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名実ともに「空想的平和主義」の時代は終わった

2014.04.09

いよいよ日本と中国との鬩(せめ)ぎ合いが、国際社会の大きな焦点となってきた。訪中したアメリカのヘーゲル国防長官が4月8日、記者会見で述べた中身が要因だ。

ヘーゲル氏は、尖閣諸島(中国名:釣魚島)について「日米安全保障条約に基づく防衛義務を果たす」と明言した上で、昨年11月に中国が尖閣諸島の上空を含む東シナ海に広範囲にわたって“防空識別圏”を設定したことに言及し、「どの国も防空識別圏を設定する権利はある。だが、事前協議なしに一方的に設定すれば、緊張や誤解を招き、衝突を誘発する」と痛烈に非難した。

このヘーゲル発言にほっと胸を撫で下ろした日本人は少なくないだろう。虎視眈々と尖閣奪取を目論む中国に、「アメリカは(中国の尖閣奪取を)黙っちゃ見ていないよ」と、はっきり言明してくれたのである。

これに対して、中国の常万全・国防相は「領土問題で、われわれは妥協や譲歩、そして取り引きは一切しない。もちろん、わずかな領土侵犯も許さない。中国は日本とトラブルを起こすつもりはないが、領土を守る必要があればトラブルが起きることを恐れない」と語ったのである。

すなわち、尖閣はあくまで「中国の固有の領土」であり、「一歩も譲らない」との宣言である。報道によれば、この記者会見の前におこなわれた両者の会談は激烈なものだったようだ。

ヘーゲル国防長官に対して、常国防相は領土主権を「核心的利益」と主張し、「中国側からは挑発しない。しかし、必要ならば武力で領土を守る準備はできている」と、“恫喝”を忘れなかったというのである。

そして、東シナ海での日本、あるいは南シナ海でのフィリピンなどの動きを非難し、アメリカによる台湾への武器売却まで厳しく批判したという。つまり中国は、領土・領海に対する野心を、もはや「隠さなくなっている」のである。

尖閣をめぐる日中両国の紛争が、世界の“ビッグ2”アメリカと中国との激突に繋がるかもしれないという懸念によって、この問題が国際社会の大きな「焦点」に浮上したのは当然だろう。

私は、二つの超大国が、“日本をめぐって”激しく応酬していることを肝心の日本人はどう見ているのだろうかと、思う。一般のアメリカ人にとっては、極東の一地域で“日本のために”アメリカの若者の血が流されることを良し、とする人は少ないに違いない。

それでも、「アメリカは日米安保条約に基づき日本を守る」と宣言してくれている。この明確なアメリカの立場表明によって、中国が尖閣に対して露骨な動きをすることが難しくなったのは確かである。

それは、ヒラリー・クリントン国務長官が「日本の施政権を損なおうとする行為」に反対を表明し、中国の動きを牽制した昨年1月につづく、痛烈なるアメリカの意思表示だった。当ブログで何度も指摘してきた中国による「闇夜に乗じての尖閣上陸」と「建造物の建設」という“既成事実化”の戦略が「足踏み」したのは間違いない。

しかし、ワシントンで活発化する中国ロビーの動きと、大量保有する米国債の“人質作戦”が中国に功を奏し、尖閣が将来、日米安保条約第5条の「適用対象外」とされる可能性もまた否定できない。

日本は、その時の対応をきちんと考えておかなければならない。日本には、中国の代弁者である“親中派”のメディアや評論家が圧倒的に多い。彼らは“親中”を“親中国共産党政権”と勘違いしている人たちである。

言論や思想の自由を許さず、中国人民の人権を犯しつづけている中国共産党独裁政権のシンパを“親中派”として仰ぎつづけている日本のメディアの滑稽さに、アメリカ政府も気づいている。

そんな日本が、それでも、アメリカの若者たちが血を流してまで守る価値があるものかどうか、ひとたび尖閣紛争が起こった時は、きっとアメリカでも議論になるに違いない。

私たち日本人は、単なる中国共産党の代弁者に成り果てたメディアや言論人の言うことををきちんと見極め、自分たちの生命・財産、そして領土を守るために、毅然と対応してくれる人々を心から応援すべきだろうと思う。

3日前(4月6日)、アメリカの「ボイス・オブ・アメリカ」の中国語版サイトが注目すべき記事を掲載している。この記事の中で、アメリカのアジア太平洋外交を研究する香港大学のレイエス客員教授が、「東シナ海の小さな島(※尖閣のこと)をめぐる海洋領土紛争はより一層リスクが高まっている」と指摘しているのだそうだ。

その中で、レイエス教授は「ロシアのクリミア併合のような事態はアジアでも十分考えられる」と語り、もし本当に日本と中国が軍事衝突した場合、「アメリカは、日本が希望するように日本を支持できるのかどうか」と、疑念を呈したという。

クロアチアの危機が、クリミア半島から今度は国土の東部全域に広がる中、東アジアで同じことが起こらない保証はどこにもない。いや、現実に「アメリカは果たして日本を守れるのか」「クリミアのようになってからでは遅い」という懸念が湧き起こっているのである。

中国の台頭は、戦後日本を支配してきた「空想的平和主義」の時代の終焉を示している。「ヘーゲル国防長官vs常国防相」の昨日の激論は、平和ボケした日本人にそのことを告げている。そして同時に、覇権主義を剥(む)き出しにする中国と向き合う本当の「覚悟」を、私たちに求めているのではないだろうか。

カテゴリ: 中国, 国際

「戦争」に思いを馳せる季節

2014.04.06

私にとって4月の桜の季節は、1年のうちで8月と共に「歴史」に思いを馳せる時期でもある。今から69年前、1945(昭和20)年4月は、日本にとって危急存亡の時だった。そして、多くの青年が若き命を散らした。

硫黄島が陥落し、いよいよ沖縄に米軍が上陸を開始したのは、昭和20年4月1日である。この時期、沖縄を取り囲む米機動部隊に対して、日本の航空特攻が熾烈さを増していた。「沖縄を助けなければ」と多くの若者が東シナ海で、あるいはその上空で命を散らしたのである。

この時期の日米両軍の攻防は、やはり日本の歴史がつづくかぎり、忘れてはならないものだろう。将来に対して多くの希望を持っていた若者が、家族と故郷を守るために、自らの命を捧げなければならなかったからだ。

子孫を残すこともできず、この世を去っていく「無念」と、諦(あきら)めなければならなかった将来への希望の「重さ」は、後世の私たちがいかに頭の中で想像しても、し尽くすことができるものではない。

文庫も含めると8冊の戦争ノンフィクションを上梓している私は、昨日の4月5日、戦艦大和に座乗して沖縄への水上特攻を敢行した故伊藤整一・第二艦隊司令長官の「墓前祭」に先立つ記念講演で、福岡の柳川に招かれた。

伊藤中将(死後、大将に昇進)生誕の地は、柳川市に隣接する旧三池郡高田町である。私は、長い間、伊藤長官のお墓参りをしたいと念願していた。

伊藤長官率いる第二艦隊は、この時、およそ4000名の兵たちが東シナ海の蒼い海に没した。戦艦大和の水上特攻への是非をめぐる議論は、いまだに多くの歴史研究家の間で戦わされている。しかし、一丸となってこれだけ多くの若者が沖縄を助けようと心をひとつにした事実は、日本の歴史がつづくかぎり消えない。

私は、その指揮官であった伊藤長官のお墓に手を合わせたいという思いを持っていたのである。講演に先立って、私はその念願をついに果たすことができた。たまたま地元にいた古くからの知人にお願いして、墓所に案内してもらったのだ。

伊藤長官の墓所への案内板もない中を、知人は、私を案内してくれた。小雨の中、やっと辿り着いた墓所には、昭和33年に建てられた記念碑と共に、伊藤長官の立派な墓石があった。

「ああ、やっと来ることができた」と私は思った。広島県呉市にある海軍墓地(長迫公園)には、戦艦大和の慰霊碑が建っている。何度もそこに行って手を合わせている私は、ついに伊藤長官の墓参の願いを叶えたのである。

映画『連合艦隊』では俳優の鶴田浩二が、『男たちの大和』では渡哲也が伊藤長官を演じている。妻と娘を愛した伊藤長官は、軍人としてだけでなく、家庭人としての優しさと、さらに部下への分け隔てのない接し方や、高潔な人柄が今も語り継がれている。家族に宛てた遺書の中で「大きくなったら、お母さんのような婦人になりなさい」と娘たちに語りかけた文面は、あまりに有名だ。

墓所の20坪近い広さといい、そこにあった慰霊碑といい、それは立派なものだった。だが、せっかくのこの墓所も、案内板も何もないため、地元の人でさえ、辿り着くのは極めて難しいだろうと思った。

案内してくれた知人は、「この墓所は、旧高田町(現・みやま市)の行政区ではなく、ぎりぎりで大牟田市の方に入っているんです。大牟田市の方はあまり伊藤中将への関心がないので、案内板も掲げられておらず、こんな有様です」と教えてくれた。案内板さえ出ていない理由はそういうことだったのか、と思った。

この時、沖縄を守った陸軍の牛島満・第32軍司令官も、同じように温厚で高潔な家庭人であり、さらには後進を数多く育てた教育者として知られる。

私は、先人の事績や思いが消えつつある現状を憂う一人である。それを残すために、今も新しい戦争ノンフィクションに挑んでいるが、時間の厚い壁に跳ね返されている。拙著『太平洋戦争 最後の証言』シリーズを取材していた数年前までとは、まったく状況が変わっていることを感じざるを得ない。

ここ数年、私は先の大戦の最前線で戦った大正生まれの元兵士を数多く見送った。大変お世話になった方で、いま現在、病床に伏している方も少なくない。

貴重な証言が消えつつある今、柳川での伊藤中将の墓前祭の講演を私はそんな思いでさせてもらった。断たれていった希望、消えていく命、若者の無念――当時の若者が置かれた状況と彼らが辿った運命を忘れないでいたい。そして、あの時代の毅然と生きた日本人の真実の姿を後世に伝えたいものである。

明日4月7日は、戦艦大和以下の第二艦隊が東シナ海に没し、伊藤整一中将ら約4000名の69回目の命日である。いよいよ来年は大和沈没「70周年」を迎える。

東京に帰ってきたら、雨で桜はかなり散ってしまっていた。桜の季節が終われば、東京は「夏」に向かって真っしぐらだ。環境破壊で、「春」と「秋」が消えつつある日本。たとえ気候は変わっても、先人が持っていた毅然とした気質だけは失いたくない。東京の夜桜を見ながら、私はそう思わずにはいられなかった。

カテゴリ: 歴史

なにが「袴田巌」を死刑から救ったのか

2014.03.28

日本列島を駆け抜けたビッグニュースだった。「これ以上、拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」「証拠が捏造(ねつぞう)された疑いがある」。村山浩昭裁判長の痛烈な文言と共に、48年という気の遠くなる年月を獄中で過ごした袴田巌死刑囚(78)の再審請求が認められ、史上初めて「直ちに釈放」された。

3月27日午後5時20分、東京拘置所から釈放された袴田死刑囚の姿は、自分に起こっている“現実”をきちんと理解できているのかどうか、判断しかねているように私には見えた。

拘禁症による心神耗弱と糖尿病の悪化という病状は、その姿が如実に物語っている。 1966(昭和41)年に静岡県で一家4人が殺害、放火されたいわゆる「袴田事件」は、再審の厚い壁が「ついに破られた」のである。

私は、「ああ、“裁判員制度”が袴田死刑囚を解き放ってくれた」と、その袴田死刑囚の姿を見ながら思った。すなわち「司法制度の改革」が、長い拘禁生活下にあった袴田死刑囚をついに解き放った、と思ったのである。

これには、少々の説明を要する。袴田死刑囚と「裁判員制度」とは表面上、何の関係もないからだ。今回の決定の最大の要因は、袴田死刑囚の姉・秀子さん(81)が申し立てた第二次請求審で、新たに実施した「DNA型鑑定」の評価によるものだ。

しかし、私はそれと同等、いやそれ以上に、「裁判員制度」こそが、袴田死刑囚釈放の“主役”だったと思う。

現場近くのみそ工場タンクから発見され、確定判決が「犯行着衣である」と認定した5点の衣類のDNA型鑑定結果を、弁護側は「これは、再審を開始すべき明白な新証拠に当たるものだ」と主張した。

半袖シャツに付着していた「犯人のもの」とされる血痕について、2人の鑑定人が袴田死刑囚のDNA型と「完全に一致するものではなかった」とした。しかし、検察側の鑑定人は「検出したDNAは血痕に由来するか不明」と信用性を否定したため、検察側は「鑑定試料は経年劣化している。鑑定結果は到底信用できない」と訴えた。

ここで起こったのが、600点の証拠の「初開示」という出来事だった。これは、袴田事件にとって「画期的なこと」だった。この第二次請求審で、静岡地裁の勧告を受けた検察側が、袴田死刑囚が供述した録音テープ、関係者の供述調書……等々、600点に及ぶ新たな証拠を弁護団の前に「開示」したのである。

これによって、当時の「捜査報告書」の内容が新たに判明した。そこには、袴田死刑囚と同じ社員寮にいた同僚が「(事件時の放火による)火事をサイレンで知って表に出る時、袴田がうしろから来ていた」と話していた記述があった。袴田のアリバイを補強する話である。

また、犯行着衣とされたズボンをつくった製造会社の役員の供述も開示された。これによって、ズボンについていた布きれにあった記号「B」が示していたのは、確定判決が認定していた「サイズ」ではなく、「色」だったことがわかったのである。

「このズボンは、袴田死刑囚には到底、履くことはできない。これは彼が履いていたものではない」。弁護団のその主張が、信憑性を帯びることになったのである。

なぜ、こんな証拠が次々と明らかになったのだろうか。この背景にあるのが、2009年5月にスタートした「裁判員制度」である。国民が裁判の過程に参加し、裁判の内容に国民の健全な常識を生かすために始まった裁判員制度。この国民の裁判への参加には、大きな条件があった。

審理が長期に渡れば、裁判員の負担は、はかり知れない。そこで、審理の迅速化と、そのための徹底した要点の整理が迫られた。公判が始まる前に争点を「絞り込む」システムが裁判員制度を睨んで、でき上がった。

それが、「公判前整理手続」である。裁判員制度に先立つ2005年11月に刑事訴訟法の改正によって、この制度は始まった。公判が始まる前に、裁判官、検察官、弁護人の間で徹底した要点整理をおこなうのである。これにより弁護側が要求する証拠物件は、検察側はすべて開示しなければならなくなった。

すなわち弁護側が要求すれば、捜査官が捜査の過程でメモした警察手帳の中身から、留置場で朝、昼、晩、容疑者が「何を食べていたか」という記録に至るまで、この公判前整理手続の場に出さなければならなくなったのである。

今回の再審決定の重要なポイントは、2010年5月、裁判官、検察側、弁護側の3者協議の席上、当時の原田保孝裁判長が「検察はそこまで“捏造でない”と言うのなら、反論の証拠を開示したらどうですか」と、検察側に初めて証拠開示を迫った「瞬間」と言われている。

それが、前年(2009年)にスタートした裁判員制度と、さらにそれに先立つ公判前整理手続によるものであったことは、明らかだろう。そして、その姿勢は今回、再審開始の決定をおこなった後任の村山浩昭裁判長にも引き継がれ、厚い「再審の扉」はこじ開けられたのである。

今回の袴田事件だけではない。公判前整理手続というシステムは、刑事裁判に画期的な変化をもたらしている。これまで、なぜ日本の刑事裁判における有罪率が「99%」を超えるという“異常な”数字を誇っていたか、ご存じだろうか。

それは、井上薫・元裁判官と私との対談集『激突! 裁判員制度―裁判員制度は司法を滅ぼすvs官僚裁判官が日本を滅ぼす』(WAC)にも詳述されているが、これまでの日本の刑事司法は、極めて冤罪を起こしやすい体質を持っていた。

それは、検察が法廷に出す証拠は、有罪を「勝ち取るだけのもの」であり、それに不都合なものは「隠されて」いたのである。たとえば、A、B、C、D、Eという5種類の関係者の供述調書があり、そのうち、有罪に有利なものがAとCとDだった場合、有罪を勝ち取るために不利なBとEの供述調書は、法廷に出さなくてもよかった。

たとえ弁護人から「BとEの供述調書を出してください」という要求があっても、同じ“官”同士である裁判官から「その必要はありません」と却下されれば、それで終わりだったのだ。そもそも弁護側は、「BとEの供述調書」が存在することを知らないまま、判決が下されることが多かったのである。

しかし、日本の99%の有罪率を支えたその悪しきシステムは、裁判員制度を睨んでスタートした公判前整理手続によって崩壊した。そして、定着してきたこの公判前整理手続の習慣は、袴田事件の再審をめぐる攻防にも決定的な影響を与えたのである。

私は、ここまで検察を追い込んでいった“手弁当”の弁護士たちと支援者たちの「執念」と「努力」に心から敬意を表したい。そして、日本の司法を根本から変えつつある「裁判員制度」というものに、あらためて厚い評価をしたいと思う。

カテゴリ: 事件, 司法

愛すべき隣人「台湾」の未来と「日本」

2014.03.25

昨日は、夜、姫路で講演があったので、途中、甲子園で明徳義塾(高知)と智弁和歌山(和歌山)の試合を観戦してから姫路に行き、講演のあと、地元の人たちと夜遅くまで飲んだ。結局、ホテルに入ったのは、もう午前1時近かった。

甲子園で観た明徳義塾と智弁和歌山の試合は、激戦だった。2002年夏の甲子園決勝の再現で、しかも甲子園初の監督「100勝対決」である。

甲子園での勝ち星が史上最多の和智弁・高嶋仁監督(63勝)と史上5位の明徳・馬淵史郎監督(42勝)という、合わせて105勝の名将対決は、試合前、両監督がはからずも「3点勝負」と言っていた通りの展開になった。

1対1で延長にもつれ込んだ試合は、和智弁が延長12回表にホームランで突き放すと、その裏、明徳がスクイズで同点に追いついた。そして、この回に決着がつかなければ再試合となる延長15回、和智弁が二死満塁と攻め立てたが、明徳はセカンドゴロでピンチを凌ぎ、その裏、今度は明徳が一死満塁からワイルドピッチでサヨナラ勝ちするという幕切れとなった。

延長戦での満塁の重圧は、言葉では表現しがたい「何か」がなければ凌げない。「精神力」や「球際(たまぎわ)の強さ」という言葉をもってしても、それを表わすことはできないだろう。最後に両チームの明暗を分けたのは、その「何か」だったように思うが、それはスポーツ・ノンフィクションも手掛ける私にとっては、永遠のテーマでもある。

私は、延長10回を終わったところで姫路に向かったため、あとはワンセグでの観戦となったが、画面から少しも目を離すことができなかった。久しぶりに“死闘”という言葉がふさわしい試合を堪能させてもらった。両チームの選手たちの日頃の精進に感謝したい。

昨日、私には、ずっと気になっていたニュースがあった。甲子園とはまったく関係がない海の向こうの台湾のニュースだ。中国と調印した「サービス貿易協定」の承認に反対する学生たちが台北の立法院(日本の「国会」にあたる)の議場を占拠して6日目となった3月23日夜、今度は通りを隔てて北側にある行政院(内閣)の庁舎に突入し、学生ら32人が逮捕されたのである。

非暴力での「立法院」占拠が、一部の学生によって「行政院」への突入に発展したのは、残念だった。政府に「強制排除」への口実を与えるからだ。しかし、大半は今も非暴力のまま、立法院とその周辺での座り込みをつづけている。

ことの発端は、中国と台湾が相互に市場開放促進に向けて調印した「サービス貿易協定」である。この協定によって中国と台湾が相互の市場開放を取り決めたのである。

しかし、台湾の人々に中身を開示しないまま秘密裏に結ばれた協定に反発が起こり、さらに議会で多数を占める国民党がこれを「強行採決」しようとしたことが、学生や民衆たちによる「立法院占拠」につながった。

その非暴力の座り込みをつづける中にいる台湾の若い女性がyoutubeにアップした映像が話題になっている。国会を取り巻く群衆をバックにした学生と思われる若い女性は、日本語でこう語りかけている。

「私は台湾人です。私は若いです。そして、この国の民主は、さらに若いです。台湾の民主は、私たちの親の世代の努力と犠牲で、ヨチヨチしながら成長してきました。この国の民主の歩みは、私たちの今までの人生でもあります」

そう語る二十歳前後と思われるこの女性は、民主的なプロセスを無視した協定が自分たちの未来の労働条件を悪化させ、就職機会を圧殺することを訴えている。映像はこうつづく。

「いま台湾はかつてない危機に直面しています。でも、この時代に生まれて、ここにいられる私たちは幸せです。われわれが抵抗をつづければ、この国の未来は変わり、新しい世界は開かれると信じているからです」

「現在、私は国会にいます。死にそうになっている台湾の民主のために、力を尽くそうと思います。世界中の人々にいま台湾で何が起こっているのかを知って欲しいと思います。もし、あなたも、民主が守られるべき価値があるものだと信じていたら、私たちと一緒にその価値を守りましょう」

淡々とそう語る女性の映像を見て、私は、初めて台湾を訪れた戒厳令下の27年前の台湾を思い出した。1987年2月、初めて訪台した私は、戒厳令下で民主化を求めるうねりのような若者たちの姿を見た。5か月後、実に40年近くつづいた戒厳令が、蒋経国総統によって解除になった。

戒厳令下では、いつ、どこで、誰が連行されても、わからない。実際に数多くの台湾人が虐殺された「二・二八事件」以降、夥しい数の台湾人が警備総司令部に連行され、家族のもとに二度と帰ることはなかった。中国共産党との国共内戦に敗れた蒋介石率いる国民党は、50年も日本の統治下にあった台湾を「思想監視」によってしか、治めることができなかったのである。

まだ戒厳令下だった1987年前半、共産党のスパイを通報した者には、700万元の報償が与えられることを告示した「共匪通報700万元」の貼り紙が地方の空港に貼られていたことを思い出す。

その戒厳令が、若者の民主への叫びによってついに「解除に追い込まれた」のが1987年7月のことだった。私は、「ああ、この女性は、あの時の若者たちの子供の世代なんだ」と思い至った。

たしかに戒厳令解除から始まった「台湾の民主」は、それから30年近くを経た現在、新しい局面を迎えている。それは、あの頃は想像もできなかった中国の経済大国化であり、まさにその中国に呑み込まれようとする台湾の現状である。

立法院を占拠した若者は、この協定をきっかけに馬総統の「年内訪中」「初の中台首脳会談」というシナリオへの恐れを抱いているのではないだろうか、と思う。実際にこの協定が抵抗もなく通っていたら、その可能性は極めて高かっただろう。

そして、その先にあるのは、「台湾の香港化」である。すなわち台湾の中国への隷属化にほかならない。つまり、今回の「サービス貿易協定」反対は、イコール「台湾の中国への隷属化」への反対であろう、と私は思う。

そのことを考えると、私は深い溜息が出る。中国と韓国が手を携えて日本に攻勢を強めている中で、台湾は、日本に尊敬と好意を寄せてくれている貴重な隣人だ。日本のことが大好きな「哈日族(ハーリーズ)」と呼ばれる台湾人をはじめ、これほど日本の「存在」と「立場」を理解してくれる“国”は珍しい。

あの東日本大震災の時に、わがことのように涙を流し、あっという間に当時のレートで200億円を超える義援金を集めて、日本に送ってくれたことも記憶に新しい。

その台湾で、いま「中国への隷属化」に対する学生と民衆の抵抗が始まっているのである。地図を見てみればわかるように「尖閣諸島」の情勢は、中国が台湾を呑み込んだ時に、大きな変化を見せるに違いない。

中国と台湾が、ともに尖閣の領有を主張し、アメリカが中国のロビー活動によって、尖閣を日米安保条約「第5条」の「適用区域ではない」と譲歩した時、尖閣は中国の手に落ち、さらに沖縄にも、激変が生じるだろう。

そんな歴史の狭間で、台湾の学生たちが、必死の抵抗を試みている。それでも、馬英九総統は、立法院とその周辺に集まる群衆を強制排除することには極めて重大な決断が必要となるだろう。

なぜなら、「民主国家」である現在の台湾では、非暴力の座り込みを強制排除すれば、さらに大きな民衆の反発が湧き起こることは必至だからだ。これが中国では、そうはいかない。言論と思想の自由がない共産党独裁政権の中国では、たちまち民衆は排除され、厳しい弾圧を受けるだろう。

考えてみれば、この「座り込み」こそ、中国と台湾の「差」なのである。将来、今回の座り込みが、その「差」を守るため、すなわち「民主」を守ろうとする歴史的な学生と民衆による行動だったとされる日が来るのだろうか。

「この時代に生まれて、ここにいられる私たちは幸せです。われわれが抵抗をつづければ、この国の未来は変わり、新しい世界は開かれると信じているからです」。果たして、このyoutubeを通じての台湾の若き女性の訴えは、どれだけの人々の共感を呼ぶだろうか。

戒厳令の解除へと導いた彼らの親の世代の奮闘をこの目で見たことがある私は、台湾という愛すべき隣人の動向を、心して見守っていきたいと思う。

カテゴリ: 中国, 台湾

「治に居て 乱を忘れず」と生命の尊さ

2014.03.22

18日に高知で桜の開花宣言があったが、さすがに西日本は温かくなっていることを実感した。本日、私は次の作品にかかわる海軍の元兵士にお会いするため、山口県岩国市にやって来た。

昭和19年12月30日に米潜水艦の魚雷攻撃によって沈没した駆逐艦・呉竹(くれたけ)の生き残りのお二人である。“輸送船の墓場”と呼ばれた台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で沈んだ「呉竹」には200人近い乗組員がいたが、今日、話を伺った元機関兵(89歳)と元通信兵(86歳)を含む29人だけが漂流の末、生き残った。

沈没後70年近く経った今では、その29人も生存者は「数名」となった。呉の海軍墓地で毎年9月23日の慰霊祭に訪れる呉竹の元乗組員は一人減り、二人減り、昨年は、今日お会いした「二人だけ」になったそうだ。

私は今、この呉竹に乗り、若き命をバシー海峡で散らした京都帝大法学部出身の海軍少尉の人生を追っている。しかし、この人物のことを知る関係者があまりに少なく、取材に苦戦を余儀なくされている。

戦争ノンフィクションは、取材対象者の多くがすでに亡くなられているケースが多い。苦戦はもとより承知しているので、負けずに取材をつづけていこうと思う。

本日の二人の貴重な証言によって、呉竹が沈没した時のようすや、九死に一生を得た兵士の“生と死”を分けたものは何だったのか、興味深い話を伺うことができた。今後の取材の展開が楽しみだ。

さて、私は、昨日、旧海軍兵学校のあった江田島を訪れた。もう何回目かの訪問だが、今回はこれまでとは違った趣きがあった。今回は、海上自衛隊幹部候補生学校の卒業式に招かれ、初めて伝統の式典を目の当たりにしたのである。

私は、これまで戦争ノンフィクションを文庫も含めて8冊ほど上梓している。そのため、幹部学校その他に講演に呼んでもらうことがある。その関係で、今回招待してくれたようだ。

有名な卒業式だけに、マスコミも含め、多くの参列者があった。安倍首相の夫人、昭恵さんやアメリカ海軍の第七艦隊司令官、チリの特命全権大使……等々、多くの関係者の参列の中で厳粛な卒業式が執りおこなわれた。

海軍兵学校は、帝国海軍のエリート士官養成学校である。明治21年に設立された同校から、規則の厳しさだけでなく、カッターをはじめ過酷な訓練が現在まで脈々と受け継がれている。

現在の幹部候補生学校は、防衛大学や一般の大学・大学院を卒業した人を対象にしている。今回は、1年間、ここで一般幹部候補生課程を勉強し、修了した者が174名(うち女性が19名)、そのほかにすでに現場でパイロットとして任務についている人たちを対象にした飛行幹部候補生課程を修了した48名(うち女性3名)、合わせて「222名(うち女性22名)」が卒業していった。

聞けば、今では、防衛大学出身者と一般大学出身者が数の上で“半々”になっているというから興味深い。彼らが御影石の伝統の大講堂で、卒業証書を一人一人、受け取っていったのである。

アメリカ海軍の第七艦隊司令官の祝辞も含め1時間40分にわたって、式典はつづけられた。私は、どの学校の卒業式とも異なるこの厳粛さは「どこから来るのか」と、式典の間、ずっと考えていた。

私は、それは「命」、すなわち「生と死」ではないか、と思った。そこが一般の学校の卒業式と根本的に異なるところだ。ここに参列している父兄たちは、言うまでもなく晴れの日を迎えたわが子たちの大いなる未来に期待をかけているだろう。

無事、海上自衛隊の幹部として最後まで職責を全うしてくれることを親たちは祈っている。しかし、激動のこの21世紀に今後30年、40年、日本を取り巻く情勢が平和であってくれる「保証」はどこにもない。

いや、太平洋に覇権を確立しようとしている中国と、まず「尖閣」、その次は「沖縄」をめぐって、どんな形であれ、紛争が勃発する可能性は決して小さくない。その時、最前線に立たなければならないのは、咋日、卒業証書を受け取った彼ら、彼女らである。

私は、これまでの戦争ノンフィクションで、海兵68期から72期の人たちを中心に取材をさせてもらったことがある。その時、これらの期のあまりの戦死者の多さに愕然とした。彼らは、同じようにこの講堂での卒業式を経て、巣立っていった人たちである。

独特の厳粛さが漂うのは、やはり先輩たちが流した血と涙、大海原に消えていった若き命の尊さではないか、と思う。すなわち「命」というものに対する哀惜(あいせき)が、見る者に独特の感傷をもたらしているのではないだろうか。

私は昨日、この伝統の卒業式をそんな思いで見守っていた。そしてその翌日である今日22日に、バシー海峡から奇跡の生還を遂げた元兵士とお会いしたのである。

日本がいつまでも「平和」であって欲しい、と願うのは国民誰もに共通するものである。しかし、その平和を維持するためには「強さ」が必要であることは言うまでもない。

それを最前線で命をかけて示すのが、彼ら、彼女らなのである。呆れるような「空想的平和主義」に基づく幻想論を振りまき、これに寄って立ってきた戦後ジャーナリズムの欺瞞(ぎまん)は、今もつづいている。そんな中、日本を守るために毅然と最前線に立とうとする若者たちがいる。

卒業式が終わったあと、目に涙をためながら、私たちの前を敬礼と共に行進し、遠洋航海へ旅立っていった卒業生たち。私は、この若者たちに幸いあらんことを祈らずにはいられなかった。それは同時に、日本の未来の「幸福」を意味するものでもある。

「治に居て 乱を忘れず」――私の頭の中に、この言葉が今日ほど強く印象づけられた日は、かつてなかった。

カテゴリ: 歴史

北朝鮮拉致問題と横田夫妻

2014.03.18

どれほど「長かった」だろうか。横田滋(81)、早紀江(78)さん夫妻が、孫であるキム・ウンギョンさん(26)との面会を果たした17日の記者会見を見て、私は、この夫妻の辛抱と忍耐の凄さをあらためて思い知らされた。

2002年9月、電撃訪朝を実現した当時の小泉首相は、金正日との初の日朝首脳会談をおこない、「日朝平壌宣言」に調印した。金正日は日本人拉致を正式に認め、拉致した日本人のうち「5人が生存、8人が死亡」とした。そして、生存者5人の帰国が実現した。

「死亡した」とされためぐみさんには、15歳になる子供のウンギョン(当時は、「ヘギョン」とされていた)がいることが明らかにされた。しかし、横田夫妻は、あきらめなかった。めぐみさんの不自然極まりない「死亡情報」を認めず、「これで拉致問題は幕引き」とする北朝鮮と真っ向から闘ったのである。

苛立った北朝鮮は、翌月の2002年10月、日本から新聞とテレビ3社を呼び寄せ、「おじいさん、おばあさんに会いたい。どうして私に会いに来てくれないの?」とウンギョンさんに言わせ、揺さぶりをかけた。メディアを通じて、孫に直接呼びかけられた横田夫妻は、すぐにでも飛んでいきたい思いを「堪(こら)えに堪えた」のである。

「もし、会いに行けば、めぐみの死を認めることになる」。夫妻の決意は固く、可愛い孫に会いに行くことを我慢する日々がつづいた。めぐみさんの「死」を既成事実化して、日本との「国交正常化」と「巨額の(戦時)補償」を目論んだ北朝鮮の意図は、こうして横田夫妻の忍耐によって頓挫する。

この間の横田夫妻の揺るぎない姿勢に心打たれた日本人は少なくなかったと思う。「拉致問題の決着」をはかる北朝鮮の戦略に乗らず、「めぐみを必ず日本に連れ帰る」「拉致問題の幕引きは許さず、拉致被害者全員の帰国を実現する」という“大義”を忘れることのなかった夫妻の意志の強さには、本当に頭が下がる。

あれから12年近い歳月を経て、やっと実現した孫・ウンギョンさんとの面会。26歳になったウンギョンさんとの待ちに待った面会でも、やはり横田夫妻は毅然とした姿勢を崩さなかった。北朝鮮に出向くことはせず、面会が実現したのは、モンゴルのウランバートルだったのである。

そして、ウンギョンさんと夫、生後10か月の娘(横田夫妻から見れば、ひ孫)との初めての面会で、夢のような数日を過ごした横田夫妻は、「祖父母と孫として会いたいと思ったことが静かに実現した」と喜びを語ると同時に、めぐみさんの安否に関する話は「特になかった」「行く前と変わらず、分からない」とした。

この面会が「拉致事件の決着」ということに利用されることを、横田夫妻は断乎、拒否したのである。どんなことがあっても、めぐみさんの死を認めたととられる恐れのある発言を夫妻は一切、しなかった。

叔父の張成沢を処刑し、中国からも愛想を尽かれつつある金正恩が、日本へのシグナルとして出してきただろう横田夫妻への譲歩。それでも、一歩も譲ろうとしない夫妻の姿勢を日本の政治家たちは学ぶべきだろう。すなわち、どんな揺さぶりがあろうと、彼(か)の国には、「半歩も譲ってはならない」ということである。

私は、北朝鮮拉致問題ほど、うわべだけの正義を振りかざすメディアや政党に打撃を与えた事件はないと思っている。朝鮮労働党と友党関係にあった当時の日本社会党が、拉致問題でなんの力も発揮せず、それどころか兵庫県出身の有本恵子さんのご両親が社会党に相談にいって、逆に朝鮮労働党にその情報が筒抜けになって有本さんの生命が危機に陥ったことがのちに明らかにされた。

痛烈な「家族会」の批判にあって、衆院議長まで務めた日本社会党の元委員長、土井たか子氏が落選し、政界引退を余儀なくされたことも思い出される。また北朝鮮を“地上の楽園”と讃美し、一貫してこの「凍土の共和国」の応援をつづけた戦後ジャーナリズムの欺瞞(ぎまん)も満天下に晒された。

本当に守るべき“人権”、そして、真の意味の“正義”を考える上で、家族会と横田夫妻が果たした役割は実に大きかったと思う。

「夢が実現した奇跡的な日だった。たくさんの人に感謝している」。12年という気の遠くなる我慢の歳月の末に孫との面会を果たした早紀江さんのこの発言は、毅然と生きようとする日本人と、その将来に大きな勇気を与えるに違いない。

そして同時に、北朝鮮がどんなアプローチをかけてこようと「その戦略に乗ってはならない」ことを改めて肝に銘じよと、横田夫妻は私たちに告げているのではないだろうか。

カテゴリ: 北朝鮮

「震災3周年」ぎりぎりの闘いはどこまで

2014.03.09

昨日、東北新幹線に乗って、この3年間、通い詰めていた「福島」を通り越して青森の弘前まで講演にやってきた。「人づくりフォーラム in弘前」というイベントの講演である。日本人の生きざまと教訓について話をさせてもらった。

弘前といえば、日本の新聞の父と呼ばれる「陸羯南(くが・かつなん)」や、孫文が最も信頼を寄せ、辛亥革命に大きな力を果たした「山田良政・純三郎兄弟」、さらには、満洲国皇帝・溥儀が“忠臣”と称えて尊重した「工藤忠」ら、多くの“傑物”を生んだ土地である。

私自身も若い頃、山田良政・純三郎兄弟の甥にあたる故・佐藤慎一郎翁に中国問題について、いろいろと教えてもらった時期があり、佐藤先生の「故郷・弘前」には、少なからぬ因縁がある。

今回は、2時間にわたって弘前の人を前に講演をさせてもらったので、佐藤先生にいくばくかは恩返しができたかもしれない。

さて、ここのところ、「震災3周年」に向けての記事や番組が洪水のごとく溢れ出している。かくいう私も、本日、『記者たちは海に向かった―津波と放射能と福島民友新聞―』(角川書店)を出版した。

津波で命を落とした若き記者と、そのことで大きな心理的打撃を負う同僚・先輩たち、さらには、新聞発行の危機に立ち向かった新聞人たちの感動的で、かつ凄まじい闘いを描かせてもらった。

なんとか3周年に間に合わせたいと思い、執筆、そして校了作業に没頭し、ブログの更新もできなかった。やっと今日、出版にこぎつけ、さっそく産経新聞に著者インタビューも出してもらった。

震災からの3年。やはり感慨深いものがある。この間、いったいどれほど福島に通っただろうか。もちろん宮城も岩手も行かせてもらったが、私にとっては、圧倒的に「福島」である。

前著の『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日―』につづき、激震と津波、そして放射能汚染という“複合汚染”に見舞われた「福島」は、私にとって、時が経とうと、避けて通ることができない地なのである。

前著では、福島第一原発の壁の“内側”を描き、今回は壁の“外側”を地元紙の福島民友新聞に焦点を当てて、書かせてもらった。あの放射能とのぎりぎりの闘いで、瓦礫の下で助けを呼びながら息絶えた犠牲者は、1か月以上も捜索の手が入らず、DNA鑑定でしか家族のもとに帰ることができなかったという惨(むご)い運命を辿っている。

その悲劇を記述するたびに、人々の心の奥に残した傷痕の深さを思う。しかし、同時に私はマスコミの報道に疑問も感じている。大名行列のごとく“節目”にだけやって来て、地元の人間への形式的な同情論を口にするテレビ番組に接すると、反発を覚えてしまうのも確かだ。

被災者への多額の補償が今もつづく中、単なる同情論だけではすまない矛盾や問題点があちこちに現われている。今後は、それも地道に報じていかなければならないだろう。3周年は、私にとっても単なる“通過点”に過ぎないのだと、今更ながら肝に銘じている。

カテゴリ: 原発, 地震

「命を守る東京」へ舛添都知事への注文

2014.02.15

舛添要一氏が都知事選で圧倒的な勝利を収めてから、1週間が経った。都民の一人として、舛添都知事には、都民の生活に直結した都政を是非、お願いしたい。

東京は人口過密化による居住環境の悪化が切実で、住人の高齢化による高齢者ホームの問題や待機児童問題など、それこそ難題が山積している。「少子化」をいくら嘆いても、子供を育て、老人が幸せに過ごすことができない環境でそれが「解決」されるはずもなく、これらの大問題に対して、新都知事がひとつひとつをどう解決していくか、注目したいと思う。

その意味で、都知事選の争点が「原発ゼロか、否か」といった“国政問題”になりかかった時、私は都民の一人として「もっと都民にとって切実な問題」を議論して欲しい、と思ったものである。

私は、「命を守る東京」というキャッチフレーズを新知事には掲げて欲しいと思っている。都知事の最大の使命と責任が、「都民の生命・財産」をいかに守るか、というものであることは論を俟(ま)たないだろう。その観点から、是非、都知事に注文したいことがある。

それは、やがて来るであろう「東京直下型地震」への対策だ。数多く注文はあるが、今回は、「瓦礫の下の都民の救出」という観点で注文してみたい。私は、これまで阪神淡路大震災や東日本大震災など、地震取材をやってきた経験がある。

多くの被災者に話を伺っており、実際に瓦礫を前にした経験から、私には思っていることがある。激震によって家屋が倒壊した時、その瓦礫の中から生存者を救出することは極めて難しい。なぜなら、取り除かなければならない家屋の「重さ」は凄まじいものだからだ。

私は、これまでの震災で、自宅の前で「茫然と立ち尽くす」被災者の姿を数多く見た。それは、文字通り、「何もすることができず」、ただ「立っている」のである。崩れた家屋の重さは人間の力でどうこうできるものではない。

たとえ自衛隊員が“素手で”やって来ても、圧倒的な瓦礫の前では、同じように立ち尽くすしかない。この時、主役になるのは、あくまで「重機」である。いわゆる瓦礫や土砂の除去に威力を発揮する“タイヤショベル”だ。

私は東京直下型地震で首都が壊滅的な被害を受けた時、「救出」は自分たち自身でやらなければ、瓦礫の下になった人々の命を助けることはできないと思っている。

それは、東京の人口があまりに多く、エリアも広大すぎるからだ。東京都民は、1329万人もいる。おそらく全国から、あるいは国際的にも数多くの“救出の手”が差し伸べられるだろうが、それでもほとんど自分たちのところにやって来てくれると思わない方がいい。

1329万人という数字は、それほど膨大だ。激震で倒壊家屋の下になった人々を救出するのは、その地区の住民自身であり、そして、それには、「重機が不可欠」なのだ。災害における人命救助の目安とされる「72時間」以内に、残念ながら外部から運ばれてきた重機が自分たちのところにやって来てくれる可能性は「極めて小さい」と言わざるを得ない。

では、どうしたらいいだろうか。それは、日頃から「近くに重機を置いておく」しかないのではないか、と思う。そして、それを動かせる人を住民の中から「登録」しておき、その人たちに防災の日に必ず試運転してもらい、「もしもの時」に備えるのである。

都の建設局の2013年4月の調査によれば、東京には、1万か所を越える数の公園がある。国営公園や都立公園、区市町村立公園が7688か所、区市町村が設置する児童遊園などの都市公園以外の公園も3529か所ある。合わせれば、実に計1万1217か所もの公園が東京には存在するのである。

これらの公園に、タイヤショベルなど重機を置いておくことはできないだろうか。その防災倉庫の中には、もちろんツルハシやスコップもできるだけ置いて欲しいと思う。重機が、1台100万円するなら1万台で100億円、1台200万円なら、1万台で200億円ということになる。

大変な出費には違いないが、「もしもの時」に備えるためなら、きっと都民も賛成するだろう。そして1万台もの重機が“備蓄”されるなら、日本中どこで大きな地震が起ころうと、これらを運べば、沢山の人たちの救出に役立つだろう。オリンピックの施設を建設するだけでなく、こういう災害対策にも、是非、新都知事には頑張って欲しい。

私は、都内の住宅密集地を歩くたびに、「ここが激震に見舞われたらどうなるだろうか」と考えてしまう。そして、これまで取材してきた被災地の悲惨なようすが思い浮かぶ。舛添知事には、是非、「命を守る東京」というキャッチフレーズのもとに、都民の「生命」を第一に考え、そのために手腕を発揮して欲しいと思う。

カテゴリ: 地震

都民は、ついに煽られなかった

2014.02.09

あまりにあっけない結果だった。注目の東京都知事選は、投票が締め切られた2分後、舛添要一氏が「午後8時2分」に支持者と共に「万歳」をするという幕切れとなった。

都知事選は、日本の選挙の中で唯一、“制御のきかない”選挙である。有権者1082万人という想像を絶する規模であり、世論調査なども、ほとんど参考にならない。知名度が最大当選要因と言われる所以である。

それだけに、これほど圧倒的な差がつく都知事選となるのは意外だ。私は多くの国民と同じく細川護煕氏が「どこまで票をとるか」に注目していた。

それは、小泉元総理が、「この戦いは、原発ゼロでも日本が発展できるというグループと、 原発なくしては発展できないというグループとの争いだ」と言って、細川氏を担ぎ出したからである。

つまり、「脱原発」というワン・イシューで小泉氏が細川氏を擁立し、選挙演説でも圧倒的な聴衆を集め、一時はブームになるかと思われたからだ。

しかし、都知事選なのに「なぜ原発なのか」という冷ややかな見方は最後まで払拭(ふっしょく)されなかった。都知事選に原発問題を持ち込んだことに、「都民をバカにしているのか」という声を、私は何人もから聞いた。

東京には、人口の過密化による居住環境の悪化、住人の高齢化による高齢者ホームの問題、待機児童問題など、喫緊(きっきん)の課題がそれこそ山積している。そんな中で、選挙に「原発」を持ち込み、しかも、「この戦いは、原発ゼロでも日本が発展できるというグループと、 原発なくしては発展できないというグループとの争いだ」と“レッテル化”したのである。

今回、細川氏が「3位」に終わるという選挙結果に一番、驚いたのは、その小泉さん本人だったと思う。それは、郵政選挙で成功したワン・イシューのこの選挙手法、つまり、 “レッテル選挙”が「通用しなかった」ことだ。

それは、小泉氏に煽られるほど都民は「愚かではなかった」からだろう。そして、そもそも小泉さんは完全に勘違いしていたことがある。それは原発問題を都民は「それほど単純に見ていない」ということだ。

多くの国民、都民は、将来的には、原発がなくなって欲しいと思っているに違いない。私は、あの福島原発事故の真実を描いたノンフィクション作品『死の淵を見た男』を一昨年上梓した。

あの過酷な事故は、福島の浜通りに生まれ育った現場のプラントエンジニアたちが、命を賭けて、汚染された原子炉建屋に突入を繰り返し、ぎりぎりで格納容器の爆発を回避したものである。

官邸や東電本店からの「海水注入中止命令」にも逆らい、吉田昌郎所長のもとで踏ん張った彼ら福島の男たちがいなければ、日本は実際にどうなっていたかわからない。

つまり、一歩間違えたら、日本そのものが崩壊する危険性を持っているのが原子力エネルギーである。それだけに、「脱原発」ができるなら、本当にありがたいと思う。

だが、現実には、原発がストップした震災以降、液化天然ガス(LNG)の輸入による火力発電に頼らざるを得ず、消費税にして2パ―セント分にあたる年間4兆円近い輸入増によって「円」が外国に流出している事態がつづいている。

震災以降、すでに日本の貿易赤字の累計は「20兆円」を超えている。また火力発電による環境破壊の問題も懸念される。現在、想定されている自然エネルギーでは、「エネルギー問題」を解決できそうもないからこそ、国民は悩んでいるのである。

また、資源小国である日本で、もはや原子力への人材確保が見込めなくなり、安全な「第四世代の原子炉」が生まれる可能性が極めて小さくなったことも残念だ。

そんなエネルギー問題に対して、小泉氏は、「即、原発ゼロだ」「イエスか、ノーか」という“土俵”をつくった。しかし、都民は、そんな単純な土俵には乗って来なかったのである。

その意味で、今回の都知事選は、レッテル選挙で有権者が「煽られないこと」を示した点で、極めて注目すべきものだったと思う。舛添要一氏が都知事に相応(ふさわ)しいかどうかは別にして、この点においては、有意義な選挙戦だったのではないだろうか。

カテゴリ: 政治

ついに“デッドライン”を越えてしまった中国

2014.02.02

「ああ、中国はついに“デッドライン”を越えてしまったなあ」。私は最近、そんな思いがしている。中国というより「中国共産党」と言い換えた方がいいかもしれない。「ついに中国共産党は“デッドライン”を越えてしまったなあ」と。

1月16日付のフランスの「ル・フィガロ」に駐フランス中国大使が「日本の首相の靖国参拝が中国に衝撃を与えた理由」と題し、「ヒトラーの墓に花をたむける人がいると想像してみて欲しい」と批判した。

4日後の1月20日、今度は程永華・駐日中国大使は、四谷にある上智大学の講演会で、靖国参拝について「日中関係にとって致命的な打撃だ。最後のレッドラインを踏み越えた」と言ってのけた。

そして1月29日には、国連安保理の公開討論会で中国の劉結一・国連大使が約50カ国の大使を前に「歴史を変えようとする試みは地域の平和を揺るがし、人類の平和的発展に挑戦するものだ」と日本を激しく非難した。

そして昨日(2月1日)、ドイツで開かれているミュンヘン安全保障会議で、中国全国人民代表大会の傅瑩・外事委員会主任委員が「最も重要なのは日本が第2次大戦の犯罪を否定していること。歴史教育の失敗だ」「日本が大戦で起きたことに誠実に向き合えば、周辺国と和解できる」「(尖閣の)主権は放棄しない」と熱弁を振るったのである。

つまり、中国は、世界に向かって「日本は異常な国である」という発信をしつづけている。私は、戦後一貫して平和の道を歩んできた日本を、ここまで罵る中国(中国共産党)の姿を見て、「ああ、これでもう中国共産党はデッドラインを越えてしまった」と思ったのである。

それは、日本人がもう中国(正確には、中国共産党)のご機嫌をとったり、へり下ったりする必要はなく、向こうから近づいて来ないかぎり、「相手にしなくていい」存在になったということである。

前回のブログで私は、中国に初めて行った頃の“日本人に優しい中国人”のことに触れさせてもらった。日本人に敬意を持ってくれて、優しく接してくれたあの頃の中国人が、私は懐かしい。

いちいちエピソードを挙げればきりがないが、1982(昭和57)年に初めて訪中し、1か月半も北京で暮らした私は、その後、90年代半ばまで毎年のように中国に行き、優しく好意的な中国人に数多く出会った。

いろいろ相談に乗ってもらったり、力を貸してくれた底抜けに人がよかった中国人を私は数多く知っているし、今も感謝している。しかし、これまでブログで繰り返し書いてきた通り、90年代の江沢民時代からの徹底的な「反日教育」は、今の30代半ば以下の中国人を「日本は憎悪の対象」としか見ない人間にしてしまった。

「教育の失敗」というのなら、本当に中国は“歴史的な”教育の失敗を犯してしまったと思う。鉄は国家なり、の言葉があるが、日本人は、中国の粗鋼生産など、インフラを整備させるためにとことん尽力し、そして、有償無償を合わせると総額6兆円を超える対中援助をおこなってきた。しかし、いまその私たち日本人に対して「おまえたちの役割は終わった」として、中国共産党は日本と日本人を“切り捨てた”のである。

私は、靖国参拝を「ヒトラーの墓に花を手向けることだ」と世界に向かって公言した中国共産党に対して、日本人は怒りを表現していいと思う。

靖国は、明治2年に「東京招魂社」としてスタートし、吉田松陰をはじめ、ペリー来航以来の国事殉難者およそ250万人の魂を御祭神とする。私の郷土の先輩でもある坂本龍馬も、中岡慎太郎も、武市半平太も、その中に入っている。

太平洋戦争において、子孫を残すこともできず無念の思いを呑んで死んでいった若者たちをはじめ、気の遠くなるような数の魂が祀られている神社でもある。

国の礎となって死んでいった先人たちに、後世の人間がその死を悼み、感謝の気持ちを伝え、「これから、皆さんのように無念の思いで死んでいく人が出る世の中にならないよう誓う」のは大切なことだと私は思う。先人の労苦に頭(こうべ)を垂れることは「人の道」としてあたりまえの行為だからだ。

しかし、これを「ヒトラーの墓に花をたむけること」と中国は言ってのけた。極端な言い方をすれば、「坂本龍馬をはじめとする250万人の国事殉難者」は、「ヒトラーである」と、中国に言われたのである。

後世の日本人が、国のために死んでいった先人を悼む行為を「なぜ、ここまで悪しざまに言われなければならないのか」と思うのは自然の感情だろう。

私は、多くの日本人と同じく、ここまで内政干渉、すなわち日本人の精神文化にまで干渉されることに「ノー」と言いたい。しかし、別に、彼(か)の国と同じレベルに立って、「ことを荒立てる必要はない」と思う。

ただ、これまでも繰り返し主張してきたように、中国とは「距離を置く」ことを考えて欲しい。つまり、経済的な関わりをできるだけ少なくしていって、日本人は、“脱中国”の姿勢とスピードを顕著にすべきだと思う。

あの巨大な中国市場をあきらめることは、たしかに日本の企業にとって、これほど苦しいことはないだろう。しかし、是非、そうして欲しいと思う。多くの国事殉難者をヒトラーと称して非難する国に、少なくとも膝を屈してまで商売することはやめて欲しい。

その意味で、日本経済は「臥薪嘗胆」の時代が来たと思う。要するに、“我慢比べの時代”が来たということだ。しかし、これは永遠につづくわけではない。中国共産党が、「そこまで日本は怒っているのか」と思うまで、臥薪嘗胆をつづけようということである。

中国は、よく「面子(メンツ)の国」と言われる、しかし、それより明確なのは「功利の国」だということである。自分たちが損をすることがわかっていて、それでも面子を押し通す国柄ではない。そのあたりは、“武士は食わねど高楊枝”という日本人とは根本的に異なるのである。

中国の人権活動家、胡佳(こか)氏が、つい1月26日、北京市公安当局に一時、身柄拘束された。胡氏は拘束前、別の人権活動家への有罪判決やウイグル族学者の連行をネットで取り上げたことにより、「身柄拘束された」と見られている。

昨年7月に身柄拘束されて以来、半年間も“思想改造”を受けたとされる朱建栄・東洋学園大学教授は、この1月17日になって、やっと解放された。中国の思想弾圧と人権抑圧は、国際人権救済機構「アムネスティ(Amnesty International)」の大きな懸念であり、課題になっている。

その国が、日本に対して、ここまで苛烈な内政干渉を強めている。日本は、経済で自らの“怒り”を表わせばいいだろうと思う。いや、それしか方法はないのではないだろうか。戦後一貫して「自由」と「民主主義」を追及してきた日本が、中国にここまで言われる情けなさと愚かさを日本人は噛みしめるべきだろう。

私は、日本を非難している「中国」とは、「中国共産党独裁政権」であり、反日教育を受け続けた30代半ばより若い世代が中心であることを忘れてはいけないと思っている。

もし、日本人が怒りを向けるなら、それは中国人に対してではなく、「中国共産党独裁政権に対して」であることを忘れてはならないという意味である。なぜなら、胡佳氏をはじめ、多くの中国人が今も独裁政権下で弾圧を受けつづけている。自由に物も言えない社会で彼らは暮らしているのである。

あの独裁政権が、中国人民に対して向けている高圧的で自由圧殺の姿勢を、「中国人民」だけでなく、「日本」に対しても向けてきたのだ。私は、彼ら中国人民も同じように中国共産党の迫害を受けている人たちであることを覚えていて欲しいと思う。

最近、私は講演をする度に、「門田さんは、中国への厳しい指摘が多いですね」と声をかけられることが多い。そういう時、私は、「はい。私は本当の意味の“親中派”ですから」と答えている。

日本の「親中メディア」は、中国共産党独裁政権にひれ伏しているのであって、それが「親中だ」と完全に勘違いしている。私は自分が若い頃、いろいろ助けてもらった中国人のことを今も時々、思い浮かべる。

文化大革命の地獄の十年を耐え抜き、日本人にも敬意と尊重の気持ちを忘れず、底抜けに人がよかったあの頃の中国人に、なんとか幸せでいて欲しいと思う。彼らのことを心底案じている点で、私は本当の意味での“親中派”だと思っている。

すなわち臥薪嘗胆をつづけたあとの日本人は、共産党独裁政権下で苦労し、迫害を受けている中国人たちになんとか手を差し伸べて、いつかは真の意味の「日中友好」を成し遂げて欲しいと思うのである。

カテゴリ: 中国

日本人はそこまで「憎まれる」べきなのか

2014.01.29

3月出版予定のノンフィクションの執筆で年明け以降、徹夜がつづいていた。やっと脱稿した。400字原稿用紙にして、およそ500枚。私の作品は、だいたい600枚以上が普通なので、今回はやや少ない。

この1か月、寝ても覚めても書きつづけ、ついに脱稿までこぎつけた。『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日―』に次ぐ、福島を舞台にしたノンフィクション第二弾である。

今回は、激震、津波、放射能と発展していった未曾有の「複合災害」で存続の危機に立った地方紙を舞台にした人間ドキュメントだ。ご期待いただければ、幸いである。

原稿に没頭していたため、ブログの更新もままならず、「おい、どうした?」と声をかけてくれる人もいた。ありがたいことだが、人間には能力というものがあり、その限界は超えられない。徹夜がつづくと、どうしてもブログ更新に手がまわらないのである。

さて、今日、パソコンを開いたら、興味深いニュースに出会った。『Record China』から配信されたひとつの話題である。『Record China』は“レコチャイ”と呼ばれ、中国関連のニュースや話題を日本語で配信するところだ。時々、おもしろい話題が出るので、私はよく読ませてもらっている。

本日、配信されたニュースにこんなものがあった。それは、中国人のネットユーザーが〈私が恨むべき日本はいったいどこにあるの?〉と題するコラムが、中国のインターネット上で話題となっていることを報じたものだ。

その内容は、いくつかの点で興味深かった。このブログを書いた中国人は、仙台の東北大学で勉強をした人だそうだ。その時、「日本の子どもたちと交流する機会を持った」という。中国人には、日本人に対してわだかまりがあり、日本人と言うのは「憎むべき人間」という意識を植えつけられている。それを前提に、以下の引用させてもらう原文を読んで欲しい。

〈しかし実際、彼らは清潔で礼儀正しく、とても純粋で嫌いになれるような人物ではなかった。私が憎むべき「日本」は仙台にはない。私が憎むべき「日本人」は彼らであろうはずがない。しかし、“あの”日本はいったいどこにあるのか?
 よく「日本に行ったことがある中国人は、日本への印象が変わる」といわれるが、私にとってはまさにその通りだった。彼らの礼儀正しさなどはもちろんそうだが、私が気付いた最も重要なことは、彼らも「人」であるということだ。
 おかしな話かもしれないが、私は日本を訪れる前、日本には変態侵略者のキャンプがいたる所にあると思っていた。しかし、実際は我々と同じように静かに暮らす人々がいるだけだった。彼らも私たちと同じように、両親がいるし、子どもがいる。恋愛もするし、失恋もする。喜んだり悲しんだりもする〉

以上が、まず前段である。私は、1982(昭和57)年から、もう30年以上も中国の変化を見つづけているが、このコラムは非常に興味深い。まず耳目を引くのは、「私が憎むべき日本人」という見方である。中国で江沢民時代に始まった反日教育は、普通の中国人に、そこまで憎しみを抱かせているという点だ。

私が最初に中国に行った1980年代前半、中国は文革の後遺症に喘ぎ、国全体が疲弊してはいたものの、人々はなんとか少しでも貧しさから抜け出そうと考え、日本人にも敬意を持って接してくれた。「軍国主義と今の日本人は違う」という鄧小平の教えが徹底されていたからでもある。

少なくとも、その頃は「私が憎むべき日本人」という見方はなかった。だが、その後の江沢民時代に、日本と中国との信頼関係が徹底的に破壊された。引き金を引いたのは、皮肉なことに日本のメディアである。朝日新聞が、それまで何も問題にされていなかった靖国参拝を外交問題化し、中国の『人民日報』を使ってまで、反対の大キャンペーンをおこなう論陣を張った。1985(昭和60)年8月のことである。

中国は、これをきっかけに靖国参拝を外交カードとして利用するようになり、やがて江沢民の登場で、苛烈な反日路線を展開するようになった。国全体が「反日」に染まり、徹底した反日教育によって、日本人というのは、「憎悪すべき存在」ということが植えつけられていくのである。

そして、上記のコラムの中にある〈私が気付いた最も重要なことは、彼らも『人』であるということだ〉というところまで来たのである。日本人は、もはや「人ではない」ほど憎まれているわけだ。私は、日本人に好意的だったかつての中国人を思い出しながら、このコラムを読んだ。

そして、この筆者による〈私は日本を訪れる前、日本には変態侵略者のキャンプがいたる所にあると思っていた〉という部分で、思わず笑ってしまった。そして、同時に哀しくなった。そこまで、「日本人を“人間”だと見てはいけない」という考え方が、中国では蔓延しているのである。コラムはこう続いている。

〈(自分の見る日本人は)小さい子どもが泣きながら母親に甘えていたり、女学生が手をつないで歩いていたり、サラリーマンが険しい顔でたばこを吸っていたりする姿を見ていると、「自分たちと何ら違いがない」という実感に包まれる。彼らの祖先が中国に悪いことをしたからといって、彼らがその罪をかぶらなければならないのか? 彼らの幸せは奪われるべきなのか? そんな道理はあるはずもない。
 中国では日本について、まるで奇怪な場所であり、宇宙人が住む街であるかのように紹介されている。彼らは日本に行ったことがないと思われる。彼らにとっての日本は地図の上の1ピース、ニュースの中のたった2文字に過ぎない。
 たとえ誰かから批判されても、これだけは言いたい。私が出会った日本人はみな素晴らしかった。日本社会には文明と秩序が根付いている。私はそこで温かい援助を受け、心からの笑顔を見た。私は日本でばかにされたと感じたことはなかった。自分の生活がしっかりしていれば、他人を恨む必要はないのだ。自分が他人を尊重すれば、他人も自分を尊重してくれる。日本に対する“妄想”は日本に行ってなくなった〉

この中で、〈中国では日本について、まるで奇怪な場所であり、宇宙人が住む街であるかのように紹介されている。彼らは日本に行ったことがないと思われる〉〈(自分は)日本に対する“妄想”は日本に行ってなくなった〉というものに、溜息をつく日本人は多いのではないだろうか。

匿名の、さらにネット上のコラムに一喜一憂する必要もないかもしれない。しかし、これが中国のネット上で話題になっているなら、それも興味深い。30年以上前から中国に行っている私は、ここまで「反日教育」を人民に繰り返した共産党政権に対して、本当に溜息が出る。

素朴な人が多く、底抜けに親切にしてくれた80年代初めの中国人は、どこに行ってしまったのだろうか、と思う。中国人は、一方に走り出したら、もう歯止めはきかない。あの狂気の文化大革命を見れば、わかる。年配者であろうと、功労者であろうと、徹底的に貶め、辱め、葬り去った狂気をあの国と人民は持っている。

その国が、これほどの憎悪を日本に抱き、さらにそれを増幅しつづけていくことに、日本に本当に友好的で素朴だった「あの頃」を知っている私には、哀しさと寂しさしか、こみ上げてこないのである。

そして、このコラムが書くように〈彼らの祖先が中国に悪いことをしたからといって、彼らがその罪をかぶらなければならないのか? 彼らの幸せは奪われるべきなのか?〉という部分に改めて恐怖する日本人は少なくないだろう。彼らが日本に向けた核ミサイルを多数、保有する国であることを忘れてはならない。

カテゴリ: 中国

「靖国参拝」から見る“マスコミ55年症候群”

2014.01.07

今日は、時事通信と内外情勢調査会の恒例の「新年互礼会」が午後5時から帝国ホテルであった。私は、講師として内外情勢調査会で講演をさせていただいているので、今年も顔を出させてもらった。

会場に入っていったら、すでに安倍首相のスピーチが始まっていた。今日は元赤坂の迎賓館で来日中のトルコのエルドアン首相との首脳会談があるはずだ。その直前にわざわざ帝国ホテルまで恒例の首相スピーチをしに来たようだ。首相は、立錐の余地もない富士の間の聴衆に、「経済」を強調するスピーチをおこなった。

「経済最優先で、日本の経済を力強く、さらに成長させていきたい」「やっと掴んだデフレからの脱却のチャンスを絶対に手放すわけにはいかない」「賃金の上昇が更なる消費の拡大につながる。これで企業の収益がアップし、更に設備投資にもまわっていく。すなわち経済の好循環を実現できる。今度の通常国会は、好循環を実現するための国会としていきたい」

話題の「靖国参拝」には触れず、ひたすら経済をさらに回復させていくことを安倍首相は強調した。時にユーモアを交えて会場から笑いをとり、10分近く首相はスピーチした。

私は、昨年とは随分違うなあ、と思った。政権発足直後だった昨年の新年互礼会では、「大型の補正予算の一日も早い成立と執行が最大の景気対策。野党には是非、協力してもらいたい」と大いに意気込んでいた。気負いがそのまま聴く側に伝わってきたものである。

しかし、安倍政権は、2013年の株価を1年間で56・7%も上昇させることに成功した。デフレからの脱却を、公約通り、実現させつつある。今日の挨拶には、そのことへの自信が溢れていたように思う。

昨年のスピーチを「気負い」という言葉で表わすなら、今年は「余裕」だろう。私は、会場でスピーチを聴きながら、そんなことを考えていた。

そして、私は、この自信が年末(12月26日)の靖国参拝につながったことを想像した。「この首相の自信が、中国と韓国をいかに恐れさせているだろうか」。思わず、私はそこまで考えてしまった。

国民の大多数は、すでにわかっているように、中国と韓国は、日本が何をやっても、日本への非難はやめない。それでしか、それぞれの国内での反発を抑えられないからだ。小泉首相の最後の靖国参拝以来、日本の折々の首相は、7年間も参拝を回避したが、それで中国や韓国との関係は少しでも改善されただろうか。

そんなことは全くない。どんなことをしても、日本への憎悪を政権の糧(かて)とする中国・韓国の非難は収まることはないのである。

いまマスコミに衝撃を与えているのは、靖国参拝の国民からの支持が6割から7割に達している、ということだ。調査結果の中には、実に「8割」を超えているものもある。今日の会場では、その話に花を咲かせている人もいた。

マスコミ各社は、あれだけ力を入れて首相の「靖国参拝」を叩いたのに、なぜこれほどの支持を受けているのか、おそらく理解できないのではないか、と思う。

それは、私は、“マスコミ55年症候群”のせいだと思っている。マスコミ55年症候群とは、私の造語だが、要は、保守合同と社会党の左右再統一でできたいわゆる「55年体制」というのが、恐ろしいことにマスコミには、まだ「続いている」のである。

マスコミ以外の人には理解できないかもしれないが、日本社会党が消滅した1996年以降も、また自民党が単独では政権が維持できなくなり、公明党との連立をしなければいけなくなって以降も、マスコミの中は、いまだに「55年体制」がつづいている。これは、その思考法において、という意味である。

つまり、マスコミでは、いまだに55年体制における左右の「イデオロギー」が、判断基準なのだ。もっと簡単に言えば、「右か」「左か」、つまり「右翼か」「左翼か」ということだ。

そんな判断基準は、国民の間ではとっくに終わっている。靖国参拝を支持している国民は、別に右翼ではない。普通の国民である。普通の国民は、ペリー来航以来、吉田松陰や坂本龍馬を含む国事殉難者およそ250万人の魂を祀った神社に、後世の人間や国家のリーダー(今は安倍首相)が参拝に行くことは、何もおかしいものだとは思っていない。

なぜなら、国のために子孫も残さないまま若くして無念の思いを呑んで逝った先人たちのお蔭で、「今の平和と繁栄がある」という感謝の気持ちの大切さを知っているからである。例えば、太平洋戦争の主力となった大正生まれの若者は、実に同世代の7分の1にあたる200万人が戦死している。

その人たちの魂に対して、後世の人間が感謝の気持ちを捧げ、頭(こうべ)を垂れることは、当たり前のことであり、他国にとやかく言われるものではない。それは、「右翼」「左翼」などと、左右の判断基準であれこれ言えるものでは「ない」のである。

つまり、国民は、55年体制の基準などからは、とっくに脱却している。先人を敬い、家族と故郷を愛し、日本と日本人を愛するのは、どう考えても日本人にとって“普通のこと”である。しかし、それが、“マスコミ55年症候群”にかかればたちまち「右翼」とされてしまうのである。

この症候群の特徴は、左右のイデオロギーという唯一の判断基準しか持たないため、靖国参拝をする人やそれを支持する人は、「戦争をしたい人」であり、「国家主義者」であり、「右翼」とされてしまう。彼らがレッテル張りばかりするのは、判断基準がひとつしか存在しない、その症候群のせいである。

ベストセラー『永遠の0』の作者、百田尚樹さんは、よく「右翼だ」と批判されている。私は雑誌で百田さんと対談もしたことがあるが、彼はもちろん右翼などではない。先人を敬い、家族と故郷を愛し、日本と日本人を愛する普通の人である。

それを右翼という表現しかできない“55年症候群”の人が、マスコミ以外にも少なくない。そして、その人たちは盛んに自分と考え方の異なる人にレッテル張りをおこなっている。彼らにとっては、靖国参拝支持者の多さは、日本国の「右傾化」としか捉えられないのである。

今回の世論調査でわかったことは、そんな左右の判断基準を国民はとうに「超えている」ということである。マスコミも、左右のイデオロギーを唯一の判断基準にする“55年症候群”から、早く解き放たれたらいかがだろうか、と思う。そして私も、先人を敬い、家族と故郷を愛し、日本と日本人を愛する人間でありつづけたいと、心から思う。

カテゴリ: 政治, 歴史

激動の2014年で問われる「意識」

2014.01.04

2014年が明けた。このお正月も締切が迫る単行本執筆に明け暮れた。そんな中で、ほっと一息、つかせてもらったのは、いつもの箱根駅伝である。

今年も、年明けに相応しいアスリートたちの激走を見せてもらった。王者・東洋大学が「その1秒を削り出せ」というスローガンの下に、一人一人が「1秒」を縮めていったさまが圧巻だった。

設楽兄弟という大学陸上界を代表する二枚看板を擁しながら、今シーズンは出雲、全日本とも駒澤大学の後塵を拝し、2位。大会前、優勝候補の筆頭は、言うまでもなく駒澤で、東洋はチャレンジャーの立場にあった。

しかし、総合力で引けを取らない東洋がどう巻き返すか、注目を集めていた。その東洋のスローガンが「1秒を削り出せ」だった。

勝つための努力は、どのチームもしている。しかし、土壇場で発揮される底力は、単なるアスリートとしての能力だけでは、はかれない。野球でいえば、“球際(たまぎわ)の強さ”という言葉で形容される勝負強さがそれである。

59秒差で復路に挑んだ駒澤は、9区にエース窪田忍を配していただけに、「逆転」に少なからず自信を持っていただろう。しかし、それを打ち砕いたのが、窪田が登場するまでに差を3分40秒に広げた東洋の6、7、8区の快走だった。

6区・日下佳祐が区間4位の走りで1分17秒まで駒澤との差を広げると、7区・服部弾馬、8区・高久龍の連続区間賞で、どんどん差を広げていったのである。

これで勝負は決した。それぞれが「1秒を削り出す」走りとは、こういうものか、と思わせてくれた。意欲ある強豪校が力を伸ばし、一方で伝統校が闘争心を失い、転落していくのが勝負の世界というものだが、東洋には昇竜の勢いがあった。雪辱を期す駒澤との来年の激突が今から楽しみだ。

私は、勝負の世界の厳しさを毎年、お正月に見せてもらって気持ちを新たにする。2014年は、間違いなく激動の年になるだろう。

前回のブログで書かせてもらった安倍首相の「靖国参拝」は大いに反響があった。この年末年始、あちこちで、私のブログへのご意見をいただいた。

私は、「安政の大獄」以来の国事殉難者およそ250万人を祀った神社に、先人の労苦と努力に思いを馳せ、後世の人間が感謝の気持ちを捧げるのは、当然のことだと思っている。アメリカではアーリントン墓地へ、中国では八宝山革命公墓へ、また韓国では毎年6月6日が「顕忠日」であり、戦没者・殉国者に敬意を払う日となっているのはご承知の通りだ。

無念の思いを呑んで、子孫も残さずに多くの先人が亡くなっていったのは、どの国にもある「歴史的事実」である。日本では、大正生まれの男子は、同世代の7分の1にあたる実に「200万人」が戦死している。それは、どの家族にも辿れば戦没者が「必ずいる」と言われるほどの数だ。しかし、日本では、こうして亡くなっていった先人たちに頭(こうべ)を垂れることすら干渉され、非難されている。

なぜ、どの国でもおこなわれていることが、日本だけ許されないのだろうか。これは、1985(昭和60)年に当時の中曽根康弘首相が掲げた「戦後政治の総決算」を打ち砕くために、同年7月から8月にかけて朝日新聞が靖国参拝反対の大キャンペーンを張り、“禁じ手”である『人民日報』を動かして非難の社説を書かせたことを嚆矢(こうし)とする。

靖国参拝は、朝日新聞のこの“禁じ手”によって国際問題化されたのである。それまで参拝やA級戦犯の合祀について、ひと言もモノ申したことがなかった中国が、85年以降、これを外交カードに使えることを学習し、それに韓国が追随を始めたのが、いわゆる「靖国参拝問題」なのである。

「強制連行」という朝日新聞の誤報から始まった従軍慰安婦問題といい、私は、日本のひとつのメディアによって、ここまで「日本と日本人が貶められていること」に疑問を感じる一人である。このために、日本の若者が現在も、そして将来も、国際舞台で、どのくらい不利益を被(こうむ)るかを考えると、どうしても深い溜息が出てくるのである。

朝日新聞をはじめ中国・韓国と主張を一(いつ)にする日本のメディアは、年末におこなわれた各種の世論調査で、安倍首相の靖国参拝に賛成する人が6割から7割を占めたことに衝撃を受けただろう。

先人を敬い、家族と故郷を愛し、日本と日本人を愛することは自然の感情である。そのことを「いけない」と主張するマスコミや言論人が靖国参拝問題では圧倒的だったが、一般の人々は、まったくその影響を受けなかったことになる。

私は、言論の「根拠」を見極める時代が来た、と思っている。インターネットの普及によって、これまで「情報」と「意見」を独占してきたメディアの欺瞞(ぎまん)が暴かれつつある。その意味で、2014年は間違いなく激動の年である。それぞれが自分自身で独自の見解を「根拠をもって」構築することが、今ほど大切な時はない、と思う。

カテゴリ: スポーツ, 政治

安倍首相「靖国参拝」と映画『永遠の0』

2013.12.26

一昨日、映画『永遠の0』を観た。いま人気絶頂の俳優、岡田准一が扮する零戦搭乗員「宮部久蔵」の家族と祖国への思いを描いた作品である。百田尚樹さんの原作に勝るとも劣らない力作だった。私は、邦画史上に残る最高の傑作だと思った。

残してきた妻と幼い娘のために「自分の命を惜しんでいた」宮部少尉が、最後は自ら進んで特攻に赴き、後輩に自分の妻と子を見守ることを託す“壮絶な生きざま”を描いた映画である。

映画館には、戦争も、まして特攻のことも知らない若いカップルが数多くいた。途中から館内にすすり泣きが聞こえ始め、映画が終わった時には、拍手する観客もいた。珍しいシーンだった。

生きたくても生きることができなかったかつての若者の姿に対して、現代の若者が涙を流す――私は、そのシーンに強烈な印象を持った。それと共に、拙著『太平洋戦争 最後の証言―零戦・特攻編―』で取材させてもらった元零戦搭乗員たちの姿と証言が、宮部久蔵と重ね合わさった。

そんな思いを綴っていたら、いま安倍首相の靖国神社参拝のニュースが流れてきた。「ああ、やっと参拝したのか」。私は、そう思った。そして、安倍首相のコメントがどんなものになるのか、注目した。私の耳に残ったのは、以下の二つの部分だった。

「私は、(本殿だけでなく)同時に靖国神社の境内にあります鎮霊社にもお参りをしてまいりました。鎮霊社には、靖国神社に祀られていない、すべての戦場に斃れた人々、日本人だけではなくて、諸外国の人々も含めて、すべての戦場で斃れた人々の慰霊のためのお社であります。その鎮霊社にお参りをいたしまして、戦争において命を落とされたすべての人々のために手を合わせ、ご冥福をお祈りをし、そして、二度と再び戦争の惨禍によって、人々の苦しむことのない時代をつくるとの決意を込めて、不戦の誓いをいたしました」

「母を残し、愛する妻や子を残し、戦場で散った英霊のご冥福をお祈りをし、そしてリーダーとして(その方々に)手を合わせる。このことは世界共通のリーダーの姿勢ではないでしょうか。これ以外のものでは全くないということを、これから理解していただくための努力をしていきたいと考えています」

私は「諸外国の人々も含めて、すべての戦場で斃れた人々の慰霊のため」という部分と、「母を残し、愛する妻や子を残し、戦場で散った英霊のご冥福」を祈ったという部分が耳に残った。

それは、『永遠の0』で描かれた宮部久蔵の姿を観たばかりだったからかもしれない。そして、同時に、これから巻き起こる中国と韓国の反発と、これに呼応した日本のマスコミの非難の大合唱のありさまを想像した。

日本では、戦場で若き命を散らしていった先人に対して、後世の人間が頭(こうべ)を垂れ、感謝の気持ちを捧げるという当たり前のことが中国や韓国という隣国の干渉によって、胸を張ってできない「不思議な国」である。

吉田松陰ら「安政の大獄」以来の国事殉難者およそ250万人の霊を祀った神社に行くことが憚(はばか)られ、中国・韓国の代弁者となってそれを非難するメディアが日本には、数多く存在する。いや、その方が圧倒的と言っていいだろう。

私には、どんな思いで戦友が散っていったかを語る大正生まれの男たちに会い続けた時期がある。玉砕の戦場から奇跡的に生還した元兵士たちの姿を戦争ノンフィクションとして残すためである。

子孫を残すこともできず、戦場に散っていった戦友たちの無念を語る老兵たちの姿は鬼気迫るものがあった。それだけに「二度と再び戦争の惨禍によって、人々の苦しむことのない時代をつくるとの決意を込めて、不戦の誓いをいたしました」という首相の言葉が胸に響くのである。

「死ねば、神であり、仏」というのは、日本独自の文化である。「死者に鞭(むち)打つ」という言葉通り、死体を引っ張り出してきてまで「鞭を打つ」中国とは、日本は文化そのものが根本的に異なる。

私は、これまで中国人や韓国人と何度も靖国論争をしたことがある。その時、気づくのは、彼らが靖国神社について「何も知らない」ということである。

前述の通り、靖国神社は、吉田松陰ら「安政の大獄」以来の国事殉難者およそ250万人の霊を祀った神社である。当初は、「東京招魂社」と呼ばれ、この中には、維新殉難者として、私の郷土・土佐の先輩である坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太なども祀られている。

しかし、彼らは靖国神社を「戦争を礼賛する施設」あるいは、「A級戦犯を讃える神社」としてしか知らない。彼らが決まって口にするのは、「では、あなたはヒトラーを讃える宗教施設にドイツの指導者が赴くことを認めますか?」というものである。

その度に、私は、東京招魂社以来の歴史と、国事殉難者250万人の説明をさせてもらう。そして、「亡くなれば神となり、仏となる」日本の独自の文化について話をさせてもらう。

驚く中国人や韓国人も中にはいるが、大抵は、「いや、靖国は軍国主義を礼賛し、戦争指導者を讃え、戦争をするための施設だ」と言い張ってきかない。

私は、「その国独自の文化」の意味と、無念の思いを呑んで死んでいった人々のことを話させてもらうが、もはや耳を傾けてはくれない。この時、最後にいつも私が言うのは、例えば、中国人に対しては「八宝山革命公墓」のことである。

北京の中心を東西に貫く長安街通りを天安門から「西単(シータン)」を通り過ぎ、延々と西に進めば、やがて「八宝山革命公墓」に辿りつく。戦争で命を落とした兵士たちが葬られている墓地である。

ここには、抗日戦線、あるいは、国共内戦などで戦死した人々が数多く眠っている。言うまでもなく、中国で国の指導者となった人物が必ずお参りにくる地である。

革命公墓の中には、日本人が虐殺された「通州事件」や「通化事件」などにかかわった兵士たちも、もちろん入っている。しかし、日本人は、そのことについて非難したりはしない。

なぜなら、それはその国、独自の文化だからである。どう先人を追悼し、感謝の気持ちを捧げるかということは、干渉してはならない高度に精神文化に属するものであることを、少なくとも日本人は知っている。

私の伯父は前述の「通化事件」で殺された犠牲者の一人だが、中国の指導者が革命公墓にお参りすることに干渉したり、非難の声をあげたりはしない。

それが、お互いの国の文化を尊重する基本的な人間の姿だと思うからだ。だが、そんな常識は、おそらく中国や韓国には通じないだろう。彼らの側に立つ日本のマスコミによって、ただ中国や韓国の反発が増幅されて日本人に伝えられるだろう。

愛する人のもとに帰ることができなかった無念の思いを呑んだ若者、すなわち、「宮部久蔵」が数多くいたことに思いを致し、彼らに尊敬と感謝を捧げ、二度と戦争の惨禍を繰り返さない思いを新たにしてくれる若者が一人でも増えることを願うばかりである。

カテゴリ: 歴史

歴代天皇3位の長寿となった今上天皇

2013.12.24

昨日、天皇陛下が、歴代天皇3位の長寿となる80歳を迎えられた。長い天皇家の歴史で、歴代3位の長寿になられたというのは、喜ばしいことだと思う。

10年前の2003(平成15)年に前立腺の摘出手術、昨年には心臓手術を受け、癌治療のために、ホルモン療法もつづけておられ、副作用の骨粗鬆(こつそしょう)症と闘っておられるという報道の中での傘寿(さんじゅ)である。

年齢が高くなるにつれ、肉体に衰えが出てくるのは自然の摂理だ。会見に臨まれた陛下のお顔は、やはり病魔と闘っていることを示す浮腫(むく)みがあるように思えた。しかし、昨日の記者会見で、陛下はゆっくりとこう述べられている。

「喜ばしいこと、心の痛むこと、さまざまなことのあった1年でした。東日本大震災の復興がいまだその途上にある中で、今年は大きな台風が大島を襲い、また、少なからぬ地方が風水害の被害に苦しみました。このような中で、東日本の被災地には、厳しい冬が訪れようとしています。私どもは、これからも被災者のことを思いつつ、国民皆の幸せを願って、過ごしていくつもりです」

私はこの中で、「東日本大震災の復興がいまだその途上にある中で」と「東日本の被災地には、厳しい冬が訪れようとしています」という言葉に、陛下の日頃のお気持ちが表われているような気がした。

私には、陛下の子供時代からご結婚、そして天皇の地位について以降のことを書かせていただいた『神宮の奇跡』という本がある。

その中で、8年前(2005年)のサイパン訪問の際のことを書かせてもらっている。米軍に追い詰められて多くの民間人が身を投げたバンザイ・クリフを訪れ、陛下は皇后の右腕を支えながら、岸壁に近づき、お二人で姿勢を正して頭を下げ、じっと黙祷をされた。それは、15秒ほどの時間だっただろうか。

若き日のお二人を軽井沢で結びつけるキューピット役となった陛下の学習院時代の後輩が、このシーンを私にこう語ってくれたのが印象的だった。「そのうしろ姿に私は感銘を受けました。お二人が、長い間、なさろうとしていたことは、まさにこれだったんだとあの時、初めて気づきました」。

拙著にそのことを書かせてもらったが、私はそれ以降、東日本大震災をはじめ、国民に苦難がふりかかる度に、老いが目立つ両陛下が被災地を訪問され、必死に被災者を励まされる姿が目に焼きつくようになった。

今月、陛下の幼稚園時代からの幼な馴染であり、学習院の馬術部でも共に過ごした親友である明石元紹さん(79)が、『今上天皇 つくらざる尊厳』(講談社)を出版された。

明石さんは、拙著『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡―』の主役の一人でもあり、日頃、親しくさせてもらっている。この明石さんの本の中に、印象深い一節がある。それは、終戦後、疎開していた日光から、11歳の明仁殿下(今上陛下)が帰ってきた時のことである。

「殿下も罹災者だった。青山の東宮仮御所が焼けたのである。殿下は、たった三日だったが、皇居に泊まった。朝から晩まで、ご両親と一緒の三日間であった。このときのご両親との水入らずのわずかな時間が、のちの殿下の心に大きな決意を齎(もたら)したのではないかと想像する」(一部略)

幼な馴染でなければわからない“変化”が、それ以降の明仁殿下に生まれていたのだろう。明石さんならではの記述である。先の「バンザイ・クリフ」での行動、あるいは、「東日本の被災地には、厳しい冬が訪れようとしています」というお言葉も、明石さんが書く「殿下の心に大きな決意を齎した」というものの延長線上にあるような気がする。

私は、陛下の傘寿の会見を見ながら、世界で唯一、これほど長きにわたって「最長・最古」の皇室を守り、「天皇(Emperor)」という地位そのものを守ってきた“日本人”というものに改めて思いを致さざるを得なかった。

どの国でも歴史を見れば、時の権力者は、君主家を滅ぼし、権威に「とって代わろうとする」ものである。しかし、日本人は、気の遠くなるような長い時間、皇室を守ってきた。

それは、日本人が、なにより「秩序と道徳」、そして「伝統」を重んじる人々であることを示している。その意味で、天皇とは、日本人の誇りを象徴するものであるのかもしれない。傘寿の記者会見を見ながら、私はそんなことを考えていた。

カテゴリ: 歴史

北朝鮮「張成沢処刑」が意味するもの

2013.12.13

ついに北朝鮮ナンバー2の張成沢氏が処刑された。12月8日、朝鮮労働党中央委員会の政治局拡大会議で、張氏が「党内で派閥を形成するために悪辣に動いた」という理由によって、すべての職務を解任され、党から除名されることが決定していた。

北朝鮮の各メディアが、名前を呼び捨てにした上で、議場から連行される張氏の写真を報じ、さらに、朝鮮中央テレビが「張成沢は、権力を乱用して、不正・腐敗行為をし、複数の女性と不適切な関係を持って、高級食堂の裏部屋で、飲み食いをしてきた」と激しく弾劾したことで、処刑は「時間の問題」と見られていた。

それでも、叔父である張成沢氏を「本当に処刑できるのか」という観測が内外のメディアにはあった。しかし、有無を言わせず、金正恩は自分の「叔父の命を奪った」のである。

血のつながった叔母である張成沢夫人の金慶喜も、甥(おい)の暴走を止められなかった。いや、彼女自身の動向もわからず、生命自体が危うい状態に置かれていることが予想されている。

私は、この処刑が意味するものは「2つ」あると思う。経済やモラル、秩序……あらゆるものが崩壊している現在の北朝鮮で、絶対的な権力を維持する方法は1つしかない。それは、「恐怖」である。恐怖による支配以外、軍や人民を統率することは不可能だ。

その意味で、今回の張成沢の粛清は「権力基盤の確立」のために大きな力を発揮したと言える。「この男は何をするかわからない。ただ“服従”するしかない」。若造を舐めていた軍の長老や実力者たちも、自分たちの“命の危うさ”を思い知ったに違いない。

なんの実績もなかったこの若き領袖は、うしろ盾である叔父の命を奪ったことで、今後、絶対的な“恐怖の支配者”として、北朝鮮に君臨するだろう。あとは、本人が暗殺の恐怖と闘うだけである。

もう1つは、今回の出来事は、日本にとって意味するものが極めて大きいという点だ。これほどの残虐性を持つ指導者が、「核ミサイルを手に入れた時」にどうなるか、ということである。

繰り返される核実験と、テポドンの発射実験によって、この独裁者が「絶大な力を発揮する核ミサイル」を実際に手に入れる時期が「刻々と近づいている」のである。

これまで何度も当ブログで書いてきたように、核ミサイルの開発には、「核弾頭の小型化」と「起爆装置の開発」が不可欠だ。巨大な核爆弾をミサイルの弾頭にして、何万キロも飛ばすことはできない。

また、小型化がたとえ成功しても、ミサイルが着弾した時に核爆発を起こさなければ核ミサイルの意味はない。その二つの開発が揃って、初めて「核ミサイル」となるのである。

専門家の分析では、繰り返された核実験によって「核弾頭の小型化は成功しているのではないか」と見る向きが多い。

となれば、残りは、「起爆装置の開発」である。高度な技術を結集しなければ核ミサイルの起爆装置開発は不可能だ。これだけは、まだ北朝鮮も「開発に成功していない」と見られている。

だが、それも「時間の問題」だろう。これほどの無慈悲なことをやってのける独裁国家の領袖が、東京をはじめ日本の主要都市に照準を定めた核ミサイルを手に入れた「時」、いったいどうなるだろうか。

私は、今年4月10日に朝鮮労働党の機関紙・労働新聞が「わが国に対する敵視政策が日本にもたらすのは破滅だけだ」と題する論評を発表したことを思い出す。「東京、大阪、横浜、名古屋、京都には、日本の全人口のおよそ3分の1が暮らしている。これは、日本の戦争維持能力が一撃で消滅する可能性を示している。日本が戦争に火をつければ、日本列島全体が戦場に変わるだろう」と、労働新聞は強く主張したのである。

「ソウルを火の海にする」というのは、北朝鮮の常套句だが、この論評を目にした時、「東京、大阪、横浜、名古屋、京都」という日本の主要5都市の名前を北朝鮮が実際に挙げたことで、私は金正恩の本気度を見た思いがした。

言うまでもなく、起爆装置が開発されれば、この5都市に照準を定めた核ミサイルが「準備」されるのだろう。うしろ盾だった叔父ですら、議場から引きずり出して処刑にした独裁者。そんな国と、日本はそのあと、どんな「対話」ができるというのだろうか。

しかし、これに対峙する日本の現状はお寒いかぎりだ。閉幕した国会で法案こそ成立したものの、国家安全保障会議(日本版NSC)はまだ創設されていない。特定秘密保護法案に対して「戦前への回帰だ」と叫ぶ日本の一部勢力を横目に、極東を中心とする世界情勢の現実は、とっくに“危険水域”に入っている。

北朝鮮のうしろ盾が「中国」であるところに、この問題の複雑さと怖さがある。中国の巨大投稿サイトでは、「小日本に核ミサイルをぶち込んで、思い知らせてやれ」という内容の投稿がよく出てくる。しかし、それは、「自分の手を汚さなくても」、この北朝鮮の若き独裁者にやらせれば、「簡単なこと」なのである。

どうしようもない飢餓状態で、この冬が越せるかどうかという状態に陥っている北朝鮮。この冬を乗り切ったとしても、来年、再来年の冬は果たして乗り切れるだろうか。その時、座して「死」を待つぐらいなら……と、金正恩がどんな手段をとるのか、誰にも予測はつかない。

いつまでも韓国の国家情報院の発表を待っているだけのお粗末な日本の北朝鮮情報の収集体制では、せっかく国家安全保障会議をスタートさせても、有益な策は打ち出せないだろう。しっかりした危機感をもとに、国民の生命・財産を守るための情報収集体制の「一刻も早い構築」を望むばかりだ。

カテゴリ: 北朝鮮

原発の「観光地化」という“逆転の発想”

2013.12.10

「門田さん、福島第一原発を“観光地化”すると言ったら、どう思いますか」。私は突然、そんなことを聞かれて仰天してしまった。しかし、言っている本人は、いたく真面目だ。そして、1冊の本を差し出された。

福島県内で次作の取材をつづけている私は、昨夜、いわき市で地元の人と飲み会をやった。その席でのことである。その人は、福島県双葉郡の富岡町出身で、弁当や給食サービスの会社を運営している藤田大さん(44)である。差し出された本は、『福島第一原発 観光地化計画』というものだ。

分厚い写真つきの本で、巻かれている黄色い帯には、「原発観光地化 あり? なし?」と大きな字で書かれている。筆者・編集人は、作家の東浩紀氏である。

「どういうこと?」と私が聞くと、「あれほどの事態をもたらした福島第一原発を逆に観光地化して、人を呼ぼうという考えです。人にどんどん来てもらえれば、地元は活性化していきます。日本だけでなく、世界中から人に来てもらえば、双葉郡も復興していくと思うんですよ」

真剣な表情でそう訴える藤田さんの顔を見ながら、私は、「ユニークな“逆転の発想”だなあ」と、感心してしまった。たしかにおもしろい考えである。

「あとづけ」を見ると、この本は「11月20日」に発売されたばかりだ。藤田さんは、この本の趣旨に賛同しており、「福島第一原発を“観光地化”」して、「世界中から人を呼び」、地元を活性化させる「夢を持っている」と、私に言うのである。

「人が離れていく」被災地の中心である原発に、逆に「人を呼ぶ」――奇想天外な考えである。私は、今日、この藤田さんと、フタバ・ライフサポートの遠藤義之専務(41)の二人に案内されて、許可者以外は立ち入りができない双葉郡富岡町の「夜ノ森地区」のぎりぎりの境界まで行ってきた。

同じ富岡町でも、その境から先は「帰還困難区域」であり、そこで検問がおこなわれていた。藤田さんと遠藤さんの二人は、自宅がこの帰還困難区域内にあり、許可なしでは二人とも自宅に行くことはできない。

しかし、それ以外の富岡町は行き来できるので、私はあちこちを案内してもらった、私の次作のノンフィクション作品は、この富岡町の“ある場所”からスタートするからだ。私はその地を見にきたのである。

昨年、拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』の取材の時は、楢葉町のJヴィレッジまでが通行可能な区域だったが、富岡町まで行くことは、とても無理だった。

この1年の間に、そこから行き来ができる区域が15キロも広がり、富岡町まで来ることができるようになったことを思うと、感慨深い。

私が“初めて”見る富岡町の姿は、目を覆うばかりだった。海に近い富岡駅は駅舎ごとなくなり、鉄の改札だけが今もポツンと残っている。駅前の店舗、ホテル、飲食店は見事に地震と津波に破壊され、至るところで、津波に流された自動車が引っくり返り、あるいは土中に突き刺さっていた。

海岸に近い住宅地帯は、見事に何もなくなっていた。生い茂った草むらの中に、よく見ると建物の土台だけが残っている。かつて家族団欒(だんらん)を過ごしたマイホームが土台を残してすべてなくなっているのである。

富岡川の河口にかかる橋も、橋桁が落ちて段差が生じ、通行はいまだに不能だった。町の大半が帰還困難区域ではなくなったものの、まだ「居住制限区域」であることに変わりなく、富岡町には震災から1000日以上を経た現在も、誰も住むことができない。

今日、案内してくれたお二人は、富岡町内の元の自宅に帰ることもできず、今はいわきで暮らしている。そんな二人にとって、“地元復興”が悲願であることは言うまでもない。

共に双葉高校出身という二人から飛び出した「原発観光地化」という言葉は刺激的であり、興味深いものだった。たしかに「人が離れる」なら「人を呼べ」である。

原発事故の悲劇を二度と繰り返さないためにも、また、この東日本大震災の教訓を忘れないためにも、「現場の観光地化」という“逆転の発想”は興味深い。原爆ドームが広島原爆の悲劇を現在に伝え、ついには世界遺産に登録されたことを思えば、二人の発想は一笑に付すような類いのものではないだろう。

藤田さんが富岡町のある場所で、「ここはホットスポットですから、数値を見てみましょう」と言って、線量計を取りだした。たちまち数値は上昇し、なんと「76マイクロシーベルト」を記録した。

「ああ、70台の数値が出ましたね。私もさすがに初めてです。こんな数値が見られるなんて、門田さんも運がいいですね」と、藤田さんは言う。

「ああ、今日は猪豚(イノブタ)が出ました」と、富岡駅のすぐ近くで二人が同時に声を挙げたのは、それから1時間近くあとである。見ると、閉まったままの測量会社の駐車スペースから“つがい”と思われる二頭の猪豚が出て来て、車に乗っている私たちに近づいてくる。完全に野生化したものだ。

「同じように町なかにいても、猪(イノシシ)より猪豚の方がおとなしいですよ。猪は人間を見ると突っかかってきますから」という。放射能汚染で人がいなかった2年間のうちに、ここ富岡町では、人間に代わって野生化された動物の方が主役だったようだ。

「原発観光地化」を各方面に持ちかけ、そのプロジェクトを進め、「この地を世界中から人が集まってくる場所にしたいんです」と、二人は言う。富岡で生まれ育った二人の真剣な目と、わがもの顔で道を闊歩(かっぽ)する野生動物の姿は、あまりに対象的なものだった。

たしかにそれほどのユニークな発想でなければ、この地の復活は難しいだろう。奇抜な発想こそが、あらゆるものを活性化させる可能性がある。「人が離れるなら、人を呼べ」。どんな人でも「福島の浜通りに来てください」。そして、「その目で震災の惨状を目に焼きつけてください」。

あまりの惨状と傷跡に塞(ふさ)ぎこんだ時期を経て、今、逆転の発想で彼らのように「大反攻」を考える人がいる。私は、どんな試練にぶつかっても、決してへこたれない浜通りの男の姿を見て、心から二人を応援したくなった。

カテゴリ: 原発

激動の国際情勢と国会攻防

2013.12.05

昨日の12月4日は、東日本大震災から「1000日」という節目の1日だった。東北各地で犠牲者に対する黙祷(もくとう)がおこなわれた。

私も、この日に特別の感慨を持った一人だ。あの日から「1000日」が経過したのか、としみじみ思う。長かったようにも思うし、短かった気もする。

死者・行方不明者1万8534人(2013年11月8日現在)を出した東日本大震災は、筆舌に尽くしがたい傷跡を人々の心に残した。無念の最期を遂げた人のあまりの多さに、人々は「言葉」というものを失った。

私は、1000日が経過した昨日も福島で取材をおこなっていた。震災直後にはたくさんのジャーナリストが東北各地で取材をしていたが、ひとり減り、ふたり減り、1000日目の昨日は、随分少なくなったような気がする。

そんな中で、今日も福島で私は取材をつづけた。「あの日」のドキュメントを私は今も追っているのである。ジャーナリストである私には、この悲劇の中で挫けず闘いつづけた人々のことを「後世の日本人」に残すことしかできないからである。

震災から1年4か月が経った昨年7月、私は、吉田昌郎・福島第一原発元所長にお会いした。吉田さんが、不治の病を押して、わざわざ西新宿の私の事務所を訪ねて来てくれた「あの日」のことも、忘れられない。

その吉田さんも今はない。58歳という若さで吉田さんは今年7月に帰らぬ人となった。2013年も残り少なくなって、今年亡くなった方々の特集をするメディアがあり、私にもコメントを求めてきている。“日本を救った”亡き吉田さんのことをできるだけ私は正確に、そして詳しく、話をさせてもらっている。

明日は四国で講演があるため、夕方、福島から帰京した。帰りの新幹線でまどろんでいると、ある自民党の参議院議員から携帯に電話があった。

特定秘密保護法案の採決で、「本会議は、明日の朝まで徹夜の攻防になるだろう」とのことだった。その後、今日の本会議は休会に入ったそうだから、改めて明日、闘いが再開されるのだろう。

言うまでもなく特定秘密保護法案とは、日本版NSC(国家安全保障会議)のために不可欠なものである。各国が持つテロ情報をはじめとする「機密情報」がスパイ天国の日本には提供されない事態が長くつづいた。

法案は、そういう事態にピリオドを打つためのものでもあるが、野党が反対するようにこれが情報を独占的に持つ官僚たちを“委縮”させ、国民の知る権利が不当に害されることがあってもならない。

かつて1980年代にスパイ防止法の攻防を取材していた私にとっては、国家の安全を脅かす「機密情報」と国民の「知る権利」との線引きの難しさを久しぶりに感じさせてくれる問題である。この攻防は30年前にも見たものだと、思い出される。

だが、国際情勢は明らかに80年代とは変わっている。今や紛争の火種として世界から注目されているのは、中国の覇権主義である。東シナ海でも南シナ海でも、領土的野心を剥き出しにする中国とどう対峙するかは、周辺国にとって最大の問題となっている。

そして、その中国は、前回のブログでも書いたように中国共産党系の新聞が社説で「闘いのターゲットは日本に絞るべきだ」と広言して憚らないのである。

私は、かつて当時の竹下登首相の秀和TBRビルの個人事務所に中国の人民解放軍総参謀部第二部の人間が正体を隠して「私設秘書として入り込んでいた」ことを思い出す。それが生き馬の目を抜く国際社会の最前線の現実なのだ。

特定秘密を国益のために「守る」ことの重要性も軽んじるわけにもいかないのである。それだけに、ここのところの国会の攻防を与野党どちらに与(くみ)するわけでもなく、私は興味深く見させてもらっている。

さて、綺麗事では済まないテロを含む国際情勢に対峙するこの法案はどんな運命を辿るのだろうか。じっくりウォッチさせてもらおうと思う。

カテゴリ: 地震, 政治

次は「尖閣上陸」と建造物「建設」でどうする日本

2013.12.03

久しぶりに週明けを東京で過ごしている。12月最初の月曜日、いくつかの用事をこなすために東京にいたが、私は午後、ある台湾政府の官僚とお会いした。

久しぶりの再会だったが、話題は中国が設定した防空識別圏の問題に終始した。領土拡張への野心に添って、中国が、尖閣を含む東シナ海の広範囲な空域に「防空識別圏」を設定したことは、やはり台湾にも大きな衝撃を生んだという。

この台湾政府の官僚は、「日本は挑発に乗ってはいけませんよ」と、何度も繰り返した。なぜか、と聞くと「相手に最初の一発を撃たせることが彼らの狙いだからです」という。

「中国の挑発」というものに、日本以上に敏感なのは台湾だろう。氏によると、「中国軍機は台湾海峡の中間線を通り越して、挑発を繰り返しています。ここ数年、その回数が着実に増えている。当然、台湾からスクランブル(緊急発進)がかけられますが、彼らはどこ吹く風です。悠々と中国軍機は去っていくのです」。

台湾海峡は、大陸と台湾の間の海峡で、狭いところで100キロ、離れたところではおよそ180キロある。その中間線を中国軍機は、平気で通り越してくるというのである。

「これは、台湾軍機が撃ってくるのを待っているのです。もし、撃ってくれば、台湾軍機に不当に攻撃されたというのを口実に一気に反撃に出るつもりなのでしょう。彼らは自信満々ですから、撃つなら撃ってみろ、という態度なのです」。氏は、そう語る。

経済的な関係を強化し、今では、「台湾を事実上、経済的に傘下に収めた」中国が、あえて国際的な非難を浴びるような台湾への軍事侵攻をする可能性は少ない。それは、あくまで挑発だけなのだろう。

だが、日本も、すでに主に「海上で」中国による日常的な挑発を受けつづけている。今後は、台湾が受けているような空での挑発行為が延々と繰り返されるに違いない。日本は、これらにどう対処すればいいのだろうか。

「これから、東シナ海では長く緊張状態がつづくでしょう。中国は、台湾に対してと同じように日本側に“最初の一発”を撃たせるために、いろいろなことをやってくると予想されます。日本が警告射撃をすれば、中国側も同じように警告射撃をする。そんなことが繰り返された先に、どんなことが待っているのか、心配です」

私は、氏の話を聞きながら、中国側の「次の一手」に注目せざるを得なかった。今回の防空識別圏の設定に対して、アメリカの反発の大きさは、中国を驚かせただろう。尖閣が日米安保条約第5条の対象地域であり、この問題が、米中間の重要案件に持ち上がったことは間違いない。

報道によれば、中国共産党の機関紙『人民日報』の系列にある環球時報は、防空識別圏設定をめぐって、「戦闘のターゲットは、日本に絞るべきである」という社説を掲載したそうだ。

そして、その社説をめぐって、中国版ツイッターでは、「小日本に、中国にたてつくとどうなるかをわからせてやれ」「日本をターゲットに定めることに賛成だ。日本をやっつければ、韓国は自動的に“中国の犬”になる」という意見が出ているのだという。中国版ツイッターには、中国政府や中国人の本音が映し出されるので、実に興味深い。

私は、「次の事態」とは、中国による「尖閣上陸」と建造物「建設」だと見ている。竹島問題への日本側の弱腰の姿勢を中国は冷静に見ている。「建造物さえつくれば……」というのが本音だろう。中国にとって、怖いのはアメリカであって、日本ではない。

これから、中国はアメリカの出方をウォッチする時期がつづく。アメリカでの中国ロビーの活動がより活発化するだろう。以前のブログにも書いたように、「中国系アメリカ人」のアメリカ政府内の活動が注目される。

その中で、「いつ」「どのタイミング」で“尖閣上陸”と建造物“建設”がおこなわれるのか。そして、それは「闇夜に乗じて」なのか、それとも「堂々と力づく」なのか。

日本とアメリカは覚悟をもってこれに対処できるのだろうか。日本がその時、どんな行動に出るのか。それは、「戦後日本」そのものが“試される時”でもある。

カテゴリ: 中国

辻井喬さんの「死」に思う

2013.11.29

福島での取材がつづいている。毎日、好天の福島だが、それでも朝夕の冷え込みは厳しい。福島市の市街地から見れば、西にある吾妻連峰の山々も、冷気を伝えるように頂上は雪景色だ。

そんな福島取材の中で、作家の辻井喬=本名・堤清二=さん(86)が亡くなられたというニュースが流れた。ご存じ、西武百貨店社長を務めるなど、セゾングループの創業者でもあった方である。

西武グループの基をつくり上げた父・堤康次郎氏との確執は有名だが、独自に“生活総合産業”を掲げてセゾングループを築き、不動産事業も組み合わせた多角化戦略は、経済界で大きな注目を集めた人物だった。

私は、そういう実業家としての堤清二さんではなく、作家としての辻井喬さんしか知らない。共通の知人がいて、二年前に辻井さんとは本郷の小さな飲み屋でご一緒させてもらったことがある。

その時、歳も、キャリアも、まったく比較にならない私のような“若造”の言うことに辻井さんは、耳を傾けてくれた。それは、驚くほどの腰の低さで、話をさせてもらう私の方が恐縮してしまうような態度だった。

私は、辻井さんの死を大変残念に思っている。それは、辻井さんが数多くの名作を生んでこられた作家というだけでなく、日本文藝家協会の「言論表現問題委員会」の委員長を務めておられたからである。

私も日本文藝家協会の会員の一人で、すでにノンフィクションの書き手として、文庫も含めると24冊の著作がある。まだまだ辻井さんの足元には及ばないが、しかし、これからも自分なりのノンフィクション作品を書きつづけていくつもりだ。

そんな中で、日本の言論と表現が実に「危うい状況にある」ことを私は辻井さんに理解してもらい、これを守る活動を日本文藝家協会の言論表現問題委員会の委員長である辻井さんを中心に是非、大きな流れにして欲しいと思っていた。

そのことで、辻井さんに改めてお話したい旨の連絡を差し上げたら、辻井さんは体調を崩されているということだった。

あれは今年の初夏だっただろうか。体調が回復したらお会いしたい旨の丁寧なお便りを頂戴した。辻井さんの体調が回復されたら、私はまたいろいろなことを話せていただくつもりだった。

「秋頃には」という内容だったが、東北の山々が紅葉から雪景色に変わるようになっても連絡は来なかった。その代わりに飛び込んできたのが、昨日の辻井さんの死を告げるニュースだったのである。

私は、福島で取材をつづけている中で接したそのニュースにショックを受けた。その時、すぐ思い出したのが、今年6月に90歳で亡くなられた憲法学者の清水英夫さん(青山学院大学名誉教授)のことだった。

清水さんほど、「言論・表現の自由」を重視した憲法学者はいない。清水さんの口癖は、「言論・表現の自由とその他の権利が対立した場合は、まず言論・表現の自由を優先して考えるのが憲法の保障だ」というものだった。

それは、民主主義が「言論・表現の自由」によってこそ担保されることを知悉(ちしつ)している清水さんならではの考え方と信念によるものだった。そのことは、私のデビュー作でもある『裁判官が日本を滅ぼす』の中でも、詳しく書かせてもらった。

政界が司法への介入を露骨に始めた1990年代後半から、司法は、政治家をはじめとする公人たちの「人格権」を驚くほど重く見るようになった。それは、メディアに対する高額賠償化現象につながり、やがては、一般人の「人格権」の声高な主張につながっていく。

耳触りのいい「人格権」というものが何より重視され、司法による「言論・表現への介入」が急速に進んでいく状況を、私は本郷の小さな飲み屋でも、辻井さんに話をさせてもらった。前述のように、辻井さんは、若輩の私の話にこちらが恐縮するような腰の低さで耳を傾けてくれた。

辻井さんには、日本文藝家協会の言論表現問題委員会の委員長として、この日本の「言論・表現」を守る最前線で闘ってくれると、私は期待していた。それだけに、辻井さんの突然の死が残念でならない。

ここのところ、私のブログでも大正から昭和初期に生まれた方々の訃報への感慨が多くなっている。今週は、中国が尖閣を含む東シナ海上空に「防空識別圏」を設定したこと等、大きなニュースが相次ぎ、これらに対する私の見解も書きたかったが、残念ながら、連日、夜中まで取材に追われており、なかなかブログを書く時間がとれない。

せめて辻井喬さんの死に対しては少し書きたいと思ってパソコンに向かった。貴重な文化人の死を惜しむと同時に、言論・表現の自由を守る闘いは、辻井さんや清水さんが亡くなった今となっては、「私たちの世代の責任だ」という思いを強くしている。

カテゴリ: 司法, 随感

“輸送船の墓場”バシー海峡「生き証人」の死

2013.11.24

福島から帰京し、昨日は静岡の清水で一人の老兵の法要に参列した。先月、92歳で亡くなられた中嶋秀次さんの納骨式である。

中嶋さんは昭和19年8月、バシー海峡で乗っていた輸送船「玉津丸」が魚雷で沈められ、5000人近い仲間と共に海に放り出された。この船に乗っていた静岡の歩兵第13連隊の兵士の中で生き残ったのは僅かで、輸送船史上最悪の惨事と言われる。

中嶋さんは、そのまま炎天下のバシー海峡を12日間も漂流した。最初は筏(いかだ)に数十人が乗っていたが、仲間が次第に飢餓と渇きで幻覚に襲われ、気が狂ったようになって死んでいく中、唯一、生き残った。

バシー海峡は、“輸送船の墓場”と称される。アメリカの潜水艦と空からの航空攻撃で、日本軍の輸送船は次々と沈没し、犠牲者は10万人とも20万人とも言われ、今に至るも犠牲者の総数はわからない。それほど膨大な戦死者を生んだ“魔の海峡”である。

そのバシー海峡で奇跡の生還者となった中嶋さんは、戦死者の弔いのためにその後の人生を捧げた。私財を投じてバシー海峡を望む台湾の猫鼻頭に潮音寺(ちょうおんじ)という寺を建立し、仲間の慰霊に力を注いだのだ。

私は、中嶋さんが亡くなる1か月前の今年9月、2日間にわたって中嶋さんに貴重なお話を伺った。病床にあった中嶋さんは、それでも凄まじい「12日間の漂流」のありさまと、その後の仲間の慰霊に対する「思い」について、滔々と語ってくれた。

しかし、亡くなる3日前に、「門田さんにまだ話したいことがあります」という震える字でお手紙をいただいた。そして、10月21日、ちょうど学徒出陣70周年の当日、中嶋さんは息を引き取ったのである。

千代夫人によれば、私への手紙は、生前に書いた中嶋さんの“最後の文字”だったそうだ。静岡市清水区の曹洞宗・真珠院で、昨日11月23日お昼から中嶋さんの近親者による納骨式と四十九日法要が行われ、台湾からわざわざ潮音寺の活動に携わっている呉昭平さん(74)も参列されていた。

中嶋さんが私に「まだ話したいことがあります」という中身は何だったのか、どうしても私は知りたくなった。真珠院で1か月ぶりにお会いする千代夫人にそれを問うてみたが、残念ながら「見当がつかない」とのことだった。

大正生まれの方々の貴重な証言が消えつつある。去年から今年にかけて、私は何人の貴重な歴史の証言者を見送っただろうか。明日からは、次作の取材で、また福島に向かうが、ノンフィクションとは、つくづく時間と空間の勝負であることを感じる。

証言者が亡くなれば、どんなにお話を伺いたくとも、すべては闇に葬られる。ノンフィクションがひとつだけの取材に没頭できないのは、その時間と空間の勝負でもあるからだ。明日からも、そんな大きな制約の中で、できるだけ貴重な歴史の証言に迫りたいと思う。

カテゴリ: 歴史

脱して欲しい「教育理想論」

2013.11.20

今週も福島にいる。来年に出すノンフィクションの取材が佳境に入っている。拙著『死の淵を見た男』のいわば第二弾ともいうべき福島を舞台にした作品だ。

さすがに福島も日を追うごとに寒くなっている。今朝も宿泊しているホテルから見える標高二千メートル近い吾妻(あずま)連峰の山々の頂上付近が雪化粧し、本格的な冬の到来を感じさせてくれている。

ホテルで朝食をとりながら朝刊各紙に目を通していたら、朝日新聞の「天声人語」が政府の教育再生実行会議のことを取り上げていた。同会議が打ち出している「大学入試を人物本位に変える」方針について言及したものだ。

同会議は、大学入試で、学力テストだけでなく、面接や部活、インターンシップやボランティア、海外留学といった活動も評価することを打ち出している。いわゆる“人物本位の入試”というやつである。

天声人語はこれに対して、「疑問も直ちに浮かぶ」と前置きしてこう書いている。「面接突破のテクニックを学び、自己PRの材料集めに力を注ぐ。そんな本末転倒の対策を高校生に強いるのか」と。

珍しくこの部分について、私は朝日新聞に賛同した。全国で70万人近い大学受験者を人物本位で選考することなど、不可能であることは誰にだってわかる。しかし、綺麗事の大好きなこの手の会議では、必ずこういった理想論が「幅を利かす」のである。

しかし、この手の理想論は、弊害をもたらすのが常だ。1990年代半ば、文部省の中央教育審議会が個性重視の「ゆとり教育」なるものを唱えて、学習内容や授業時間数を「3割」も削減し、日本の子供たちの学力低下を生み出し、今では、その揺り戻しである「脱ゆとり教育」が主流になっているのは周知の通りだ。

当時、このゆとり教育の実態が世の親たちに危機感を生み、「学校の授業だけでは一人前の人間にはなれない。塾へ通わせるしかない」と、逆に塾通いの子供たちを増やしてしまい、「ゆとり」どころか、それと「正反対の現象」を生み出したことは記憶に新しい。

頭が柔らかい子供の頃に “礼儀作法”や“素読”を徹底的に叩き込んだかつての日本教育が“悪”とされ、個性やゆとりという“机上の理想”によって、教育水準が先進国で最低水準に落ち込んだ反省は、きちんとできているのだろうか、と思う。

今朝の天声人語は大学入試の「傾向と対策」のことにも触れている。前述の「面接突破のテクニックを学び、自己PRの材料集めに力を注ぐ」ことは、海外留学などの経験を積むことも念頭に置いており、「裕福な家庭の子に有利になるから不公平」というわけである。

私は、常に綺麗事を前面に押し出し、理想論を振りかざしてきた同紙がこのようなことを書くのは珍しいなあ、と思っていたら、この天声人語子は、私と同じ世代だとわかった。

というのも、文章の中に「今年落ちれば来年から共通1次だという時に受けた重圧を、いまだに思い出す。若い世代を必要以上に右往左往させてはいけない」と書いてあったからだ。

ああ、この人物は翌年に共通1次試験がスタートするという戦後最大の入試改革の前年、すなわち1978(昭和53)年に大学入試を受けた人物だ、と思った。私と同じだ。

大変革を翌年に控えて“狂乱入試”と名づけられたあの時の大学入試は異常だった。田舎から入試のために東京へ出てきた私は、その狂乱入試の真っ只中に放り込まれ、それまでの2倍の併願校をそれぞれの受験生が受けるという異常事態に圧倒されたものだ。

当時の受験生は、この変革を主導した永井道雄・元文部大臣をどのくらい恨めしく思ったかしれない。おそらく天声人語子も、同じなのだろう。

うわべだけの正義を論じることが大好きな朝日新聞に珍しいコラムが載ったのは、そういう理由があったのだろう。だが、実は、三木内閣の民間登用の文部大臣になったその永井道雄氏の前職は、「朝日新聞論説委員」である。いわば天声人語子と同じだ。コラムを読みながら、私は、「これは歴史の皮肉だなあ」と、思わず笑いがこみ上げてきてしまった。

実現するはずもない理想論を唱え、受験生たちを翻弄する大人たちの姿は、今も昔も変わらない。私は、「今こそ、詰め込み教育を!」と逆のことを叫ぶ人がいたら、その人の意見はじっくり聞いてみたい気がする。

なぜなら、中国や韓国、インドなど、かつての日本の詰め込み教育も“真っ青”という教育を展開している国の若者の方が、日本の若者を今、国際舞台で圧倒しているからだ。

私は、詰め込み教育とは、すなわち、同時に「辛抱」と「我慢」を教えることでもあると思っている。辛抱と我慢が忘れられつつある日本で、もう一度、世界のどこの若者にも負けない“厳しさ”を持つ人間を育てる教育を模索して欲しいと、私は思う。

もちろん、そんな中で優しさと豊かな感性を生み出すにはどうしたらいいか、ということも専門家の方々に是非、議論していただきたいと願う。早朝、福島のホテルのレストランで雪景色の吾妻連峰を見ながら、私はそんなことを考えていた。

カテゴリ: 教育

爆破テロ事件の「教訓」は生かされるのか

2013.11.09

今週は、福島県の小名浜、いわき、猪苗代、福島市と取材がつづいた。来年出版予定のノンフィクションの取材である。福島県は、浜通り、中通り、会津地方と、それぞれが気候も風土も「違う」ことで知られる。

最も寒い猪苗代は、紅葉の時期も過ぎ、朝夕は冷え込み、タクシーの運転手が「来週には、おそらく初雪ですよ」と言っていた。標高1800メートルの磐梯山に「三度雪が降れば、麓の町にも雪が積もるんですよ」という。いよいよ猪苗代や会津にも、本格的な冬支度の時期がやって来たようだ。

今週の大きなニュースは中国の山西省・太原市の共産党委員会庁舎前で、天安門に引き続き、またも爆破テロ事件があったことだ。だが、昨日、福島から東京へ帰ってきたら、さっそく「容疑者が身柄拘束された」という報道が流れていた。

容疑者は太原市内に住む前科のある41歳の男性とのことだが、あまりに素早い“拘束”に逆に疑問も湧いた。なぜ、それほどのスピード解決が可能だったのか。ひょっとして確実な目撃者でもいたのだろうか。報道統制された共産党政権下では「真実」が見えにくいため、何もわからない。

私は、中国で爆破テロ事件が相次いでいるこのタイミングに驚いている。つい10月末、私は、『狼の牙を折れ―史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部』というノンフィクションを小学館から上梓したばかりである。それは、かつて東京が同じように、いや、それ以上に爆破テロに襲われていたことを描いたものだからだ。

若い人には、かつて東京が「いつ」「どこで」「誰が」爆殺されてもおかしくない地だった、といったら、何を寝ぼけたことを言っているのか、と笑われるかもしれない。

しかし、それは真実である。1970年代、東京は、ある時はアメリカ大使館の施設へのピース缶爆弾が、またある時は郵便局内で小包爆弾が、さらには、警察幹部の自宅でお歳暮を装った小包爆弾が……という具合に、何者かによる爆破事件が連続し、多くの犠牲者が生まれていた。

極めつけの爆破事件は、1974(昭和49)年8月30日、東京駅の目の前で起こった「三菱重工爆破事件」である。死者8名、重軽傷者376名を出したこの史上最大の爆破テロを皮切りに、連続11件という企業爆破が繰り広げられた。そして、その謎の犯人グループは、「天皇暗殺」まで企てていたことがのちに判明する。

政治闘争の名を借りて、こんな爆破テロが東京で起きていたことを知る人がだんだん少なくなっている。これらの爆破テロに比べれば、中国での事件など、まだまだ可愛い方だろう。

罪もない一般の人々が爆殺される、こうした狂気の反権力闘争がかつて展開され、東京は、幸せな日常生活と家族の絆が、理不尽にも一瞬にして奪われるかもしれない“恐怖の地”でもあったのである。

この謎の犯人グループは、三菱重工爆破から9カ月後、警視庁公安部によって一網打尽にされた。しかし、その後に起こったクアラルンプール事件やダッカ事件という国際人質事件によって、超法規的措置として犯人の一部は出国していった。

そのまま犯人は現在も国際逃亡を続けており、事件はいまだ終結していない。私は、この事件の知られざる内幕を当時の公安捜査官の直接証言により、実名ノンフィクションとして描かせてもらったのである。

いま中国に“爆破テロの時代”が到来し、東京は来たるべき2020年のオリンピックに向けてテロ対策に動き始めている。今まで無警戒だった原発テロへの対策も進み始めた。

今年4月に起こったボストン・マラソンの爆弾テロ事件は記憶に生々しい。言うまでもないが、過去、オリンピックはテロの標的にされてきた。かつてミュンヘン五輪(72年)で起こったパレスチナ武装組織によるイスラエル選手団殺害事件や、アトランタ五輪(96年)での爆弾テロ事件も忘れられない。

五輪で国を挙げて「テロ対策」に取り組むのは、世界の常識となっている。今年9月、日本とアメリカは、「PCSC協定」なるものを結んでいる。テロへの関与が疑われる人物の入国を防ぐため、犯罪者の指紋データベース情報などをお互いが提供し合う協定だ。

だが、こういうデータベース情報に対する日本側の情報漏洩への警戒感の欠如が各国の懸念材料になっているのも事実だ。その意味で日本のテロ対策は、まだ「緒についた」ばかりなのである。

かつて世界のどの都市よりも爆破テロの恐怖に晒されていた東京。その時の捜査のノウハウは果たして、今も「生きている」のだろうか。

私は、東京が本格化させなければならないテロ対策に、かつての「経験」とそこで培われた「叡智」がどのくらい生かされるのか、疑問を持っている。人権弾圧が進む中国で今、起こっている連続爆破テロのニュースを追いながら、私はこの1週間、さまざまなことを考えさせてもらった。

カテゴリ: 事件

中国の「悲鳴」が聞こえてくる

2013.11.06

来年出版予定のノンフィクションの取材で、福島県に来ている。昨年上梓した『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』に次ぐ福島を舞台にしたノンフィクションになる。なんとか来年3月には、上梓したいと思う。

今日、いわき市のホテルで朝食をとりながら新聞に目を通していたら、読売新聞に面白い記事が出ていた。『ウォール・ストリート・ジャーナル』が10月30日付で掲載した記事を同紙と提携している読売新聞が解説面(13面)で詳しく紹介したものだ。

そこに、企業の不正を暴いたことをきっかけに警察に逮捕された中国人記者のことが出ていた。先日、拘束されたこの広東省『新快報』の陳永洲記者のことは、私も気になっていた。その顛末が書かれていたのである。

陳記者は、湖南省長沙市の建設大手「中聯重科」が大規模な不正経理をおこない、政府資産の損失にも関与していると報道した。中国では、政府の責任まで取り沙汰されるような告発記事を出すには、相当な覚悟がいる。

賄賂や不正が横行しているのは「中国社会の常識」でもあるから、特別にこれを告発するには、不正のカラクリと背後に誰がいるのかをきちんと把握しなければならない。すなわち相当な取材力と確かな告発者の存在が不可欠だ。

おそらくその上で掲載されただろう陳記者の記事は、やはり大きな反響をもたらした。しかし、それは、先進国の常識では「考えられない」反響だった。

たちまち陳記者は警察に「拘束された」のである。私は、陳記者が逮捕されたというニュースに接して、「いったい何を理由に逮捕されたのか」という疑問が湧いた。しかし、世界中の多くのジャーナリストのその疑念に中国当局は、凄まじい「答え」を出してきた。

なんと国営の中国中央テレビ(中国中央電視台 CCTV)が、陳記者が「記事は捏造でした」と供述しているようすを全中国に放映したのである。TVの画面は、第三者から賄賂を受け取り、中聯重科のイメージダウンを図るために「記事を書いた」と話す陳記者の姿を映し出したのだ。

CCTVの中国における力は絶大だ。国営放送であり、そこで報道されることは、そのまま中国共産党の「見解」でもあるからだ。それまで大見出しを掲げて「(陳記者を)釈放してくれ」という記事を掲載していた『新快報』も、このCCTVの報道に「沈黙」を余儀なくされた。

ただし、それは『新快報』が、CCTVに映し出された陳記者の告白供述を「信じた」のではなく、共産党政府の“怒り”と“本気度”を「悟った」からだろう。いうまでもないが、中国で陳記者のテレビに映った供述を鵜呑みにする人は、極めて少ない。

起訴もされていない人間の取り調べの模様が国営放送によって全国放映されるという事実そのものが、ことの異様さを物語っている。その供述を「真実である」と受け取るほど中国の人民もお人好しではない。これが「みせしめ」であることは多くの中国人が感じ取っているに違いない。

陳記者の記事は、「中聯重科」が取引先に対する債権を“額面以下”で銀行に売却している事実も指摘している。ウォール・ストリート・ジャーナルは、「これは、中聯重科が手形を払える顧客を探すのに苦労していたことを暗示しており、中国経済の成長鈍化と一致する事象だ」とも書いている。

経済成長の鈍化と不正の横行、そして言論弾圧……末期的な症状を呈し始めたその中国のことを考えていたら、午後、またしても衝撃的なニュースが飛び込んできた。

今度は、山西省太原市中心部にある中国共産党山西省委員会の庁舎付近で、連続爆発が起き、1人が死亡、8人が重軽傷を負ったというニュースである。報道によれば、約20台の車が爆発に巻き込まれたというから、相当な爆発だったと思われる。

10月29日のブログにも書いたように、日本から故郷・上海に帰った朱建栄・東洋学園大学教授の身柄拘束は、すでに丸3か月を超えた。ウィグル族への弾圧は、ついに世界注視の天安門でも自爆テロとなって現われた。

そして、今度は新聞記者への言論弾圧と共産党関係機関への爆破テロ事件である。中国で大きな“何か”が起こりつつあることは世界中のウォッチャーが感じている。

抑え込もうとしても、抑えきれない不満と怒りがさまざまなところから噴き出している。それは、あたかも、孫文をはじめ、多くの中国人が強大な清国に立ち向かい、辛亥革命に突き進んでいった100年以上も前のことを想起させる。

中国のバブル経済が破裂した時、人民の不満と怒りは一体どこに向かうのだろうか。今、盛んに、日本との関係修復に対する中国からのラブコールが水面下でおこなわれている。

しかし、それらに対して耳を傾ける必要はなく、これまで当ブログでも指摘させてもらった通り、日本は淡々と中国とつきあい、「距離」を置けばいいのである。決して、こういう問題が勃発した時にはコメントも出さないような日本の親中派政治家などの言うことを聞く必要はない。

就任早々、不穏な空気に包まれている習近平政権――悲鳴を上げているのは、中国人民の側ではなく、案外、「習近平」その人かもしれない。日本は距離をとって、そういう事情こそ冷静に見ていくことが大切なのである。

カテゴリ: 中国

球史に残る「日本シリーズ」に人々はなぜ感動したのか

2013.11.03

なぜ今年の日本シリーズは、これほどの感動をもたらしたのだろうか。7戦目までもつれこんで、王者巨人を3対0で破り、球団創設9年目の初優勝を遂げた楽天の歓喜が爆発するシーンを、私は瞬きもせず、見つめていた。

長く野球を見ているが、日本シリーズでこれほど感動した優勝は、記憶にない。前日、160球を投げて敗れた田中将大が9回のマウンドに上がった時、テレビで野球解説をしていた古田敦也、工藤公康の両氏も絶句していた。

ポストシーズンも含めて、昨年からの連勝日本記録を「30」でストップされた田中。その田中がパンパンに張った肩をものともせず、マウンドに上がったのである。

田中の将来を考えれば、あり得ない采配であり、野球の本場・メジャーから見れば、“クレイジー”な登板である。だが、試合後の星野監督のインタビューでそれが田中自身の「志願」であったことが明らかになった。

「どうしたって、田中が“行く”と。彼がいたから(楽天は)日本シリーズに出れたわけですから。最後は彼に託しました」と、星野監督が“内幕”を吐露したのだ。

こうして「あり得ないシーン」が現実に目の前で繰り広げられたのである。来年はメジャーに進むだろう田中の闘志と、ファンの必死の思いが共鳴して、最終回は異様な空気となった。それが、テレビの画面からも見てとれた。

そして、うねりのような東北の応援の声が、田中の背中を押し、鬼のような気迫で、ついに巨人をねじ伏せた。球史に残るシーンだった。

私は、田中将大投手を駒大苫小牧時代に取材したことがある。それは、拙著『甲子園の奇跡』(講談社文庫)に収められているが、彼にとっては、史上2校目の夏の甲子園3連覇を早稲田実業の斎藤佑樹投手に阻止された失意の頃だった。

遠く北海道の苫小牧まで赴き、田中にインタビューした私は、寡黙ながら秘めた闘志のこの青年の将来が気になった。あの時点で“ハンカチ王子”斎藤佑樹投手に水を開けられていた田中は、「絶対に負けない」という闘志で精進をつづけ、押しも押されもしない“日本のエース”となった。

来年は、田中の「師匠」でもあるダルビッシュ有とメジャーで投げ合うだろう。二人の実力は、そのままメジャーのトップを争うものになるに違いない。

先発の美馬、中継ぎの則本、そして抑えの田中。今日、楽天の3人が投げた“魂の入ったボール”は、間違いなく日本シリーズの歴史に残るものだった。闘志、気迫、魂……どんな言葉でも言い表せない投球だったと思う。

いったい何に感動したんだろうと、私はずっと考えていた。そして、あることに気がついた。それは、田中の志願の登板が、「自分のため」ではなく、「他人のため」だったことである。

田中が「自分のこと」だけを考えていたなら、肩を壊す危険性もある連投は絶対に「避けた」だろうし、「避けなければ」ならなかった。メジャーへの挑戦という大いなる未来があるなら、なおさらだ。だが、田中は、「自分のこと」よりも、「腕が千切れても登板を」という方を選んだのである。

私は、あの阪神淡路大震災の時に、イチローを擁したオリックスが“がんばろうKOBE”をスローガンに掲げて、震災の年(95年)と、翌年(96年)にパ・リーグ連覇を成し遂げ、2年目に「日本一」となったことを思い出した。

あの時、阪神淡路大震災の被災者がどれだけ勇気づけられたか知れない。一方、若い球団である楽天は、オリックスのように震災のその年にリーグ優勝することはできなかったが、東日本大震災から3年目に「リーグ優勝」と「日本一」を成し遂げたのである。

楽天の優勝をあと押しする人智では推し量れない“何か”があったのかもしれない。しかし、それは、田中が最終戦に見せた「自分のため」ではなく、「他人のため」という姿が呼び寄せたような気がする。

それは、田中にかぎらず、3番打者の銀次をはじめ、岡島、藤田、嶋……等々、ナインに共通していたように思う。そこが、観る人をあれほど感動させたのではないだろうか。2013年プロ野球の締めくくりに相応しい感動の試合を楽しませてもらった。

カテゴリ: 野球

人間が達する「境地」とは何か

2013.10.31

昨夜最終の新幹線で東京に帰ってきた。姫路、倉敷での講演だったが、今回の講演旅行の収穫は、倉敷で大原美術館を訪ねることができたことだ。地方に行く楽しみは、そこにある名所を訪れたり、そこでしか食べられないものを口にできることだが、今回は大原美術館で、“命の洗濯”をさせてもらった。

これまで取材では何度も倉敷に行ったことがあるが、いつも時間に追われて、大原美術館に入ることができなかった。恥ずかしながら、今回、初めて私は大原美術館を参観した。

入った途端、私は圧倒されてしまった。玄関を入ったところに、この大原美術館をつくるために奔走した地元出身の画家・児島虎次郎(1881年~1929年)の絵が掲げられていた。

『酒津風景』と名づけられた縦2・4メートル、横1・9メートルという大きな絵である。倉敷紡績の創業一族である大原孫三郎に生涯にわたって援助を受けた児島虎次郎は、20世紀初頭、ヨーロッパに留学をさせてもらい、大原美術館に収蔵することになるモネ、ピサロ、ルノワール、ドガ、ゴーギャン……等々の世界の名画を集めた。

最も有名なのは、エル・グレコの『受胎告知』である。児島は、1590年代に描かれたと言われる『受胎告知』を苦労の末、手に入れ、今の大原美術館の最大の目玉となっている。

1590年代と言えば、日本では豊臣秀吉の天下統一が成った頃である。その時代の名画を見出して、日本に持ち帰った児島虎次郎の慧眼(けいがん)には恐れ入る。だが、私はそれらの名画よりも、児島自身が描いた『酒津風景』の迫力に圧倒されてしまったのだ。

大正5年に描かれたこの絵は、倉敷の酒津(さかづ)という地の風景と、農民の父親と母親の間にいる天真爛漫な幼な子の表情が生き生きと描かれている。

自然と人間の調和を柔らかく包み込んで表現した、丹念で緻密な児島の筆づかいに、私はしばらくそこから動けなくなってしまった。大原美術館に収蔵されているヨーロッパのどの名画よりも、児島の絵は素晴らしかった。

もうひとつ、圧倒された作品がある。陶芸家の河井寛次郎(1890年~1966年)の作による「三色釉扁壺」である。大原美術館には、絵画だけでなく、陶芸品や彫刻なども展示されているが、その中にあった河井寛次郎の作品に目を奪われた。

三色釉扁壺は、昭和35(1960)年と昭和38(1963)年につくられたもの2つが展示されていたが、私には、その中で昭和35年につくられた方が強烈だった。

河井は昭和41年に亡くなっているので、この異彩を放つ壺は、亡くなる6年前の70歳という晩年の作品だ。茶、赤、緑の三色を配し、独特の形をした壺を観た時、私は「境地」という言葉を思い浮かべた。

ひとつの道を歩む人間は、人生のいつか「境地」というものに達したいと願っている。宗教者もそうだし、芸術家もそうだし、スポーツ選手もそうだろう。しかし、「境地」とは、そこに達したという「答え」もなければ、そのための「基準」があるわけでもない。

私は、この三色釉扁壺は、河井のほかの作品と明らかに異なっており、これこそが河井が達した陶芸家としての「境地」ではなかったかと思う。

新幹線で帰京する途中、“打撃の神様”川上哲治が93歳で亡くなったニュースが流れていた。私たちの世代にとっては、巨人V9を成し遂げた絶対的な大監督である。ご存じ、現役時代に「ボールが停まって見えた」という打撃の「境地」に達したとされる数少ない打者でもある。

私は、戦前の日本の野球についても著作があるので、川上が熊本工業から女房役の吉原正喜捕手と共に、東京巨人軍に入った当時の野球界のことも多少、知識がある。当時の巨人のエース沢村栄治、そしてこの吉原正喜捕手も、戦争で命を落とした。

剛速球投手のスタルヒンや、のちの打撃の神様・川上は、過酷な戦中を生き抜いて戦後の野球界の発展に力を尽くしたのである。

今日、ワールドシリーズでレッドソックスの抑えの切り札・上原浩治が、見事に9回表を三者凡退に抑えて、ワールドシリーズ優勝を成し遂げた。

今日は、緊張からか、スピードとキレが今ひとつだったが、それでもウイニングショットになった最後のフォークボールは、とても打てるような球ではなかった。思わず「さすが!」と声を挙げてしまった。

ここにも「境地」を目指す人間の姿があった。それぞれの世界、それぞれの分野に、努力と精進で「上」を目指す人たちがいる。それを成就させるのは、どんな人間たちなのだろうか、と思う。

それは、私が追うノンフィクションのテーマのひとつでもある。執念、気迫、努力……どれが欠けても成し遂げることはできない。人間が達する「境地」とは何か。さまざまな道を極めた人たちの話をお聞きして、私もその答えを作品上で出してみたいと思う。

カテゴリ: 随感

「人権弾圧」こそ中国が生き残る唯一の“道”

2013.10.29

講演で倉敷にいる。倉敷格子や倉敷窓など、特徴的な「町屋建築」が軒を連ねる倉敷の美観地区には、不思議な魅力がある。かつて天領(幕府の直轄地)だった文化と商業の地・倉敷の風情は、やはり独特のものだ。

宿が、ちょうどこの美観地区と背中合わせの倉敷国際ホテルだったので、この倉敷川沿いの歴史と伝統の風情を満喫させてもらっている。

ちょうど倉敷出身の星野仙一監督率いる東北楽天が王者・読売巨人軍を相手に堂々と日本シリーズを闘っているだけに、今日、乗ったタクシーの運転手も「楽天が勝てるかどうか、気が気じゃありません」と、力が入っていた。

楽天の健闘で東北全体が盛り上がっているそうだが、遠くここ倉敷でも、日本シリーズの一投一打に熱狂している人は多い。出身地というのは、本当にありがたいものである。

さて、今日は、昨日起こった天安門での自爆テロ事件について、少し書いてみたい。中国共産党にとって、天安門に掲げられている毛沢東の肖像に向かって何者かが自動車で突っ込んで炎上させ、テロを敢行したという衝撃は、とてつもなく大きい。世界注視の場所で、自爆テロが起こったのだから、当然である。

報道によれば、新疆ウイグル自治区での弾圧への抗議という見方が一般的だ。中国共産党による少数民族弾圧は、もう54年間も亡命生活を送るチベットのダライ・ラマ14世を見てもわかるように、「徹底」かつ「酷薄」なものである。

これら少数民族弾圧がいかに苛烈かは、これまでにもアムネスティ・インターナショナルの報告で繰り返し明らかにされている。

新疆ウイグル自治区では、イスラム教を信仰する人間が投獄されたり、抗議の焼身自殺をする者がいたり、さらには、拘束中のウイグル人の死亡事件など、枚挙に暇がない。思想強化をはかるため、習近平体制がスタート後、ウイグル族への警察部隊の射殺事件も相次いでいるという。

私は、隠しても隠しても現われる中国共産党の人権弾圧について、どうしてもその行く末を考えてしまう。それは、日本人を徹底的に貶め、批判し、日本の領事館に投石し、日本料理店や日本車を焼き打ちする中国人が、実は中国共産党によって徹底的に弾圧されているという「現実」であり、同時にその彼らの将来を「考える」という意味である。

ちょうどタイミングよく今発売の月刊誌『WiLL』(12月号)に、遠藤誉氏(筑波大学名誉教授)が「“朱建栄教授拘束事件”の真相」と題して、興味深いレポートを発表していた。

これは、7月17日に故郷・上海に戻った東洋学園大学教授の朱建栄氏がもう3か月以上も国家安全部に拘束され、いまだに解放されないことの裏事情を記述したものだ。

朱氏と言えば、日本では中国と中国共産党の立場で論陣を張る中国人として知られる。だが、その朱氏にしても、当局の厳しい人権弾圧の対象となったのである。

遠藤氏は、朱氏が拘束される直前まで、朱氏から直接メールをもらっていたことを明かしている。朱氏は、「参考消息」と題して不定期に中国に関するニュースをメール送信していたそうだ。

その中に、機密情報に属するものが含まれており、それが思想強化を押し進める習近平体制の虎の尾を「踏んでしまった」のである。

遠藤氏によれば、今年5月、中国ではイデオロギー統一強化と言論規制に関する非常に大きな動きがあったそうだ。それが、5月13日に発布された「中弁9号文件」である。

ここで西側の価値観によって「中国の特色ある社会主義的価値観を国内外から汚染させるな」という指示を軸に「七不講(七つの語ってはならないこと)」が決定されたという。

その中には、「西側諸国の憲政民主を宣伝し、中国の特色ある社会主義制度を否定すること」や「改革開放に疑義を抱き、中国の特色ある社会主義の性質に疑義を持つこと」などが入っていた。要するに、共産党体制に反対するような「言論」や「思想」は認めない、ということである。

これに反した朱氏は、故郷・上海に戻った後、身柄を拘束され、徹底的な思想改造を受けているというのである。遠藤氏は、ネットユーザーが「5・9億人」もいるネット空間を「静かに」させるために、「お前たちも“七つの語ってはならないこと(七不講)”に抵触するようなことをすれば拘束されるぞ」と脅すためのものだった、と指摘している。

このレポートをちょうど読んだ当日に、天安門での自動車突入・炎上事件が発生した。言論の自由も、思想の自由も、さらに言えば、人として当然の幸福追求の自由すらない「異様な国家」の有り様がそこから見えてくる。

自分の国である日本を叩き、ひたすら中国共産党の代弁者でありつづける日本の一部の新聞は、果たしてこの言論・思想の自由すら存在しない国をどう擁護していくのだろうか。8500万人の共産党員が13億人民を監視していく中国。逆に見れば、「弾圧」がなければ、すなわち思想や言論の自由が認められれば、そもそも「中国は崩壊」してしまうのである。

つまり、「人権弾圧」こそ中国共産党が生き残る唯一の“道”であることがよくわかる。天安門自動車炎上事件と朱建栄拘束事件の陰に潜むものを、我々は冷静に見ていかなければならない。

ソ連のゴルバチョフのように、自ら共産党独裁に終止符を打つような人物が中国に生まれるはずもなく、「弾圧」と「改革開放」という壮大なジレンマの中、中国は矛盾を抱えて歩んでいくしかないのである。国内の不満を外に逸(そ)らせるために、そんな国によって「日本」や「尖閣」が利用されるのでは、たまったものではない。

カテゴリ: 中国

団塊の世代の「功と罪」

2013.10.25

出張つづきだったが、久しぶりに東京にいる。台風の影響で、東京も朝から雨が降りつづいている。台風が相次いで来襲し、相変わらず日本は異常気象に痛めつけられているようだ。中国の環境汚染をはじめとして、地球規模のオゾン層の破壊などに対して、あらゆるところに自然の怒りと歪みが出ているように思う。

東京を留守にしていたので溜まった新聞や雑誌の記事をチェックしていたら、面白いコラムに出会った。先週の10月20日付の「産経抄」である。

中国で、今は60代となった文化大革命の時の紅衛兵たちが当時の罪を懺悔(ざんげ)する報道が相次いでいることを捉えたものだ。しかし、それらの報道は、中国共産党の改革派系の新聞ばかりで、それらは毛沢東路線への回帰の動きを見せる習近平政権を牽制する狙いがある、というのだ。

産経抄は、さらに日本に話題を転じ、こう書いている。「(紅衛兵世代が)形だけとはいえ謝罪したというのなら、日本にも謝ってほしい人たちがいる。“全共闘”のメンバーもそうである」。

紅衛兵と同じく日本の全共闘のメンバーも謝罪すべきだと、産経抄はこう主張するのだ。「昭和40年代の大学紛争で、キャンパスを封鎖して“一般学生”の勉学の自由を奪い、ゲバ棒を振り回す。“団交”の名で学長や学部長をつるし上げた」。

「彼らも同じ60代を迎えた。“被害者”たちに対しどんな思いを持っているのだろう。こちらも“若気の至り”では済まされないはずだ」。

もっともである。彼(か)の国で同じ世代である元紅衛兵たちが懺悔するなら、団交、団交を繰り返して、勉学に励もうとした多くの学生たちの“学びの場”を奪った日本の全共闘メンバーが「懺悔」してもおかしくない。産経抄らしい、ピリリと辛いコラムである。

日本の全共闘世代とは、団塊の世代と重なる。終戦後のベビーブームで生まれた人たちだ。彼らは、大学生となった時、キャンパスで暴れまわる“全共闘世代”となり、今も、酒が入るとそのことを自慢する人は少なくない。

私は、産経抄をその通りだなあ、と思いながら読んでいると、その上に、作家の曽野綾子さんの人気エッセー「小さな親切 大きなお世話」が載っていた。

その中で、曽野さんは、戦後の大新聞による「言論の弾圧」の時代に触れていた。朝日・毎日・読売などの大新聞が、こぞって「親中国・親北朝鮮」だった頃のことだ。

曽野さんによれば、それらの国に批判的な記事を書くと、個人的な署名原稿でも拒否されて紙面に載らなかったそうだ。その時代はかなり続き、曽野さんは、それを「戦後の大新聞による言論の弾圧であった」と記述している。

私は、今でも一部の新聞には、その時代が続いていることを思いながら、これを読んだ。あの全共闘全盛の時代に青春を謳歌した人々が、中国・北朝鮮シンパから離れられず、その後の中国や北朝鮮を見ても、なかなか“現実を直視できない”ジャーナリズムとして突っ走っている有り様を考えさせられた。

「強制連行」「女子挺身隊」に対する致命的な認識不足と取材不足で始まった従軍慰安婦問題などは、明らかにその延長線上にあるものだ。

私は、つくづく団塊の世代の「功と罪」を考えた。高度経済成長の中、天下泰平の時代を迎え、昭和元禄とも呼ばれる一方で、長引くベトナム戦争に対する反戦運動や、各大学の学費値上げ阻止闘争など、社会全体が混沌とした状態を呈していたあの時代に青年期を過ごした人たちの「功と罪」である。

私は、いまは60代以上となっている彼らのパワーそのものは、素晴らしいと思う。果たして、今の日本の若者にこのパワーがあるのだろうかと、ふと考えてしまうほどのバイタリティを持っていたのは、確かだと思う。そして、この世代はフォークソングをはじめ、感性豊かな文化も創りだした。

だが、罪も大きい。産経抄がはからずも指摘したように、一般学生の勉学の自由を奪い、ゲバ棒を振り回し、“団交”の名で学長や学部長をつるし上げただけでなく、ついには、連続企業爆破事件など、最も大切な人命まで蔑(ないがし)ろにする爆破テロまでおこなう者まで現われた。

私は、団塊の世代の「功と罪」とは、同時に戦後ジャーナリズムの「功と罪」を考えることだと思う。現在もつづく“反日亡国論”への系譜を理解し、日本の社会が抱えるさまざまな問題点を浮き彫りにするためには、この「時代」が、そしてこの「世代」が持っていた“独特のもの”を考察する必要があると思う。私は、産経抄を読みながら、そんなことを考えていた。

カテゴリ: 随感

「学徒出陣70周年」に思う

2013.10.21

今日は、学徒出陣70周年の記念日である。私は、この記念日に福井市で学徒出陣に関して講演をさせてもらった。戦争の主力となった大正生まれの男子1348万人のうち、実に「7人に1人」にあたる200万人が戦死した「あの大戦」から長い歳月が過ぎ去ったことを感じる。

若くして戦争で亡くなっていった先人のことを思うと、私自身も含めて今の日本人が彼らの犠牲に見合うものであるかどうかを、どうしても自問自答してしまう。今日の講演でも、当時の学徒、若者の思いを中心に話をさせてもらったが、聴いてくれた人もそのことを一緒に考えてくれたように思う。

途中から、涙を流しながら聴いてくれる方もいて、話に力が入った。昭和18年10月21日、すなわち70年前の今日、雨の中、神宮外苑競技場を行進した出陣学徒たちに、私はこれまでどのくらい話をお聞きしただろうか。

文科系学生の徴兵猶予がなくなったこの「学徒動員」は、日本にとって大きな節目であったことは間違いない。高等教育を受けていた学徒まで戦場に送り出さなければならない意味は、言うまでもなく、いかに国家が危急存亡の事態に追い込まれていたかを表わしている。

当時、20歳が来れば、男子は徴兵検査を受け、現役兵となって鍛えに鍛えられ、軍務につかなければならなかった。しかし、学徒にはそれが「猶予」されていた。しかし、昭和18年の「今日」から、それが許されなくなった(徴兵猶予の撤廃)のである。

国がそこまで追い詰められれば、大学生をはじめ、多くの学徒が戦場に向かわざるを得なかったのも頷ける。彼らが学問を諦め、どんな思いで戦場に向かったかは、あまりにエピソードが多過ぎて、簡単には書くことはできない。

当時22歳で神宮外苑競技場を行進した人は、今は92歳である。私にさまざまなことを教えてくれた方々も、ここ数年、鬼籍に入られた方が多い。

私は、戦争ノンフィクションをこれまで6冊書かせてもらっているが、今度、7冊目を書くつもりでいる。その取材で、つい先月、お会いして2日間にわたって貴重な証言を伺った方が、ちょうど学徒出陣70周年の本日、亡くなられた。

3日前にその方から「門田さんにまだまだ話したいことがある」という震えるような字でお手紙を頂戴したばかりだった。この方は、昭和19年8月、輸送船がバシー海峡で魚雷攻撃により沈没し、12日間も漂流した末、奇跡的な生還を遂げた方だった。2日間の取材でも、「まだ伝えきれなかったこと」とは、何だったのだろうか。

私は、今日の福井での講演でも、当時の青年たちは、現代の若者と「なんら変わらないこと」を話をさせてもらった。彼らには恋人もいたし、髪も伸ばし、学徒出陣で行進する前日まで、「俺は青春を謳歌していた」という人は少なくなかった。

では、今の若者と彼らはどこが違うのだろうか。私は、彼らがほんの少しだけ、現代の若者より「家族」を守り、「故郷」を守り、「祖国」を守る、という意識と使命感が強かったと思う。

そして、日本人の特性でもある「恥を知る」という意識も今の人より強かったと思う。アメリカの女性人類学者、ルース・ベネディクトが著書『菊と刀』で指摘した「恥の文化」を持つ人が、大正生まれの若者には、私たちの世代より多かったのではないか、と思う。

そんな出陣学徒たちのことを「70周年」を記念して、話をさせてもらった。毅然と生きた先人たちの姿を私たちは忘れてはならないし、軽んじてはならないと思う。大正生まれの人たちの生きざまを振り返ることこそ、まず私たちが最初におこなわなければならないことではないだろうか。講演をしながら、私はつくづくそう思った。

カテゴリ: 歴史

中国共産党の“壮大なる滑稽譚”

2013.10.14

昨日のNHK「激動中国」はおもしろかった。拝金主義に喘ぐ現代中国で、道徳を見直そうという動きがブームとなり、無神論で通してきた中国共産党がキリスト教をはじめ宗教を容認する方針に転換している有り様をレポートしたものだ。

道徳と言えば、儒教の孔子である。今、中国では空前の孔子ブームが起こっているのだそうだ。あの文化大革命の時代に「非林非孔運動」で徹底的に弾圧されたものでありながら、それが“完全復活”を遂げつつあるという。

毛沢東にとっては、人としての生き方も含め、すべては自分の思い通りであり、歴史上の思想家や偉人に、あれこれ左右される覚えはない。すべてを決める“赤い皇帝”毛沢東が、政敵・林彪(りんぴょう)と共に2500年前に生きた孔子を槍玉に挙げたのは、必然だったのかもしれない。

しかし、資本主義国以上に貧富の差が開く現在の中国で、儒教が「見直されている」というのだから、あれだけ孔子を徹底的に破壊した中国共産党の方針とは、もはや“ユーモラス”というほかあるまい。

かつての大地主と小作人以上に広がった貧富の差は、本来なら中国共産党の存在意義を問うものだろう。なぜなら、貧困に喘ぐ農民たちの支持を背景に激烈な階級闘争をおこなって政権を奪取した中国共産党が、それまで以上に貧富の差を広げ、人民の怒りが爆発寸前とみるや、今度は、「目上の者を敬いなさい」「秩序を重んじなさい」と、儒教を容認し、指導の材料にしはじめたのだ。

社会の「歪み」が、いくら新たな階級闘争が必要なほど大きくなっても、秩序と伝統、そして目上の者を敬うという孔子の教えが再び脚光を浴びれば、たとえ中国共産党の失策があっても、人民に「辛抱してもらえる」という考えに違いない。

番組に登場した宗教指導者がNHKのカメラに向かってこう言うシーンがあった。「中国から消えてしまったもの――それは“倫理観”であり、“親孝行”であり、“目上のものへの尊敬”である。今のままの中国では、どんな悪いことが起きても不思議ではない。完全なる“私利私欲社会”。これが現在の中国の姿です」

まさにその通りである。また、別の宗教リーダーが「中国人はお金を“信仰”するようになってしまった」と嘆くシーンも番組には出てくる。私は、これこそ壮大な滑稽譚だ、と思った。

資本家階級を打倒し、農民や労働者中心の共産革命を成し遂げた中国が、本来の資本主義国も真っ青になるくらいの“赤い資本主義”を押し進め、ついには、わずか「5%の人間が全体の90%の富を独占する」という究極の格差社会を生み出したのだ。

その上で、手のひらを返したように「モラルを重視しよう」「親や目上の者を敬おう」と、盛んに喧伝(けんでん)し、かつて破壊した「孔子=儒教」まで持ち上げ始めたのである。

モラルと秩序を重んじる儒教や、博愛を説く宗教などが、今の中国共産党にとって、「最もありがたい」というのは、これほどの歴史の皮肉があるだろうか。

階級もなく、貧富の差もない究極の平等社会の実現を目指すはずの中国共産党が、その理想に向かって遮二無二走るのではなく、儒教や宗教に対して「助けを求めている」とは、まさに「壮大な滑稽譚」と言う以外、どんな表現があるだろうか。NHKスペシャル「激動中国」を観ながら、私は昨夜、そんなことを考えていた。

カテゴリ: 中国

高齢化社会と福島への“Iターン”

2013.10.12

東京を離れ、福島県の浜通りで取材を続けている。昨日は、毎月11日の月命日におこなわれる福島県警による津波の行方不明者の捜索があった。

大震災から2年7か月経ったが、福島の浜通りでは、現在も207人が行方不明のままになっている。浪江町や双葉町では、いまも放射能による「避難指示」が解除されておらず、この月命日の捜索が遺体発見への一縷(いちる)の望みとなっている。

昨日、私は南相馬市内の仮設住宅に、ある人物を訪ねた。私自身の大震災の取材もすでに2年以上になったことを思うと、時の流れの速さを感じる。昨日の仮設住宅でも、住んでいる方はお年寄りが多く、浜通りはもちろんだが、全国のさまざまな地域が抱える高齢化問題が凝縮されているように思えた。

今朝もTBSの「サタデー ずばッと」で、前回のブログで触れた徘徊老人の列車事故で管理責任を問われた家族に720万円という賠償請求「全額」が認められた裁判と高齢化問題が取り上げられていた。

厚生労働省の「人口動態統計」によれば、今年、65歳以上人口が25.1%で「4人に1人」が高齢者となったそうだ。50年後には39・9%、すなわち「2・5人に1人」が高齢者となり、生産人口は50・9%と人口の半分に過ぎなくなるという。

しかし、ここ浜通りに限らず、地方ではとっくに高齢者人口が「2・5人に1人」を超えているような気がする。少なくとも昨日、私が訪ねた仮設住宅では、「2人に1人」は、高齢者ではないだろうか。

私の生まれ故郷の高知は、福島よりも高齢者人口の比率が高い。65歳以上の人口が全体に占める割合のランキングは全国3位で、福島県は22位だ。笑い話のようだが、80歳以上の人口が多い高知では、「老人会に“青年部”」があり、70歳前後は、「まだまだ“若者”」と言われる。

来たるべき超高齢化社会を考えると、「高齢化」と「幸せ度」がリンクしない限り、日本の社会の活性化はないような気がする。いま、ちょうど団塊の世代が65歳以上になってきているが、この層がどう動くかが、日本の将来を占うことになるのではないだろうか。

“Iターン”という言葉がある。もともと田舎で生まれ、都会で過ごしていた人間が自分の故郷に帰ることは“Uターン”というが、Iターンとは、都会で生まれ育った人間が田舎に行って生活するようになることを指す。

また、Jターンというのもある。これは、生まれ故郷そのものへ帰ることはできないが、生活の便利さ等を考えて、その近くの町まで帰ることだ。「J」という文字は、完全に故郷へ帰る「U」という文字の途中の形をしているということから名づけられたらしい。

Iターン、Uターン、Jターンと言葉は異なるが、老人会に入れば“青年部”になるような層をいかに「都会から田舎に」移動させることができるかがこれからの日本の鍵を握っているのである。直近では、すなわち「団塊の世代」の動向がポイントということだ。

私は南相馬に来る時、いつもホテルの確保に苦労する。除染をはじめ、さまざまな仕事に来ている人で、宿はいつも満室なのだ。日本中が復興を望む福島の浜通りには、巨額の復興資金が投入されているし、65歳以上の人々の力を借りたい分野がいくらでもある。

高齢者ばかりが目立つ仮設住宅をまわりながら、福島の浜通りに団塊の世代が数多く移住して来たら、復興がどのくらい進むだろうかと、どうしても考えてしまう。仕事をリタイアした人たちには、福島の浜通りは「あなたたちを待っている」ということを是非、お伝えしたい。

カテゴリ: 随感

裁判官は「日本」を滅ぼす

2013.09.30

今日の産経新聞の「産経抄」に、認知症の91歳の男性が線路内に入って電車に轢かれて死んだ事故の判決のことが載っていた。JR東海が、列車の遅延に対する損害賠償720万円を要求し、名古屋地裁は、その「全額の支払いを命じた」という件である。

老人は、認知症で徘徊し、家族で介護していた。産経抄は、「事故は、妻がまどろんでいる間に、男性が家を出て起きた。認知症の人を24時間監視するのは不可能だ。そんな実態を無視して、“監督責任”を認めた判決は、遺族だけでなく、介護に関わる多くの人に衝撃を与えている」と書いている。

これは、日本の官僚裁判官の典型的な病理が表われているものなので、興味深い。日本の裁判官が、裁判で重視するのは「要件事実」だけである。「事情」には踏み込まない。それが鉄則だ。なぜなら、いちいち「事情」に踏み込んでいったら、一人の裁判官が200件、300件、あるいはそれ以上抱えている案件が「処理できない」からである。

そこで、判決に組み込んでいかなければならない「要件事実」だけが判断のポイントになる。ここでは、老人が「線路に侵入」し、「列車事故が生じ」、JR東海に「総額720万円の損害」が生まれ、JR東海がその損害賠償を「請求した」ということが確定すれば、それでいいのである。

裁判官は、司法修習時代から延々とこの「要件事実」を抽出するための教育を受けている。それは「訓練」と言い換えた方がいいかもしれない。判決に必要な「要件事実」だけを抽出させるこの教育(訓練)は、法曹関係者の間では「要件事実教育」と呼ばれている。

彼らにとっては、老妻が徘徊老人を24時間介護しているなどという「事情」はまったく関係がない。JR東海による損害請求の「全額」と「介護者の監督責任」をすべて認める判決が出る理由は、そこにある。

日本の官僚裁判官が、とんでもない判決を出してしまうのは、この「事情」というものが排除され、「要件事実」だけで判断しているからにほかならない。

今日、私はその日本の官僚裁判官から凄まじい判決を受けた。「書籍廃棄判決」である。私は、新潮社から10年前に『裁判官が日本を滅ぼす』を上梓しているので、この「要件事実教育」によってもたらされた日本の官僚裁判官の悪弊と、裁判のおかしさを、かねて指摘してきている。

それだけに驚くべきことではないことかもしれない。だが、私は今日の判決を受けて、当事者としてはもちろんだが、むしろ納税者の一人として絶望感を抱いている。国民の一人として、日本の官僚裁判官のレベルに、ただ溜息が出てくるのである。

私は日航機墜落事故から25年が経った2010年夏、『風にそよぐ墓標 父と息子の日航機墜落事故』(集英社)というノンフィクションを上梓した。これは、1985年8月に起こった日航機墜落事故の6遺族の「その後の四半世紀」を追った作品である。

この本は、それぞれのご家族を取り上げた全6章から成るものだ。初めて「父と息子」にスポットをあてたもので、あの悲劇を乗り越えた家族の感動の物語としてノンフィクションで描かせてもらった。

本書に登場する6家族の方々に、直接、私自身が取材に伺い、絶望から這い上がってきた四半世紀に及ぶ「勇気」と「感動」の物語をお聞きし、すべてを実名で描かせてもらったのである。ご本人たちの了解を得て、取材させてもらい、日記や手記があるならそれを提供してもらい、「事実」と異ならないように気をつけて原稿を書かせていただいた。

しかし、私は、この作品の第3章に登場するご遺族、池田知加恵さんという80歳になる女性から「門田は自分の作品である『雪解けの尾根』(ほおずき書籍)の著作権を侵害した」と訴えられた。

経過はこれまでのブログでも詳しく書いてあるが、池田知加恵さんは、日航機墜落事故で亡くなったご主人を持つ未亡人である。私は、「父と息子」をテーマにしていたため、あらかじめこの知加恵さんのご子息に10時間近い取材をさせてもらっている。そして、その上で、母親である知加恵さんご本人にも別の日に3時間半にわたって取材をさせていただいた。

その取材の折、知加恵さんは17年前に出したという事故の時の自身の体験をまとめた当該の『雪解けの尾根』という手記本をわざわざ「門田隆将様 感謝をこめて 池田知加恵」とサインして私に提供してくれた。

この時、事故から25年も経過しており、ご高齢だったこともあり、ご本人が「私にとっては、この本を書いた時が“記憶の期限”でした」と仰られたので、私の取材は、提供されたこの本に添ってご本人に「事実確認」をする形でおこなわれた。

ご高齢の方への取材というのは、こういう方法は珍しいものではない。戦争関連をはじめ、多くのノンフィクション作品を私は出しているが、たとえば太平洋戦争の最前線で戦った元兵士に取材する際は、自分が若い時に戦友会誌などに書いた回想録を提供され、それをもとに「記憶を喚起」してもらいながら取材させていただくことが多い。

より正確に事実を書いて欲しい、というのは誰にも共通のものであり、私は池田知加恵さんにも長時間にわたって、この本に基づいて記憶を喚起してもらいながら、取材をさせていただいた。

記憶が戻ってきた知加恵さんは、「このことは本に書いてなかったかしら?」「そうそう、それ書いているでしょ」と途中で何度も仰り、そのたびに本の中の当該の箇所を探すことが度々あった。

私はノンフィクション作家であり、いうまでもなく作品はすべてノンフィクションである。つまり、私の作品には、フィクション(虚構)がない。記述は「事実」に基づいており、そのため、取材が「すべて」である。

つまり、ノンフィクション作品とは、作家が想像によって「創作」することは許されない。小説との決定的な違いがそこにある。つまり、ノンフィクションはその性格上、「本人証言」と「日記・手記の発掘」が極めて重要なのである。

取材の際、知加恵さんは著書だけでなく、事故に関連してご自身が登場したニュースやワイドショーを録画したDVDを提供してくれたり、取材後も自分の発言の訂正部分を手紙で書いて寄越してくれたり、積極的に取材にご協力をいただいた。

私は、ご自宅をお暇(いとま)する時も、「大変ありがとうございました。今日の取材と、このご本に添って、事実を間違えないようにきちんと書かせてもらいます」と約束し、その言葉通り、事実関係に間違いのないように原稿を書かせてもらった。そして、巻末には、「参考文献」として『雪解けの尾根』を明記したのである。

私が書いたのは、彼女がどう行動し、どう思ったのか、という「事実」だけである。つまり、私は「本人に直接会って」、「手記本を提供され」、記憶が曖昧になっていた本人に「記憶を喚起してもらいながら、その手記本をもとに事実確認取材をおこない」、これを記述したのである。

もちろん、手記本と同一の文章はひとつもなく、忠実に「事実」だけを描写させてもらった。事実がひとつしかない以上、突き詰めて取材すれば、「事実」が当事者の手記と似ているのは当然だ。いや、似ていなければ、それはノンフィクションではなく、小説になってしまう。

しかし、『風にそよぐ墓標』を発刊後、知加恵さんは「著作権侵害だ」と訴えてきたのである。私は、およそ30年にわたって記事や本を書く仕事をしているが、このようなことは無論、初めてである。

取材相手には、さまざまな方がおられるので、これもノンフィクションライターとしての宿命には違いない。この訴訟が起こされる4か月も前に、まだ当事者以外、誰も知らない時点で朝日新聞が社会面を5段も使って「日航機事故遺族、作家提訴の構え」と大々的に報じたのも、不思議だった。

以来、私はノンフィクション作品の取材と執筆に忙殺される中で、この訴訟とつきあってきた。私は取材時の録音テープやノートなども証拠として提出し、取材の時のようすを含め、すべてを法廷で立証した。

しかし、そこで私は「要件事実教育」を受けた官僚裁判官の実態にあらためて驚かされた。前述の通り、日本の裁判では、「事情」には踏み込まない。裁判官には、「小説とノンフィクションとの違い」や、「取材時のやりとり」、あるいは、本人が「手記本を提供した時のようす」……等々、そんな「事情」は関係がないのである。

今日、私は3月の一審につづいて、二審で、著作権侵害額として「2万5200円」、慰謝料を「50万円」、弁護士費用「5万2520円」という計「57万7720円」の支払いと書籍の「廃棄」を命じられた。

つまり、日本の著作権裁判では、著作権侵害で訴える人がいて、ふたつの書籍の記述の一部が「類似」しているという「要件事実」がそこにあれば、それでいいのである。

この判決に従えば、私は取材の時に「利用してはいけないもの」をご本人から提供され、それをもとにご本人に対して「書いてはいけない事実」を3時間半にわたって「確認取材」しつづけていたことになる。

私は溜息だけが出る。日本のノンフィクションはこれからどうなるのだろうか。この判決によって、今後、先行する「当事者の記述」が存在する場合、ノンフィクションは、どう「事実」を描写するのだろうか。

「わざと間違えて書く」か、あるいは、それを参考にすることに対して取材時に「契約書を交わす」ことが求められるようになるのだろうか。フィクション(虚構)のない世界を描く「ノンフィクション」は、今後、どうなっていくのだろうか。

いずれにしても、ノンフィクションの息づく範囲は極めて狭くなったと言わざるを得ない。「表現の自由」を脅かすこの判決が、「要件事実教育」がもたらす弊害であることは前述の通りだ。

判断をする時に問題の「本質」や「事情」に目を向けることができない官僚裁判官に、国民はいつまで「法廷の支配」を任せるつもりだろうか。私は、ふと、そう思った。日本は、官僚裁判官によって、やがて滅ぼされる。私は10年前に上梓した私自身の本の題名を今、あらためて思い起こしている。

カテゴリ: 池田家との訴訟

ある台湾の老人の死

2013.09.23

一昨日、台湾で一人の老人が亡くなられた。台湾苗栗県在住の劉維添(りゅう・いてん)さん91歳である。劉さんは、拙著『太平洋戦争 最後の証言』の第二部「陸軍玉砕編」の第6章「20万人戦死“ルソン島”の殺戮現場」に登場いただいた方である。

昭和20年2月、フィリピンの首都・マニラに突入してきた米軍を日本の海軍陸戦隊を中心とする「マニラ海軍防衛隊(通称・マ海防)」が迎え撃った。その時、台湾からマニラの治安維持のために入っていた海軍巡査隊の一員だった劉さんたちも戦いに参加した。

劉さんたちの隊長は、日本人の廣枝音右衛門(ひろえだ・おとえもん)警部である。いよいよ部隊が全滅の危機に瀕した2月23日、自決を決意した廣枝隊長は、劉さんたち台湾青年に、こう命令した。

「いいか、お前たちは生きろ。お前たちは台湾人だ。故郷にはお前たちの帰りを待っているお父さんやお母さん、家族がいる。俺は日本人だ。俺だけが責任をとればいい。どんなことをしても、お前たちは絶対に生きて台湾に帰るんだ」

そう命令すると、廣枝隊長は台湾青年に形見の軍刀を渡し、拳銃で自決を遂げた。享年40だった。「どんなことをしても生きて台湾に帰れ」という廣枝隊長の命令によって、劉さんたちはその日の夕刻、米軍に投降する。

生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず――というのは、マニラ海軍防衛隊でも厳しく実践されていて、台湾からの巡査隊といえども同じだ。しかし、次々と自決する人間が増えていく中、廣枝隊長の命令を受けていた劉さんたち台湾の巡査隊は自決を思いとどまり、辛うじて故郷・台湾に帰ることができたのである。

太平洋戦争の日米両軍の激突で最も戦死者が出たのは、言うまでもなくフィリピン(比島)での戦いである。日本軍はルソン島やレイテ島など激戦地を中心に、陸海あわせて実に49万8000人もの戦死者を出している。

比島の敗北によって完全に制空権、制海権を失った日本は、石油をはじめとする南方の資源が届かなくなり、戦略上でも、完全に敗戦が決定づけられるのである。

劉さんたちは、戦後、国民党統治下の台湾で、つまり、外省人(がいしょうじん)による厳しい弾圧の中で、秘かに日本人である廣枝隊長の大きな位牌をつくり、供養を続けてきた。やがてそれは慰霊祭に発展し、苗栗県にある獅頭山(しとうざん)という霊山で、今も続けられているのである。

毎年、9月21日には、獅頭山「権化堂」で廣枝隊長の慰霊祭がおこなわれる。しかし、昨年、90歳となった劉さんは、慰霊祭当日に軽い心臓発作を起こして初めて欠席した。そして今年は、慰霊祭当日の未明についに亡くなられたのである。

私は台湾在住のジャーナリスト片倉佳史さんと、劉さんから慰霊祭の実行を引き継いでいる台北在住の日本人実業家・渡邊崇之さんから相次いで劉さんの訃報を伝えられた。

日本語が堪能で、話す時にいつも笑顔を忘れなかった柔和な劉老人の顔を私は思い浮かべた。そして、劉さんが縷々(るる)語ってくれた廣枝隊長の姿を思い出した。

劉さんが語る廣枝隊長は、実に生き生きとしていた。部下の台湾青年を可愛がり、いつも彼らの「命」を最優先する命令を出した。ぎりぎりの戦いの中で心が揺さぶられる行動と言葉を遺したのが、廣枝隊長だった。

私の前に、劉さんはその廣枝隊長の姿を鮮やかに描き出してくれた。だが、その劉さんが亡くなったことで、ついに廣枝隊長を直接、知る人はこの世から「いなくなってしまった」のである。

時間の経過と共に「真実」は歴史の霧の彼方に消えていく。ノンフィクションの世界にいる私は、そのことで時に無力感に襲われることがある。

私は、今日の昼、静岡護国神社での陸軍・独立歩兵第13聯隊の慰霊祭に参加していた。昭和19年8月にマニラを目指して東シナ海を航行中、台湾とフィリピンの間の“魔のバシー海峡”で聯隊の大半を輸送船ごと失った悲劇の部隊である。

今日の慰霊祭の後、私は、その悲劇の聯隊で漂流の末、“奇跡の生還”を遂げた92歳の老人へのインタビューを長時間にわたってさせてもらった。やはり、それは長い時間がもたらす“風化”に抗(あらが)うかのような貴重な証言の連続だった。一語一語、聞き落とさないように私は長時間、メモをとった。

劉さんが亡くなり、ひとつの歴史が消えた。だが、まだ書き残せる歴史もある。明日以降も貴重な証言をとる作業はつづく。それは、「時間」と「根気」との闘いでもある。誰かがやらなければならないものなら、私も少しでもその作業のお手伝いをしたい。

カテゴリ: 歴史

中国に迫る危機と“九一八事変”

2013.09.18

講演で奈良に来ている。久しぶりに興福寺のある奈良公園で鹿と出会った。以前より少し頭数が減ったようにも思えたが、実数は1300頭もおり、むしろ増え気味だそうだ。時間の流れが止まったかのような古都・奈良の風情は、秋となった柔らかい陽射しと相俟って、締切で疲れきった身体を癒(いや)してくれる気がする。

今日は、9月18日である。中国では、この日は1915(大正4)年に、日本からの「対華21箇条要求」を承認した5月9日と並ぶ「国恥記念日」として知られる。

満洲事変(柳条湖事件)が起こったのは、中国では、忌むべきこの「九一八事変」の日なのである。1980年代に中国へ毎年のように行っていた私は、日本人に対して好意的で寛容だったあの頃の中国人でも、この日には「国恥」という意識が呼び起こされることから、行動に「注意する」ことを忘れなかったことを思い出す。

尖閣の国有化があり、各地でデモがあった昨年の9月18日は、私は「歴史的な日」だったように思う。それは、かつて日本の満洲のみならず中国(当時は支那)への「進出」を象徴するこの日が、逆に中国からの日本の「撤退」を決定づける象徴的な日になった、という意味である。

いま日本企業の“中国離れ”が顕著になっている。経済成長によって中国人の人件費が上昇し、中国が世界の生産工場だった時代は終わりつつある。だが、日本が中国からの撤退を加速させているのは、経済的な理由より、政治的なリスクの方が大きい。

江沢民時代から始まった苛烈な中国共産党による反日教育・反日戦略は、30歳半ばから下の“若き中国人”を完全に「日本を憎悪する人間」にしてしまった。前述のように、私が頻繁に中国を訪れていた頃の「日本人に対して好意的で寛容だった中国人」は少なくなってしまった。

昨年の凄まじい反日デモの有り様は、その日本への憎悪が、もはやどうしようもないレベルに達していることを日本国民に知らしめてくれたと言える。

日本企業や日本料理店を破壊し、狼藉(ろうぜき)のかぎりを尽くしても、反省どころか「原因は日本側にある」と言ってのけた中国政府スポークスマンの態度に、日本人の多くは溜息を吐(つ)き、そして完全に心が離れてしまったのである。

それは、日本企業の中国離れという形になって明確に現われた。アメリカのウォール・ストリート・ジャーナルによれば、2013年上半期の日本の対東南アジア投資額は前年同期比で55%も増え、102億9000万ドル(約1兆200億円)までになったそうだ。

この数字は日本貿易振興機構(ジェトロ)によるもので、一方で対中投資額は31%減って、49億3000万ドルになったという。これまで中国への進出に余念がなかった日本企業が、タイやベトナム、インドネシア、カンボジア、バングラデッシュ、ミャンマーなど、東南アジアに完全にシフトしているのだそうだ。それにしても、「31%減」というのは凄まじい数字だと思う。

中国でレストランを経営していた友人がつい先日、私の事務所を訪れ、「中国は、進出するのは簡単だが、撤退する時は難しいんだよ」と話してくれたことを思い出す。

友人によれば、日本企業が中国から撤退する時、当局はさまざまな嫌がらせをしてくるという。例えば、店仕舞いする、すなわち法人を閉めて国外に出るためには、さまざまな「許可」が必要になる。

店舗(法人)のあった市の政府に対して、資金の持ち出しを含め、すべてに許可を得なければならないのだ。だが、その許可が簡単に下りることは皆無だそうだ。直接かけあっても「いま検討中」と言うばかりで、一向にコトは進まないのである。難癖をつけられ、日本法人はその対応に四苦八苦するのである。

「日本法人に対しては、特にそれがあからさまなんだ」と、友人は嘆いていた。そのため、ついに諦めて、資金をそのまま中国国内に置いておく事例が多いのだそうだ。

進出する時は歓迎してくれるが、去る時は一転、嫌がらせをされるというのは、いかにも中国らしい。基本的に、中国とは、国内にある資金が国外に持ち出されることを異常に嫌がる国であり、中国に進出する企業はそのことを肝に銘じておくべきだろう。

中国が「日本企業に背を向けられ始めた」といっても、まだまだ余裕があるかのように見える。しかし、私は、ことはもっと深刻で、中国は生き残りへの“試練の道”に入ったと思っている。

理由はTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)である。かつて、日本がアメリカに非関税障壁を突きつけられ、さまざまな分野で「葛藤」と「譲歩」、あるいは時に「死闘」が繰り広げられたことは周知の通りである。

正確には、それは現在も続いているが、この非関税障壁という点で言えば、中国は日本の比ではない。忘れがちだが、中国の“赤い資本主義”とは、「市場統制」こそ本質である。先に述べた「撤退する時の苦労」も、そこに起因する。

もし、TPPに中国が参加すれば、その本質である「市場統制」を徹底的に改めていかなければならない。つまり、中国共産党の根幹が揺るがされるのである。もし、統制と規制を緩和しなければならなくなったら、それは一党独裁体制による“赤い資本主義”の終焉をもたらす危険性も孕(はら)んでいるわけである。

そのため、中国がTPPに参加する可能性は極めて低い。そこで、中国は、各国と個別に「自由貿易協定」を結ぶ道を模索しているのである。しかし、覇権主義を剥き出しにする中国との自由貿易協定に二の足を踏む国は多い。決して、中国の思惑通りには進みそうもない。

私が、中国が生き残りへの“試練の道”に入ったと思う理由はそこだ。TPP包囲網に焦る中国が、日本への関係改善のラブコールを送ってくる日は、意外に「近い」だろう。

だが、そんな一時的なラブコールに応じる必要は全くない。将来を見据えて中国とは距離をとり、決して日中首脳会談の実現をはじめ、その手のアプローチに「乗らない」ことが肝要だ。

私は、日本と中国は“我慢比べ”の時代に入ったと思っている。南シナ海で中国と緊張状態にあるフィリピンも、アメリカだけでなく、これまで以上に日本への期待を募らせている。安倍首相には、焦っているのは中国であることを念頭に、「譲歩」や「妥協」ではなく、粘り強く、毅然とした外交姿勢を「堅持」するよう、是非お願いしたい。

カテゴリ: 中国

「震災から2年半」それでも取り残された町

2013.09.11

大震災から2年半が経過した今日、福島県の南相馬にいる。あの大震災の時に津波と放射能汚染の両方の苦しみを受けた町である。1万8000人を超える死者と行方不明者を出した大震災で、南相馬市は1000人以上の死者・行方不明者を出している。

来るはずがない市街地の近くまで津波が押し寄せ、老人介護施設では、36人もの津波による死者が出るなど、市内のあちこちで多くの悲劇が起こった。今も数多くの避難者がおり、同時に双葉町や浪江町、大熊町などからの避難者が市内の仮設住宅で暮らしている。

私は、18メートルの巨大津波が軽々と乗り越えた堤防と、それになぎ倒された巨大送電線を見た。津波によって粉砕された遮蔽壁や堤防を目の当たりにすると、コンクリートなど、大津波の圧力には「ひとたまりもなかった」ことを改めて感じた。

「ここの集落も消えました」「ここもなくなりました」。タクシーの運転手が、「ここには、同僚の家があったのですが、同僚も家族も死にました」と哀しげに教えてくれた。

一面、草ぼうぼうの平原と化した地は、なんの解説も不要なほどの圧倒的な力を持っている。津波のあと襲って来た放射能汚染によって、緊急物資も届かず、市長がYouTubeを通じて世界に窮状を訴えた話はあまりにも有名だ。

大震災に遭った東北三県で今も避難生活を続けているのは、およそ29万人に達するのだそうだ。本日、南相馬市内で訪れた仮設住宅は、昼間というのに、外に出てくる人もほとんどなく、「時」が止まったかのように、ひっそりと静まり返っていた。

「除染をしても、何か月か経つと、元と同じ数値に戻ってしまうんですよ」「若い人は新しく家を建てるならローンも組めますが、年寄りには無理。いまの生活から抜け出すことは、とてもできません」

そんな話を今日、町のあちこちで聞いた。南相馬は、いまだに仙台からの常磐線も途中で不通になっており、バスの代行運転で凌いでいる。また、いわきとの間も放射能汚染によって、「原ノ町駅」から「広野駅」までが開通していない。

主な交通路線は、福島からの1日わずか「4便」のバスである。それでも、福島から1時間40分はかかるという“陸の孤島”である。

しかし、そんな中でも、さまざまな業界で闘いがつづいている。私は、歴史上、類例のない大地震によって、予期せぬ闘いを余儀なくされた福島の人々の姿を描くために、昨日は福島市、今日は南相馬市で時間の許すかぎり取材をさせてもらった。

前著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』では、もっぱら福島県のいわき市を基点にして取材をおこなったが、今度は福島市、あるいは、県の北東部にある、ここ南相馬市を中心とする取材になりそうだ。

前回の原発ノンフィクションでは、浜通りの地元の工業高校を出たプラント・エンジニアたちが故・吉田昌郎所長のもとで何度も原子炉建屋の中に突入する姿……等々を描かせてもらった。今度は、浜通りで未曾有の放射能汚染の中で戦った、まったく異なる“業界”の人々が主役になる。

2020年の東京五輪開催が決定し、喜びの声が日本中に溢れている。しかし、ここ南相馬では、そんな世の中とはまったく無縁の空気が支配している。ある人は今日、「自分たちが置き去りにされるのではないか、と心配です」と正直な気持ちを私に吐露してくれた。

あの大震災から今もつづく闘いに、のたうちまわりながら、それでも前進をやめない人々の勇気ある姿を私は描きたいと思っている。あの日から2年半が経過したが、私自身が大震災と距離がとれる日は、まだまだ先であることを感じた1日だった。

カテゴリ: 地震

東京を勝たせたのは「復興への祈り」だった

2013.09.08

「ああ、結局、大震災が東京を勝たせてくれたなあ」――私は、「東京決定」が決まった瞬間、そう思った。逆境は人を育てるというが、あの東日本大震災という日本にとって大変な試練こそが、IOC委員に「東京」への1票1票を入れさせた最大の理由になったのだと感じた。

土壇場で福島第一原発の汚染水問題などが現地で大報道され、2日前には、韓国が、「海のない」群馬県を含む8県の「水産物の輸入を禁止する」という露骨な「反東京招致」キャンペーンをおこなったにもかかわらず、日本は圧倒的な勝利を収めた。

この汚染水問題だけでなく、4月にあった猪瀬都知事のイスタンブールに対する失言など、まさに山あり谷ありの中での勝利だった。だが、最後はやはり、あの「大震災」こそが、東京勝利の最も大きな要因になったのだと思う。

私が東京のプレゼンテーションで印象深かったのは、冒頭で挨拶された高円宮妃久子さまの大震災の被災地へのIOCによる支援への感謝の言葉と、それにつづくパラリンピアン佐藤真海さんの「私がここにいるのは、スポーツによって救われたからです」「津波が私の故郷の町を襲いました」というスピーチだった。

そして、滝川クリステルさんがフランス語でおこなった「おもてなし」という言葉の説明と、両手を合わせて拝む姿は、大きなインパクトをIOC委員に与えたと思う。招致委員会の竹田恒和委員長とフェンシングの太田雄貴氏の気迫のスピーチも素晴らしかった。

この時点で、財政赤字のマドリード(スペイン)と反政府運動の懸念を抱えたイスタンブール(トルコ)を「大きく引き離した」ことは間違いないだろう。汚染水問題を糾弾されていた東京は、国のトップである安倍首相が、自らその懸念を払拭するスピーチと質疑をこなして、勝利を「決定的にした」のである。

あの1964(昭和39)年の東京オリンピックで忘れられないシーンが私には3つある。1つは、当時、徳島市に住んでいた6歳の私の目の前を白煙を上げながら聖火ランナーが走っていったことだ。

聖火ランナーは全国の津々浦々を走ったが、私の眼の前の国道11号線も走っていった。そして、その聖火ランナーに“ご近所”が総出で繰り出し、手が痛くなるほど叩いて皆が声援を送ったのである。

2つ目は、その聖火の最後のランナーが、開会式で国立競技場スタンドの一番上に立つ聖火台への長い長い階段を上がっていった時のことだ。自分の眼の前を走った聖火が、最後にあれほどの長さの階段を登らなければならないことに私は言葉を失った。胸が苦しくなって、そのランナーに「頑張れ」「倒れるな」と必死に祈りながら、それを見守ったことを思い出す。

3つ目は、閉会式の時の感動である。開会式で整然と行進した各国の選手たちが、閉会式では一転、みんなが肩を組んだり、手を握り合って、一緒になって行進を始めたのだ。

「ここには、国境も、肌の色も、何もありません!」とアナウンサーが叫び、テレビの前に座っている6歳の私も、その画面を見ながら、感動に満たされた。

あれをきっかけに、日本の経済は“爆発”し、20世紀の奇跡と言われる高度経済成長を成し遂げていく。いま考えてもすごいオリンピックであり、経済効果だった。

前回の東京五輪は、「戦争」と「復興」が決定の最大の要因だったのではないかと思う。連合国と戦った枢軸国の日・独・伊の3国は、ローマ五輪(1960年)、東京五輪(1964年)、ミュンヘン五輪(1972年)で次々と五輪の開催地となっていった。オリンピックの決定には、世界の“優しさ”が込められていたのである。私は、今回は「大震災」と「復興への祈り」がIOC委員の投票行動を決めたと思う。

果たして、今回の東京五輪はどうなるのだろうか。前回のブログでも書いたように東京は、大地震の懸念を抱えている。そして、隣国には、日本への憎悪を剥き出しにする中国と韓国という国も存在し、今後もいろいろな嫌がらせが予想される。

1988年のソウル五輪を阻止するためにさまざまなテロをおこなった北朝鮮の問題もある。また、酷暑の「夏の東京」でのマラソンなど、選手の健康上の心配点もある。

しかし、オールジャパンで英知を結集し、さまざまな問題を乗り越えて欲しいと思う。長くつづく経済低迷とデフレからの脱却、そして震災からの復興――東京五輪をきっかけに、かつてのパワーを日本が是非、取り戻して欲しいと願う。

カテゴリ: オリンピック

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