門田隆将オフィシャルサイト | kadotaryusho.com

  • 最新情報
  • プロフィール
  • 著作リスト
  • 講演のご依頼
  • ブログ
(C) KADOTA RYUSHO. ALL RIGHTS RESERVED.
BLOG | KADOTARYUSHO.COM

ブログ

今村復興相「報道」 メディアの呆れた実態

2017.04.06

議論する時に、相手の意見を捻じ曲げたり、歪めたりして自分が主張しやすいように変えるやり方を「ストローマン手法」、あるいは、「わら人形論法」と言う。そのままでは、議論に負ける時に、相手の言っていること自体を変えてしまうのだ。

わら人形や案山子(かかし)は「簡単に倒す」ことができるので、つけられた名称とされ、欧米では最も軽蔑されるディベートの方法でもある。

しかし、日本の新聞やテレビでは、この手法が「日常的に」取り入れられている。当事者の発言内容を意図的な編集で切り取り、歪めてしまうのだ。その上で、発言主を徹底的に攻撃するのである。

今、大きな問題となっている今村雅弘・復興相の発言に対する報道でも、典型的な「ストローマン手法」が用いられている。国民の多くは、今村大臣の激高部分だけをくりかえし見させられて、「なんて横暴な大臣だ」と思い込んでいるだろう。

しかし、実際のやり取りはどうだったのか。意図的な編集をされていないだろうか。そんな観点で問題となった4月4日午前10時からおこなわれた閣議後会見を見てみると、新たな事実に気がつかされる。むしろ、その「一部始終」を見た人は、逆に、今村大臣の方に同情してしまうのではないだろうか。

まず、問題は「自主避難者」の問題であることを頭に置かなければならない。自主避難者とは、政府の避難指示の範囲外から、自主的に県外へ避難した人々のことだ。福島第一原発から遠く離れた会津地方の人もいれば、郡山といった大都市から、自主的に県外へ出て行った人もいる。

その自主避難者への住宅の無償提供が、震災後6年を経て2017年3月末で、福島県が打ち切った。震災後、6年もの長期にわたって「自主的に」避難していた人たちに住宅の無償提供が続いていたこと自体が驚きだが、フリーランスの記者は、このことについて、こう質問している(以下、復興庁ホームページと録画テープの聞き起こしによる)。

(問)福島県外、関東各地からも避難している方もいらっしゃるので、やはり国が率先して責任をとるという対応がなければ、福島県に押しつけるのは絶対に無理だと思うんですけれども、本当にこれから母子家庭なんかで路頭に迷うような家族が出てくると思うんですが、それに対してはどのように責任をとるおつもりでしょうか。
(答)いや、これは、国がどうだこうだというよりも、基本的には、やはり、ご本人が判断をされることなんですよ。それについて、こういった期間についてのいろいろな条件つきで環境づくりをしっかりやっていきましょうということで、そういった住宅の問題も含めて、やっぱり身近にいる福島県民の一番親元である福島県が中心になって寄り添ってやる方がいいだろうと。
 国の役人がね、そのよく福島県の事情も、その人たちの事情もわからない人たちが、国の役人がやったってしようがないでしょう。あるいは、ほかの自治体の人らが……。だから、それは、あくまでやっぱり一番の肝心の福島県にやっていっていただくということが一番いいという風に思っています。それをしっかり国としてもサポートするということで、この図式は当分これでいきたいという風に思っています。
(問)それは大臣ご自身が福島県の内実とか、なぜ帰れないのかという実情を、大臣自身がご存じないからじゃないでしょうか。それを人のせいにするのは、僕は、それは……。
(答)人のせいになんかしてないじゃないですか。誰がそんなことをしたんですか。ご本人が要するに、どうするんだ、ということを言っています。
(問)でも、帰れないですよ、実際に。
(答)えっ。
(問)実際に帰れないから、避難生活をしているわけです。
(答)帰っている人もいるじゃないですか。
(問)帰っている人ももちろんいます。ただ、帰れない人もいらっしゃいます。
(答)それはね、帰っている人だって、いろんな難しい問題を抱えながらも、やっぱり帰ってもらってるんですよ。
(問)福島県だけではありません。栃木からも群馬からも避難されています。
(答)だから、それ……
(問)千葉からも避難されています。
(答)いや、だから……
(問)それについては、どう考えていらっしゃるのか。
(答)それは、それぞれの人が、さっき言ったように判断でやれればいいわけであります。
(問)判断ができないんだから、帰れないから避難生活を続けなければいけない。それは国が責任をとるべきじゃないでしょうか。
(答)いや、だから、国はそういった方たちに、いろんな形で対応しているじゃないですか。現に帰っている人もいるじゃないですか、こうやっていろんな問題をね……。
(問)帰れない人はどうなんでしょう。
(答)えっ。
(問)帰れない人はどうするんでしょうか。
(答)どうするって、それは本人の責任でしょう。本人の判断でしょう。
(問)自己責任ですか。
(答)えっ。
(問)自己責任だと考え……。
(答)それは、基本はそうだと思いますよ。
(問)そうですか。わかりました。国はそういう姿勢なわけですね。責任をとらない、と。
(答)だって、そういう一応の線引きをして、そして、こういうルールでのっとって今まで進んできたわけだから、そこの経過はわかってもらわなきゃいけない。だから、それはさっき、あなたが言われたように、裁判だ何だでもそこのところはやればいいじゃない。またやったじゃないですか。それなりに国の責任もありますねといった。しかし、現実に問題としては、補償の金額だって、ご存じのとおりの状況でしょう。
 だから、そこは、ある程度これらの大災害が起きた後の対応として、国としては、できるだけのことはやったつもりでありますし、まだまだ足りないということがあれば、いま言ったように福島県なり、一番身近に寄り添う人を中心にして、そして、国が支援をするという仕組みでこれはやっていきます。
(問)自主避難の人には、お金は出ていません。
(答)ちょっと待ってください。あなたはどういう意味でこういう、こうやってやるのか知らないけど、そういう風にここは論争の場ではありませんから、後で来てください。そんなことを言うんなら。
(問)責任を持った回答をしてください。
(答)責任持ってやってるじゃないですか。なんていう君は無礼なことを言うんだ。ここは公式の場なんだよ。
(問)そうです。
(答)だから、何だ、無責任だって言うんだよ。
(問)ですから、ちゃんと責任……
(答)撤回しなさい。
(問)撤回しません。
(答)しなさい。出ていきなさい。もう二度と来ないでください、あなたは。

以上である。二人の議論は嚙み合っていない。自主的に避難した人たちに「6年間」も援助をおこない、それが、打ち切られたことに、このフリーランスの記者は異議を唱えている。

「帰れない人はどうするんでしょうか」「栃木からも群馬からも、千葉からも避難されています」「自己責任ですか」「責任を持った回答してください」……等、かなり強引な質問をおこなっている。これに対して、今村大臣は、「本人の責任」であり、「本人の判断」だと答えている。

政府の避難指示の範囲外から「自主的に」避難した人たちに対して、「6年間」も住宅援助してきたこと自体に驚く人もいるのではないだろうか。このフリーランスの記者と自主避難者の論理は、福島は「これからもずっと人の住めない土地」であり、そのために援助が続けられるのは「当然だ」ということにあるのだろう。

しかし、風評被害に苦しむ福島では、懸命な調査によって集められた科学データが、その手の偏見を打ち砕きつつある。福島県内の大半の地域で、放射線量は日本の他のどの地域とも変わりはしないという客観的事実が浮かび上がり、地元紙の福島民友新聞には、毎日の朝刊に、県下286か所での放射線量の測定数値が掲載されている。

だが、福島県内の線量が正常値を示し、復興してくれては困る人たちも現に存在している。それらを「都合の悪い数値」と捉える人もいるのである。いまも、数値的になんの問題もない地域から自主的に避難している人々には、これらの「数値」はどう映っているのだろうか。それらは、「援助を出せ」と迫る根拠を失わせるものであることは間違いない。

この質問の中で、フリーランスの記者は、「群馬」や「栃木」、「千葉」からの避難者に対しても「帰れないから避難生活を続けなければいけない。それは国が責任をとるべきじゃないでしょうか」と質問している。

きっと今村大臣は、「なんで、そんな人まで……」と思ったに違いないが、それでも丁寧に答えている。本来は、会見を仕切る役所の人間が、その時点で質疑をストップさせるのが当然だろう。

もう、大臣とやりとりするような話のレベルではないからだ。しかし、それを怠ったところから、今回の事態が惹起(じゃっき)されたことがわかる。

「群馬」や「栃木」、「千葉」からの避難者に対しても、私たち国民の税金から援助をしなければならないのだろうか。そもそも、なぜ「群馬」や「栃木」、「千葉」から避難しなければならないのか。風評被害に苦しむ福島の人々の姿を知る私には、とても納得することはできない。しかし、日本の新聞は、これらを以下のように報じている。

朝日新聞
〈「切り捨てたい国の本音」 自主避難者ら反発 復興相発言〉(4月6日付)
〈今村復興相 避難への無理解に驚く〉(同日社説)
毎日新聞
〈「自主避難者帰還は自己責任」 復興相発言、野党が批判〉(6日付)
〈復興相発言「悲しい」 自主避難者ら抗議次々〉(同)

まともに報じれば、大臣側に同情が集まる可能性がある。そこで、各メディアは、いつもの「ストローマン手法」を用いて、できるだけ今村大臣への怒りが増幅されるように記事を仕立て上げている。

しかし、そんな日本の新聞やテレビのやり方は、とっくにバレている。ネットでは、フリーランスの記者の質問内容に対して、喧々諤々(けんけんがくがく)の論争が巻き起こっている。新聞が、とても「若者の信頼」を勝ち取ることができないメディアになり果てたことを「再確認」させてくれる出来事だったことは間違いない。

カテゴリ: 原発

風評被害との闘いがつづく「震災4周年」

2015.03.11

今日で、震災から4年が経った。昨日も、原発事故に関して都内で講演をさせてもらった。歳月の流れの速さを最近とみに感じる。本日は、4周年に合わせて政府主催の追悼式が千代田区の国立劇場で営まれた。

天皇・皇后両陛下、安倍総理、犠牲者の遺族代表ら約1200人が参列したこの追悼式典で心に残ったのは、遺族代表の菅原彩加さん(19)のスピーチだった。

それは、聴く者の胸を締めつけるものだった。一緒に津波に流された母親から「生きる」ために離れなければならなかった4年前のことを彼女はこう語った。

「釘が刺さり、木が刺さり、足は折れ、変わり果てた母の姿。右足が挟まって抜けず、一生懸命、瓦礫をよけようと頑張りましたが、私一人ではどうにもならないほどの重さでした。母のことを助けたいが、このままここにいたら、また流されて死んでしまう。“助けるか”“逃げるか”――私は自分の命を選びました。

いま思い出しても涙が止まらない選択です。最後、その場を離れる時、母に何度も“ありがとう”“大好きだよ”と伝えました。“行かないで”という母を置いてきたことは本当に辛かったし、もっともっと伝えたいことも沢山あったし、これ以上辛いことは、もう一生ないのではないかなと思います」

彩加さんが、静かに、そして淡々とスピーチしただけに、余計、聴くものに哀しみが込み上げてきた。彼女の今後の人生に幸多かれ、と祈らずにはいられなかった。

私はこの4年で、震災関連のノンフィクションを4冊も出させてもらったが、それでも、まだまだ書かなければならないことがあることを痛感した。

今、4年が経って、私の頭を離れないのは、果たして“復興の障害”になっているのは何だろうか、ということだ。

昨年9月、すでに浜通りを走る「国道6号線」も、全線開通となった。福島県の富岡町-双葉町間の通行止め区間およそ14キロの通行規制が解除されたのだ。すなわち、福島第一原発の横を一般車も走行できるようになった。JR常磐線の開通も、やっと視野に入ってきた感がある。

復興自体は、着々と進んでいるのだ。だが、福島には、今ひとつ元気がない。私は先週、福島を訪れたが、その際、福島民友新聞のインタビューを受けた。

その記事が一昨日(3月9日朝刊)に掲載された。私はこの時、福島民友新聞を見て、驚いたことがある。それは毎朝の同紙に、福島各地の定点で測った放射線量が掲載されていたことだ。

さらに毎週日曜日には、世界の主要都市の放射線量も掲載されている。たとえば3月1日(日)に掲載された福島市内の放射線量は0・1~0・2マイクロシーベルト(毎時)で、上海の0・59マイクロシーベルト(同)より圧倒的に少ない数値だ。

さすがに福島第一原発の「立地自治体」であり、「帰還困難区域」でもある大熊町、双葉町などの数値は高いが、福島県内各地の放射線量は、とっくに他の都道府県と同じレベルになっているのである。

私は、福島民友新聞に掲載されている客観的なこれらの数値を見ながら、それでも「復興の障害になっているのは一体、何だろうか」と考えた。

それは、「風評被害」ではないだろうか。つまり、必要以上に放射線の影響が喧伝(けんでん)されている、ということである。

私はそれを踏まえて福島民友新聞のインタビューに「福島の風評被害の払拭(ふっしょく)には、客観的なデータを積み上げることが最も大事だ」と指摘させてもらった。

マスコミは、他県とも変わらない普通の日常をおくっている福島の本当の姿をもっと報じるべきではないだろうか。そして、風評被害に苦しむ福島に「真実」という名のエールを送るべきではないだろうか、と思う。

私は、拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』で、福島に生まれ育った男たちによる凄まじい原発事故との闘いを描かせてもらった。生と死をかけて、原子炉建屋に突入を繰り返したプラントエンジニアたちの姿には、心を動かされた。

吉田所長が語った「あのままいけば、チェルブイリ事故の10倍になっていた」という絶望的な状況で、彼らは何をおこなったのか。彼らこそ、4年前、日本の崩壊を止めた人たちである。

つまり、福島が「日本を救った」のだ。私は、そのことを多くの人に知って欲しいと思う。「日本を救った福島」として、誇りと自覚を持つことが大切だと思う。私は、そのことを誰よりも子どもたちに知って欲しい。そして、あなたたちの先輩は、こういうふうにして日本を救ったんですよ、というメッセージを送りたい。

風評被害を脱するためには、それをまき散らす運動家たちの言動に惑わされないことが、まず大切だ。もはや各地点の放射線量も、そして農作物も、とっくに福島は安全基準をクリアしている。

そのことを客観的なデータとして、マスコミには是非、報じて欲しいと思う。昨年12月、私が浜通りの高校生に向けて講演した時、生徒たちから「地元の人たちがこれほどのことをしたということに、心が動かされた」という感想が寄せられた。

なにより大切なのは、「真実を知ること」である。福島には、風評被害と真っ正面から向きあってその“根源”を断ち、一刻も早い真の意味の復興を望みたい。

カテゴリ: 原発, 地震

「日本を貶める朝日新聞」は生き残れない

2014.08.31

いよいよ読売新聞も共同通信も“参戦”してきた。私は昨日の読売新聞、そして共同通信の配信記事を掲載した本日の地方紙の各紙を見て、いったい朝日新聞はどんな対応をとるのだろうか、と思った。

読売新聞も共同通信も、産経新聞につづいて「吉田調書(聴取結果書)」を入手し、「吉田調書の全容が明らかになった」として、大展開したのである。特に、読売新聞の報道量は凄まじいものだった。各面で、朝日新聞の「吉田調書報道」が誤報であることを繰り返して伝える紙面となっていたからだ。

1面トップでは、〈福島第一 吉田調書 「全面撤退」強く否定 「第二原発へ退避正しい」〉、2面で〈朝日報道 吉田調書と食い違い〉、3面では〈退避 命令違反なし〉、社会面トップの39面では、〈「命賭けて作業した」 吉田調書「逃亡報道悔しい」第一原発所員語る〉という記事を掲げたのだ。

つまり、産経新聞と同じく読売新聞も、吉田調書の“現物”を読んだ上で、朝日新聞の「吉田調書報道」を全面否定し、糾弾したのである。産経新聞につづき、これほどライバル社が同業他社の記事を“全否定”する事例は珍しい。朝日の手法に対して、同業者として、そして同じジャーナリストとして、“怒り”が抑えられなかったのだろう、と思う。

そして、共同通信の中身も痛烈だ。こちらも、吉田調書を入手し、〈吉田氏は聴取に、命令違反があったとの認識は示していない〉〈2Fまで退避させようとバスを手配した〉と、朝日の報道内容を全面否定した。

しかも、共同通信には、当時、免震棟内の緊急時対策本部で総務班長を務めた男性社員(46)が、退避前夜の3月14日、2号機の危機的状況を目の当たりにした吉田氏の命令で自分が避難先を探したと明らかにした上で、「第2原発に退避することは前夜のうちに決まっていた。吉田所長も理解していた。“命令違反”と書かれているが、それはいったい何だという感じです」と証言している。

この共同通信の記事は、今朝の地方紙を中心に一斉に掲載されている。私はこれらの報道をある種の感慨をもって見つめている。朝日新聞が5月20日から始めた「所長命令に違反して現場の9割の所員が撤退した」というキャンペーン記事に対して、私がブログで異を唱えたのは、5月末のことだった。

吉田所長以下、福島第一原発(1F)の事故現場で闘った多くの人々を取材していた私は、朝日新聞の報道が「虚偽」であることがすぐにわかったからだ。日本が有史以来、最大の危機に陥った2011年3月15日朝、福島第一原発の免震重要棟にいた女性社員を含む約700人の内、9割の所員が所長命令に「従って」、福島第二原発(2F)に「退避した」ことを私は知っていた。それが、たった一つの「厳然たる事実」である。

拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日―』の中でも、そのことは詳細に記述している。退避に先立つ3時間以上前(3月15日午前3時過ぎ)には、東電本店から「退避の手順」として、「健常者は2Fの体育館へ」「けが人は2Fのビジターへ」と具体的な退避先の建物も決められ、1Fに伝えられていた。退避する時は、「2Fへ」というのは、吉田所長以下、全員の共通認識だったのだ。

大きな爆発音が轟き、2号機の圧力抑制室(サプチャン)の圧力がゼロになった午前6時過ぎ、吉田所長は「各班は最少人数を除いて退避!」と叫んでいる。免震重要棟にいた女性社員を含むおよそ650人が、この吉田所長の命令に従ってバス5台と自家用車に分乗して、あらかじめ決められていた通り、「2Fに向かった」のである。

しかし、これが午前5時36分に東電本店に乗り込んだ菅首相の「逃げて見たって逃げ切れないぞ」「東電は100パーセント潰れる!」という大演説の直後だっただけに、吉田所長は、全体に流れるテレビ会議の発言では、菅首相がテレビ会議の映像を見ていることを前提に慎重な発言を繰り返している。

朝日新聞は、吉田調書の一部を取りだして「所長命令に違反して所員の9割が撤退した」と報じ、吉田所長の本当の命令は「1F構内か、その近辺にとどまることだった」と書いたのだ。

しかし、現場を少しでも取材したことがあるジャーナリストなら、これがいかに非常識であるかは、即座にわかる。なぜなら、1Fの中で最も安全な場所は、彼らがいる「免震重要棟」である。そこから出て、その約650名は、いったい構内のどこに行けばいいというのだろうか。放射性物質大量放出の危機に、防護マスクも圧倒的に不足している中で、どこかの“木陰”にでも「隠れていろ」という命令を吉田所長が出したとでもいうのだろうか。

朝日新聞は、一連のキャンペーン記事の中で、世界から称賛されたあの“フクシマ・フィフティー”も、福島原発に留まったのは、所員9割が所長命令に違反して2Fに撤退してしまった「結果に過ぎない」とまで書いたのである。

朝日の思惑通り、外国のメディアは朝日の報道を受けて、「パニックに陥った原発所員の9割が命令に背いて逃げ去った」「これは、“日本版セウォル号事件”だ」と大々的に報じたのは周知の通りだ。

しかし、各メディアが入手した「吉田調書」には、朝日が書いた「命令違反で所員の9割が撤退した」との吉田証言は存在しなかった。

吉田所長をはじめ、現場の人間に大勢取材している私は、現場の真実を知っている。だからこそ、朝日の第一報があった時、「ああ、いつものやり方だ」と、即座に理解できた。

それは、政治家や官僚などのちょっとした発言の「言葉尻」を捉えて中国や韓国の要人に“ご注進”し、それを打ち返して「大問題」にしていく、いわゆる“ご注進ジャーナリズム”を得意としてきたメディアならではの「手法」だと思ったのである。

朝日新聞が「吉田調書」の中の一部分の言葉尻を捉えて、事実とは真逆のことを報じてきた――そのことは、私にかぎらず、あの事故現場を取材してきたジャーナリストたちには、すぐにわかったのである。

私は、朝日の記事を全面否定する今回の報道が福島第一の現場に食い込んでいるメディアによるものであることに注目している。彼らには、当初から朝日の報道が虚偽であることはわかっていたが、吉田調書の現物を入手できていないために、これまでそれを「否定する報道」ができなかっただけなのである。

だが、政府が吉田調書の公開を決めたことにより、ついにこれを各メディアが入手し始めた。それは、そのまま朝日の誤報を白日の下に晒す結果につながったのである。

私が5月末にブログで意見を発表後、週刊誌、写真誌、月刊誌、インターネットテレビ、新聞が次々と私の論評を取り上げてくれた。そして、ついに先日の産経新聞につづいて読売新聞、そして共同通信も吉田調書を手に入れ、朝日新聞のその報道を全面否定したのである。それは、私が声を上げて、わずか「3か月後」のことだった。

私は、何十年か後になってこの「吉田調書」が公開された時、初めて朝日新聞の“誤報事件”が明らかになるだろう、と思っていた。しかし、何十年か経ってからでは、言うまでもなく意味はない。だから、正直言えば、ある種の“虚しさ”を覚えつつ、私は一連の論評を発表していた。

つまり、「吉田調書」の事実を捻じ曲げて、現場の職員、つまり「日本人を貶めた」朝日新聞の手法が、白日の下に晒されることなど「まずないのではないか」と思っていたのだ。

しかし、従軍慰安婦の検証記事を朝日新聞が発表(8月5、6日)以降、事態は急変した。慰安婦狩りの証言記事を撤回するまでに32年かかったとはいえ、正式に朝日は慰安婦狩りの証言記事を撤回した。

そこから、この「吉田調書問題」も、急展開してきたのだ。まず産経新聞、そして読売新聞、そして配信を始めた共同通信を含めたメディアは、実際に吉田調書の“現物”を手に入れて、堂々と朝日の「誤報」を取り上げ始めたのだ。

朝日新聞がいかに「誤報」をおこなったか、意図的な編集はどうおこなわれたか。ここに国民の関心が集まることは、実に貴重なことだと思う。私は、これは朝日新聞の“終わりの始まり”だと思っている。

それは、近く政府から公表される「吉田調書」によって、国民自ら、朝日新聞の「日本を貶める手法」を確認することができるからだ。「なぜこの調書で、あんな“真逆の記事”ができるのか」。それを国民は自ら、その目で判断できるのである。

私は、朝日新聞から抗議書を送付され、「法的措置」を講じることを検討する、という脅しの文句を伝えられている身だ。それは、言論機関とは到底思えない“圧力団体”の手法でもある。その当の朝日新聞が、どんな“意図的な編集”をおこなっているか、国民が自分の目で確かめればいいのではないか、と思う。

自らは現場で命をかけて奮闘した人々の「名誉と信用」を傷つけたことを恬(てん)として恥じず、それに批判の論評を掲げたジャーナリストに対しては、法的措置をちらつかせる抗議書を送りつける――私は、朝日新聞に対して、もはや言うべき言葉はない。

私の論評に対して、「朝日新聞社の名誉と信用を著しく毀損しており、到底看過できません」という抗議書を送りつけた朝日新聞は、それよりも明確な“完全否定”をおこなった読売新聞と共同通信に対して、どんな抗議書を送るのか、私はまずそこに注目したい。

しかし、「真実はひとつ」しかない以上、朝日新聞がどんなに抗(あらが)っても、いくら弁明しても、吉田調書報道の正当性を主張するのは、もはや無理だと私は思う。

私はコメントを求められたために、吉田調書の全文を読ませてもらったが、先日の産経新聞、今日の読売新聞と共同通信は、「吉田調書」の真実を客観的に報じている。それが私の率直な感想である。

「朝日新聞以外のメディア」は、読者に吉田調書の内容を「正確に伝えている」ので、朝日の“現場の人間”を貶める意図的な「編集とその手法」は、これから徹底的に分析されていくに違いない。

しかし、一度失われた名誉を回復するのは、難しい。世界中に流布された「現場の人間は逃げた」という内容は、なかなか払拭(ふっしょく)されないだろう。それは、従軍慰安婦報道と同じだ。日韓関係を徹底的に破壊し、世界のあちこちに従軍慰安婦像が建つような事態をもたらした朝日新聞の従軍慰安婦報道と同じく、失われた日本人の信用は、容易に回復されないだろう、と思う。

今週、朝日に広告掲載を拒否された『週刊文春』の記事の中に国際ジャーナリストの古森義久氏が、こうコメントしていた。「彼ら(筆者注=朝日新聞のこと)は日本という国家が嫌いなんですよ。日本は弱ければ弱いほどいい、という中国共産党と同じ発想。自らが信じる政治的なイデオロギーに合ったものしか選ばないから、結果的に間違えてしまう。それが朝日の体質なんでしょう」

また、『週刊現代』には、元朝日新聞記者の本郷美則氏の「朝日、特に社会部系は左傾した偏向報道を続けてきたが、それももう限界だろう。ニューメディアの普及により情報伝播は民主化され、旧メディアが民衆を操作する時代は終わったのだ」という意見も紹介されていた。

私も両氏と同意見である。私は反原発でも、原発推進の立場でも、どちらでもない。なぜなら、両方の意見に「一理がある」からだ。しかし、反原発という強固な主張を持つ朝日新聞が、その“イデオロギー”に基づいて、事実を捻じ曲げてまで「吉田調書」を偏向報道したことは、朝日にとって致命的だと私は思う。

それは、慰安婦報道と同じく、意図的に「日本を貶める」ことを前提としていることが国民の前に明らかになるからだ。私は、もはや朝日新聞が日本で「生き残る」ことは無理だと思う。それが、私が「朝日新聞の終わりの始まり」と思う所以である。

カテゴリ: マスコミ, 原発

共同通信が決着させた朝日新聞「吉田調書」誤報事件

2014.07.25

どうやら朝日新聞の「吉田調書」の“誤報事件”も決着がついたようだ。共同通信の連載記事『全電源喪失の記憶~証言福島第一原発~』が、ようやく問題の「2011年3月15日朝」の場面に辿りつき、その時のようすが克明に描写されたのである。

地方紙を中心に連載されているこの記事は、今年3月に始まり、現在、70回以上に達している。異例の長期連載と言っていいだろう。連載は、これまで第1章「3・11」、第2章「1号機爆発」、第3章「制御不能」、第4章「東電の敗北」とつづき、そして今の第5章は「命」と銘打たれている。7月に入って、この第5章がやっと始まり、地方紙およそ30社がこれを掲載している。。

そこでは、3月15日早朝、東電本店に乗り込んだ菅首相が「撤退したら東電は100パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ!」と演説する場面がまず描写されている。拙著『死の淵を見た男~吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日~』のヤマ場でもあり、朝日新聞が「所員の9割が所長命令に違反して撤退した」と、報じた“あの日”のことである。

私は、この2011年3月15日は、日本が有史以来、最大の存続の危機に陥った日だったと思っている。共同通信は、長期にわたった取材によって、この日の福島第一原発の内部を克明に記している。多くの場面が、拙著とも重なっているので、私は興味深く読ませてもらった。

激烈な菅首相の演説のあとの衝撃音、2号機のサプチャン(圧力抑制室)の圧力がゼロになる場面、そして吉田所長が職員の「退避」を決断し、福島第二原発へと退避させる場面……等々、息を呑む場面が連続して描写されている。

拙著と同じく、記事はすべて実名証言に基づいている。私は、生前の吉田氏から、この時のことを直接、聞いているので、共同通信が「3・15」をどう書くのか、連載の途中から注目していた。そして、それは予想以上の克明さだった。

〈全員が凍り付いた。圧力容器からの蒸気を冷やす圧力抑制室の気密性がなくなり、高濃度の放射性物質を含んだ蒸気が環境に大量放出される。もう第1原発構内どころか、周辺地域にすら安全な場所はなくなる。最も恐れていた事態だった。
 稲垣が吉田に進言した。
「サプチャンに大穴が開いたと思います。とんでもない量の放射性物質が出てきますよ」
「退避させるぞ」
 吉田は即決した。テレビ会議のマイクのスイッチを入れ、本店に退避を申し出た。必要のない大勢の社員たちをいつ退避させるか吉田はずっとタイミングを計ってきたのだ。今がその時だった。
 ところが約220キロ離れた東京の本店の反応は鈍かった。制御室にある圧力計が故障したのではないかと言う。吉田がキレた。
「そんなこと言ったって、線量が上がってきて、こんな状態で全員いたら、おかしいだろっ!」〉

共同通信のこの詳細な描写に、私は『死の淵を見た男』を取材した当時のことを思い出した。時に涙し、時には震えながら、あの自らの「生」と「死」をかけた闘いの場面を述懐するプラントエンジニアたちの姿を思い出したのだ。

記事は、南に約12キロの位置にある退避先の福島第二原発(2F)の安全を確かめるため、風向きをまず見させてから職員を退避させる吉田所長の姿が描かれている。そして、総務班長はこう指示する。

〈「皆さん、速やかに退避してください。最終目的地は2Fです。免震重要棟近くの路上にバスがあります。とにかく乗れるだけ乗ってください。まず正門の先で線量を測ります。とどまれなければ2Fに行きます」。総務班長はこの後、第2原発に「そちらに行くことになります」と電話を入れた〉

「2Fへの退避ですよ」と仮眠中に叩き起こされ、2Fへ向かった者や、逆に2Fへの退避を命じられても「残ります」と言い張って、命令をきかなかった者、あるいは、2Fへの退避を決めたエンジニアが、「最後に子どもの顔が浮かんだんです。子どものためにも今は死ねないな、と思いました。正直、うしろめたさはありましたが……」と、自らの葛藤を吐露する場面など、長期にわたる取材の深さを感じさせてくれる描写だった。

私は、この記事の中で、「俺は、残る。君は出なさい」「絶対、外で会いましょうね」「分かった」「約束ですよ」……当直長からの退避命令に、そんなやりとりの末に2Fへ去っていく若手プラントエンジニアの証言が印象に残った。

また、退避しながら免震棟を振り返り、「あの中にはまだ人がいる」と涙が止まらなかった人、あるいは2Fの体育館に全員が無事到着したことが報告されると、「おぉ、そうか」と吉田所長が安堵した声で答える場面などが、興味深かった。

これが、朝日新聞が「9割が所長命令に違反して逃げた」と報じる、まさにその場面である。私は、あまりの違いに言葉も出ない。

『死の淵を見た男』の取材で100名近い関係者の実名証言を得ている私は、NHKの「NHKスペシャル班」も相当、現場への取材を展開し、深く食い込んでいることを知っている。

そして、共同通信の現場への食い込み方は、やはり活字媒体ならでは、の思いが強い。しかし、朝日新聞だけは、現場取材の痕跡がない。「ひょっとして朝日は現場に取材もしないまま、あの記事を書いたのではないか」と、どうしても疑ってしまうのである。

現場を取材する他紙の記者たちの中にも、今は、あの時の“現場の真実”を知っている記者たちが多くなってきた。彼らは、今回の朝日の「吉田調書」キャンペーンには、実に冷ややかだった。そこには、裏取りが不完全なまま「9割の人間が逃げた」と書いてしまう同業者に対する諦めと怒りがあるように私には思えた。

だが、朝日の報道の結果として残ったのは、「日本人も現場から“逃げて”いた」「日本版“セウォル号”事件」と外国メディアに大報道され、現場で闘った人々の名誉が汚され、日本人そのものが「貶められた」という厳然たる事実だけである。

従軍慰安婦報道をはじめ、日本と日本人を貶める報道をつづける朝日新聞にとっては、それはそれで「目的は達せられた」のかもしれない。しかし、自らのイデオロギーに固執し、そのためには世論を誘導することも、また真実とは真逆の記事を書いても良しとする姿勢には、同じジャーナリズムにいる人間にとって、どうしても納得ができない。

私は、朝日新聞には一刻も早く「吉田調書」の全文を公表して欲しい、と思う。そして、吉田所長と彼ら現場の人間を貶めるために、作為的な編集作業をおこなったのか否か――ジャーナリズムの検証を是非、受けて欲しい。私はそのことをまず、朝日新聞にお願いしたいのである。

カテゴリ: マスコミ, 原発

日本のメディア“偽善”と“すり替え”の罪

2014.07.10

昨日7月9日は、福島第一原発(1F)の元所長、吉田昌郎氏が亡くなって丸1年、すなわち「一周忌」だった。ちょうどこの日、『週刊朝日』の元編集長で、朝日新聞元編集委員でもある川村二郎さんと私との対談記事が『Voice』に掲載され、発売になった。

対談の中身は、例の「吉田調書」である。政府事故調によって28時間にわたって聴取され、記録されたという「吉田調書」なるものを朝日新聞が報道して、1か月半が経った。

それによって朝日新聞は「福島第一原発の所員の9割が所長命令に“背いて”福島第二に撤退した」という、事実とは真逆のことを書いた。私がこれに異を唱えて朝日との間で問題になっているのは当ブログでも書いてきた通りである。

この問題について、『Voice』誌に依頼され、私にとっては雑誌業界の大先輩である川村さんとの対談をさせてもらったのだ。題して、「吉田調書を公開せよ」。つまり、それは、「朝日新聞は責任をもって『吉田調書』の全文を公開せよ」という内容の対談となった。

私は、吉田さんや汚染された原子炉建屋に突入を繰り返した1Fのプラントエンジニアたち、あるいは当時の菅直人総理や班目春樹・原子力安全委員会委員長ら、100名近くの当事者を取材し、その実名証言をもとに『死の淵を見た男』を上梓した。2012年11月のことである。

私が描かせてもらった1Fのプラントエンジニアたちは、多くが地元・福島の浜通りの出身だった。つまり、地元の高校、工業高校、そして高専などの出身者である。

地震から5日目の3月15日、2号機の圧力が上昇して最大の危機を迎えた時、総務、人事、広報など、女性社員を含む多くの事務系職員たちを中心に、600名以上が吉田所長の命令によって福島第二原発(2F)に一時退避する。

この時、1Fには、彼らのような多くの“非戦闘員”たちが残っていたのである。フクシマ・フィフティ(実際には「69人」)を残したこの600人以上の退避を、朝日新聞は、所長命令に「背いて」、「9割」の人間が「撤退した」というのである。朝日の報道を受けて、外国メディアが、「日本人もあの現場から逃げ去っていた」と大々的に報じたのは、周知の通りだ。

私は、朝日新聞には、本当に『吉田調書』を公開して欲しい、と思う。菅直人政権下の政府事故調によって非公開とされた『吉田調書』。しかし、これほど真実とかけ離れたかたちで調書が朝日新聞に利用され、極限の現場で奮闘した吉田氏と部下たちが貶められた以上、このままであってはならないと思う。

朝日新聞の報道によって、現場の必死の闘いは、外国から「あざ笑われるようなもの」となった。貶められた1Fの現場の人間たちも、是非、朝日には「吉田調書」を公開してもらいたいだろう。何をもって自分たちが「所長命令に背いて逃げた」と言われなければならないのか。その根拠とは何なのか。そして朝日が伝えたい“現場の真実”とは一体、どんなものなのか。そのことを確かめたいに違いない。

実際に、私のもとにはそういう現場の声が多数、寄せられている。朝日新聞には「吉田調書」の全文公開をなんとしてもお願いしたいと思う。そして、いかに事実とは真逆のことを朝日が書いたのか、多方面のジャーナリズムの検証を受けて欲しいと思う。

発売になった同じ『Voice』誌には、ジャーナリストの櫻井よしこ氏が〈『朝日』と中国から日本を守れ〉という記事を書いていた。私はこの記事に目を吸い寄せられた。

それは、櫻井氏が、日本がそこから守らなければならない「相手」として、「中国」だけでなく「朝日」も俎上に上げていたからだ。〈『朝日』と中国から日本を守れ〉――それは、実に強烈なタイトルだった。

櫻井氏はこう書いている。〈『朝日新聞』の特徴は、中国の特徴と似ています。多くの事例から『朝日』は「嘘をもって旨とする」メディアといわれても仕方がないでしょう〉、さらに〈歴史の事実を目の前に突き付けられても反省する気配のない『朝日新聞』の報道姿勢を見ると、「この人たちには名誉というものの価値がわからないのではないか」と疑わざるをえません〉。

厳しい論評だが、私もまったく同感である。櫻井氏も指摘する1991年8月の朝日新聞による報道に端を発した「従軍慰安婦問題」などは、その典型だろう。櫻井氏は、中国が嘘を連ねる背景を孫子の「兵は詭道(きどう)なり」の言葉を引いて説明している。

残念なことに、日本にはこの隣国の掌(てのひら)で踊るメディアは少なくない。日本のメディアが、なぜここまで日本を貶め、真実とは程遠い隣国の主張を代弁しつづけるのか、確かにそのあたりから説き起こすべきかもしれない。

私は最近の一部のメディアを見ていて、感じることがある。それは、「公平」や「中立」、あるいは「客観報道」というものから、完全にかけ離れた存在になっている、ということだ。

それは、あたかも「“活動家”が記事を書く」、すなわち真実はそっちのけで、自分の主張に都合のいいファクトを引っ張って来て、一定の活動家勢力の機関紙かのような内容になっている点である。「こんな新聞を毎朝読んでいたら、知らず知らずに洗脳されていくだろうなあ」と思わずにはいられないのである。

宗教的な事件が起こるたびに“マインドコントロール”という言葉がよく出てくるが、まさにそんなあからさまな紙面が毎朝、「当たり前」になっているのである。新聞メディアの部数低下の大きな原因は、読者の“愛想尽かし”にあるのではないかと、私は思う。

櫻井氏が指摘するように、「慰安婦問題」の検証は重要だと思う。この問題がもたらしたものは一体、何だろうか。朝日新聞の報道をきっかけに始まったこの問題で大騒ぎした人々は、今、満足しているのだろうか、と思う。日韓両国の間に残ったのは、根深い憎悪と怨念だけである。しかも、もはやそれは、修復不能かもしれない。

あの貧困の時代にさまざまな理由で春を鬻(ひさ)ぐ商売につかざるを得なかった薄幸な女性たち。喜んで色街(いろまち)で働く女性は当時とてなく、あの不幸な時代に“身売り”していった女性たちの気持ちを思うと胸がしめつけられる。

しかし、これは、その薄幸な女性たちが、「日本軍、もしくは日本の官憲によって戦場に強制連行されていった」という“虚偽”によって問題化され、そして国際化されていったものである。その中心にいたのは、あくまで「日本人」だったのだ。

日本と日本人を貶めたい彼(か)の国の人々と連携し、自分たち日本人を必死で貶めようとする「日本人の存在」が、この問題を大きくし、複雑化し、そして国際化させていったことを私たちは忘れるべきではないだろう。

あの時代の薄幸な女性たちの存在を私たちは、永遠に忘れてはいけない。しかし、その存在を「事実を捻じ曲げて」、日本の「強制連行問題」に巧妙にすり替えた「人々」とその「手法」もまた、私たちは絶対に忘れてはならない、と思う。

それは、日本の一部のメディアが得意とする“偽善”と“すり替え”によるものである。以前、当ブログでも書かせてもらった「マスコミ55年症候群」がそれだ。

私たち日本人は、「日本」と「日本人」を貶めようとする記者たちの巧妙な手法に、いつまでも騙されていてはならないだろう。櫻井氏のレポートを読みながら、私は、日本を救った男の一人・吉田昌郎さんの「一周忌」に、そんなことを考えていた。

カテゴリ: マスコミ, 原発

朝日新聞の「抗議」を受けて

2014.06.10

昨日、名古屋で講演があった。テーマは、「極限の現場に立つ日本人の底力とは」というものである。サブタイトルは、「太平洋戦争と福島第一原発事故から何を学ぶか」というものだった。

私は、さまざまなジャンルでノンフィクションを書かせてもらっているが、文庫も含めて25冊の著作のうち10冊が戦争ノンフィクションであり、また福島原発の事故を扱った作品もある。共通しているテーマは、日本人の「現場力」であり、毅然とした「生きざま」である。

前回のブログで、私は朝日新聞の「吉田調書」キャンペーン記事のお粗末さについて書かせてもらった。これを読んだ週刊誌や写真誌、月刊誌等から原稿依頼や取材依頼が来た。私は、次作のノンフィクションの取材と執筆に忙殺されてはいるが、できるだけその要望にお応えしたいと思い、時間を割いた。

ちょうどそのことについて書いた記事(6ページ)を掲載した『週刊ポスト』が昨日、発売になった。講演では、そのことをまず話させていただいた。

それは、「東電本店」の命令にも逆らって、現場で事故と闘った原発職員たちの話である。彼らの凄まじい闘いについては、拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日―』に書かせてもらっている。

しかし、本を読んでくれている人は少ないので、私はぎりぎりの土壇場で日本を救った無名の「現場の人々」の話をさせていただいたわけである。聴いてくれた人たちが驚いたのは、現場の人々が「東電本店とも闘って日本を救った」という点だった。

日本のマスコミは、「東電本店」と「福島第一の現場」を同一視して報道しているが、そもそも、そこが間違っている。東電本店は、優秀な大学を卒業して就職してきた「エリート集団」である。一方、福島第一原発の現場職員たちの中心は、地元の高校、工業高校、高等専門学校……等々を卒業して就職した叩き上げの「地元の人」たちだ。

私が描いたのは、「家族と故郷」を守るために放射能汚染の中で命をかけて作業をおこなったその「現場の人々」の姿と思いである。彼らは、福島第一原発に就職し、プラントエンジニアとして成長していった人など、多くが「浜通り」に生まれ育った人たちなのだ。

私は現場の人たちの証言を聞くうちに、吉田所長のもとであそこまで彼らが踏ん張れた理由がわかった気がした。あるプラントエンジニアは、いざ生と死をかけて原子炉建屋に突入する時、自分には「やり残したことがある」ことに気づき、「心が折れそうになった」と語ってくれた。外部との連絡もできず、家族が無事かどうかもわからない中でのことである。

「やり残したこと」とは、「ありがとう。今まで幸せだった」という言葉を妻に告げることだった。せめてそのことだけでも伝えてから汚染された原子炉建屋、すなわち“死の世界”に「飛び込みたかった」というのである。

家族を背負い、故郷を思い、決死の覚悟で突入を繰り返した人々の話に、私は何度も心が震えた。吉田所長の生前、私はジャーナリストとして唯一、吉田さんからも話を伺うことができた。そこでも、極限の現場に立った人間の思いを聞くことができた。

東電本店のとんでもない命令に反して、現場はどう闘ったか――今は亡き吉田さんは、部下たちの凄さを語ってくれたのである。

朝日新聞は、その福島第一の現場から「9割の人間が所長命令に違反して撤退した」と書いている。吉田さんが政府事故調の聴取に応じたいわゆる「吉田調書」にそう書いている、というのだ。

だが、根拠とされる「吉田調書」には、そんな部分はない。朝日で紹介された吉田調書の中の証言を素直に読めば、一糸乱れず福島第二に行ってくれた部下たちのことを、吉田氏は含羞(がんしゅう)をこめた彼独特の言いまわしで、むしろ「自慢」しているのである。

震災から5日も経った2011年3月15日朝、福島第一の免震重要棟には、女性社員を含む総務、人事、広報など、事故に対応する「現場の人間」ではない“非戦闘員”、さらには協力会社を含む作業員たちが計700名近くもいた。

事態が刻々と悪化し、大気が放射能で汚染されていく中で、「外部への脱出」の機会が失われていったからだ。彼ら、彼女らをどう福島第二原発まで脱出させるか。吉田さんは、そのことに頭を悩ませている。

そして、3月15日午前6時過ぎ、ついに大きな衝撃音と共に2号機の圧力抑制室(通称・サプチャン)の圧力がゼロになった時、吉田所長は「各班は、最少人数を残して退避!」と叫んでいる。

吉田所長たちは、彼ら“非戦闘員”たちを福島第二へ撤退させることを前夜から話し合っており、「各班は、最少人数を残して退避!」というのは、イコール「福島第二への退避」を意味している。

しかし、朝日新聞はこれを「所長命令」に違反して「9割が福島第二に撤退した」、すなわち職員の「9割」が吉田さんの命令に違反して逃げたと報じ、今、世界中の新聞がそのことを報道しているのである。

彼ら現場で闘った人々を曲解によって貶める報道は、日本人の一人として私はいかがなものかと思っている。しかし、本日、朝日新聞から私の記事に対して、「当社の名誉と信用を著しく毀損している。法的措置を検討している」との抗議書が来た。

朝日の記事によって名誉を毀損された福島の「現場の人々」の嘆きが私のもとには続々寄せられている。しかし、その内容について「言論」によって指摘した私の記事に対して、言論機関である朝日新聞が「言論」で闘うのではなく、「法的措置」云々の文書を送りつけてきたことに私は、唖然としている。

私は週刊ポストの記事の最後に「記者は訓練によって事実を冷徹に受け止め、イデオロギーを排する視線を持たなければならない」というジャーナリズムの基本を問う言葉を書いた。しかし、朝日新聞には、とてもその意味を理解してもらうことはできなかったようだ。ジャーナリズムの人間として寂しい限りである。

カテゴリ: マスコミ, 原発

お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事

2014.05.31

「ああ、またか」。失礼ながら、それが正直な感想である。今週、私は取材先の台湾からやっと帰ってきた。私が日本を留守にしている間、朝日新聞が「吉田調書」なるものを“加工”し、「福島第一原発(1F)の現場の人間の9割が所長命令に違反して撤退した」という記事を掲げ、そのキャンペーンが今も続いている。

「ああ、またか」というのは、ほかでもない。ある「一定の目的」のために、事実を捻じ曲げて報道する、かの「従軍慰安婦報道」とまったく同じことがまたおこなわれている、という意味である。私は帰国後、当該の記事を目の当たりにして正直、溜息しか出てこないでいる。

故・吉田昌郎氏は、あの1号機から6号機までの6つの原子炉を預かる福島第一原発の所長だった。昼も夜もなく、免震重要棟の緊急時対策室の席に座り続け、東電本店とやりあい、現場への指示を出しつづけた。

東電本店のとんでもない命令を拒否して、部下を鼓舞(こぶ)して事故と闘った人物である。体力、知力、そして胆力を含め、あらゆる“人間力”を発揮して「日本を土壇場で救った一人」と言えるだろう。

昨年7月に癌で亡くなった吉田氏は、生前、政府事故調の長時間の聴取に応じていた。今回、朝日が報じたのは、28時間ほどの聴取に応じた、いわゆる「吉田調書」の中身だそうである。

私は吉田さんの生前、ジャーナリストとして直接、長時間にわたってインタビューをさせてもらっている。私がインタビューしたのは、吉田所長だけではない。

当時の菅直人首相や池田元久・原子力災害現地対策本部長(経産副大臣)をはじめとする政府サイドの人々、また研究者として事故対策にかかわった班目春樹・原子力安全委員会委員長、あるいは吉田さんの部下だった現場のプラントエンジニア、また協力企業の面々、さらには、地元記者や元町長に至るまで、100名近い人々にすべて「実名」で証言していただいた。

私がこだわったのは、吉田さんを含め、全員に「実名証言」してもらうことだった。そして、拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』が誕生した。

私は、吉田氏に直接取材した人間として、さらには100名近い関係者から実名証言を得た人間として、朝日新聞が「所長命令に違反」して9割の人間が「撤退した」と書いているのは「誤報」である、ということを言わせていただきたい。

今回、自分の意図に反して貶(おとし)められた故・吉田昌郎さんとご遺族の思いを想像すると、本当に胸が痛む。この意図的な捻じ曲げ記事に対するご遺族の心痛、精神的な打撃は大きく、今後、なにがしかのリアクションが朝日新聞に対して起こされる可能性もあるのではないか、と想像する。

朝日の巧妙な捻じ曲げの手法は後述するが、今回、朝日の記事で「9割の人間が逃げた」とされる「2011年3月15日朝」というのは、拙著『死の淵を見た男』の中でも、メインとなる凄まじい場面である(拙著 第17章 266頁~278頁)。

震災から5日目を迎えたその2011年3月15日朝は、日本にとって“最大の危機”を迎えた時だった。その時、免震構造だけでなく、放射能の汚染をできるだけシャットアウトできる機能も備えた免震重要棟には、およそ「700名」の所員や協力企業の人たちがいた。

朝日新聞は、その700名の「9割」が「所長命令」に「違反」して、原発から「撤退した」と書いている。そう吉田氏が調書で証言しているというのである。

だが、肝心の記事を読んでも、所員が「自分の命令に違反」して「撤退した」とは、吉田氏は発言していない。それが「意図的な」「事実の捻じ曲げ」と、私が言う所以だ。

これを理解するためには、あの時、一体、なぜ700名もの人が免震重要棟にいたのか。そのことをまず理解しなければならない。

震災から5日も経ったこの日の朝、700名もの職員や協力企業の人たちが免震重要棟にいたのは、そこが福島第一原発の中で最も“安全”だったからである。

事態が刻々と悪化していく中で、とるものもとりあえず免震重要棟に避難してきた所員や協力企業の面々は、「外部への脱出」の機会を失っていく。時間が経つごとに事態が悪化し、放射線量が増加し、汚染が広がっていったからだ。

免震重要棟にいた700名には、総務、人事、広報など、事故に対応する「現場の人間」ではない“非戦闘員”も数多く、女性社員も少なくなかった。彼らをどう脱出させるか――吉田所長はそのことに頭を悩ませた。

700名もの人間がとる食事の量や、水も流れない中での排泄物の処理……等々、免震重要棟がどんな悲惨な状態であったかは、誰しも容易に想像がつくだろう。

事故対応ではない「非戦闘員」たち、特に女性職員たちだけでも早くここから退避させたい。トップである吉田さんはそう思いながら、広がる汚染の中で絶望的な闘いを余儀なくされていた。

震災が起こった翌12日には1号機が水素爆発し、14日にも3号機が爆発。その間も、人々を弄ぶかのように各原子炉の水位計や圧力計が異常な数値を示したり、また放射線量も上がったり、下がったりを繰り返した。

外部への脱出の機会が失われていく中、吉田所長の指示の下、現場の不眠不休の闘いが継続された。プラントエンジニアたちは汚染された原子炉建屋に突入を繰り返し、またほかの所員たちは原子炉への海水注入に挑んだ。

そして、2号機の状態が悪化し、3月15日朝、「最悪の事態を迎える」のである。5日目に入ったこの日、睡眠もとらずに頑張って来た吉田所長は体力の限界を迎えていた。いかにそれが過酷な闘いだったかは、拙著で詳述しているのでここでは触れない。

最後まで所内に留まって注水作業を継続してもらう仲間、すなわち「一緒に死んでくれる人間」を吉田さんが頭に思い浮かべて一人一人選んでいくシーン(拙著 第15章 252頁~254頁)は、吉田氏の話の中でも、最も印象に残っている。

午前6時過ぎ、ついに大きな衝撃音と共に2号機の圧力抑制室(通称・サプチャン)の圧力がゼロになった。「サプチャンに穴が空いたのか」。多くのプラントエンジニアはそう思ったという。恐れていた事態が現実になったと思った時、吉田所長は「各班は、最少人数を残して退避!」と叫んでいる。

たとえ外の大気が「汚染」されていたとしても、ついに免震重要棟からも脱出させないといけない「時」が来たのである。「最少人数を残して退避!」という吉田所長の命令を各人がどう捉え、何を思ったか、私は拙著の中で詳しく書かせてもらった。

今回、この時のことを朝日新聞は、1面トップで「所長命令に違反 原発撤退」「福島第一 所員の9割」と報じ、2面にも「葬られた命令違反」という特大の活字が躍った。要するに、700名の所員たちの9割が「吉田所長の命令に違反して、現場から福島第二(2F)に逃げた」というのだ。

吉田所長の命令に「従って」、福島第二に9割の人間が「退避した」というのなら、わかる。しかし、朝日新聞は、これを全く「逆に」報じたのである。記事の根拠は、その吉田調書なるものに、吉田氏がこう証言しているからだそうだ。

「本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです。(中略)

いま、2号機爆発があって、2号機が一番危ないわけですね。放射能というか、放射線量。免震重要棟はその近くですから、これから外れて、南側でも北側でも、線量が落ち着いているところで一回退避してくれとうつもりで言ったんですが、確かに考えてみれば、みんな全面マスクしているわけです。

それで何時間も退避していて、死んでしまうよねとなって、よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです。いずれにしても2Fに行って、面を外してあれしたんだと思うんです。マスク外して」

吉田調書の中の以上の部分が「吉田所長の命令に違反して、現場から逃げた」という根拠なのである。しかし、この発言をみればわかるように、吉田所長は「2F」、すなわち福島第二に「行ってはいけない」とは全く言っていない。むしろ、その方がよかった、と述べている。

これのどこが「吉田所長の命令に違反して、現場から退避した」ことになるのだろうか。サプチャンが破壊されたかもしれない場面で、逆に、総務、人事、広報、あるいは女性職員など、多くの“非戦闘員”たちを免震重要棟以外の福島第一の所内の別の場所に「行け」と命令したのだとしたら、その方が私は驚愕する。

サプチャンが破壊されたかもしれない事態では、すでに1Fには「安全な場所」などなくなっている。だからこそ放射能汚染の中でも吉田氏は彼らを免震重要棟から「避難させたかった」のである。

つまり、記事は「所内の別の場所に退避」を命じた吉田所長の意向に反して「逃げたんだ」と読者を誘導し、印象づけようとする目的のものなのである。

朝日の記事は、今度は地の文で解説を加え、「吉田所長は午前6時42分に命令を下した。“構内の線量の低いエリアで退避すること。その後、本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう”」と、書いている。

今度は、なぜ調書の吉田証言を「直接引用」をしないのだろうか。ひょっとして、そうは吉田所長が語っていないのを、朝日新聞の記者が“想像で”吉田氏の発言を書いたのだろうか。

この一連の朝日の記事の中には、実質的な作業をおこなったのは「協力企業の人たち」という印象を植えつける部分がいくつも登場する。しかし、これも事実とは違う。放射能汚染がつづく中、協力企業の人たちは吉田所長の方針によって「退避」しており、作業はあくまで直接、福島第一(1F)の人間によっておこなわれているのである。

吉田氏は、「いかに現場の人間が凄まじい闘いを展開したか」「部下たちはいかに立派だったか」を語っているはずだ。しかし、朝日新聞にかかれば、それとはまったく「逆」、すなわち部下たちを貶める内容の記事となるのである。

私はこの報じ方は本当に恐ろしい、と思う。一定の目的をもって、事実を「逆」に報じるからである。吉田氏は、政府事故調による28時間もの聴取に応じたことを生前、懸念していた。自分の勘違いによって「事実と違うことを証言したかもしれない」と危惧し、この調書に対して上申書を提出している。そこには、こう記されている。

「自分の記憶に基づいて率直に事実関係を申し上げましたが、時間の経過に伴う記憶の薄れ、様々な事象に立て続けに対処せざるを得なかったことによる記憶の混同等によって、事実を誤認してお話している部分もあるのではないかと思います」

そして、話の内容のすべてが、「あたかも事実であったかのようにして一人歩き」しないかどうかを懸念し、第三者への「公表」を強く拒絶したのだ。昼であるか夜であるかもわからない、あの過酷な状況の中で、吉田氏は記憶違いや勘違いがあることを自覚し、そのことを憂慮していたのである。

その吉田氏本人の意向を無視し、言葉尻を捉え、まったく「逆」の結論に導く記事が登場したわけである。私は、従軍慰安婦問題でも、「強制連行」と「女子挺身隊」という歴史的な誤報を犯して、日韓関係を破壊した同紙のあり方をどうしても思い起こしてしまう。

「意図的に捻じ曲げられた」報道で、故・吉田昌郎氏が抱いていた「懸念」と「憂慮」はまさに現実のものとなった。記憶の整理ができないまま聴取に応じたため、「公表」を頑なに拒否した吉田氏の思いは、かくして完全に「踏みにじられた」のである。

私のインタビューに対して、吉田氏は事故の規模を「チェルノブイリ事故の10倍に至る可能性が高かった」と、しみじみと語ってくれた。そして、それを阻止するために、部下たちがいかに「命」をかけて踏ん張ったかを滔々と語ってくれた。しかし、朝日の記事には、そんな事実はいっさい存在しない。

最悪の事態の中で踏ん張り、そして自分の役割を終えて私たちの前から足早に去っていった吉田氏。そんな人物を「貶める」ことに血道をあげるジャーナリズムの存在が、私には不思議でならないのである。

カテゴリ: 原発

「震災3周年」ぎりぎりの闘いはどこまで

2014.03.09

昨日、東北新幹線に乗って、この3年間、通い詰めていた「福島」を通り越して青森の弘前まで講演にやってきた。「人づくりフォーラム in弘前」というイベントの講演である。日本人の生きざまと教訓について話をさせてもらった。

弘前といえば、日本の新聞の父と呼ばれる「陸羯南(くが・かつなん)」や、孫文が最も信頼を寄せ、辛亥革命に大きな力を果たした「山田良政・純三郎兄弟」、さらには、満洲国皇帝・溥儀が“忠臣”と称えて尊重した「工藤忠」ら、多くの“傑物”を生んだ土地である。

私自身も若い頃、山田良政・純三郎兄弟の甥にあたる故・佐藤慎一郎翁に中国問題について、いろいろと教えてもらった時期があり、佐藤先生の「故郷・弘前」には、少なからぬ因縁がある。

今回は、2時間にわたって弘前の人を前に講演をさせてもらったので、佐藤先生にいくばくかは恩返しができたかもしれない。

さて、ここのところ、「震災3周年」に向けての記事や番組が洪水のごとく溢れ出している。かくいう私も、本日、『記者たちは海に向かった―津波と放射能と福島民友新聞―』(角川書店)を出版した。

津波で命を落とした若き記者と、そのことで大きな心理的打撃を負う同僚・先輩たち、さらには、新聞発行の危機に立ち向かった新聞人たちの感動的で、かつ凄まじい闘いを描かせてもらった。

なんとか3周年に間に合わせたいと思い、執筆、そして校了作業に没頭し、ブログの更新もできなかった。やっと今日、出版にこぎつけ、さっそく産経新聞に著者インタビューも出してもらった。

震災からの3年。やはり感慨深いものがある。この間、いったいどれほど福島に通っただろうか。もちろん宮城も岩手も行かせてもらったが、私にとっては、圧倒的に「福島」である。

前著の『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日―』につづき、激震と津波、そして放射能汚染という“複合汚染”に見舞われた「福島」は、私にとって、時が経とうと、避けて通ることができない地なのである。

前著では、福島第一原発の壁の“内側”を描き、今回は壁の“外側”を地元紙の福島民友新聞に焦点を当てて、書かせてもらった。あの放射能とのぎりぎりの闘いで、瓦礫の下で助けを呼びながら息絶えた犠牲者は、1か月以上も捜索の手が入らず、DNA鑑定でしか家族のもとに帰ることができなかったという惨(むご)い運命を辿っている。

その悲劇を記述するたびに、人々の心の奥に残した傷痕の深さを思う。しかし、同時に私はマスコミの報道に疑問も感じている。大名行列のごとく“節目”にだけやって来て、地元の人間への形式的な同情論を口にするテレビ番組に接すると、反発を覚えてしまうのも確かだ。

被災者への多額の補償が今もつづく中、単なる同情論だけではすまない矛盾や問題点があちこちに現われている。今後は、それも地道に報じていかなければならないだろう。3周年は、私にとっても単なる“通過点”に過ぎないのだと、今更ながら肝に銘じている。

カテゴリ: 原発, 地震

原発の「観光地化」という“逆転の発想”

2013.12.10

「門田さん、福島第一原発を“観光地化”すると言ったら、どう思いますか」。私は突然、そんなことを聞かれて仰天してしまった。しかし、言っている本人は、いたく真面目だ。そして、1冊の本を差し出された。

福島県内で次作の取材をつづけている私は、昨夜、いわき市で地元の人と飲み会をやった。その席でのことである。その人は、福島県双葉郡の富岡町出身で、弁当や給食サービスの会社を運営している藤田大さん(44)である。差し出された本は、『福島第一原発 観光地化計画』というものだ。

分厚い写真つきの本で、巻かれている黄色い帯には、「原発観光地化 あり? なし?」と大きな字で書かれている。筆者・編集人は、作家の東浩紀氏である。

「どういうこと?」と私が聞くと、「あれほどの事態をもたらした福島第一原発を逆に観光地化して、人を呼ぼうという考えです。人にどんどん来てもらえれば、地元は活性化していきます。日本だけでなく、世界中から人に来てもらえば、双葉郡も復興していくと思うんですよ」

真剣な表情でそう訴える藤田さんの顔を見ながら、私は、「ユニークな“逆転の発想”だなあ」と、感心してしまった。たしかにおもしろい考えである。

「あとづけ」を見ると、この本は「11月20日」に発売されたばかりだ。藤田さんは、この本の趣旨に賛同しており、「福島第一原発を“観光地化”」して、「世界中から人を呼び」、地元を活性化させる「夢を持っている」と、私に言うのである。

「人が離れていく」被災地の中心である原発に、逆に「人を呼ぶ」――奇想天外な考えである。私は、今日、この藤田さんと、フタバ・ライフサポートの遠藤義之専務(41)の二人に案内されて、許可者以外は立ち入りができない双葉郡富岡町の「夜ノ森地区」のぎりぎりの境界まで行ってきた。

同じ富岡町でも、その境から先は「帰還困難区域」であり、そこで検問がおこなわれていた。藤田さんと遠藤さんの二人は、自宅がこの帰還困難区域内にあり、許可なしでは二人とも自宅に行くことはできない。

しかし、それ以外の富岡町は行き来できるので、私はあちこちを案内してもらった、私の次作のノンフィクション作品は、この富岡町の“ある場所”からスタートするからだ。私はその地を見にきたのである。

昨年、拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』の取材の時は、楢葉町のJヴィレッジまでが通行可能な区域だったが、富岡町まで行くことは、とても無理だった。

この1年の間に、そこから行き来ができる区域が15キロも広がり、富岡町まで来ることができるようになったことを思うと、感慨深い。

私が“初めて”見る富岡町の姿は、目を覆うばかりだった。海に近い富岡駅は駅舎ごとなくなり、鉄の改札だけが今もポツンと残っている。駅前の店舗、ホテル、飲食店は見事に地震と津波に破壊され、至るところで、津波に流された自動車が引っくり返り、あるいは土中に突き刺さっていた。

海岸に近い住宅地帯は、見事に何もなくなっていた。生い茂った草むらの中に、よく見ると建物の土台だけが残っている。かつて家族団欒(だんらん)を過ごしたマイホームが土台を残してすべてなくなっているのである。

富岡川の河口にかかる橋も、橋桁が落ちて段差が生じ、通行はいまだに不能だった。町の大半が帰還困難区域ではなくなったものの、まだ「居住制限区域」であることに変わりなく、富岡町には震災から1000日以上を経た現在も、誰も住むことができない。

今日、案内してくれたお二人は、富岡町内の元の自宅に帰ることもできず、今はいわきで暮らしている。そんな二人にとって、“地元復興”が悲願であることは言うまでもない。

共に双葉高校出身という二人から飛び出した「原発観光地化」という言葉は刺激的であり、興味深いものだった。たしかに「人が離れる」なら「人を呼べ」である。

原発事故の悲劇を二度と繰り返さないためにも、また、この東日本大震災の教訓を忘れないためにも、「現場の観光地化」という“逆転の発想”は興味深い。原爆ドームが広島原爆の悲劇を現在に伝え、ついには世界遺産に登録されたことを思えば、二人の発想は一笑に付すような類いのものではないだろう。

藤田さんが富岡町のある場所で、「ここはホットスポットですから、数値を見てみましょう」と言って、線量計を取りだした。たちまち数値は上昇し、なんと「76マイクロシーベルト」を記録した。

「ああ、70台の数値が出ましたね。私もさすがに初めてです。こんな数値が見られるなんて、門田さんも運がいいですね」と、藤田さんは言う。

「ああ、今日は猪豚(イノブタ)が出ました」と、富岡駅のすぐ近くで二人が同時に声を挙げたのは、それから1時間近くあとである。見ると、閉まったままの測量会社の駐車スペースから“つがい”と思われる二頭の猪豚が出て来て、車に乗っている私たちに近づいてくる。完全に野生化したものだ。

「同じように町なかにいても、猪(イノシシ)より猪豚の方がおとなしいですよ。猪は人間を見ると突っかかってきますから」という。放射能汚染で人がいなかった2年間のうちに、ここ富岡町では、人間に代わって野生化された動物の方が主役だったようだ。

「原発観光地化」を各方面に持ちかけ、そのプロジェクトを進め、「この地を世界中から人が集まってくる場所にしたいんです」と、二人は言う。富岡で生まれ育った二人の真剣な目と、わがもの顔で道を闊歩(かっぽ)する野生動物の姿は、あまりに対象的なものだった。

たしかにそれほどのユニークな発想でなければ、この地の復活は難しいだろう。奇抜な発想こそが、あらゆるものを活性化させる可能性がある。「人が離れるなら、人を呼べ」。どんな人でも「福島の浜通りに来てください」。そして、「その目で震災の惨状を目に焼きつけてください」。

あまりの惨状と傷跡に塞(ふさ)ぎこんだ時期を経て、今、逆転の発想で彼らのように「大反攻」を考える人がいる。私は、どんな試練にぶつかっても、決してへこたれない浜通りの男の姿を見て、心から二人を応援したくなった。

カテゴリ: 原発

故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか

2013.07.14

今朝、テレビ朝日の『報道ステーション SUNDAY』を観ていたら、独立総合研究所の青山繁晴代表が2011年に吉田昌郎所長に呼ばれて福島第一原発に行った時のことを証言していた。

私も同じ番組でインタビュー撮りされて登場していたが、お互いインタビューだったので、当然、私は青山さんとお会いしていない。しかし、番組で流された青山さんの証言を聞いて、「ああ、やっぱりそうだったのか」と思うことがあった。

青山さんの証言によれば、福島第一原発に青山さんを呼んだのは、吉田さんの独断だったそうだ。つまり、「東電本店には無断でやった」のである。当時、激しい東電バッシングの中で、福島第一の内情はまったくヴェールに包まれていた。

吉田さんは、わざわざ来てくれた青山さんに瓦礫と化した建屋などの惨状を「全部撮ってください」と言い、本店との間にトラブルが起きないか心配する青山さんに対して、「いや、大丈夫じゃないです。問題はいろいろ起きますよ。でも、青山さんだったら公開するでしょ。だから来てもらったんだ」と言ったそうだ。

私が、「ああ、やっぱり」と思ったのは、この「東電本店に無断」で青山さんを福島第一の現場に呼び、さらに、「大丈夫じゃない。問題はいろいろ起きますよ」と言い、すべてを覚悟の上で吉田さんがやっていたという点である。

私は、青山さんの証言を聞きながら、吉田さんのある言葉を思い出した。拙著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)は、吉田さんにインタビューに応じてもらい、ぎりぎりの綱渡りでできた本だった。これまで何度も書いてきているように、私は吉田さんと会うまでに1年3か月もの時間がかかった。

私のようなフリーの人間は、軍団で攻めていく大メディアのようなことはできない。そこで独自のルートを模索せざるを得なかった。自分自身のことを思い浮かべれば誰でもわかることだが、人間には、自分自身に影響力を持つ人間が一人や二人は必ずいる。

幼な馴染や親友、恩師、先輩、上司……等々、その人に影響力を持つ人間が多かれ少なかれ必ずいるものである。私は、吉田さんがどこで生まれ、どこの学校に通い、どういう人生を歩んで来たのか、徹底的に調べた。拙著の中には、そういう方の証言も出ている。それらは、「取材先」であると同時に吉田さんを説得する重要な「役割」を負ってくれる人たちでもあった。

そして、さまざまなルートを辿ってアプローチし、私は1年4か月目にやっと吉田さんに会うことができた。食道癌の手術のあとの病床で吉田さんは私の手紙と本を読んでくれて、その上で、会うことを決断してくれたのである。

しかし、吉田さんは都合2回、4時間半にわたって私の取材に詳しく答えてくれたが、昨年7月26日、3回目の取材の前に脳内出血で倒れ、それ以降の取材はかなわなくなった。

だが、脳内出血で倒れて4か月後に出た拙著を吉田さんは大層喜んでくれた。そして、不自由になった口で「この本は、本店の連中に読んで欲しいんだ」と語られた。

番組での青山さんの証言を聞いて、私はさまざまな人たちと闘った吉田さんは、実は最大の敵というのは、「東電本店ではなかったか」と思った。私も、拙著の取材の過程で介入してきた東電本店(正確に言えば広報部)の存在に、最後の最後まで悩まされた。その対応に神経を擦り減らしながら、拙著はやっと完成した。

いま、吉田さんが「津波対策に消極的だった人物」という説が流布されている。一部の新聞による報道をもとに、事情を知らない人物が、それがあたかも本当のようにあれこれ流しているのである。

私は、吉田さんは津波対策をきちんととるための「根拠」を求めていた人物であると思っている。新聞や政府事故調が記述しているように、「最大15.7メートル」の波高の津波について、東電は独自に試算していた。これは、2002年7月に地震調査研究推進本部が出した「三陸沖から房総沖の海溝沿いのどこでもM8クラスの地震が発生する可能性がある」という見解に対応したものだ。

そもそも、これはなぜ「試算」されたのだろうか。これは2008年の1月から4月にかけて、吉田さんが本店の原子力設備管理部長だった時におこなわれたものだ。

それは実に大胆な計算法だった。どこにでも起こるというのなら、明治三陸沖地震で大津波を起こした三陸沖の「波源」が、仮に「福島沖にあったとしたら?」として試算したものである。

もちろんそんな「波源」は福島沖には存在しないので、「架空」の試算ということになる。だが、それで最大波高が「15.7メートル」という数字が出たことによって、今度は、吉田さんは、これをもとに2009年6月、土木学会の津波評価部会に対して波源の策定についての審議を正式に依頼している。

つまり「架空の試算」をもとに自治体と相談したり、あるいは巨額のお金を動かすことはできないので、オーソライズされた「根拠」を吉田さんは求めていたのである。この話は、私は3回目の取材で吉田さんに伺うことにしていたが、その直前に、吉田さんは倒れ、永遠にできなくなった。

いま「死人に口なし」とばかり、吉田さんがあたかも「津波対策に消極的であった」という説が流布されているのは残念だ。しかし、正式に聞くのは3回目の取材の予定だったが、私はそれまでに大まかなことは吉田さんに直接、聞いている。彼が消極的どころか、むしろ積極的であったことを、私は近くある月刊誌の誌上で詳しくレポートさせてもらう予定だ。

しかし、吉田さんが亡くなったことで、事実をそっちのけにして吉田さんを貶めようとしている人たちが現実にいる。吉田さんが本店に無断で青山さんを現場に呼んで真実の“実情レポート”を託し、また、一介のフリーランスのジャーナリストである私の取材に応じたのはなぜだったのか。

拙著を「この本は本店の連中に読んで欲しいんだ」と言った吉田さん。“現場派”の代表としての姿勢を最後まで失わなかった吉田さんの真実に今日の『報道ステーション SUNDAY』の青山さんの証言で触れることができ、私はあらためて惜しい方が亡くなった、という思いを強くしている。

カテゴリ: 原発

「本義に生きた」吉田昌郎さんの死

2013.07.09

福島第一原発所長だった吉田昌郎氏が、本日午前11時32分、食道癌で亡くなった。2011年3月11日、大地震による大津波で水没した福島第一原発で、絶望的な闘いを展開し、日本を救った人物が、その役割を終えて「去った」ことに私は言葉を失った。「あまりに神は残酷ではないか」と。

本日お昼過ぎに連絡をもらった私は、しばらく瞑目した。拙著『死の淵を見た男』で、吉田さんとその部下たちによって福島第一原発の現場でどんなことがおこなわれたのか、詳細に描かせてもらった。吉田さんのインタビューを実現するまでに、1年3か月を要した。

2012年7月、吉田さんは私の前にすっかり面(おも)変わりした姿で現われた。食道癌の手術で頬はこけ、抗癌剤の影響で一度、頭髪は抜け、それがまた生え始めた時期で、頭は坊主に近い状態だった。

絶望的な状況で「国家」として、そして「個人」として“死と淵”で闘った吉田さんは、私の質問に淡々と答えてくれた。繰り返される「絶望的な状況」を知る度に、私は慄然とした。

あそこで事故の拡大を押しとどめることができなかったら、「チェルノブイリ事故の10倍」の規模になっていただろう、と吉田さんは語った。それは、「東日本の潰滅」を意味し、無事な北海道と西日本、そして汚染された東日本という「日本が3分割される」危機だった。

全電源喪失、冷却不能、線量増加……という最悪の事態の中で、吉田さんと福島第一原発の現場の人々はどう闘ったのか。放射能事故が引き起こす“悪魔の連鎖”の怖さを思い、私は過酷な事故に立ち向かった現場の男たちに思いを馳せた。

繰り返された彼らの命をかけた原子炉建屋への“突入”によって、福島に多大な放射能被害をもたらしながら、かろうじて「格納容器爆発」という最悪の事態は回避された。「反原発」、あるいは「原発推進」といった立場やイデオロギーとは別に、彼らの凄まじい闘いに、私は息を呑んだ。

取材する中で、私は、現場の人々に「もし、吉田さんが所長でなかったら、どうなっていただろうか」と聞いている。ほとんどの部下たちは、「吉田さん以外が所長だったら、おそらくダメだったでしょう」と答えた。「ダメだった」とは、「日本が終わり」ということである。

海水注入を中止しろ、という官邸と東電本店の両方からの命令を無視し、敢然と海水注入をつづけ、原子炉の冷却を維持するという「本義」を忘れなかった吉田さんの存在に、私は今も東京に住み続けている一人として、心から感謝している。

死の淵に立った日本を救うという大きな役割を終えて去っていった吉田さん。お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。心からご冥福を祈ります。合掌。

カテゴリ: 原発

中国人と「恩義」

2013.04.23

昨日は、京都で講演があり、久しぶりに古都の雰囲気を味わった。夕方からの講演で、私は、新刊の『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)に関して、原発事故の現場で命をかけて闘った福島の男たちの話をさせてもらった。

やはり京都の人にとっては大震災、あるいは福島での原発事故というのは、遠い地の出来事である。だが、「チェルノブイリ事故の10倍」、あるいは「日本が“三分割”されるぎりぎりの危機だった」という福島原発事故の知られざる事実に熱心に耳を傾けてくれた。

家族を背負い、故郷を背負い、そして国家まで背負って「死の淵に立った」男たちが見た光景とはどういうものだったのか。すでに拙著に記述させてもらったものではあるが、講演を聴いてくれる人も同じように愛する家族を持っているわけで、自分の身に置き換えて受け止めてくれたように思う。

講演後、そのまま講演を聴いてくれた地元の経済人に連れられて、祇園(花見小路)のお茶屋をハシゴした。大変博識の経済人で、参考になる話をたくさん聞かせていただいた。

話題は、私が出している戦争関連のノンフィクションから、アベノミクスと米シカゴ学派のマクロ経済学者ミルトン・フリードマンとの関係、あるいは、中国の宝山製鉄所(宝山鋼鉄股份有限公司)にかかわることまで、多岐にわたった。

この方は宝山製鉄所に関係したこともあり、興味深い話になった。彼はこう語った。「私は、中国から重要なお客さんが来るたびに言うんですよ。“まずあなた方は、日本人に感謝の言葉を述べてください”と」。

中国人に対して必要以上に卑屈になる経済人が多い中で、この方はまったく逆だった。理由を聞くと、まさに「宝山製鉄所」のことだった。

八幡製鉄から新日鉄社長、会長、そして経団連会長まで歴任した「鉄鋼界の天皇」故稲山嘉寛氏が、なんとか中国に良質の鉄をつくる「力」をつけさせようと、宝山製鉄所の稼働に尽力したことは知る人ぞ知る。

粗悪な鉄をつくることしかできなかった中国が、稲山氏らの努力によって、良質な鉄を生み出すことに成功し、今や粗鋼生産量が、日本の「7倍」に達しているのは、ご承知の通りである。日本の技術者が日中国交正常化以前、そして正常化以後もいかに奮闘したか――この方は淡々と語った。

「鉄は国家なり」の言葉通り、ほとんどの製品のもとは「良質の鉄」にある。中国が世界に冠たる経済大国にのし上がることができたのは、「稲山氏をはじめ中国に良質な鉄を産み出させた日本の経済人や技術者がいたからこそです」と、この京都の経済人は語ってくれたのだ。「だからこそ、中国人が来ると、私は“あなた方は、まず日本人に感謝の言葉を述べるべきだ”と言うんです」と。

日本人は、「恩義に厚い」と言われる。私は台湾が危機に陥った時に、終戦時に受けた恩義を返すため台湾に渡り、金門島で敵を食い止めた根本博・陸軍中将の姿を描いた『この命、義に捧ぐ』をかつて書いた。

この方の話を聞きながら、私は、中国にも「恩義」を重んじる人々ができるだけいることを心から願った。しかし、今日、私の目に飛び込んできたニュースは、「尖閣の領海に過去最多の中国海洋監視船8隻が侵入」というものだった。

宝山製鉄所をはじめ、日中国交正常化以前から中国の発展に寄与してきたあまたの日本人が、こういうニュースをどう受け止めているのかと、ふと思った。

中国人に「恩義」や「過去を振り返る心」を期待すること自体が無駄なことなのだろうか。かつて中国の発展のために尽力しながら、完全に忘れ去られた日本人たち。アジアの盟主を自負する現在の中国に、私はそれでも良心を期待したい。

カテゴリ: 中国, 原発

原発事故と福島の人々

2013.01.15

昨日は、大雪で東京が大混乱となったあおりをもろに受けてしまった。本日昼に松江での講演があったため、昨日、空路で松江入りする予定だったのだ。

しかし、乗るはずの飛行機が雪のため欠航。そのニュースを品川で知った私は、そのまま新幹線にチケットを代えて陸路で松江入りしようと思った。だが、品川駅構内は、同じようにチケット変更の客でごったがえし、すでに長蛇の列となっていた。

窓口に1時間近く並び、やっと岡山までの新幹線と、そこから松江に向かう「特急やくも」のチケットを確保した。そして新幹線のホームに行こうとしたら、突然、広島に住んでいる友人にうしろから声をかけられた。

驚く私に、彼は疲れた表情で、「2時間も広島行きの飛行機の中にいて、それから欠航になってしまった。今やっと品川まで戻ってきて新幹線のチケットを確保したんだ」と言った。搭乗して2時間も経ってから欠航とは、お気の毒というほかない。

羽田に行く前に欠航を知った私は、まだ幸運だったかもしれない。しかし、結局、私が目的の松江に着いたのは、夜11時を過ぎていた。

欠航によって、本来の到着時間からすると「6時間」もロスしたことになる。雪の時にいつも思うことだが、首都・東京は、雪国の人が聞いたら笑い出すような脆弱さを持っているのである。

さて、本日の講演のテーマは、その首都・東京を壊滅の危機に陥れた「3・11福島第一原発事故」である。先月上梓したばかりの拙著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)を踏まえ、あの未曾有の事故のことを振り返らせてもらった。

外部電源も内部電源も、さらに言えば、内部の交流電源も直流電源も津波によって失い、原子炉冷却の手段を失った福島第一原発の現場が、その絶望的な状況で、どう闘ったのか。私は、その話をさせてもらった。

何度も何度も原子炉建屋に突入し、家族と故郷を守るために闘い抜いたのは、地元福島の人々である。「海を使って、原子炉を冷却する」という吉田昌郎所長の方針で、線量が増加する中、原子炉に至る水の注入ラインをつくったり、消防車を繋いで海からの水を原子炉に入れようとした現場の執念は、凄まじいのものだった。

それらは、すべて自らの「命」をかけたものである。避難対象「5000万人」、避難の範囲「半径250キロ」という、まさに“日本三分割”の危機の中で、彼らは「死の淵」から日本を蘇らせた。未曾有の事態を生んだのが東電なら、その最悪の事態を土壇場で防いだのも東電(しかし、こちらは現場の人々)だったのである。

福島に多くの放射能被害をもたらしながら、それでも格納容器爆発という最悪の事態だけは回避した現場の男たち。今日、話をさせてもらいながら、私は、「あの時、原場で闘ったのが福島の人々でなかったら、果たして、事故をあそこで食い止めることができたのだろうか」と、改めて思った。

折しも、NHKの大河ドラマ『八重の桜』が順調なスタートを切った。新島八重という女性の生涯を中心に、福島の人々の姿を描いていく作品だ。私は、興味津々で第1回と第2回を観させてもらった。

土壇場で発揮する福島の人々の責任感や根性、気迫、そして使命感に、私はいつも感心する。3年前に私は、『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社)という作品でも、福島県出身の根本博という人物を描かせてもらっている。

なぜ、彼らはそこまで踏ん張れるのか、なぜ土壇場で命をかけた闘いに彼らは自ら進んで挑むことができるのか。そして、それは福島という「土壌」と「人」だからこそ、成せることなのだろうか。

その秘密を、私自身が是非、知りたいと思っている。NHK大河ドラマは、1年かけてそれを描いてくれるに違いない。近代史の中で、さまざまな悲劇に遭遇してきた福島の人々――彼らの真実の物語に多くの日本人が真摯に耳を傾けて欲しいと思う。

カテゴリ: 原発

毅然と生きた福島の人々

2012.11.29

今日は、内外情勢調査会の講演で福島県のいわきに来ている。今年、いったい何度、いわきに来ただろうか、と思う。

拙著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所)の「取材拠点」になったのは、このいわき市だった。

福島第一原発の吉田昌郎前所長とは東京でお会いしたが、吉田氏の部下たちには、ほとんどいわきを拠点に福島県内で取材させてもらった。すっかり馴染みの地である。

昨年3月、日本が危うく「三分割」されるという絶望的な状況で、凄まじい闘いを展開したのは、素朴な福島の浜通りの方々だった。私の取材にも、「あたりまえのことをしただけ」と、言葉少ない人がほとんどだった。

しかし、「家族」のため、「郷里福島」のために、暴走しようとするプラントと命をかけて闘いつづけた人々の姿に、私は何度も心を揺さぶられた。

力及ばず福島県内に大きな被害がもたらされた。その影響は、いつ果てるともなく現在もつづいている。避難を余儀なくされ、人生そのものが変わってしまった方も多い。そんな中で闘いつづけた無名の人々の姿を私は詳しく書かせてもらった。

今日の講演では、この原発事故のことと、私が2年前に出した『この命、義に捧ぐ』(集英社)の主役、根本博・陸軍中将のことを両方、話をさせてもらった。根本中将も福島出身の方だからだ。

毅然とした生き方を貫いた根本中将の姿が、私には、今回の事故の際、原子炉建屋に何度も命をかけて突入していった人々の姿と重なって見えた。

あの最悪の原発事故の中で、日本を救ったのは「福島の人々」だったことを忘れてはならないと思う。しかし、その人々が、今も自分がどこに勤めているか、知られないように生活しているのは事実だ。

東電に勤務していることが知られたら、非難に晒され、家族に迷惑がかかるという危惧は今もつづいている。あの事故を引き起こしたのが「東電」ならば、“日本三分割”という岐路にそれを土壇場で止めたのは、その東電の「現場の人々」だった。

東電への“怒り”と共に、現場への“感謝”は、同時代に生きる人間として、忘れてはならないもののように思う。

カテゴリ: 原発

「福島第一原発事故」とは何だったのか

2012.11.24

いよいよ各政党、各候補者がこの連休、“戦闘状態”に入った。全国あちこちで各党の党首や候補者たちの叫び声が響きわたっている。

多くの争点が浮上しているこの総選挙で、さらに絞れば、「消費税増税」「TPP」「原発」「外交政策」が四大争点なのだそうである。これらをめぐって史上最多の政党が乱立し、有権者の判断を仰ぐことになる。

そんな中、本日、拙著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所)が発売になった。「原発」に対するスタンスは、たしかに国民にとって投票を決定づける大きな要素である。

解散総選挙のまさにその時期と拙著の出版が重なったことに、私は運命的なものも感じている。10月には出したいと思っていたが、取材の継続やさまざまな事情によって出版が遅れに遅れ、この時期になってしまった。

本は、題名でもわかるように福島第一原発所長として事故の最前線で指揮を執った吉田昌郎氏とその部下たちを中心に、菅直人首相、班目春樹・原子力安全委員会委員長、自衛隊、政治家、官僚、地元の人々……等々、90名以上の実名証言をもとにノンフィクション作品として描かせてもらったものだ。

外国メディアによって“フクシマ・フィフティ”と呼ばれ、原発に残って事故の最前線で闘った人たちの実名証言は、言うまでもなく初めてである。

私が吉田前所長とお会いしたのは、今年の7月はじめのことだ。私は、吉田さんと会うために事故以来、1年以上にわたってあらゆるルートを通じてアプローチをつづけた。もちろん、東電広報部に取材申し込みもしたが、各報道機関や、多くのジャーナリストから取材申請が殺到していたので、全く何の音沙汰もなかった。

私は、吉田さんの生い立ちや学校時代の友人や恩師など、さまざまなアプローチをつづけ、10本以上のルートを探ったが、最後に吉田さん本人に辿りついたのは、意外な「ルート」だった。

協力者にご迷惑がかかるので、それについては触れないが、やっと事故後1年4か月を経て、私は吉田さんとお会いすることができた。昨年12月に福島第一原発所長から退く原因になった食道癌は、すでに今年2月に手術を終えていたが、痩(や)せて所長時代とはすっかり面(おも)変わりした姿に私は衝撃を受けた。

2度目の取材となった7月中旬には、すこし頬がふくらみ、体調が回復していることが私にもわかったが、それでも、所長時代の姿には程遠かった。そして、3度目の取材の直前に、吉田さんは脳内出血を起こし、ふたたび長期入院を余儀なくされたのである。

その後、2回の開頭手術、そしてカテーテル手術も1回おこなうなど、吉田さんは現在も厳しい病状と闘っている。しかし、私は吉田さんへの取材を端緒に、多くの部下たちに直接取材をおこなうことができた。

私が知りたかったのは、考えられうる最悪の事態の中で、現場がどう動き、何を感じ、どう闘ったのかという「人としての姿」だった。

あの全電源喪失、注水不能、線量増加、そして水素爆発……という絶望的な状況の中で、命をかけて原子炉建屋に突入していったのは、どんな人々なのか。また、どんな思いで死の恐怖を克服したのか。私はその「人としての姿」を知りたかったのである。

極限の場面では、人間は、強さと弱さを両方、曝け出す。日頃は目立たない人が土壇場で驚くような力を発揮したり、逆に普段は立派なことを口にする人間が、いざという時に情けない姿を露呈したりする。ぎりぎりの場面では、人間とは、もともと持ったその人の“本来の姿”がむき出しになるものだ。

私は、それぞれの人たちがさまざまな葛藤の末に、「家族」や「故郷」を背負って事故に立ち向かい、その中で、想像を超えたドラマが数多くあったことを、取材を通じて知った。

原子力安全委員会委員長だった班目春樹氏は、「あの時、日本は“三分割”されるところだった」と語ってくれた。すなわち、日本は、致命的な打撃を受けた「東北・関東」と、それ以外の「北海道」と「西日本」に三分割される、ということである。そして、吉田前所長本人は、事故の規模を「チェルノブイリ事故の10倍になる」というぎりぎりだったことを詳しく語ってくれた。

事故は、福島県とその周辺に大きな被害をもたらした。しかし、それでも「日本三分割」という最悪の事態になることは土壇場で阻止された。その闘いを展開した現場の人々の凄まじい執念と、制御不能に陥った時の原子力の怖さ――取材の間中、私はそのことを考えつづけた。

吉田さんは脳内出血で倒れる前、しみじみとこう語ってくれた。「もうだめだと思った時、私は、自分と一緒に“死んでくれる”部下たちの顔を思い浮かべました。頭の中では、死なしたらかわいそうだ、と思っているんですが、だけど、どうしようもねぇよな、と。一人一人、顔を思い浮かべて、それ以外の人間は、もうここ(福島第一原発)から出てもらおうと思ったんですよ」

それは、いよいよ2号機が「最期の時」を迎えようとした2011年3月15日明け方のことである。気迫と闘志で暴走しようとする原子炉と闘いつづけた吉田所長ら“フクシマ・フィフティ”たちの姿を想像しながら、私は、「首都東京」を含めた今の生活が彼らの「執念」と、事故の中で信じられないような幸運がもたらした「奇跡」によって成り立っていることを感じざるを得なかった。

大きな選挙の争点となった原発問題。あの事故の「真実」を一人でも多くの人に知って欲しいと思う。

カテゴリ: 原発

最新のエントリー

カテゴリー

アーカイブ