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脱して欲しい「教育理想論」

2013.11.20

今週も福島にいる。来年に出すノンフィクションの取材が佳境に入っている。拙著『死の淵を見た男』のいわば第二弾ともいうべき福島を舞台にした作品だ。

さすがに福島も日を追うごとに寒くなっている。今朝も宿泊しているホテルから見える標高二千メートル近い吾妻(あずま)連峰の山々の頂上付近が雪化粧し、本格的な冬の到来を感じさせてくれている。

ホテルで朝食をとりながら朝刊各紙に目を通していたら、朝日新聞の「天声人語」が政府の教育再生実行会議のことを取り上げていた。同会議が打ち出している「大学入試を人物本位に変える」方針について言及したものだ。

同会議は、大学入試で、学力テストだけでなく、面接や部活、インターンシップやボランティア、海外留学といった活動も評価することを打ち出している。いわゆる“人物本位の入試”というやつである。

天声人語はこれに対して、「疑問も直ちに浮かぶ」と前置きしてこう書いている。「面接突破のテクニックを学び、自己PRの材料集めに力を注ぐ。そんな本末転倒の対策を高校生に強いるのか」と。

珍しくこの部分について、私は朝日新聞に賛同した。全国で70万人近い大学受験者を人物本位で選考することなど、不可能であることは誰にだってわかる。しかし、綺麗事の大好きなこの手の会議では、必ずこういった理想論が「幅を利かす」のである。

しかし、この手の理想論は、弊害をもたらすのが常だ。1990年代半ば、文部省の中央教育審議会が個性重視の「ゆとり教育」なるものを唱えて、学習内容や授業時間数を「3割」も削減し、日本の子供たちの学力低下を生み出し、今では、その揺り戻しである「脱ゆとり教育」が主流になっているのは周知の通りだ。

当時、このゆとり教育の実態が世の親たちに危機感を生み、「学校の授業だけでは一人前の人間にはなれない。塾へ通わせるしかない」と、逆に塾通いの子供たちを増やしてしまい、「ゆとり」どころか、それと「正反対の現象」を生み出したことは記憶に新しい。

頭が柔らかい子供の頃に “礼儀作法”や“素読”を徹底的に叩き込んだかつての日本教育が“悪”とされ、個性やゆとりという“机上の理想”によって、教育水準が先進国で最低水準に落ち込んだ反省は、きちんとできているのだろうか、と思う。

今朝の天声人語は大学入試の「傾向と対策」のことにも触れている。前述の「面接突破のテクニックを学び、自己PRの材料集めに力を注ぐ」ことは、海外留学などの経験を積むことも念頭に置いており、「裕福な家庭の子に有利になるから不公平」というわけである。

私は、常に綺麗事を前面に押し出し、理想論を振りかざしてきた同紙がこのようなことを書くのは珍しいなあ、と思っていたら、この天声人語子は、私と同じ世代だとわかった。

というのも、文章の中に「今年落ちれば来年から共通1次だという時に受けた重圧を、いまだに思い出す。若い世代を必要以上に右往左往させてはいけない」と書いてあったからだ。

ああ、この人物は翌年に共通1次試験がスタートするという戦後最大の入試改革の前年、すなわち1978(昭和53)年に大学入試を受けた人物だ、と思った。私と同じだ。

大変革を翌年に控えて“狂乱入試”と名づけられたあの時の大学入試は異常だった。田舎から入試のために東京へ出てきた私は、その狂乱入試の真っ只中に放り込まれ、それまでの2倍の併願校をそれぞれの受験生が受けるという異常事態に圧倒されたものだ。

当時の受験生は、この変革を主導した永井道雄・元文部大臣をどのくらい恨めしく思ったかしれない。おそらく天声人語子も、同じなのだろう。

うわべだけの正義を論じることが大好きな朝日新聞に珍しいコラムが載ったのは、そういう理由があったのだろう。だが、実は、三木内閣の民間登用の文部大臣になったその永井道雄氏の前職は、「朝日新聞論説委員」である。いわば天声人語子と同じだ。コラムを読みながら、私は、「これは歴史の皮肉だなあ」と、思わず笑いがこみ上げてきてしまった。

実現するはずもない理想論を唱え、受験生たちを翻弄する大人たちの姿は、今も昔も変わらない。私は、「今こそ、詰め込み教育を!」と逆のことを叫ぶ人がいたら、その人の意見はじっくり聞いてみたい気がする。

なぜなら、中国や韓国、インドなど、かつての日本の詰め込み教育も“真っ青”という教育を展開している国の若者の方が、日本の若者を今、国際舞台で圧倒しているからだ。

私は、詰め込み教育とは、すなわち、同時に「辛抱」と「我慢」を教えることでもあると思っている。辛抱と我慢が忘れられつつある日本で、もう一度、世界のどこの若者にも負けない“厳しさ”を持つ人間を育てる教育を模索して欲しいと、私は思う。

もちろん、そんな中で優しさと豊かな感性を生み出すにはどうしたらいいか、ということも専門家の方々に是非、議論していただきたいと願う。早朝、福島のホテルのレストランで雪景色の吾妻連峰を見ながら、私はそんなことを考えていた。

カテゴリ: 教育

「人権」について考える

2013.06.05

ここのところ出張と締切で、ブログの更新がままならない。書きたい話はいくらでもあるのだが、どうしても時間がなくて、日が経ってしまう。先日、私の母校の中央大学が絡んだ系列中学の不正入試問題について、卒業生の一人としてブログで感想を書かせてもらったら、驚くほどの反響があった。

ひとつのブログがきっかけで、中大関係者から数多くの情報提供をいただいた。この場を借りて、御礼を申し上げたい。その後の動きもあったので、この不正入試問題を「人権」という観点でもう一度、考えてみたいと思う。

「人権」とは、どんなことがあっても守っていかなければならない不可欠な権利であり、言うまでもなく人間にとって最も崇高な概念である。中国や北朝鮮をはじめ、今も世界の各地で人権が蹂躙(じゅうりん)され、多くの犠牲者が生まれているのは、周知の通りだ。

私は、「人権」というものについて、考えることが多い。それは、この最も崇高であるはずの「人権」が今の日本では「利用」され、「安売り」され、却って本当の「人権」が侵される事態が、私たちのまわりに非常に多くなっているからだ。

例えば、今回の不正入試事件の処理について、その典型が見てとれる。これは、先日のブログで書いた通り、昨年2月、当時の久野修慈・中大理事長(解任)が大学の有力OBの孫である受験生の「名前」と「受験番号」を系列の中央大学横浜山手中学校(現・中央大学付属横浜中学校)の校長(辞任)に伝え、校長は理事長の要請に、合格ラインを下回っていた受験生を「不正に合格させた」というものだ。

合格後、受験生側は入学手続きを済ませ、他校の受験を取りやめるなどしたが、約1か月後に「合格取り消し」を通知されたというのである。

内部告発によって、不正入試の実態を知り、合格取り消しを中学校長に働きかけたのは、中大の福原紀彦総長だ。不正合格を知った以上、総長が合格取り消しを働きかけたのは当然だった。

なぜなら、合格を取り消さなければ、公正であるはずの入学試験で「不正」がおこなわれ、それを学校側が「容認」したことになるからだ。

言うまでもないが、中央大学は国から補助金という形で、国民の巨額の税金を頂戴している教育機関である。その額は、年間およそ30億円だそうだ。

教育機関とは、入学試験において「公正さ」が求められ、また、学問の府としての「責務」を果たしていかなければならない。そのための援助を国民が貴重な税金の中からしてくれているのである。

中大では、理事長がその不正入試に「関与」しながら、総長がこれに気づいて「合格を取り消す」という教育機関としての“自浄能力”が土壇場で辛うじて発揮されたと言える。

これは、巨額の補助金を国民から戴いている中央大学にとって、まさに土壇場で“命”が救われたものと同じであったと思う。なぜなら、「理事長が不正入試に関与」し、それを知った「総長がこれを黙認」した場合、中央大学はその瞬間に、「不正入学を容認した教育機関」となるからだ。

公正であるべき入試に対して「不正を容認する教育機関」に対して、納税者の誰が自分たちの税金が支払われることを認めるだろうか。私も納税者の一人だが、少なくとも私は容認しない。

もし、この事実が発覚した場合、マスコミは「中央大学理事長が不正入試に関与。総長も不正を黙認」として大々的に報道するだろう。それは、教育機関として“致命的な結果”をもたらすものであることは言うまでもない。

だが、土壇場で福原総長は合格点に満たなかった当該生徒への合格を取り消し、教育機関としての「公正さ」を守った。しかし、昨日の新聞各紙によれば、中央大学では、この福原総長が、当該生徒の「人権を侵害した」と糾弾され、総長職の辞任に追い込まれたそうだ。

大学に設置された第三者委員会(委員長・宗像紀夫弁護士)は、(不正合格した)「児童の人権を深く傷つけた『きわめて重大な人権侵害事件』」と、福原総長の責任を指摘し、これに沿って学内で「総長辞任」を求める声に、ついに総長が抗しきれなかったのだそうだ。

象牙の塔とは、つくづく恐ろしいものである。土壇場で教育機関としての公正さを保ったことが、逆に不正合格者の「人権侵害」として、その職を追われる“もと”になったというのだから、世俗から離れた大学の中の論理というのは、理解しがたいものである。

当該の受験生に「非はない」という考え方に、私は、戦後日本が抱え込んできた「偽善」と、人権という言葉を出せば、たちまち思考停止してしまう滑稽な日本社会の有り様を見る思いがする。

大学の有力OBが、自分の孫である受験生の「名前」と「受験番号」を理事長に伝えた段階で、受験生本人がたとえ知らなくとも、受験生“サイド”に「非」は存在する。そこには、常識として、「孫をよろしく」という有力OBとしての暗黙の要求が存在するからだ。

そして当該の生徒は「合格点に足らなかった」のである。これがすべてである。この生徒が合格点さえとっていれば、大学全体、いや卒業生たちも含めて、これほど多くの人たちに不名誉な思いをさせる事件には発展していなかった。当該生徒はつらいだろうが、点数が足りていなかった以上、合格が取り消されるのは当然で、あとは、その有力OBの「家族の中での問題」である。

なぜこんなことになってしまったのか、それは家族で話し合うことであり、少なくとも「孫が人権侵害された」などというものではない。ただ、不正が発覚した以上、「教育機関として厳正な対処をおこなわざるを得なかった」というだけである。

「本人は知らなかったから非はない」「だから合格を取り消すのはおかしい」「ほかの学校を受けられなかったのは、1か月後に合格が取り消されたからだ」「これは人権侵害だ」……合格を取り消された生徒本人は、たしかに哀しかっただろう。しかし、これらの意見には、「人権」というものを取り違えた根本的な誤りがある。

もし、この合格が取り消されなかったら、人権を侵害されたのは、この不正合格者ではなく、それよりも上位の成績で不合格になった「ほかの受験生」であるはずだからだ。

その真の「人権」を言わず、当該の不正合格者の「人権」を主張する人たちは、人権の意味を取り違えている。それは、「甘え」といってもいいかもしれない。不正が発覚して、それが取り消されないほど世の中は甘くない。

私は、前述のように、不正を容認し、「不正入学には目をつぶれ」という結論を出すようなら、中央大学はまず補助金という名の国民の税金を返上すべきだと思う。

公正さを放棄し、「教育機関」としての根本を失い、堕落していく大学。私は、「人権」という本来、崇高な概念であるはずの言葉まで持ち出して、権力抗争に終始する母校の姿が、実に情けない。「人権」とは、真の意味で用いられるべきなのである。

カテゴリ: 教育

不正入試で揺れる「中央大学」の不思議

2013.05.28

いつからこんな大学になってしまったんだろう。“石が流れて木の葉が沈む”とは、まさにこのことではないだろうか。

私の母校でもある中央大学のことが今朝の産経新聞に報じられていた。昨年明らかになった中央大学横浜山手中学校(現・中央大学付属横浜中学校)の不正入試問題に絡んだニュースだ。それによれば、中大の福原紀彦総長兼学長が「総長職を辞任する意向」なのだそうだ。

記事を読んで驚いた。不正入試は昨年2月に起こったものである。当時の久野修慈・中大理事長(解任)が大学の有力OBの孫である受験生の「名前」と「受験番号」を同中学校校長(辞任)に伝え、校長は合格ラインを下回っていた受験生を不正に合格させた。

合格後、受験生側は入学手続きを済ませ、他校の受験を取りやめるなどしたが、約1か月後に「合格取り消し」を通知されたというのである。

その合格取り消しを校長に働きかけたのは、福原総長だ。不正合格を知った以上、総長が合格取り消しを働きかけたのは当然だろう。

だが、奇妙なのはそのあとだ。中大に設置された第三者委員会(委員長・宗像紀夫弁護士)が、この一件を(不正合格した)「児童の人権を深く傷つけた『きわめて重大な人権侵害事件』」と結論づけたという。

つまり、不正に気づき、不正合格者の合格を取り消させた福原総長には『きわめて重大な人権侵害がある』と、指摘したのである。そして、この第三者委員会の報告に沿って、学内でも「合格取り消し処分」に疑問の声が上がり、そのため福原総長が「総長職を辞任する」意向なのだそうだ。

一般の常識から言えば、点数が合格点に達していないことがわかった以上、「合格を取り消す」のは当然だが、中大では、それが、その不正合格者に対する「人権侵害」にあたるのだそうだ。

つまり、「不正入学はたとえ知っても目をつぶれ」ということである。おいおい、“法科の中央”は、いつから不正を奨励するような大学に成り果てたのか、と言いたくなる。

私は、人権侵害というのなら、てっきり合格を取り消しただけでなく、その生徒の氏名でも大学側が公表し、なにかの被害が生じたのかと思ったら、さにあらず。その有力OBの名前さえ明らかになっておらず、完全に当該生徒の人権は守られている。

もし、合格点に達していない不正合格者が入学を取り消されなかったら、この学校を受けて不合格になった生徒たちは、「その受験生が合格なら、点数が足らなかった自分へも合格証を出せ」と裁判に訴えることも可能だろう。

つまり、「人権侵害」を考えるなら、それは、当該生徒“以外”の受験生への「人権侵害」だろう。この中学校を受験して不合格となった受験生たちは、不正な合否判定によって、『きわめて重大な人権侵害』を受けたことになるからだ。

中央大学は、法科大学院(ロースクール)が昨年の司法試験で合格者が唯一、200名を超えてナンバー・ワンとなっている。しかし、“法科の中央”で知られるかつての名門は、もはや内実はどうしようもないレベルに墜ちたようだ。

“石が流れて木の葉が沈む”という事態が進行し、学内のゴタゴタがつづく中央大学。母校が一般の常識も通用しないようなレベルに墜ち、転落していくのを見るのは、やはりつらいものである。

カテゴリ: 教育

安倍政権と就職戦線“春の陣”

2013.04.27

今日からゴールデンウィークがスタートした。東京は見事に晴れ上がり、行楽日和そのものだった。鳥インフルなどのニュースが流れているものの、例年通りの平和そのものの黄金週間の初日である。

私のようなフリーの稼業は、もちろん休日とは縁がない。いつも取材と締切に追われている。今日も夏までに出すノンフィクションの最終的な取材に追われた。

次作は、警視庁公安部を舞台にしたものだ。私の作品はいうまでもなくノンフィクションなので、登場人物はすべて「実名」である。少なからず反響があると思う。どうかご期待をいただければ、と思う。

さて、今日は大学生の就活問題について少し書いてみたい。ゴールデンウィーク突入で、大手企業の2013年度就職戦線「春の陣」がひと段落したからだ。

もちろん中小企業の「春の陣」はこれからが本番で、それが終わると、次に夏から秋にかけて大企業が再び乗り出す“秋採用”と呼ばれる就職戦線「秋の陣」が始まる。

私は、当ブログで日本の国力をこれ以上衰退させないためにも、就職戦線のスタート時期をかつてのように「大学4年秋」に戻せ、と主張してきた。

それは、大学3年から始まる就職活動によって、大学生活自体が圧迫され、せっかく「学問」と「人間形成」という両面で大きな意味を持っているキャンパスライフそのものが“変貌”させられているからだ。

最近の大学生を見ていると、伸び伸びと人間そのものを磨くことがやりにくくなっているのではないか、と私は同情する。このままの制度では、将来的な日本の「人材枯渇」は目に見えており、それを克服することは、国家の大問題だと私は思っている。

私が就職した頃は、就職活動の解禁日は、大学4年時の「10月1日」であり、そのために、留学や長期の外国旅行など、多くの大学生が日本を飛び出して見聞を広げることが可能だった。

「就活解禁時期の問題は日本の国力そのものにかかわることで、早く“大学4年秋”に戻すべきだ」。私は講演等でも、折々にそう言わせてもらっている。

そんな中で、先週の金曜日(4月19日)、安倍総理が「成長戦略」のひとつとして大学生の「就職活動の解禁時期」を遅らせるよう、経済界に直接要請したというニュースが流れた。

経済3団体のトップを官邸に呼び、2016年3月に卒業する予定の現在の大学2年生から、就職活動の解禁時期を3年生の12月から3年生の3月に、選考活動を現在の4年生の4月から8月に、それぞれ遅らせるよう要請したのである。

要請を受けて、経団連の米倉会長が「総理からの要請を重く受け止め、会員(企業)には周知徹底していきたい」と述べた。

私は、アベノミクスの「3本の矢」のひとつである成長戦略の中に「就職活動の解禁時期を遅らせる」という方針が入っていたことに驚いた。

できれば、わずか「数か月」遅らせるだけでなく、就職活動の「解禁時期を4年生の8月、選考活動開始を4年の10月」にしてもらいたかった。だが、それでも現行より遥かにいいことは間違いない。

少なくとも今の政権にこのことに対する問題意識があることがわかって、私は少しほっとした。国家の成長戦略とは、まさに「国力を復活させる」ためにあらゆる方策をおこなうべきものであり、その第一が「人材の養成」であることは言うまでもないからである。

その意味で、安倍政権には、若い階層に向けての「成長戦略」をこれからも打ち出していって欲しいと思う。そして、ルール破りをする企業があった場合は、その名称を公表するなど、強い姿勢で臨んで欲しいと思う。

いま靖国参拝問題や尖閣問題、あるいは北朝鮮のミサイル問題など、緊迫する東アジアにおいて日本には、難問が押し寄せている。いろいろな言論が飛び交う中、安倍政権には、「毅然とした日本」「成長していく日本」を念頭に、さまざまな戦略を期待したい。

カテゴリ: 政治, 教育

駆け込み退職問題が問う「職への誇り」

2013.01.23

昨日は、午後、ニッポン放送の「上柳昌彦のごごばん!」に出演し、アルジェリア人質事件のことや桜宮高校の体罰自殺、あるいは拙著『死の淵を見た男』のことについて、かなり長時間、話をさせてもらった。

これまで何度もゲスト出演させてもらっているが、いつもながらの軽妙な上柳さんのトークに私も気持ちよく話をさせていただいた。

その時のニュースにも出ていたが、自治体職員の退職手当引き下げを盛り込んだ改正条例施行を前にして、全国で地方公務員の「駆け込み退職」が相次いでいることが、今日はさらに波紋を広げた。

教師や警察官などが3月末まで勤務して退職した場合は、1月いっぱいで辞めた場合に比べて、その間の給料を差し引いても、100万円から150万円も受け取る額が「低くなる」のだそうだ。

そのため、多くの地方公務員が「退職を急いでいる」のだが、この珍現象は、改正条例の施行時期を間違えただけで、担当者の見通しの悪さは、責められてしかるべきだろう。

しかし、全国でここまで駆け込み退職が増えていることにある種の感慨が湧くのも事実だ。3月まで一生懸命働いて、それでも100万から150万も受け取り額が減るのなら、それを防ぐために、退職の道を選ぶのは人間の意識として当然だと思う。

これまで働きに働きづめの生活を送ってきた教師や警察官たちが、今月末に退職して、その余裕のできた金額で残りの日々を海外旅行でも楽しむなり、あるいは家のローンの返済にあてるなり、さまざまなことをしていけばいいと思う。

しかし、今日、埼玉県の上田清司知事が嘆いていたように、「個人の自由とはいえ、やはり、せめて学級担任を持っている方々には、(年度末まで)頑張って欲しかった」というのも、多くの納税者の本音だろう。

埼玉県では、3月末で定年退職する公立校の教職員のうち、110人が、1月中の退職を希望しているのだという。その中には、30人のクラス担任も含まれているそうで、生徒たちは学期途中で「先生を失う」ことになる。

6年生の場合は、2か月後に、卒業式を控えている。その時、担任の先生は「いない」。理由は、退職金減への対抗手段である“駆け込み退職”だ。これには、卒業する子供たちに「大人の現実」を教える教育効果もあれば、同時に「金がすべてなのか」という失望を与える弊害もあるだろう。

私は、今の教育の現状を見れば、致し方ないと思う。「仰げば尊し」が似合った先生方は、昭和40年代、あるいは50年代までに、日本の教育現場から去っていったように思う。

あの頃、日本中の教育現場を席捲した日教組の先生たちは、自らを「労働者」と位置づけ、教壇をなくして生徒と同じ“高さ”に立った。「師」であることを放棄した労働者(教員)に親たちは尊敬の念を抱かなくなり、その結果、教師に文句ばかりをぶつける“モンスター・ペアレント”を生んでいった。

そして労働者である教員たちは、さまざまな政治闘争の最前線に立ち、「平等」をなにより大切にして教育水準を“低き”に合わせ、世界トップを誇った日本の教育レベルをあっという間に急落させ、先進国の中でも最低ランクにした。

そして、とうとう“ゆとり教育”なるものまで生み、甘えや癒しばかりを求める若者たちが増えていった。その教員たちが退職を前にした時、退職手当引き下げを盛り込んだ改正条例が目の前に現れたのである。

駆け込み退職に走る教員が全国であとを絶たないというニュースに、私は、これこそ歴史の必然だと感じた。「師」であることを拒否してきた学校の先生方が、教職への「誇り」を選ぶか、それとも「お金」を選ぶか。その答えは、すでに「出ていた」のだと思う。

だが、私は、教育現場にいる素晴らしい先生も少なからず知っている。教職に誇りを持ち、何人もの問題児を立ち直らせた先生だ。そういうプロフェッショナルな先生もまた、教育現場の根底を支えている。

私の子どもが通った小学校にいたそんな立派な先生のことを思い浮かべながら、私は、このニュースをきっかけに「職への誇り」について、あらためて考えさせられている。

カテゴリ: 教育

“世代間戦争”突入の2013年、安倍総理への注文

2013.01.05

新政権への期待が株価を押し上げ、円高にも歯止めがかかって、安倍総理の滑り出しは好調だ。だが、額賀特使の韓国派遣は、韓国が日韓犯罪人引き渡し条約に違反して靖国神社放火の中国人容疑者(38)を中国に送還したことで完全に面子(めんつ)を潰された形となった。

スタートしたばかりの安倍政権には、たとえ日本が「友好」を押し立てて韓国に擦り寄っても「恥」をかくだけだと教えられたと思えば、安い授業料だっただろう。日韓関係が性善説に基づいても「益がない」ことを安倍総理は肝に銘じて欲しいと思う。

今日は、日本の国力アップのために、まったく別の分野で安倍政権に注文をしてみたい。それは、若者の雇用、すなわち就職問題についてである。

日本は、いま団塊の世代の大量退職の真っ只中にある。今年4月からは、65歳まで働きたい希望者全員の継続雇用制度の導入を企業に義務づける「改正高年齢者雇用安定法」が施行される。段階的とはいえ、これで、実質、日本の定年は「65歳」となったわけである。

私は、この制度に半分賛成で、半分反対だ。昨今の60歳は、まだまだ“働き盛り”であり、かつての60歳とは異なる。これを活用しない手はない。私が“半分賛成”と思う所以(ゆえん)だ。

だが、これにはマイナス面もある。それは、企業の新規採用への圧迫という点である。文部科学省の学校基本調査によれば、2012年春の大学卒業者の中で、就職できた人の割合は、63・9%だったそうだ。

すなわち、大卒55万9030人のうち、就職したのは35万7285人で、派遣社員やアルバイトなど、安定的な就職を果たしていない数は、およそ12万8千人にのぼっているという。

大卒10人のうち4人が就職できない時代に、国は企業に対して「定年を65歳まで延長して希望者への雇用継続を義務づける」方針を打ち出したのである。

企業に新規採用を「絞らせる」結果をもたらす、つまり、「壮年重視」「青年軽視」の方針を国が推進するわけだ。私は、このことが日本にとって、果たしていいことなのか、疑問に思っている。

60歳定年ならば、起業や再就職など、それから先に「何かをやろうとする人」もいるだろう。それは、社会全体に新たな活力を生む効果をもたらすに違いない。

しかし、長年勤務してきた会社に「継続して65歳まで安定して雇ってもらえる」なら、そんな冒険に出る人は少なくなる。しかも、その人たちが企業に留まっているために、新規採用枠は小さくなり、その分、新卒者の活躍の場は失われることになる。

私は、改正高年齢者雇用安定法が施行される今年4月以降、日本は事実上、“世代間戦争”に突入すると思っている。優遇される団塊の世代と、バブル崩壊以降の“失われた20年”の中で生まれ育ち、そのまま就職難の時代を生きる若者とのサバイバル戦争だ。

目下、優位に立っているのは、定年を迎えた団塊の世代だ。彼らは、太平洋戦争を最前線で戦った大正生まれの親を持ち、昭和30年代終わりから40年代という学生運動華やかなりし時代に青春を謳歌した人たちだ。

団塊の世代は、反権力の意識と同時に、人権などの「権利意識」が非常に強い人が多い。スケールメリットを享受し、大量退職の今、国が新たな救いの手を差し伸べてくれている。

一方、就職期を迎えた今の新卒者は、リーマンショック以後の不況や改正高年齢者雇用安定法による採用枠の減少という逆風の中にいる。その上、就職戦線が「大学3年」から始まるため、自分を磨く時間的な余裕もない大学生活を送っている。

私は、団塊の世代が大量に定年退職を迎える「2007年問題」がクローズアップされた10年近く前から、すでに今の状況を予想していた。早く若者の力を伸ばす方針を国がとらなければ、日本は“衰退の道”を辿る、と。

残念ながら、現状はその予想通りのものになっている。以前のブログにも書いたが、就職戦線スタートは大学4年秋に戻し、研究や留学をはじめ、人生唯一のモラトリアムを若者に大いに活用してもらう環境をつくってあげなければならないと思う。

人材だけでもってきた明治維新以降の日本。少子化が進む今こそ、若者の力を伸ばし、活力ある国にするために、さまざまな施策をとって欲しいと思う。他のアジア各国の後塵を拝することにならないよう安倍総理には、まず第一にこのことを注文したい。

カテゴリ: 政治, 教育

2013年「就職戦線スタート」にあたって

2012.12.01

今日から師走だ。いよいよ2012年も残すところひと月となった。全国各地で今日も党首たちは舌戦を繰り広げている。

そんな中、2013年の就職戦線が本日、スタートした。大学3年生たちの長い長い闘いが始まったのだ。正確には、今日は、インターネットでの採用受付やセミナー開催といった企業の広報活動の解禁日である。

土曜日だというのに、大学3年生たちは日付が変わる深夜0時から各企業のホームページにアクセスして、エントリー前の“プレエントリー”の登録に必死になった。

しかし、当然ながら、人気企業のホームページにはアクセスがしにくい状態がつづき、ほぼ徹夜でパソコン相手に登録をくり返したのだそうだ。

企業の合同説明会もいくつか開催され、立ち見が出るほどの混雑ぶりだったという。だが、有名大学には、企業の側から合同説明会を開くために赴くのだそうだ。

今週号の週刊文春には、「就活12・1スタート」にまつわる特集記事が掲載されていた。それによれば、大学によって明暗がくっきりと分かれているらしい。「企業の特定大学ターゲット化」によって、採用活動の対象とする大学が「絞られている」のだという。

ターゲット校を「10校」まで絞り込む企業が多く、その大学は、「東大、京大、東北大、九州大、北海道大、大阪大、名古屋大の旧帝大7校と、早大、慶大、上智の私立3校」だという。不特定多数の大学に門戸を広げるより、効率的に質の高い学生をゲットしようということらしい。

これら10校の有名大学には、企業の側から採用の学内説明会に出向く機会が設けられるそうで、就職戦線の第一歩から、ほかの大学との「差」がついていることになる。

1980年代前半にマスコミ就職戦線を戦った私たちの年代からすれば、上記の大学以外に多くの人材がいることもわかっている。が、それらを“発掘”するより、「効率的」に、「標準以上」の人材を得たいという企業側の論理が勝(まさ)っているということなのだろう。

私は、以前のブログでも書いたが、日本の再生のためには、就職制度の改革が「不可欠」であると思っている。日本の国際競争力が低下している原因のひとつに日本の大学生の「就職活動」の問題があると思うのだ。

大学3年から始まる日本の就職戦線こそ、今後の日本の“致命傷”となっていくことは間違いない。大学3年から就職戦線がスタートすれば、学生たちは言うまでもなく「それまでに」その準備を整えなければならない。

人間として「自分を磨く」ためには、さまざまな方法がある。留学や長期の海外滞在・旅行もそのひとつだ。若者が自分の視野を広げるために人生の唯一の「モラトリアム(猶予期間)」である「大学時代」を利用することは、社会全体で、バックアップしていかなければならないと思う。

しかし、日本では社会全体が逆にそのことを阻害しているのが現状だ。その最大のものが「就職時期」の問題なのである。そのために語学力や国際的なセンス獲得を求める日本の大学生も今後、ますます減少していくだろう。

それは、そのまま国力の衰退につながる。隣国の中国や韓国が欧米への留学生送り出しに力を注いでいるのに比べて、取り残された形の日本は将来、「人材枯渇」が大きな問題となる。

大学4年の「秋」に就職戦線をスタートさせるべく、政治はイニシアティブをとらなければならないが、各地で舌戦を展開する各党の代表にそれを口にする人はひとりもいない。なんとも寂しいかぎりである。

カテゴリ: 国際, 教育

田中真紀子氏の“暴走”をどう見るか

2012.11.08

私は、いま話題になっている田中真紀子文科相の新設大学認可問題を、ほかの人とはまったく違う見方で捉えている。

これは、いつもの真紀子氏の“暴走”であり、これまで彼女がやって来たことを考えれば、不思議でもなんでもない。検討を重ねてきた「認可」を土壇場でひっくり返せば、どういうハレーションが起こるか、それすら真紀子氏にはわかっていなかったのである。

日本は、競争社会であり、いくら大学が増えようと、採算がとれなければ消え去る運命が待っている。少子化時代を迎える中、校舎も建設し、教員も集め、一定の要件を整えた上で「認可」を求めてきたのなら、それは「やってみなさい」と言えばいい。

地方でも、注目を集めている秋田県の国際教養大学のように、ユニークな教育と方針で、成果を挙げている大学も現に存在する。そうではない大学は“少子化時代”を迎えて、淘汰されていくことは、誰にでもわかることだ。

その厳しい環境に漕ぎ出していくなら、「お手並み拝見」ということだろう。それを真紀子氏は、十分な調査もしないまま、いつものパフォーマンス程度の認識で、認可にストップをかけたのである。

今回の出来事で、唯一、確かなことは、われわれ国民が、その程度のことすらわからないレベルの文科大臣を抱えているということである。

しかし、この手のことで私は、もう驚きはしない。民主党政権で大臣になる人たちのレベル、いや民主党の人材そのものが「この程度のもの」であることが、この3年間、私たちには、いやというほど突きつけられてきたからだ。

そして、そんな政党に300を超える圧倒的多数の議席を与えて、こういう事態を迎えた責任は、われわれ国民の側にあるということである。

これまで何度も当ブログで書いてきたように、この党は、“お子ちゃま”の集まりである。なかには一定の哲学もあり、勉強もし、識見を持った人もいるかもしれないが、大半は、“お子ちゃま”である。

昨年の大震災の時も、発表しなければならない原発の危機的状況を「パニックが起こるかもしれない」という理由で、それをストップした官房長官や、勝手に「現場からの全員撤退」と早とちりした大臣など、そもそも国家を運営したり、国民を率いていけるようなレベルの政治家たちの集団ではないのである。

私がいま思うことは、近づきつつある尖閣問題を端緒にする「日中紛争」ほか、多くの難題に、どうか、この“お子ちゃま集団”が関わることのないようにして欲しいということである。

彼らが、国の存亡をかけた「判断」を任せられる人たちでないことは、今回の真紀子大臣の暴走を見てもよくわかる。野田首相の任命責任が問われるような、現職閣僚による低レベルの騒動に国民はうんざりしている。

しかし、それは野田首相の危機管理のなさではなく、この政党には人材がいない、つまり単に“お子ちゃま”たちが集まった烏合の衆であるということが証明されているだけである。

まともな人材がいないから、真紀子氏のような人がまた大臣となり、そして、それが、呆れるような問題を引き起こしているだけのことなのである。

次の選挙で、歴史的惨敗を喫して政界の中心から去っていく人たちのレベルを表わす騒動として、今回の「真紀子文科相暴走事件」を冷静に見ればいいと私は思う。アメリカ大統領選挙も終わった。待たれるのは、日本の将来を決める「総選挙」である。

カテゴリ: 政治, 教育

就職戦線スタートを「大学4年秋」に戻せ

2012.10.27

今週は、東京から鳥取、そして米子、福島県のいわき、と飛行機や汽車を乗り継いで、腰を落ち着ける暇がなかった。原稿の締切に追われているため、パソコンやゲラを持ち歩いての日本縦断になった。

今日は、昼にやっと東京の事務所に戻ってきたが、さっそく午後にアメリカから来客があった。拙著『蒼海に消ゆ──祖国アメリカへ特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯』が縁で知り合うことができた女性だ。

同著の主役である零戦でアメリカの艦船に特攻した日系二世、松藤大治少尉の弟さんが住んでおられたアメリカのミシシッピ州オックスフォードから、このほど帰国された。

日系人が数少ないオックスフォードに住んでいて、拙著がきっかけになって松藤ファミリーと親しくなり、それが縁でいろいろと当地の情報をメールを通じて伝えてくれていた方だ。

メールでずっと連絡をいただいていたが、実際にお会いするのは初めてで、さまざまな話で盛り上がった。オックスフォードにあるミシシッピ大学で教壇にも立っておられた方なので、日本の留学生の話が特に興味深かった。

私は、人材面において日本の国際競争力が低下している原因のひとつに日本の大学生の「就職活動」時期の問題があると思っている。大学3年から始まる日本の就職戦線こそ、今の日本の“致命傷”となっている、と考えているのだ。

大学3年から就職戦線が始まれば、留学などで自分の視野を広げ、「人間」を磨く余裕や時間はない。つまり、日本では大学に入学した早々から「就職」を考えなければならず、そのための「大学生活」を送らなければならないのだ。

やはりミシシッピ大学でも、日本の留学生は極めて少なくなっているという。せっかくやって来た大学生も1、2年生ばかりで、しかも、「1セメスター」という“短期”の留学しかしないそうだ。

「セメスター制度」というのは、1年を2つの学期に分けて、各学期で授業を完結させて単位を取得させるものだ。日本人留学生は、1年、すなわち「2セメスター」で留学してくる人間は少なく、語学習得においても、すべて中途半端なまま帰国していく例がほとんどなのだそうだ。

中国や韓国をはじめ、どの国の留学生であれ、「1セメスター」で帰っていく留学生はいないという。日本からの留学生は、「早く帰って就職活動をしないと……」と、そればかり気にしているため、腰を落ち着けた留学などは到底望めないのである。

文部科学省が推し進め、2020年までに実現しようとしている「留学生受入れ30万人計画」なども、本末転倒な制度ではないか、という。

日本に「30万人の留学生」を受け入れるという理想は結構だが、彼らが日本で就職の道を模索すれば、それは、そのまま留学経験のある肝心の日本の大学生の門戸を狭めることになる。すなわち外国に留学して、ばりばりやって行こうとする日本の大学生がますます少なくなるのではないか、というのである。

語学力や国際的なセンスを持とうとする日本の大学生は、今後ますます少なくなっていくのではないか、と彼女は懸念していた。中国や韓国に比べて留学生の数があまりに少なくなっている日本は、将来的に人材が「枯渇」していくだろうことは、確かに容易に想像できる。

大きな原因のひとつに、「就職活動時期」の問題があることは間違いないだろう。私が就職した頃は、就職活動の解禁日は、4年時の「10月1日」だった。そのために、大学3年の時に留学や長期の外国旅行などに勇躍、多くの学生が日本を飛び出していったものである。

早くその頃に戻さなければ、日本の国際人不足はますます深刻化するだろう。場合によっては、国が企業に対して厳しい指導をおこなってでも、就職活動時期を「もとに戻す」べきなのである。こういう時にこそ、国が全面的に前へ出てくるべきなのではないだろうか。

国力復活のために、政治がダイナミックな動きをしなければならないはずである。そのためのリーダーは誰がいいのか。次期リーダーを選ぶ要素に、そういう視点も忘れないようにしたいものである。

カテゴリ: 国際, 教育

「いじめ自殺」根絶のために

2012.10.03

よくやった、と思う。滋賀県彦根市の中学3年の男子生徒2人(14歳)を滋賀県警少年課と彦根署が「暴行」と「強要」の容疑で逮捕した件である。

この男子生徒2人は、昼休み時間に同級生の男子を空き教室に連れ込み、カッターシャツを無理やり脱がせ、ズボンや下着を自分で脱ぐよう要求し、さらに、引っ張り脱がせて全裸にした。

報道によれば、2人のうち1人がそのようすを携帯電話で数枚撮影し、仲間で共有する携帯電話のアプリで見られるようにしたという。

翌日、被害生徒の元気のないようすに気づいた担任教師が本人から聞き取って、この事実が判明したそうだ。学校はただちに彦根署に相談し、被害生徒が「被害届」を出して逮捕に至ったのである。

私は、遅きに失したとはいえ、この一件を「いじめ問題」のターニングポイントにして欲しいと思っている。なぜなら、この学校側の対処と警察の出方は、「いじめ対策」の根本に据えるべき画期的なものだからである。

今まで長い間、日本の教育現場で「いじめ」への抜本対策が取られてこなかった最大の原因は、大人たちの“事なかれ主義”にある。

教師たちは、自分の指導力不足を指摘されないようにできるだけ「いじめ」を否定し、時には「気がつかないふり」をし、学校側は、常にできるだけ表沙汰にならないよう水面下でコトの決着をはかろうとしてきた。

その過程で、いじめ被害を受けた生徒が「自殺」という方法をとり、一方、それでも学校側は「いじめが自殺の原因かどうかはわからない」という判で押したような弁明に終始してきたのである。

警察も、たとえ相談を受けても、滋賀・大津のいじめ事件のように「それは教育現場でのこと」と門前払いするケースがほとんどだった。すべては、大人たちの“事なかれ主義”に起因するのは言うまでもない。

しかし、今回の彦根市の中学は、いち早く警察に通報し、警察もすぐに捜査を開始し、14歳少年を「逮捕」するという行動に出ている。

ひと昔前なら、「学校が生徒への教育を放棄した」として、非行少年側のうわべだけの「人権」を守りつづける一部新聞が中心になって、大非難を展開しただろう。

しかし、私はこれを「学校が教育を放棄した」とは、まったく思わない。いや、むしろ、自分たち「学校」だけでなく、「社会」そのものが一丸となって非行生徒たちを教育していくという強い意思を世の中に示したものだと思う。

中学生になり、善悪の分別がつく年齢になって、同級生を全裸にし、それを撮影して仲間で見えるように画像をアップすることが「犯罪」であるとわからないはずはない。

それは、明らかに「暴行」と「強要」という刑事犯罪である。これを学校が抱え込んで、内部で処理しようとしたら、非行少年はつけ上がり、そして被害少年がまた自殺するなど、大きな問題に発展した可能性は十分にある。

これまで悪いことをやっても見逃され、甘やかされてきた非行少年たちに、学校だけでなく警察を含めた大人たちが「そんな甘えは許さない」と、本気で乗り出してきたのである。

これまで、なぜ教師たちが非行少年の悪業を見逃してきたかと言えば、教師の査定が「減点主義」に基づいていたからにほかならない。

自分のクラスでいじめが発覚し、それで指導力不足を指摘され、査定で減点されるなら、できるだけ隠蔽したくなるのは、人間の情として当然だ。

では、これから、現場の教師に今回のようにいち早くいじめを発見し、それを学校に報告し、刑事犯罪である場合には、警察に相談することができたことを査定で「プラス評価」するようにしたら、どうなるだろうか。

これまで、「マイナス評価」にされていたものを、逆にプラスと評価するのである。つまり、今回の彦根市の中学がとった行動を「是」とし、それを教育現場での「基本」とする。

それをプラスとして評価する姿勢を学校や教育委員会が持つことができれば、少なくとも陰湿ないじめによる被害生徒が減っていくことは間違いない。そして、それは同時に生徒の「命」を守る砦と成り得るのではないだろうか。

滋賀県警が大津いじめ事件に対する世間の大非難から“復活”して下した「14歳逮捕」という英断を、各都道府県が「いじめ自殺」根絶の第一歩とできるか、私は注目したい。

カテゴリ: 教育

大津いじめ事件と「警察」

2012.07.18

世間を騒がせている大津のいじめ事件における「警察の動き」を国民はどう見ているだろうか。おそらく、多くが「いい加減にしろ」と思っているに違いない。

私は、大津警察署がとった行動にこそ、事件の本質が隠されているような気がしてならない。自殺した中学2年生(13)は、殴る蹴るはもちろんのこと、「自殺の練習」をさせられ、死んだハチを食べろと命令され、亡くなる前日にはマンションの自室も荒らされていた。

その父親が息子の死後、暴行の「被害届」を出しに大津署に行ったが、3度も「受理してもらえなかった」というのである。市民の生命と安全を守るべき警察が、死んだ息子の無念を胸に相談にやって来た父親を3度も“門前払い”にしているのである。

そこには同じ「人の親」としての思いやりや憐憫の情、洞察力……等々が全く窺えない。その神経は、異常というほかないだろう。しかし、私はそこにこそ、この事件のポイントがあると思う。

単に「いじめ」といっても、それは千差万別だ。中学生ともなれば、学校の先生を腕力で凌ぐ生徒などいくらでもいる。また、やくざの息子もいれば、平気で先生を脅すような親も少なくない。

そんな学校現場で、いじめや校内暴力を止めるためには、警察との連携が不可欠であることは自明だ。だが、肝心の警察が、そもそもそんなことに「理解」もなければ、「やる気」もないのである。

つまり、日本の警察には、いつまで経っても「学校のことは、学校で処理せよ」という頭しかない。私は、日本の警察の意識を変え、警察が行動しやすい体制さえつくれば、いじめや校内暴力をなくすのは、実はそれほど難しいことではない、と思っている。

つまり、警察力の「教育現場への介入」を積極的に押し進めることだ。いじめを見れば、まず教師が対策を話し合い、それでもダメなら、早い段階で「警察力を利用」することである。そのことが当たり前のごとくおこなわれるようになれば、ワルどもが「やりにくくなる」のは当然である。

そういう警察力の介入を積極的におこなう教育現場を社会が「非難する」のではなく、逆に「評価する」姿勢ができれば、いじめの被害者は激減するだろう。

子供たちの生命を守るためには、当然すぎるこういうことがこれまでできなかったのは、いつも浮世離れした“書生論”ばかり展開する新聞メディアに責任がある。

世の自称・人権派たちと組んで、新聞ジャーナリズムがそれを阻止したり、批判したりしなければ、命の助かる生徒がどれだけ増えるだろうか、と私は思う。いじめによる自殺者をなくすには、教育現場と新聞ジャーナリズムが“偽善”から脱却することが、まず第一なのである。

カテゴリ: 教育

生き残る「大学」はどこか

2011.10.30

昨夜、母校・中央大学の新学長に決まった法学部の福原紀彦教授のお祝いに親しい人間が集まった会が新宿のホテルであった。福原教授は、中央大学野球部の部長でもあり、私も長くおつきあいをさせてもらっているので駆けつけた。

会場につくと福原教授のお祝いだけでなく、私の「山本七平賞受賞」のお祝いまでやってくれる段取りになっており、びっくりした。いきなり壇上に上げられてスピーチということになってしまった。

福原教授の温かい人柄を表わすようにアットホームな会だったので、ざっくばらんに話をさせてもらった。それぞれの大学が今後、どう生き残っていくのか、私もジャーナリズムの人間として大いに興味を持っている。少子化や長引く不況によって生き残る大学とそうではない大学が、だんだん明確になってきているからだ。

今年、明治大学が受験生の数で2年連続トップをとり、早稲田大学が前年まで11年連続1位だった王座を完全に奪い去った。当然、大学入試の難易度も上昇しており、付属校の明大明治高校をはじめ、系列校も人気校となってきている。

かつての私学の「人気地図」に変化が生じているのは、間違いない。マスコミ・ジャーナリズムの分野でも、多くの人材を送り込む大学と、かつては名高いジャーナリストを生みながら、今はほとんど送り込めなくなっている大学もある。

福原新学長は中央大学法科大学院の院長も務め、司法試験合格者で常にトップを競う土台をつくった手腕の持ち主だ。私は、そのあたりの期待を込めてスピーチをさせてもらった。

会では、久しぶりに会うかつてのサークル仲間たちもおり、時間が経つのを忘れて話し込んでしまった。締切に追われている私にとって、ほっとした、そして英気を養う貴重な時間となった。

カテゴリ: 教育

「坂の上の雲」は今、何を問うのか

2009.11.30

大宣伝を展開していた鳴り物入りのNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」を観た。松山出身の秋山好古、真之兄弟と正岡子規らの「青年時代の大志」と「波乱万丈の生涯」を描く司馬遼太郎作品の映像化である。

ひたすら“前”だけを見て突き進んでいった当時の若者の姿はやはり壮快だ。殊更そう感じたのは、その青春群像が「甘え」や「癒し」ばかりを求める昨今の日本の風潮とあまりにコントラストを描いていたからだろうか。

特に、貧乏のどん底から這い上がっていく男たちの逞しさは、同じ四国出身者として興味深かった。私は、伊予の隣の土佐の出身だが、こちらは自由民権の本場である。今も、はりまや橋のすぐ近くにある高知中央公園の立志社跡には、「自由は土佐の山間より出ず」という碑がどっしりと座っている。

あの四国の片田舎から遠い遠い東京へ出て行って勝負する心境は、今の若者がいきなり外国へ出向いて行くことより、はるかに重大な決断が必要な「大事業」だったに違いない。

教育を受けたくても「受けられない人間」ばかりだったあの時代。自殺者が増え続ける今の教育現場と一体、どこが違うのだろうか。

子供たちを甘えさせ、「個性」という名の“わがまま”を増殖させてきた戦後教育と、日教組が「ついに天下を取った」と言われる民主党政権の中で権力を振るう輿石東・民主党代表代行。

ばりばりの日教組出身の輿石氏は今、「私は日教組とともに戦っていく。永遠に日教組の組合員であるという自負を持っている」「教育の政治的中立はありえない」という発言をおこなっていたことが明らかになり、国会でも問題になっている。

青雲の志を描く司馬作品を、そういう現代の教育現場との比較で観てみると、なんとなく味わいが増してくる気がする。

カテゴリ: 教育

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