ。去る4月、米軍高官が「これは、“砂の万里の長城”だ」と厳しく非難し、南シナ海での力による中国の現状変更が、国際社会の懸念材料としてこれまで以上にクローズアップされていた。

国防白書の表現は、予想通り、「一部の域外の国が南シナ海問題に全力で介入している」とするものだった。「一部の域外の国」とは、言うまでもなくアメリカのことだ。名指しこそしないものの、アメリカを非難し、この問題で「一切、妥協しない姿勢」を中国は、世界に宣言したのである。

白書はこう続いている。「一部の域外の国は、頻(しき)りに海や空での偵察活動をおこなっている。われわれの海上主権を守る争いは、これから長い期間に及ぶだろう」。そう前置きして、白書はさらにこう強調した。「(われわれは)海上軍事闘争の準備を最優先し、領土主権を断じて守り抜く」と。

これまで中国要人が繰り返し発言してきた通り、国防白書でも、領有権争いでの「核心的利益」を守り抜く姿勢を明確にし、「アメリカとの対決」をも辞さない決意を明らかにしたのである。

また、日本に対しては、「日本は、戦後体制からの脱却を積極的に追求し、安全保障政策を大幅に変更した。日本の行方が地域の国々の高い関心を集めている」と、日本の動きを牽制した。

私は、昨年8月、日本が中国の海洋進出などを批判した2014年版「防衛白書」を発表した際、「日本は中国との対話を求めながら、一方で誤った立場を堅持し、中国の脅威を宣伝している」と、同じ国防部の楊宇軍・報道官が激しく非難したシーンを思い出した。

「もはや中国の暴走は、誰にも抑えられない」――そんな感想を誰もが抱いたのではないだろうか。“力による現状変更”は、相手国の堪忍袋の緒が切れた時、一挙に最悪の事態に突き進むのは、これまでの歴史が証明する通りだ。

フィリピンから在比米軍が撤退した1990年代半ば、中国は南沙諸島のミスチーフ礁を一挙に占領して建造物を構築し、その後も着々と“力による現状変更”をつづけ、ついには“砂の万里の長城”を築くに至っている。

昨年のロシアによるウクライナ問題(クリミア危機)と、中国による南シナ海領有権問題は、両国が国際秩序に対して真っ向から対決姿勢を示している点に特徴がある。

私は、これらの事態を前にして、自由主義圏のこれまで以上の団結が問われていると思う。その国際社会の結束と世界平和のために是非、来年、実現して欲しいものがある。

それは、「広島サミット」だ。来年、日本でのサミット(主要国首脳会議)の開催都市の決定が、いま大詰めを迎えている。早ければ、6月早々にも発表されるだろう。

私は、是非、「広島」でのサミット開催を望みたい。先週、核拡散防止条約(NPT)再検討会議で「各国指導者らに被爆地訪問を要請」する一文が、中国の反対で合意文書から削除された。その理由が、「日本は第二次世界大戦の加害者ではなく、被害者であるかのように描こうとしており、同意できない」というものである。

また、習近平国家主席は、去る5月23日夜、3000人の訪中団を組織してやって来た二階俊博・自民党総務会長に対して、「日本軍国主義の侵略の歴史を歪曲(わいきょく)し、美化しようとするいかなる言動に対しても、中国国民とアジア被害国の人々は許さないだろう」と語った。

“力による現状変更”を押し進める中国によって、戦後70年におよぶ地道な日本の平和への貢献と努力が、踏みにじられているのである。

増大する中国の脅威を前に、これほど先進自由主義諸国の結束が必要な時はないだろう。だが、戦後70周年を迎えても、日本に謝罪を求めつづけているのが、中国と韓国だ。しかし、「広島」はどうだろうか。

あれほどの悲劇を受けながら、広島では知事、市長、経済界も含め、多くの広島市民がアメリカに謝罪を要求していない。いや、アメリカを含む各国首脳を心から歓迎し、核軍縮と平和への実現に手を携えて進んでいきたいと呼びかけている。

オバマ大統領は、2009年4月、チェコ共和国の首都プラハで、「核廃絶」への具体的な目標を示した演説によって、ノーベル平和賞を受賞している。そのオバマ氏も、再来年には大統領としての任期を終える。

もし、オバマ大統領が、広島でのサミットで、核軍縮に対するメッセージを世界に発信し、さらに“力による現状変更”には、国際社会が決然と立ち向かうという姿勢を示すことができたら、どれほど有意義なサミットになるだろうか。もはや怖いもの知らずでやりたい放題となった中国にとっても、それは脅威となるに違いない。

そして、これまで日本の歴代の総理が表明してきた「反省」と「お詫び」を全くかえりみずに「日本批判」と「謝罪要求」を繰り返す韓国にとっても、広島の人たちの前向きな姿勢は、測り知れない衝撃をもたらすだろう。

それは同時に、オバマ大統領にとっても、勇退への花道として歴史的なものになる可能性がある。自ら主体的に広島を訪問するのではなく、日本政府が決めたサミット開催場所が「広島」なら、アメリカ国内の保守派の反発を受けることなく、自然なかたちで広島訪問を実現でき、さらにそこでノーベル平和賞受賞者としての歴史的演説のチャンスがめぐってくるからである。

私は、将来、核軍縮と21世紀の平和が、「広島からスタートした」と言われるようになることを望む。それと同時に小渕恵三首相(当時)が多くの反対を押し切って「沖縄サミット」を実現した時のことを思い出す。

1999年4月22日の読売新聞夕刊1面トップに、「2000年サミット、福岡で」「東京以外では初開催 小渕首相固める」という“スクープ記事”が載った。

それは、小渕首相が翌年に予定されているサミットの開催地を「福岡市とする意向を固めた」というものだった。読売新聞は、周到にこの報道の準備を進め、当時の野中広務官房長官、鈴木宗男官房副長官らから情報をとり、大々的に“スクープ”したのである。

しかし、その報道の当日、小渕首相は、野中、鈴木両氏を部屋に呼んで「君たちはどう思っているかわからんが……」と前置きして、「私は、サミットを沖縄でやりたいんだ」と語った。

「えっ?」と二人が息を呑んだのは当然である。もはや「福岡サミット」が最有力となって、野中、鈴木両氏も、そのことに疑いを持っていなかったからである。

しかし、小渕首相はその時に初めて自分の真意が「沖縄」にあることを告げ、そしてその言葉通り、信念を曲げることなく、太平洋戦争の激戦の地でのサミットを敢然と実施したのである。

その沖縄サミットの時に比べて、国際平和への懸念は、中国の台頭によって遥かに増大している。そして、“軍国日本”を強調することによって自分たちを善なる立場に置こうとする中国の戦略は、露骨なまでに剥き出しになってきている。

私は、国際平和のために、そして核軍縮への道のために、「広島サミット」を是非、安倍首相に実現して欲しいと思う。それが70年間、ひたすら平和を希求し、核軍縮を望んでやまない日本国民と、心ある世界の人々の期待に応える方法ではないか、と思う。

カテゴリ: 中国, 歴史

日本は「台湾」を支えることができるのか

2015.02.05

台湾の霧社(南投県仁愛郷)で「桜の植樹祭」を終えたあと、私は台南と高雄で「二二八事件」の取材をおこない、昨夜遅く台北から日本に帰ってきた。

後藤健二さんがISによって殺害されたという痛ましいニュースに接したのは、霧社でのことだった。台湾でもニュースが流れ、衝撃を受けた。同じジャーナリストの一人として、後藤さんに心より哀悼を表したい。

さらに、昨日は、台北の松山空港で、金門島行きの復興(トランスアジア)航空の飛行機が墜落した。ちょうどその時間、私は基隆河にかかる大直橋をタクシーで通っていた。墜落現場は、そこから数キロ東の基隆河であり、おまけに「タクシーが巻き添えになった」と聞き、ひやりとした。

金門島行きの航空便は、拙著『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(角川文庫)の金門島取材の時にいつも利用していたものだ。乗り慣れた国内便だけに、ニュースを聞きながら、他人事ではない気がした。

さて、霧社の桜の植樹祭は、2月1日に滞りなく終わった。私自身も、桜を1本、植樹した。前夜には、霧社の近くの廬山温泉に集まった参列者たちを前に、短い講演もさせてもらった。「歴史とは“無念”の思いの積み重ねである」という話である。

霧社には、蜂起したセデック族に惨殺された女性や子供を含む約140人の日本人の無念が、今もこもっている。日本軍と警察による合同の鎮圧部隊によって800人を超えるセデック族など原住民が討伐され、彼らの無念も、霧社には漂っている気がした。

1930(昭和5)年の事件以来、すでに85年が経過した。霧社ほど、その歳月の経過を感じさせてくれる地も珍しいだろう。その間に、山岳地帯にあるこの霧社が、大きな「変化」を遂げたからだ。

日本の敗戦で入ってきた国民党によって、事件の首謀者モーナ・ルダオは、一転、「抗日英雄」となった。霧社の中心部には、抗日英雄紀念公園があり、そこには、モーナ・ルダオを讃える「紀念碑」と「像」と「墓」があった。

一方、日本人犠牲者の殉難碑は、長い年月の間に完全に“消されて”いた。かつて日本人殉難碑の下には、日本人犠牲者の遺骨が眠っていた。殉難碑そのものが「墓地」でもあったのだ。

その日本人殉難碑は、やがて壊され、その上に今は白い建物が建っている。案内してくれた地元の人によれば、「殉難碑が壊された後、掘り返したら大量の骨が出てきた。それを埋め直して、上に建物をつくったのだ」と説明してくれた。

無惨というほかない。セデック族の蜂起によって、小学校の運動会の場で、集まった日本人は女子供の区別なく首を狩られた。そして、その遺体は一か所に集められ、葬られたのである。

しかし、1945(昭和20)年、戦争に負けた日本は台湾を去った。すると、前述のようにセデック族の頭目モーナ・ルダオが「抗日英雄」とされ、逆に日本人犠牲者の墓が「消された」のだ。私たちが植えた桜が満開の花を咲かせる時、無残に消された日本人犠牲者の遺骨は、それをどう眺めるのだろうか。

私は、そんな思いを抱きながら、霧社から下りた。そのまま私は、台南に向かった。台南で、1947年(昭和22)年に起こった「二二八事件」のある犠牲者のことを取材するためである。

そこには、日本人として死んだ、たった一人の「二二八事件」の犠牲者がいる。私は、その一家の5代にわたる日本への思いと絆を描きたいと思っている。

国民党独裁政権の下で、戦後の台湾人は、「価値観」も、「アイデンティティ」も、また「言語」さえも、完全に“分断”された。そして「留日」と呼ばれた日本で学んだ台湾人エリートたちは、徹底した弾圧を受けた。

今も拭えない「外省人」と「本省人」の深い溝は、そこに起因する。それでも、必死で生きようとする台湾人は、代を越えて、やっと自分たちの「価値観」と「アイデンティティ」を確立しようとしている。

しかし、それは同時に「中国との距離」が開くことを表わしている。外省人を支持基盤にする国民党が急速に中国共産党と接近をはかり、それを台湾人が阻止しようとする図式は、今後も続くだろう。

その意味で、来年の総統選は、今まで以上の激戦となり、さらに言えば、「台湾の運命」を決するものになるに違いない。

いま台湾は、観光地という観光地が中国人によって占められている。その光景が示すように、経済的に台湾は中国への依存度を年を追うことに強めている。もし、民進党候補者が総統になれば、たちまち中国は露骨な干渉に出てくるだろう。

台湾への観光客をストップさせるのか、あるいは台湾からの商品について関税をいじるのか。中国が台湾に嫌がらせをする手段はいくらでもある。中国が仕掛けてくる、そんな経済戦争に、いったい台湾はどう立ち向かうのだろうか。

その時、ポイントになるのは、「日本」である。すなわち日本が台湾にどう手を差し伸べ、どう根底から支えるのか。

安全保障上も、お互いが最も重要な地位にあることを、口にこそ出さないものの、お互いがよくわかっている。覚悟と友情を持って、日本は台湾を支えるべきだと、私は思う。

日本と台湾との“絆”を表わす、ある一家の「5代」にわたる日本への思い――「二二八事件」で無惨な最期を遂げた人物を軸に、ある「一家」の物語を、いつかノンフィクション作品として完成させたい。そんな思いが離れることがなかった台湾の旅だった。

カテゴリ: 台湾, 歴史

朝日誤報事件「故郷土佐」で訴えたこと

2014.10.27

一昨日、昨日(土・日)に、2日続けての講演で故郷・高知に帰ってきた。25日は、昭和19年10月25日に戦局挽回のために特攻が始まって70年目の記念日だった。その日に合わせて、「特攻、その真実」というテーマで、故郷で講演をさせてもらった。

ちょうど今月、戦争ノンフィクション『慟哭の海峡』(角川書店)を出したばかりでもあり、故郷での講演ということで、ふたつ返事で引き受けさせてもらった。

特攻第1号といえば、関行男大尉が率いた「敷島隊」が広く知られている。しかし、この定説には異論が存在する。というのも、敷島隊は10月21日の初出撃で敵艦隊を発見できず、23日、24日の出撃を合わせて、計3度も引き返している。

やっと10月25日の「4度目」の出撃によって敵艦隊と遭遇することに成功。250㌔爆弾を抱いて体当たりを敢行し、空母一隻撃沈、さらに一隻が火災停止、軽巡洋艦一隻も轟沈という大戦果を挙げたと伝えられる。だが、その時、実は時間的には、敷島隊ではなく「菊水隊」の方が先に敵に特攻を敢行していたのではないか、という説が存在する。

海軍兵学校出の関大尉を“第一号”にしたかった海軍上層部の意向があり、菊水隊は記録上、特攻“第一号”とはなっていない。しかし、どこが第一号なのかというこの“時間論争”は専門家の間では、いまだに議論がなされている。

菊水隊には、高知県幡多(はた)郡出身の宮川正・一等飛行兵曹がいた。私は、この宮川一等飛行兵曹の逸話をはじめ、特攻にまつわるさまざまなエピソードを紹介しながら、当時、最前線で戦った男たちの「信念」と「無念」を語り継ぐことの重要性を講演で話させてもらった。

そして、昨日の26日には、「ネット新時代のジャーナリズムを考える~朝日新聞は何に敗れたのか~」というホットなテーマで、講演をさせてもらった。こちらは、話題がホットなだけに、聴いてくれている人たちの熱気がより伝わってきて自然と力が入った。

高知は、土佐出身の自由民権運動家・植木枝盛が立志社の機関誌『海南新誌』創刊号巻頭に「自由は土佐の山間より出ず」と書いた言葉でわかるように、日本の「自由と民主主義」の原点となった地である。私はその土佐で、いま日本が「時代の転換点に立っている」ことを話させてもらったことに少なからず意義を感じている。

真実を追及するのではなく、自らの「イデオロギー」や「主張」に従って、自分の都合のいい事実をピックアップして「真実」とはほど遠いものを掲げて大衆を誘導していく――私が長く“朝日的手法”と呼んできた日本のジャーナリズムの悪弊をじっくり2時間にわたって話をさせてもらった。「朝日新聞の敗北」の意味を私なりの解釈で講演させてもらったのである。

一連の従軍慰安婦報道と「吉田調書」報道――朝日新聞を襲ったこの二つの事柄は決して難しく考えることはないと思う。このことで明らかになったのは、これまで当ブログでも書きつづけているように、「朝日新聞は日本を貶めるためなら真実を捻じ曲げる」という、ただそれだけのことである。

なぜ朝日は事実を曲げてでも、日本を貶めたいのか。これは、1970年代に新左翼がもてはやした「反日亡国論」を理解しないとわかりにくいかもしれない。

日本の戦後は、「戦争を反省すること」から始まったことに異論はないだろう。戦争とは“絶対悪”なので、戦争を反省することに誰も反対はない。しかし、戦争をするというのは、一方が悪いのではなく、両方に必ず非があるはずなのに、日本では「日本だけがすべて悪かった」という短絡的な戦争反省論が構築され、それに支配されてきたことに不幸の第一があった。

それは、GHQによって生み出された非常に歪(いびつ)な戦争反省論だった。それも無理はなかっただろう。もし、「戦争犯罪」を指弾するなら、“焦土化作戦”によって、日本中の都市を焼き払い、広島・長崎に住む非戦闘員の頭上に原爆を投下したアメリカは、国際法に違反しただけでなく、人道上の罪という観点からも、本来、「許されるものではない」からである。

しかし、そのことから逃れ、日本だけを糾弾するためには、日本の指導者を徹底的に非難し、「日本だけが悪かった」という理論を構築する必要があった。昨日までの日本の指導者たちが断罪されることに多くの日本人は戦争に敗れたことの悲哀を感じ、瞑目(めいもく)した。

だが、そのGHQにもろ手を挙げて同調し、日本を弾劾する方向に突っ走っていった新聞があった。それが、戦前・戦中を通じて最も軍国主義を煽った朝日新聞である。GHQの顔色を窺いながら、ひたすらGHQにとって“愛(う)いやつ”になったメディアの代表が朝日新聞である。

朝日は、ひたすら「日本だけが悪かった」という論陣を張りつづけ、それに反する意見や文化人を全面否定する路線をひた走った。自分の意見に反対する者に“右翼”のレッテルを貼り、「日本だけが悪かった」論を拡散させつづけるのである。

それが全盛時代を迎えたのが、1970年代である。ベトナム反戦の風潮に乗って今度は「反米」を掲げた朝日は、全共闘世代、いわゆる団塊の世代に全面的に受け入れられた。それでも朝日新聞は「日本だけが悪かった」という主張を引っ込めることはなかった。

「日本だけが悪かった」という理論は、やがて新左翼の間に「反日亡国論」を生んだ。アジアの人民に災厄だけをもたらした日本人には“生存する権利”などなく、文字通り滅びればいい、という極端な理論である。強固な「反日」の思想は、当時の若者に幅広く受け入れられ、特にジャーナリズムの世界に「根を張る」ことになる。

そして、朝日新聞をはじめ、日本のメディアは大衆を誘導するためには、「事実」を自分の主張に合うべく都合よく“加工”し、それで大衆を誘導していくことの手法を多用していくようになる。“真実”より“イデオロギー”という時代の到来である。朝日新聞はいつの間にかそのことに慣れ、次第にそれが“当たり前”のようになっていった。

私は、2014年9月11日、朝日新聞が「吉田調書」報道で自らの誤報を認め、謝罪の上に自らの記事を撤回した時、「ああ、時代の転換点が遂にやって来た」と思った。それは、事実を捻じ曲げてまで自分の国を貶めるジャーナリズムの正体がやっと国民の前に「明らかになった」という意味である。

朝日新聞とは、平和を愛し、先人を敬い、家族や郷土、そして国を愛するという大多数の日本人の「実は敵だった」ことがやっと「明らかになった」のである。

日本人は「決して誇りを持ってはいけない」「国を愛するのは右翼だ」「日の丸は許されない」という彼(か)の国の代弁者ともいうべき存在でありつづけた朝日新聞の正体、ひいては“進歩的”ジャーナリズムの問題点が私たちの前に明らかになった意義は大きいと思う。

朝日新聞の木村伊量社長が、社内の動揺を鎮めるために8月28日に社内メールで出した内容は興味深い。週刊文春によってスッパ抜かれたその中身には、こういうくだりがあった。

「私の決意はみじんもゆらぎません。絶対ぶれません。偏狭なナショナリズムを鼓舞して韓国や中国への敵意をあおる彼らと、歴史の負の部分を直視したうえで互いを尊重し、アジアの近隣諸国との信頼関係を築こうとする私たちと、どちらが国益にかなうアプローチなのか。改めて問うまでもないことです」

平和を愛し、先人を敬い、家族や郷土、そして国を愛するという大多数の日本人の心が、木村社長には「偏狭なナショナリズム」としか捉えられないのだろうと思う。そして、「歴史の負の部分を直視したうえで互いを尊重し、アジアの近隣諸国との信頼関係を築こうとする」のが朝日新聞なのだそうだ。

私は、申し訳ないが、こう言わせていただきたい。「歴史の真実をねじ曲げて誤った情報を世界に広げ、アジアの近隣諸国との信頼関係を決定的に破壊してきた」のが朝日新聞なのだ、と。

日本人は今、朝日新聞の長年の報道によって、朝鮮人女性の「強制連行」というありもしない事実をつくり上げられ、「慰安婦=性奴隷(sex slaves)」を弄んだ日本人として世界中から非難されている。

そこまで歴史の真実をねじ曲げて、朝日新聞が「日本と日本人を貶めるのはなぜですか?」と、私は本当に朝日新聞に聞いてみたい。多くの日本人は、「偏狭なナショナリズム」など持っていない。あなたが勝手にそんな“敵”をつくり上げて、自分の立ち位置を「正しいもの」と強弁しているだけではないですか、と問うてみたいのである。

私は、そんな話を故郷・土佐でさせてもらった。「自由は土佐の山間より出ず」という自由発祥の地で、戦後ジャーナリズムのくびきから脱することの「意義」について、最初に話をさせてもらったことに、私は深い感慨を覚えた。

カテゴリ: マスコミ, 歴史

従軍慰安婦「記事取り消し」でも開き直った朝日新聞

2014.08.05

本日(8月5日)紙面で朝日新聞が、突如、従軍慰安婦の大特集を組んだ。しかし、まるで子どものようなひとりよがりの記事に、私は絶句してしまった。“僕だけじゃないもん!”――そんな駄々っ子のような理屈に、言葉を失った読者は多いのではないだろうか。

「この記事は、本当に朝日が従軍慰安婦報道を反省し、撤回したものなのか」。私は、本日の朝日新聞の大特集を読みすすめながら、そう思った。「これは、逆に火に油をそそぐものかもしれない」と。

従軍慰安婦問題とは、朝日新聞が一貫して報じてきた「強制連行問題」にある。あの貧困の時代、さまざまな事情で、春を鬻(ひさ)ぐ商売についていた薄幸な女性たちが数多く存在した。そういう商売が「公娼制度」として現に認められていた、今とは全く異なる時代のことである。

彼女たちは当時の兵士の給料の30倍という「月収300圓」を保証されて慰安婦となった女性たちである。新聞に大々的に業者による「慰安婦募集」の広告が打たれ、その末に集まった女性たちだ。なかには親に売り飛ばされた女性もいただろう。彼女たちの不幸な身の上には、大いに同情しなければならないと思う。

だが、これが、無理やり日本軍、あるいは日本の官憲によって「強制連行された」となれば、まったく様相は異なる。それを主張してきたのが、ほかならぬ朝日新聞である。

「強制連行」とは、すなわち、従軍慰安婦たちは日本によって「拉致」「監禁」「強姦」された被害者だった、という意味である。意思に反して連行されたのなら「拉致」であり、無理やり慰安所に閉じ込められたのなら「監禁」であり、望まない性交渉を強いられたのなら、それは「強姦」であるからだ。

現在、韓国が主張し、世界中に広まっている日本による「従軍慰安婦=性奴隷(sex slaves)」という論拠は、まさにそこにある。その結果、今や世界各地に日本糾弾のための「慰安婦像」が建ち、さまざまな議会で日本非難の決議がなされ、日本の若者の国際進出に対する大きな「障壁」となっているのは、周知の通りだ。

言いかえれば、韓国と歩を一にして、「日本を貶めつづけた」存在が朝日新聞にほかならない。私はそのことに対して、どの程度の真摯な反省が記述されているのか、今日の記事を読みすすめた。まず第1面に〈編集担当 杉浦信之〉という署名で書かれた〈慰安婦問題の本質 直視を〉と冠する記事には、こう書かれている。

〈私たちは元慰安婦の証言や数少ない資料をもとに記事を書き続けました。そうして報じた記事の一部に、事実関係の誤りがあったことが分かりました。問題の全体像がわからない段階で起きた誤りですが、裏付け取材が不十分だった点は反省します〉

私は、これは朝日新聞が真摯な反省をするのかと思い、期待した。しかし、それはすぐに失望に転じた。それは、次のくだりである。信じられない朝日独特の論理がそこには展開されていた。

〈似たような誤りは当時、国内の他のメディアや韓国メディアの記事にもありました。こうした一部の不正確な報道が、慰安婦問題の理解を混乱させている、との指摘もあります。しかし、そのことを理由とした「慰安婦問題は捏造」という主張や「元慰安婦に謝る理由はない」といった議論には決して同意できません。
 被害者を「売春婦」などとおとしめることで自国の名誉を守ろうとする一部の論調が、日韓両国のナショナリズムを刺激し、問題をこじらせる原因を作っているからです。見たくない過去から目を背け、感情的対立をあおる内向きの言論が広がっていることを危惧します。
 戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできません。慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです〉

「えっ? それはないだろう」。この言い分を読んで納得する人がどれだけいるだろうか。ここにこそ、朝日新聞特有の巧妙な論理の“すりかえ”がある。

彼女たちが薄幸な女性たちであることは、もとより当然のことである。貧困のために、心ならずも身を売らなければならなかった不幸な女性たちに、今も多くの人々が同情している。私もその一人だ。

しかし、朝日新聞は、彼女たちが自分たちの意思に反して無理やり「日本軍や日本の官憲」によって、「戦場に連行」された存在だった、としてきたのである。だからこそ、日本は「拉致」「監禁」「強姦」国家である、という汚名を着せられているのだ。

その根拠なき「強制連行」報道を反省すべき朝日新聞が、〈「慰安婦問題は捏造」という主張や「元慰安婦に謝る理由はない」といった議論には決して同意できません〉と、改めて主張したのである。

これは、一部勢力の過激な「従軍慰安婦論」を持ち出すことによって、自分自身を“善”なる立場に持ち上げて「擁護」し、自らの「正当性」を訴えているのだ。これは一体、何なのだろうか。

さらに、この記事は、問題の本質をこう捻じ曲げている。〈戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできません。慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです〉

この手前勝手な論理に、私は言葉を失ってしまった。〈問題の本質〉とは、朝日新聞が“虚偽の証言者”を引っ張ってくることによって、歴史の真実を捻じ曲げ、従軍慰安婦のありもしない「強制連行問題」をつくり上げたことではなかったのだろうか。

そして、そのことによって、日本人が将来にわたって拭い難い汚名を着させられ、国際社会で「性奴隷を弄んだ日本人」として、謂われなき糾弾を受けていることではないのだろうか。

私が、「こんなひどい論理が許されるのだろうか」と思う所以である。私は記事を読みすすめた。1面で開き直りの宣言をおこなった朝日新聞は、今度は16面、17面をブチ抜いて、〈慰安婦問題 どう伝えたか 読者の疑問に答えます〉という記事を掲げている。

ここでは、5つの事象で、読者に対して「説明」をおこなっている。しかし、その5つの説明は、どれも納得しがたい論理が展開されている。特に驚くのは、肝心の「強制連行」に関するものだ。そこには、こう書かれている。

〈読者のみなさまへ 日本の植民地だった朝鮮や台湾では、軍の意向を受けた業者が「良い仕事がある」などとだまして多くの女性を集めることができ、軍などが組織的に人さらいのように連行した資料は見つかっていません。一方、インドネシアなど日本軍の占領下にあった地域では、軍が現地の女性を無理やり連行したことを示す資料が確認されています。共通するのは、女性たちが本人の意に反して慰安婦にされる強制性があったことです〉

すなわち〈軍などが組織的に人さらいのように連行した資料は見つかっていません〉と、このことでの誤りを認めたのかと思ったら、〈軍の意向を受けた業者が「良い仕事がある」などとだまして多くの女性を集めること〉ができた、さらに〈インドネシアなど日本軍の占領下にあった地域では、軍が現地の女性を無理やり連行したことを示す資料が確認されています〉と、逆に「強制連行はあった」という立場を鮮明にしたのである。

ここでいう〈インドネシア〉の事例というのは、スマランという場所で起きた日本軍によるオランダ女性に対する事件である。「強姦罪」等で首謀者が死刑になった恥ずべき性犯罪だが、この特定の犯罪をわざわざ持ち出してきて、これを朝日新聞は強制連行の“実例”としたわけである。

まさに開き直りである。結局、読みすすめていくと、朝日新聞は、韓国・済州島で「慰安婦狩りをした」という衝撃的な告白をおこなった自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長、吉田清治氏の発言を繰り返し報道したことに対してだけ〈虚偽だと判断し、記事を取り消します〉としたのである。

また、戦時中の勤労奉仕団体である「女子挺身隊」を、まったく関係のない慰安婦と混同して、記事を掲載したことに関しては、〈当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました〉と言い訳しながら、しぶしぶ間違いを認めている。

驚くのは、この検証記事のなかで、ほかの新聞も吉田清治氏の証言を取り上げていたと、わざわざ各新聞社の名前を挙げて、各紙の広報部のコメントまで掲載していることだ。まるで、“(悪いのは)僕だけじゃないもん!”と、駄々っ子がゴネているような理屈なのである。

さらに、朝日新聞は、元韓国人慰安婦、金学順氏の証言記事を書き、〈『女子挺身隊』の名で戦場に連行〉と、実際の金氏の経験とは異なった記事を書いた植村隆記者に関しては〈意図的な事実のねじ曲げなどはありません〉と擁護している。

記事を書いた植村記者の妻が韓国人で、義母は当時の慰安婦訴訟の原告団幹部だったことは、今では広く知られている。そのことに対して、朝日はこう弁明しているのだ。

〈91年8月の記事の取材のきっかけは、当時のソウル支局長からの情報提供でした。義母との縁戚関係を利用して特別な情報を得たことはありませんでした〉

ソウル支局長の情報提供によって、大阪からわざわざ植村記者が「ソウルに飛んだ」ということを信じる人が果たしてどれだけいるのだろうか。情報提供したのが〈ソウル支局長〉なら、なぜ本人か、あるいはソウル支局の部下たちが金学順氏を取材し、記事を執筆しないのだろうか。大阪から、わざわざ“海外出張”までさせて、取材・執筆させる理由はどこにあったのだろうか。

さらに言えば、植村記者は、なぜ金学順氏が妓生(キーセン)に売られていた話など、自らが主張したい「強制連行」に反する内容は書かなかったのだろうか。

私は、朝日新聞の今回の従軍慰安婦の検証記事は、完全に“開き直り”であり、今後も肝心要(かなめ)の従軍慰安婦の「強制連行」問題では「一歩も引かない」という宣言であると思う。

つまり、朝日新聞は、「日本が慰安婦を強制連行した」ということについては、まったく「譲っていない」のである。今日の記事で、従軍慰安婦問題が新たな段階に入ったことは間違いない。しかし、それは朝日新聞の“新たな闘い”の始まりに違いない。

すなわち、どう検証しても「虚偽証言」が動かない吉田清治氏についての記事は「撤回する」が、そのほかでは「闘う」ということにほかならない。

私は、不思議に思うことがある。それは、「朝日新聞は、どうしてここまで必死になって日本人を貶めたいのか」ということだ。歴史の真実を書くことはジャーナリズムの重要な使命であり、役割だ。しかし、朝日新聞は、「真実」が重要なのではなく、どんなことがあっても「日本は悪いんだ」と主張しつづけることの方が「根本にある」ような気がしてならない。

なぜ、事実を捻じ曲げてまで、朝日新聞はそこまで「日本人を貶めたい」のだろうか。私はそのことが不思議だし、そんな新聞を今も多くの日本人がありがたく購読していることもまた、不思議でならない。

従軍慰安婦問題で肝心要の「強制連行」を撤回しなかった朝日新聞――日本を貶めたいこのメディアへの風当たりは「一部記事の撤回」によって、今後、ますます激しくなっていくだろう。

カテゴリ: マスコミ, 歴史

「真の友好」を遠ざけた舛添都知事の「屈服外交」

2014.07.27

これで韓国との「真の友好」は遠のいたなあ、とつくづく思う。舛添要一・東京都知事が韓国の朴槿惠(パク・クネ)大統領と青瓦台で会い、まるで朝貢外交でやってきた使節のようにぺこぺこと頭を下げるようすが日本と韓国で一斉に報じられた。韓国国民の溜飲を大いに下げさせたこの「舛添外交」によって、日本と韓国の「真の友好」は、確実に遠ざかったと思う。

今、韓国に対して最もやってはならないこと――それを舛添氏は「やってのけた」のである。これまで、当ブログで何度も指摘してきたように、本当に韓国との「真の友好」を目指すなら、少なくとも韓国の国民に、「歴史の真実」を知ってもらう必要がある。そして、いったい日本人がなぜ「従軍慰安婦問題」で怒っているのか、そこに韓国に目を向けさせることが重要だった。

しかし、そのことについて全く触れないまま、舛添氏はソウル大学の講演でも「90%以上の東京都民は韓国が好きなのに、一部がヘイトスピーチをして全体を悪くしている」などと誤ったメッセージを伝えてしまった。

世界各地で従軍慰安婦像を建て、さまざまな議会で日本非難の決議をおこない、日本を貶める行動を世界中で展開している韓国に、のこのこと出かけて行き、逆にあちこちで“お赦し”を乞うてまわったのだ。やるべきことが全く逆である。いま韓国が世界中でやっていることに対して、「皆さん、日本人は怒っていないですよ」と容認のメッセージを与えたようなものではないだろうか。

朴大統領との会談で、その舛添氏は、次のような“お言葉”を頂戴したそうだ。「一部政治家の言動で両国関係に難しさが出ているが、正しい歴史認識を共有しつつ、関係を安定的に発展できるよう努力をお願いする」「慰安婦問題は両国関係だけではなく、普遍的な人権に対する問題。真摯な努力で解決できる」

この「正しい歴史認識」と「慰安婦問題」について、舛添氏はどんな返答をしたのだろうか。そもそも、この問題に、どのくらいの認識を持って会談に臨んだのだろうか。

一方の朴大統領にとっては、これほどありがたいことはなかっただろう。セウォル号事件以来、政権の求心力を失い、国民の失望の連続にあった時に東京都知事がわざわざ「頭を下げにやって来た」のだから、「ああ、大統領もやるじゃないか」と韓国国民に映り、彼女の窮地を救う一助となったのは間違いない。

では、これが日本と韓国との友好につながるのだろうか。答えは“ノー”である。従軍慰安婦問題で謂われなき非難を浴びているのは日本である。韓国の誤った認識と主張によって、日本は「拉致」「監禁」「強姦」国家であるという糾弾を受けている。従軍慰安婦像なるものが世界中に建ち、この問題を世界の記憶遺産にしようという中国と足並みをそろえて、日本人を侮蔑し続けている。

間違っていることをやっている側に、やられている側が「私たちは怒っていません」と伝えてしまったのだから、これからますます彼らの日本非難は強くなるに違いない。自信を持って、さらに糾弾に拍車がかかるだろう。

日本の言っていることに少しでも耳を傾けさせるためには、韓国との間に「距離を置くこと」が最も重要な、まさにその時に、それと真逆なことを舛添氏はやってしまったのである。「真の友好」が遠のいたという所以(ゆえん)だ。

言うまでもないが、従軍慰安婦問題は、1991年8月、朝日新聞によって火をつけられたものだ。朝鮮人従軍慰安婦を「“女子挺身隊”の名において戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」存在として、クローズアップさせたのである。

それが完全な誤報だったことは、その後の検証で次々と明らかになった。女子挺身隊とは、戦時中の14歳以上25歳以下の女子の勤労奉仕団体である。それを慰安婦と混同し、さらに、その後、20年以上経っても記事が示すような「強制連行」の事実は出て来なかったのだ。

しかも、記事を書いた当の朝日新聞記者の妻が韓国人で、義母は当時の慰安婦訴訟の原告団幹部であったことまで明らかになる。しかし、韓国国内で従軍慰安婦の問題が燎原の火のごとく広がり、「女子挺身隊」といえば日本軍の慰安婦であり、彼女たちは「性奴隷(sex slaves)」であったとされ、完全に日韓の関係は破壊されていくのである。

だが、実際には、彼女たちは当時の兵士の給料の30倍という「月収300圓」を保証されて慰安婦となった人々だ。貧困の時代の薄幸な女性たちだが、新聞広告で募集された収入は今に換算すると年収4000万円を遥かに超える金額となる。

その額を保証されて春を鬻(ひさ)ぐ商売についた人々が、「日本軍や日本の官憲によって強制連行された」、すなわち「拉致」「監禁」「強姦」の被害者とされているのである。

そんな虚偽が韓国国内では堂々と罷り通り、それが今では韓国の運動によって世界中で流布されている。そのことに舛添氏はどんな考えを持っているのだろうか。

ちなみに、慰安婦を「性奴隷とした」のは、当の韓国であったことが明らかにされつつある。当ブログでも書いた、6月25日に韓国政府を相手どってソウル地裁で起こされた訴訟のことだ。かつて米軍を相手に商売をおこなっていた慰安婦122人が韓国政府を相手取って、1人あたり1000万ウォン(およそ100万円)の損害賠償を求める集団訴訟を起こしたのだ。

彼女たちは韓国政府に管理された、駐留米軍相手の「洋公主」(ヤンコンジュ)と呼ばれた慰安婦たちである。韓国軍と国連軍が運営した「慰安所」の存在は有名だが、朝鮮戦争時には、私娼窟から女性たちを連行し、それを「第五種補給品」と呼んで最前線までドラム缶に女性を一人ずつ押し込んでトラックに積んで運んだことも暴露されている。

皮肉なことに、慰安婦の強制連行は「日本」ではなく「韓国」だったことが、やっと歴史的な事実として出てきたのである。もし、「女性を性奴隷にした」と呼ぶなら、それは韓国自身の問題というべきだろう。

私は、そのことを彼(か)の国と同じレベルに立ち、あれこれあげつらって声高に叫ぶ必要はないと思う。それは日本人には相応(ふさわ)しくない。しかし、少なくとも歴史の真実を捻じ曲げてまで世界中で日本人を糾弾する人々に対しては、静かな怒りを持っておくべきだと思う。

そして日本人は、国際的な舞台で、韓国の異常な日本攻撃にも、毅然として、堂々と反論していって欲しいと思う。私は、謂われなき中傷によって、海外で日本の子供たちがイジメられたり、唾を吐かれたりしている現状に、少しでも一石を投じて欲しいと思う。

舛添氏の今回の行動に、毅然たるものは何も感じられなかった。それほど韓国を訪問したいなら、毅然として覚悟を決めて行って欲しい。1300万都民どころか、日本中を失望させたこの“屈服外交”は、日韓の「真の友好」を遠ざけ、長く歴史に汚点を残すことになったことだけは間違いない。

カテゴリ: 国際, 歴史

従軍慰安婦が「韓国政府」を訴えた歴史的意味

2014.06.30

いつも興味深い情報を提供してくれる『レコード・チャイナ』が、今日も注目すべきニュースを配信していた。かつてアメリカ軍基地の周辺で売春に従事していた韓国の米軍慰安婦たちが起こした集団訴訟に関する論評記事である。

このニュースは、少なからず韓国社会にショックを与えている。“憎き日本”を糾弾するための従軍慰安婦問題の矛先が、こともあろうに自分たちの政府に突きつけられてきたのだから無理もない。思わぬ事態に日本糾弾の急先鋒だった人々の多くが沈黙を決め込んでいる。

問題の訴訟の中身は以下のようなものだ。この6月25日、かつて米軍を相手に商売をおこなっていた慰安婦122人が韓国政府を相手取って、1人あたり1000万ウォン(およそ100万円)の損害賠償を求める集団訴訟を起こした。

『レコード・チャイナ』によれば、原告団は、「なぜ被告が韓国政府であるか」をこう説明しているそうだ。「米軍慰安婦制度を作ったのは韓国政府であり、しかもこれを徹底的に管理したのも韓国政府だ。表向き、売春行為を不法としながら、“特定地域”なるものを設置して米兵相手に売春をさせ、愛国教育という名で精神教育までおこなった。国家は私たちを守るどころか、“外貨を稼ぎ”のために利用したのだ」と。

日本では周知の通り、1991年8月、朝日新聞が従軍慰安婦問題に火をつけ、今や世界各地に日本糾弾のための「慰安婦像」が建ち、完全に日韓の関係は破壊され、さらには日本の若者の国際進出の大きな「障壁」ともなっている。

朝日新聞は朝鮮人従軍慰安婦を「“女子挺身隊”の名において戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」存在として、クローズアップさせた。だが、その後、20年以上経っても記事が示すような「強制連行」の事実は出て来ず、しかも戦時中の女子の勤労奉仕団体である「女子挺身隊」を従軍慰安婦として混同するなど、お粗末な記事の実態が指摘されてきた。

しかも、記事を書いた当の朝日新聞記者の妻が韓国人で、義母は当時の慰安婦訴訟の原告団長であったことが明らかになるに及んで、日本国内で激しい反発を買った。だが、韓国国内の対日批判は時間が経過してもとどまるところを知らず、「日本人は朝鮮女性を強制連行して性奴隷(sex slaves)にした」として、今も糾弾が続いているのである。

当時の兵士の給料の30倍という「月収300圓」を保証されて慰安婦となった女性たちが、「無理やり日本軍、あるいは日本の官憲によって強制連行された」という虚偽が罷り通っているところに、この問題の特殊性と根深さがある。さらに、日本では、政治家などが、この問題に批判的に言及すれば、たちまち朝日新聞を代表とする日本国内の“反日メディア”に目の敵にされ、攻撃を受けるパターンが繰り返されてきた。

いつの間にか、この問題自体がタブー視され、敬遠される存在となっていったのも当然だろう。しかし、韓国政府を相手に起こされた今回の集団訴訟は、私たち日本人に3つの点で大きな「示唆」を与えてくれているのではないだろうか。

一つは、従軍慰安婦という存在は、日本だけが糾弾されなければならないような問題ではないということ。二つめには、慰安婦とは、はっきり米兵相手に“売春”をしていたもの、と当の韓国国内の訴訟提起によって明らかにされたこと。そして、三つめに、韓国政府自体が女性を強制連行して“管理”していた、という疑いが出てきたことだ。

自国の女性を狩り出して他国の軍隊に提供していたことが、仮に裁判によって「事実」と認定された場合、激しやすい韓国の国民は一体、どんな反応をするのだろうか。ソウルの日本大使館前に従軍慰安婦像を建て、日の丸を焼くなどの行為をおこなってきた韓国の人々は、果たして今度は「青瓦台(韓国の大統領府)」の前で同じことをするのだろうか。

私は、安倍政権によって「河野談話の検証」がおこなわれ、河野談話の上で“強制性”を認める時、両国の間でどのような擦りあわせをおこなったかが明らかになった丁度この時期に、今回の「集団訴訟が起こされたこと」に歴史的な意味を感じている。

6月30日、韓国の国会の外交統一委員会は河野談話の検証結果を日本政府が公表したことについて、「挑発行為だ」と 非難する決議案を採択した。あくまで、「日本は性奴隷を弄んだ事実を認めて謝罪しろ」という姿勢を崩していないのある。

しかし、ならば、これまで指摘されてきたように、韓国軍と国連軍が運営した「慰安所」の存在や、朴正煕大統領の時代(1970年代)に、アメリカが韓国政府に対して「基地村浄化事業」を要求し、それに従って韓国政府が米兵相手の多数の「洋公主」(ヤンコンジュ)と呼ばれた売春婦たちに性病検査をおこなうなど、「管理」していたことを、朴槿恵大統領にはきちんと総括して欲しいと思う。

私は、2009年に文藝春秋から刊行された『大韓民国の物語』という本を読んで驚いたことがある。それは、ソウル大学の李榮薫教授が、朝鮮戦争時の韓国軍が、娼窟の女性をドラム缶に入れて戦地に運んだ実例を赤裸々に暴露していたことだ。

〈各部隊は部隊長の裁量で、周辺の私娼窟から女性たちを調達し、兵士たちに「補給」した。部隊によっては慰安婦を「第五種補給品」と言っていた。その「補給品」をトラックに積んで前線を移動してまわった元特務上等兵によれば、慰安婦を前線まで、ドラム缶に女性を一人ずつ押し込んでトラックに積んで最前線まで行った。夜になると「開店」するが、これをアメリカ兵が大いに利用した(以下略)〉

私はこの本を読み、明日の命が知れない兵士たちの戦場での哀しき性の現実について、しばし黙考せざるを得なかった。歴史家の秦郁彦氏の著書『慰安婦と戦場の性』(新潮社)では、イギリス軍やオーストラリア軍の性病罹患率の数字まで明らかにされている。それが、戦争の厳然たる現実なのである。

私は、今回の韓国での集団訴訟で、こうした戦場での容赦のない現実と、薄幸な女性たちの存在がきちんと明らかになって欲しいと思う。そして、「性奴隷」を弄んだ民族として、韓国や中国によっていわれなき糾弾をされている日本の濡れ衣が晴らされることを望みたい。

この集団訴訟をきっかけに、ベトナム戦争時に韓国軍兵士によるベトナム女性に対する強姦事件が頻発し、ライタイハンと呼ばれる混血児が多数生まれた問題をはじめ、被害を受けた多くのベトナム女性の救済問題もきちんと考えていくべきであろうと思う。

私は『レコード・チャイナ』が今日の記事で以下のような韓国のネットユーザーたちのコメントを紹介していたことに目が留まった。

「本当にむごい。日本をあれほど悪く言っておきながら、(韓国政府が)その日本と同じことをしていた事実を隠してきたなんて……」、あるいは、「日本軍の慰安婦だけ騒いでおきながら、米軍慰安婦、韓国軍慰安婦に目を背けていたら説得力がない」。さらには、「韓国人慰安婦の人権侵害で米国を糾弾しなければならない。米国は韓国に謝罪も賠償もしていない。韓国人慰安婦の人権を守ろう!」

この問題は『レコード・チャイナ』だけでなく、日本の大手メディアもきちんとフォローし、報道していくべきだろう。不思議なことに、日本には「自国を貶めたくて仕方がない人」が沢山いる。特にマスコミには、その手の人種が多い。

だが、自国の若者の誇りと自信を失わせる報道に終始する姿勢のおかしさに、彼らもそろそろ気づいていいのではないか、と思う。そんな報道姿勢が、日本や、あるいは隣国の将来に「何も生まない」ことは、すでに完全に証明されているのだから。

カテゴリ: 歴史

日台の“絆”と映画「KANO」

2014.05.20

台湾に来ている。次作のノンフィクションの取材のためである。明日(21日)からは南部の高雄、明後日からは、恒春より猫鼻頭(マオビトウ)に至る台湾最南端各地での取材となる。

太平洋戦争下、台湾とフィリピンの間に横たわる「バシー海峡」で亡くなった兵士たちにまつわるノンフィクションだ。しかし、今回も“時間の壁”にぶち当たって取材が苦戦を余儀なくされている。なんとか局面を打開したいものである。

昨夜は2年3か月ぶりに訪台した私を、メディアの台北支局長や在台ジャーナリスト、領事館員、あるいは自治体の駐在員たちが集まって歓迎の宴会を開いてくれた。

そこでは、次作のノンフィクションの話はもちろん、3月18日から4月10日まで続いた台湾学生による立法院占拠の話題に至るまで、さまざまな問題が俎上に上がった。

今年3月、日本の国会にあたる立法院を占拠した学生運動は、今後の政局に影響を及ぼす大きなものとなった。台北市・新北市・台中市・台南市・高雄市の市長と議会議員を改選する統一地方選が今年11月におこなわれるだけに、台北駐在の日本人たちもあの学生運動の選挙への影響がどの程度のものとなるのか、関心が非常に高いようだ。

そんな中で、話題が映画『KANO』に及んだ。今年の2月から台湾で上映されている人気映画である。昭和六年の夏の甲子園で見事準優勝を遂げた嘉義農林野球部の実話を映画化したものだ。

日本人、台湾人、原住民の三つの民族で構成される嘉義農林は、常勝ならぬ“常敗”のチームだったが、松山商業、そして早稲田大学という野球の名門で活躍した近藤兵太郎氏を監督に迎えて、めきめき腕を上げていく。

さまざまな出来事を乗り越えて甲子園の決勝まで駒を進めた嘉義農林は、決勝でこの年から3連覇を果たすことになる強豪・中京商業と激突。連投で指を痛めた嘉義農林の呉投手が血染めのボールを投げ続けるシーンはこの映画のハイライトと言える。

映画には、烏山頭ダムを建設し、嘉南一帯を有数の穀倉地帯に生まれ変わらせた技師・八田與一も登場する。その豊かな水がそれぞれの水路に流れ込む場面と全島制覇を成し遂げた嘉義農林を同時に描いた部分が斬新であり、感動的だった。

私は、ここまで日本の統治時代を前向きに捉えた作品は見たことがない。戦前の日本と日本人の凄さが、そのまま描かれた作品だったと思う。

私は、拙著『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡―』(角川文庫)を取材していた5、6年前、「門田さんは嘉義農林のことを書くつもりはりませんか?」と台湾で持ちかけられたことがある。私が拙著『ハンカチ王子と老エース』(のちに『甲子園の奇跡』と改題。講談社文庫)で昭和六年の甲子園大会のことをノンフィクション作品として発表していたからである。

その時、すでに嘉義農林の当時の選手たちが若くして戦死したり、あるいは老齢で病死しており、ノンフィクション作品として描くことが難しいことを理由にお断りさせてもらった経緯がある。それだけに、映画『KANO』が、どのように当時を描いたのか、そこに関心があった。

折しも、中国が南シナ海一帯で周辺国との摩擦を繰り返している。そんな複雑な国際情勢の中で、制作者の魏徳聖氏はこの作品で何を訴えたかっただろうか、と思う。魏徳聖氏は、『海角七号』や『セデック・バレ』という話題作を次々発表している台湾ナンバーワンの映画監督である。

少なくとも、「日本なくして台湾なし、台湾なくして日本なし」ということに改めて気づかせてくれる貴重な映画であったことは間違いない。私は今日、取材の合間に映画『KANO』を観にいき、そのことを強く感じた。映画の後半では、映画館が観客のすすり泣きで覆われたのが印象的だった。

覇権主義と領土的野心を隠すことさえしなくなった中国に対抗する唯一の方法は、日本と台湾が強固に結びつくことである。そのために、この映画は多大な影響をもたらすに違いない。

私は、これを日本でも上映して欲しいと思った。多くの日本人が、ひたむきな日本と台湾の戦前の人々の姿に心を打たれるだろう。日本と台湾の“絆”が深まれば、中国も簡単には手が出せない。その意味でも、日本での一刻も早い上映を待ちたい。そんなことを考えながら、私は今日の午後、台北の映画館にいた。

カテゴリ: 台湾, 歴史

「戦争」に思いを馳せる季節

2014.04.06

私にとって4月の桜の季節は、1年のうちで8月と共に「歴史」に思いを馳せる時期でもある。今から69年前、1945(昭和20)年4月は、日本にとって危急存亡の時だった。そして、多くの青年が若き命を散らした。

硫黄島が陥落し、いよいよ沖縄に米軍が上陸を開始したのは、昭和20年4月1日である。この時期、沖縄を取り囲む米機動部隊に対して、日本の航空特攻が熾烈さを増していた。「沖縄を助けなければ」と多くの若者が東シナ海で、あるいはその上空で命を散らしたのである。

この時期の日米両軍の攻防は、やはり日本の歴史がつづくかぎり、忘れてはならないものだろう。将来に対して多くの希望を持っていた若者が、家族と故郷を守るために、自らの命を捧げなければならなかったからだ。

子孫を残すこともできず、この世を去っていく「無念」と、諦(あきら)めなければならなかった将来への希望の「重さ」は、後世の私たちがいかに頭の中で想像しても、し尽くすことができるものではない。

文庫も含めると8冊の戦争ノンフィクションを上梓している私は、昨日の4月5日、戦艦大和に座乗して沖縄への水上特攻を敢行した故伊藤整一・第二艦隊司令長官の「墓前祭」に先立つ記念講演で、福岡の柳川に招かれた。

伊藤中将(死後、大将に昇進)生誕の地は、柳川市に隣接する旧三池郡高田町である。私は、長い間、伊藤長官のお墓参りをしたいと念願していた。

伊藤長官率いる第二艦隊は、この時、およそ4000名の兵たちが東シナ海の蒼い海に没した。戦艦大和の水上特攻への是非をめぐる議論は、いまだに多くの歴史研究家の間で戦わされている。しかし、一丸となってこれだけ多くの若者が沖縄を助けようと心をひとつにした事実は、日本の歴史がつづくかぎり消えない。

私は、その指揮官であった伊藤長官のお墓に手を合わせたいという思いを持っていたのである。講演に先立って、私はその念願をついに果たすことができた。たまたま地元にいた古くからの知人にお願いして、墓所に案内してもらったのだ。

伊藤長官の墓所への案内板もない中を、知人は、私を案内してくれた。小雨の中、やっと辿り着いた墓所には、昭和33年に建てられた記念碑と共に、伊藤長官の立派な墓石があった。

「ああ、やっと来ることができた」と私は思った。広島県呉市にある海軍墓地(長迫公園)には、戦艦大和の慰霊碑が建っている。何度もそこに行って手を合わせている私は、ついに伊藤長官の墓参の願いを叶えたのである。

映画『連合艦隊』では俳優の鶴田浩二が、『男たちの大和』では渡哲也が伊藤長官を演じている。妻と娘を愛した伊藤長官は、軍人としてだけでなく、家庭人としての優しさと、さらに部下への分け隔てのない接し方や、高潔な人柄が今も語り継がれている。家族に宛てた遺書の中で「大きくなったら、お母さんのような婦人になりなさい」と娘たちに語りかけた文面は、あまりに有名だ。

墓所の20坪近い広さといい、そこにあった慰霊碑といい、それは立派なものだった。だが、せっかくのこの墓所も、案内板も何もないため、地元の人でさえ、辿り着くのは極めて難しいだろうと思った。

案内してくれた知人は、「この墓所は、旧高田町(現・みやま市)の行政区ではなく、ぎりぎりで大牟田市の方に入っているんです。大牟田市の方はあまり伊藤中将への関心がないので、案内板も掲げられておらず、こんな有様です」と教えてくれた。案内板さえ出ていない理由はそういうことだったのか、と思った。

この時、沖縄を守った陸軍の牛島満・第32軍司令官も、同じように温厚で高潔な家庭人であり、さらには後進を数多く育てた教育者として知られる。

私は、先人の事績や思いが消えつつある現状を憂う一人である。それを残すために、今も新しい戦争ノンフィクションに挑んでいるが、時間の厚い壁に跳ね返されている。拙著『太平洋戦争 最後の証言』シリーズを取材していた数年前までとは、まったく状況が変わっていることを感じざるを得ない。

ここ数年、私は先の大戦の最前線で戦った大正生まれの元兵士を数多く見送った。大変お世話になった方で、いま現在、病床に伏している方も少なくない。

貴重な証言が消えつつある今、柳川での伊藤中将の墓前祭の講演を私はそんな思いでさせてもらった。断たれていった希望、消えていく命、若者の無念――当時の若者が置かれた状況と彼らが辿った運命を忘れないでいたい。そして、あの時代の毅然と生きた日本人の真実の姿を後世に伝えたいものである。

明日4月7日は、戦艦大和以下の第二艦隊が東シナ海に没し、伊藤整一中将ら約4000名の69回目の命日である。いよいよ来年は大和沈没「70周年」を迎える。

東京に帰ってきたら、雨で桜はかなり散ってしまっていた。桜の季節が終われば、東京は「夏」に向かって真っしぐらだ。環境破壊で、「春」と「秋」が消えつつある日本。たとえ気候は変わっても、先人が持っていた毅然とした気質だけは失いたくない。東京の夜桜を見ながら、私はそう思わずにはいられなかった。

カテゴリ: 歴史

「治に居て 乱を忘れず」と生命の尊さ

2014.03.22

18日に高知で桜の開花宣言があったが、さすがに西日本は温かくなっていることを実感した。本日、私は次の作品にかかわる海軍の元兵士にお会いするため、山口県岩国市にやって来た。

昭和19年12月30日に米潜水艦の魚雷攻撃によって沈没した駆逐艦・呉竹(くれたけ)の生き残りのお二人である。“輸送船の墓場”と呼ばれた台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で沈んだ「呉竹」には200人近い乗組員がいたが、今日、話を伺った元機関兵(89歳)と元通信兵(86歳)を含む29人だけが漂流の末、生き残った。

沈没後70年近く経った今では、その29人も生存者は「数名」となった。呉の海軍墓地で毎年9月23日の慰霊祭に訪れる呉竹の元乗組員は一人減り、二人減り、昨年は、今日お会いした「二人だけ」になったそうだ。

私は今、この呉竹に乗り、若き命をバシー海峡で散らした京都帝大法学部出身の海軍少尉の人生を追っている。しかし、この人物のことを知る関係者があまりに少なく、取材に苦戦を余儀なくされている。

戦争ノンフィクションは、取材対象者の多くがすでに亡くなられているケースが多い。苦戦はもとより承知しているので、負けずに取材をつづけていこうと思う。

本日の二人の貴重な証言によって、呉竹が沈没した時のようすや、九死に一生を得た兵士の“生と死”を分けたものは何だったのか、興味深い話を伺うことができた。今後の取材の展開が楽しみだ。

さて、私は、昨日、旧海軍兵学校のあった江田島を訪れた。もう何回目かの訪問だが、今回はこれまでとは違った趣きがあった。今回は、海上自衛隊幹部候補生学校の卒業式に招かれ、初めて伝統の式典を目の当たりにしたのである。

私は、これまで戦争ノンフィクションを文庫も含めて8冊ほど上梓している。そのため、幹部学校その他に講演に呼んでもらうことがある。その関係で、今回招待してくれたようだ。

有名な卒業式だけに、マスコミも含め、多くの参列者があった。安倍首相の夫人、昭恵さんやアメリカ海軍の第七艦隊司令官、チリの特命全権大使……等々、多くの関係者の参列の中で厳粛な卒業式が執りおこなわれた。

海軍兵学校は、帝国海軍のエリート士官養成学校である。明治21年に設立された同校から、規則の厳しさだけでなく、カッターをはじめ過酷な訓練が現在まで脈々と受け継がれている。

現在の幹部候補生学校は、防衛大学や一般の大学・大学院を卒業した人を対象にしている。今回は、1年間、ここで一般幹部候補生課程を勉強し、修了した者が174名(うち女性が19名)、そのほかにすでに現場でパイロットとして任務についている人たちを対象にした飛行幹部候補生課程を修了した48名(うち女性3名)、合わせて「222名(うち女性22名)」が卒業していった。

聞けば、今では、防衛大学出身者と一般大学出身者が数の上で“半々”になっているというから興味深い。彼らが御影石の伝統の大講堂で、卒業証書を一人一人、受け取っていったのである。

アメリカ海軍の第七艦隊司令官の祝辞も含め1時間40分にわたって、式典はつづけられた。私は、どの学校の卒業式とも異なるこの厳粛さは「どこから来るのか」と、式典の間、ずっと考えていた。

私は、それは「命」、すなわち「生と死」ではないか、と思った。そこが一般の学校の卒業式と根本的に異なるところだ。ここに参列している父兄たちは、言うまでもなく晴れの日を迎えたわが子たちの大いなる未来に期待をかけているだろう。

無事、海上自衛隊の幹部として最後まで職責を全うしてくれることを親たちは祈っている。しかし、激動のこの21世紀に今後30年、40年、日本を取り巻く情勢が平和であってくれる「保証」はどこにもない。

いや、太平洋に覇権を確立しようとしている中国と、まず「尖閣」、その次は「沖縄」をめぐって、どんな形であれ、紛争が勃発する可能性は決して小さくない。その時、最前線に立たなければならないのは、咋日、卒業証書を受け取った彼ら、彼女らである。

私は、これまでの戦争ノンフィクションで、海兵68期から72期の人たちを中心に取材をさせてもらったことがある。その時、これらの期のあまりの戦死者の多さに愕然とした。彼らは、同じようにこの講堂での卒業式を経て、巣立っていった人たちである。

独特の厳粛さが漂うのは、やはり先輩たちが流した血と涙、大海原に消えていった若き命の尊さではないか、と思う。すなわち「命」というものに対する哀惜(あいせき)が、見る者に独特の感傷をもたらしているのではないだろうか。

私は昨日、この伝統の卒業式をそんな思いで見守っていた。そしてその翌日である今日22日に、バシー海峡から奇跡の生還を遂げた元兵士とお会いしたのである。

日本がいつまでも「平和」であって欲しい、と願うのは国民誰もに共通するものである。しかし、その平和を維持するためには「強さ」が必要であることは言うまでもない。

それを最前線で命をかけて示すのが、彼ら、彼女らなのである。呆れるような「空想的平和主義」に基づく幻想論を振りまき、これに寄って立ってきた戦後ジャーナリズムの欺瞞(ぎまん)は、今もつづいている。そんな中、日本を守るために毅然と最前線に立とうとする若者たちがいる。

卒業式が終わったあと、目に涙をためながら、私たちの前を敬礼と共に行進し、遠洋航海へ旅立っていった卒業生たち。私は、この若者たちに幸いあらんことを祈らずにはいられなかった。それは同時に、日本の未来の「幸福」を意味するものでもある。

「治に居て 乱を忘れず」――私の頭の中に、この言葉が今日ほど強く印象づけられた日は、かつてなかった。

カテゴリ: 歴史

「靖国参拝」から見る“マスコミ55年症候群”

2014.01.07

今日は、時事通信と内外情勢調査会の恒例の「新年互礼会」が午後5時から帝国ホテルであった。私は、講師として内外情勢調査会で講演をさせていただいているので、今年も顔を出させてもらった。

会場に入っていったら、すでに安倍首相のスピーチが始まっていた。今日は元赤坂の迎賓館で来日中のトルコのエルドアン首相との首脳会談があるはずだ。その直前にわざわざ帝国ホテルまで恒例の首相スピーチをしに来たようだ。首相は、立錐の余地もない富士の間の聴衆に、「経済」を強調するスピーチをおこなった。

「経済最優先で、日本の経済を力強く、さらに成長させていきたい」「やっと掴んだデフレからの脱却のチャンスを絶対に手放すわけにはいかない」「賃金の上昇が更なる消費の拡大につながる。これで企業の収益がアップし、更に設備投資にもまわっていく。すなわち経済の好循環を実現できる。今度の通常国会は、好循環を実現するための国会としていきたい」

話題の「靖国参拝」には触れず、ひたすら経済をさらに回復させていくことを安倍首相は強調した。時にユーモアを交えて会場から笑いをとり、10分近く首相はスピーチした。

私は、昨年とは随分違うなあ、と思った。政権発足直後だった昨年の新年互礼会では、「大型の補正予算の一日も早い成立と執行が最大の景気対策。野党には是非、協力してもらいたい」と大いに意気込んでいた。気負いがそのまま聴く側に伝わってきたものである。

しかし、安倍政権は、2013年の株価を1年間で56・7%も上昇させることに成功した。デフレからの脱却を、公約通り、実現させつつある。今日の挨拶には、そのことへの自信が溢れていたように思う。

昨年のスピーチを「気負い」という言葉で表わすなら、今年は「余裕」だろう。私は、会場でスピーチを聴きながら、そんなことを考えていた。

そして、私は、この自信が年末(12月26日)の靖国参拝につながったことを想像した。「この首相の自信が、中国と韓国をいかに恐れさせているだろうか」。思わず、私はそこまで考えてしまった。

国民の大多数は、すでにわかっているように、中国と韓国は、日本が何をやっても、日本への非難はやめない。それでしか、それぞれの国内での反発を抑えられないからだ。小泉首相の最後の靖国参拝以来、日本の折々の首相は、7年間も参拝を回避したが、それで中国や韓国との関係は少しでも改善されただろうか。

そんなことは全くない。どんなことをしても、日本への憎悪を政権の糧(かて)とする中国・韓国の非難は収まることはないのである。

いまマスコミに衝撃を与えているのは、靖国参拝の国民からの支持が6割から7割に達している、ということだ。調査結果の中には、実に「8割」を超えているものもある。今日の会場では、その話に花を咲かせている人もいた。

マスコミ各社は、あれだけ力を入れて首相の「靖国参拝」を叩いたのに、なぜこれほどの支持を受けているのか、おそらく理解できないのではないか、と思う。

それは、私は、“マスコミ55年症候群”のせいだと思っている。マスコミ55年症候群とは、私の造語だが、要は、保守合同と社会党の左右再統一でできたいわゆる「55年体制」というのが、恐ろしいことにマスコミには、まだ「続いている」のである。

マスコミ以外の人には理解できないかもしれないが、日本社会党が消滅した1996年以降も、また自民党が単独では政権が維持できなくなり、公明党との連立をしなければいけなくなって以降も、マスコミの中は、いまだに「55年体制」がつづいている。これは、その思考法において、という意味である。

つまり、マスコミでは、いまだに55年体制における左右の「イデオロギー」が、判断基準なのだ。もっと簡単に言えば、「右か」「左か」、つまり「右翼か」「左翼か」ということだ。

そんな判断基準は、国民の間ではとっくに終わっている。靖国参拝を支持している国民は、別に右翼ではない。普通の国民である。普通の国民は、ペリー来航以来、吉田松陰や坂本龍馬を含む国事殉難者およそ250万人の魂を祀った神社に、後世の人間や国家のリーダー(今は安倍首相)が参拝に行くことは、何もおかしいものだとは思っていない。

なぜなら、国のために子孫も残さないまま若くして無念の思いを呑んで逝った先人たちのお蔭で、「今の平和と繁栄がある」という感謝の気持ちの大切さを知っているからである。例えば、太平洋戦争の主力となった大正生まれの若者は、実に同世代の7分の1にあたる200万人が戦死している。

その人たちの魂に対して、後世の人間が感謝の気持ちを捧げ、頭(こうべ)を垂れることは、当たり前のことであり、他国にとやかく言われるものではない。それは、「右翼」「左翼」などと、左右の判断基準であれこれ言えるものでは「ない」のである。

つまり、国民は、55年体制の基準などからは、とっくに脱却している。先人を敬い、家族と故郷を愛し、日本と日本人を愛するのは、どう考えても日本人にとって“普通のこと”である。しかし、それが、“マスコミ55年症候群”にかかればたちまち「右翼」とされてしまうのである。

この症候群の特徴は、左右のイデオロギーという唯一の判断基準しか持たないため、靖国参拝をする人やそれを支持する人は、「戦争をしたい人」であり、「国家主義者」であり、「右翼」とされてしまう。彼らがレッテル張りばかりするのは、判断基準がひとつしか存在しない、その症候群のせいである。

ベストセラー『永遠の0』の作者、百田尚樹さんは、よく「右翼だ」と批判されている。私は雑誌で百田さんと対談もしたことがあるが、彼はもちろん右翼などではない。先人を敬い、家族と故郷を愛し、日本と日本人を愛する普通の人である。

それを右翼という表現しかできない“55年症候群”の人が、マスコミ以外にも少なくない。そして、その人たちは盛んに自分と考え方の異なる人にレッテル張りをおこなっている。彼らにとっては、靖国参拝支持者の多さは、日本国の「右傾化」としか捉えられないのである。

今回の世論調査でわかったことは、そんな左右の判断基準を国民はとうに「超えている」ということである。マスコミも、左右のイデオロギーを唯一の判断基準にする“55年症候群”から、早く解き放たれたらいかがだろうか、と思う。そして私も、先人を敬い、家族と故郷を愛し、日本と日本人を愛する人間でありつづけたいと、心から思う。

カテゴリ: 政治, 歴史

安倍首相「靖国参拝」と映画『永遠の0』

2013.12.26

一昨日、映画『永遠の0』を観た。いま人気絶頂の俳優、岡田准一が扮する零戦搭乗員「宮部久蔵」の家族と祖国への思いを描いた作品である。百田尚樹さんの原作に勝るとも劣らない力作だった。私は、邦画史上に残る最高の傑作だと思った。

残してきた妻と幼い娘のために「自分の命を惜しんでいた」宮部少尉が、最後は自ら進んで特攻に赴き、後輩に自分の妻と子を見守ることを託す“壮絶な生きざま”を描いた映画である。

映画館には、戦争も、まして特攻のことも知らない若いカップルが数多くいた。途中から館内にすすり泣きが聞こえ始め、映画が終わった時には、拍手する観客もいた。珍しいシーンだった。

生きたくても生きることができなかったかつての若者の姿に対して、現代の若者が涙を流す――私は、そのシーンに強烈な印象を持った。それと共に、拙著『太平洋戦争 最後の証言―零戦・特攻編―』で取材させてもらった元零戦搭乗員たちの姿と証言が、宮部久蔵と重ね合わさった。

そんな思いを綴っていたら、いま安倍首相の靖国神社参拝のニュースが流れてきた。「ああ、やっと参拝したのか」。私は、そう思った。そして、安倍首相のコメントがどんなものになるのか、注目した。私の耳に残ったのは、以下の二つの部分だった。

「私は、(本殿だけでなく)同時に靖国神社の境内にあります鎮霊社にもお参りをしてまいりました。鎮霊社には、靖国神社に祀られていない、すべての戦場に斃れた人々、日本人だけではなくて、諸外国の人々も含めて、すべての戦場で斃れた人々の慰霊のためのお社であります。その鎮霊社にお参りをいたしまして、戦争において命を落とされたすべての人々のために手を合わせ、ご冥福をお祈りをし、そして、二度と再び戦争の惨禍によって、人々の苦しむことのない時代をつくるとの決意を込めて、不戦の誓いをいたしました」

「母を残し、愛する妻や子を残し、戦場で散った英霊のご冥福をお祈りをし、そしてリーダーとして(その方々に)手を合わせる。このことは世界共通のリーダーの姿勢ではないでしょうか。これ以外のものでは全くないということを、これから理解していただくための努力をしていきたいと考えています」

私は「諸外国の人々も含めて、すべての戦場で斃れた人々の慰霊のため」という部分と、「母を残し、愛する妻や子を残し、戦場で散った英霊のご冥福」を祈ったという部分が耳に残った。

それは、『永遠の0』で描かれた宮部久蔵の姿を観たばかりだったからかもしれない。そして、同時に、これから巻き起こる中国と韓国の反発と、これに呼応した日本のマスコミの非難の大合唱のありさまを想像した。

日本では、戦場で若き命を散らしていった先人に対して、後世の人間が頭(こうべ)を垂れ、感謝の気持ちを捧げるという当たり前のことが中国や韓国という隣国の干渉によって、胸を張ってできない「不思議な国」である。

吉田松陰ら「安政の大獄」以来の国事殉難者およそ250万人の霊を祀った神社に行くことが憚(はばか)られ、中国・韓国の代弁者となってそれを非難するメディアが日本には、数多く存在する。いや、その方が圧倒的と言っていいだろう。

私には、どんな思いで戦友が散っていったかを語る大正生まれの男たちに会い続けた時期がある。玉砕の戦場から奇跡的に生還した元兵士たちの姿を戦争ノンフィクションとして残すためである。

子孫を残すこともできず、戦場に散っていった戦友たちの無念を語る老兵たちの姿は鬼気迫るものがあった。それだけに「二度と再び戦争の惨禍によって、人々の苦しむことのない時代をつくるとの決意を込めて、不戦の誓いをいたしました」という首相の言葉が胸に響くのである。

「死ねば、神であり、仏」というのは、日本独自の文化である。「死者に鞭(むち)打つ」という言葉通り、死体を引っ張り出してきてまで「鞭を打つ」中国とは、日本は文化そのものが根本的に異なる。

私は、これまで中国人や韓国人と何度も靖国論争をしたことがある。その時、気づくのは、彼らが靖国神社について「何も知らない」ということである。

前述の通り、靖国神社は、吉田松陰ら「安政の大獄」以来の国事殉難者およそ250万人の霊を祀った神社である。当初は、「東京招魂社」と呼ばれ、この中には、維新殉難者として、私の郷土・土佐の先輩である坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太なども祀られている。

しかし、彼らは靖国神社を「戦争を礼賛する施設」あるいは、「A級戦犯を讃える神社」としてしか知らない。彼らが決まって口にするのは、「では、あなたはヒトラーを讃える宗教施設にドイツの指導者が赴くことを認めますか?」というものである。

その度に、私は、東京招魂社以来の歴史と、国事殉難者250万人の説明をさせてもらう。そして、「亡くなれば神となり、仏となる」日本の独自の文化について話をさせてもらう。

驚く中国人や韓国人も中にはいるが、大抵は、「いや、靖国は軍国主義を礼賛し、戦争指導者を讃え、戦争をするための施設だ」と言い張ってきかない。

私は、「その国独自の文化」の意味と、無念の思いを呑んで死んでいった人々のことを話させてもらうが、もはや耳を傾けてはくれない。この時、最後にいつも私が言うのは、例えば、中国人に対しては「八宝山革命公墓」のことである。

北京の中心を東西に貫く長安街通りを天安門から「西単(シータン)」を通り過ぎ、延々と西に進めば、やがて「八宝山革命公墓」に辿りつく。戦争で命を落とした兵士たちが葬られている墓地である。

ここには、抗日戦線、あるいは、国共内戦などで戦死した人々が数多く眠っている。言うまでもなく、中国で国の指導者となった人物が必ずお参りにくる地である。

革命公墓の中には、日本人が虐殺された「通州事件」や「通化事件」などにかかわった兵士たちも、もちろん入っている。しかし、日本人は、そのことについて非難したりはしない。

なぜなら、それはその国、独自の文化だからである。どう先人を追悼し、感謝の気持ちを捧げるかということは、干渉してはならない高度に精神文化に属するものであることを、少なくとも日本人は知っている。

私の伯父は前述の「通化事件」で殺された犠牲者の一人だが、中国の指導者が革命公墓にお参りすることに干渉したり、非難の声をあげたりはしない。

それが、お互いの国の文化を尊重する基本的な人間の姿だと思うからだ。だが、そんな常識は、おそらく中国や韓国には通じないだろう。彼らの側に立つ日本のマスコミによって、ただ中国や韓国の反発が増幅されて日本人に伝えられるだろう。

愛する人のもとに帰ることができなかった無念の思いを呑んだ若者、すなわち、「宮部久蔵」が数多くいたことに思いを致し、彼らに尊敬と感謝を捧げ、二度と戦争の惨禍を繰り返さない思いを新たにしてくれる若者が一人でも増えることを願うばかりである。

カテゴリ: 歴史

歴代天皇3位の長寿となった今上天皇

2013.12.24

昨日、天皇陛下が、歴代天皇3位の長寿となる80歳を迎えられた。長い天皇家の歴史で、歴代3位の長寿になられたというのは、喜ばしいことだと思う。

10年前の2003(平成15)年に前立腺の摘出手術、昨年には心臓手術を受け、癌治療のために、ホルモン療法もつづけておられ、副作用の骨粗鬆(こつそしょう)症と闘っておられるという報道の中での傘寿(さんじゅ)である。

年齢が高くなるにつれ、肉体に衰えが出てくるのは自然の摂理だ。会見に臨まれた陛下のお顔は、やはり病魔と闘っていることを示す浮腫(むく)みがあるように思えた。しかし、昨日の記者会見で、陛下はゆっくりとこう述べられている。

「喜ばしいこと、心の痛むこと、さまざまなことのあった1年でした。東日本大震災の復興がいまだその途上にある中で、今年は大きな台風が大島を襲い、また、少なからぬ地方が風水害の被害に苦しみました。このような中で、東日本の被災地には、厳しい冬が訪れようとしています。私どもは、これからも被災者のことを思いつつ、国民皆の幸せを願って、過ごしていくつもりです」

私はこの中で、「東日本大震災の復興がいまだその途上にある中で」と「東日本の被災地には、厳しい冬が訪れようとしています」という言葉に、陛下の日頃のお気持ちが表われているような気がした。

私には、陛下の子供時代からご結婚、そして天皇の地位について以降のことを書かせていただいた『神宮の奇跡』という本がある。

その中で、8年前(2005年)のサイパン訪問の際のことを書かせてもらっている。米軍に追い詰められて多くの民間人が身を投げたバンザイ・クリフを訪れ、陛下は皇后の右腕を支えながら、岸壁に近づき、お二人で姿勢を正して頭を下げ、じっと黙祷をされた。それは、15秒ほどの時間だっただろうか。

若き日のお二人を軽井沢で結びつけるキューピット役となった陛下の学習院時代の後輩が、このシーンを私にこう語ってくれたのが印象的だった。「そのうしろ姿に私は感銘を受けました。お二人が、長い間、なさろうとしていたことは、まさにこれだったんだとあの時、初めて気づきました」。

拙著にそのことを書かせてもらったが、私はそれ以降、東日本大震災をはじめ、国民に苦難がふりかかる度に、老いが目立つ両陛下が被災地を訪問され、必死に被災者を励まされる姿が目に焼きつくようになった。

今月、陛下の幼稚園時代からの幼な馴染であり、学習院の馬術部でも共に過ごした親友である明石元紹さん(79)が、『今上天皇 つくらざる尊厳』(講談社)を出版された。

明石さんは、拙著『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡―』の主役の一人でもあり、日頃、親しくさせてもらっている。この明石さんの本の中に、印象深い一節がある。それは、終戦後、疎開していた日光から、11歳の明仁殿下(今上陛下)が帰ってきた時のことである。

「殿下も罹災者だった。青山の東宮仮御所が焼けたのである。殿下は、たった三日だったが、皇居に泊まった。朝から晩まで、ご両親と一緒の三日間であった。このときのご両親との水入らずのわずかな時間が、のちの殿下の心に大きな決意を齎(もたら)したのではないかと想像する」(一部略)

幼な馴染でなければわからない“変化”が、それ以降の明仁殿下に生まれていたのだろう。明石さんならではの記述である。先の「バンザイ・クリフ」での行動、あるいは、「東日本の被災地には、厳しい冬が訪れようとしています」というお言葉も、明石さんが書く「殿下の心に大きな決意を齎した」というものの延長線上にあるような気がする。

私は、陛下の傘寿の会見を見ながら、世界で唯一、これほど長きにわたって「最長・最古」の皇室を守り、「天皇(Emperor)」という地位そのものを守ってきた“日本人”というものに改めて思いを致さざるを得なかった。

どの国でも歴史を見れば、時の権力者は、君主家を滅ぼし、権威に「とって代わろうとする」ものである。しかし、日本人は、気の遠くなるような長い時間、皇室を守ってきた。

それは、日本人が、なにより「秩序と道徳」、そして「伝統」を重んじる人々であることを示している。その意味で、天皇とは、日本人の誇りを象徴するものであるのかもしれない。傘寿の記者会見を見ながら、私はそんなことを考えていた。

カテゴリ: 歴史

“輸送船の墓場”バシー海峡「生き証人」の死

2013.11.24

福島から帰京し、昨日は静岡の清水で一人の老兵の法要に参列した。先月、92歳で亡くなられた中嶋秀次さんの納骨式である。

中嶋さんは昭和19年8月、バシー海峡で乗っていた輸送船「玉津丸」が魚雷で沈められ、5000人近い仲間と共に海に放り出された。この船に乗っていた静岡の歩兵第13連隊の兵士の中で生き残ったのは僅かで、輸送船史上最悪の惨事と言われる。

中嶋さんは、そのまま炎天下のバシー海峡を12日間も漂流した。最初は筏(いかだ)に数十人が乗っていたが、仲間が次第に飢餓と渇きで幻覚に襲われ、気が狂ったようになって死んでいく中、唯一、生き残った。

バシー海峡は、“輸送船の墓場”と称される。アメリカの潜水艦と空からの航空攻撃で、日本軍の輸送船は次々と沈没し、犠牲者は10万人とも20万人とも言われ、今に至るも犠牲者の総数はわからない。それほど膨大な戦死者を生んだ“魔の海峡”である。

そのバシー海峡で奇跡の生還者となった中嶋さんは、戦死者の弔いのためにその後の人生を捧げた。私財を投じてバシー海峡を望む台湾の猫鼻頭に潮音寺(ちょうおんじ)という寺を建立し、仲間の慰霊に力を注いだのだ。

私は、中嶋さんが亡くなる1か月前の今年9月、2日間にわたって中嶋さんに貴重なお話を伺った。病床にあった中嶋さんは、それでも凄まじい「12日間の漂流」のありさまと、その後の仲間の慰霊に対する「思い」について、滔々と語ってくれた。

しかし、亡くなる3日前に、「門田さんにまだ話したいことがあります」という震える字でお手紙をいただいた。そして、10月21日、ちょうど学徒出陣70周年の当日、中嶋さんは息を引き取ったのである。

千代夫人によれば、私への手紙は、生前に書いた中嶋さんの“最後の文字”だったそうだ。静岡市清水区の曹洞宗・真珠院で、昨日11月23日お昼から中嶋さんの近親者による納骨式と四十九日法要が行われ、台湾からわざわざ潮音寺の活動に携わっている呉昭平さん(74)も参列されていた。

中嶋さんが私に「まだ話したいことがあります」という中身は何だったのか、どうしても私は知りたくなった。真珠院で1か月ぶりにお会いする千代夫人にそれを問うてみたが、残念ながら「見当がつかない」とのことだった。

大正生まれの方々の貴重な証言が消えつつある。去年から今年にかけて、私は何人の貴重な歴史の証言者を見送っただろうか。明日からは、次作の取材で、また福島に向かうが、ノンフィクションとは、つくづく時間と空間の勝負であることを感じる。

証言者が亡くなれば、どんなにお話を伺いたくとも、すべては闇に葬られる。ノンフィクションがひとつだけの取材に没頭できないのは、その時間と空間の勝負でもあるからだ。明日からも、そんな大きな制約の中で、できるだけ貴重な歴史の証言に迫りたいと思う。

カテゴリ: 歴史

「学徒出陣70周年」に思う

2013.10.21

今日は、学徒出陣70周年の記念日である。私は、この記念日に福井市で学徒出陣に関して講演をさせてもらった。戦争の主力となった大正生まれの男子1348万人のうち、実に「7人に1人」にあたる200万人が戦死した「あの大戦」から長い歳月が過ぎ去ったことを感じる。

若くして戦争で亡くなっていった先人のことを思うと、私自身も含めて今の日本人が彼らの犠牲に見合うものであるかどうかを、どうしても自問自答してしまう。今日の講演でも、当時の学徒、若者の思いを中心に話をさせてもらったが、聴いてくれた人もそのことを一緒に考えてくれたように思う。

途中から、涙を流しながら聴いてくれる方もいて、話に力が入った。昭和18年10月21日、すなわち70年前の今日、雨の中、神宮外苑競技場を行進した出陣学徒たちに、私はこれまでどのくらい話をお聞きしただろうか。

文科系学生の徴兵猶予がなくなったこの「学徒動員」は、日本にとって大きな節目であったことは間違いない。高等教育を受けていた学徒まで戦場に送り出さなければならない意味は、言うまでもなく、いかに国家が危急存亡の事態に追い込まれていたかを表わしている。

当時、20歳が来れば、男子は徴兵検査を受け、現役兵となって鍛えに鍛えられ、軍務につかなければならなかった。しかし、学徒にはそれが「猶予」されていた。しかし、昭和18年の「今日」から、それが許されなくなった(徴兵猶予の撤廃)のである。

国がそこまで追い詰められれば、大学生をはじめ、多くの学徒が戦場に向かわざるを得なかったのも頷ける。彼らが学問を諦め、どんな思いで戦場に向かったかは、あまりにエピソードが多過ぎて、簡単には書くことはできない。

当時22歳で神宮外苑競技場を行進した人は、今は92歳である。私にさまざまなことを教えてくれた方々も、ここ数年、鬼籍に入られた方が多い。

私は、戦争ノンフィクションをこれまで6冊書かせてもらっているが、今度、7冊目を書くつもりでいる。その取材で、つい先月、お会いして2日間にわたって貴重な証言を伺った方が、ちょうど学徒出陣70周年の本日、亡くなられた。

3日前にその方から「門田さんにまだまだ話したいことがある」という震えるような字でお手紙を頂戴したばかりだった。この方は、昭和19年8月、輸送船がバシー海峡で魚雷攻撃により沈没し、12日間も漂流した末、奇跡的な生還を遂げた方だった。2日間の取材でも、「まだ伝えきれなかったこと」とは、何だったのだろうか。

私は、今日の福井での講演でも、当時の青年たちは、現代の若者と「なんら変わらないこと」を話をさせてもらった。彼らには恋人もいたし、髪も伸ばし、学徒出陣で行進する前日まで、「俺は青春を謳歌していた」という人は少なくなかった。

では、今の若者と彼らはどこが違うのだろうか。私は、彼らがほんの少しだけ、現代の若者より「家族」を守り、「故郷」を守り、「祖国」を守る、という意識と使命感が強かったと思う。

そして、日本人の特性でもある「恥を知る」という意識も今の人より強かったと思う。アメリカの女性人類学者、ルース・ベネディクトが著書『菊と刀』で指摘した「恥の文化」を持つ人が、大正生まれの若者には、私たちの世代より多かったのではないか、と思う。

そんな出陣学徒たちのことを「70周年」を記念して、話をさせてもらった。毅然と生きた先人たちの姿を私たちは忘れてはならないし、軽んじてはならないと思う。大正生まれの人たちの生きざまを振り返ることこそ、まず私たちが最初におこなわなければならないことではないだろうか。講演をしながら、私はつくづくそう思った。

カテゴリ: 歴史

ある台湾の老人の死

2013.09.23

一昨日、台湾で一人の老人が亡くなられた。台湾苗栗県在住の劉維添(りゅう・いてん)さん91歳である。劉さんは、拙著『太平洋戦争 最後の証言』の第二部「陸軍玉砕編」の第6章「20万人戦死“ルソン島”の殺戮現場」に登場いただいた方である。

昭和20年2月、フィリピンの首都・マニラに突入してきた米軍を日本の海軍陸戦隊を中心とする「マニラ海軍防衛隊(通称・マ海防)」が迎え撃った。その時、台湾からマニラの治安維持のために入っていた海軍巡査隊の一員だった劉さんたちも戦いに参加した。

劉さんたちの隊長は、日本人の廣枝音右衛門(ひろえだ・おとえもん)警部である。いよいよ部隊が全滅の危機に瀕した2月23日、自決を決意した廣枝隊長は、劉さんたち台湾青年に、こう命令した。

「いいか、お前たちは生きろ。お前たちは台湾人だ。故郷にはお前たちの帰りを待っているお父さんやお母さん、家族がいる。俺は日本人だ。俺だけが責任をとればいい。どんなことをしても、お前たちは絶対に生きて台湾に帰るんだ」

そう命令すると、廣枝隊長は台湾青年に形見の軍刀を渡し、拳銃で自決を遂げた。享年40だった。「どんなことをしても生きて台湾に帰れ」という廣枝隊長の命令によって、劉さんたちはその日の夕刻、米軍に投降する。

生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず――というのは、マニラ海軍防衛隊でも厳しく実践されていて、台湾からの巡査隊といえども同じだ。しかし、次々と自決する人間が増えていく中、廣枝隊長の命令を受けていた劉さんたち台湾の巡査隊は自決を思いとどまり、辛うじて故郷・台湾に帰ることができたのである。

太平洋戦争の日米両軍の激突で最も戦死者が出たのは、言うまでもなくフィリピン(比島)での戦いである。日本軍はルソン島やレイテ島など激戦地を中心に、陸海あわせて実に49万8000人もの戦死者を出している。

比島の敗北によって完全に制空権、制海権を失った日本は、石油をはじめとする南方の資源が届かなくなり、戦略上でも、完全に敗戦が決定づけられるのである。

劉さんたちは、戦後、国民党統治下の台湾で、つまり、外省人(がいしょうじん)による厳しい弾圧の中で、秘かに日本人である廣枝隊長の大きな位牌をつくり、供養を続けてきた。やがてそれは慰霊祭に発展し、苗栗県にある獅頭山(しとうざん)という霊山で、今も続けられているのである。

毎年、9月21日には、獅頭山「権化堂」で廣枝隊長の慰霊祭がおこなわれる。しかし、昨年、90歳となった劉さんは、慰霊祭当日に軽い心臓発作を起こして初めて欠席した。そして今年は、慰霊祭当日の未明についに亡くなられたのである。

私は台湾在住のジャーナリスト片倉佳史さんと、劉さんから慰霊祭の実行を引き継いでいる台北在住の日本人実業家・渡邊崇之さんから相次いで劉さんの訃報を伝えられた。

日本語が堪能で、話す時にいつも笑顔を忘れなかった柔和な劉老人の顔を私は思い浮かべた。そして、劉さんが縷々(るる)語ってくれた廣枝隊長の姿を思い出した。

劉さんが語る廣枝隊長は、実に生き生きとしていた。部下の台湾青年を可愛がり、いつも彼らの「命」を最優先する命令を出した。ぎりぎりの戦いの中で心が揺さぶられる行動と言葉を遺したのが、廣枝隊長だった。

私の前に、劉さんはその廣枝隊長の姿を鮮やかに描き出してくれた。だが、その劉さんが亡くなったことで、ついに廣枝隊長を直接、知る人はこの世から「いなくなってしまった」のである。

時間の経過と共に「真実」は歴史の霧の彼方に消えていく。ノンフィクションの世界にいる私は、そのことで時に無力感に襲われることがある。

私は、今日の昼、静岡護国神社での陸軍・独立歩兵第13聯隊の慰霊祭に参加していた。昭和19年8月にマニラを目指して東シナ海を航行中、台湾とフィリピンの間の“魔のバシー海峡”で聯隊の大半を輸送船ごと失った悲劇の部隊である。

今日の慰霊祭の後、私は、その悲劇の聯隊で漂流の末、“奇跡の生還”を遂げた92歳の老人へのインタビューを長時間にわたってさせてもらった。やはり、それは長い時間がもたらす“風化”に抗(あらが)うかのような貴重な証言の連続だった。一語一語、聞き落とさないように私は長時間、メモをとった。

劉さんが亡くなり、ひとつの歴史が消えた。だが、まだ書き残せる歴史もある。明日以降も貴重な証言をとる作業はつづく。それは、「時間」と「根気」との闘いでもある。誰かがやらなければならないものなら、私も少しでもその作業のお手伝いをしたい。

カテゴリ: 歴史

息を呑み、身が震える「終戦記念日」

2013.08.15

本日、戦後68回目の終戦記念日を迎えた。20歳で終戦を迎えた最前線の元兵士ですら「88歳」というご高齢となった。昨年、完成させた拙著『太平洋戦争 最後の証言』シリーズの3部作の取材の時もそうだったが、“時の流れ”というものに、深い感慨を覚える。

毎年おこなわれている「全国戦没者追悼式」に、本日も天皇・皇后両陛下が出席され、お言葉を述べられた。私は今日、静岡県浜松市の「アクトシティ浜松」でおこなわれた「浜松市戦没者追悼式典」の記念講演を頼まれていたので、天皇陛下のお言葉は、浜松でお聞きした。

「終戦以来、すでに68年、国民のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶ時、感慨は今なお尽きることがありません」

今日の陛下のお言葉の中で、私はこの部分が特に心に残った。それは、陛下の心からの叫びではなかったか、と思う。さらに陛下はこう続けられた。

「歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」

この部分にも、国民の多くは感慨を深くしたのではないだろうか。戦没者に対する「悼み方」にまで中国や韓国にクレームをつけられる現代の日本にあって、多くの遺族は、釈然としない思いを抱いている。心ある日本人の多くも同じ思いだろう。それだけに陛下の一語一語が身に染みた遺族は少なくないだろう。

私はそのあと、「大正世代が示した“誇りある日本人”」と題して、最前線で戦った元兵士たちの「最後の証言」について、講演をさせてもらった。今日の会場は、身内に戦没者がいるご遺族が多かったせいか、ハンカチで目頭を抑えながら聴いてくれる人もいて、話に熱が入った。

結局、あれほど靖国参拝を念願していた安倍首相は今日の参拝を見送った。中韓の圧力だけでなく、アメリカの意向が大きかったのだろうと推察される。私は、終戦記念日に行きずらいなら、参院選後の「いつ」であろうと、これまでに「行くべき」だと思ったが、安倍首相にその決断はできなかったのである。

就任以来これまで、安倍首相は強さとしたたかさを中国と韓国に植えつけることに成功していたが、これで両国に「与(くみ)しやすし」のイメージを持たれたことは間違いない。その意味で、日本の独自の文化である死者への追悼の仕方まで、あれこれ物申される現象は、安倍首相の譲歩によって、「今後も繰り返される」ことになったと見ていいだろう。

本日、安倍首相の代理として玉串料を奉納した自民党の萩生田光一総裁特別補佐は、記者団に「参拝見送りは、総合的な判断だ」と語ったそうだ。

そして、「本日は参拝できないことを英霊にお詫びし、靖国への思いは変わらないと伝えてほしい」と安倍首相に伝言を託されたことを萩生田氏は明らかにした。

こうして、国の礎となって亡くなった方々への“もう一つの追悼の場”に、安倍首相は「行くことができなかった」のである。

あれほどの中国と韓国の大非難の中、靖国参拝をおこなった当時の小泉首相の度胸と気概をあらためて感じる。国家の領袖としてのプレッシャーの凄さは、やはりその地位に就いた者でなければわからないのだろう。

政治家は、いかにあるべきか。衆参に圧倒的な勢力を有する安倍首相にしても叶わなかった終戦記念日の靖国参拝。毎年8月15日に繰り広げられるこの“壮大なドラマ”に、私はいつも息を呑み、身が震える気がする。

カテゴリ: 政治, 歴史

「慰安婦報道」にかかわる記者たちに望むこと

2013.05.25

3日前のブログで『“誤訳”で増幅される「政治家発言」を憂う』と題して、橋下徹・大阪市長の従軍慰安婦発言について取り上げさせてもらった。

外国では、橋下氏の発言の内容が「大坂市長は、軍には当時“性奴隷(sex slaves)”が必要だった、と発言している」と報じられ、より大きな反発を受けていることを指摘させてもらった。

知人からも直接、問い合わせが来るなど、非常に大きな反響となり、一般の方々の関心の高さに驚いた。その中に、「では、従軍慰安婦を英語ではなんと表わせばいいのか」という質問が少なからずあった。

私は、英語の専門家でもなんでもないので、ふさわしい表現があるなら、是非ご教示いただきたいが、強いて言うなら、「licensed prostitutes in military (軍における公娼)」と表現すべきではないか、と考えている。

英語圏では、慰安婦を直訳した「comfort woman(慰める女性)」という表現もあるそうだが、私は実質的な意味として「licensed prostitutes in military」ではないか、と思う。

3日前のブログでも書いたように、貧困に支配されていたあの時代、家族を助けるために自らの身を売り、色街で働く薄幸な女性は数多くいた。そして、その中に軍を相手に独占的に営業する「P屋」と呼ばれる慰安所で働いた女性もいた。

それは、日本国内にとどまらず、朝鮮半島やそのほかの地域の出身の女性も沢山いた。現代史家の秦郁彦氏は、戦時中のソウルの新聞に「慰安婦至急大募集 月収300円、本人来談」という業者による広告が何回も出ていたことを指摘している。

秦氏によれば、当時の日本兵の月給は10円前後だったというから、慰安婦は、「兵士の30倍の月収」を提示されていたことになる。それは、貧困の時代の哀しい「現実」である。歴史を振り返る時、自らの身を売って家族を助けようとした健気(けなげ)な女性が数多くいた不幸な時代のことを噛みしめることは大切だと思う。

しかし、そのことが日本を貶める目的のもとに、史実をねじ曲げてまで、「日本が国家として、嫌がる婦女子を強制的に連行し、性奴隷(sex slaves)とした」という“レイプ国家”としてのレッテルを貼られるとしたら、それは「違います」という声を上げることは重要だと思う。

なぜなら、その史実に反したことがもし確定したなら、私たちの子や孫、そしてひ孫の世代にどんな影響を与えるかということを考えるからである。「嘘も百回言えば真実となる」というが、こういう問題は絶対に、嘘を許してはならないと思う。

それと共に、1991年に従軍慰安婦を「強制連行」したとして突如、これを問題化させた朝日新聞の報道の罪の深さをあらためて感じる。史実をねじ曲げてまで日本と日本の若者の将来の障害になりつづけることをこの新聞が「創り上げたこと」にどうしても思いを致さざるを得ないのである。

もし、韓国に自国の歴史をねじ曲げてまで、他国から糾弾される“もと”を創り上げる新聞があれば、たちまち国民の総バッシングを受け、読者から愛想を尽かされ、経営破綻するに違いない。

しかし、日本では、今も立派に経営が成り立ち、従軍慰安婦の「強制連行」について、訂正すらしなくても許されている。私は、そのことが不思議でならない。

昨日、韓国の中央日報が、原爆投下は「神の懲罰だ」と主張したコラムを掲載し、物議を醸している。しかし、もし、何十万人もの罪もない若い女性を強制連行(拉致)し、慰安所に監禁し、強姦しつづけた過去が日本にあるなら、韓国にそんな論評が出ても不思議ではないと思う。

ひとつの誤った記述、報道が日本と韓国という二つの国の国民の距離を広げ、もはやいかんともしがたい亀裂を生じさせていることを私は残念に思う。この問題にかかわるジャーナリストたちは、そのことを振り返ってみるべきだろう。

私は、家族のために、生活のために、身を売らざるを得なかった薄幸な女性が数多くいたあの時代のつらさを思うと同時に、彼女たちの恵まれなかった人生に深く同情する。そして、同時に“レイプ国家”といういわれなきレッテルによって、これから「国際舞台」で苦しんでいく日本の若者たちにも、深く同情する。

私は、『太平洋戦争 最後の証言』シリーズをはじめ、太平洋戦争の最前線で戦った老兵たちを全国に訪ね、その遺言とも言うべき証言を紹介するノンフィクション作品を何冊も上梓している。

あの不幸な時代に、家族と国のために戦い、不運にも命を落としていった若者たちの「無念」を語る生き残り兵士たちの証言を直接この耳で聞いているだけに、そういう思いを余計に抱くのかもしれない。

ジャーナリストには、「真実」に対するあくなき探究心と同時に、謙虚に事実を見ようとする姿勢がなにより必要だと思う。従軍慰安婦報道にかかわる人たちには、政治家たちの片言隻句を捉えるのではなく、どこまでも「真実」に対して忠実、かつ真摯(しんし)であって欲しいと心から願う。

カテゴリ: マスコミ, 歴史

「4・28屈辱の日」を噛みしめることの大切さ 

2013.04.28

今日は、61年前にサンフランシスコ講和条約が発効した記念日である。太平洋戦争の敗北によって日本が連合国軍の占領下に置かれた「屈辱の7年間」が終了した日だ。

主権を失うことの惨めさと辛さは、国家と国民にとって筆舌に尽くしがたいものである。この7年間に日本の「戦後」の基本的な制度や価値観が決定づけられ、それは、今もあらゆる分野で幅を利かしている。

私は、1952(昭和27)年4月28日という日は、“忘れてはならない日”だと思う。世界中が軍国主義に覆われ、非戦闘員も含めて5000万人を遥かに超える犠牲者を出した第二次世界大戦は、人類の歴史がつづくかぎり忘れることができない悲劇だった。

敗戦国となった日本も主権を失い、苦難の道を歩んだ。東西の冷戦が始まり、西側陣営への参加を強いられた日本は、紆余曲折を経ながらも、豊かさと繁栄の時代を迎えた。

その意味で、この占領下の7年間は、日本にとって忘れてはならない「屈辱」と「雌伏」の時代だったと思う。

今日、政府は天皇、皇后両陛下のほか、首相、衆参両院議長、最高裁長官ら各界代表が出席して、初めて永田町の憲政記念館において「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」をおこなった。

安倍総理は、「わが国が辿った足跡に思いを致しながら、未来に向かって希望と決意を新たにする日にしたいと思います」、そしてこの7年間について、「わが国の長い歴史に訪れた初めての、そして最も深い断絶であり試練でした」とスピーチした。

条約発効によって沖縄や奄美諸島、小笠原諸島が日本から切り離され、沖縄の本土復帰が一番遅れたことに対しては、「沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く思いを寄せる努力をなすべきだと思います」と語った。

その沖縄では、この日が「屈辱の日」と呼ばれており、仲井真弘多・沖縄県知事が憲政記念館での式典への出席を見送り、政府主催の式典が開かれたことに対する抗議集会がおこなわれた。

「屈辱の日」とは、沖縄の人々にとってだけではない。それは、日本人全体が「屈辱を噛みしめる日」なのである。私はそのことの重要性を思う。

式典自体に反対する人々には、こういう「屈辱の日」こそ忘れてはならず、歴史の重みを振り返るべきことの大切さを知って欲しいと思う。

他国に占領され、主権を失うことの「意味」と「怖さ」を私たちは思い起こすべきだろう。どれだけ平和ボケしようが、そのことだけは忘れてはならない。

領土拡大の野望を胸に、隣国と領海紛争を繰り返してアジアで顰蹙(ひんしゅく)を買い、それでも虎視眈々と「覇権確立」を目指す国をすぐ近くに持つ私たち日本人は、あらためて「屈辱の日」と「国の主権とは何か」を振り返るべきだと思う。

カテゴリ: 政治, 歴史

誰が日本と中国の「距離」を広げたのか

2013.04.26

昨日の産経新聞の9面の左肩に小さく載っていた同紙上海支局長の河崎真澄記者の「日本人を面罵せよ」というコラムは、興味深かった。四川省成都のホテル「ソフィテルワンダ成都」で河崎支局長と同僚が経験した出来事が短いコラムの中にそのまま描写されていた。

四川省での地震取材の中継地として使ったこのホテルの1階ラウンジで、飲み物を持ってきた若いウエートレスと河崎支局長との間にはこんなやりとりがあったという。

〈(ウエートレスが)「どこから来た?」と聞くので、「日本人だよ」と答えると、いきなり「釣魚島(尖閣諸島)は中国のものだ。知っているのか?」と言い放った。日本人客も多い国際的なホテルでこれは無礼。抗議したラウンジのマネジャーは平謝り。だが当のウエートレスは平気の平左だ。「何が悪い?」とすまし顔に書いてあった〉

気を取り直して、河崎支局長は、同ホテルの5階にあったスパの足裏マッサージに同僚と共に行ったそうだ。すると、

〈若いマッサージ師の女性がまたしても「あなた日本人?」と聞く。「そうだよ」と答えると、「日本人は全員大嫌い」ときた。「なぜ嫌いなの?」「理由はない」「理由もなく嫌うのは変じゃない?」「とにかく嫌い。釣魚島は中国のもの」「その島ってどこにあるか知ってる?」「知らない」「じゃ日本はどこにある?」「知らない」〉

押し問答が続いて、河崎支局長の気持ちはさらに沈んだそうだ。そしてコラムは、こう締めくくられている。

〈「国を愛する中国人ならば日本人を面罵せよ」。そんな屈折した空気を若い中国人に刷り込んだ張本人は、いったい誰なのか〉

私は、前回のブログ(23日付)で、京都の経済人の中国の宝山製鉄所にまつわる話を書かせてもらったばかりだ。「日本人は嫌い」。私は、嫌いなものを好きになれ、というのはおかしいので、それはそれでいいと思う。

しかし、前回のブログで書いたように、かつて中国の発展のために懸命に尽力した日本人が数多くいるのは事実である。それは、改革開放以後の中国の目覚ましい発展のもとになった。

だが、ほとんどの中国人はそのことを知らない。いや、知らされていないし、知ろうともしていない。前回のブログに登場いただいた京都の経済人は、そのおかしさを語っていた。果たして、日本と中国との関係は“友好”が前提なのだろうか、それとも“憎みあい”が前提なのか、と思う。

一方、いま日本人は台湾の人たちと心と心を通わせあっている。震災の時の温かい援助が、それを加速させた。WBC予選の2次ラウンドで日本と台湾が東京ドームで激突した時、インターネットで「今こそ台湾の人たちに感謝の気持ちを伝えよう」という呼びかけがおこなわれ、日本の観客が「謝謝、台湾!」「3・11感謝 加油台湾!」という手書きのメッセージを掲げて応援した。

試合後、惜しくも敗れた台湾チームが、一度ベンチに引き揚げたあと、わざわざマウンドに集まって円をつくり、観客に向かってお辞儀をしてお礼の気持ちを表わした光景は感動的だった。

国と国との間で、憎悪を導き出そうとするのは簡単だ。国内に充満する不満を外国に持っていき、ナショナリズムを喚起する方法は、独裁国家では普通に見られることだ。

今回の河崎支局長のコラムは、中国人による日本人への憎悪が、もはや拭い難いところまで来ていることを示している。中国へ観光に行く日本人は、こういう中国人の本音をよく知った上で赴く方がいいだろう。

徹底した反日教育がおこなわれた1990年代の江沢民時代、それ以後の胡錦濤時代の中国が私は残念でならない。そして、こういう事態を招く一番大きなきっかけをつくった「朝日新聞」のことも、同時に私は残念でならない。

1985年、 “戦後政治の総決算”を掲げていた当時の中曽根政権を打倒するために、朝日新聞が靖国参拝を国際問題化し、それまで一度も靖国参拝を言及したこともなかった中国の共産党機関紙「人民日報」と連動してキャンペーンを張り、これを大きな問題にしたことを思い出す。

韓国の政治家が伊藤博文を暗殺した安重根の記念館に献花しようが、中国の指導者が抗日戦線の過程で多数の日本人居留民を殺害した兵士たちが眠る八宝山革命公墓に参ろうが、日本人はその国独自の文化や死者への悼み方に干渉したりはしない。

しかし、子孫を残すこともできず、若くして無念の死を遂げた多くの日本の兵士の霊を鎮めている神社に日本の政治家が参ることは、「許されない」のだそうだ。

河崎支局長のコラムを読みながら、私は、日本と日本人が置かれている状況と、それの手助けをしてきた日本のジャーナリズムのあり方など、さまざまなことを考えざるを得なかった。

私は1982年に1か月半も中国に滞在したことがある。さまざまな“悪意”によって動かされる以前の「中国人の素朴さ」が私には忘れられない。

それまで友好な関係を築いていた日本と中国との間を分かち、距離を広げ、さらにそれを加速させたメディアの存在は、哀しいかぎりだ。

カテゴリ: 中国, 歴史

歴史の町・西尾と岡崎にて

2013.03.07

今日は愛知県の西尾市と岡崎市の2か所で講演があった。西尾市には、あの忠臣蔵の仇役・吉良上野介義央(よしなか)の故郷・旧吉良町がある。

悪役としてすっかり定着している吉良上野介だが、地元では、善政を敷いていたことで知られている。たびたび氾濫する矢作川(やはぎがわ)の洪水に苦しむ領民のために、吉良は一昼夜で付近の領民総出で堤を築いた。

黄金堤(こがねづつみ)、別名「一夜堤」と呼ばれる堤は、300年余り経った現在でも残っている。そのほかにも、塩田をつくったり、赤馬に乗って領地をまわり、気さくに民に語りかけたエピソードなどが地元には語り継がれている。

吉良の素顔は、忠臣蔵で描かれる“悪役”とはあまりにかけ離れたものだ。私は講演のあと、西尾市の榊原康正市長に案内していただき、黄金堤だけでなく、吉良の墓所である華蔵寺も見学することができた。

華蔵寺には、領民に慕われた吉良上野介の素顔を唯一、現代に伝える木像もある。穏やかな細い目で、見る者に微笑みかけてくるような吉良像をご住職に見せてもらい、毎年、命日の12月14日には、「毎歳忌法要」がおこなわれ、多くの参拝客が墓所に詰めかけていることを伺った。

榊原市長と華蔵寺のご住職に別れを告げ、私はそのあと岡崎市に向かった。ご存じ、岡崎は徳川家康の生まれ故郷であり、天下を取った三河武士の根拠地でもある。

初めて訪れた岡崎城には、家康が生まれた時に使われた産湯(うぶゆ)の井戸があった。そして、天守閣に上がる手前には「東照公遺訓碑」があった。大きな亀の甲羅の上に建つ碑である。

近づいてみると、「人の一生は 重荷を負いて 遠き道をゆくがごとし いそぐべからず 不自由を常とおもえば不足なし こころに望おこらば 困窮したる時を 思いだすべし」という有名な家康の遺訓が書かれていた。

私が好きな家康の歌は、「人はただ 身のほどを知れ 草の葉の 露も重きは 落つるものかな」というものだ。幼少期から人質生活を送り、辛酸を舐(な)めつくした家康だけに、残された言葉や和歌には、現代人をも唸らせる「何か」がある。

三河武士と忍従の主君・徳川家康――穏やかな三河の地は今日、春そのものの気候だった。つい4日前には、北海道を襲った猛吹雪を伴う寒波で何人も親子が命を落としたことを思うと、信じられないような温かさだ。

一昨日、北朝鮮が朝鮮戦争の休戦協定「白紙化」を宣言し、東アジア情勢はまさに一触即発の状態を迎えている。北朝鮮とそれを取り巻く各国が、家康が唱えつづけた「忍従」を見失ったら、たちまち惨禍が東アジア全体を覆うことになる。

そんな風雲急を告げる中で、歴史の町・西尾と岡崎は、春の麗らかな日ざしにすっかり優しく包み込まれていた。

カテゴリ: 歴史

先達から託された歴史の「重さ」

2013.02.21

昨日、大阪、徳島の出張から東京に帰ってきた。一昨日(19日)に大阪から徳島に行く時、高速バスを利用し、淡路島と四国を結ぶ「大鳴門橋」を通った。

途中、淡路島の山中だけが雪が積もっていた。点在する民家の間にうっすらと雪が積もったさまは実に美しかった。徳島市内に入ると、今度は眉山(びざん)の頂上に近い樹々だけが白い雪を被っていた。

高知出身の私は、父の転勤で、昭和30年代から40年代初めにかけて8年間ほど徳島で暮らした。私にとって、徳島は第二の故郷である。

当時、徳島市内のあちこちに「明石・鳴門を結ぶ橋」「夢のかけ橋」というスローガンが掲げられていたことを思いだす。子どもながらに、そんな橋ができるとしたら「それは夢だなあ」などと漠然と考えていた。その「夢のかけ橋」を通って、私は徳島入りしたのである。

徳島では、第30回徳島県市町村トップセミナーで講演をさせていただいたが、講演の前後に徳島市内を歩きに歩いた。かつて住んでいた場所をはじめ、通っていた小学校など、思い出の地に行ってみたのだ。

さすがに40年あまりの歳月は、思い出の地をすっかり変貌させていた。あまりのさま変わりに、馬齢を重ねるばかりの自分自身の人生を考えさせられてしまった。

50を過ぎても腰の暖まる暇がなく、ゆっくり過去を振り返る機会も余裕もない生活をつづけている。いつも締切に追われているそんな生活を、ふと考えてしまったのである。

先週は高知、福島、郡山に出張し、今週は大阪と徳島で、ここのところ東京をほとんど不在にしていた。そんな状態で昨夜久しぶりに帰ってきたら、知人から「訃報」を伝えられた。

零戦の勇士・角田和男さんと東條英機元首相のお孫さんである東條由布子さんのお二人が亡くなられたというのである。

衝撃だった。角田さんは94歳、東條さんはまだ73歳だった。角田さんは拙著『太平洋戦争 最後の証言』第一部「零戦・特攻編」に直接、貴重な証言を寄せていただいた。東條さんは、『太平洋戦争 最後の証言』第二部「陸軍玉砕編」の取材にあたって、大きなお力をいただいた。

お二人とも歴史の真実を後世に伝えようとする思いの深い方だった。ご高齢にもかかわらず、私のような若輩にまで協力を惜しまない姿勢に感銘を受けた。

角田さんが語ってくれた特攻に行く若者の心情と真実の姿は、私にとって驚きであり、ジャーナリストとして大きな財産となった。

また、東條さんのご紹介によって終戦直後、ソ連軍と占守島(しゅむしゅとう)で死闘を展開し、ソ連の“北海道侵攻”を食い止めた戦車隊の生き残り、神谷幾郎さんとお会いすることができた。その神谷さんも昨年亡くなられている。

いま思えば、昨年完結した『太平洋戦争 最後の証言』シリーズは、戦後の長い“時間との闘い”をくぐり抜けた奇跡のような作品だったと思う。

多くの先達から託された「歴史」の重さというものを私なりに受け止め、これからも日本の「未来」に着実に繋いでいきたいと思う。お二人のご冥福を心からお祈り致します。

カテゴリ: 歴史

読み応えがあった産経コラム「“悪鬼”が歴史を動かす」

2013.02.19

本日付の産経新聞に掲載された「“悪鬼”が歴史を動かす」というコラムは読み応えがあった。筆者は同社の湯浅博・論説委員である。湯浅氏は、産経新聞で「東京特派員」という肩書も持ち、『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問辰巳栄一』などの著書も持つジャーナリストである。

その湯浅氏が、二・二六事件の秘話を堤尭・元文藝春秋編集長が季刊『マグナカルタ』に寄せた「二・二六事件 いま明かす衝撃の新証言」を紹介しながら、コラムで独特の論考を展開している。

ここに紹介されているのは、堤氏が文藝春秋の編集者時代、二・二六事件の生き残りの一人から「固い口止め」のうえに打ち明けられたという秘話である。

あの二・二六事件の際、青年将校たちが率いるおよそ1500人の決起軍によって、首相官邸をはじめ、多くの政府要人の公邸、私邸等が襲撃された。この時、その対象は、「宮城」も例外ではなかった。

だが、宮城を占拠しようとした部隊は、途中で“偽装”がばれ、占拠に失敗する。その中で単身、宮中奥深くに乗り込んだのが、中橋基明という中尉だった。決起の趣旨を直接、陛下に上奏するためである。

しかし、この時、陸士の同期、大高政楽少尉が中橋の前に立ちはだかった。中橋は大高に拳銃を突きつけるが、“同期の桜”である大高をついに撃つことができなかった。湯浅氏は、「これが叛乱軍の決定的な敗北につながっていく」と書いている。

衝撃的なのは、その時の裏話である。彼らは、「もし、陛下が決起の趣旨を受け入れなければ、その時は、陛下を弑(しい)し奉り、自決する手筈(てはず)だった」というのである。

もし、そのようなことになれば、秩父宮が摂政となり、当時まだ3歳だった今上陛下に代わって、事実上、親政をおこなわれただろう、という。ちなみに秩父宮は決起した青年将校に対して極めて同情的なお立場だったいう。

つまり、中橋中尉が、“同期の桜”大高少尉を撃つことができなかったことが「歴史を大きく変えた」ことになる。陛下が、この青年将校たちの決起に対して、「朕が股肱(ここう)の臣を殺傷するのは朕が首を真綿で絞めるごときもの」と激怒し、断固として鎮圧を命じたのはあまりに有名だ。

歴史に「もし」はない。だが、そんなことが起こっていたなら、「対米戦」ではなく「対ソ戦」に突き進んでいたかもしれない、という見方まで聞くと、驚きと共に、からだ全体が熱くなってくる気がする。

私は、堤氏も湯浅氏も存じ上げているが、お二人が展開された「二・二六事件の秘話」が実に興味深かった。できれば、このことを堤氏に告白した「生き残りの一人」の名も知りたいが、当人(故人)との関係で明かせないのだろう。

「決起の趣旨を受け入れられない場合は、陛下を弑(しい)し奉るつもりだった」というあまりに衝撃的な話に、私はコラムを読みながら、しばし、物思いに耽ってしまった。

私自身、昨年、シリーズが完結した『太平洋戦争 最後の証言』(小学館)で、太平洋戦争の最前線で戦った多くの元兵士にお会いした。その取材は、これまで言われていた歴史上の“常識”がまるで違うことに気づかされることの連続だったと言える。

「墓場まで持っていくべきこと」を明かした「二・二六事件生き残りの一人」と堤氏、それをまとめ上げて短いコラムの中で衝撃を読者に伝えた湯浅氏――歴史のダイナミズム、言いかえれば歴史の波動を後世に伝えようとする先輩がたに、心から敬意を表したい。

カテゴリ: 歴史

激戦地「血染めの丘」に還った元兵士の遺骨

2013.02.07

「お父さん、よかったね。お父さん、よかったね……」。そう言いながら、故・阿部彰晤さんの末娘は、ガダルカナル島の「血染めの丘」で号泣したそうだ。

70年前の今日、すなわち昭和18年2月7日は、ガダルカナル撤退の「ケ号作戦」が実施された日である。昭和17年9月、仲間がバタバタと倒れていく中、エドソンの丘(別名:血染めの丘)を突破して、ガダルカナル戦の攻防の中心・ルンガ飛行場の一部を占拠したのが、仙台・青葉大隊である。

死闘を繰り広げた青葉大隊の石橋中隊に所属していた阿部彰晤さんの証言を中心に、私は一昨年『太平洋戦争 最後の証言』第2部の第1章「悲劇の序章 ガダルカナルの死闘」を書かせてもらった。しかし、証言者である阿部彰晤さんは、本が発売になった直後、89歳の生涯を閉じた。

「自分が死んだら、遺骨を血染めの丘で死んだ仲間のところに埋めてくれ」。生前、そう語っていた阿部さんの願いを胸に、ご家族(夫人と娘3人とそれぞれのご主人)は、この1月末、ガダルカナルに飛んだ。そして、ご遺族は阿部彰晤さんの遺言通り、血染めの丘に遺骨を埋めたのである。

遺骨収集に行くご遺族はいても、戦友が死んだ地に遺骨を「埋めに行く」という話は聞いたことがない。ガダルカナルから帰国して宮城県に戻った夫人は、昨日、私にその時のようすを語ってくれた。

「主人の遺骨は、小さな八つの袋に、うちでとれたコメと一緒に入れました。ここで亡くなった戦友たちも、晩年の主人の顔はわからないでしょうから、八つの袋には、それぞれ主人が陸軍を志願した19歳の頃の写真を縫いつけました」

血染めの丘は、今もジャングルだ。米海兵隊の公刊戦史に「人類史上、これほどの猛攻を受けた部隊はいない」と書かれている米海兵隊と青葉大隊との激戦。血染めの丘を守ったエドソン大佐の凄まじい体験は、アメリカの戦史研究家の間では、今も語り草だ。

小さな八つの袋に入れられた阿部さんの遺骨は、血染めの丘のジャングルの中に、それぞれ埋められていった。途中、娘さんはこらえ切れずに、「お父さん、よかったね、お父さん、よかったね……」と、泣き始めたのである。

激戦を生き抜いたことによって“生”を得た阿部さんの子どもたちにとって、「父は還るべきところに還った」と思ったに違いない。

70年前、骨と皮だけになった生き残りの兵の中にいた若き日の阿部さん。投入された3万6000人の将兵のうち、戦死・餓死者が2万2000人に達した悲劇の島・ガダルカナル。

戦後、日本に戻って復興と高度経済成長に邁進した大正世代の一人が、「還るべきところに還った」というご報告をご遺族から受けて、私にも万感の思いがこみ上げた。

カテゴリ: 歴史

玉砕の島・サイパンを生き抜いた二人の老兵

2012.09.17

一通の嬉しい葉書が届いた。奈良県にお住まいの栗山美和さんからだ。栗山さんは、玉砕の島・サイパンから奇跡の生還を遂げた栗山寅三さん(91)のお孫さんだ。

栗山寅三さんには、拙著『太平洋戦争 最後の証言』第2部「陸軍玉砕編」の第4章「玉砕の島“サイパン”の赤い花」にご登場いただいた。

寅三さんは、高射砲第二十五聯隊の一員として米軍と戦い、地獄の戦線を生き抜いた。肩を撃ち抜かれ、瀕死の状態で、米軍の捕虜となった。自決する時は、赤い花の下で、と島を彷徨った末の奇跡の生還だった。

その栗山家を一人の老兵が訪問されたというのである。訪ねた人は、下田四郎さん(89)だ。下田さんは戦車第九聯隊の隊員として、サイパンの守備にあたった。昭和19年6月、戦車の機関銃兵として米軍と激戦を展開し、無念にも戦車隊は全滅する。

奇跡的に生き残った下田さんはその後、山中に身を隠し、戦争終結後の昭和20年9月に米軍に投降して、日本への生還を果たした。拙著の同じ第4章で貴重な証言をしてくれた方である。

「実は、先日下田様が、祖父の為に神奈川県から来て下さいました。年内に“こちらから下田様にお会いしに行こう。”と予定しておりましたが…突然の出来事でびっくりしてしまいました」

美和さんの葉書には、拙著がきっかけになって、下田さんが栗山家を訪ね、お二人が貴重な時間を過ごしたことが、そう書かれていた。葉書には、その時のお二人の笑顔と、兵士だった頃の凛々しい写真がパソコンで印刷されている。

「お二人とも、手をしっかり握り合って、再会を喜んでおりました。祖父も下田様も、サイパン戦から戦友に会うのは初めてだということをお聞きし、私も胸がいっぱいになりました」

「あの“戦争”を体験した者にしか通じ合えない、分かり合えないこともたくさんあったでしょう…あの空間は、本当に輝かしいものでした」

玉砕の島から生還したことだけでも奇跡なのに、拙著がきっかけとなって、戦後67年という気の遠くなるような年月を経て会うことができたサイパンからの生還者。お二人の笑顔の写真を見て、私までなんとも言えない嬉しさがこみ上げてきた。

サイパン島の戦いは、玉砕を繰り返した太平洋の島々の悲劇を象徴するものだった。この島を失えば、絶対国防圏を突破され、日本全土が空襲に晒されるという悲壮な戦いだっただけに、3万人を超える日本軍将兵が命を落としている。生還した人間は、わずか数百名に過ぎなかった。

そんな中を生き抜いたお二人が、玉砕の島のことを語り合うことができたという知らせに、私は亡くなった多くの方々への感謝の思いを新たにさせてもらったのである。

歴史を語り継ぐことの大切さ――最後まで戦いつづけた大正生まれの男たちの「故郷」と「家族」、そして「祖国」を守ろうとした気迫と闘志を、これからも感謝の気持ちを忘れずに後世に伝えていきたいと思う。

カテゴリ: 歴史

見応えがあったNHK「クローズアップ現代」

2012.08.29

昨夜のNHK「クローズアップ現代」は見応えがあった。「なぜ遺書は集められたのか~特攻 謎の遺族調査~」と題されたスクープ番組である。

太平洋戦争で特攻によって亡くなった元特攻隊員の遺族を戦後、“謎の人物”が訪ねてまわり、1000通を超える遺書が回収されていたというのだ。その遺書が、江田島の海上自衛隊の倉庫から発見されたことを同番組が報じていた。

私は『太平洋戦争 最後の証言』(小学館)シリーズを今年、完結させたばかりで、元特攻隊員にも数多くお会いしている。その当時の悲愴な心情と、仲間の死について、涙ながらに語る老パイロットたちの姿を直接、知っているだけに、身を乗り出して番組を観た。

“謎の人物”とは、自称・特務機関員の近江一郎氏だった。私は、「ああ、そうか」と思った。なぜなら、私は、『太平洋戦争 最後の証言』シリーズの調査・取材過程で、この人の資料を恵比寿の防衛研究所の史料閲覧室で何度も見たことがあるからだ。

近江氏は、遺族から遺書を回収するだけでなく、受け取ることができなかった遺書は、わざわざ書き写させてもらい、これをきちんと残して、その綴りを後世に残していたのである。

それは、実に丁寧で几帳面な字だった。零戦で特攻して亡くなった日系2世・松藤大治少尉の生涯を描いた拙著『蒼海に消ゆ』(集英社)でも、この近江氏が書き写した資料を紹介させてもらった。

それは、元山航空隊から出撃した松藤少尉ら「七生隊」を率いた宮武信夫大尉の辞世の句が、近江氏によって書き写されていたからだ。

「七生を 誓ひて散らん 桜花」

宮武大尉のこの句を書き写して後世に残した人物こそ、近江一郎氏だったのである。私は、近江氏によって回収された特攻隊員たちの遺書が江田島から発見されたというニュースが他人事とは思えなかった。ああ、『太平洋戦争 最後の証言』シリーズが終わる前に是非、原本を見たかった、と正直思ったのである。

それと共に、この近江氏のバックに特攻を推進した一人、猪口力平・元大佐がいたと聞き、驚いた。猪口氏は、中島正・元中佐と共に、“特攻生みの親”大西瀧治郎中将の部下である。

中島氏は、特攻を次々と送り出し、「俺もあとから貴様たちに続く」「貴様らは、生きながら、すでにして“神”である」と訓示し、しかし、戦後も生き長らえて、自衛隊で空将まで昇り詰める人物だ。

猪口氏と中島氏は昭和26年に『神風特別攻撃隊』(日本出版協同)を共著で出版し、特攻隊員たちは自ら志願し、進んで「死」を選んだ、と書いた。それは、まるで自分たちが戦後、生き残っていることに対する釈明であり、言い訳であるかのような内容だった。

私は、海軍の士官たちを多数輩出した海軍兵学校出身の人たちは主に2つに分けられると思っている。宮武大尉のように、自ら部下を率いて先頭に立ち、軍人としての潔さを示した人たちと、「自分もあとを追う」と約束しながら、部下だけを行かせて自らの身は安全地帯に置きつづけた人たちである。

今回の番組で私が驚いたのは、猪口氏らが近江氏のバックにいて、その命によって、近江氏が全国を行脚して遺書を回収していたことが明らかにされたことだ。

この遺書回収作業のあとの昭和26年に猪口氏らによる『神風特別攻撃隊』が出版されたことを、どう解釈すべきなのだろうか。私は、多くの潔い部下たちがいた一方で、当時の指揮官や幹部たちの一部が戦後、言い訳や弁明に終始する生き方をした点が、妙に寂しいのである。

カテゴリ: 歴史

大阪で語らせてもらった「一橋人と戦争」

2012.08.25

今日は、大阪・中之島のリーガロイヤルホテルで開かれた一橋大学OBたちの「大阪如水会」の会合に招かれ、講演をさせてもらった。

タイトルは「一橋人と戦争」。数ある大学の中でも、私は、一橋大学(当時は東京商大)の学徒出陣した人たちに、特にお世話になった。私が上梓した『蒼海に消ゆ』(集英社)や『太平洋戦争 最後の証言』(小学館)にも、多くの一橋人が登場する。

取材で大変お世話になったので、私は如水会や一橋大学の文化祭で、これまで何回か講演をさせてもらっている。今日も、大阪まで出かけて一橋大学OBの前で話をさせていただいた。

今日は、広島県呉市から一橋大学OBの大之木英雄さん(90)がわざわざ講演を聴きに来てくれるというので、身が引き締まった。

大之木さんは元山(げんざん)航空隊所属の海軍少尉で、零戦搭乗員として特攻の命令を待ちながら、終戦を迎えた方である。

拙著『蒼海に消ゆ』の主役・日系2世の松藤大治少尉に関して貴重な証言をしてくれただけでなく、『太平洋戦争 最後の証言』の第3部「大和沈没編」でも、昭和15年8月の戦艦大和の進水の時の目撃者としてもご登場いただいた。

私は、歴史の生き証人である大之木さんを“奇跡の人”だと思っている。特攻命令を待ちながら終戦を迎えたことはもちろん、あの戦艦大和の極秘の「進水」を目撃できた人など、ほかには存在しない。

実際にそれを見て、しかもそれから70年の歳月を経てそのことを私に詳細に証言してくれたありがたさは、表現しようもない。その大之木さんが、わざわざ私のような若輩の話を呉から聴きに来てくれたのだから、光栄であると共に、久しぶりにお会いできる喜びもあってなんだか嬉しくなってしまった。

今日、実際に大之木さんと会場でお会いした時、とても90歳とは思えないお元気さと、お歳を召しても衰えない相変わらずの“鋭さ”に感じ入った。それは、太平洋戦争の最前線で戦った大正生まれの若者の毅然とした姿を彷彿させるものだった。

今日は、時間こそ短かったものの、学徒出陣して死んでいった八百余名の「一橋人」と「戦争」について、私なりに話をさせてもらった。

折しも、竹島や尖閣の問題で、国家としての毅然とした姿勢が問われている時である。話を聴いていただいた方々に、少しでも「心に残るもの」があったのなら幸いだ。

カテゴリ: 歴史

67回目の終戦記念日と講演

2012.08.16

67回目の終戦記念日となった昨日、私は大阪護国神社にいた。「若き兵士の最後の証言」という演題で講演を依頼されていたからである。そのため、日本武道館にておこなわれている全国戦没者追悼式典に合わせ、正午に大阪護国神社の神殿にて黙祷をさせていただいた。

太平洋戦争(大東亜戦争)で戦死した兵士230万人、非戦闘員を含む全死者は310万人にのぼる。そのすべての方々の無念を思い、私は後世の日本人として感謝と鎮魂の思いで黙祷し、そのあとで拝礼をおこなった。

その後、敷地内の住之江会館に場所を移した講演会は、補助席が出され、立ち見が出るほどの盛況だった。自然と講演にも熱が入った。

言うまでもなく拙著『太平洋戦争 最後の証言』を読んでくれた主催者からの講演依頼だったので、私がここ数年、全国で伺った最前線で戦った老兵たちの実際の証言を紹介させてもらった。

涙ぐむ方の顔がステージからも見えた。やはり多くの方々が、無念を呑み込んで亡くなっていった人たちのことを今も「胸に刻んでいる」ことがわかった。

歴史の真実を蔑(ないがし)ろにする人々と、いつまでもそれを忘れず、胸に刻もうとする人……両方が混在する今の日本で、後者の方々がわざわざ講演に足を運んでくれたことを知った。

今ほど日本人の誇りと気概が問われている時はない。7月にロシアのメドベージェフ大統領が北方領土を訪問し、8月10日に李明博大統領が竹島に上陸し、昨日は香港の運動家が尖閣に強行上陸して逮捕された。

一昨日(14日)の李明博大統領の発言にいたっては、論評するのも馬鹿げているほど“凄まじい”ものだった。日本の天皇に対して「もし、訪韓したいのなら、独立運動で亡くなった方々に対して、心からの謝罪をする必要がある。“痛惜の念”などという単語ひとつを言いに来るのなら、訪韓の必要はない」と言い放ったのである。

4年前、両陛下に韓国への訪問を促したのは来日中だった李大統領本人である。誰も「韓国に行きたい」などと言った者はいないのに、「もし、訪韓したいのなら」「心からの謝罪をする必要がある」と言ってのけたのだから、多くの日本人は目が“点”になったに違いない。

これは自分に当てはめて考えたらわかりやすい。もし、誰かを家に招待しようとその人に訪問を促し、あとになって「もし(あなたが)わが家に来たいのなら、心からの謝罪をせよ」などと言ったら、その訪問を促されている人は一体どう思うだろうか。

私は、国際関係において、これほどの非礼を聞いたことがない。怒りを通り越して溜息しか出ないほどのレベルである。今日の読売新聞朝刊には歴史研究家の秦郁彦氏が「文明国の元首がああした品格のない発言をするのは極めてまれで非礼の極みだ。国際儀礼に反すること甚だしく、国交を断絶してもおかしくないくらいの重大な問題だ」とコメントしている。

国交断絶でもおかしくない――もっともな意見である。それほど李発言の意味は大きい。それと同時に、日本はどうして、ここまで舐められているのか、と素朴に考える人も少なくないだろう。

その答えは、実に簡単だ。要は、日本人が「毅然としていないから」である。日本では、多くのメディアが真実に目を向けず、自国の歴史を一方的に貶め、先の戦争で闘い抜いた兵士たちを「犯罪者」、あるいは「侵略者」として描き、その方々の慰霊と鎮魂を一生懸命やっている人々を勝手に“右翼”であると規定している。

日本の戦後ジャーナリズムの得意技は、物事を「類型化」することだ。“ラベリング”である。まず、自分を「平和を愛する人間」と置き、過去の戦争を分析して少しでも日本の当時の立場や兵士たちを理解しようとする人間を「右翼である」あるいは「戦争をしようとする人たち」と規定するのである。

そのラベリングが終われば、次の段階で、その人たちの意見には「耳を一切、貸さない」という段階に入る。つまり、「シャッターを閉じる」のだ。私はこれを“シャッター症候群”と呼んでいる。

ここでタチが悪いのは、彼ら(特に新聞記者が多い)が“自分たちだけ”を勝手に「平和を愛する人間」と思い込んでいる点である。そういう思い込みをして、自分たちこそ正義の味方と考え、一種の自己陶酔に陥るのだ。

私は、これを「自己陶酔型シャッター症候群」と名づけている。戦後ジャーナリズムが陥った極めて興味深い心理的病巣である。素晴らしい大正生まれの若者たちの実像を伝えても、この症候群に陥っている人間には、絶対に通じない。「シャッターが閉じているから」である。

私は、老兵たちの証言のほかに、そんな話を昨日の講演会でさせてもらった。講演の間中、私は涙を浮かべて聞いてくれる人は、誰の姿を脳裡に描いているのだろうか、と考えていた。

どこの身内にも戦争で命を落とした人はいる。それほど「戦死者230万人」という数は圧倒的なのである。だからこそ67年という気の遠くなるような年月が過ぎようと、「8月15日」は貴重なのだ。

生涯において突撃・前進をつづけ、ついには、世界から“20世紀の奇跡”と呼ばれる高度経済成長を成し遂げた大正生まれの人々と、その生きざま――拙著をきっかけに、多くの日本人に彼らの「真実」と「功績」を知っていただきたいと心から願う。

カテゴリ: 歴史

不思議な国の歴史観

2012.06.06

今日は、東京ロータリークラブに招かれ、帝国ホテルで講演をさせてもらった。演題は、「大正生まれの若者は現代日本に何を残したのか」というものだった。

言うまでもなく、4月に発売になった『太平洋戦争 最後の証言』の第3部(完結編)の「大和沈没編」を受けたものだ。お陰さまで、『太平洋戦争 最後の証言』シリーズは、各巻とも3刷となり、累計7万部に迫っている。

そのせいか最近、今日と同じように、太平洋戦争関連の講演依頼が多い。しかし、いつも話しながら「日本というのは不思議な国だ」とつくづく思う。

昭和20年時点で19歳から33歳だった大正生まれの若者は、太平洋戦争の主力となり、200万人が戦死した。実に同世代の「7人に1人」が戦死したという悲劇の世代だ。

生き残った大正生まれの男たちは戦後、ひたすら働きつづけ、復興どころか、世界から“20世紀の奇跡”と呼ばれた高度経済成長を成し遂げた。「エコノミック・アニマル」と攻撃されても怯むことなく、ひたすら前進を続けたのである。

だが、戦後ジャーナリズムは、その人たちを、ただ侵略戦争の担い手たち、すなわち“犯罪者”としてしか扱ってこなかった。

正義とは複層的なものである。ある一面から見れば、悪としか見えないものが、別の面から見れば善となる。それが物事というものである。

しかし、日本では、自国の歴史を振り返る時に、常に極端な「悪玉論」が支配してきた。一方で、それに反発する大東亜戦争“聖戦論”も台頭している。そして、お互いがお互いを罵りあうという忌むべき事態がつづいてきた。

私はそのどちらにも与(くみ)しない。しかし、少なくとも予断やイデオロギーではなく、客観的に歴史を見たいという気持ちは持ち続けてきた。

200万人の戦死者を出した大正世代の犠牲をもとに、有色人種が白人によって支配されるという“それまでの世界の常識”が覆されたことだけは、世界史上の厳然たる事実である。

終戦後10年を経た1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議で、議長となったインドネシアのスカルノ大統領が、「これは、世界史上初めての有色人種による国際会議である」と宣言したことがそのことを物語っている。

そして、この会議をきっかけに米ソどちらにも属さない「第三世界」が生まれた。戦後、独立していったアジア・アフリカの国々がどれほどの数に達したか、われわれはもう一度振り返るべきかもしれない。時間こそ短かったが、私は今日、そんな話をさせてもらった。

カテゴリ: 歴史

尊敬と感謝の気持ちを抱く若者に

2012.05.31

昨日は、私の事務所のあるマンションのパーティールームを借り切って、あるパーティーがあった。拙著『康子十九歳 戦渦の日記』(文春文庫)の主役の一人、台湾の梁敬宣さん(87)ご一家が今週の月曜28日に来日されたので、この日、かつての仲間たちが集まったのである。

昭和19年から20年にかけて、中大予科時代に十条の陸軍造兵廠へ勤労動員された梁さんたちは、そこで東京女高師(現・お茶の水大学)の女子学生たちと共に武器弾薬をつくる作業に没頭した。

東京大空襲の日も、戦争の勝利を信じて彼らは必死で作業をつづけた。「日本人より日本人らしい人」と仲間に評された梁さんは、そこで粟屋康子さんという19歳の女高師専攻科の女学生に恋をするが、思いはかなわなかった。

康子さんは、原爆投下、敗戦という悲劇の中、広島市長だった父親を原爆で喪い、生き残った母親の看病のために東京から広島に赴いて二次被爆し、「19年」という短い生涯を閉じるのである。

国と家族を救おうとする当時の若者の強い思いと信念、そして淡い恋を描いた拙著はテレビでも取り上げられ、お陰で少なからず反響を呼ぶことができた。

その主役の一人、梁さんが来日されたので、中大予科時代の親友・高木丈太郎さん(現・三菱地所相談役)や当時の女高師の面々が集まった。

平均年齢が90歳近い皆さんは実にお元気で、午後4時から始まったパーティーは、あっという間に午後10時近くまでなっていた。本当に時間が経つのを忘れるほど楽しいパーティーだった。

大正生まれの方々が次第に少なくなっていく中、こうして日本を支えてくれた皆さんと時間を共有できた喜びは表現しようもない。

ちょうど本日、拙著『太平洋戦争 最後の証言』3部作の大増刷が決定した。世の中が真実の歴史に目を向けようとしてくれていることを肌で感じる。歴史の真実を見失わず、日本を支えてくれた先輩たちに尊敬と感謝の気持ちを抱く若者が増えることを願ってやまない。

カテゴリ: 歴史, 随感

歴史の町・宇和島にて

2012.05.18

昨日、愛媛県の宇和島で講演があり、はるばるやって来た。宇和島には、伊達家の居城だった宇和島城がある。昨日午後、宇和島に到着して、さっそく宇和島城に行ってみた。

藤堂高虎の築城による宇和島城は、町の中心にある小高い丘のような城山に建っている。さすが築城の名手・藤堂高虎の手によるものだけに美しい城郭と石垣だった。

今治城と津城、そしてこの宇和島城――私は藤堂高虎がつくった城をもう三つも見ている。武勇と知略に優れた藤堂高虎は、私の好きな武将の一人だが、いつも感心させられるのは、それぞれの地形を生かした築城法だ。

津城は平地にありながら、たくみに天然の川を取り込み、今治城は海に向かって堀に海水を引き込んで防御を固めている。宇和島城は、小高い丘に石垣を張り巡らせることによって敵の攻撃を防ぐ方式だ。三者三様の城を見ていると、いかに高虎が変幻自在の築城名手だったかがわかる。

宇和島城の天守閣に登って周囲を見渡した時、私は壇一雄の名作『夕日と拳銃』を思い出した。満洲で馬族となって暴れまわった男の生涯を描いたこの作品のモデルは、宇和島・伊達家の伊達順之助である。
 
名門・伊達家に生まれた順之助は、大陸浪人となって満洲にわたり、馬族として大陸を闊歩した。蒙古独立運動や満州の楽土建設で活躍した順之助は昭和23年に中国で処刑された。

処刑に際して酒を所望し、豪快に笑って銃殺された順之助の破天荒な「生」と「死」に壇一雄は魅せられ、その生涯を追い、やがて『夕日と拳銃』という長編小説となった。型にはまらない一人の人間を壇自身の“男のロマン”として描いた力作だった。

愛媛の宇和島、そして高知の宿毛(すくも)は地理的に近く、お互い県庁所在地から遠く離れ、独特の文化圏を形成している。多くの逸材を生んできた地だけに、おそらく自然をふくめ、スケールの大きい人間が形づくられる土壌が備わっているに違いない。

司法の世界で神様と謳われる児島惟謙も、この宇和島の出身だ。ちょうど私は、いま司法関連の本を取材・執筆している。それだけに、この地にやって来られたことが、なにより嬉しい。

カテゴリ: 歴史

13年で消えた「満洲国軍」元幹部の証言

2012.05.06

ゴールデンウィークも今日で終わりだ。関越自動車道の高速ツアー事故が国民に衝撃を与えたが、最後は茨城県つくば市の竜巻の惨事で終わった。大きな事故に見舞われることが多いゴールデンウィークだが、今年は特別だったように思う。

私は、ゴールデンウィークの中で休みを「2日」だけとったが、ほかは結局、取材と執筆に追われる日がつづいた。もう『太平洋戦争 最後の証言』シリーズも終わったのに、その流れで今日も横浜に取材に行って来た。

今日、お話を聞かせていただいたのは、大正5年生まれの95歳になる元満洲国軍の上尉(日本軍では「大尉」にあたる)である。満洲国は昭和7年に建国され、昭和20年8月に日本の敗戦と共に地上から消えた国である。

岩手県一関市の出身で、満洲国軍の軍官学校を卒業(第9期)したこの老兵は、流暢な中国語を交えて、多くの秘話を私に聞かせてくれた。

さまざまな民族が集まった満洲国軍が終戦時、兵たちのどんな“反乱”に見舞われたか、また、その後、ソ連軍、国民党軍、八路軍が入り乱れる混乱の中、どう満洲を脱出して日本に帰ってきたか。

経験した者にしか分らない手に汗握る脱出行など、いずれまた活字にしてご紹介できることもあるだろうと思う。今は、こういう秘話をできるだけ直接、証言としてとっておく時だと思う。

連休明けの明日から、また本格的な取材が始まるが、私にとっては、歴史の重要証言を集めることができた貴重なゴールデンウィークになった。

カテゴリ: 歴史

94歳「零戦元パイロット」からの言葉

2012.05.03

あいにくの雨で、ゴールデンウィークの観光客も出足が鈍っている。東京も終日、雨に祟られた。明日は久しぶりに、私も休暇をとることができる。

昨日、94歳になる零戦の元パイロットからお手紙をいただいた。拙著『太平洋戦争 最後の証言』の完結編「大和沈没編」が届き、徹夜で読み切ってくれたそうだ。

94歳の身に徹夜はこたえ、2、3日調子が悪かったが、今はまた改めて最初から読み直している、と書いてくれていた。『太平洋戦争 最後の証言』第1部の「零戦・特攻編」に登場する零戦パイロットである。

最前線で戦った兵士たちの気持ちをよく書いていただいた、というその手紙に感激した私は、今日、お礼の電話をした。

「読みながら興奮して、もう途中でやめることができませんでした。年寄りの話をよくここまでまとめてくれて、ありがとう。感銘を受けました」と氏からお礼を言われ、このシリーズを完結させることができて本当によかった、と思った。

貶められつづけた大正生まれの人たちの思いを描いた拙著が大正生まれの方に喜ばれるのは当然かもしれないが、それにしても、徹夜で読み切り、その感想を手紙に書いてくれる94歳のパワーに私は嬉しくなった。

200万人が戦死し、戦後の復興と高度経済成長を成し遂げた大正生まれの方々の思いが、これまでいかに蔑ろにされてきたかを感じる。多くの方に、歴史を客観的に見ることの大切さを拙著で知ってもらえれば光栄だ。

カテゴリ: 歴史

『太平洋戦争 最後の証言』が完結「大和沈没編」発売

2012.04.22

本日、拙著『太平洋戦争 最後の証言』完結編の「大和沈没編」が発売になった。第1部「零戦・特攻編」、第2部「陸軍玉砕編」につづいて、やっとシリーズが完結した。

90歳を前後する老兵たちを全国に訪ね、気がつくとその数は100名を超えていた。これまで何度も書いてきたことだが、太平洋戦争とは「大正生まれの若者たち」の戦争である。

大正生まれの男子は1348万人。彼らは、昭和20年時点で「19歳から33歳」だった。そのうち戦死者は、およそ200万人にのぼる。同世代の7人に1人が戦死した悲劇の世代は、日本の有史以来、ほかに存在しない。

戦後、ひたすら働きつづけ、“20世紀の奇跡”と称された高度経済成長を成し遂げたのも、彼ら大正生まれの男たちである。平成24年現在、大正生まれの人たちは、86歳から100歳となった。すでに多くが鬼籍に入っておられる。

私は、今も健在の大正生まれの老兵たちと全国各地で対話をつづけた。本当に多くのことを教えていただいた。戦艦大和の生き残りの方々もそうだ。戦後生まれの私に、静かに戦いの最前線の真実を教えてくれた。

それは、戦後、日本が何を築き上げ、何を失ったか、を考えさせてくれるものでもあった。完結した『太平洋戦争 最後の証言』には、そのことを私なりに書き込ませてもらった。是非、多くの方に読んでいただければ、と思う。

カテゴリ: 歴史

広島から帰って「観桜会」に

2012.04.09

昨日、呉から広島に移り、広島の比治山にある陸軍墓地のお参りを終え、『太平洋戦争 最後の証言』の取材が完結した。前日(7日)は呉の海軍墓地でお参りしたので、慰霊の行事もすべて終えたことになる。

比治山の陸軍墓地は明治5年に設置され、西南の役から太平洋戦争に至るまでの多くの兵士が眠っている。戦後、原爆や台風被害などで、墓石の整理作業が頓挫し、遺骨が散乱状態になった悲劇の歴史がある墓地でもある。

今は、それぞれの墓石が出身県別に整理され、安置されている。周辺には花見客が溢れており、その平和な風景と陸軍墓地のひっそりとした雰囲気が見事なコントラストを描いていた。しばし、手を合わせて、『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ完結の報告とお礼をさせてもらった。

本日は、その広島から夕方に帰京後、評論家の金美齢さん主宰の観桜会に参加させていただいた。金曜日に東京を離れたので、わずか3日しか経っていないというのに、すっかり都心が温かくなっていたので驚いた。

たった3日で、東京にコートを着る人がほとんどいなくなっていた。まさに季節の変わり目の数日だったことになる。新宿御苑を見下ろすビルの8階に事務所を構える金美齢さんは、さすがに顔が広く、恒例の観桜会には、政治家や評論家、ジャーナリスト、TVプロデューサー……など、多士済々で、私も久しぶりにお会いした人が多かった。

思わぬ人と久々に旧交を温めることができた。私も、太平洋戦争シリーズの完結で、新しい仕事に明日から挑むことになる。桜の開花と共に気分一新である。

ちょうど美味しいお寿司をいただいていたら、隣に安倍晋三元首相や新藤義孝衆院議員がいて、いろいろ話をした。新藤議員は、なんと硫黄島の指揮官・栗林忠道中将のお孫さんにあたるそうだ。

すでに拙著『太平洋戦争 最後の証言』の第1部、第2部も読んでくれており、話が弾んだ。あっという間に楽しい時間が過ぎた金美齢さんの夜の観桜会だった。

カテゴリ: 歴史, 随感

海軍墓地にあった満開の1本の桜

2012.04.07

朝10時、広島県呉市の海軍墓地にて、戦艦大和の慰霊祭に参加した。昭和20年4月7日、東シナ海に大和が沈んで以来、67年という年月が過ぎ去った。

海軍墓地のほかの桜はまだ六分咲きなのに、なぜか大きな「戦艦大和戦死者の碑」の隣に立つ桜だけが1本だけ満開だった。

碑の前に進み出て、花束を置いて手を合わせた。不思議なことにその直後、急に雨が降り始めた。天気はよかったのに、急な雨である。驚いた。

この夏に大和の関連番組を放映するというNHKのスタッフが撮影する中、元大和の乗組員2人、そして兄を大和で亡くしたという弟さん、いずれも80歳代の元老兵を含め、20人ほどが慰霊祭に参加していた。

花冷えの中、「今から黙祷をおこないます」という声で、参加者が亡き大和の乗組員に黙祷を捧げた。昭和54年、この地で初めて慰霊祭がおこなわれた時には、大和の生存者を含む約500人が集まったことを思うと隔世の感がある。

19歳だった兄を大和で失った弟さん(82)がわざわざ山口県の柳井から参列されていた。「毎年、この慰霊祭に参加するのを楽しみにしています。次第に参加者が減っていくのが寂しいですね」と私にしみじみ語った。

元乗組員の一人(88)が大和で山本五十六・聯合艦隊司令長官と言葉を交わした時の感激を私に教えてくれた。昭和17年のミッドウエー海戦の前のことである。老兵の話を聞いていると、それが70年も前の話だということが信じられなくなる。

まだ探せば、多くの大和の生還者がいる。歴史の彼方のことと考えていたことが、実はそうではないことを改めて教えてもらった。

「さっき雨が降ったでしょ。あれは自分たちを忘れないでいてくれたことへの彼らのお礼ですよ」。参列者の一人が私にそう言った。いつの間にか、呉の空は晴れ上がっていた。

カテゴリ: 歴史

戦艦大和68回目の「沈没の日」を前に

2012.04.06

本日、『太平洋戦争 最後の証言』完結編の「大和沈没編」を無事、校了した。そして夕方、新幹線に飛び乗って、そのまま広島県の呉にやってきた。

明日は、戦艦大和と3332名の乗組員の命日だからだ。昭和20年4月7日、大和と共に水上特攻に加わった第二艦隊の将兵すべての死者を含むと4000名を超える。

私は、明日、呉の海軍墓地に行き、先人たちのご冥福を祈り、後世の人間として感謝の気持ちを捧げたいと思う。そのために校了を終えて、はるばる東京からやって来た。

『太平洋戦争 最後の証言』シリーズがこの完結編をもって終了するのは寂しいが、私なりにできるだけのことはやらせてもらったと思う。

今回、拙著では、大和の設計に携わった方から特攻作戦に関与した參謀、あるいは、実際に沈没した大和から奇跡の生還を遂げた人々など、30名近い元兵士たちを取材し、直接証言によって地獄の戦場を描きだすことができた。

ご登場いただいたのは、現在、いずれも90歳前後となった老兵たちである。あの時代のあの戦いを現代人がどう読んでくれるのか、今から楽しみだ。拙著は、2週間後には店頭に並ぶ。是非、ご期待いただきたい。

広島で新幹線を降り、呉に向かうため在来線に乗り換えた。夜、10時を過ぎても広島から呉への列車は満員だった。11時前、私はやっと呉に辿りついた。

戦艦大和の故郷であり、かつて日本が誇った世界屈指の造船基地・呉。もうここへ来るのは、何度目になるのだろうか。

駅を出ると、雨まじりの冷んやりした空気が私を迎えてくれた。明日の海軍墓地は、爽やかな春空のもと、桜満開であって欲しい。

カテゴリ: 歴史

ひとりの“野球人”を囲む会

2012.03.28

今日は、ひとりの野球人を囲む会に行って来た。大正3年1月生まれで、98歳を迎えた島津雅男さんを囲む会である。

昭和6年の夏の甲子園に早稲田実業のエース、4番、主将として出場した島津さんは早稲田大学に進んで早慶戦で活躍し、その後、社会人野球の東京鉄道局野球部時代には発足したばかりの巨人軍との試合で、あの沢村栄治とも対戦した。

日本野球の歴史の証言者でもある島津さんは、昭和11年に陸軍に入隊して二・二六事件に遭遇し、南京攻略戦にも参加した。そして、戦後は学習院大学野球部の監督として東都大学野球の奇跡の優勝を成し遂げた。

島津さんの人生は、拙著『甲子園の奇跡』(講談社文庫)で取り上げさせてもらったが、今日の会は、その島津監督のもと昭和33年に東都優勝を成し遂げた時の学習院大学野球部の4年生たちがつくる「士会(さむらいかい)」の集まりだった。

恩師・島津さんを慕う「士会」の面々も75歳を超えた。主将の田邉隆二さんやエース根立光夫さんをはじめ、当時の4年生10人が集まり、島津さんと私を含め、12人で中華料理に舌鼓を打った。

島津さんは、足が弱っていることを嘆きながらも、98歳とは思えない口調でいろいろ話をしてくれた。ちょうど私が『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ「完結編」の校了を迎えているので、陸軍時代の話もまた聞かせていただいた。

中支戦線で戦った島津さんの聯隊は、島津さんが5年で除隊して内地に帰還した後、南方や沖縄へと転用され、玉砕している。太平洋戦争の主力となった大正生まれの若者は、およそ200万人が戦死しているが、島津さんがいかに奇跡的にあの時代を生き抜いたかがわかる。

太平洋戦争の証言者としても、島津さんは数々の秘話を私に提供してくれた。来年は、いよいよ島津さんも白寿を迎える。いつまでもお元気でいて欲しい、と思わずにはいられない。数少なくなってきた歴史の当事者たちの貴重な証言に、これからもできるだけ耳を傾けていきたい。

カテゴリ: 歴史, 野球

「惜別の歌」の作曲者、藤江英輔さん

2012.03.21

昨日、春分の日は、「惜別の歌」の作曲者である藤江英輔さん(86)とお会いした。昨年10月に倒れられたと聞いていたので心配していたが、お嬢さんと共に目黒区の料理屋に顔を見せてくれた。

「いやあ、倒れた時は、ああ死ぬ時はこんなものか、と思ったよ。意識がすーっと消えていってね。死というものを一度、経験したよ」。いつもの洒脱でユーモアたっぷりの藤江さんの話しぶりに、ほっとした。

中央大学の先輩でもあり、私がかつて勤務した新潮社の先輩でもある藤江さんは、私の最も尊敬するジャーナリストの一人である。戦争末期の昭和19年から20年、中大予科の学生だった藤江さんは東京・十条の第一陸軍造兵廠に勤労動員で通い、連日、武器づくりに励んでいた。

小さい時からバイオリンを習っていた藤江さんは、いよいよ戦況が厳しくなった昭和20年2月の大雪の日、仲間が召集令状を受けて去っていく中、彼らを見送る思いを「惜別の歌」に託した。

「悲しむなかれ/わが友よ/旅の衣を/ととのえよ」。姉妹の別れを詠んだ島崎藤村の「高楼(たかどの)」という詩を“友との別れ”に置き換えて、物悲しく、哀愁のある独特の旋律を藤江さんがこの詩につけたのだ。

造兵廠での別れの場で歌われ始めたこの曲は、次第に送別の歌として広まっていく。その藤江さんの思いは、拙著『康子十九歳 戦渦の日記』(文藝春秋)の中で描かせてもらった。

ちょうど『太平洋戦争 最後の証言』完結編の「大和沈没編」(小学館)を脱稿したばかりなので、そのことを含め、いろいろな話題が飛び交い、時間が過ぎるのを忘れてしまった。

お別れの時、お嬢さんに支えられて去っていく藤江さんのうしろ姿を見て、いつまでもお元気で、と祈らずにはいられなかった。

彼岸だというのに、朝夕はびっくりするほど寒い。夜は、お世話になった中央大学の「白門ちゅうおう」編集長の伊藤博さんの送別会に参加。その会のあとは、中大の箱根駅伝6連覇時代の中心メンバー、碓井哲雄さんと現在の中大陸上競技部監督の浦田春生さんたちと二次会となった。

さまざまな話で、知らないうちに夜が更けてしまった。気がつくと昼間から飲み通しである。久しぶりに母校の人たちに囲まれて、次の作品への大いなるエネルギーをもらった1日となった。

カテゴリ: 歴史, 随感

歴史に「偉人」を送り出す不思議な町

2012.03.15

弘前は朝、吹雪だった。3月半ばが来ても激しく雪が舞うとは、南国の高知生まれの私にはさすがに驚きだった。前夜、弘前で講演を終えたあと、“ヨシ人形”と呼ばれる創作人形で有名な木村ヨシさん宅に招かれ、ご馳走になった。

テーブルから溢れんばかりの新鮮な地元料理でもてなしを受け、時間が経つのを忘れてしまった。温かい弘前人の心に触れた楽しいひと時だった。

今朝は、葛西憲之弘前市長と会ったあと、板柳町の工藤忠記念館にまず行き、そのあとお世話になった故佐藤慎一郎先生のお墓参りにまわった。東京・荻窪の都営団地で長くお住まいだった佐藤先生は、戦前の大陸を知り尽くした人である。

旧満洲の魔窟に潜入した時のことや、盧溝橋事件の秘話、自分の伯父にあたる山田良政・純三郎兄弟のこと、西安事件にかかわった人物の打ち明け話……等々、どんな歴史書にも出ていない秘話を数多く教えていただいた。

90歳を越えてもお元気だった佐藤先生は、まさに現代日中史の秘話の宝庫のような方だった。佐藤先生のお話が私のノンフィクション作品の端緒になったものもある。

その佐藤先生は、弘前市西茂森町のさる寺院に眠っておられる。弘前にやって来た私は佐藤先生のお墓参りをさせてもらうつもりだった。

しかし、雪が上がった午後、寺院の墓地を見た私は、それが無理であることを悟った。墓地は雪で埋もれ、お墓に近づくこともできなかった。私は、佐藤先生の墓のある“方角”に向き、手を合わせた。佐藤先生のお墓参りは、また雪が溶けてから改めて来させてもらうことになりそうだ。

弘前とその周辺には、日本のジャーナリズムの父とも言うべき陸羯南や、孫文の辛亥革命を支えた山田良政、純三郎兄弟、さらには、満洲国の溥儀皇帝が最も信頼した工藤忠など、偉人が目白押しだ。

弘前は現代史の宝庫なのだ。3月半ばが来ても雪に埋もれるこの地が、なぜ「歴史」にこれほど多くの偉人を送り出しているのか、いつかその秘密を探り出したいと思っている。

カテゴリ: 歴史

弘前、雪の中の墓参り

2012.03.14

青森県の弘前にいる。本日夕方、私はあるお寺を訪ねた。青森県弘前市新寺町にある貞昌寺である。ここには、孫文が最も信頼した日本人、山田良政・純三郎兄弟が眠る墓がある。

辛亥革命の実現に力を尽くした日本人の中でも、最も孫文の信頼を得ていたのが、この弘前出身の山田良政・純三郎兄弟である。兄・良政は、最初の孫文たちによる蜂起となった恵州事件で命を落とし、弟・純三郎はその兄の遺志を継いで、孫文を支えた。

孫文は、今も政治体制の違う中国と台湾、両方で“国父”として尊敬されている。その孫文の絶対的な信頼を勝ち得た日本人が、山田兄弟だ。

山田兄弟の墓参りをしたいという私の長年の願いは、今日、実現した。しかし、貞昌寺の近くにある花屋で花を買って、貞昌寺に向かおうとした時、花屋の女主人がひと言、こう言った。「お墓は雪で埋もれていますから、(墓参りは)無理と思いますよ」。

雪国の積雪の凄まじさを意識せずにやって来た私がいかに迂闊だったか、その時、初めて気がついた。そうだ。目の前にこれだけの雪が降り積もっているのに、目的の山田兄弟の墓にそのままお墓参りができるはずがなかったのだ。

貞昌寺に着いて、私は改めてそう思った。寺自体が雪に完全に埋まっていた。ご住職を訪ねたら不在で、代わりにご住職の奥さんが対応してくれた。東京からわざわざやって来た私を、雪をかきわけて山田兄弟の墓まで案内してくれたのだ。

積雪1メートルの中を“決死行”で案内してくれる。ほとんどが雪に埋もれ、墓石の頭だけがかろうじて見えている場所で、ご住職の奥さんは「ここが山田家の墓所です」と教えてくれた。

ああ、ここか。ここに山田兄弟が眠っているのか。私は長い間、望んでいた地にやっと辿り着いたことを感じた。ご住職の奥さんが、私が持ってきた花を、墓石を埋め尽くしている雪の中に挿してくれた。

私は長い時間、そこで手を合わさせてもらった。山田良政は、反日に凝り固まった中国に銅像まで建てられた日本の“烈士”である。そして、弟の純三郎は孫文が死去する時、唯一、孫文が枕元に呼んだ日本人である。

私はその“聖地”にやってきた。『太平洋戦争 最後の証言』の完結編を脱稿した翌日に、この地にやってきたこと自体が「宿命」だったのだろうか。

私には書かなければならないことが沢山ある。また新たな作品に邁進しなければならないことを再認識させてくれた弘前の「雪の一日」だった。

カテゴリ: 歴史

雪の舞う新宿で……

2012.02.29

雪が舞っている。徹夜で原稿を書き、昼近くになって起きて窓のカーテンを開けたら、外は一面の銀世界だった。ここのところ原稿の執筆で西新宿の事務所に籠もっているが、普段は見える池袋のサンシャイン・ビルもまったく見えない。東京での久々の“豪雪”である。

今日は、4年ぶりの「2月29日」だ。うるう年の1日“得”をしたようなこの日に、東京をリフレッシュさせるかのように雪が大地を覆ってくれた。

今日は、先日94歳で亡くなられた長嶺秀雄さんの夫人・幸子さん(88)からお電話をいただき、ちょうど私が席を外した間だったので、すぐにおかけ直しをした。

長嶺さんは、2月19日のブログでも書かせてもらったようにフィリピンのレイテ島で第1師団参謀兼歩兵第57聯隊の大隊長として、リモン峠の激戦を生き抜いた元少佐だ。

自ら率いた大隊およそ800名のうち、生き残ったのはわずか「18人」だったという激戦の元指揮官である。何発も銃弾を食らい、生涯、体内にその敵の弾を残して過ごされた長嶺さんは、戦後、防衛大学の教官として多くの教え子を育てた。

幸子夫人からの電話は、葬儀に当たってのお礼と長嶺さんの最期のようすを伝えてくれるものだった。昨年12月、長嶺さんは、私にも本について励ましのお電話をくださるほどお元気だった。12月19日には、お孫さんの結婚式に大阪まで出かけ、披露宴で「ここに幸あれ」を歌い、出席者の喝采を浴びられたそうだ。

最後までお元気だった長嶺さんだが、年が明けて、お子さんたちと熱海の温泉に出かけた後、調子を崩し、2月19日に眠るように息を引き取られた。

幸子夫人によれば、長嶺さんの体内に生涯あった米軍の銃弾は、小さな鉄の塊の“破片”となってご遺骨と共に残っていたそうだ。

長嶺さんご夫妻は昔の紀元節(2月11日の建国記念日)が結婚記念日だったことは以前からお聞きしていたが、今年は70周年の記念すべき日だった。残念ながら、この日を病院で迎えた長嶺さんは、受け取った花束に大層、喜ばれたそうだ。

幸子夫人の愛情に包まれて戦後を過ごした長嶺さんは、意識が薄れかけても幸子夫人が病院に来ると、幸子夫人の手を自分の唇に持っていかれたそうである。取材の時からご夫妻の仲睦まじさは私も感じていたが、最後の最後までそれは変わらなかった。

一面、銀世界の新宿の風景を事務所の窓から見ながら受話器の向こうの幸子夫人の声を聞いていると、毅然とした日本人が多かった“その昔”にタイムスリップしたかのような錯覚に私は陥った。

長嶺さんにもご協力いただいた『太平洋戦争 最後の証言』の締切が迫っている。いよいよ完結編である。力を振り絞って、毅然として死んでいった兵士たちの真実の姿を描きたい。

カテゴリ: 歴史, 随感

94歳「武人」の死

2012.02.19

知人から訃報が入った。昭和19年11月、フィリピンのレイテ島で第1師団参謀兼歩兵第57聯隊の大隊長として、リモン峠の激戦を生き抜いた長嶺秀雄さんだ。今朝、肺炎のために午前4時31分、息を引き取られた。94歳だった。

長嶺さんには、12月に出版したばかりの拙著『太平洋戦争 最後の証言』の第二部「陸軍玉砕編」にも登場いただいている。第五章「レイテ島“八万人”の慟哭」で詳細な証言をしてもらったのだ。

陸士51期卒の長嶺少佐は、自分が率いた大隊およそ800名のうち、生き残ったのは長嶺さんらわずか「18人」という戦史に残る激戦を米軍と繰り広げた。

長嶺さん自身も、最前線で戦いつづけて何発も銃弾を食らい、戦後もすべてを摘出することができず、生涯、体内に敵の銃弾を残して過ごされた。

私の「陸軍玉砕編」が校了間近の12月初め、長嶺さんからゲラを見ての感想をいただいた。「門田さん、いいものを書いてくれました。これからもどんどん書いて、意義のあるものを(後世に)残していってください」と温かい励ましのお電話をいただいたのが最後になった。

戦後、防衛大学教授となった長嶺さんは、後進の指導にあたり、多くの優れた幹部自衛官を育てた。また、優しく頭脳明晰な長嶺さんは、90歳を超えても各地で講演をおこない、戦争の実態を若い世代に伝えつづけた。

これで太平洋戦争の元戦士で、大隊長クラスの生き残りはほとんどいなくなった。戦争の苛烈さと重さを知る貴重な証人だった長嶺さんの独特の語りを二度と聞くことはできないのである。

戦争が遠くなりつつある。歴史を風化させないために、私たちジャーナリズムの最後の戦いもつづく。すべては時間との闘いである。長嶺さんの最後の言葉を胸に、さらに精進していきたいと思う。合掌

カテゴリ: 歴史

不毛な国会論戦を見ながら……

2012.02.09

いま三重県の熊野にいる。『太平洋戦争 最後の証言』完結編の取材で、各地で90歳前後の戦艦大和の生還者を訪ねている。昨日は、三重県内で2人の生還者とお会いした。

昨日お会いした方は、「人は、私のことを大和の“生き残り”と言ってくれるが、実際は、私は大和の“死に損ない”なんです」と語った。昭和20年4月6日、沖縄への水上特攻で、多くの有能な人間が死んでいったので、「自分が生き残ったことが申し訳なく、自分は死に損ないなんだ、とつくづく思う」と言うのである。

詳細な証言で私の取材に応えてくれたその生還者は、歴史を正しく後世に伝えるために大変な役割を果たしてくれている。しかし、それでも、そういう思いに何かあるたびに捉われるのだそうだ。

その方の話を聞いて、一昨年取材させてもらった大和の高角砲の指揮官だった大尉が、「生き残ったこと自体が申し訳ない。部下たちが死んだのに、自分が生きていることが許されるのか、とずっと思ってきた」と語ってくれたことを思い出した。

重油にまみれて、地獄の東シナ海から九死に一生を得て生還したのは、3332名の乗組員のうち1割に満たない276人だけである。彼らは「仲間に申し訳ない」という思いで、長い長い「戦後」を暮らしてきたのだ。その方たちも、今では全国でわずか20名足らずとなってしまった。

いま国権の最高機関である国会では、“素人”防衛大臣の答弁などでレベルの低い紛糾を繰り返している。そのニュースを見ていると、事実上、更迭された防衛大臣のあとにこの程度の人物を据え、最大の案件である普天間基地問題を乗り切れると思う野田総理の政治音痴ぶりをどうしても考えてしまう。

決定的に危機管理が欠如した、この程度の国家の領袖を戴いて私たちはこの国で生きている。多くの若者が命を捧げて守ろうとした国とは「この程度のものなのだろうか」と思う。

政治に携わろうとする人間は、最低限、持っていなければならない信念や哲学というものがあるはずだ。しかし、野田総理にそんなものがないことは、繰り返される閣僚の不祥事が証明している。

こういう不毛な論戦に国会の貴重な時間が“浪費”されていることを国民はどう見ているのだろうか。それは、任命責任などというお手軽な言葉で批判すれば足りるものではない。

ニュース映像を見ながら、私は、国家の領袖になる資質も資格も「ない」人間には早く総理をお引き取りいただくのが国民のためではないか、と感じた。地獄の戦場から生還しても「自分を責めつづける」かつての日本人の本当の姿に最近出会うことが多いから、余計そう思うのかもしれないが……。

カテゴリ: 政治, 歴史

「通化事件」と風化する歴史

2012.02.03

今日2月3日は、昭和21年に起こった「通化事件」の66回目の記念日である。この事件は、国共内戦が進行する中、中国共産軍(八路軍)に占領された旧満洲・通化省通化市で勃発した八路軍に対する日本人居留民の蜂起と、その後に起こった共産軍による日本人虐殺事件である。

八路軍の圧政に立ちあがった日本人から数多くの犠牲者が生まれ、その数は二千とも三千とも言われるが、今もって正確にはわからない。

私の伯父がこの通化事件の犠牲者だったので、幼い頃から私は父や伯母たちからこの事件のことを聞いていた。通化事件の犠牲者には、遺体も遺品もなく、蜂起に失敗した日本人たちは狭い穴倉に押し込まれて圧死したり、処刑や暴行によって命を落としていったのだ。

そして遺体は凍りついた渾江という大河の氷を割って流されていった。私は今から28年前(昭和59年)の2月に零下20度という厳寒の早暁、まだ未開放地区だった通化に人民服姿で潜入し、伯父の死んだ場所の「石」を持ち帰ったことがある。

通化で命を落とした伯父の墓には、遺骨もなんの遺品も入っていなかったからだ。私にその通化事件の実態や関係者の連絡先を教えてくれた女流作家の松原一枝さんも昨年1月末に95歳で亡くなった。

多くの真実が歴史の彼方に消えようとしている。ここのところ、私は4月刊行予定の『太平洋戦争 最後の証言』完結編の「大和沈没編」執筆で徹夜がつづいているが、最近、貴重な歴史の証言を後世に残す意味を考えることが多くなった。

今日、事務所には千客万来だったが、その中で2月20日に迫った光市母子殺害事件の最高裁判決についての事前取材で訪れた報道記者もいた。拙著『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』(新潮文庫)に関して、いくつかの質問を受けた。

多くの事件が歴史の彼方に消えていく。風化に耐えながらも、次第に闇に呑み込まれていくのが、さまざまな事象の運命に違いない。しかし、それらをできるだけ後世に活字で残すことが私たちの使命でもある。その意味を考えながら、今晩も原稿に向かっている。

カテゴリ: 事件, 歴史

冠雪の富士山を見ながら

2012.01.26

今朝の読売新聞のコラム「編集手帳」は、徳富蘆花の〈東海の景は富士によりて生き、富士は雪によりて生く〉という文章を紹介し、〈新幹線の車窓から冠雪の峰を仰ぎ、はっと息をのむのもこの季節である〉と締めくくられていた。

政府が富士山をユネスコの世界文化遺産に推薦することを機に書かれたものだ。私も、その富士山の姿にはっとさせられた一人だ。昨日、私は新幹線の車窓から真冬の冷気の中に雪をいただいた富士山を見た。

それは、「編集手帳」が書くように息をのむような美しさだった。私は昨日、その姿を見ながら愛知県新城市に行き、戦艦大和の生還者で昨年亡くなられた滝本保男さんのご霊前に線香をあげさせてもらった。

滝本さんは、戦艦大和の第三主砲のたった一人の生き残りだった。一昨年、誰の紹介もなく訪ねていった私に戦艦大和の最期のようすと人類史上未曽有の巨砲であった大和の主砲について、詳しく教えてくれた。

長年、胸にしまっていたことを私に打ち明けてくれた滝本さんは、私が訪ねていった3か月後の昨年1月13日に亡くなった。90歳だった。その一周忌を過ぎて、やっと私はお線香をあげさせてもらうことができたのである。

そして、今日は、名古屋で戦艦大和の左舷の機銃を担当した奇跡の生還者(88)にお会いすることができた。長時間の取材で、今日も私はさまざまな大和の秘密を教えてもらった。

「太平洋戦争 最後の証言」の完結編となる「大和沈没編」の締切が近づいている。それは、取材も含めて“時間との戦い”である。貴重な大和の生還者たちの年齢も限界を迎えつつあるからだ。

全国で大和の生還者たちを訪ねる作業も3年目に入った。一人でも多くの証言者とお会いし、大和にかかわった元戦士たちの言葉を通じて、あの時代の若者の苦悩と潔さを描ければ、と思う。

ご高齢の歴史の証言者たちが、私を待ってくれている。1年で一番美しい姿を見せてくれる冠雪の富士山を新幹線の車窓から見ながら、私の「太平洋戦争 最後の証言」の取材も最終盤を迎えている。

カテゴリ: 歴史, 随感

天皇誕生日と戦艦大和

2011.12.23

今日は今上天皇の78歳の誕生日である。太平洋戦争の開戦から70周年となった今年、当時8歳だった陛下がそういうご高齢になったことに改めて時間の重さを感じる。

学習院時代の同級生たちに取材し、昭和33年の学習院大学野球部の東都大学野球の優勝と、陛下が美智子様とのご婚約に至った「2つの奇跡」について描かせてもらった『神宮の奇跡』(講談社)を上梓したのは、3年前のことだ。

今も親しくさせていただいている陛下の同級生たちも同じく78歳というご高齢になっている。どの方も年齢を感じさせない溌剌(はつらつ)さを持っていて、若い人たちを“圧倒”しているのが特徴だ。入院されていた陛下には、健康に留意され、同級生たちと同様、早く溌剌さを取り戻していただければ、と思う。

昨日は、横浜で『太平洋戦争 最後の証言』第3部の「大和沈没編」の取材を長時間にわたっておこなった。取材相手は、レイテ戦の時に第二主砲にいた生還者である。16歳になったばかりで志願して大竹海兵団に入ったその方は、3か月後に卒団して戦艦大和に乗艦。そのままレイテ戦に参加している。

栗田艦隊の一員としてレイテ湾突入を目指した大和は、46センチ砲という人類史上未曽有の主砲を100発以上発射している。謎のUターンなど、今も多くの歴史家の関心を集めるレイテ戦のようすを84歳の同氏は長時間にわたって私に教えてくれた。

「大和の乗組員の中で、私が一番年齢が下だったと思う」。まだ若々しい生還者の話を伺っていると、戦艦大和の存在が歴史の彼方(かなた)のものではなく、「すぐそこ」にあるような錯覚にとらわれた。

『太平洋戦争 最後の証言』第3部の刊行は来年4月。ぎりぎりまで戦艦大和の生還者を全国に訪ね歩きたいと思う。

カテゴリ: 歴史

李明博大統領「従軍慰安婦問題」要求に思う

2011.12.18

「無理が通れば道理が引っ込む」というのは、このことだろうか。韓国の李明博大統領が本日、野田首相に「従軍慰安婦問題の決着」を求めたニュースを聞きながら、私はそう思った。

従軍慰安婦問題の真の意味が曖昧にされたまま、こうして日本人やあの大戦で死んでいった大正世代がまた貶められるのか、と思うと、残念でならない。

従軍慰安婦という言葉は、当時はない。日本では、1958(昭和33)年に売春防止法が施行されるまで、公認で売春がおこなわれていた。そこで働く「薄幸な女性」が数多くいたのは歴史的事実である。

今からは想像もつかないほど貧富の差が大きかったあの時代、飢饉に苦しむ東北地方の寒村をはじめ、貧困の中、娘をその世界に心ならずも出す家が沢山あった。それは、“口減らし”であり、同時に“女衒(ぜげん)”と呼ばれる仲介業の人間から、金銭を得るためのものである。

これが、娘たちの“身売り”と呼ばれる所以である。多くの女性が、民間のそうした商売に身を売り、その中には軍を相手にした商売をする軍属もいた。大変、不幸な時代だったと思う。

のちに「従軍慰安婦」と呼ばれる人々も、そうした軍属が経営する“春”を売る商売に携わった薄幸な女性たちだ。もちろん当時の朝鮮半島にもそうした女性が数多くいた。

もし、日本という国家が、彼女たち(あるいはその親たち)の意に反して「強制連行」して従軍慰安婦にしたという事実があるなら、日本はどれほど土下座しても許されることはないだろう。

なぜなら、無理やりそんなことをしたのなら、日本は「拉致」「監禁」「強姦」国家だったことになる。日本の東北の娘たちも、もし、女衒にお金を支払われることもなく、無理やり拉致され、そうした場所に監禁されて、お客をとらされた(すなわち“強姦”ということになる)としたら、これほどむごいことがほかにあるだろうか。

だが、そうした日本の娘や親たちが、日本という国家を賠償で訴えたという話はついぞ聞かない。なぜなら、それは貧困にあえぐ中で、娘たちがあえて身を売らざるを得ない金銭的事情があったからである。

薄幸な女性が数多くいた時代を「振り返ること」と、そうした身売りした女性、あるいはその親たちに「賠償すること」は全く異なる話である。

いかに、今日の李明博大統領の要求が奇妙なものだったか。野田首相には、歴史的立場をわきまえ、きちんとした対応を望みたい。もっとも、日頃の言動から毅然とした姿勢を望むに値する力量を野田首相が持っているとは思えないので、心配でならないが……。

カテゴリ: 歴史

発売になった『太平洋戦争 最後の証言』第2部「陸軍玉砕編」

2011.12.16

本日、『太平洋戦争 最後の証言』の第2部「陸軍玉砕編」が全国の書店で一斉に発売になった。同時に、取材協力者に事前に送らせてもらった本が手元に届いたようで、昨日からお礼と励ましの電話を次々といただいている。

受話器の向こうから90歳を超える老兵たちの元気な声が耳に響いてくると、この作品を完成させてよかったと心から思う。無念の思いを呑み込んで死んでいった戦友に対する老兵たちの思いが、拙著を通じて少しでも若い人に届くなら、ジャーナリストとしてこれ以上、幸せなことはない。

取材をさせていただいてから、『太平洋戦争 最後の証言』シリーズが刊行になるまでに亡くなられた人も少なくない。そういう方には、ご遺族へ本を送らせてもらったが、老兵たちにとって「その時、その時」がいかに大切かを改めて感じる。

拙著は、全9章から成っている。(第1章)悲劇の序章「ガダルカナル」の死闘、(第2章)血肉をすすったニューギニア戦線、(第3章)インパール作戦「白骨街道」の屍、(第4章)玉砕の島「サイパン」の赤い花、(第5章)レイテ島「八万人」の慟哭、(第6章)二十万人戦死「ルソン島」の殺戮現場、(第7章)玉砕「硫黄島」奇跡の生還者、(第8章)癒えることなき「沖縄戦」の傷痕、(第9章)ソ連軍急襲「占守島」の激闘……

太平洋戦争(大東亜戦争)の地獄の戦場を生き抜いた元兵士が語る「真実」に耳を傾けていただければ、と思う。大正生まれの青年が200万人近くも戦死したあの大戦を描くシリーズも、あと完結編である第3部「大和沈没編」を残すのみとなった。

取材も断続的に進めているが、ご高齢の元兵士をお訪ねするのは、“時間との戦い”でもある。年末だからと言って、休んではいられない。戦艦大和についても、どんな証言が飛び出すか、ご期待いただければと思う。

カテゴリ: 歴史

知的刺激を求めるのに「年齢は関係なし」

2011.12.13

今日は、夕方から東京・八王子で講演があった。出かける寸前、今週末に発売になる拙著『太平洋戦争 最後の証言』第2部の「陸軍玉砕編」が事務所に届いた。苦労してでき上がった作品だけに、手にした瞬間、ずっしりと重く感じた。

講演会場に向かう途中で、思わず読みふけってしまった。ちょうど講演テーマも真珠湾攻撃70周年にまつわる「歴史の話」だっただけに、届いたばかりのこの本のことを冒頭に話させてもらった。

今日は、講演を聴いてくれた方の中に、大正10年生まれの90歳になる陸軍の元兵士がいらしゃった。講演後、その方にいろいろな話を伺った。聞けば、満州の黒河省孫呉にいた関東軍の第一師団・輜重(しちょう)第一連隊(満州第四四八部隊)の生き残りだった。

第一師団は、レイテ島で戦史に残る「リモン峠の戦い」を展開した師団であり、1万3500人の将兵のうち、わずか700名しか生き残らなかったという悲劇の師団である。

しかし、今日お会いしたこの元兵士は、ぎりぎりのところでフィリピンではなく東京での任務を命じられて、部隊と別れたために戦友がほとんど全滅する中、彼だけが生き残ったのである。

「小学校でも、戦争で死なずに“戦後”を迎えられたのは、クラスにわずか6人しかいませんでしたよ」と、その方は仰っていた。「大正世代は7人に1人が戦死している」という私の話に「いや、もっと多い」ということなのだ。

大正生まれでも、大正8、9、10年頃に生まれた方に、特に戦死者が多いのは事実だ。彼らは終戦時、24歳、25歳、26歳だったのだから、日本軍の主力中の主力だった人たちである。戦死者が7人に1人より多かったという実感は、よく理解できる。

矍鑠(かくしゃく)として、とても90歳とは思えないこの方は、今も講演を聴きに来られるほどの元気さがある。年齢には関係なく、いつも「知的刺激」を受け続けたいという強い思いを感じた。この方の確かな記憶に基づく話しぶりにも舌を巻いた。やはり「大正生まれの人たちは違う」と感じざるを得ない。

今年もあと2週間あまりである。もうすぐ新しい年を迎える。90歳を超えた方々にとっては、一日一日が大切だ。私のような年下の人間の話をわざわざ聴きに来てくれる幸せを噛みしめながら、八王子をあとにした。

カテゴリ: 歴史

またしても貶められた大正世代

2011.12.03

NHKのBSで放映された「シリーズ辛亥革命100年」の素晴らしい内容をほんの9日前にブログで賞賛させてもらったが、今日は、逆にNHKに苦言を呈したいと思う。本日夜9時から1時間15分にわたって放映されたNHKスペシャル『真珠湾から70年 証言ドキュメンタリー 日本人の戦争』である。

今日の番組は、NHKが過去何年にもわたって放映して来た「兵士の証言シリーズ」を再編集してまとめたものだ。過去、何度か番組に登場してきた老兵たちの証言が再編集され、新たな番組としてでき上がっていた。

「過去の歴史をここまで貶めることができるものなのか」。私は番組を見て、そう思った。番組というのは、取材フィルムの「どこを切りとるか」で内容はまったく変わるものである。それにしても、自分たちや戦死者のことがこれほど貶められる内容に、果たして証言した老兵たち当人は「納得しているのだろうか」と、私は考えつづけた。

NHKには申し訳ないが、番組のスタッフは、ごく一面的な“単純正義”を疑いなく信じ、それを実現できたこの番組におそらく“自己陶酔”しているレベルなのではないか、と思う。

ご高齢の元兵士たちに4時間も5時間も取材させてもらえば、さまざまなことが浮かび上がってくる。その人が一番証言したかったことではなく、一部分を引っ張り出し、さらにそこを強調して全体の印象づけを狙う――今回の番組は、そういう手法ででき上がったものではないだろうか。

戦争とは、悲惨なものだ。多くの日本の若者が太平洋戦争で命を落とし、その数は230万人にものぼった。番組では、その方々がいかに悲惨な体験をし、同時にアジアの人々にいかにひどいことをしたかということのみを描き切った。

そこには、当時の若者の使命感や責任感、潔さ、そして死んでいった兵士たちの無念さ、さらに言えば、当時日本が置かれた国際情勢や、列強のアジア侵略の背景も何も描かれていない。そこが描けなければ、彼ら兵士たちは単に加害者となり、歴史の犯罪者にされてしまうだけなのである。

私は、中国や韓国がこの内容をどれほど喜んでいるだろうか、と思いながら番組を見た。同時に国会でさえ大問題となったあの2年前のNHKスペシャル『プロジェクトJAPAN』の事件を思い出した。

日本の台湾統治を貶め、台湾人の証言を意図的に真意と違うように編集したこの番組は、糾弾の街頭デモが起こるほどの大問題に発展し、台湾でも大きく取り上げられる事態となった。

今日の番組を見て、太平洋戦争のことをなにも知らない視聴者は、「日本てなんてひどいことをしたのか」「こんな悪事を日本は働いたのか」という思いだけが植えつけられたに違いない。中国や韓国の若者に歴史問題で責められ、ひと言も返す言葉がない日本の若者が「こういう番組でつくられていく」ことを感じざるを得なかった。

地獄の戦場で突撃を繰り返し、同じ世代の「7人に1人が戦死」したという未曾有の悲劇の世代が、大正生まれの人々である。彼らは、凄まじい気迫で圧倒的な火力を誇る米軍をたじろがせ、多くが子孫も残さないまま死んでいった。

だが、生き残った戦友たちは、死んでいった仲間の無念を胸に働きつづけ、高度経済成長という“20世紀の奇跡”を成し遂げた。その人々を、今日の番組では、アジアへの加害者、さらに言えば、犯罪者としての視点でしか描いていなかったのである。

物言わぬ大正世代は、この番組で、またしても貶められ、傷つけられてしまった。ここ数年、老兵たちに取材をつづけている私には、彼らの本音がわかるだけに今日の番組が残念でならない。

先日、「真珠湾70周年」を記念して対談した作家・百田尚樹さんは、彼ら大正世代のことを「他人のために生きた世代」と語っていた。

いつまで、大正世代は不当に貶められつづけるのだろうか。私は番組が終わった時、思わず深い溜息が出てしまった。

カテゴリ: マスコミ, 歴史

NHK・BS「シリーズ辛亥革命100年」の迫力

2011.11.24

本日、やっと初校ゲラを出版社に戻し、少しだけ息をついた。私はもともと徹夜には強く、少々締切がつづいても身体にこたえることはなかったが、最近はかなりきつくなった。あまり無理をしないように、と思いながら、どうしても「追い込まれないとエンジンがかからない」ので、いつも同じことを繰り返している。

締切の綱渡りをしているうちに太平洋戦争関係の著作も、随分多くなった。12月に出す本で、今年だけで4冊目(1冊は文庫)になる。書きたいことが沢山あるので、それでも自分としてはまだまだ物足りない気がする。

さて、締切に追われて見逃していたが、今日は、録ってあったNHK・BSの「シリーズ辛亥革命100年」のDVDをゆっくり観た。今週月曜(21日)から水曜(23日)まで3回にわたって夜10時から放映されたそれぞれ1時間半というドキュメンタリー番組である。

私は、第1回を録りそこねたが、2回目、3回目は録画して、今夜、観させてもらったのだ。いずれも力作だった。第2回の「ラストエンペラー 真実の溥儀」は、満洲国の侍従武官長だった工藤忠と、関東軍の吉岡安直少佐という溥儀が信頼を置いた「二人の日本人」を登場させて、満洲国皇帝、愛新覚羅溥儀の新しい人物像を描いていた。

第3回の「蔣介石 秘められた対日戦略」も、スタンフォード大学で公開されている「蔣介石日記」と、ゆかりの人々の証言を軸に実写フィルムを交えながら蔣介石の本質に迫り、秘話を次々と紹介していた。いずれも、番組の途中で席を立てないほどの面白さだった。

私は、大学生の時に溥儀の弟である愛新覚羅溥傑氏を北京の護国寺街に訪ね、以来、親しくしていただいた。わが家の床の間には、その頃、溥傑氏がわざわざ書いてくれた掛け軸が今も掛かっている。

また、20代だった1987年、私は台北の北投というところに“軟禁”されていた張学良の屋敷を訪ねたこともある。いきなり外国のジャーナリストである私が訪ねてきたことで、張学良を軟禁していた国家安全局の警備担当者が慌て、ちょっとしたトラブルになった。結局、ご本人の張学良には会えなかったが、その軟禁生活の過酷さを垣間見ることができた。

NHKの今回の番組には、過去、私がそうして会ったり、あるいは会おうとした“歴史上の人物”が実写フィルムで、あるいは写真で、次々と登場した。私が知らず知らず、身を乗り出して番組に“没入”していたのも当然かもしれない。

歴史の当事者に直接、話を伺うことができた時の喜びは何物にも代えがたい。時の経過と共に、そういう当事者が少なくなってくるのは、仕方がない。だが、まだまだ掘り起こせる真実は数かぎりなく存在する。今年も残り少なくなりつつある。しかし、一人でも多くの証言者にお会いし、歴史の真実を後世に伝えていきたいと思う。

カテゴリ: 歴史

それでも「前進」をやめなかった男たち

2011.11.21

ゲラの校了作業に追われている。12月に出版する『太平洋戦争 最後の証言』の第2部「陸軍玉砕編」のゲラである。

昨日は、その本に登場する玉砕の島・サイパンから生還した元戦車隊の兵士、大阪在住の下田四郎さん(88)が、わざわざ事務所を訪ねてくれた。

上京されたついでに、ご子息とお孫さんを連れて西新宿の事務所に寄ってくれたのである。下田さんの奮戦ぶりと、いかにその生還が「奇跡であったか」は、拙稿の第4章で詳述させてもらった。

この夏、長時間にわたって取材に答えてくれた下田さんは、実年齢より10歳以上は若々しい。全滅した戦車隊で生き残ることの難しさは、12月半ばに出版される本書を読んで是非、知っていただければ、と思う。

今日は、その本の装幀(カバー)ができ上がり、編集者がわざわざ持ってきてくれた。本を出版するまでに一番うれしい時とは、やはり本の装幀ができて、実際に書店に並ぶシーンが思い浮かぶ段階かもしれない。

今日も明日も徹夜になりそうだが、拙稿に対して、今日は専門家のご意見も伺うことができて、大変有意義な1日だった。

それにしても、過酷で悲惨だった元兵士たちの体験は、凄まじいの一語に尽きる。しかし、それでもなお“前進”をやめなかった大正生まれの男たちの毅然とした生きざまに、是非、ご注目いただければ、と思う。

カテゴリ: 歴史

貴重な命はどう失われたのか

2011.11.07

本日、無事、原稿600枚を入稿した。最後は、徹夜、徹夜の連続だったが、なんとか終わった。『太平洋戦争 最後の証言』の第2部「陸軍玉砕編」である。今日の入稿で、12月中旬に発売されることが決まった。

今年の12月8日は、太平洋戦争開戦70周年だけに、第1部の「零戦・特攻編」と併せ、是非、読んでもらえれば、と思う。第2部で取り上げたのは、「ガダルカナル島」「ニューギニア」「インパール作戦」「サイパン島」「ルソン島」「レイテ島」「硫黄島」「沖縄」「占守島」という地獄の戦場を生き抜いた人々である。

奇跡の生還を遂げた90歳以上の元兵士を全国各地に訪ね、その証言によって「戦争とは何か」を描かせてもらった。本書に登場する直接の証言者だけでも30名を超える。いかに凄まじい戦いが展開され、そのためにどれほど多くの貴重な命が失われていったか、是非、本書で知っていただきたいと思う。

カテゴリ: 歴史

哀れな独裁政権の末路

2011.10.20

本日、発売になったばかりの「わが子に語りたい日本人の物語」を特集した別冊の『正論』が送られてきた。拙稿の「“義”と“信念”に生きて台湾を救った根本博」も10ページにわたって掲載されている。

先月、台湾へ出張した時にいくつかの原稿と平行して執筆させてもらったものだが、もう別冊として発売になったことに驚いた。見事な機動性である。私の原稿以外に24編の素晴らしい生きざまを見せた「日本人」が描かれている。

私が寄稿したのは、終戦時、駐蒙軍司令官として蒙古聯合自治政府の首都・張家口(ちょうかこう)にあり、内蒙古全体に在留する4万人の邦人を救うために終戦後も押し寄せるソ連軍と戦い、「国民の生命を守る」という軍人としての本義を示した根本博・元陸軍中将である。

しかも、根本氏は、その4万の邦人を保護し、日本に帰還させてくれた蔣介石と国府軍への恩義を返すために、4年後、国共内戦で敗走する彼らを助けに26トンの小さな船で台湾に密航し、国共内戦最後の戦いとなった「金門戦争」で、国府軍に奇跡の勝利をもたらした。

毅然とした生きざまを示した日本人を取り上げたこの別冊、どの一遍も読み応えがあっておもしろい。書店で見かけたら、是非、手にとっていただきたいと思う。

ここまで書いた時、リビアのカダフィ大佐の死亡情報がマスコミを通じて流れて来た。リビア国民評議会が「死亡」を発表したそうだ。ついにジャスミン革命による独裁政権崩壊の波は、42年に及ぶリビアのカダフィ政権さえ吹き飛ばしたことになる。

昨年、チュニジアでスタートしたこの民主化運動は、後世、いったいどう評価されるのだろうか。一青年の政府・治安当局への抗議の焼身自殺から始まった“世界革命”は、ベルリンの壁が崩壊し、東西の冷戦が終結することになったあの22年前の独裁政権“ドミノ倒し”に匹敵する評価を得るかもしれない。

そして今回も、世界の人々に厳然たるある「事実」が示されたと言える。国民に犠牲を強いてきた独裁政権が辿る末路は、哀れだ、と。

カテゴリ: 国際, 歴史

藤堂高虎と「生きるための覚悟」

2011.10.18

相変わらず徹夜がつづいている。12月に刊行される『大平洋戦争 最後の証言』第2部の原稿だ。締切が日一日と近づいているのに、まだ脱稿のメドが立たない。

そんな中、今日は、以前から決まっていた三重県津市での講演に行ってきた。ここのところ太平洋戦争に関する講演を依頼していただく例が多くなっている。今日もそうだった。以前は、司法や事件関連、あるいは野球に関して話をさせてもらうことが多かったが、最近は、大平洋戦争関連が圧倒的だ。

私は原稿の関係ですっかり「昼」と「夜」が逆転しているので、昨夜遅くに津に入り、今日午後、終わって新幹線に飛び乗って帰ってきた。行き帰りの新幹線でも、ずっとパソコンのキーボードを叩きつづけた。きっとまわりの乗客は、新幹線の中でパソコンと“格闘”している私を奇異に思ったに違いない。

久しぶりの津だったので早朝、私は津城に行ってみた。築城の名人と言われた、かの藤堂高虎が築いた城だ。早朝の津城の石垣を見ていて、同じ藤堂高虎の手になる四国の今治城の石垣とあまりに似ているので驚いた。

生涯で7人もの主君に仕えた高虎は、自ら「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と語った戦国大名である。最後は徳川家康に仕えたが、高虎は死が間近に迫った家康に、わざわざ枕元に呼ばれるほど信頼された。

高虎が遺した言葉の中で、私は「寝屋を出るより、其の日を死番と心得るべし。心かやうに覚悟極るゆへに、物に動ずることなし」というのが好きだ。その日その日を「死」を覚悟して精一杯生きれば、何が起きても動ずることはないと、たしかに思う。

私は、そんな生涯をおくった素晴らしい日本人をノンフィクションとして描かせてもらっている。いま原稿に向かっている戦争で命を落としていった若者たちもそうだ。彼らの熱い思いと無念をできるだけ正確に後世に伝えたいと心から思う。

カテゴリ: 歴史

辛亥革命100周年に思う

2011.10.10

今日、2011年10月10日は、辛亥革命の武昌蜂起から100周年という記念日である。10が二つ並ぶことから「双十節」と呼ばれるが、中華民国(台湾)にとっては、建国の記念日であり、100周年の今年は、特別の意味を持っていた。

台湾では本日、台北中心部の総統府前で、軍事パレードなどの祝賀行事が開かれたことがニュースで報じられていた。馬英九総統が中国に対して「民主国家の建設」を目指すよう呼びかける演説をしたそうだ。

前日(9日)には、中国の胡錦濤国家主席が北京での辛亥革命100周年記念大会で、台湾との「平和的な統一」を訴えていただけに、馬総統が「中国の民主化が前提」であることを強調したのは興味深い。

ちょうど先週木曜日(6日)、私は東京のホテル・オークラでおこなわれたこの中華民国の建国100年を祝うパーティに出席した。およそ2000人が集まった盛大なパーティだったが、そこで駐日代表の馮寄台氏が日本との関係を盛んに強調していたのも印象的だった。

私は本日発売の『Voice』に先月おこなわれた6人の日本人スイマーによる「日台黒潮泳断チャレンジ」のレポートを書かせてもらったが、日・中・台の3国の関係が微妙に変化していることをこのところ強く感じている。

わずか2300万人の台湾から、200億円という圧倒的な金額の義援金が寄せられたことなど、日本人も東日本大震災をきっかけに「台湾の存在」を意識することが多くなっている。先週、訪日して日本の経済人などと会見していった蔡英文・民進党主席は、日本との貿易で「関税撤廃」をすることなど、さまざまな提案をして帰国していった。

3か月後の来年1月、台湾では総統選がある。事実上、国民党の馬英九総統と民進党の蔡英文女史との一騎打ちである。この両者の戦いは、日本にとっても大きな意味を持つ。中国との関係強化か、それとも日本との関係強化か、二人が台湾をどこへ連れていこうとしているのか、日本人にとっても無関心ではいられない。

尖閣問題をはじめ、日本への圧力を次第に強めている中国が、大震災をきっかけに日台の関係が強固になっていることを不快に思っているのは確かだろう。1日に台湾海峡を航行する日本の船舶は、約300隻にのぼる。その台湾海峡が中国の“内海(うちうみ)”になるかならないかは、日本にとって安全保障上も極めて大きい問題だ。

私の事務所のすぐ近くには、辛亥革命を目指した孫文を支え、今のレートで1兆円もの経済的援助をおこなった梅屋庄吉の屋敷跡がある。この梅屋邸の2階で、孫文とのちに“国母”とも呼ばれる宋慶齢は、結婚式を挙げている。

辛亥革命は、この梅屋庄吉や宮崎滔天、山田良政・純三郎兄弟など、多くの日本人によって支えられて成功している。以来100年、日・台・中が歩んだ激動の日々を思うと、日本人がもっともっと中国と台湾、そして台湾海峡の行く末に関心を向けるべきでないか、とつくづく感じる。

カテゴリ: 台湾, 歴史

後世の「道しるべ」になると信じて

2011.09.30

今日で9月も終わる。先週、取材先の台湾から帰ってきたばかりだが、今週は岡山、名古屋、京都と出張がつづいている。今日午後は、名古屋で4時間半にわたってソ連軍と終戦後、激闘を演じて生き残った占守島(しゅむしゅとう)の元戦車兵(89)に取材をさせてもらった。

死を覚悟した戦車隊の奮戦は戦車第11連隊を指揮した池田末男連隊長の壮列な戦死と共に現在も語り伝えられている。今日はその有り様を生還者に細部にわたって直接伺うことができた。いつもながら、人生の晩年を迎えた老兵たちの証言には鬼気迫るものがある。

この占守島の激闘がなければ、北海道の北半分はソ連に占領され、いま「日本ではなかったかもしれない」と言われている。それを阻止するために死んでいった多くの兵士たちの思いを今日は聞くことができた。老兵たちの詳細な証言を聞けば、戦後の日本が何かを失ったのではないか、と多くの人が思うに違いない。

私は明日、インパール作戦の生き残りと京都でお会いする。拙著『太平洋戦争 最後の証言』第2部の「陸軍編」の取材も大詰めを迎えようとしている。

大正生まれの若者1348万人の内、7人に1人にあたる約200万人が戦死した悲劇は、後世の私たちがしっかりと受け止めなければならない。

私は、彼らの後世に託す証言をできるだけ正確に、そして私情を交えず客観的に記さなければならないと思う。彼らが語る真実こそ私は、後世の「道しるべ」になると信じている。

カテゴリ: 歴史

マニラ市街戦を生き抜いた元台湾兵

2011.09.20

今日は、台湾の苗栗県の竹南まで取材に行ってきた。台北駅から特急の自強号で1時間半もかかる場所だ。ここで89歳になる一人の老人が私を待ってくれていた。

昭和20年2月、日米の両軍がフィリピンの首都マニラで市街戦を繰り広げ、10万を越す市民や兵士が犠牲になった。その地獄の市街戦を生き抜いた元台湾兵である。第3部まで続く拙著「太平洋戦争 最後の証言」の取材だ。

老兵たちが住む地は、北海道から沖縄まで多岐にわたるが、しかし、台湾在住の老兵にまで話を伺うことになるとは、さすがに感慨深い。自分たちを指導し、そして最後まで守ってくれた日本人の上官に対する感謝の言葉が、氏の口から次々と出てきた。

極限の場面で発揮される人間の優しさは、70年近い歳月を経ても、部下たちの心の中にしっかりと記憶されていた。この元台湾兵の述懐も、近くお届けしたい。

カテゴリ: 歴史

黒潮に挑む若者の勇気と気迫

2011.09.18

東日本大震災への台湾からの「世界一の義援金」に対して、日本のスイマーたち6人が与那国島から台湾の蘇澳まで泳ぎ、その感謝の気持ちを伝えようとしている。彼らには東北3県の知事のメッセージも託されている。

参加した6人の中には、福島県相馬市出身のスイマーもいる。流れの激しい黒潮を横断する勇気と体力、150キロもの距離、サメの恐怖、さらには、台風による高波……。

さまざまな障害と闘わなければならない無謀なまでのチャレンジは、「日台黒潮遠泳チャレンジ2011」と名づけられた。大手マスコミの報道によって、広く両国の国民に知らされたこのイベントが、明日朝10時に台湾の蘇澳で決着する。

私はそれを見届けるために台湾に来ている。ほかにも、今年12月発売予定の「太平洋戦争 最後の証言」の 第2部「陸軍玉砕編」の取材が台湾の竹南という地であり、急遽、飛んで来たのだ。

無謀であろうと何であろうと、感謝の気持ちを伝えようとする若者の気持ちが素晴らしい。明日、このチャレンジをおこなった若者たちに取材し、あさっては、昭和20年のマニラ市街戦に投入され、九死に一生を得て生き残った台湾生まれの元兵士に取材する予定だ。

「太平洋戦争 最後の証言」の取材も、いよいよ佳境に入っている。若者たちの勇気と気迫に負けてはいられない。

カテゴリ: スポーツ, 台湾, 歴史

「素人内閣」で国民の生活を守れるか

2011.09.13

最高気温21度の旭川から32度の東京へ帰ってきた。さすがに東京は残暑が厳しい。朝方は霧さえ立ち込めていた旭川とは、えらい違いである。昨日、私は、涼しい旭川で、ガダルカナル島で玉砕した一木支隊の92歳の生還者と時間を忘れて話し込んだ。それが、随分、前のような気がする。

私は、旭川と少なからず縁がある。2年前、旭川で育った伝説の名投手、ヴィクトル・スタルヒンを取り上げたNHKの「こだわり人物伝」という番組でナビゲーター役を務め、旭川市内のスタルヒンゆかりの地をいろいろ訪ねて、レポートさせてもらった。

また、昨年上梓した「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」では、この旭川の第七師団の歩兵第27聯隊の聯隊長だった根本博中将の足跡を追って、何度も旭川に来ている。吹雪の時に来た時もあれば、暑い時期に来た時もある。いつ来ても、旭川の人たちは素朴で優しい。スタルヒンや根本中将が終生、旭川を愛したのもわかるような気がする。

旭川の取材を終えて帰ってきた東京では、本日、野田佳彦首相の所信表明演説があった。怒号が飛び交う騒然とした雰囲気の中で、演説のうまい松下政経塾出身者らしく、怯(ひる)むことなく迫力と説得力を意識した熱弁だった。だが、その意欲とは裏腹に、野田政権は迷走しつづけている。

これまでのブログでも書いたように、「私は安全保障の素人」と言ってのけた一川保夫防衛相や、リンチ殺人事件の被害者の母親を前に、「(殺人者にも)犯罪を犯す事情があったんですよ」と発言した平岡秀夫法相、現地視察のあと、着ていた服の袖を取材記者にこすりつける格好をしながら、「ほら、放射能」とはしゃいで辞任した鉢路吉雄・経済産業相、そして、後任の経済産業相に就いた途端、経団連の米倉弘昌会長に「もっと経済のことを勉強して欲しい」と言われてしまった枝野幸男氏……。

発足してわずか2週間足らずなのに、野田内閣への国民の失望は深まるばかりだ。強烈な世界同時株安の恐怖が日本経済には迫っているのに、果たして、この素人内閣は「国民の生活」を守ることができるのだろうか。

いくら得意の演説を美辞麗句で飾ろうと国民の信頼を勝ち取るまでには、道険しの感が強い。気温30度を超える東京に戻ってきて、私はそんなことを考えていた。

カテゴリ: 政治, 歴史

“神話のふるさと”宮崎にて

2011.09.09

夜、出張先の宮崎から東京に帰ってきたが、明日は北海道の室蘭だ。太平洋戦争の元戦士の取材も九州から北海道まで広範囲にわたっているため、東京に腰を落ち着ける時間がないまま次の取材に向かうことが続いている。

さまざまな証言を聞くたびに心が動かされることが多い。それと共にその地方の人たちと話している内にヒントを得る場合も少なくない。今日の宮崎も、さまざまなことを教えてくれた。

宮崎といえば“神話のふるさと”である。時間の合間を見て、紀元2600年(昭和15年)に建てられた高さ40メートルに達する「平和の塔」(※当時は「八紘之基柱」と呼ばれた)や、神武天皇が住んでいたとされる皇宮屋(こぐや)、あるいは、そのすぐ近くに立っている「皇軍発祥の地」の碑などを見て来た。巨大な「平和の塔」は、見るものを圧倒する迫力があった。

皇宮屋のすぐ横に神武天皇が東方征伐のため兵を募ったとされる場所に立つ「皇軍発祥の地」の碑は、大きさでは「平和の塔」に劣るが、終戦後、自決した杉山元(すぎやま・はじめ)元帥の字が刻み込まれていた。

天照大神の高千穂町だけでなく、宮崎市も、これらの神話遺産を持っていることを私は知った。東国原元知事が去って以来、県全体がなんだか活気を失ったかのような印象がある宮崎県だが、県内のあちこちに点在する神話遺産は、全国の人々の関心を呼ぶものばかりである。

草っぱらに人知れずそういう碑が“放置”されている様子を見ると、その価値を宮崎の人々自身が気づいていないのだろう、と思う。たしかに神話というのは、不可思議なエピソードが記されていたり、あるいは、その言わんとする「意味」がわからないものも多い。しかし、宮崎県には、その神話上の出来事が「ここでおこなわれた」とされる場所があちこちに存在しているのである。

私たちは、「神話の国」と言えば出雲地方をイメージすることが多いが、実は宮崎県こそ、本場だ。実際に逸話や遺産がここほど多く残っている地はない。こういう遺産を大切にし、積極的にアピールしてこそ、観光県として宮崎が再出発できそうな気がするのは、私だけだろうか。

カテゴリ: 歴史

日本を憂える人たち

2011.09.06

昨夜、ホテルグランドヒル市ヶ谷で開かれた出版パーティーに参加してきた。かつての台湾の独立派運動家であり、日本で評論家・ジャーナリストとして活動する黄文雄氏のパーティ―である。

200冊を超える著書を持つ黄氏が出版パーティ―を開くのは、なんとこれが初めてだという。本の題名は、『哲人政治家 李登輝の原点』(WAC)である。台湾独立派だった黄氏は何十年も台湾への帰国が許されなかった。その黄氏が帰国できるようになったのは、台湾に、本省人である李登輝氏の政権が樹立され、その権力基盤が確立されて以降のことである。

その意味で、黄氏のこの本にかけた思いは強く、それが初めての出版パーティーにつながったのだろう。会場には、200人以上の人が詰めかけ、氏のこれまでの業績を讃え、今後の活躍を祈った。

かくいう私も、黄氏にはお世話になったことがある。ひとつ頼みごとをすると、黄氏はそのことを実現しようと必死でやってくれる方だ。口では愛想のいいことを言っても、実際には親身になってくれる人が少ない中、黄氏には、人のために一生懸命やってくれる温かさがある。

パーティーに駆けつけた人たちの中には、黄氏とは政治信条を異にする方々もいた。しかし、なにより黄氏の人柄に魅せられた方々が多かったように思う。

会場には、評論家の金美齢さんがおられたので、久しぶりに挨拶をさせてもらった。今年7月に出た拙著『康子十九歳 戦渦の日記』(文春文庫)では、感動的な文庫版解説を書いていただいた。そのお礼を直接言うことができた。相変わらずのお元気さで、日本の将来を憂いておられた。

その後、2次会にも参加し、日本を憂えているさまざまな方と知り合った。実は、パーティーの前、私は神奈川県下でレイテ戦の地獄の戦場から生還した90歳の老兵に長時間の取材をしていた。その元戦士も、日本の現状と将来を憂えていた。

野田政権が発足して間もないこの日、日本を憂える人がこれほど多いことに、改めて気づかされた1日だった。

カテゴリ: 歴史

新総理は一刻も早い「解散総選挙」を

2011.08.27

太平洋戦争の生き残りにお会いするために関西にいる。今日は大阪、明日は奈良の吉野である。サイパンやレイテ島からの奇跡の生還者に取材をしている。仲間の死を数多く見てきた老兵たちのひと言ひと言が胸に迫る。

100人の戦士には100人分の思いと100人分の地獄の体験がある。今日、大阪でお会いした現在88歳の元戦士は、4時間以上にわたって玉砕の島・サイパンの極限の戦場のことを語り続けた。大正生まれの男たちが後世に託す言葉をひとつひとつ受け止めていきたいと思う。

さて、管直人首相が昨日、退陣会見をおこない、29日投開票の5人の候補者が揃った。これまでのブログでも書き続けているように、「国民の生命・財産を守る」という国家の領袖としての使命すら知らない市民運動家の政権がやっと「終わった」のである。

だが、5人の総理候補者を見て、誰が総理になっても果して国民は新政権を支持するのだろうか、と思う。小沢一郎元代表の支持が欲しくて仕方ない彼らは、小沢氏にすり寄り、小沢氏本人の面接によって「意のままに動くかどうか」ということを試された人物もいる。

有力候補である前原誠司・前外相もその一人だ。だが、「自分を蔑ろにしている」と小沢氏に判断され、残念ながら支持を得ることができなかった。前原グループ幹部には“唯我独尊”の仙谷由人・元官房長官がおり、たとえ前原政権が誕生しても、国民の支持という点では、前原氏も苦戦することになるだろう。

小沢頼りで立候補した海江田万里・経済産業相に至っては、かりに海江田政権が誕生すれば、「実質総理は小沢氏」という悪夢を国民は見続けることになる。民主党の「党員資格がない」人物が、陰の総理になるなど、誰が納得するだろうか。

民主党は、小泉純一郎氏の郵政選挙(2005年)で圧倒的な衆院勢力を誇った自民党が、小泉氏以後、総理を猫の目のように変えた時、「一刻も早く総選挙を」と訴え、国会でもそのことを主張し続けた。

今こそ、その時の“正論”を思い出すべきだろう。新総理の役割は、解散総選挙を一刻も早く打つことだ。そして国民の真意を知らなければならない。

民主党という政党が持つ能力や政策がここまで国民の支持を失った以上、総理の首をただすげ換えても、それは何の解決にもならない。そのことが却って日本の現在の閉塞状況を深める可能性もある。新総理の英断に期待したい。

カテゴリ: 政治, 歴史

悲劇の地・鹿児島「桜島」の悠然たる姿

2011.08.24

いま鹿児島にいる。太平洋戦争の元戦士を取材するためである。昨日は、硫黄島の激闘を生き抜いた95歳の老兵の証言を聞いた。とても90歳代には見えない若々しさで70代といってもいいほどの方だった。

あの地獄の戦場を生き抜いた体験を伺ったが、あまりに凄まじい日々の連続に聞いている私の方が唖然とした。70キロあった体重が半分以下になっても生き抜いた執念。水も、食糧もない中で、この人物を「生還」させたものは何だったのか。詳細は、12月発売の『太平洋戦争 最後の証言』の第2部「陸軍玉砕編」をお待ちいただきたい。

それにしても、鹿児島県ほど戦争の影を色濃く残しているところは少ない。県内のあちこちに沖縄を取り囲むアメリカ機動部隊に向かって特攻機が出撃していった飛行場があり、そのうちいくつかは今も当時の姿を伝えている。

また日清・日露、あるいは太平洋戦争で最前線に投入された鹿児島の歩兵は、いつも悲劇の中心にいた、昨日取材させてもらった歩兵145連隊の老兵は、その中で奇跡的な生還を遂げた人物である。

今日は、志布志で同じ歩兵145連隊の老兵にお会いし、そのあと都城へとまわる。昨日の鹿児島は桜島の灰で、車にはうっすら白いものが積もっていた。鹿児島ならではの独特の自然現象である。だが、目の前の今朝の桜島は、この地が太平洋戦争の悲劇の地であったことが信じられないほど悠然とした姿をたたえていた。

カテゴリ: 歴史

歴史の証言者たちと「甲子園」

2011.08.19

一昨日は、ニューギニア戦線の生還者(89歳)、今日はインパール作戦の生き残り(91歳)にお会いし、地獄の戦場のようすを伺ってきた。『太平洋戦争 最後の証言』第2部の「陸軍玉砕編」の取材である。

発売間もない第1部の「零戦・特攻編」も、幸いに売れ行きは好調のようだ。多くの方に、大正世代の若者の生きざまと無念の思いに目を向けていただければ、と思う。

ところで明日は、甲子園の決勝戦である。優勝候補の呼び声が高かった日大三高がついに決勝に進出した。西東京大会の日大三高戦に足を運び、実際に吉永投手や畔上、横尾、高山、清水などの強力打線を目の当たりにしていただけに感慨深い。毎年のように、これほど全国屈指の強力打線をつくり上げてくる日大三高には頭が下がる。

私は、かつて町田市にある日大三高の合宿所に小倉全由監督の取材に行ったことがある。グランドの隣に合宿所があり、ここに住み込んでいた小倉監督は、野球だけでなく、日頃の生活ぶりから選手たちを指導していた。

生活そのものと一体化した豊富な練習量によって、その圧倒的な打撃力が支えられていることは言うまでもない。毎年、投手力よりも打力が有名な日大三高だが、今年は、高校球界屈指の吉永健太朗投手を擁している。小倉監督はきっと「この戦力で勝てなければ、どこが全国制覇できるのか」という思いを持っているに違いない。明日は、思いっきり選手たちを爆発させる小倉マジックの伸び伸び野球が展開されるだろう。

青森代表の光星学院の決勝進出も感慨深い。今から42年前、青森代表の三沢高校が出て以来の快挙である。私は、手に汗握って観たその三沢高校と松山商業との昭和44年夏の決勝戦を思い出す。

いまだに「ストライクだったか、ボールだったか」という議論が続く0対0で迎えた三沢高校の延長15回裏、一死満塁ワンスリーのあとの5球目。松山商業の井上明投手が投じたあの低い球が「ボール」と判定されていれば、“押し出しサヨナラ”によって東北地方にはその時点で深紅の大優勝旗が渡っていたことになる。

大震災の今年、その東北の悲願が、光星学院によって実現されるかもしれない。剛腕の秋田教良投手には、あの時の太田幸司投手を上回る迫力を感じる。大優勝旗を持ち帰る資格は十分にある。だが、外のスライダーを日大三高が強振してくれない場合、秋田投手の投球幅は狭くなるだろう。どこまで秋田投手が我慢できるか。

参考になるのは、西東京大会決勝で早稲田実業の内田聖人投手が日大三高相手に繰り広げたピッチングだ。外角に制球よくストレートとスライダーを配し、さらに要所で内角をずばりと突くピッチングで内田は日大三高打線を5安打2点に抑えている。言うまでもなく、日大三高打線を5安打2点に封じたピッチャーは、内田だけである。光星学院の勝利への鍵は、この内田のピッチング法が握っていると言えるだろう。

一方、疲労が極限まで来ている日大三高の吉永投手も不安を抱えている。「相手に不足はない」という強豪同士の激突。甲子園には、決勝戦だけに現われる魔物がいる。神は、どちらに微笑むのか。久しぶりに伯仲の決勝戦を観られそうだ。

カテゴリ: 歴史

日米開戦70周年の年の「終戦記念日」

2011.08.15

今日は、日米開戦70周年の「終戦記念日」だった。私も靖国神社に足を運んで、230万人の戦死者の鎮魂の参拝をさせてもらった。年々多くなる靖国への参拝者の数に、私は驚きを覚えている。

今年、私は零戦特攻で死んだ日系二世の松藤大治少尉の生涯を描いた『蒼海に消ゆ』(集英社)と、『太平洋戦争 最後の証言』(小学館)の2冊を上梓した。いずれも、無念の思いを呑みこんで若くして死んでいった男たちの姿を描いたノンフィクション作品である。

先の大戦での230万人の戦死者のうち、およそ200万人が大正生まれの青年たちだと言われる。つまり、太平洋戦争は、大正生まれの若者たちの戦争だった。彼ら大正青年は、実に同世代の「7人に1人」が戦死した悲劇の世代なのである。

高齢化が進む中、すでに大正10年生まれの兵士たちが満90歳を迎えている。それと共に、死んでいった仲間の思いを代弁しようとするご高齢の元戦士の方が多くなっている。私の前述の作品はいずれもそうした方々の思いと記憶によって描かれた作品である。

子孫も残さず亡くなっていった若者に後世の私たちが感謝と尊敬の気持ちを抱くのは当然だと思われるが、この国では「それはいけないこと」だと長い間、教えられてきた。しかし、私は今日の人、人、人……で溢れた靖国神社のようすを見て、その愚かな教育が打破されつつあることがわかった。

今日の靖国の参拝者には、お歳を召した方々のほかに若い人も非常に多かった。家族連れも沢山いた。若い人の割合は、ここ数年、どんどん増えている気がする。

日本には、さまざまなイデオロギーを持つ人がいる。だが、子孫も残さず、若くして地獄の戦場で命を落としていった戦死者たちを弔い、慰霊と感謝の気持ちを後世の人間が表すことは、イデオロギーなどというものを超えた“人間として”当たり前のことであると思う。

過去を見つめ、それを将来の教訓とすると共に、潔く、使命感と誇りを持って死んでいった若者がかつていたことを私たちは忘れてはならない。今日の靖国神社に集まったのは、人間として「当然のこと」をするために集まった人々であり、さらに言えば歴史を深く考えようとする人々であったと、私は思う。

カテゴリ: 歴史

太平洋戦争の「重要場面」に遭遇した老兵たち

2011.08.14

明日の終戦の日を前に、産経新聞の本日朝刊の第3社会面(25面)に、私が司会をさせてもらった座談会記事が掲載された。「日米開戦70年目の検証 兵士の証言」と題された特別座談会である。

まるまる一面を使った特別記事で、私自身も朝、産経新聞を開いてあまりの記事の大きさに驚かされた。それだけ特別座談会に参加していただけた元兵士の経験が凄まじかったということだろう。

座談会に参加していただいたのは3人だ。真珠湾でアメリカ太平洋艦隊の旗艦ウエストバージニアに魚雷を打ち込んだ空母『加賀』の雷撃機の隊員・前田武さん(90歳)、昭和12年12月の南京攻略戦で南京の光華門を爆撃し、真珠湾・ミッドウエー・ガダルカナル等々でも激闘を演じ、何度も九死に一生を得て生き残った零戦パイロットの原田要さん(95歳)、海兵67期で、フィリピンのマバラカット基地にて特攻第1号の「敷島隊」のメンバー大黒繁男上飛兵を指名した201空311飛行隊の飛行隊長・横山岳夫さん(94歳)の3人である。

今回の座談会をお願いしたら、3人とも快く応じてくれた。都内に住む前田さんを除いて、わざわざ横山さんは福岡から、原田さんは長野から上京してくれた。90歳を遥かに超えたお二人が、地方から出て来てくれたこと自体に私は感激した。

座談会のメインタイトルには「散った青年たちの潔さ 教訓に」と銘打たれている。私は、毅然とした日本人像をなんとかノンフィクション作品として残したいと活動をつづけている。その思いに、太平洋戦争という悲劇の中で、毅然と生きた当事者たちがご高齢にもかかわらず応えてくれたことに、この上ない感謝の念を抱いた。

すでにインターネットでも閲覧できるようだが、詳細は今朝の産経新聞で是非ご覧いただければ、と思う。「大正100年」そして「開戦70周年」の記念の年に、無念の思いを呑みこんで亡くなっていった200万人もの大正生まれの若者たちの真実の姿をさまざまな形で発表させてもらえるのは、ジャーナリストとしてこの上ない喜びだと、つくづく思う。

カテゴリ: 歴史

記録映画「二重被爆 語り部・山口彊の遺言」

2011.08.08

よさこい今夜、渋谷の「アップリンク」でおこなわれたドキュメンタリー映画「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」の上映会にゲストとして招かれ、上映後のトークセッションに参加してきた。

この映画の製作者である稲塚秀孝監督と私との対談である。稲塚さんとは、伝説の大投手、ヴィクトル・スタルヒンの生涯を追ったNHKのドキュメンタリー番組で私がナビゲーター役を務めて以降、何かとお世話になっている関係だ。

山口彊(つとむ)さんは、広島と長崎で2度も被爆した稀有な生き残りだ。昨年1月、93歳で生涯を閉じたが、晩年は核廃絶の重要性を訴えつづけ、『タイタニック』や『アバター』などで知られる巨匠ジェームス・キャメロン監督と会い、「あなたにバトンを託した」と伝えて、その10日ほどのちに息を引き取っている。

稲塚監督は、山口さんの晩年をドキュメンタリーとして撮りつづけ、このほど上映会にこぎつけた。生の映像として山口さんが核廃絶を訴える姿はやはり迫力がある。思わず引き込まれてしまう秀作だ。

大震災と東京電力の不始末で原発の安全神話が崩壊した折も折だけで、観客の関心はよけい強いように感じた。拙著『太平洋戦争 最後の証言』が今日から書店に並び始めたのも、なにかの縁だろう。

私は自著の話も交えながら、トークの中で、「世の中には天から使命を与えられたとしか思えない人がいる。山口さんはまさにその人だ」と訴えさせてもらった。熱心な方が多く、質問も活発で、私もいろいろと勉強になった。

私はトークの最後の方で、「皆さんは、核廃絶は実現しないと思っているかもしれませんが、核というのは、“拡散”が進めば進むほど“廃絶”に近づくものです。一部の超大国が核を独占していた時代は核廃絶など夢の夢でしたが、今ほど核拡散が進んでくると、逆に廃絶が近づいているという見方ができる。だからこそ、こういう記録映画が持つ意味は重要なのです」と話をさせてもらった。

核廃絶――それは、唯一の被爆国である日本の悲願だが、それが将来、「現実になるかもしれない」という話である。そのためには、国民も発想の転換が必要だと思うが、そのことはまた機会を改めて書かせてもらおうと思う。

暑い中、上映会とトークセッションに集まってくれた観客の真剣な表情を見て、私は少しホッとした。こういう真面目で地動なイベントに、わざわざ足を運ぶ人がいることを知っただけでも嬉しかった。

世の中、お盆間近で今週末あたりは、東京も閑散となるだろう。いよいよ “日本の夏”の本番到来である。そんな中で、問題意識を持った多くの人たちの熱気に、勇気をもらえた夜だった。

カテゴリ: 歴史

発売になった『太平洋戦争 最後の証言』

2011.08.05

今日、新著『太平洋戦争 最後の証言(第1部 零戦・特攻編)』が小学館から発売になった。戦死者が実に230万人に達した日本の有史以来、未曾有の悲劇・太平洋戦争。その最前線で戦った元兵士たちを全国に訪ね歩き、これを再現した戦争ノンフィクションである。

戦後生まれの私が描きたかったのは、戦場で非業の死を遂げた兵士たち、あるいは九死に一生を得て生還した兵士たちは、あの戦争をどう受け止め、自分たちの運命をどう捉えていたのか、ということである。それは、太平洋戦争(大東亜戦争)とは何だったのか、という本質を教えてくれるものだからだ。

真珠湾攻撃という「開戦」から70年が経ち、最前線で戦った元兵士たちも90歳を越え、戦争そのものが“歴史”となりつつある。そんな中、過去を軽んじる風潮にジャーナリストの一人として、ささやかな抵抗を試みたものでもある。

本書に登場いただいた方々の体験は凄まじい。真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊の旗艦・ウエストバージニアに魚雷をブチ込んだ空母『加賀』の雷撃機の現在90歳の元隊員や、昭和12年の南京攻略戦で南京の光華門を爆撃し、真珠湾・ミッドウエー・ガダルカナルでも激闘を演じ、何度も九死に一生を得て生き残った95歳の元零戦パイロット、フィリピンのマバラカット基地で特攻第1号の「敷島隊」のメンバーを指名した94歳の元飛行隊長など、枚挙に暇ない。

また、実際にアメリカ艦船に特攻して命が助かった84歳の奇跡の生還者や、人間爆弾・桜花に搭乗した90歳の元「桜花」隊員、あるいは陸軍が開発した前方3キロをすべて破壊し尽くす「桜弾」と呼ばれる重爆撃機の85歳の元搭乗員……等々、私は、彼ら元戦士たちに話を伺いながら、「これが本当に現実なのか」と、何度も驚きと感動に包まれたものだ。

私が、太平洋戦争の元兵士たちの証言にこだわるには、理由がある。彼らは、戦争で同世代の男子が「7人に1人」戦死しながら、それでも戦後、仲間の無念を胸にがむしゃらに働き、彼らが社会の第一線から退いた時、日本は復興どころか「世界第2位の経済大国」となっていたからである。生涯、前進することをやめず、今の日本をつくり上げた彼ら戦争世代の男たちの思いをどうしても私は後世に伝えたかったのだ。

昨日は、ある新聞社がこの本に注目してくれ、老兵たちの座談会を企画してくれた。座談会が終わったあと、そのまま飲み会となり、最後は新宿に流れて、終わった時は、夜10時近かった。90歳を超える大正世代のパワーと精神力には改めて驚かされた。

彼らに共通するのは、今の日本人からは想像もできない強烈な「使命感」と「責任感」である。自分たちがなぜ戦場に向かい、いったい何を守ろうとしたのか。そのことを必死に後世に伝えようとする大正世代の証言に、多くの国民が耳を傾けることを心から願う。

カテゴリ: 歴史

いよいよ日本列島の8月

2011.08.01

山口、広島の出張を終えて、夜遅く、東京へ帰ってきた。おかげでどうしても観なければならなかった西東京、東東京の高校野球決勝戦を見逃してしまった。ビデオに録っているので、これからじっくり観させてもらおうと思う。

西東京は日大三と早実、東東京は帝京と関東一の激突という注目の一戦となった。いずれも甲子園に出れば、優勝候補となる強豪校同士の対決だった。

結局、吉永健太朗を擁する日大三と、伊藤拓郎を擁する帝京が東京を制した。2人ともプロのスカウトが二重マルをつける本格派投手だ。両チームとも投打のバランスが抜群にいいだけに、甲子園では深紅の大優勝旗に絡む活躍を見せるだろう。

今日、全国最後の代表校となったのは、大阪の東大阪大柏原である。強豪の大阪桐蔭を終盤の粘りでひっくり返し、9回サヨナラ勝ち。先行する大阪桐蔭を、7、8、9回で5点を挙げて7対6と逆転した底力は脅威だ。春夏を通じて初めての甲子園だが、激戦の大阪を制した実力だけに、これまた甲子園で台風の目となるだろう。

本日、私は広島の呉で戦艦大和の設計を担当した91歳の元設計者を取材させてもらった。さまざまな秘話を伺い、改めて大和建造の意味を知った。

その直前には、大和ミュージアムにも寄り、前著『蒼海に消ゆ』でお世話になった元零戦パイロットの大之木英雄氏、あるいは大和ミュージアム艦長の戸髙一成氏とお会いし、さまざまな話を聞かせていただいた。

呉海軍工廠は、数々の戦艦を生み出した伝統の海軍工廠だ。私は呉を訪れるたびに、目の前で70年以上前の歴史が息づき、新たに何かを語りかけられているような気がする。これらの取材の成果は、また単行本として世に問わせていただきたく思う。

今日から8月。うだるような暑さは、日本列島どこも変わらない。ただし、戻ってきた東京の不快な“都市熱”だけは、どこにもないものだ。明後日締切の週刊誌原稿を抱えているので、喘ぐようなこの暑さの中で、もうひと踏ん張りである。

カテゴリ: スポーツ, 歴史

談論風発の「座談会」3時間

2011.07.09

今日は、ある月刊誌の座談会に出席した。メンバーは、慶大法学部准教授の片山杜秀さん、ルポライターの早坂隆さん、そして私の3人である。1時間半の予定が、3時間近くにわたる“熱弁”の座談会となった。

話は、大正生まれの人たちに対する世代論から戦後の歴史観の歪み、さらには先の太平洋戦争をどう見るか……等々、多岐にわたった。当の月刊誌が発売になるまで詳しく述べられないので残念だが、非常に楽しい3時間だった。

私たち戦争を知らない世代が、いま数少なくなってきた太平洋戦争の生還者に話を伺う作業がつづいている。今日、私が最も言いたかったのは、「恥というものを知る世代」を思い起こすことの重要性である。

太平洋戦争での過酷な戦いで200万人が亡くなった大正生まれの若者は、実に同世代の男子のうち7人に1人が戦死したという悲劇の世代である。戦争を生き残った大正生まれの若者は、戦後も遮二無二働き、彼らが社会の第一線から退いた時、日本は復興どころか、世界第二位の経済大国にのし上がっていた。

彼ら大正世代の男たちは、高度経済成長期、世界から“エコノミック・アニマル”と揶揄され、その凄まじい経済活動を批判されたが、それでも怯(ひる)むことはなかった。つまり、彼らは戦争時だけでなく、戦後もひたすら“突撃”を繰り返したのである。

大震災からの復興には何が必要か。それは、本来の日本人の姿を思い起こすことが最も肝心ではないかと思う。そんなことを改めて考えさせてくれた座談会だった。

カテゴリ: 歴史

『蒼海に消ゆ』の講演

2011.07.01

今日は、一橋の如水会館で講演があった。拙著『蒼海に消ゆ―祖国アメリカに特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯』の主役・松藤少尉は、当時の東京商大、現在の一橋大学出身である。

その縁で、一橋OBらでつくる「如水会館」において、一時間半の講演をさせてもらった。会場にはお歳を召したOBも多く、実際に戦争を体験した方もかなりおられた。

そんな中で、なぜ日系二世の松藤青年が、敢えて日本国籍を選択して学徒出陣していったか。そして、なぜ祖国アメリカへ特攻していったのかをじっくり聞いていただいた。

太平洋戦争とは、大正生まれの青年たちの戦争である。終戦の昭和20年、大正生まれの青年たちは19歳から34歳だった。つまり太平洋戦争の“主力”として戦った人々である。彼ら大正世代は、太平洋戦争で実に200万人が戦死している。

太平洋戦争に対する見方はさまざまだ。私には私なりの捉え方がある。その一端を講演では話させてもらった。講演後の反応は、ありがたかった。「感激した」「初めて聞く歴史観だった」と、いろいろな感想をいただくことができた。

毅然と生きた人々の姿を描く私のノンフィクションでは、作品に私自身の「私情」は交えない。ただ、証言、日記、手記、史料、関係者の告白……等々を集め、「事実」だけを書くことに徹する。事実にこそ感動が存在するからである。あとは、読者に判断を委ねるのが私の基本姿勢だ。

そのため、作品そのものの話をさせてもらう機会は、書く人間にとってありがたい。作品には書いていない私自身の思いも遠慮なく語ることができるからだ。

玉砕の戦場で突撃を繰り返し、子孫を残すこともなく死んでいった大正生まれの若者。そして、物言わず逝った彼ら戦友の無念を胸に、戦後、がむしゃらに働きつづけた大正の青年たちが第一線から退いた時、日本は“20世紀の奇跡”とまで言われる経済成長を成し遂げていた。

“大正100年”を迎えた今年、私は日本の復興とは、あの大正世代の生きざまを思い起こすことから始まると思っている。

カテゴリ: 歴史

沖縄取材を終えて

2011.05.29

昨日は、近づく台風の中、夕方まで糸満在住の沖縄戦の生き残り(86)に取材をさせてもらった。米軍と熾烈な戦闘を繰り広げた第89連隊の生還者だ。

現地召集で89連隊に新兵として入ったこの元兵士は、仲間が次々と斃れていく中で戦い抜き、何度も負傷しながら九死に一生を得て、終戦さえ知らないまま昭和20年9月に投降した。

こめかみには、今も米軍から受けた手瑠弾の破片が残っている。潜んでいた壕の中で仲間の死体からわいたウジをよけて水をすするなど、地獄の戦場の中を執念で生き抜いた人物だ。

連隊の中で生還できた兵士は、1割にも満たなかった。1人でも多くの敵を屠(ほふ)るという思いと生きる執念が、この元兵士に地獄からの生還という奇跡をもたらした。

近くこういう生還者の証言をまとめてお届けするつもりだが、つくづく戦闘の凄まじさと生き残ることの難かしさを感じる。それぞれの生還者たちが、自分が生き残ったのは、「運命としか思えない」と語ったのが印象的だった。

夕方、取材を終えて、すぐに那覇空港に向かった。近づく大型台風の影響で東京便が欠航する可能性があるからだ。本来は、本日の帰京予定だったが、急遽、昨晩の便に振り換えて帰京することができた。聞けば、私が那覇空港を離れたあと、風雨は一段と増し、最終便は欠航になったそうだ。

先週の日曜日(22日)に帯広に向かい、釧路、根室、納沙布をまわり、水曜日(25日)に一度帰京したあと、今度は沖縄へ。沖縄本島の戦跡めぐりと取材をあわせると、この1週間の移動距離は、5000㌔を遥かに超えた。

取材の成果を近くお届けできるのが、楽しみだ。

カテゴリ: 歴史

激しい雨の中での式典

2011.05.27

今日5月27日は「海軍記念日」である。私は、沖縄戦の戦史跡を数々めぐり、午後4時からは豊見城の旧海軍壕で開かれた「第49回海軍戦没者慰霊祭」に参加した。近づく大型台風の影響で、途中から雨が激しくなる中での取材だった。

沖縄本島最南端に近い激戦の地・摩文仁(まぶに)の丘には、牛島満・第32軍司令官(陸軍中将)と長勇・参謀長の自決の洞窟が残る。この自決の壕への道が工事中で今日は進入禁止となっていたが、せっかく来たので、封鎖の塀を乗り越えて壕まで行かせてもらった。

太平洋を望む断崖の中腹に牛島中将自決の洞窟はあった。来るべき本土決戦に備え、米軍の消耗と、一日でも長く本土侵攻の時間を遅らせよという大本営の方針に従って戦い続けた牛島中将は、この最南端に近い断崖の洞窟で自決を遂げたのである。

ひめゆりの塔や、運玉森(うんたまもり)といった激戦の地をめぐり、私は、午後4時にやっと49回目を数えた海軍戦没者慰霊祭の式典に駆けつけた。こちらは、沖縄戦で海軍の陸戦隊を指揮した太田実海軍少将の終焉の地である。

「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という有名な電報を送って自決した太田少将終焉の地は、海軍(現在の海上自衛隊)にとっても聖地のひとつである。

激しくなる雨の中、太田少将のご遺族や旧海軍関係者の献花がおこなわれ、海上自衛隊第五航空群儀状隊による弔銃発射で式典は終了した。

戦後66年。生き残った旧軍の関係者の音頭によって、今も慰霊の式典は続いている。彼らの平均年齢も今年、90歳となる。足腰が達者な人々だけしか参加できないため、年々、参加者は少なくなっている。足を引きずりながら、かつての戦友の冥福を祈る姿が印象的だった。

式典が終わった途端、激しい雨が少しやわらいだ。大型台風が刻々と沖縄本島に近づいている。明日は、現地召集された陸軍の第89連隊の生き残りに取材をさせてもらうつもりだ。天候が少し気がかりだ。

カテゴリ: 歴史

雨が降り始めた那覇

2011.05.26

今日は、沖縄の那覇にやって来た。昨日いた納沙布岬から3000キロ近く西南にあたる。気温が摂氏3度から5度にすぎなかった根室半島に比べ、沖縄の本日の気温は摂氏27
度である。

日本列島の大きさというものをつくづく感じさせてもらった。梅雨のない北海道と、すでに梅雨の真っ只中にある沖縄。あまりに鮮やかで、大きな差に、とても両者が同じ国にあるとは思えなかった。

夜、自衛隊のさる幹部と食事をした。沖縄が抱えるさまざまな問題をいろいろと教えてもらった。明日5月27日は、戦後66回目の「海軍記念日」である。多くの旧軍関係者も、明日の式典に備えてここ沖縄に集結して来ている。

夜遅くになって、那覇は雨が降り始めた。台風も近づきつつある。明日のさまざまな式典は、雨の中でおこなわれることになるかもしれない。しかし、それも風情があるだろう。

今年は、「大正100年」であり、同時に太平洋戦争「開戦70周年」にあたる。実に200万人を越える戦死者を出した大正生まれの若者の“無念”と“潔さ”を思いながら、明日の記念日をジャーナリストとして、そして日本人の一人として見守りたい。

カテゴリ: 歴史

北海道・帯広にて

2011.05.22

今日は、北海道の帯広に来ている。明日、こちらで講演があるが、事前に帯広でお会いしたい人がいたので、1日早く帯広入りした。

お会いしたかったのは、サイパンの生き残りの元兵士(88)である。玉砕の戦場となったサイパンの戦いを生き抜き、昭和19年7月にサイパン守備隊が全滅した後、1年半も同地で抵抗を続けた元兵士である。

今年、封切りされた竹之内豊主演の「太平洋の奇跡―フォックスと呼ばれた男」もサイパンの戦いを描いた映画だったが、今日、お会いした元兵士も同島のまったく別の地で長期の抵抗を続けた人物である。

生々しい証言の連続に息を呑むシーンも少なくなかった。経験者でなければ語れない事実の「重さ」にいつもながら驚かされた。

夜は、某通信社の帯広支局長、そして地元の有力者の一人と食事をした。十勝地方の政治経済、あるいは大規模農業についていろいろと教えてもらった。本州の農業と、十勝の広大な大地を使った農業が根本的に異なることを具体的に知った。

いま日本では、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)によって国内農業が打撃を受けるという声が満ちているが、少なくともここ十勝地方の大規模農家はTPPをまったく恐れていなかった。むしろ「大歓迎」なのだそうだ。

これまで高い税金がかけられていた輸出入品の関税が撤廃されるTPPは、補助金と保護政策に胡坐(あぐら)をかいてきた農家こそ打撃を受けるが、経営努力と大規模化を展開してきた十勝の農家はまったく大丈夫だと、この有力者は語った。

これに反対しているのは、国の優遇政策にどっぷり漬かってきた農協関係の連中ばかりだとも言う。「農協は潰れるが、経営の効率化と大規模化を目指してきた競争力のある農家はむしろTPPを喜んでいますよ」と。

この有力者の話によれば、一時、廃れていた林業も復活の兆しがあるという。日本の林業に決定的な打撃を与えてきた外材の流入――しかし、ここ数年、地球温暖化などの環境問題を理由に世界的に「切る林業」から「育てる林業」に変わってきたため、外材の流入自体が少なくなり、十勝の林業も持ち直しつつあるという。

時代の変化に必死で対応しようとする地方の農林業のあり方は勉強になる。そこには、東京では聞けない地方の本音がある。日本の農業の本来のあり方と共に、今後のTPPの行方に注目していきたい。

カテゴリ: 歴史, 農業

「茶を噛みて 明日は行く身の 侘び三昧」

2011.05.16

今日は、「惜別の歌」の作者・藤江英輔さん(85)と一緒に、茨城県土浦市の料亭「霞月楼」に行ってきた。藤江さんには一昨年、私が上梓した「康子十九歳 戦渦の日記」の取材で大変お世話になった。私にとっては、大学の先輩でもあり、かつての職場(新潮社)でも先輩という尊敬する存在である。

霞月楼は、戦時中、土浦海軍航空隊をすぐ近くに控え、海軍の幹部たちに特に愛された料亭である。連合艦隊司令長官・山本五十六も贔屓にしたこの料亭は、太平洋戦争末期、海軍の青年士官たちが娑婆への未練を断ち切るために数多く訪れた。

店に残る屏風には、死地に赴く青年士官たちが残した文章や歌が、今も残っている。今日は、藤江さんのたっての願いで、その屏風を女将がわざわざ出してくれた。

「茶を噛みて 明日は行く身の 侘び三昧」。そこには、そんな歌が走り書きされていた。そして、別の筆跡で、“下の句”がこう記されていた。

「猿は知るまい 石清水」

薄れかかってはいるものの、達筆な墨字は、今もはっきりと読み取れた。藤江さんは今から40年以上前の昭和45年、この霞月楼に一度、来たことがある。その時に、この屏風と出会い、今日が2度目の“対面”だったのだ。

藤江さんは屏風を前にして、私に「君にこの屏風を見せたかったんだ」と語った。君にはこれを見て、「明日は死ぬ」という当時の若者の気持ちを知って欲しかった、と。

私は、つい2週間前に、ここ土浦海軍航空隊でも基礎訓練に励んだ松藤大治・海軍少尉を描いた歴史ノンフィクション「蒼海に消ゆ」を刊行したばかりだ。松藤少尉は、祖国アメリカに特攻していった日系2世である。

生と死の狭間にいた若者の気持ちを藤江さんと私は話し合った。この下の句が表わしている「猿」とは、いったい何を指すのだろうか、と。どうにもならない時代の流れを「猿」と表現したのか、それとも国家そのものを指しているのか、あるいは、自分の上官などの特定の個人のことを指して「猿」と表現したのだろうか、と。

もちろん、答えはわからない。この歌を詠んだ本人にしかそれはわかるまい。だが、私のような後世の人間にもわかることは、これを書いた若者のように、さまざまな思いを胸に呑みこんで多くの青年が死地に赴いていったという厳然たる「事実」だけである。

カテゴリ: 歴史

人々の心を打つ芯とは

2011.05.13

昨夜は、新刊の「蒼海に消ゆ」の取材でお世話になった三人の一橋大学OBに感謝の宴会をさせてもらった。主役の松藤大治さんの剣道部のライバルだった杉本一郎さん(89)と、大学の一年後輩にあたる河西郁夫さん(88)、そして一橋大学剣友会の加藤順さん(63)の三人である。

担当の編集者である高田功さんを交え、都合5人の宴会となった。取材でお世話になった一橋の方々のお元気さには、改めて驚かされた。

昨今の日本人の中には、勝ち馬に乗ることばかりを考え、目先の利益しか目に入らず、些細なことに右往左往する人が少なくない。しかし、「蒼海に消ゆ」の主人公で、米カリフォルニア生まれの日系2世・松藤大治少尉は、「日本は戦争に負ける」ということがわかっていながら、その負ける側の日本の国籍を選択し、自らの命を散らしていった人物である。

その毅然とした生きざまは、現代の日本人の心も必ず捉えると思う。鬼畜米英のスローガンが国中に満ちていた戦時下、松藤さんは「外交官となって、日本とアメリカ両方の役に立ちたい」という希望に向かって突き進んでいた。だが、大きな時代の流れが松藤さんにその希望を叶えさせなかった。

それでも、爽やかに23歳の短い人生を駆け抜けていった松藤さんの存在――この物語を出来るだけ多くの人に知ってもらおうと、昨夜の宴会に参加した全員の意見が一致した。

一夜あけて、今日の午後は、真珠湾攻撃やミッドウエー海戦に参加した歴戦の元兵士(海軍の艦攻の搭乗員)のお宅にお伺いし、時間が経つのを忘れて当時の秘話に聞き入った。90歳とは思えない元気さと記憶の確かさに頭が下がった。

「また何度でも来なさい」と、声をかけてくれたこの元兵士には、これからもじっくりお話を伺わせていただきたく思う。体験者でなければ語ることのできない秘話の中にこそ、人々の心を打つ芯が眠っている。

カテゴリ: 歴史

根本中将“密航の地”と延岡

2011.05.02

昨日は午前中、宮崎県延岡市の周辺で前著『この命、義に捧ぐ』の根本博中将の密航ゆかりの地を見てまわった。東海(とうみ)、土々呂(ととろ)、細島港など、根本中将を送りだした明石元長氏の残したメモに出て来る地名が次々と現われ、感慨深かった。

午後からは、一式陸攻で2度も特攻航空兵器『桜花』を抱いて出撃しながら、2度とも九死に一生を得て帰還した元操縦士に3時間以上にわたって当時のお話を伺った。

特に2度目の出撃は、奄美大島のすぐ近くにある喜界島にグラマンに追われて不時着するなど、まさに生き残ったのが「奇跡」という人物の経験談である。実戦を体験したパイロットでなければとても表現できないリアルな描写の連続で、3時間もの間、息を呑みながら取材させてもらった。

夕方、取材を終えた私は、宮崎空港に向かい、最終便で帰京。久しぶりの東京は、すっかり温かくなっていた。

神宮球場を中心に、学生野球も佳境に入ってきたようで、ここのところ歴史モノにシフトしている私に、「一緒に野球観戦を」と言ってくれる仲間もおり、久しぶりに球場に足を運ばねば、と思う今日この頃である。

カテゴリ: 歴史

福岡から延岡へ

2011.04.30

本日、テレビ西日本の情報番組「土曜NEWSファイルCUBE」で拙著『蒼海に消ゆ』が20分あまりにわたって取り上げられた。

松藤大治・海軍少尉のありしの日の姿が写真と共に描かれ、感動の内容になっていた。スタジオに生出演していた私も、短時間でこれだけのものをつくりあげたテレビ西日本に唸らされた。

放映後、西日本新聞からも取材を受け、地元福岡の糸島高校(当時は糸島中学)出身の松藤少尉への関心の高さが伺えた。私は、その足で福岡を離れ、日豊本線で宮崎の延岡までやって来た。さすがにゴールデンウィークとあって汽車は満席で、切符の確保が大変だった。

明日は、延岡在住の元特攻隊員に取材させてもらうつもりだ。時間との戦いになっている太平洋戦争の戦士たちの証言を、少しでも多く聞きとらせてもらいたいと思っている。明日、お会いする方も80代後半の年齢である。貴重な証言をできるだけ聞き漏らすまいと思う。

延岡と言えば、私の前著『この命、義に捧ぐ』の根本博中将が台湾に向かって26トンの漁船に乗って出航した地でもある。そういう意味では、私にはさまざまな面で思い出深い地だ。

地方には多くの秘話が眠っている。それらを歴史の闇に埋もらせることなく、ひとつひとつを丹念に掘り起こしていきたいと、心より願っている。

カテゴリ: 歴史

ノンフィクション『蒼海に消ゆ』(集英社)発売

2011.04.26

本日、拙著『蒼海に消ゆ 祖国アメリカへ特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯』が集英社から発売になった。特攻で散った日系2世・松藤大治海軍少尉の数奇な運命を辿り、「日本人とは何か」を問うノンフィクションである。

松藤少尉は、1921年にカリフォルニア州サクラメントに生まれ、15歳までここで育った日系アメリカ人だ。やがて父母の祖国・日本に帰り、福岡の糸島中学から東京商科大学(現在の一橋大学)に進んだ秀才だった。

剣道の達人として、あるいはトランペットの名手として青春を謳歌していた彼の夢は、日本とアメリカの間を結ぶ「外交官」になることだった。だが、時代の波濤(はとう)に呑み込まれていった松藤は、昭和18年10月、学徒出陣によって帝国海軍へと入隊するのである。

抜群の成績で零戦パイロットとなった松藤は、「日本は戦争に負ける。だが、俺は日本の後輩のために死ぬんだ」という言葉を残して昭和20年4月6日、沖縄を取り囲むアメリカ艦船に零戦で特攻していく。

アメリカのミシシッピ州やカリフォルニア州、あるいは日本の北海道から九州まで松藤さんを知る関係者を60人以上訪ね歩き、私は最後に松藤さんの思いにようやく辿り着いた気がします。運命に翻弄されながらも、毅然と生きた松藤さんの生涯は、現代の日本と日本人に何を問いかけてくるのでしょうか。

歴史ノンフィクションならではの真実の迫力をお楽しみください。

カテゴリ: 歴史

歴史の“バトン”をつなぎたい

2011.03.28

今朝は、8時50分の鹿児島・鴨池発の垂水(たるみず)行きフェリーに乗って鹿屋(かのや)に向かった。桜島を横目に、錦江湾(鹿児島湾)をフェリーで大隅半島に渡るのは、私も初めてである。

垂水港からバスに乗り換え、大隅半島の真ん中に位置する旧海軍の鹿屋航空基地を目指した。バスで四十分ほどを走ると、「航空隊前」というバス停があった。そこで降りると、目の前は自衛隊の鹿屋航空基地だ。

先の大戦の末期、多くの特攻隊員がこの基地から飛び立ち、開聞岳を通って沖縄へと出撃していった。航空特攻によって戦死した特攻隊員は、海軍だけで、2526名を数える。今は自衛隊が使うこの鹿屋航空基地の史料館には、その2526名の記録をはじめ、多くの特攻関連史料が残っている。

今年、戦争関連の単行本を何冊か出版する予定の私は、今日は史料館の佐藤福男さんのご協力を得て、多くの史料確認をさせてもらい、さらに貴重な証言も得ることができた。また地元の獣医師で、特攻関連の脚本などを書いておられる劇団「かんな」顧問の四元順一さんの案内で、鹿屋市内をまわり、有意義な取材をさせてもらった。

これらの取材結果は、遠からず本としてお目にかけることができると思う。太平洋戦争開戦70周年の今年、さまざまな面で“時間の猶予”がないことをつくづく感じる。

最近、私はご高齢の証言者とお会いして、貴重なお話をいただく度に、歴史の“バトン”を託されているような気がする。その役割をなんとか少しでも果たしていければ、と願う。

カテゴリ: 歴史

比島戦没者慰霊祭にて

2011.03.27

今日は、鹿児島・指宿の花瀬望比公園で行われた第45回比島戦没者慰霊祭に参加した。鹿児島から南へ約50キロ、開聞岳の麓に広がる海岸線の中に花瀬望比公園はある。

47万6千人という比島方面の戦死者を偲び、フィリピンの最北端から1900キロというこの海岸に45年前、同公園が設立された。

昨年、文藝春秋の連載「九十歳の兵士たち」の取材でお世話になったルソン戦線の生き残り、地頭所貞(じとうしょ・さだむ)さんは、私が取材させていただいた3か月後に亡くなられた(享年88)。

文字通り、それが地頭所さんの“最後の証言”となった。あの時、長時間にわたって地頭所さんは日米の正規軍が激突したフィリピン戦線の凄まじさを目の前で再現してくれた。

今日はその時の取材でもお世話になった地頭所さんの夫人・ミツエさんと会場でお会いし、さまざまなお話を伺った。

地頭所さんは「来年はもう来られないかもしれないから」と昨年の慰霊祭で死を予期していたかのようにフィリピンから持ち帰った石を遺族の方々に手渡したという。

戦後66年。直接証言者の生命の灯が次々と消えつつあることを実感した一日だった。明日は、海軍の特攻基地の最前線となった鹿屋に向かう。

カテゴリ: 歴史

降り積もる雪を見ながら

2011.02.14

東京は、しんしんと雪が降っている。午後9時過ぎから積もり始めた雪は、時間が経つにつれ、厚みを増している。いま私は事務所の窓から一面、銀世界になった新宿の街を見つめている。

4月刊行予定の単行本原稿もやっと終わりに近づいている。分量的には、7割から8割といったところか。運命に抗(あらが)うことなく、淡々と生き、淡々と死んでいった一橋大学出身の海軍学徒兵の物語である。

今日もこのまま徹夜で原稿を書くことになるだろう。アメリカに生まれた日系二世でありながら、零戦で沖縄を取り囲むアメリカの機動部隊に敢然と特攻して行ったこの若者が「最後に見た光景」は何だったのだろうか。

私は、23歳で死んだこの若者の戦友たちを訪ね歩きながら、人間の運命の不思議さを改めて感じている。私が今回描くのは海軍少尉(死後、2階級特進で海軍大尉)だが、当時の若者の「死」と向き合った日常はやはり飽食の時代の現代からは想像もできない。

先週公開された映画「太平洋の奇跡―フォックスと呼ばれた男」は、玉砕の島・サイパンで生き抜いた陸軍大尉を描いた作品だ。聞けば、興行成績も順調だそうだ。これは、今の若者が極限状態にいた当時の若者の生き方に関心を持ち始めている証左でもある。

私たちは、いま存在している空間と、歴史という時間軸のちょうどクロスした場所で生きている。空間も、時間軸も、いずれも大切なことに変わりない。現在の日本をつくる礎となった人々を忘れてしまっては、未来というものが決して豊かなものにならないことは言うまでもない。

降り積もる雪を見ながら、多くの貴重な人材を失っていった太平洋戦争という人類の悲劇の意味を私は考えている。

カテゴリ: 歴史, 随感

「春」への道、遠し

2011.02.11

今日は徹夜の合間を縫って大阪に講演にやって来た。日本会議大阪の招きだった。今日の講演テーマは、「毅然たる日本人たれ――御成婚と学習院の奇跡――」である。

2008年出版の「神宮の奇跡」(講談社)で描かせてもらった昭和33年に神宮球場と皇室で起こった「2つの奇跡」についての講演である。建国記念日に相応しいテーマだったかもしれない。

毅然と生きた日本人の姿を描くことを大きなテーマにしている私にとって、最近、歴史関係の講演依頼が多い。

その際、直接、さまざまな人と話し合う機会があると、現在の政権に対する国民の怒りが、マグマのように噴き出し始めていることを感じる。

せっかく関西に来たので、明日も、兵庫県下で87歳の元特攻隊員にお会いして取材させてもらうことになっている。一人ひとりが語ってくれる貴重な歴史証言を、私はひと言も聞き漏らすまいという気持ちで拝聴している。

明日は日本中が大雪だそうだ。「春」への道も、私の「脱稿」への道も、まだまだ遠く険しい。

カテゴリ: 歴史

反骨の女流作家の「死」

2011.02.04

昨2月3日は「通化事件」の65回目の記念日だった。通化事件と聞いて、すぐ答えられる人はよほどの満洲通である。

昭和21年2月3日、八路軍(中国共産党軍)に占領されたかつての満洲国・通化省の通化市でおこなわれた日本人の蜂起と、その後に惹起(じゃっき)された八路軍による日本人居留民に対する虐殺事件である。

犠牲者の数は2千人とも3千人とも言われるが、正確な数はいまだにわからない。無条件降伏と関東軍の崩壊によって治安と秩序が崩壊した満洲で、終戦後、多くの日本人居留民たちが集結してきたのが、朝鮮との国境・鴨緑江にほど近い東辺道と呼ばれた地域の中心都市・通化市だった。

ここでおこなわれた虐殺の実態や日本人居留民たちの蜂起の有様は長く秘密にされてきたが、これを「藤田大佐の最後」(文藝春秋)、「電灯が三回点滅した」(エイジ出版)という2冊の本によって全貌を明らかにしたのが松原一枝という女流作家である。

私はジャーナリストになったばかりの二十代前半、通化事件を調べていたことがきっかけで松原さんと知り合った。私の伯父は、この通化事件で命を落とした日本人の一人でもある。だが、ほかの犠牲者たちがそうであったように、遺体も遺品も何もなかった。

いかに苛烈な事件であったかが窺えるが、そのため、地元高知の伯父の墓には、「何も入っていない」という状態が戦後長く続いていた。謎の事件として歴史の彼方に追いやられていたこの事件は、前出の松原さんの著作2冊によって、全容がほぼ解明されたが、それでも墓には「何もなかった」のである。

私は、通化事件の話を伺いに、当時、世田谷の梅ヶ丘に住んでおられた松原さん宅に何度もお邪魔した。個人的にも大変お世話になり、その後、私が結婚し、家庭を築いた後も、さまざまな面でサポートしていただいた。

旺盛な執筆意欲は衰えることなく、94歳となった昨年も新潮新書から「文士の私生活 昭和文壇交友録」を出版し、その2年前の92歳の時にも「幻の大連」を新潮新書から出版して話題になった。生涯、事実を徹底的に追及するジャーナリストでもあった女流作家だ。

松原さんは、ちょうど満95歳の誕生日となった1月31日に心不全により亡くなった。昨年暮れに病院に夫婦で見舞いに行かせてもらったのが最後になった。

亡くなった翌日、線香をあげさせてもらいに伺ったが、今にも起き出してきそうな様子で横たわっておられる姿を見て、生涯、文筆の道を貫いた「95年の人生」に思いを馳せた。

時代が移り、価値観も変貌し、それぞれの時代に迎合して右顧左眄しながら世の中を泳いでいくジャーナリストや作家は多い。そんな生き方とは無縁の女流作家の生涯だったと思う。

松原さんと知り合ったことをきっかけに、私は伯父の死の状況を事件の生き残りから探り出して「死んだ場所」を特定した。昭和59年2月、厳寒の早暁、25歳になっていた私は、当時まだ未開放地区だった通化市に人民服姿で潜入し、伯父の死んだ場所の「石」を持ち帰った。いま故郷土佐の伯父の墓に入っているのは、私がその時、日本に持ち帰ってきた通化の「石」だけである。

多くの悲劇を生んだあの戦争が遠くなりつつある。貴重な歴史の証言者が確実に喪われているのである。私が「立ち止まっている」わけにはいかない。そのことを思い起こさせてくれた反骨の女流作家の「死」だった。

カテゴリ: 歴史

「歴史」から何を学ぶか

2011.01.27

室蘭と苫小牧での講演を終えて、3日ぶりに夜、東京へ戻ってきた。零下の北海道に比べ、やはり東京は温かい。

それにしても、北海道は路面が凍結しているので、革靴では歩きにくかった。昨夜も、転倒しないように“恐る恐る”苫小牧の夜の街を歩いた。

しかし、私の事務所がある新宿は、1年365日“不夜城”だが、それがいかに特殊であるかが、地方へ行けばよくわかる。雪国へ行くと夜10時を過ぎれば、開いている店はほとんどない。いや雪国に限らず、夜中まで店が開いている地方都市はほとんどない。東京の方が“異常”なのである。

今回の講演では、「歴史に学ぶ~日本人の生きざまとは~」というテーマで話をさせてもらった。拙著「この命、義に捧ぐ」の主人公・根本博陸軍中将の「義」に捧げた人生をはじめ、日本男児として凄まじい生き方をした人物を何人か取り上げさせてもらった。

「日本と日本人はこのままでいいのか」。地方に講演に行くたびに、そういう懸念を口にする人と出会うことが多い。そんな時、「義」のために命さえ投げ出そうとした先人たちの行動を知って欲しいといつも思う。

「義」とは紀元前400年、中国の戦国時代に墨子が説いた概念の中にある。少なくとも二千数百年の歴史を持つものである。なぜ今の世にこそ「義」が必要なのか。多くの方に、拙著をひもといていただければ、と願う。


カテゴリ: 歴史

ご遺族から受けた励ましの言葉

2011.01.20

ここのところ取材と執筆が立て込んでいる。昨日は、締切と取材を両方こなし、夜は新年会に参加させてもらった。また今日は、母校・中大の出身者でつくる「出版白門会」の新年会に講演で呼ばれ、夜はまた執筆に戻って、徹夜状態になりつつある。

年末年始は何かと会合に呼ばれることが多い。作家やジャーナリストも一種の“客商売”なので、招待されればできるだけ顔を出すようにしている。

だが、サラリーマンではないだけに、執筆の時間から遠去かると、今度は本業が疎(おろそ)かになるので、その兼ね合いが難しい。来週も地方講演が入っているが、本業への影響をできるだけ少なくしたい。

本日、昨年の取材でお世話になった戦艦大和の元乗組員(90)が亡くなったという知らせをご家族からいただいた。

昨年10月にお聞きした証言が、文字通り“最後の証言”となった。息子さんよりも年下である私に戦艦大和の最期のようすを生き生きと再現してくれたありし日の姿が思い出される。

さまざまな貴重な証言が時間の壁の向こうに埋もれつつあることを実感する。時間は待ってはくれない。ご家族にお悔やみを言わせてもらった私は、逆に、ご家族から励ましの言葉を受けた。これからも(歴史の)真実をきちんと残していって欲しい、と。

その思いに、ジャーナリストとしてなんとしても応えたい。

カテゴリ: 歴史, 随感

意気軒昂な老兵たち

2011.01.08

今日は、偕行社の賀詞交歓会に招待を受けたので行って来た。偕行社とは、陸軍士官学校出身者たちを中心とする集まりである。

昨年上梓した『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社)では資料収集等で偕行社にお世話になったので、ご招待をいただいたのを機に取材時のお礼を言わせてもらうために参加した。

市ヶ谷の偕行社3階の会議室がぶち抜かれた会場に着くと、白髪の老人たちがすでに200人近く集まっていた。ほとんど80代以上の老兵たちで、私の前の席におられたのは、陸士53期で91歳の元陸軍少佐だった。

途中で私もスピーチをさせてもらって、会場をひと廻りしたが、昭和19年のインパール作戦に参加した中隊長クラスの方もおり、大いに参考になる話をいただいた。

お決まりの軍歌の合唱で会はお開きになったが、拙著を読んでくれていた方々が予想以上に多くて嬉しかった。「よく書いてくれた」「あれは、歴史の秘話だ」と、90歳前後の老兵たちに声をかけられ、自分の祖父に励まされているような気さえした。

昨年、文藝春秋に連載した「九十歳の兵士たち」の取材の時も感じたことだが、歳を感じさせないこの年代の老兵たちの志気には感心する。それぞれが驚くほど意気軒昂なのである。

大学でもたまに講義をしている私には、今の現役学生たちより、この場にいる老兵たちの方が余程パワーを持っていることを感じる。人間本来が持っているもともとの“迫力”や“気力”が違うのかもしれない。

今年も、彼ら大正世代の貴重な歴史証言にじっくり耳を傾ける1年になりそうだ。

カテゴリ: 歴史

日台友情の「花瓶」帰郷へ

2011.01.05

本日(5日)読売新聞朝刊の第3社会面に全6段で、「根本元中将に蔣介石贈呈 “日台友情の花瓶”帰郷へ」というスクープ記事が出た。

これは拙著『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社)で紹介した蔣介石が根本将軍に贈った「花瓶」についての最新情報である。

この国宝級の花瓶を根本家は60年余の間、大切に保管して来たが、これを台湾に「日台友情の証(あかし)」として返還することを決めたというのである。

読売の記事には、『昨年、刊行された門田隆将著「この命、義に捧ぐ」で花瓶の存在が明らかにされたことで、冨田さん(※筆者注=根本将軍の長女)は「日台間にこんな友情があったことを知って欲しい。頂いたものを返すのは失礼なので、永遠にお貸しします」と、帰郷させることを決断した』と書かれている。

拙著が明らかにさせてもらった事実により、“日台友情の証”が60年以上の年月を経て帰郷することになったのは実に感慨深い。歴史ノンフィクションに携わるジャーナリスト冥利に尽きる話である。

根本将軍の生きざまやこの花瓶の存在が両国の間で知られるのは、それが両国国民の永遠の友情を表すものになるからである。

花瓶の“(永遠の)帰郷”を英断された根本家の皆さんに敬意を表したい。


カテゴリ: 歴史

雪まじりの雨の中

2010.12.25

この年の瀬に、まだ取材をしている。本日、昼12時半に雪のまじった横なぐりの雨の中を福岡空港に降り立った。晴天の羽田空港を発ったのは朝10時半だったが、今日は、東京より遙かに福岡の方が寒い。

福岡空港で高速バスに乗り換えて一路、久留米へ。午後2時過ぎから、来年上梓する戦争ノンフィクションの取材で、元海軍少尉(89)=予備学生14期=だった人物に、およそ4時間にわたって貴重な証言をいただいた。

引き止められるのをご遠慮し、やっと元少尉のご自宅を辞することができた時、時計は午後6時をまわっていた。すっかり外は暗くなっていた。文字通り、時間が経つのを忘れる熱のこもった歴史証言だった。

90歳になんなんとする太平洋戦争生還者たちの証言の「価値」は重くなるばかりだ。後世に「正確に事実を書きとめて欲しい」という思いが老兵たちを突き動かしているように思う。

今日の元少尉は、福岡高等学校から東大法学部へ進み、学徒出陣によって海軍に入隊した人物だ。学問の場から戦場へ――多くの戦友が特攻で命を落としているだけに、後世の世代である私に“ありのままの事実”を必死で伝えようとしてくれているのである。

神風特攻というのは、美化された面が多分にある。だが、彼ら当事者の証言によって伝えられる苦悩と絶望に満ちた現実は、美化されたものより、遥かに哀しみと感動を湧き起こしてくれる。

明日も飯塚市で元零戦パイロットに取材する。年末年始で時間がなくなくなるのは惜しいが、できるだけ年内に貴重な証言を押さえておきたい。

カテゴリ: 歴史

留まっている時間はない

2010.12.16

今日は、第7代台湾総督明石元二郎のお孫さんである明石元紹さん(76)が事務所を訪ねてきてくれた。拙著「この命、義に捧ぐ」の重要登場人物でもある。

実際の年齢より10歳以上若く見える明石さんは、今上陛下のご学友でもある。「この命、義に捧ぐ」が“第19回山本七平賞”を受賞した際、その受賞パーティ(11月)でもユーモア溢れた絶妙のスピーチをしていただいた。

明石さんにはいつもお願いごとばかりしているが、今回もいろいろ相談に乗ってもらうことにした。次作のことも含め、さまざまな問題で参考になる考えをお聞かせていただいた。

ご意見を聞いて、来年に出す新作も感動的な作品になることを確信した。「歴史を風化させてはならない」ことは誰もの願いだ。

ノンフィクションにとって最大の敵は、時間の壁である。多くの証言者が闇に埋もれたまま、次々と幽明界(さかい)を異にしている。すべてがそうなってからでは、もう遅い。

後悔しないためにも、この年末も、ひたすら私は取材をつづけている。来年はいったい何冊の本が書けるだろうか。

明石さんと話をしながら、次々と作品のヒントが浮かんできた。留まっている時間はない。前進あるのみである。

カテゴリ: 歴史

開戦記念日に思う「官僚」の驕りと怠慢

2010.12.08

今日は、太平洋戦争開戦の記念日だ。69年前の今日、日本海軍はハワイの真珠湾を奇襲し、日米の戦端が開かれた。

私は今年、文藝春秋での短期集中連載を含め、90歳を前後する老兵たちを40人以上取材させてもらった。大正生まれの兵士たちが私に伝えてくれた凄まじい気迫と闘志に、取材の途中で何度も息を呑んだものだ。

玉砕の戦場で命を落としていった彼らの姿を思うと、後世の人間として胸が痛くなる。特に、学徒出陣によって学問の世界から殺戮の地に身を投じざるを得なかった彼らの無念はいかばかりだったか、と思う。

それと共に、開戦にあたって外務省が犯した致命的失態も忘れてはならないと思う。日本がアメリカに敗れた原因のひとつとしてワシントン大使館による「対米通告遅延事件」があるからだ。

結果的にアメリカへの通告が1時間遅れたことで、真珠湾攻撃は“不意打ち”となり、その卑怯な方法がアメリカ国民の怒りを爆発させたことは周知の通りだ。

すでに明らかになっているように、それは日本のワシントン大使館員の“怠慢”という名の大失態によるものだった。

東京の外務省はこの時、覚書を14通の暗号電報に分け、最初の13通は前夜までに大使館に到着させている。しかし、「交渉打ち切り」を宣言する最後の覚書(14通目)は機密保持のため翌朝到着とした。

驚くべきは、当のワシントン大使館員たちの緊張感のなさである。後に出世して事務次官に上り詰める奥村勝蔵首席一等書記官は、タイプによる清書をせずに大使館を出て、そのまま寺崎英成一等書記官の南米転勤の送別会に出席している。

事務総括だった井口貞夫参事官(彼ものちの事務次官)も同様だ。わざわざ解読作業をおこなっている若手の外交官たちを誘って寺崎氏の送別会へ出かけている。

翌7日(アメリカ現地時間)は日曜日だ。朝、14通目の「最後通牒」を受けても大使館員は教会に礼拝に出かけるなど、慌てる様子もなかったという。

奥村書記官が先に到着した13通のタイプをスタートさせたのは、午前9時頃からだったと言われる。そして、すべてのタイプが完了したのは午後1時50分頃。野村吉三郎、来栖三郎両大使がハル国務長官に対して、交渉打ち切り通告文を手渡したのは、その30分後の午後2時20分のことだった。

だが、その約1時間前の午後1時25分に、すでに日本海軍は真珠湾攻撃を開始しており、対米通告は「間に合わなかった」のである。ちなみに、命令で指定されていたアメリカへの「通告時間」は、午後1時だった。

一連の経緯の中で際立っているのは、大使館員たちのノー天気ぶりである。ハル・ノートによって日米開戦は不可避とまで言われていたまさにその時、当のワシントンの大使館員たちに“使命感”も“危機感”もまるで感じられない。ただ駐在外交官として「目の前の生活を楽しむ」ことしか考えていないかのようなのだ。

しかも、この大失態に対する徹底検証はおこなわれず、責任問題を不問に伏したまま奥村・井口両氏は、経歴に傷がつくこともなく、のちに外務省で最高の出世を遂げている。

いつの時代も、官僚には“驕り”と“怠慢”という言葉がついてまわる。省益や局益のみに奔走し、国民の奉仕者であることを忘れた官僚たちの真の姿を、日米開戦のこの記念日にもう一度、思い起こしておく必要があるかもしれない。

カテゴリ: 歴史

悲劇と感動の日系人物語

2010.12.05

サクラメントでの取材が続いている。昨日は、当地の本願寺別院に集まった日系人およそ100名を前に、私の取材している内容について話をさせてもらい、情報を求めた。

何人かが貴重な証言をしてくれた。さらに午後からは当地の「SAKURA GAKUEN(桜学園)」に通っていた老婦人たち3名を取材した。

差別と偏見と戦いながらも、楽しかった戦前の日々を語る2世の老人たち。日系社会が第2次世界大戦前にアメリカの地で、しっかりと根をおろしていたことがわかる。

取材の途中で寄った市の中心部を流れるサクラメントリバーには、客船が停泊していた。こんな内陸まで川を客船がさかのぼってくるなど、日本ではとても考えれられない。聞けば、貨物船はさらに上流までのぼっていくという。

日本とは「国の規模が違う」ことをこのカリフォルニア州の州都は、日本からの訪問者に語りかけてくれる。

初めて同地を訪れた明治生まれの日系1世たちは、見るもの聞くものすべてに度肝を抜かれたに違いない。

まじめにこつこつ働くことだけで信用を勝ち取っていた日本人たちが過ごした当時の日本人街も、今ではビルが建ち並んでかつての面影はない。

ここから戦前に日本に戻り、そして戦争に巻き込まれていった日系の若者たち。その悲劇と感動の物語を私は後世に残さなければならない。

カテゴリ: 歴史

雨のサクラメントに

2010.12.03

雨のサクラメントにやって来た。カリフォルニア州の州都なのに、意外なほどこじんまりした歴史都市である。

明治の昔から多くの日系移民がこの地に降り立ち、新生活をスタートさせた。今回、私が描くのは、この地で大正10年に生まれた日系2世である。

夕方には、日系移民の歴史に詳しい大学の教授を取材し、明日はいよいよ関係者めぐりとなる。取材も佳境を迎えている。

それにしても凄まじい人種差別の中、日系移民が辿った悲劇の歴史には溜息が出る。特に、時代に翻弄され、戦争の渦に巻き込まれていく日系の若者の姿は哀れというほかない。

この地の戦前の出来事を詳しく語ってくれる大学教授の話を聞きながら、有色人種がこの“自由の国”で被った多くの悲劇に思いを馳せざるを得なかった。

カテゴリ: 歴史

日系人が歩んだ苦難の歴史

2010.12.02

メンフィスからオックスフォード、そしてメンフィス……通訳をお願いしている田中さんの借りてくれたRV車で、往復200キロ近い道のりをすっ飛ばして取材に行ってきた。

86歳のご老人は、奥さんとお嬢さんと共に、私を自宅で待ってくれていた。3時間余にわたる取材だった。昭和20年4月に亡くなった零戦パイロットであるお兄さんのことを生き生きと語ってくれた。

ご高齢ゆえに記憶の曖昧なところも多少はあった。しかし、戦前、戦中、戦後の日系人が歩んだ苦難の歴史を誇張をまじえることなく氏は淡々と話してくれた。

子孫を残すこともなく、わずか23歳で“非業の死”を遂げた兄の短かかった生涯。どうにもできない時代の流れの中で、自らの運命を淡々と受け入れた当時の若者たち。彼らの胸中を知るために、貴重な証言だった。

取材後、メンフィスに戻った私たちは、エルヴィス・プレスリーの故郷でもあるこの地で、彼の名を冠したレストランで食事した。

今回の訪米の大きなヤマをひとつ越えた。貴重なノンフィクション作品となりそうだ。明日は、デンバー経由でカリフォルニア州のサクラメントに飛ぶ。

カテゴリ: 歴史

「山本七平賞」受賞パーティー

2010.11.17

昨日(16日)は、帝国ホテルで「第19回山本七平賞」の受賞パーティーがあった。集英社から今年4月に上梓した拙著「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」が受賞作だった。

会場には、取材でお世話になった方や出版関係者に多数来ていただいた。選考委員の山折哲雄先生、ジャーナリストとして大先輩の櫻井よしこさん、第七代台湾総督・明石元二郎の孫にあたる明石元紹さんにスピーチをいただいた。乾杯のご発声は、渡部昇一上智大名誉教授だ。

私が表現しようとする“毅然とした日本人像”について心のこもったスピーチがつづき、胸を熱くした。根本博・元陸軍中将の死去から今年で44年。根本将軍が命をかけて戦った金門島の古寧頭戦役からも、61年という気の遠くなるような歳月が経つ。

時間の壁、国境の壁、人種の壁……ノンフィクション作品の成立までには“大きな壁”がいつも立ちはだかってくる。

しかし、埋もれた“真実”を掘り起こすことのできる喜びは何ものにも代えがたい。それはジャーナリストに特有の感情に違いない。

来年、最低でも「3作」のノンフィクションを上梓することを私はスピーチで話させてもらった。一度口に出した以上は守らなければならない。明日からまた精力的な取材の日々に入る。月末からのアメリカ取材で、次作の材料をどこまで集められるか、私にとっては早くも正念場だ。

カテゴリ: 歴史

大正世代の「日本の若者」が成し遂げたもの

2010.11.13

今日は招待状をいただいたので、新宿に映画を観に行った。ドキュメンタリー映画「442 日系部隊アメリカ史上最強の陸軍」(すずきじゅんいち監督)である。

今月末からアメリカへ太平洋戦争時の日系人の取材に行く予定の私にとっては、どうしても「観ておかなければならない」ものだった。

作品は、予想以上の出来栄えだった。すずき監督の前作で、戦争時、日系収容所で写真を撮り続けた写真家・東洋宮武を描いた「東洋宮武が覗いた時代」より感動と説得力が遥かに増したドキュメンタリー映画と言える。

ヨーロッパ戦線で闘い抜き、その勇猛果敢さでアメリカ陸軍史上最強の部隊とも称されるようになった日系人部隊「第442連隊」。敵と戦うだけでなく、アメリカ国内の日系人に対する偏見とも戦った同部隊の凄まじい活躍ぶりは、これまで幾度も報じられてきた。

しかし、この作品は60有余年の歳月を経て、改めて当事者の直接証言を集め、真っ正面から442部隊の戦いぶりと苦悩を描き出した。

ドキュメンタリーの中には多くの驚きがあった。アメリカ陸軍史上“10大激闘”と呼ばれる442部隊によるテキサス大隊の救出劇。北フランスでドイツ軍に包囲されて孤立したテキサス大隊217人を救出した442部隊は、救出者の4倍近い814人の死傷者を出した。

アメリカのほかの部隊がどうしても救出を成功させられなかったこの戦いで、なぜ442部隊は勝利したのか。それは、実にシンプルな理由だった。山の上から攻撃してくるドイツ軍に442部隊は、突撃に次ぐ突撃を敢行したからである。戦友の屍(かばね)を乗り越え、乗り越え、ついに敵中を突破した442部隊は、テキサス大隊の救出を果たしたのだ。

その後も数々の武勲を上げる同部隊の戦いぶりを映像で見ながら、私はこの1年、文藝春秋の連載「九十歳の兵士たち」で、全国各地でお会いした40人を超える日本軍の元兵士たちを思い浮かべた。

彼ら大正生まれの日本男児の闘志と勇気は、海を越えた日系2世もまったく同じだった。太平洋戦線での玉砕戦で、日本軍は突撃に次ぐ突撃を何度も繰り返している。それが遠く離れたヨーロッパ戦線でもおこなわれていたのである。

アメリカで育った日系2世とはいえ、それは、明治生まれの両親(日系1世)を持ち、日本人が持つ「恥」と「誇り」そして「名誉」の意識を「身につけていた」からではなかったかと思う。

442部隊と戦ったドイツ兵が、その勇猛ぶりにいかに驚愕したかは想像にかたくない。撃っても撃っても突撃してくる442部隊によって、ついにドイツ軍の側が撤退を余儀なくされ、包囲されていた米テキサス大隊は“解放”されたのである。

今もフランス戦線で死んだ米軍兵士たちの現地の墓がアメリカ政府によってきれいに管理され、その名誉が守られているシーンもまた感動的だった。

劇場で売られていた映画のパンフレットに評論家の日下公人氏が、「二十世紀における世界最大の事件は、日本人が白人の人種差別に単独で挑戦し、しかも勝ったことだが、それを現在の日本人は気がついていない」と書いていた。

また、同氏はこんな歴史的な事実をさらりと披露している。「その勝利のおかげで、アメリカには、戦後、公民権法ができた。いわば、リンカーンにつづく、二度目の黒人解放である。また、男女同権や少数民族保護が実現した。さらに世界には、有色人種の独立国がたくさん誕生した」と。

大正世代の日本の若者と日系青年たち。過去に対して多面的に光を当てなおしたら、つまり彼らの足跡を淡々と追うだけで、新たな歴史の相貌が見えてくる気がする。

カテゴリ: 歴史

大和沈没から生還した老人

2010.10.21

夜遅く、出張から帰って来た。今回は広島、明石だった。戦艦大和の生き残りに今日も詳細な話を聞くことができた。

すでに歴史上の出来事となったはずの「戦艦大和の最期」を目の前の老人が昨日のことのように話してくれることに不思議な感覚に捉われた。

沈没時、19歳の二等兵曹だったこの老人は、いま85歳。出撃の日、大和の甲板にまで舞い降りてきた桜の花びらを一枚、そっと左胸のポケットにしまった時の心情を老人は淡々と語ってくれた。

沈没の渦に巻き込まれ、いよいよ「死ぬ」というその時、老人は海中で手を合わせ、母親と故郷の光景を思い浮かべた。「ああ、人間ってこんなに穏やかに死ねるんだ」と思った瞬間、猛烈な圧力で海面へ押し上げられたという運命の不思議さ。老人によれば、大和の最期の爆発(誘爆)の水圧に「命を救われた」のである。

駆逐艦「雪風」に救出された時、両足を切断されていたにもかかわらず、生き残った戦友もいた。極限の戦場で彼らの“生”と“死”を分けたものは一体なんだったのか。

大正生まれの元戦士たちの体験談に耳を傾けてきた「文藝春秋」短期集中連載「九十歳の兵士たち」も、今回締め切りの連合艦隊編で、ひとまず終了する。取材も今日の「戦艦大和の生還者」の証言で峠を越えた感がある。

来年、順次、単行本化していく予定だが、凄まじい老兵たちの体験談は、どんな小説や戦争映画でも表現できない真実の重みと迫力があった。

歴史の証言者たちが私に託してくれた「太平洋戦争の真実」を是非、ご期待下さい。

カテゴリ: 歴史

歴史の闇に埋もれる“戦場の真実”

2010.10.10

いま愛知県の豊橋にいる。昨日は三重県内で戦艦大和の生き残りに、今日は豊橋でサイパンの“玉砕の戦場”から生還した元兵士にお会いした。明日も、戦艦大和の生き残りに愛知県内でお会いする。

連日、高齢の元兵士たちに取材させてもらっていると、自分が同時代に生きていたかのような錯覚を感じることがある。妥協なき殺戮の戦場から生還した老兵たちは、人生の終焉が近づいていることを誰もが自覚している。

それだけにひと言ひと言が重く、しかも多くの示唆に富んでいる。私はひと言も聞き漏らすまいと、必死にノートにペンを走らせるだけだ。

今日お会いした老兵は、「人間というのは生きようと思っても生きられず、死のうと思っても死ねない。運命とは不思議なものです」と、しみじみ語った。サイパン島で米軍の銃弾を身体中に7発も受けながら生き残った奇跡の人だ。

何度も玉砕の戦場から生還する話は、「運命」とか「奇跡」という言葉でもまだ軽すぎる気がする。戦後、摘出手術でこの老兵の体内から出てきた米軍の銃弾も見せてもらったが、目の前の人物が「なぜ生きてこれたのか」奇妙な思いに捉われた。

戦後の日本人は、彼ら老兵たちが語る「真実」と沈黙の中に抱き続けてきた「思い」をどこまで生かしたきたのだろうか。歴史の闇に埋もれる“戦場の真実”を聞きとる私の作業は、明日もつづく。

カテゴリ: 歴史

真っ赤な火柱と黒煙

2010.10.07

今日は朝、東京を出て名古屋で駆逐艦「雪風」に乗り組んでいた元水兵(83)にお会いした。

昭和20年4月7日、沖縄への水上特攻で「戦艦大和」が沈没する場面の目撃証言は、息を呑むものだった。真っ赤な火柱が上がり、黒煙がはるか上空まで噴き上がる光景を、老兵は昨日のことのように再現してくれた。

レイテ海戦での激闘も想像以上に凄まじいものだった。雪風は“奇跡の駆逐艦”と称された艦である。何度も激戦をくぐり抜け、ついに終戦まで生き残った。その秘密を老兵は縷々説明してくれた。

老兵たちの生の証言は、文献で読むものとは比較にならない迫真性と衝撃性を持っている。私自身が65年も前に身を置いているかのような錯覚をおぼえた。

明日は和歌山県下で、「戦艦大和」の生還者にお会いする。また新たな迫力ある証言を聞けることだろう。私の“歴史行脚”は時間との戦いでもある。明日、あさって、またその次の日も延々と老兵たちとのアポが入っている。しばらく東京に帰れそうもない。

文藝春秋本誌に連載中の短期集中連載「九十歳の兵士たち」第2回では、「ガダルカナル」「ニューギニア」「インパール」「ルソン」「レイテ」「硫黄島」での陸軍の激闘を描かせてもらった。

来週10日の発売だ。“玉砕の戦場”の真実を語る老兵たちの血を吐くような証言を是非、お読みください。

カテゴリ: 歴史

日本の穀倉地帯にて

2010.10.01

今日から10月。つい先日までの記録的な熱暑がうそのような爽やかな日本晴れの一日となった。私は、太平洋戦争生還者の証言の取材で、朝一番で東京駅から東北新幹線に飛び乗り、宮城県と岩手県の県境に近い宮城県登米市というところまでやってきた。

新幹線の「くりこま高原駅」で降りて、タクシーを飛ばしながら、稲が黄金色の穂をたれた田園風景に見入っていると、運転手が「どちらからですか?」と聞く。「東京から来ました」と言うと随分、驚かれた。

今年の稲はまあまあの出来だそうで、最近は“ササニシキ”よりも“ひとめぼれ”の方が人気があるらしい。ここ日本の穀倉地帯の代表ともいえる地でも、ササニシキは完全に押されているそうだ。

ここのところ雨にたたられていたそうだが、あと1週間ほどで稲刈りはすべて終わるだろうと、運転手は言う。一面黄金色の“壮観”ともいうべき光景を見ていると、日本が稲作によって成り立ってきた国であることを改めて教えられている気がする。

今日お会いした方は、フィリピンや、ガダルカナル島、あるいはビルマ戦線といった“地獄の戦場”から生き残ってきた89歳の元兵士で、明日は、宮城県南部のさる町で、巡洋艦「愛宕」や戦艦「大和」に通信兵として乗り組み、生還した88歳の老兵にお会いする予定だ。

いずれも90歳に手が届こうとする老兵たちであり、ひと言ひと言が貴重で重みのあるものばかりであることは言うまでもない。

ここのところ朝夕が急に寒くなっており、高齢の方々にお会いするのは、私はなるべく「冷え込まない時期まで」にしようと思っている。

太平洋戦争生還者の証言の取材で、この一年(正確には数年だが)、全国各地を旅して来た。後世に自分の体験した「戦争の現実」を伝えようという老兵たちの執念を感じる取材でもあった。

まだまだ証言を残そうという老兵たちは全国に数多くいる。一人でも多くの「歴史の証言」に私は耳を傾けたい。

カテゴリ: 歴史

自責の念を抱き続ける元兵士たち

2010.09.12

「生き永らえたことが、申し訳ない」「私は死ぬべきだった」――本日、福岡県下でお会いできた88歳の「戦艦大和」乗り組みの元海軍中尉は、取材の中で何度もそう繰り返した。

高射砲の分隊長だったこの元中尉の部下は、全部で106名。その内、生き残ったのは元中尉を含めてわずか7名に過ぎなかった。部下たちを死なせて自分が生き永らえたことが、申し訳ないと言うのだ。

大和沈没の渦に巻き込まれ、息絶える寸前で浮かび上がった海面。重油の海からの生還は、88歳になる現在まで元中尉の心から自責の念を消すことはないのである。

あの日、起こったことのすべてを伝えてくれようとする元中尉。“死”を覚悟して自分たちにまっすぐ突っ込んで来る米軍の艦爆機や雷撃機を「敵ながらあっぱれだった」と元中尉は振り返った。

自分の指揮塔の下に250キロ爆弾が命中し、同じ場にいた自分以外の4人の部下が即死した瞬間を語る元中尉は、何度も「部下に申し訳ない」を繰り返した。

10人に1人も生還できなかった極限の戦場。戦艦大和の最期は、太平洋戦争が終わる象徴的出来事でもあった。

生還者の証言には、肉体が飛び散るその瞬間の生々しさがある。人間である以上、“生と死”に対して感慨を抱くのは当然だ。しかし、多くの生還者が自分が生き残ったことに自責の念を抱きつづけていることは、やはり私にとって衝撃だった。

近く取材の成果を詳しく雑誌で報告したい。

カテゴリ: 歴史

歴史の証言は「待ったなし」

2010.09.11

今日、福岡県の糸島市にやって来た。早朝のANA便に乗り、福岡空港に降り立った私は、佐賀県の唐津へと通じるJR筑肥線に乗って、かつて“伊都の国”と呼ばれた田園風景が広がる地に初めて足を踏み入れた。

目的は、この地で暮らし、昭和20年4月6日に沖縄への特攻で23歳という若い命を散らした零戦パイロットの元海軍少尉の生涯を辿るためである。

ゆかりの人を訪ね、その人物の足跡を追う作業は、いつものノンフィクション取材と変わらない。しかし、証言してくれる相手の記憶力や思いの深さによって、そこで描かれる人物はいかようにも変わっていく。

65年という気の遠くなる年月は、やはり人間の記憶を風化させ、ディテールを削ぎ落としていく。しかし、記憶は薄らいでも、それでも“思い”は消えない。今日、糸島でお会いした81歳の老女は、従兄弟だった元海軍少尉の生前の姿を私にしっかりと伝えてくれた。

明日は、同じ福岡県内で、戦艦大和の生き残り乗組員にお会いすることになっている。歴史の証言は「待ったなし」である。

お会いできる日にお会いする。私のモットーのひとつである。「取材に悔いを残さない」というのも、これまた私のモットーのひとつだ。時間との戦いである“全国行脚”は、明日もつづく。

カテゴリ: 歴史

ニューギニア戦線の生き残り

2010.09.05

今日は、昨日につづいて山形県の太平洋戦争“生き残り兵士”にお会いしてきた。ニューギニア戦線から九死に一生を得て生き残った人物である。

共に90歳の老兵二人に対して、上山温泉での都合4時間の取材だった。無惨な戦場で命を落としていった戦友たちと、それを見送りながら自分は飢餓とマラリアの中で生き抜いた驚異的な生命力――。

生き残ったのは「運命」と口を揃える老兵たちの思いは、近く月刊誌誌上で始まる連載で細かく描写させてもらうつもりだ。

埋もれた歴史にどれだけ光を充てられるか、私自身のジャーナリストとしての「使命」も問われている。

カテゴリ: 歴史

熾烈なる沖縄戦

2010.09.04

今日は、はるばる山形県最上郡戸沢村という場所に旧日本陸軍第24師団歩兵第32連隊で沖縄戦を戦った92歳の生き残り兵士に取材に来た。

昭和20年4月から始まった日米両軍の沖縄での激突は、多くの若き命を奪っていった。当時26歳だったこの元兵士も艦砲射撃で瀕死の重傷を負った。すぐ隣にいた部下二人は即死、自身も左顔面、左手、左臀部、大腿部などに大火傷を負いながら、なんとか命だけは繋いだ。

野戦病院での治療、そして米軍を避けての逃避行は、「乞食同然の姿で歩きとおした」ものだった。昭和20年6月23日、牛島満司令官の自決により、組織的抵抗が終わっても、沖縄守備隊によるゲリラ戦は散発的につづき、斬り込み隊による攻撃は、終戦まで延々と続いている。

洞窟で生き抜いたこの元兵士が故郷山形に帰りついたのは、昭和22年のことだ。今も当時のやけどや傷の跡が生々しいが、「この大けがのお蔭で自分は生き永らえた。私が野戦病院に収容された1週間後、部隊は数名を除いて全滅しました」という。

沖縄返還後、すぐに沖縄の戦場の慰霊の旅を始めた元兵士。今も死んでいく兵士たちの声が耳から離れないという。

明日は、同じ山形県の上山温泉で、ニューギニア戦線の生き残り兵士たちにお会いすることになっている。取材は時間との戦いだ。ここ山形でも貴重な歴史の証言をできるだけ多く集めて帰京したいと思う。

カテゴリ: 歴史, 随感

第19回「山本七平賞」の受賞

2010.09.02

本日、都下・府中市で講演を頼まれて、府中市内の企業経営者の皆さんを相手に講演をさせてもらった。テーマは、「マニュアルなき事態に指揮官はどう対処するか」である。副題には、「陸軍中将根本博の場合」と書いてあった。

発売以来、あっという間に7万部を超えた拙著『この命、義に捧ぐ―陸軍中将根本博の奇跡』(集英社)についての講演である。今年の終戦記念日には、フジテレビがドキュメンタリー番組「ザ・ノンフィクション」で大々的に拙著を取り上げてくれたので記憶に新しい人も少なくないと思う。

講演が終わって、切っていた携帯の電源を入れたら、留守電やメールに「『この命、義に捧ぐ』が第19回山本七平賞を受賞しました」という知らせが何本も入っていた。

ちょうど根本将軍の生きざまについて、そして彼のとった行動の歴史的意義について講演させてもらっている最中に、受賞が決まったことになる。

PHP研究所の主催するこの賞は、養老孟司東大名誉教授、中西輝政京大教授、渡部昇一上智大名誉教授ら、その世界の第一人者が選考委員に名前を連ねる権威ある賞として業界で知られている。

その賞をいただけたことは大変ありがたく、感慨深い。泉下の根本将軍もさぞ喜ばれているに違いない。これをきっかけに、さらに一人でも多くの日本人に、かつての毅然とした男たちの生きざまを知って欲しいと思う。


カテゴリ: 歴史, 随感

なぜ人は「志」に心を揺さぶられるのか

2010.08.30

昨日のNHK「龍馬伝」は、この1年間の大河ドラマの最大のヤマ場「薩長同盟」が結ばれる場面が描かれていた。

息を呑む迫力が画面から伝わってきた。幕府の第二次長州征伐を前に滅亡の危機に瀕した長州の桂小五郎は、京都の薩摩藩邸でなかなか到着しない龍馬を待ちわびる。西郷隆盛に向かって、桂は「坂本さんが来なければ、交渉はできない」と、言い放つ。

やっと到着した龍馬が間に立ち、交渉は始まった。もともとはお互いを憎悪の対象としか見ていない犬猿の仲の薩長両藩である。しかし、西郷は、危機に陥った長州を徹頭徹尾、支援する五つの条文を提示する。

桂は、「長州を救うために恥を忍んで僕はここへ来た」と心中を吐露しながらも、「これでは、長州が薩摩の助けを受けるだけのものです。これは対等な盟約ではない」と複雑な胸の内を明かす。「これでは僕は長州に帰れない」と。

その時、龍馬が突然、「ほんなら、こうしませんろうか?」と口を開く。龍馬は薩摩が提案した五つの条文に、もう一つ条文を加えることを提案するのである。そこで龍馬が語り出したのは、「志」だった。

「ここへ来るまでに数えきれん命が失われたがです。薩摩の人らあも、長州の人らあも、もちろん、わしの友にも、死んでいった人間が大勢おるがです。立場は違えど、みんなあ、天下国家のために、“志”を貫き通して、消えていった命ですき」

何を言うのだろうかと龍馬の表情を息を呑んで見守る西郷と桂。龍馬は、二人を見つめて、「ほじゃき、そのもんらあの“志”も、この薩長の盟約に入れてもらえませんろうか?」と、語りかけるのだ。

龍馬の顔を見て、桂が「その一文とは?」と聞く。龍馬は深呼吸をすると、万感の思いを込めて、こう答えた。

「薩長両藩は誠の心をもって合体し、日本のために……傾きかけちゅうこの国を立てなおすために、双方とも、粉骨細身、尽力する」。

顔を見合わせる西郷と桂。龍馬は、「これなら、薩摩と長州は、対等ですろう?」と二人を見据える。

言葉を発せられない西郷と桂。一瞬の間をおいて、西郷が、「なるほど。おいに異論はありもはん」と答え、桂も「僕もじゃ」と、応じる。

「ほんなら、これをもって薩摩と長州の盟約は成ったということで、ええですね」と、龍馬は二人に語りかける。頷く西郷と桂。歴史上、日本の封建時代が幕を下ろし、日本が近代国家に生まれ変わることが事実上、決した瞬間である。

この感動の場面の中でも、特に心を動かされるのは、「みんなあ、“志”を貫き通して、消えて行った命ですき。そのもんらあの “志”も、この薩長の盟約に入れてもらえませんろうか?」と龍馬が語るところだ。

ひとつの出来事に至るまでには、さまざまな打算もあれば、それぞれに思惑もある。しかし、それを超えて存在するのが、「志である」ことを龍馬は二人に土壇場で語りかけたのである。

つまり、龍馬の「志」のひと言に、薩摩と長州が「まとまった」ことをこのドラマは描いている。盟約が成って屋敷から出て来た龍馬は、自分を警護するためについてきた槍の名手で長州藩士の三吉慎蔵に「長州と薩摩はしっかり手を結びましたき」と報告する。

「ついに、ですか! ご念の入りましたあ。坂本さあん!」と泣き崩れる三吉。「坂本さんがいなかったら、わが長州はどうなっていたか」と咽(むせ)び泣く三吉に、「あなたも長州を救った一人ですき」と語る龍馬。男泣きに泣く三吉を龍馬が抱きかかえるシーンは、この大河ドラマを通じての渾身の場面だった。

寺田屋事件では襲撃された龍馬を救うため奮戦する三吉は、幕末・明治を生き抜き、20世紀の夜明けを見て亡くなった長州藩の元重鎮として知られる。龍馬のことを詳しく書き残した三吉の日記は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」をはじめ、数々の名作のもとになっていることはあまりに有名だ。

日本人の“志”をテーマの一つとする私にとっても、実に興味深い昨夜のドラマだった。それにつけても、“志”のかけらも見受けられない「菅vs小沢」の民主党代表選――奇しくも民主党の衆院選大勝からちょうど1年が経った今日、代表選のニュースを見るたびに溜息しか出て来ないのは、私だけだろうか。

カテゴリ: 歴史, 随感

歴史の“風化”に抗う老兵たち

2010.08.27

今日は横浜で硫黄島の生き残り兵士にお会いすることができた。今年90歳になる。昭和19年6月末に硫黄島に上陸し、本格的な米軍との戦闘が続いた昭和20年2月から3月にかけて、凄まじい殺戮戦の中を生き抜いた奇跡の人である。

4時間を超えても途切れることのないお話を伺いながら、私は人間の「運命」というものを考え続けた。損耗率96%という玉砕の島・硫黄島で生き残った老人の体験は、多くの示唆に富むものだった。

組織的戦闘が終わっても数か月にわたってゲリラ戦で抵抗した日本守備隊。太平洋戦争で唯一、死傷者の数が日本軍を上まわった米軍。容赦のない両軍の戦いは、65年の年月を経ても凄まじい迫力をもって私にせまって来た。

これまでお会いしてきたインパール、ガタルカナル、ルソン、レイテ、硫黄島……等々、さまざまな玉砕戦の生き残り兵士たちは、90歳を超えて、遥か年下の私に何を託そうとしてくれているのだろうか。

証言を一語一語噛みしめながら、託された側の私自身の使命というものをどうしても考えてしまう。その期待と思いに応えることができなければ、私と、私の仕事の存在意義はない。

戦後20回以上も遺骨収集のために硫黄島に通いつづけるこの老人を突き動かすのは、あの殺戮戦で斃れた戦友たちへの思いだけである。

戦後65回目の夏を迎えた2010年。歴史の風化に抗(あらが)う老兵たちの闘いは、今も着実に続いていることを思う。

カテゴリ: 歴史, 随感

毅然と生きたかつての日本人

2010.08.15

「台湾」と「台湾海峡」は誰によって守られ、なぜ今も存在しているのか。本日、終戦記念日特集としてフジテレビで放映された「ザ・ノンフィクション」の「父は、なぜ海を渡ったのか」は、その歴史の謎に挑んだドキュメンタリー番組だった。

今から61年前の昭和24(1949)年6月、九州・延岡の海岸から小さな漁船が夜陰にまぎれて静かに離れていった。船が目指すのは、真っ黒な海原のはるか彼方にある台湾。その船には、日本陸軍の元・北支那方面軍司令官、根本博中将が乗っていた。

傍らには、「俺の骨を拾え」と言われて随行を命じられた通訳・吉村是二がいた。蒋介石率いる中国国民党と毛沢東率いる中国共産党との「国共内戦」が、まさに決着を迎えようとしていたこの時、二人は蒋介石を助けるべく密航を敢行したのである。暴風雨や座礁という数々の困難に遭遇しながら出航から2週間後、二人は台湾へ辿り着く。

根本には、終戦時、蒋介石に言葉では表せぬほどの恩義があった。昭和20年8月15日、終戦の詔勅が下された時、根本は駐蒙軍司令官として、内蒙古の張家口にいた。

天皇の終戦の詔勅、すなわち武装解除命令は、アジア各地で戦う全軍に指令され、ただちに実行に移された。満州全土を守っていた関東軍も山田乙三司令官がこの武装解除命令に応じ、そのため全満州で関東軍の庇護を失った邦人が、虐殺、レイプ、掠奪……等々、あらゆる苦難に直面することになる。

しかし、満州に隣接する内蒙古では、根本司令官による「武装解除命令には従わない。責任は私一人にある。全軍は命に代えても邦人を守り抜け」という絶対命令によって、激戦の末、4万人もの邦人が、ソ連軍の蛮行から守られ、北京、そして内地まで奇跡的な脱出・帰還に成功した。

その「4万人の脱出」が成功した時、これを戦勝国側で守ってくれたのが、蒋介石率いる国民政府軍にほかならなかった。4年後、国共内戦に敗れ、大陸から撤退し、いよいよ金門島まで追い込まれた蒋介石を助けるために根本はその時の「恩義」を返すために、「密航」を敢行したのである。

自分を助けにやってきた根本の命を捨てた行動に感激した蒋介石は、根本に「林保源」という中国名を与え、根本らは金門島に赴く。そして、林保源将軍こと根本博は次々に作戦を立案し、押し寄せる共産軍に立ち向かった――。

番組の中では、私自身が金門島でおこなった取材の一端も紹介されていた。実際の金門戦争に参加した80歳を超えた老兵たちに600枚のビラを配って情報提供を呼びかけるさまもテレビで映し出された。

映像を見ながら、炎暑の中、ひたすら取材をつづけた日々を思い出した。拙著「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」(集英社)はすでに7万部を突破している。いまこれほど、かつての決然と行動した日本人の姿が話題になるのはなぜなのか。

「義」とは何か。人間にとって「生と死」とは何か。飽食の時代である「現代」だからこそ、一人でも多くの方に毅然と生きたかつての日本人の姿を知っていただきたいと心から願う。

カテゴリ: 歴史, 随感

明日「終戦記念日」のフジTV「ザ・ノンフィクション」

2010.08.14

明日8月15日は、戦後65回目の終戦記念日である。ちょうど日曜日のこの日、フジTV「ザ・ノンフィクション」で午後2時から「父は、なぜ海を渡ったのか」が放映される。

拙著「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」(集英社)をもとにした1時間のドキュメンタリー番組である。

終戦後、武装解除命令を敢然と拒否して、押し寄せるソ連軍と激戦を展開し、内蒙古の在留邦人4万人の命を救った根本博中将。この時、邦人救出と日本への帰還を手助けしてくれた蒋介石に対する恩義を返すため、4年後、根本中将は26㌧の漁船で台湾に密航し、国共内戦に身を投じた。

殺到する中国共産軍を金門島で殲滅するまでの紆余曲折は拙著をお読みいただきたいが、台湾と台湾海峡を守ったこの根本将軍の関係者が今回、テレビカメラの前で証言し、これまで歴史に埋もれていた事実に光を充てる。

注目は、昨年10月25日、金門島・古寧頭戦役60周年の記念式典の場面だ。台湾の馬英九総統が、根本将軍と共に渡台した関係者のご子息にわざわざ声をかけにくるシーンである。

60年前、命を捨てることを厭わず、「義」に殉じようとした日本人。果たしてテレビ・ジャーナリズムがこれをどう描くのか。楽しみだ。

カテゴリ: 歴史, 随感

太平洋戦争“生還者”の証言

2010.08.03

北海道へ出張に行き、昨夜帰ってきた。札幌に行く機会があれば、是非、お会いしたいと思っていた人とも会うことができた。

今年92歳になるガタルカナル島の生き残りである。昭和17年8月から翌年2月にかけて、ソロモン諸島のガタルカナル島で繰り広げられた死闘は凄まじい。ガ島ならぬ“餓島”、あるいは“日本陸軍の墓場”とまで呼ばれることになった地獄の島での戦いである。

札幌でお会いすることができたのは、ほぼ全滅に近い状態となった一木支隊(歩兵第28連隊)の生き残りだ。旭川の第七師団を昭和17年5月に出発して、翌年7月に帰還するまでの1年2か月の経験を4時間近く伺うことができた。

飢餓とマラリア、そして米軍との戦闘で戦友が次々と斃れていく中、この人はなぜ助かったのか。多くの戦友の中でたった一人、生還したこの人物の証言は重く、示唆深いものだった。

高齢となった多くの元兵士たち。太平洋戦争“生還者”の貴重な証言の数々は、近くお届けできると思う。

それにしても北海道はやはり涼しい。都市熱で、夏はとても人間の住む場所ではなくなった東京にいると、北海道が羨ましい。喘ぐような暑さの東京に戻ってきて、また原稿用紙に向かう日々がつづく。夏の東京は、根気と体力との勝負である。

カテゴリ: 歴史, 随感

特攻と「生と死」

2010.06.16

今日は、鹿児島中央駅から朝7時51分発の列車に飛び乗った。まわりは、高校生たちばかりだ。通学列車である。これに乗って、薩摩半島の突端にある開聞(かいもん)へ向かう。

指宿の次の山川駅が列車の終点だった。仕方なく、そこでタクシーをチャーターし、開聞の海岸線にある「花瀬望比(はなせぼうひ)公園」へ向かった。

太平洋戦争で日米の陸軍の正規軍同士が激しい戦いを繰り広げたフィリピン。ルソン島・レイテ島などで日本軍は四十万人以上の戦死・戦病死者を出して、敗北した。

その犠牲者を追悼する地が花瀬望比公園である。はるかフィリピンの方角を望む母子の像や、兵士たちの像が立っている。

真っ青な太平洋の海原と薩摩富士と呼ばれる開聞岳がマッチし、爽やかさと厳かさを併せ持った公園だった。

この夏から始める某月刊誌の連載の取材で、太平洋戦争のゆかりの地を訪ね、90歳を前後する生還者たちに話を伺っている。

鹿児島は、ルソン・レイテ両島で死闘を展開した陸軍の第71連隊があった地であり、また沖縄戦で特攻していった戦闘機乗りたちが根城にした飛行場が、いくつも存在する。要するに、太平洋戦争で多くの犠牲者を出したのが、ここ薩摩なのである。

幕末、西南戦争、日清・日露戦争、そして日中戦争から太平洋戦争へ。それぞれの戦争で、薩摩はいつも先頭で戦い、多くの犠牲者を出してきた「歴史」を持っている。つまり、戦争を描く時に必ず訪れておかなければならないのが薩摩なのである。

私は開聞のあと、知覧に向かった。知覧では特攻ミュージアムに赴き、19歳、20歳で死んでいった特攻隊員たちの遺書や寄せ書きを見た。特攻という手段は、美化されがちだが、これほど理不尽な戦闘手段が美化されるべきではない、と私は思う。

昨年出版した「康子十九歳 戦渦の日記」(文藝春秋)で私は書いたが、この本の主役・粟屋康子さんは当時、「特攻に行く人は誇りです。でも、それを強いるのは国の恥です」と、ズバリ語っている。「特攻はあくまで目的であって、手段であってはならないと思うの」とも康子さんは特攻を志願しようとする若者に対して語っている。

私は、特攻で死んでいった若者に深い敬意を払う人間だが、それでも、この「特攻という手段」を敢えてとった軍の上層部たち、すなわち「軍官僚たち」に怒りを覚えずにはいられない。

月曜日(14日)に鹿児島市内でお会いした元零戦の搭乗員(海軍)は、こんな秘話を明かしてくれた。過去に1日の空戦で実に敵機「13機を撃墜」したことがある歴戦の飛行士が仲間への特攻命令に対して、こう怒ったというのだ。「なぜ爆弾をハンダづけするんだ! オレたちは一度だけでなく、何度でも出撃して敵船を沈めてやる。こんな(一度だけの攻撃で終わるという)無駄なことをさせるな!」と。

知覧から出撃していった陸軍の特攻隊員たちは、そういう反抗もないまま黙々と“任務”を遂行していったという。特攻ミュージアムの中に飾られている出撃直前の底抜けに明るい若者たちの笑顔を見て、改めて人間にとって「生と死とは何か」ということを考えさせられた。

カテゴリ: 歴史, 随感

いよいよ「真価」が問われる

2010.06.14

出張先の鹿児島でサッカーの日本vsカメルーン戦をテレビ観戦している。岡田監督への反発からチームがまとまり、開き直った日本が1対0でカメルーンを破った。

フィジカルな強さを発揮するカメルーンに闘志を剝き出しにしてぶつかっていく日本選手たち。しばらく勝ち星のなかった日本が、執念で勝利をもぎとった。

「(監督を)投げ出すことは絶対にない」「(進退伺いは)冗談だった」。先月25日、韓国戦に惨敗後、そう言って日本中のサッカーファンを絶句させた岡田監督が、この勝利に最も胸を撫で下ろしたことだろう。

一昨日の当ブログで「日本に失望以外の何がもたらされるだろうか」と書いたが、チームの団結があの岡田監督の“無責任発言”以来、逆に高まってきたようだ。土壇場まで追い詰められた逆境でこそ、チームワークが培われたのだろうか。

「いい準備をしてきた。それに神様がご褒美をくれたということだろう」と試合後、本田圭佑は語ったが、オランダやロシアで武者修行をつづける男らしいコメントだった。そのオランダとの対決で、いよいよ「本田の真価が問われる」わけである。

さて、ここ鹿児島で、今日は85歳の零戦の元パイロットにお会いした。尽きることのない元パイロットのお話は、夕食を挟んで8時間もつづいた。

話の濃さもさることながら、次々と具体的なエピソードが飛び出す元パイロットのお元気さに舌を巻いた。太平洋戦争の元戦士たちの貴重な証言は、いずれご紹介できると思う。

カテゴリ: サッカー, 歴史

不穏な空気が世界全体を覆い始めている

2010.05.20

今日は、“歴史の証言”を訪ねて長野まで行って来た。

今夏94歳になる零戦の元飛行士である。真珠湾攻撃に参加し、ミッドウエー海戦でも九死に一生を得て、ガタルカナルの戦いでは、敵機ともつれあいながら同島に墜落している。

生きていたのが不思議な状況の中、その度に“生還”してきた人だ。氏の話を伺いながら、人間には「運命」というものがあることをつくづく考えさせられた。

それと共に、殺し合いの無意味さと平和の尊さを必死に訴える氏の姿に心が動かされた。だが夜、東京へ帰ってきたら、韓国の哨戒艦が北朝鮮の魚雷によって沈没していたことが「正式に発表された」というニュースが流れていた。

当ブログでも指摘してきた通り、いよいよ“一触触発”の事態である。「韓国の捏造」と主張する北朝鮮の言い分に耳を傾ける人は国際社会で皆無だ。

この事件では、なんの罪もない韓国兵士たちの命が46人も喪われている。かつて北朝鮮がおこなった大韓航空爆破事件やラングーン事件などの暴挙が思い出されるが、彼らは、過去自分たちがやってきたことを反省することすらない。

北朝鮮国内の飢餓状態への兵士たちの怒りと焦りが、今回の魚雷発射に現われていると、私は思う。すでに金正日による軍部への統制が崩れ始めているという見方もできる。

暴発の予兆というべきか、それとも、これは「宣戦布告」なのか。北が“攪乱”のためのテロ行為に走り始めた場合は、東京も無傷ではいられまい。

ニューヨーク株式市場が崩れ始めたという深夜のニュースを聴きながら、不穏な空気が世界全体を覆い始めていることを感じる。


カテゴリ: 歴史, 随感

死して「名」を残す

2010.05.13

夜、出張先の鹿児島から帰ってきた。ぎりぎりまで有意義な取材ができたと思う。

鹿児島市内で取材の合間に、西郷隆盛と大久保利通の生誕の地に行ってみた。二人の生誕地はわずか200メートルほどしか離れておらず、“維新三傑”の内の二人がこれほど近い場所の幼な馴染だったことに改めて驚きを禁じ得ない。

いやそれだけではない。鹿児島中央駅からほど近い加治屋町というこの場所からは、「これでもか」というぐらいの明治の元勲や軍人たちが出ている。

東郷平八郎、村田新八、大山巌、山本権兵衛、西郷従道……等々、まさに枚挙に暇がない。半径200メートル以内で「日本が動かされていた」と言っても過言ではない。

しかし、私は同時に明治政府の薩長藩閥政治の凄まじさを垣間見た思いもした。長州もそうだが、薩摩も、これほど狭い地域から「偉い人」が出るのは、逆にいえば、それだけ露骨な身贔屓(びいき)人事が政府部内で罷り通ったということである。

私の故郷である土佐では、この薩長藩閥政治への反発から“自由民権運動”が育っていった経緯がある。何事にも露骨すぎる人事が好影響をもたらすことなどはあり得ない。その点で、鹿児島市加治屋町という“偉人街”は、人事に対する戒めと警鐘の街と言える。

それと共に、私は今日、大久保利通がいかに薩摩で粗末に扱われているかを知った。駐車場の端っこに気づかれないほどにひっそり立つ大久保の生誕地の石。それに比べ西郷のそれはいかにも立派だった。

西南戦争で“賊軍”となった西郷と、権力は恣(ほしいまま)にしたが、今に至るも地元でかえりみられることがない大久保。人は、“死して名を残す”ことが必要なのだろうか。

カテゴリ: 歴史, 随感

壮絶な男たちのドラマ

2010.04.26

本日、拙著「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」が発売になった。朝、新聞を開くと、全5の広告が目に飛び込んできた。

2年間に3度の海外取材を経て出来上がったノンフィクションだけに感慨深い。主役の根本博将軍は、私のテーマである“毅然とした日本人像”という点で、最もふさわしい人物だと思う。

終戦時に受けた恩義を返すために、命を捨てて小さな漁船で密航してまで台湾を助けに行ったその行動は、“義”を重んじるかつての日本人の姿を彷彿させるものである。

本書には、2つのヤマ場がある。ひとつは、終戦時、根本将軍が駐蒙軍司令官として、大本営からの武装解除命令を拒否し、殺到するソ連軍と戦い抜いて内蒙古在留の4万もの邦人の「奇跡の脱出」を成功させるところだ。

それは、武装解除を受け入れ、全満州でソ連軍によって居留邦人が掠奪、レイプ、虐殺……というあらゆる苦難に遭遇した関東軍のそれとは対照的な行動だった。

そして、もうひとつは、その時、邦人を守ることに協力してくれた蒋介石と国府軍が4年後、国共内戦に敗れ、金門島まで追い込まれたまさにその時、26トンの小さな漁船に乗って、これを助けにいったことである。

数々の作戦を立案し、金門島の激戦で勝利に貢献した根本将軍の功績は、長く秘されたままで歴史の闇の中に埋もれていた。それは、大陸から移って来た外省人が本省人(台湾人)を支配するという複雑な政治情勢ゆえの現象といえる。

しかし、多くの取材協力者のお力によって今回、私なりに“謎”を解明することができた。台湾と台湾海峡がなぜ今も存在しているのか。そして、そこに命を捨てることを恐れず、「義」のために生きた日本人がどうかかわったのか。

国境を越えてひとつの目的に向かって突っ走っていった人たちの壮絶なドラマに、取材の過程で私自身が何度も身体が震えるような感動を覚えた。

私は、歴史、事件、スポーツ、司法……さまざまなジャンルのノンフィクションを発表しているので、こんな質問をされることがよくある。「作品のジャンルがこれほど多岐にわたっているのはなぜですか?」。

その時、私はいつもこう答えている。「私は、“毅然とした日本人像”を描くことが最大のテーマ。その対象の人物がそれぞれ異なるジャンルにいるだけのことです」と。

今日から大阪に出張だ。毅然とした生き方をされている人たちにお会いすることは、いつも心が洗われる。次作にもご期待ください。

カテゴリ: 歴史, 随感

産経新聞が「根本博」の功績を紹介

2010.04.23

今日の産経新聞(23日付)の朝刊に、26日に発売になる私の新刊に関する記事が掲載された。3面の総合面に「台湾存立の戦いで勝利導く 根本元中将の功績 国防部が公式認定」というタイトルで、全6段の大きさで報じたのだ。

26面の第2社会面にも、「蔣介石と根本元中将 花瓶に込められた友情」と題して、蔣介石が根本に贈った花瓶のことが写真付きで報じられていた。新聞としては、異例の扱いである。

これまで、公式には認められていなかった根本博・元陸軍中将(北支那方面軍司令官)の金門戦争への功績。拙著「この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」(集英社)の中で記述した昨年10月の金門島での“ある場面”に産経新聞が注目したのだ。

私はこの時、台湾・国防部の黄奕炳常務次長(陸軍中将)が、「わが国が一番苦しい時に日本の友人、根本さまたちにしていただいたことは永遠に忘れません。わが国には『雪中に炭を送る』という言葉があります。一番困ったときに根本さまたちはそれをやってくれたのです」と語る場面に同席した。

60年間にわたって秘され、歴史の彼方に追いやられていた事実が浮かび上がった瞬間だった。真実とは、往々にして闇に埋もれたまま浮上しないものだが、根本中将の功績は、60年という気の遠くなるような歳月を経て、ついに明らかになったのである。

黄常務次長のこの発言を受けたのは、第7代台湾総督、明石元二郎の孫の元紹氏、根本将軍の通訳を務めた吉村是二の長男、勝行氏の二人だ。彼らは、根本将軍密航と金門戦争にかかわった人間のご子息であり、国防部は二人に公式に根本将軍の功績に対して謝意を伝えたのだ。

真実に迫ろうという意欲が衰えない限り、歴史の謎は必ず最後に微笑みかけてくれる。私はこれまでの経験から、そのことを知っている。

そこにこそ、ノンフィクション作品の醍醐味がある。

本日、私は、次の作品の取材資料を求めて、何人かの関係者とお会いした。こちらは、まだ光明がまったく見えてこない。

しかし、最後にはやはり“勝利の女神”が微笑んでくれるに違いない。そう信じて、ひたすら前進、いや、ひたすら取材していくしかない。私はそう思っている。

信念のある人間がこの世に存在するかぎり、埋もれた感動のドラマは数限りなく存在する。一つでも多く、それらを掘り起こしたい。

カテゴリ: 歴史, 随感

台湾と台湾海峡は誰によって守られたのか

2010.04.20

本日、集英社で来週月曜日に発売になる新刊の発送準備をおこなった。「この命、義に捧ぐ――台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」である。

取材からずっと同行してくれた集英社インターナショナルの高田功・編集企画部編集長と一緒だ。取材協力者だけで70人以上いるが、一人一人にお礼の手紙を書き、一冊一冊にサインをさせてもらった。

取材に苦労しただけに感慨もひとしおだ。高田さんは、汗を拭きながら私がサインした本に落款(ハンコ)を捺して作業を手伝ってくれた。

それにしても、よくこの歴史の謎を解明するためにここまで付き合ってくれたものだと思う。3度の海外取材と、日本全国への取材。ノンフィクション冬の時代に、これほど集英社が社を挙げて支援してくれたことに感謝の言葉もない。

手間ひまをかければかけるだけ、この手の“積み上げ型ノンフィクション”は深みと厚みが増していく。そのことを今回は改めて実感した。

「台湾」と「台湾海峡」はなぜ今も存在し、誰によって守られたのか。

「義」を返すために命を捨てることも厭わなかった男の凄まじい生涯。現代史の謎に挑んだノンフィクションを近くお届けできることが嬉しい。

カテゴリ: 歴史, 随感

フィリピン「レイテ島」の戦い

2010.03.28

昨日は、神奈川県茅ケ崎市に住む一人のご老人を訪ねた。

間もなく93歳になる日本陸軍の元少佐である。陸軍幼年学校から陸軍士官学校に学んだ元少佐は、昭和19年、フィリピンのレイテ島の戦いに参加し、九死に一生を得て帰還した方だ。

レイテの激戦は凄まじく、日本軍は8万4000人の兵力を投入し、戦死者が7万9000人を超え、生存者は5000人に満たなかった。つまり作戦に参加した兵士の内、10人に1人も生還できなかったわけである。その意味で“九死に一生”という表現すら正しくない。

元少佐の身体には、戦後、手術で摘出できたもの以外に今も砲弾の破片が残っている。「レントゲンを写すたびに看護婦さんが“これ、なんですか?”と聞くんだよ」と穏やかに語る元少佐。今もかつての仲間の慰霊をつづける93歳が再現してくれた地獄の戦場は、筆舌に尽くしがたいものだった。

歴史の証言者たちへの取材は、時間との戦いでもある。猶予はない。来週もひたすら取材はつづく。

カテゴリ: 歴史

気分が若いと「歳をとらない」

2010.03.25

今日は、今年88歳になる元陸軍中尉に取材させてもらった。昭和20年、沖縄の慶良間諸島で、「マルレ」という水上特攻艇の部隊を指揮していた人物だ。

4時間にわたって当時の話を伺った。熊本出身の氏は、陸軍士官学校57期にあたる。250キロの爆弾を積んで多くの仲間が水上特攻艇で命を散らした。

九死に一生を得て生き延びたさまは、まるで映画のシナリオのようだ。海岸に流れ着いた兵士の遺体を荼毘に伏し、その遺骨を軍服の胸に縫いつけ、復員後、遺族に返すシーンなどは、事実だけが持つ重みがあった。将来、この方の話を活字にさせていただこうと思っている。

夜は、テレビのプロデューサー2人と赤坂の料理屋で会合。その店の女将とは以前から知り合いだったので、久しぶりに女将と再会し、話をした。以前とまったくかわらない女将の若さに驚いた。

元陸軍中尉といい、この女将といい、気分が若いと「歳をとらない」ことがよくわかる。私にとっては、歴史の証言者との対話は“時間との闘い”でもある。ご高齢の諸先輩には、いつまでも若さを保って欲しい、と心から願う。

カテゴリ: 歴史, 随感

ジャーナリストの“命綱”

2010.03.04

昨日、今日と広島に取材に行って来た。「新潮45」の連載取材である。出張から東京に帰ってそのまま夜、飲み会に参加した。場所は新宿、相手は、若き台湾・中国問題の研究者2人である。

中国、台湾、日本の3国の現代史に通じた研究者との会合は3時間に及び、さまざまな情報と見解が飛び交った。

来月刊行予定の小生の作品にも協力してもらっている研究者なので、実に楽しく、有意義な話ばかりだった。

昨夜は、広島で中国新聞の幹部二人と飲み会をこなし、これまた有意義な話を聞かせてもらった。

連日の飲み会で、肝臓はかなり傷んでしまったが、ノンフィクションの世界に生きる私にとっては、こういう情報交換の場こそ“命綱”である。

さまざまなヒントをもらって、新たな作品の構想も浮かびつつある。ありがたい限りだ。飲み屋を出ると冷たい雨。足早に帰宅を急ぐサラリーマンと共に、私も深夜、やっと家に帰り着いた。

カテゴリ: 歴史, 随感

老兵たちの証言

2010.02.25

ここのところ月刊誌の取材、締切、校了、講演……等々が立て込んでブログを更新することもできなかったが、今日は89歳になる元兵士にお会いして、いろいろなお話を伺った。

16歳で旧満洲国軍の兵士となり、旧満洲から山東省にかけて中国軍と戦ったという稀有な経験をお持ちの方だ。最後は、飛行機乗りとして青島の航空隊にいた彼は、もう少し「終戦」が先だったら、間違いなく命を落としていた。

旧満洲国軍時代、中国軍との戦闘で腕時計を吹っ飛ばされた時にできた傷痕が今も左手首に残っていた。70年以上前にできた傷が、当時の過酷な戦闘を現代に伝えている。

今年は、時間をできるだけつくって彼のような元兵士の証言を集めさせてもらおうと思っている。終戦から65年。第一線の兵士たちの年齢は、すでに90を前後している。年齢の壁を越えて貴重な証言を可能なかぎり記録にとどめていきたいと思う。

夜は、そのための貴重な“協力者”と青島ビールで乾杯。どういう人物にこれからお会いするか、いろいろと知恵をめぐらせた。どのような証言を老兵たちから引き出せるか、当ブログでも逐次、報告していきたい。

カテゴリ: 歴史, 随感

締切まで残り2週間

2010.01.22

ここのところ徹夜の連続で締切間近の単行本原稿に追われている。そんな中で、今日は、この原稿でいろいろ相談に乗ってもらっているさる研究者に貴重な資料を新宿まで持って来てもらった。

そのまま飲み会になってしまったが、いろいろ参考意見を聞かせてもらって大変役に立った。歴史とは、視点が定まってしまっては「一面」しか見えないものだ。

多角的に、かつ柔軟な発想で見ていくと、これまで見えなかった歴史の一面も眼前に現れてくる。この若き研究者と話していて、改めてそれを感じた。

氏は、3月にスタンフォード大学に台湾関係の貴重な資料を見に行くという。私も本当はスタンフォード大学に行って調べなければならない案件をいくつも持っている。羨ましいかぎりだ。

さらなる協力を約束してもらって11時過ぎに新宿駅で別れた。最後に「原稿がんばってください」と、応援のひと言をもらった。締切まで残り2週間を切った。書くしかない。

カテゴリ: 歴史, 随感

「鳩山訪朝」だけはご勘弁

2010.01.04

鳩山首相は本日、訪れた三重の伊勢神宮で記者団に「拉致問題」について聞かれ、「機が熟せば、訪朝も考えたい」と述べたそうだ。そして、「だが、まだ、残念ながらそのタイミングではない。与党、政府でも十分な接触が行われているとは思っていない。むしろ、これからやらなきゃならない」とつけ加えたという。

複数の民主党関係者が北朝鮮側と極秘接触していたことがマスコミで報じられており、これに関して質問が飛んだことに答えたわけである。しかし、この鳩山首相の答えに「大丈夫か」と、心配になった向きは少なくないだろう。

この頼りない政治家が功を焦って、訪朝でもしたら、百戦錬磨の金正日総書記にどんな言質を与えるか気が気ではない。

北朝鮮は、先の抗日戦争でゲリラ戦しかおこなっていないのに、日朝交渉では国際法による「交戦国家」としての地位を前提に巨額の賠償を要求してきた歴史がある。

実はこれも、第十八富士山丸事件で拿捕された紅粉勇船長らを救出するために訪朝した自民党の金丸信が、金日成主席に言質を与えたことから北朝鮮側に「誤解を与えた」と言われる。

外貨の不足、経済破綻、食糧危機など、多くの火種を抱える北朝鮮にとって、頼りにするのは昔も今も“ジャパンマネー”なのである。

核問題に代表されるように、自らトラブルを創出してまで北朝鮮が要求しているのは、何兆円もの巨額の援助(特に日本から)にほかならない。崩壊寸前の金王朝を維持するためには、日本から現ナマをせしめることが必須なのである。

歴史観や国家観に乏しい鳩山首相に訪朝されたら、どんな損失を被るかわからない、というのが国民の本音ではないだろうか。功を焦ったら「足元を見られる」のは交渉の常識だ。残念ながら鳩山首相にその力量があるとはとても思えない。

1月18日から始まる通常国会で火だるまになることが確実の鳩山首相。人気挽回の起死回生策として「拉致問題を利用する」のだけはご勘弁いただきたい。

カテゴリ: 国際, 政治, 歴史

映画「海角七号」

2009.12.27

今日は銀座に映画『海角七号 君想う国境の南』を観に行った。この映画だけはどうしても観たいと思っていた。昨日封切りになったもので、初日にこそ行けなかったものの、2日目に行くことができた。

私が着いた時、主役のファン・イーチェンと田中千絵の2人が舞台挨拶をしていた。場内はほぼ満席だ。

これは、昨年、台湾で国産映画として空前の大ヒットを記録した作品である。8月下旬に劇場公開が開始されると、口コミで評判が広がり、瞬く間にインターネットなどの話題を独占し、1か月足らずで興行成績が1億元を突破し、ついには5億元を超えて、台湾国産映画としての大記録をつくった。

この映画は、敗戦により恋人である台湾女性を置いたまま台湾南部の街から日本に引き揚げていった日本人教師が、引揚船のデッキで、その彼女に手紙を書いている場面から始まる。「海角七号」とは、彼女が住んでいた旧日本統治時代の住所のことである。

日本人教師のこの7通の手紙は、彼が年老いて亡くなるまで投函されることがなかった。これを投函したのは、彼の娘である。あまりに美しく、切ない手紙の内容に、亡き父の思いを伝えてあげたいと思い、60年の歳月を越えてその台湾女性宛に送ったものだ。

しかし、旧日本統治時代の住所に郵便物が届くはずもなく、宛先不明のまま配達されなかった。だが、ミュージシャンになるという夢が破れて台北から故郷へ帰ってきた主役の現代青年(ファン・イーチェン)が郵便配達のアルバイトの中でこの手紙を発見する。

物語は現代と過去を行き来しながら、「60年前に終わった恋」と、「現代に始まる恋」を描いていく。青年は地元で開催される大規模なビーチコンサートにミュージシャンとしての自分の夢を思い起こして参加するが、ドタバタの中、マネージメントする立場として登場した日本人女性と恋に落ちる。「現代に始まる恋」の男女を演じるのが台湾のポップスター、ファン・イーチェンと日本の女優・田中千絵さんである。

彼女の願いで、ファン・イーチェンは戦後60年という歳月を経て、年老いたその女性を探し出し、彼女のもとに7通の手紙を届けるというストーリーだ。

私は映画を観ながら、なぜこの映画がこれほど台湾で空前のヒットになったのかをずっと考えていた。戦争という悲劇と、運命というにはあまりに切ない男女の別れ。これまで台湾映画で、さまざまな事情によって日本統治時代が好意的に描かれることはなかっただけに、今この映画がつくられ、あらゆる世代の台湾の人々にこの映画が支持された意味を、私は考えざるを得なかった。

私は、今年7月に文藝春秋から『康子十九歳 戦渦の日記』を出版した。この作品で、粟屋康子という日本人女性に恋した梁敬宣という台湾青年の姿を描かせてもらった。康子さんが遺した克明な日記と当の梁さんの証言をもとに、当時を忠実に再現した歴史ノンフィクションである。

映画を観ながら、私は、19歳で亡くなった康子さんと、今も台湾に生きる85歳の梁さんのことを思い浮かべた。

梁さんは、恋愛などご法度のあの時代、康子さんに恋し、彼女からもらった髪の毛を大切にし、それを埋めた場所に赤いバラを植え、それを戦後60年以上経た現在も、守り、育てている。

死ぬことが当たり前だったあの時代、若者は言葉に出すことのできない感情や思いを胸に戦地へと赴き、また恋人とも別れ別れとなった。映画の中の日本人教師と台湾女性も、時代に別離を強制された人たちだ。その切ない現実と歴史を、この映画は描こうとしたのだと思う。

私は、この映画と『康子十九歳 戦渦の日記』が同時期に人々の前に姿を現したことの不思議さを感じている。台湾は今、国民党の馬英九総統のもと、急速に中国との接近がはかられている。“第三次国共合作”である。そんな時代に、台湾のすべての世代が涙したという『海角七号』が生まれた。

歴史に偶然はない。日本の統治時代、そして苛烈な蒋一族統治時代を生き抜いた台湾の人たちがなぜこの映画を空前の大ヒットにし、なぜすべての世代が涙したのか。そのことを考えながらこの映画を観れば、新たな思いが生まれるに違いない。

ここのところ、私は来春刊行予定の歴史ノンフィクションの原稿執筆で連日、徹夜が続いている。昼か夜かわからない生活である。年末年始もひたすら原稿に追われそうだ。疲労を取る意味もあって映画を観に出かけたが、映画館を出た時、新たに執筆意欲が湧いてきたのは確かだ。

なぜなら次の作品は、台湾の現代史とは切っても切れないノンフィクションだからだ。なぜ今の台湾と台湾海峡は戦後、中国の手に落ちることなく、守られたのか。そこに登場する熱い思いの多くの日本人たち。歴史には、明らかにしなければならない感動のドラマが今も眠っている。

そのことを改めて実感させてもらった。気の遠くなるような量の原稿用紙に向かう私も、今日は少しばかり勇気をもらった気がした。

カテゴリ: 国際, 歴史

1年後だったら「退陣」

2009.12.01

今日は、来春出版する歴史ノンフィクションの取材で、福島県の須賀川まで行って来た。昭和41年に亡くなったノンフィクションの「主人公」のお墓参りのためである。実家にもお邪魔し、さまざまなエピソードを伺ってきた。有意義な取材だった。

さて、国会の焦点が鳩山首相の “お母さん献金”に移りつつある。母親からの9億円献金を「私は知らなかった」で済まないことは国民の誰もがわかっている。母から子への生前贈与で「4億5000万円もの贈与税が発生する」という自民党の攻撃はなかなか激しい。

これが「1年後」なら、かなりの確率で鳩山首相は、「退陣」に追い込まれただろう。彼ら名門2世議員たちは、地位に対する執着がないからだ。彼らは国民のために「何をやるか」ではなく、首相になること自体が目的化している人たちである。

だから、“目的”を達成した以上、その地位に対してそれほど執着心がないのが彼らの特徴だ。細川護熙しかり、安倍晋三しかり、福田康夫しかり、鳩山由紀夫しかり……、もし国家の領袖となって国民のために「これをやる」という信念のある政治家なら、どんなに泥をかぶっても執念で地位にしがみつくだろう。

しかし、失礼ながら鳩山さんにその“気概”があるようには、私には思えない。今回の母親献金から発展した「脱税問題」は、本来は間違いなく政権を揺るがす大スキャンダルである。だが今、メディアは発足したばかりの鳩山政権を必死に支えている。国民も自民党政権の時のように眉をつり上げたりはしていない。しかし、これが「1年後」だったら、どうだっただろうか。

国会の議場では、「こりゃ(母から子への)違法子ども手当だ!」「お母さんにもらったお金はどうしたんだ!」といった皮肉をこめたヤジが乱れ飛んでいる。おそらく「1年後なら」メディアが愛想を尽かし、ご本人も「これ以上は耐えられない」と、政権を投げ出した確率は高いように思う。「(スキャンダルが)出るのが早すぎた」――これが、今回の騒動に対する専門家たちの共通見解ではないだろうか。

だが、鳩山さん。悪運も“運”の内だ。

これを天運と言わずして何と言おう。ここは、大いなる闘志と気概をもって、敢然と政権の“離陸”を果たして欲しいと思う。そうでなければ、日本はまたしても“世界の笑いもの”になる。

カテゴリ: 政治, 歴史

激動の昭和を生きた人

2009.11.25

締切、徹夜、飲み会……と、なかなかブログの更新もできない状態がつづいていた。昨日11月24日は、7月に文芸春秋から出したノンフィクション「康子十九歳 戦渦の日記」の主役である粟屋康子さんの64回目の命日にあたり、取材でお世話になった関係者に集まっていただき、ささやかな「偲ぶ会」を催した。

康子さんの妹の徳山近子さんもわざわざ顔を見せてくれて、和やかな会となった。出席されたのは昭和19年から20年にかけて、十条の陸軍造兵廠で実際に康子さんと共に戦った80歳台半ばの方々である。

皆さん意気軒昂でお歳を感じさせないパワーがあった。さすが激動の昭和を生き抜いてきただけのことはある。顔を出してくれた現役のテレビマンたちをはるかに上回るお元気さだった。

皆さんのお話を聞きながら、毅然とした生きざまは、あの時代の若者に共通するものだったことを再認識させられた。あとの世代のわれわれがやらなければならないことが「いかに多いか」痛感する。

私の次作のことにも大いに話が及んだ。次の作品は、日中戦争、終戦、国共内戦……というあの混沌とした時代のノンフィクションである。証言者が少なくなる中、どこまで正確にその時代を蘇らせることができるか、課題は大きい。

カテゴリ: 歴史

“証言者の時間”は短い

2009.11.15

今日は山形まで行って、89歳になる旧日本陸軍の軍人・渡辺義三郎さんにお会いしてきた。内蒙古で在留邦人4万人を救うために、終戦後の昭和20年8月20日にソ連軍と死闘を繰り広げた老兵だ。

無条件降伏という名の「武装解除命令」に敢然と立ち向かい、在留邦人を助けるために内蒙古・張家口の北の「丸一陣地」で次々と死んでいった旧日本陸軍の兵士たち。渡辺さんが語る知られざる真実の数々に、思わず息を呑む。

関東軍の山田乙三司令官と駐蒙軍の根本博司令官。二人の司令官の決定的な違いはどこにあったのか。軍人がどうしても守り抜かなければならない“本分”とは何か。渡辺さんの話には、その答えがあった。

歴史に埋没してしまったエピソードを拾うためには、渡辺さんのような生き証人が不可欠であることは言うまでもない。誇張も、そして思い込みもなく、東北弁で訥々と話してくれる「ソ連軍との攻防」は、まるで映画の一シーンのようだ。

ひんやりとした、東京とは比較にならない静溢な山形の空気は、老兵の証言をさらに引き立ててくれているような気がした。

しかし、“証言者の時間”が確実に少なくなってきていることを痛感する。「待ったなし」の取材が、これからも私を待っている。

カテゴリ: 歴史

世の中の流れに抗する人々

2009.11.04

今日11月4日は、61年前の昭和23年、極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決言い渡しが始まった日である。判決文朗読と判決言い渡しは、9日間もかけておこなわれ、すべてが終了したのは11月12日のことだった。

英文1212ページにも及ぶ膨大な判決文は、ウィリアム・F・ウエップ裁判長が読み上げた。戦争犯罪人としてこの軍事裁判にA級戦犯たちが起訴されたのは昭和21年4月29日のこと。すなわち裕仁天皇の誕生日(戦前は「天長節」と呼ばれた)であり、また裁判終結後、絞首刑の判決を受けた7人が「刑を執行」されたのは、昭和23年の12月23日。すなわち現在の明仁天皇の誕生日である。

極めて“見せしめ”の意味合いが強かったこの裁判で、11人の判事の中で唯一、インドのラダ・ビノード・パール判事だけが「この裁判自体が国際法からみて問題がある。東京裁判において、日本を裁く法的地位はどこにも存在しない」として、被告人全員の無罪を主張している。勝者が敗者を裁く政治ショーの様相を呈していた東京裁判に、パール判事は敢然と異を唱えたのだ。

世の“流れ”に逆らうことは簡単なようで難しい。極東国際軍事裁判所には、「少数意見の内容朗読義務」が存在したにもかかわらず、パール判事の「意見書」は、ついに読み上げられることがなかった。

しかし、法学者として世界の趨勢に惑わされることなく、自らの意見を堂々と開陳したパール判事の功績は今も色褪せない。いつの時代にも、そしてどこの国にも、毅然と生きる人物が存在することに私は大きな勇気を感じる。拙著「裁判官が日本を滅ぼす」等々で、日本の官僚裁判官の堕落を指摘してきた私には、パール判事の姿勢が今も新鮮に感じられる。

さて、世の中の流れに抗する、という意味では、今日の産経新聞におもしろいエッセーが載っていた。作家の曽野綾子さんが書いた「透明な歳月の光」だ。曽野さんは、言わずと知れた文壇の一言居士。女性であり、クリスチャンでもある曽野さんに「居士」という表現は失礼だが、要は、誰にも迎合しない毅然とした物言いの人、という意味である。

その曽野さんが、自身が日本郵政の社外役員になって以降の感想を「辞令も説明もない緩んだ組織」と題して、エッセーの中で痛烈に日本郵政批判を展開したのだ。

亀井静香郵政担当相と斎藤次郎日本郵政社長が自宅に来て、社外役員就任の要請をおこなった様子や、その後、辞令も担当者からの説明もなく、唯一の連絡が、「給与を払い込むための郵便貯金の通帳の番号を聞いて来た」ことだけだったことを曽野さんは暴露している。いまだに外部の人に渡されるパンフレットさえ、曽野さんは渡されていないというから驚く。

曽野さんは、このエッセーを「もしこれが西川体制の元で作られた甘い構造なら、斎藤新体制は一刻も早く組織を引き締めなければならない」と締め括っている。

日本郵政が、民間企業とは名ばかりの、いかに緩んだ“お役所”であるかが垣間見られるが、要は、曽野さんを起用した亀井氏や斎藤氏の目的が、「国民に対するイメージ戦略」だけであることがはからずも透けて見えたということだろう。

彼らにとっては、会社の中身など曽野さんに「知ってもらう必要」などなく、黙って「座っていてください」という本心が思わず露呈してしまったのだ。

だが、“官僚の中の官僚・斎藤次郎”が社長を務める日本郵政で、曽野さんがこのまま“お飾り”で終わるとも思えない。国民のために、曽野さんには、いつもの鋭い嗅覚と観察眼で次々と日本郵政の問題点を炙り出していって欲しいと思う。

“官僚の中の官僚”vs“文壇の一言居士”――両者の激突を興味深く見守っていきたい。

カテゴリ: 歴史, 随感

労組政党のお手並み拝見

2009.11.03

今週は、2日ごとの締切を3本も抱え、四苦八苦している。台湾・金門島への取材、そのあとの四国行き。東京をずっと留守にしていたために、容赦のない「締切」に追われる羽目になってしまった。

四国では昨日、伝説の名投手・澤村栄治のお嬢さん(といっても65歳)にお会いし、さまざまな秘話を聞くことができた。近くその取材結果をレポートさせていただくつもりだ。

多くの若者の命が奪われた太平洋戦争という未曾有の悲劇。その中で、残された家族が戦後歩んだ“茨の道”もまた別のドラマがある。戦火の中に消えて行った名選手たちの無念を、私はできるだけ取材し、浮かび上がらせてみたいと思っている。ご期待ください。

ところで、国会の論戦がいよいよ始まった。労組依存というアキレス腱を抱える鳩山政権に対する国民の見方は現在、失望半分、期待も半分というところではないだろうか。さまざまな問題点が見え隠れしている中、今のところマスコミの報じ方は、概ね“好意的”だ。

しかし、マスコミの得意技は、言わずと知れた“掌(てのひら)返し”である。麻生政権などは、「これでもか」とばかりのバッシングを受け続けたが、果たして鳩山政権がいつからマスコミの攻撃に晒されるようになるのか、注目していきたい。

鳩山政権が抱える火種は、「カネ」「小沢」「労組」「北朝鮮」だ。これらをきっかけにいつ閣内不統一が表面化するか、興味深い。まずはJAL再建の“税金投入”にあたって、企業年金の大減額も含め、どのくらいJAL社員たちの厚遇をブチ壊せるか、「労組政党」のお手並み拝見といきたい。

カテゴリ: 政治, 歴史

毅然と生きた日本人

2009.10.30

朝、台北で最後の取材を終え、夜には東京へ帰ってきた。航空機はJAL。機内で流されているNHKニュースは、JALの事実上の経営破綻と、再建を主導する企業再生支援機構の話題を伝えている。「社員一同、(再建に)邁進します」という機内アナウンスが重なるが、妙に空しく響く。

利用者を無視した労組の対立、特権を享受した機長をはじめとする幹部社員たちの増長が、ついにこの“半官半民企業”を破綻に至らしめたのである。国民は誰もJALに同情しない。この会社が膿(うみ)を出し切らないかぎり、国民は税金投入を許してはならない、と思う。前原誠司国交相の手腕が、いよいよ試されている。

それにしても、今回の台湾取材の成果は大きかったと思う。埋もれた事実と、改竄された事実。歴史とは、取材する側の意欲と方法によって、いかような顔でも見せてくれる。そのことを痛感した旅だった。万単位の人間が死んだ金門島の古戦場は、さまざまなことを私に語りかけてくれた。

毅然と生きた日本人の姿を、近くノンフィクション作品としてお届けできると思う。ご期待ください。明日は、別件の取材で四国・松山に飛びます。

カテゴリ: 歴史

夜の帳がおりた「国境の海」

2009.10.26

今日は朝6時半に起き、8時半発のフェリーに乗って台湾の金門島から中国・福建省の厦門(アモイ)に渡った。時間にしておよそ1時間。かつて国境内戦の激戦地となり、長く両国の国境線として緊張の極にあった海域である。

出入国審査があるためパスポートが必要である以外は、まったく普通の定期フェリーである。しかし、金門と大陸が行き来できることなど、あの毛沢東と蒋介石が対立した時代には考えられなかったことだ。時の流れとはおそろしいものである。

いまも島全体が軍事要塞の金門と、経済発展を遂げたアモイは、景観や活気がまるで違う。人口が260万人を突破し、どこへ行っても高層ビルが林立するアモイは、発展する中国沿海部の象徴のような都市だ。私は、アモイからさらに車を飛ばして泉州市というところまで足を延ばした。アモイの中心地からは高速道路を乗り継ぎ、二百キロ近く離れた場所にある港町である。

60年前、この地の漁船という漁船が共産軍によって集められ、2万人近い軍が金門島に押し寄せた。夜陰にまぎれて上陸を敢行した共産軍と、金門島を守備する国民軍との激しい戦いは、結果的に国共内戦の「最後の戦い」となった。

私が訪ねた漁村では、一人の古老が当時の思い出を語ってくれた。「共産軍に徴収された漁船が帰ることはなかった。兵士たちは一人も帰ってこなかった。金門島の戦いで全滅したんだ」。老人は60年前にこの国で起こった悲劇を遠い記憶の中から引っ張り出してくれた。万単位の兵士が死んだという国共内戦最後の戦い。知られざるドラマが、取材で次第に浮かび上がりつつある。

人間の生と死を賭けた壮大なドラマが60年前、この地で展開された。金門島への最終フェリーに間に合った私は、すっかり夜の帳がおりた漆黒の海を見ながら、この海で、そして金門島で命を落とした若者たちの無念に思いを馳せた。

カテゴリ: 歴史

「歴史」は隠せない

2009.10.25

「ようこそ、台湾へ」。
その言葉が発せられた瞬間、私たちは動けなくなってしまった。古寧頭戦役60周年の記念集会が金門島で開かれ、その追悼式の席上、台湾の馬英九総統が私たちにだけそう声をかけたのだ。

明石元二郎台湾総督の孫・元紹さん(75)と、古寧頭戦役に参加した吉村虎雄さんの長男・勝行さん(76)は、突然の馬英九の行動に驚き、同時に心を動かされた。今まで歴史に封殺され、面子と思惑の中で浮上しなかった国共内戦の最終決戦における日本人の戦い――否定され続けた“偉業”が「認められた」瞬間だった。

2日前、金門空港で陸軍中将ら国防部幹部に迎えられた私たちは、「わが国が一番困っている時に、お二人の日本人に指導と支援をいただいたことに対して心から感謝します。“雪中の人に炭を送る”ようなことをお二人はされたのです。その戦地である金門によくいらっしゃいました」という言葉をもらった。

その時、わずか1か月の間に変貌した国防部の態度に、私は仰天したものだった。だが、「変化」は本物だった。馬総統の態度はそれを如実に物語っていた。いかなる事情か私は知らない。しかし、台湾政府は面子を捨てて、歴史の真実を認める方に舵を切ったのは明らかだった。

明石さんも吉村さんも、そのことに心を動かされたのだ。すべては私の作品の上で明らかにさせていただくが、これほどの劇的な変化はさすがに私も予想していなかった。

意義深い作品になりそうだ。詳しく書けないのが残念だが、60年間も埋もれたままだった歴史が浮上することに感無量の思いがする。

カテゴリ: 歴史

雨の台北から快晴の金門へ

2009.10.23

本日午後、雨の台北から金門島にやってきた。昨日、台北入りしたあと、台風の余波で台北市内は次第に雨が激しくなり、今朝には豪雨となっていた。

午前中、今回の台湾訪問に同行してもらっている75歳の明石元紹さん(明石元二郎台湾総督の孫)と共に、明石総督の墓参りをさせてもらった。台北市内から1時間ほど離れた眺望抜群の地に墓所はあった。

晴れた日には台湾海峡が望めるという。私が取材しているこの歴史ノンフィクションには、明石家の台湾への「思い」が大きな比重を占めている。明石家の思いを知るためには、この墓所はどうしても来なければならない地だった。

今回の訪問には、民放の某キー局も同行してくれている。雨の中の墓参を撮影後、私たちは、台湾海峡を越え、はるばる金門島にやってきた。

金門空港のゲートから出ると軍の幹部と報道陣がいた。私たちが来るのを今や遅しと待ち構えていたのだ。陸軍中将が私たちに歓迎の意を表し、即席の歓迎セレモニーを開いてくれた。

報道陣のフラッシュも驚いたが、前回の訪台とはまったく違う軍の対応ぶりにはさらに驚かされた。「古寧頭戦役60周年」の記念集会が、私たちがはるばる金門島までやってきた理由だ。

毅然とした日本人の生きざまが、この60年前の戦役でどう示されたのか。それだけは解明して帰りたいと思う。埋もれた歴史の発掘はまだ道半ばだが、記念集会を2日後に控えて、何かが動きそうな予感がしている。

カテゴリ: 歴史

100歳での始球式を

2009.10.20

昨日は、今年97歳になった巨人軍OBの前川八郎さんに埼玉県下でお会いした。7月に巨人軍創立75周年記念イベントの一環として、東京ドームでのマウンドに立ち、かつての復刻ユニホームを着用して始球式をした、あの前川さんだ。

前川さんは巨人時代、ピッチャーとしてマウンドに立たない時は、打撃を買われて内野手、外野手としても活躍したオールラウンドプレーヤーだった。エース番号で知られる背番号18を巨人軍で初めて公式戦でつけた人であり、栄光の巨人軍の第5代四番打者でもある。

國學院大學の国文科を卒業した前川さんは、風雲急を告げる戦前の職業野球に3年間だけ在籍し、その後、故郷の兵庫に帰り、滝川中学の国語の先生となり、同時に野球部の監督も兼任し、同校で別所毅彦や青田昇を育てた人物である。

戦後、人材が枯渇したプロ野球界に1年だけ復帰(阪急軍)し、そこで3勝を挙げている。戦前に18勝、戦後も3勝を挙げたというユニークな経歴を持つ前川さんは、いま巨人軍OBとして最高齢になった。

戦前、前川さんが巨人に在籍したのは、昭和11年から13年の職業野球黎明期である。盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が泥沼化して日本が破滅への道を転がり落ちていくちょうどその時期だ。

私は、今年4月から5月にかけて4回にわたって放映されたNHK「知る楽 こだわり人物伝」の「ヴィクトル・スタルヒン 野球がパスポートだった」の取材で、3月に前川さんにお会いしている。この時、前川さんにはスタルヒンのことや戦前の職業野球について詳しくお話をしていただいた。

8か月ぶりにお会いした前川さんは、耳こそ遠いものの、お元気そのもので過去の出来事を前回と同様、生き生きと“描写”してくれた。私のようなノンフィクションの世界で生きる者にとって、いささかの記憶の衰えも感じさせない前川さんのような存在は、本当にありがたい。

いつ聞いても前川さんのお話には、高齢の方にありがちなあやふやさや誇張がない。厳格な国語の教師をしていた戦前の前川さんの姿が思い浮かぶ。

貴重な証言は、また活字にして広く読んでいただきたいと思う。ご子息に駅まで車で送ってもらう途中、私は「今度は100歳での始球式を実現したいですね」と提案した。「そうなればいいですね」とご子息は笑っていたが、2012年4月に満100歳を迎える前川さん。歴史の重みを現代の野球少年たちに伝える意味でも、是非、実現して欲しいと思う。

カテゴリ: 歴史, 野球

熊本城の秋

2009.10.17

今週は、水曜(14日)木曜(15日)と2日つづけて八代、熊本で講演があり、久しぶりに熊本に行って来た。講演のテーマは、「裁判員裁判が問いかけるもの」。ここのところ裁判員制度に関する依頼がやはり多い。

「裁判官が日本を滅ぼす」「なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日」「激突!裁判員制度 井上薫vs門田隆将」と、司法に関わる本を3冊出しており、特に私のように官僚裁判官制度の弊害の具体例を挙げながら語る講師は少ないようだ。

熊本の人は、裁判員制度に対する関心は薄いように感じたが、ちょうど熊本での裁判員裁判第1号がおこなわれている最中で、それぞれ長時間熱心に耳を傾けてくれた。

講演の合間に熊本城を訪れた。酷暑で知られる熊本にもすっかり秋が訪れていた。ちょうど秋祭りの最中で、城はいつも以上の賑わいを見せていた。熊本城は、「銀杏(ぎんなん)城」という別名を持つ。加藤清正が自ら植えた銀杏は今はないが、明治に植えられた大銀杏が、観光客を迎え、見下ろしている。

戦国の猛将・加藤清正がつくったこの難攻不落の名城は、石垣を見れば、その凄さがわかる。この城が実際に“難攻不落”であることが証明されたのは、築城から270年もの歳月を経てからのことである。

明治10年、西南戦争において、西郷隆盛率いる1万4000人の薩軍が熊本城に押し寄せた。熊本鎮台司令長官・谷干城は、4000人の兵力で52日間にわたって熊本城を守り抜く。清正が要所要所に配した武者返しが威力を発揮し、ついに薩軍は一人も城内に侵入することができなかった。

熊本城が簡単に落ちていれば、薩軍の勢いは増し、九州全体の不平士族が西郷のもとに馳せ参じていた可能性もある。そうなれば、西郷軍は船によって一気に東京を突いたかもしれない。この戦争が単に「西南戦争」という名では終わっていなかったかもしれないのである。

歴史に「もしも……」は禁物という。しかし、実際にこの難攻不落の名城を訪れると、どうしても「if」を考えてしまう。加藤清正が死ぬのを待っていたかのように豊臣家攻略を始めた徳川家康。時移り、明治の御代(みよ)に薩軍をストップさせた熊本城。

この城は歴史のダイナミズムを感じさせる不思議な力を持っている、といつ来ても思う。

カテゴリ: 司法, 歴史

「還暦」を迎えた中国

2009.09.30

明日10月1日は天安門で毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言して60年目の記念日である。150万人の兵士が激突した国共内戦の「淮海戦役(わいかいせんえき)」に勝利した共産軍が蒋介石率いる国府軍を大陸から追い出し、中国全土が共産化された歴史的記念日である。

しかし、その後の共産中国の辿った道は、決して人民にとって幸福なものとは言えなかった。大躍進政策の失敗、百花斉放百家争鳴(百花運動)の末の反右派闘争、文化大革命、民主化運動の弾圧……等々、この60年で中国人民が経験した悲劇は数えだしたらキリがない。

その悲劇は今もつづいており、中国政府の弾圧政策で無惨な死を遂げる少数民族の実態等々はアムネスティの最大のターゲットとなっている。

温家宝首相は本日夜、北京の人民大会堂で開かれた建国60周年の記念レセプションで、党幹部の腐敗撲滅や「党と人民の血肉関係」の強化に取り組んでいく断固たる決意を表明した。一党独裁体制をこれからも堅持し、不穏分子とは徹底対決するという意思表示でもある。

この夏以来、北京市内は、昨年の北京オリンピック以上の治安強化がはかられ、明日午前9時半から北京国際空港は3時間にわたって閉鎖されることになっている。治安維持のために数十万人の人民武装警察、そして民間ボランティア140万人が動員されるというから、まさに“戒厳令下”である。

建国60年を経て、これほどの警戒をしなければならないほど人民と“敵対”してきた北京政府。民主化とは名ばかりの国家の実態が、この異常な警戒態勢に現われている。与野党を問わず、北京詣でを繰り返す日本の国会議員たちは枚挙に遑がないが、中国の要人に「真の人権とは何か」を問うた人物は一人もいない。

中国共産党は、かつて蘭の花に目がない自民党の有力者、松村謙三への工作のためにわざわざ蘭の花の協会を中国でつくって訪日団を組織し、その上で松村氏に近づいて自民党への突破口を開いた歴史を持つ。

その後も、国会でも問題になったように、5歳から対日の工作員として特別教育を授けた女性スパイを橋本龍太郎蔵相(当時)のもとに送りこんで関係を結ばせることに成功したり、さらには有力政治家の夫人に京劇役者を近づかせて取り込んだり……と、あの手この手で日本の有力者取り込みをはかっている。特務国家、工作国家のパワーは今も健在なのだ。

手練手管の共産中国と渡り合える日本の政治家がどのくらいいるのか甚だ心もとないが、この中国の建国60周年を機に、そのあたりをじっくり考えたいものだ。政治家だけではない。われわれ国民全員で考えなければ、近い将来、中国に手痛い、そして強烈なしっぺ返しを食らうだろう。

カテゴリ: 中国, 国際, 歴史

台北から中壢へ

2009.09.13

今日は台北駅から汽車に乗って桃園県の中壢駅に向かった。7月に文藝春秋から出版した「康子十九歳 戦渦の日記」の主役の一人、梁敬宣さん(84)に会うためである。

私が台湾に来ていることを梁さんは知っているので、在台中に是非お会いしたいと思っていた。帰国が17日に決まっているので、「今日の日曜日しかない」と思い、台北駅午前11時発の「高雄行き」自強号に私は飛び乗った。

中壢駅に迎えにきてくれていた梁さんと再会を喜び、娘さん夫妻も一緒に平鎮市のご自宅に向かう。いつも明るい梁さんの奥さんが私を招き入れてくれた。昼食、夕食をご馳走になりながら、さまざまな話をご夫妻とした。

昭和20年11月に亡くなった粟屋康子さんの髪の毛を埋めた場所に植えた赤いバラは今日も可憐に咲いていた。60余年を経ても色褪せることのない「戦渦の青春」を私に描かせてくれた重要人物が梁さんである。

台湾で生きていた梁さんを私がやっと探し当て、梁さん自身の口から感動の物語を聞かせてもらったのは、わずか2年半前のことだ。やっと本となり、テレビのドキュメンタリーとなった今、梁さんもある種の感慨を抱いているようだった。

次は東京での再会を約して夜、お別れした。現在おこなっている取材の成功を祈ってくれた梁さん。期待には是非応えたいと思う。歴史ノンフィクションの宿命とも言うべき“時間の壁”をどう克服するか。

残された在台の時間は少ない。

カテゴリ: 歴史

ノンフィクション取材の醍醐味

2009.09.12

今日は貴重な人物に会うことができた。台湾に取材に来て2週間。最大の収穫の日だった。86歳になる河南省出身の中国・国民軍の老兵である。

台北の北部・新北投。元の国民軍の老兵たちが住む地域にその老人はいた。“歴史から消された”湯恩伯将軍の元部下である。

「命を賭して」日本人が関わった戦争の詳細を老人は縦横無尽に語ってくれた。また一つ埋もれそうになっていた史実が証言によって浮かび上がった。

貴重な生き証人に辿りつけた時ほどノンフィクション取材の醍醐味を味わえることはない。果たして明日もまたこんな感動が味わえるだろうか。

とにかく“前進”あるのみ。

カテゴリ: 歴史

「影の総理」の怖さ

2009.09.06

昨日は慌ただしかった。午前中、金門島に住む82歳の国民党軍の老兵に2時間にわたって取材し、夕方の便で台北に戻り、夜は根本中将ゆかりの人物に取材をさせてもらった。

老人は、国共内戦の最終盤である1949年、21歳の時に国民党に連行され、強制的に国民軍兵士となった人物だ。苛烈な内戦は、国民党・共産党双方が互いに「兵士」をかき集めた“人狩り”の様相さえ呈していた。

その後の筆舌に尽くしがたいこの老兵のドラマは単行本に書かせていただくが、生涯、妻を娶ることもなく、ひっそり金門島の片隅で生涯を終えることになる彼ら国民軍兵士たちの運命は「歴史の残酷さ」を今に伝えるものである。

夜は、台湾の新聞に報じられた私にわざわざ連絡をとって来てくれた関係者と台北で会った。その人は、私が探していた重要人物の息子さんだった。

台湾料理をご馳走になりながら、興味深い話が次々と飛び出した。新聞報道が繋いでくれた縁である。マスコミの有難さを感じる。夜の帳が下りるまで話は延々とつづいた。

さて、台湾に来て丸1週間が過ぎた。日本の政界は、いよいよ“小沢直轄政治”が始まるようだ。といっても細川内閣の時にいやというほど経験した小沢一郎氏のワガママ政治が再びスタートすると表現した方がいいかもしれない。小沢氏の唯我独尊ぶりがこの上なく発揮されたあの国民福祉税構想の時の「夜中の記者会見」が思い出される。

自分は泥をかぶらず、思うように人事を動かし、政界を実質的に牛耳る手法は、若かりし頃の小沢氏が目で見、実際に経験したものだ。ロッキード事件で刑事被告人となった田中角栄は憎悪と怨念によって政界を支配する時、数を背景に幹事長ポストを握り、そこを通じて時の政権をコントロールしていった。小沢氏は自分の政界の師であるその田中角栄の手法を間近で見てきた人物だ。

それにしても選挙であれほど汗をかいた岡田幹事長を外相に“飛ばし”、自分は幹事長に就くというやり方がいかにも小沢氏らしい。外相ポストは、言うまでもなく外交と国家の安全保障交渉の最前線ポストであり、民主党の最も苦手とする分野だ。

まして岡田氏は今年5月、アメリカに核兵器の先制使用を行わないよう働きかけた政治家である。日本がアメリカの「核の傘」から外れることを容認する考えを示し、北朝鮮や中国が涙を流して喜ぶようなことを発言した人物だ。もちろん野党となった自民党は、この岡田外相の過去の発言と姿勢を徹底的に追及していくだろう。果たして、国会での岡田答弁がどうなるか、また今後の日米の信頼関係がどうなるのか注目される。

小沢氏はこの外相ポストに“ポスト鳩山”の最有力候補・岡田氏を放り込んで、自分は影の総理になる道を掴んだわけである。

小沢氏が民主党代表の座を投げ出す辞任会見までやりながら、数日後には涙の記者会見で「復帰」するという恥を国民の前に晒したのは、つい2年前のことである。

恥を知らないこの政治家が政権を裏でコントロールすることは恐ろしい。人の言うことに耳を貸さない独善ぶりは今も変わらない小沢氏。新首相は“自分の主張”を持たない鳩山由紀夫氏だけに、余計不安が募る。

政治記者たちは、これから「小沢氏の真意」を探ることが取材の重要なポイントになる。ぶっきらぼうな小沢氏の態度に右往左往する政治ジャーナリズムの姿を、これから国民は何年間も目撃しつづけることになるだろう。

カテゴリ: 政治, 歴史

「中国時報」の大報道

2009.09.05


金門島で3日目を迎えた。

昨日は、金門の地元紙だけでなく、台湾の有力紙「中国時報」が丸々1面を使って私が金門に取材に来ていることを報道してくれた。

「陸軍中将・根本博」の事跡を訪ねてきた私が金門県の知事と会談したことが大きなインパクトを与えたらしい。私が当時の関係者を探していることも記事には出ている。

あまりに大きな記事なので驚いた。台湾を訪問中のダライ・ラマの記事より遙かに大きい。歴史問題に対する台湾のジャーナリズムの関心の高さが伺えた。

さっそく記事の反響があり、台北に帰ったら当時を知る関係者と会えることになった。やはりどこの国でもマスコミの力は絶大だ。

中国との接近・交流が急速に進む台湾。馬政権の大陸への傾斜は一段と進んでいる。私が追っているテーマは、馬政権に必ずしも歓迎されるものではない。

しかし、真実に対する興味は、どの国のジャーナリストにも共通だ。今回の新聞報道で地元メディアの根本中将への関心が呼び起こされたのは嬉しい限りだ。

ここ金門は大陸とわずか2キロしか離れていない。かつては「国共内戦」の最前線だったが、今は「中台交流」の最前線。今日も当時の戦争に参加した兵士たちを取材する。

年齢的にも「証言者」の時間は、あまり残されていない。こちらは、ひたすら前進あるのみである。

明日は「朝日ニュースターテレビ」で、私が出演した「武田鉄矢の週刊鉄学」 が放映される。テーマは「裁判員制度」。興味がある方は是非ご覧ください。

カテゴリ: 歴史

今も残る「金門島」の地雷

2009.09.04


昨日は早朝に台北・松山空港から国内線に乗り、金門島に飛んできた。60年前、国共内戦の最終決戦の場となった「古寧頭の戦い」の現場を見に来た。

共産軍が押し寄せた海岸は風が強く、波も荒い。波打ち際は、土色の海水が風のために凄まじい音を立てている。

地元の案内人は、「周囲には地雷がいまも埋まっていますから、絶対に私が通るところ以外には行かないでください」という。

大陸に張りつくように浮かぶ金門島。国共内戦の最終決戦の場となっただけに、金門島には今もその事跡があちこちに残っている。

午後2時半からは金門県の県長(知事)とも会談し、多数の地元記者の取材を受けた。取材をする側から「される側」に変わるのは不思議な感覚だ。彼らは、日本人である私が、なぜこの戦いを取材に来たのか、不思議でならないらしい。

「この戦いに参加し、勝利に大いに貢献した日本人がいることをご存じですか?」。私の質問に対して金門県の知事はもちろん、地元の記者も一様に首を横に振った。

歴史に埋もれた「日本人」。壁は厚いが、なんとかこれを突破して、感動のノンフィクションを完成させたい。


カテゴリ: 歴史

台北のスコールと「金門島」

2009.09.02

台北は夜、スコールに見舞われた。バケツを引っくり返したような土砂降りがいきなり始まったかと思うと、5分後にはピタリと止まり、また10分後にはさらに激しい雨が地面を叩きつけるといった具合だ。

台湾が日本とは違う亜熱帯に属する国であることを痛感する。そんな中、今日は、明日の金門島行きを控えて、国防部や三軍病院、中国時報などをまわり、“取材と工作”を繰り返した。

台北のテレビ局の敏腕女性記者がさまざまな局面で応援してくれ、大いに助かった。バイタリティとやる気に溢れた彼女は、私が追っている同じテーマでテレビドキュメンタリーをつくり、実は私も番組のインタビューに応じ、9月12日にその番組が放映されることになっている。

歴史の真実を究明しようという意欲は、どの国のジャーナリストも共通だ。彼女が入手した資料と私が得ている資料と証言。お互い情報交換することで、取材が一挙に進んだ思いがする。

ジャーナリズムの足腰が弱っていることを指摘する向きは多い。しかし、彼女の姿を見ているとこの業界の人間も捨てたものではない、と思う。

明日はいよいよ金門島だ。かつては、毛沢東と蒋介石の「意地」と「恨み」がぶつかり合った国際政治の焦点の地だった。軍事の要衝といえば、これほどの要衝はないだろう。

取材でどんなドラマが飛び出すか、今から楽しみだ。

カテゴリ: 国際, 歴史

「時間の壁」とノンフィクション

2009.09.01

台北入りして3日目。今日も取材漬けの1日になりそうだ。

日本では、衆院選での歴史的敗北によって自民党の各派閥が事実上の崩壊状態となっている。与党から野党へと転落し、求心力もなくなった派閥が今後どう運営されていくのか興味深い。

自民党の派閥とは、日本に存在する「利益集団」の最たるものである。将来の“首相候補”を担いで、資金面・人事面で自分が援助を受けるために集まった議員集団だ。

言うまでもなくその前提は「権力」である。しかし、肝心の政権からすべり落ちてしまっては、彼らがせっかくの“甘い汁”を吸おうにも、吸うべきものがないのである。これから4年間、自民党は派閥の離合集散も含めて、絶え間なく変革に晒されることだろう。

最大派閥の森派(町村派)が公示前の約3分の1(62議席から23議席)まで減らしたのは象徴的だ。小渕総理が現職のまま倒れてから森喜朗・小泉純一郎・安倍晋三・福田康夫と、史上初の同派閥4代連続政権という離れ技を演じ、わが世の春を謳歌した派閥が、まさに壊滅的な打撃を受けたのである。

特に安倍、福田という2世総理が、2代つづけて政権をわずか1年で投げ出した気概のなさ(精神面の弱さ)は日本国民だけでなく、世界中を呆れさせたものだ。

このブログでも指摘している通り、世界は重大な岐路に立っている。覇権主義にヒタ走る中国と、核弾頭の小型化と起爆装置の開発に血道を挙げる北朝鮮。お坊ちゃま政治家に果たしてこのまま日本の舵取りを委ねていていいのか、不安が湧き起こってくるのは確かだ。

昨日会った台湾人は「(台湾の)馬政権は台湾を中国に売り渡そうとしている。日本は台湾の生命線。助けて欲しい」と悲痛な声を挙げていた。

生命線という意味では、台湾と台湾海峡こそ日本の生命線である。その生命線を60年前に守った一人の日本人の姿を描くために、いま私は台湾にいる。取材を成功させて、なんとか歴史に埋もれた人物を現代に蘇らせたい、と思う。

しかし、台湾にやって来てわかったことは、やはり関係者のほとんどが故人となっていることだ。どうしようもできない“時間の壁”。しかし、それはノンフィクションの宿命でもある。ぶ厚い壁にハネ返されながら、今日も必死で取材に走ろうと思う。

カテゴリ: 政治, 歴史

国共内戦に身を投じた陸軍中将

2009.08.19

今日は来週末から出発する「台湾取材」の準備に明け暮れた。

昭和24年、GHQの統治下にあった日本から脱出し、「義」と「恩」のために一命を賭して台湾に密航し、激戦の国共内戦の中に身を投じた陸軍中将の物語である。

それを描くために、ここのところ関係者への取材を断続的におこなっている。今日は、その陸軍中将と台湾密航を共にした「側近」であり、同時に「通訳」であった人物のご子息に実に10時間にわたってインタビューさせていただいた。

「ご子息」といっても今年76歳になる方だ。「中途半端に取材をされては困る」というご好意に甘えて、納得がいくまで質問をさせてもらった。午後1時にスタートした取材は、気がつくと午後11時をまわっていた。

途中、寿司までとってもらってご自宅で60年以上昔の話を延々と教えていただいた。「このまま歴史を風化させてはならない」という被取材者の気迫を感じる「10時間」だった。

埋もれたままにしておくには、あまりに惜しい物語がこの日本にはいくらでも残っている。芯を失った日本人。毅然としたかつての日本人の物語をどうか多くの人に知って欲しいと思う。そして、挫けそうになった時の「勇気」の元にしていただきたいと思う。

すべては来週末からの「台湾取材」にかかっている。乞うご期待!

カテゴリ: 歴史, 歴史

国共内戦に身を投じた陸軍中将

2009.08.19

今日は来週末から出発する「台湾取材」の準備に明け暮れた。

昭和24年、GHQの統治下にあった日本から脱出し、「義」と「恩」のために一命を賭して台湾に密航し、激戦の国共内戦の中に身を投じた陸軍中将の物語である。

それを描くために、ここのところ関係者への取材を断続的におこなっている。今日は、その陸軍中将と台湾密航を共にした「側近」であり、同時に「通訳」であった人物のご子息に実に10時間にわたってインタビューさせていただいた。

「ご子息」といっても今年76歳になる方だ。「中途半端に取材をされては困る」というご好意に甘えて、納得がいくまで質問をさせてもらった。午後1時にスタートした取材は、気がつくと午後11時をまわっていた。

途中、寿司までとってもらってご自宅で60年以上昔の話を延々と教えていただいた。「このまま歴史を風化させてはならない」という被取材者の気迫を感じる「10時間」だった。

埋もれたままにしておくには、あまりに惜しい物語がこの日本にはいくらでも残っている。芯を失った日本人。毅然としたかつての日本人の物語をどうか多くの人に知って欲しいと思う。そして、挫けそうになった時の「勇気」の元にしていただきたいと思う。

すべては来週末からの「台湾取材」にかかっている。乞うご期待!

カテゴリ: 歴史, 歴史

気骨の判決

2009.08.17

昨夜のNHKドラマ「気骨の判決」はおもしろかった。吉田久という実在の裁判官が太平洋戦争下、大政翼賛選挙で、さまざまな圧力をはね返して“選挙無効”の判決を下すまでを描いたドラマだった。

これは新潮新書の「気骨の判決」という本を原案にしている。著者は、NHKの清永聡記者。歴史に埋もれていた裁判を掘り起こして「現代」にその意味を問うた労作だった。

しかし、この番組宣伝にもドラマのモトとなった本のことは一切紹介されず、実際の番組でもエンドロールに、わずか一行、「原案」として紹介されたに過ぎなかった。あまりにエンドロールが画面に流れるスピードが速かったため、ほとんどの視聴者が、本の題名すらわからなかったのではないか。

一つのネタが掘り起こされ、それが一冊の本となるまでには多くの壁を乗り越え、膨大な労力を費やさなければならない。しかし、ドラマ化やドキュメンタリー化する制作者側には、そのことに対する意識や敬意が感じられない場合が多い。

今回もその典型だった。自分たちスタッフの名前だけは目立つように配し、もとになった本が軽視される傾向はマスコミの「良心」としていかがなものかと思う。

ドラマが“力作”だっただけに、そのことが余計惜しまれる。

カテゴリ: マスコミ, 司法, 歴史

フジ「ザ・ノンフィクション」500回記念で「康子19歳」放映

2009.07.31

あさって「8月2日(日)午後1時45分~」、フジテレビの「ザ・ノンフィクション」が500回の記念番組を迎える。

バラエティー番組ばかりが幅を利かすテレビ界で、硬派のジャーナリズム路線、いや「人生、人情、愛」路線を頑なに守ってきた番組だ。

「日曜の昼間にサラリーマンが見られるドキュメンタリー」を目指して平成7年10月にスタートして500回。その記念番組に拙著「康子十九歳 戦渦の日記」(文藝春秋)が選ばれた。

本自体は3週間前に発売されたので、徐々に私のもとに反響が寄せられている。「驚いた」「今の若い人に読んで欲しい」というものが多い。

粟屋康子さんの短かった人生。しかし、その生きた証(あかし)が今も海の向こうの台湾で「赤いバラ」となって生き続けている奇跡。毅然とした日本人と、生と死の狭間で生きた太平洋戦争下の青春群像を少しでも多くの方に知っていただければ、と思います。

きっと勇気をもらえると思います。是非ご覧ください。

カテゴリ: 歴史, 随感

「康子十九歳 戦渦の日記」発売

2009.07.10

いよいよ本日から拙著「康子十九歳 戦渦の日記」(文藝春秋)が発売になった。取材をスタートさせて4年近くを要した、私にとって初の歴史ノンフィクションである。

主人公は東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)附属専攻科の女学生・粟屋康子さん。時は戦争末期、昭和19年から20年である。東京・十条の第一陸軍造兵廠に勤労動員された康子たち女学生と、同じくここに動員されていた中大予科の男子学生たちの青春群像を描いたものだ。

「特攻に行く人は誇りです。しかし、それを強いるのは国の恥だと思います。特攻はあくまで目的であって、手段であってはならないと思うの」――これは、康子さんが特攻を志願しようとする中大予科の学徒に向かって語った言葉だ。

私は、康子さんの日記に記されていたこの言葉に衝撃を受けた。誰もが「国のために」と一心不乱に働いた戦争末期、康子もまたそうした“軍国少女”の一人だった。しかし、彼女には、命をもって敵艦に突っ込んでいく特攻を「誇り」と捉え、同時に「国の恥」とも見る理性と感受性があった。そして、人間の命というものに対する愛惜の情があった。

死と隣り合わせの時代に生きた若者たちは何を考え、どう死んでいったのか。私は、彼女の妹・徳山近子さんが60余年にわたって大事に保管してきた康子さんの日記によって、これまでほとんどわからなかった当時の若者の真実の思いを知ることができた。

この4年近く、私は、康子さんの日記に記されていた人間を訪ね歩いた。多くが80代の老境を迎えていたが、彼らの口から語られる「人間」と「時代」への思いは感動の連続だった。

原爆で即死した粟屋仙吉広島市長(ゴー・ストップ事件の時の警察側当事者=大阪府警察部長=)の次女だった康子さんは、原爆を受けてなお生き残った母親を助けるために、東京から焦土と化した広島に向かう。

広島で二次被爆する康子さんは、「日本の未来」と「家族の愛」をなにより信じた乙女だった。彼女が残した日記や手紙は、涙なしでは見られない。私は拙い筆ながら、それらの文献と取材をもとにこの歴史ノンフィクションを一気に書き上げた。

是非ご一読ください。

カテゴリ: 歴史, 随感

天安門事件「20周年」

2009.06.04

今日6月4日は、1989年に起こった天安門事件の20周年記念日だ。あの日からもう「20年」が経つのか、という感慨が湧く。

1989年、天安門事件が勃発する3か月前に、私は久しぶりに中国を訪れ、北京・武漢・上海で取材をしていた。張学良の半世紀を超える軟禁生活の謎を解くために、元国民軍(国民党軍)の上校(大佐)だった徐世江老人を武漢まで訪ねていき、また上海では、西安事変の際に、蒋介石を西安郊外の華清池で捕縛した孫銘九老人などを探し出して貴重な証言を得た。

この一連の取材旅行で驚いたことがあった。私自身その時、中国は4年ぶりの訪問だったと思うが、たった「4年」で中国があまりに“変貌”していたのだ。

何が変わっていたのか。

それは“モラルの崩壊”である。中国人同士のいがみあい、暴力的な言動、いらいらした人民のようすに、私はびっくりした。この7年前の1982年には、私は北京で1か月半暮らしたこともある。大学生の頃である。

年々、中国人は変わっていたものの、この89年はさすがに「これはひどい」と感じた。いきすぎた“拝金主義”によって、人民がどんどん荒廃している、と指摘する人もいた。確かに鄧小平の急速な改革開放路線によって、「赤い資本主義」に向かって、人民が目の色を変えて突き進んでいた。

中国人の価値観が“金儲け”だけに集約されていったその時期、落ち着きが失われ、殺伐とした空気が急速に中国全土を覆っていた。それは、まさに「モラルと秩序なき社会」だった。私は、変貌した中国を見て、帰国後、学生時代にお世話になった読売新聞の元北京支局長、星野享司氏(今年3月に亡くなられた)に「このままでは中国はやばいですよ」と、わざわざ報告に行ったほどだった。

そんな中、失脚していた胡耀邦・元総書記の死をきっかけに、学生たちが天安門広場を占拠し、政府に、そして社会に対して、アピールをおこない、それが天安門事件に発展していった。

私は、あの運動は、単なる「民主化」運動ではなかったと思う。秩序やモラルが失われた社会で、人間は生きていくことはできない。運動に参加した人たちには、激しい怒りがあった。もちろん人権無視の中国共産党独裁政権に対する怒りは大きかった。しかし、それ以上に、社会全体が秩序やモラルを失っていることに対する怒りがあり、そこから抜け出したいという願望が、あれほどの運動の盛り上がりにつながっていたと思う。

柴玲やウーアル・カイシといった民主化運動の先頭に立ったリーダーたちは、その後、どんな人生を送ったのだろうか。そしてあの時、「天安門広場では死者は出ていない」と勇気をもって証言した民主化運動のリーダーで、シンガーソングライター侯徳健はその後の20年を、どう生きてきたのだろうか。

さまざまなことに思いを馳せさせてくれる「20年目の記念日」だった。

カテゴリ: 国際, 歴史

「ノンフィクション」への期待

2009.04.21

今日は、学習院大学の同窓会、神奈川桜友会の講演会に招かれた。場所は、横浜のニューグランドホテル。拙著『神宮の奇跡』(講談社)の関係でお世話になった同大学野球部の関係者が多数来てくれていた。

昭和33年に起こった「奇跡」を描いたこの作品は、さまざまなところで反響をいただいている。今上陛下の即位20周年とご成婚50周年という節目の年ということもあるだろう。

東都大学野球で起こった学習院大学優勝というたった一度の奇跡。そして、それと同時並行で進行していた今上陛下(皇太子)の逆転の婚約劇。半世紀前の「二つの奇跡」を振り返るにつけ、あの頃の日本人の凄まじい気迫と毅然とした姿に頭が下がる。

頭髪こそ白いものの、今日集まっていただいた学習院OBの熱気とパワーには恐れ入った。小生のような若輩が講演させてもらうなど、名誉に感じると共に、恥じ入るばかりだったが、講演後に多くの学習院OBに励ましの言葉をいただき、次の作品に対して新たな意欲が湧いてきたのも事実である。

事実を掘り下げる「ノンフィクション」への期待は、想像以上に大きい。私も含め、ジャーナリスト、ノンフィクションライターたちの奮起が望まれる。

カテゴリ: 歴史, 野球

「川島芳子」は生きていたのか

2009.04.13

本日のテレビ朝日「報道発 ドキュメンタリ宣言」2時間スペシャルは興味深いものだった。「男装の麗人・川島芳子が生きていた」という謎に真っ向から挑んだドキュメンタリー番組である。

昨年11月、時事通信が今回の番組の中でも証言者となっていた張鈺(ちょうぎょく)さんのことを報じ、戦後、消えては浮かぶ「川島芳子生存説」に新たな視点を提示したばかりだった。

時事通信の報道以来、この問題がどう発展していくか、私も注目していたが、結局、大々的に取材に入ったのは、テレ朝の「報道発 ドキュメンタリ宣言」だったというわけである。

実は私も、昨年11月、ある中国人から張鈺さんを取材してみないかと持ちかけられたが、スケジュール等々で折り合わず、実現しなかった経緯がある。それだけに今夜の番組は非常に貴重なものだった。

映像の強みは、証言者の告白を「画像」と「音声」の両方で伝えることができる点だ。亡くなった「方おばあちゃん」の写真が生前の芳子とそっくりだったり、彼女に育てられた張鈺さんは、彼女から「(自分が大事にしていた)『蘇州の夜』のレコードを李香蘭に渡して欲しい」という遺言を生前受けとっていたり……と、次々と意外な話が展開されていく。この時、やはり「画像」と「音声」の両方の迫力によって、信憑性がじわりじわりと増してきたのは確かだ。

張鈺さんの証言を信じるなら、川島芳子生存説はかなり有力になってくる。活字だけなら難しいが、映像が動いたことで、この歴史の謎に「新たな視点」が加わったことは間違いない。

「まず動いてみる」、そして「取り敢えず当事者に会ってみる」――そういう原理原則に忠実で、中国東北地方にまで足を伸ばしたテレビ朝日の好奇心が他社を凌ぎ、その謎に挑む「資格を得た」ということだろう。

歴史にはまだまだ埋もれた「謎」がいくらでもある。ジャーナリストやテレビマンの妥協を知らぬ果敢な闘いに今後とも期待したいと思う。ちなみに私は、今年7月出版を皮切りに「戦争3部作」に挑戦するつもりだ。ご期待いただきたい。

カテゴリ: 歴史

歴史の証言と「時間」

2009.03.27

ここのところ、高齢の方の取材が続いています。
今日も旧軍の元指揮官の方々にいろいろお話を伺いました。92歳、92歳、90歳、85歳、82歳……「老人」と一言で表現してしまっては“申し訳ない思い”がする人々です。
旧軍人の歳を感じさせない逞しさと毅然とした生きざまに感じることが多かった。知っているつもりで実は知らないこと、あるいは表に出ることなく「埋もれているもの」がいかに多いか、改めて感じました。同時に「歴史の証言」を取ることに時間的な余裕はないように感じます。
ジャーナリストのやるべき仕事は山積していますね。

夜は、なじみの銀座のバーのママが病気で店を閉じるというので、花束を持って店に行きました。ママが急激に瘦せていたのが心配。20年近く使わせてもらった店です。一旦閉めて療養に専念し、店を再開することを約束してもらって別れました。容赦なく押し寄せている不況を表すように、銀座に冷たい雨が降り出していました。

カテゴリ: 歴史

東京はやっぱり温かい

2009.03.26

4日間滞在した旭川から、最終便のJALで帰京。やはり夜でも東京は温かい。旭川に比べれば、天国です。

今日は、終戦時、樺太の真岡にいた現在82歳の方にお会いしました。無条件降伏した日本に対して、終戦後、ソ連がどんなことをおこなったか、生々しい証言をいただきました。
「終戦後」に戦争を始めたソ連軍とこれに抵抗する日本軍守備隊、そして焼き払われた真岡の町に転がっていた焼け焦げた遺体など、実際にそこにいた体験者の証言はリアルで、その惨状を余すところなく私に伝えてくれました。

また、それと前後して、スタルヒンの同級生だった現在90歳の老人にもお話を伺い、スタルヒンの少年時代の秘話を聞くことができました。
3月下旬だというのに4日前は“吹雪”で歓迎してくれた旭川でしたが、最終日の今日は穏やかで快晴の1日でした。それにしても旭川は親切な方ばかりで、4日間とはいえ、有意義な取材・撮影旅行となりました。本当にありがとうございました。

選抜(甲子園)では、秋季大会の各地区の優勝校である慶応、西条、光星学院、鵡川、国士舘、天理などが次々と姿を消す波乱が続いています。今日、早実が近畿大会優勝校の天理とがっぷり四つに組み、その末に「サヨナラ勝ち」したのが印象に残りました。
拙著「ハンカチ王子と老エース」(講談社)の取材でお世話になった早実関係者の歓喜の顔が目に浮かびます。特に今年95歳となった“老エース”島津雅男さんの感激はひとしおでしょう。今なお早実野球部OB会の名誉会長を務める島津さん、足が少し弱ったほかは元気溌剌。この甲子園勝利の重さを誰よりも知っているだけに、今日は美味しい酒をお飲みになっているのでは……?

ところで、昨日も書いたように、小沢一郎代表の居座りは、民主党にとって致命傷です。
今日発売の「WiLL」5月号に産経新聞政治部の阿比留瑠比記者が「平気で嘘をつく小沢全語録」と題して、これまでの小沢代表の語録を紹介しています。小沢氏の過去の言動に触れて「こんな恐ろしい人が次期総理と言われていたのか」と、改めて背筋を寒くしているのは私だけでしょうか。

カテゴリ: スポーツ, 歴史

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